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10章 "悲嘆"

8話 涙

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 翌朝、わたしは起きてすぐに医務室に向かった。
 早くに目が覚めてしまった……自宅では相変わらずだけど、砦にいる時のわたしには早起きが染みついていた。
 ああ……そういえば彼、早起きして掃除するのは孤児院での生活が染みついているからって言っていたっけ……。
 
「失礼します……」
 
 ノックをしても返事がなかったので、そのまま医務室に入った。
 
「…………」
 
 相変わらず彼は眠ったまま。
 木曜日から眠ったままだって言ってたけど、葉っぱどれくらい食べたのかな。
 わたしが帰るまでに目覚めるかな……ああ、試験休みだし、ここに泊まっていけばいいんだ。
 さすがに勤務日以外に泊まり込みしたらお父さんがうるさいかもしれないけど、ジャミルやカイルもいるし、女性の司祭様もいるって言えば大丈夫かな。
 
「う……うう……」
「!」
 
 彼が唸りながら首や身体をよじる。
 悪い夢を見ているのかな? 魔力欠乏症と風邪が治っていないっていうなら、それでうなされているのかな。
 
(熱……下がらないのかな)
 
 そう思って彼の額に手を当てようとしたその時、彼の目がうっすらと開いた。
 
「あ、グレ……きゃっ!!」
 
 名前を呼びかけるよりも前に、わたしの手に衝撃が走る。
 彼に思い切り払いのけられてしまった――手加減なしに叩かれたために、手がじんじん痛む。
 
「え、え……ど、どうし、」
 
 のそりと上体を起こした彼はこちらを見ることないまま、呼吸を乱しながら頭をむしる。
 やがて激しく咳き込みだし、ベッドから転がり落ちるように降りた。
 そして身体を引きずりながら、医務室内のトイレへ――ゲホゲホという咳の音とともに、水音が聞こえる。
 
「…………!」
 
 ドルミル草の葉は、直接摂取すると吐き気頭痛に見舞われる。
 3日も眠るほど食べてしまったなら、その症状はより重い。嘔吐することだって当然ある。
 正直、今自分の身に起こったことが理解できないし、ショックだし頭が痛い。だけど今それどころじゃない。
 
「グレンさん!」
 
 吐き続ける彼の背中をひたすらにさする――吐いているけど、内容物がない。数日眠っていたのもあるかもしれないけど、それ以前も何も食べていなかったんだろうか? そんなに具合が悪かったの?
 
「グレンさん、大丈夫!? ね、水……水! 飲んでください!」
 
 嘔吐症状が落ち着いたあと顔を覆い隠して肩で大きく息をしている彼に、水の入ったコップを差しだす。
 また払いのけられたらどうしようと思ったけど、彼はそれを受け取って飲んでくれた。
 水を全て飲み干したあとコップを床に転がして、また顔を覆い隠しうなだれる。
 
「グレンさん……」
 
 さっきから名前呼んでるのに、何の反応もない。わたしのこと気づいてないのかな? ダメだ、また泣きそうになっちゃう。
 
「グレンさん! グレンさんってば!」
「!!」
 
 何度目か分からない呼びかけに、ようやく彼がこちらを向いた。
 
「……レイチェル……?」
 
 手は顔を覆い隠したまま。わたしの存在に気づいて驚いたのか、指の隙間から見える目は大きく見開かれている。
 左手の紋章が赤くぼんやりと光っている――魔力欠乏症だって言ってたのに、大丈夫なの?
 手をどけて、彼はようやく顔を見せてくれた。
 青ざめた顔。こんな再会は望んでなかったけど、それでもいい。
 
「やっと気づいてくれた……すごく、心配したんだから……!」
「…………」
 
 床に座り込んだまま彼の顔を両手で包み涙ながらに訴えると、彼は眼を細めて力なく笑う。
 少しの間の後、わたしは彼の腕の中に――熱のためか、いつもよりも身体が熱い。
 
「……すまない……」
 
 
 ◇
 
 
「何か食べますか?」
「いや、食欲がない」
「…………吐き気はもう、大丈夫ですか」
「そうだな……今は大丈夫だ」
「そうですか」
「……どれくらい眠っていたんだろうか」
「3日です」
「そうか」
 
 諸々の後片付けをして、ベッドのシーツを替えてから横になってもらった。顔色は相変わらず悪い。
 
「……レイチェル」
「はい?」
「もし新聞があったら、持ってきてほしい」
「…………!」
 
 聞いた瞬間、頭と胸がキュッとなる。
 
「い……」
「ん?」
「いや……です」
「…………レイチェル」
「いやです。……いやです!!」
「…………」
 
 思わずヒステリックに叫んでしまった。
 ここ数日の新聞は光の塾のことがずっと書かれている。
 開祖の男の生い立ち、成り立ちや教義、"修行"や"試練"の内容にあの紫色の食べ物のこと。
 子供を教育する"神父"ほか、そこの構成員のこと。それから……下位組織の子供達の生活。
 どれをとっても酷いことしか書かれていない。
 新聞社側も読者に配慮をして具体的な描写をぼやかしている気がする。
 ある程度は彼も知っていることなのかもしれない。でも、それでも読んでほしくない。
 
「よ、読むのはもっと、落ち着いてからにしてください。今は、病気を治すことに、専念してください!」
「そう、だな……その通りだ。……すまない。馬鹿なことをした」
「…………ほんとです」
 
 涙目で訴えるわたしに苦笑いを浮かべて、彼は天井を見つめた。
 いつもふとした瞬間に見せる、あの遠い目だ――いやだ、意識をそっちに向けないで。
 彼の手をぎゅっと握ると、彼も握り返してくれる。
 
「……俺にとっての"ノルデン"はあの孤児院だった」
「……」
 
 天井を見つめたまま、彼がポツリとそう言った。
 遠く離れた……今はもうない彼の"ノルデン"に思いを馳せているんだろうか。
 
「神父はいつも理不尽で暴虐的で……いつかジャミルがフランツの話を聞いたときに言っていた通りに、あそこは監獄だった。でもそんなことは当時の俺には分からない。物心ついた時からあそこにいた俺にとってはあそこが"世界"で、神父の言うことは"法律"だった。今は苦しく厳しくても、祈っていれば、善い行いをしていれば、この地獄から抜け出せるとそう信じていた。……でもノルデンは滅びた。誰も彼も何の区別もなく死んで……俺はその時、『ああ、神様はいないんだ』と思った」
「…………」
「でも……心のどこかでは、やっぱりいるんじゃないかとそう思っていた。どこかで、見ている……勝手に名前を名乗って、人間のフリをして、罰せられるんじゃないかと、ずっと……。でもそんなものは、俺が信仰させられていた"神様"は、本当にいなかったんだ……」
「グ、グレンさ……」
「あの日々は一体何だったんだろう……今まで俺は何を恐れて、何を憎んで……何を、一体……」
 
 それきり彼の口は言葉を紡ぐのをやめてしまう。
「勝手に名前を名乗る」「人間のフリ」ってなんだろう? 何一つ理解できない。
 そんなことを罰せられると思わされていた彼がひたすらに悲しい。そんな価値観を植え付けた人達を、光の塾の"神様"を許せない。
 
 ――わたしに今、何ができるんだろう?
 
 これほどまでに深い絶望に陥った人をすくい上げる言葉なんて、持ち合わせているわけがない。
 だけどせめて、せめて、繰り返し伝えておきたい言葉なら……。
 
「グレンさん……あの、あのね……辛い時は、泣いてもいいんですよ」
「…………」
「わたし、言いましたよね。『そうなったってわたし、恥ずかしいとかかっこ悪いなんて思わない』って……覚えてますか?」
「……ああ」
「わたしはグレンさんのことが好きです。グレンさんはかっこいい大人だけど、でもわたし、強くてかっこいいところだけ見ていたいなんて思いません。弱いところを見たってわたし、がっかりしたりなんて――」
 
 言葉の途中で繋いでいる手を引き寄せられ、わたしは寝転んでいる彼の胸元に倒れ込む格好で抱きしめられた。
 
「……レイチェル……」
「…………」
 
 震える声でわたしの名前を呼び、熱い手がいつも以上にわたしをきつく抱きすくめる。
 少し痛くて苦しい。でもこんなの、彼の心の痛みに比べたら――。
 やがてわずかに鼻をすする音と息を吐き出す音が聞こえ、胸板が小刻みに上下しはじめた。
 
(………………)
 
『辛い時は、言ってくださいね』
『ありがとう。でも――正直分からないんだ』
『ゴミ溜めみたいな孤児院に災害に――あれに比べれば何もかもマシに思えて、多分辛いだろうという時も、悲しいとか泣きたいとかいう気持ちが湧かない』
 
 以前、彼とそんなやりとりをした――辛い悲しい気持ちを表現できないなんて、どれだけ苦しいことだろう。
 わたしはベッドに手をつき上体を少し起こした。涙で濡れる彼の頬を両手でぬぐい、顔を近づけた――けど、彼は口元を逆手で覆い隠してしまう。
 
「駄目だ、さっき吐いたし、風邪を引い――」
 
 彼の言葉に構わず、無理矢理に唇を合わせる。
 顔を離すと、彼は心底驚いた顔をしていた。
 
「……なんてことを」
「……だって。ずっと会いたかったのに、こんな」
「そうだな……すまない」
 
 自分でも自分の取った行動が信じられず、わたしは急に恥ずかしくなって彼の胸元に顔をうずめた。
 
「辛い時はわたしもみんなもいるから、吐き出してください……解決できないことの方が多いかもしれないけど、辛い気持ちや悲しい気持ちと一緒に自分の世界に閉じこもらないで。お願いです……」
「……ありがとう」
「『大丈夫、平気』なんて、ウソつかないで。約束してください」
「…………」
「…………」
 
 ――沈黙の時間が長い。どうして黙っているんだろう。不安になって彼の顔を見上げる。
 
「グレンさん……」
「分かった。約束する」
「……はい」
 
 今度は彼がわたしの頬に手を当て、上体を起こして唇を重ねてきた。
 
「……俺はレイチェルに、嘘はつかない」
 
 そう言ったあと、少し潤んだ彼の灰色の瞳が揺れた。
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