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11章 色と名前のない世界
1話 打ち破る
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「……テオ館長……」
涙がボタボタこぼれて、せっかくもらった手紙にシミができてしまった。
これから先どうすればいいのか分からなかったわたしは、「風と鳥の図書館」のテオ館長に手紙を書いた。
ここ最近の出来事――主にグレンさんのこと。どうすれば彼を少しでも助けられるか、それに加え最近の自分の汚い感情など、辛いこと悩んでいることを思いつくまま手当たり次第に書き殴った。
「具体的な解決策がなくて申し訳ない」なんて書いてあったけれど、こっちこそあんな何が言いたいか分からないぐちゃぐちゃの文で申し訳なかったと思う。
でも、本当に誰に相談したらいいか分からなかった。
グレンさんにとってあの図書館は大事な空間。きっとテオ館長のことも大事に思っていたはず。
だからテオ館長なら少しでも彼の心に風を吹かせられるような答えをくれるんじゃないかと思ったの。
「自分を見失わない、彼をあきらめない、信じる……」
呪文のように唱えながら、手紙の文を指でなぞった。
◇
今日は日曜日。
わたしは1人でポルト市街にやってきていた。
「賞金首の男」がいなくなり、街は以前の活気を取り戻している。道行く人々の表情も明るい。
気晴らしに街に来たはいいものの、楽しく買い物する気分にはなれない。
今、砦はグレンさんだけだ。
キャプテンが死んだあの日から数日……彼は自室に籠もったままずっと出てこない。食事ももちろん摂っていない。
出かける前に彼の部屋をノックして声をかけたけど、返事はなかった。
カイルは配達の任務に出かけた。ジャミルは仕事。
そしてベルは"アルゴス"襲撃事件について聖銀騎士のセルジュ様に何か報告をしに行っているらしい。
グレンさんの顔を見られず、そしてごはんを作るという仕事が必要ない今、砦にいるのが場違いのような気すらしてくる。
テオ館長の手紙で少し勇気が出たけれど、ちょっとしたことで自分という人間の役割を見失ってしまいそうだ。
――ああ、駄目だ。
今からこんなんじゃ、この先どうするの。
とりあえずどこかのカフェでお茶でもしようかな……そんな風に思いながらボーッと歩いて……気がついた時わたしはカフェではなく、小さな紫色のテントの前に立っていた。
(あれ……?)
どこへ行こうとしてたんだっけ?
ここって前会った"エリス"っていう占い師のところじゃ……。
「……こんにちは」
「!!」
またあの占い師の女性――エリス・ディスコルディアという人に声をかけられた。
今日はベールを被っていない。銀髪に青い目――アーテさんと同じ、ノルデン貴族の人だ。
アーテさんも綺麗な人だったけど、この人はさらに美しい。
絵画や彫像のような現実離れした美貌は、同じ女性のわたしですら目を奪われそうだ。
「また、会えたわね。……レイチェル・クラインさん」
「…………」
「ねえ、今日も占いをしていかない? 貴女、悲しい目をしているもの……」
「……結構です。わたし、忙しいので」
「そう言わずに。今日もお代はいただかないわ。どうかしら」
「結構です。前、貴女に言われたことはわたしの役には立ちませんでしたから。……私生活を馬鹿にされましたし、不愉快だからもうやりません」
以前この人に言われたことでイライラして、仲間に八つ当たりしてしまった――言うべき相手はこの人だったのに。
半ば睨み付けるように彼女を見据え言葉強めに拒絶すると、彼女は銀の睫毛を伏せ目を横にそらしうつむく。
「そんな……そんなつもりはなかったのよ。誤解されるなんて、悲しいわ」
「!」
彼女がそう言った後、一瞬目の前が霞んで目眩を覚える。
……なんだろう、一体。昨日はそんなに夜更かししていないし……。
いつの間にかわたしに歩み寄っていたエリスという女性が、わたしの頬を両手で包んでわたしの目をまっすぐに見つめる。
「…………あ」
「……ね、占い……していくでしょう?」
「……はい……」
何も考えられず、口が勝手に動いた。
何? 一体、何が起こっているの――?
◇
「座ってちょうだいな」
「………………」
彼女に導かれるままに、わたしはテントの中へ。
そして彼女の対面に置いてあるイスに腰掛けた。
「きゃっ!」
座った途端に、顔に冷たい液体をかけられた。
「……ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
「……っ」
顔にかかった液体は油のようにぬるついていて、強烈なリンゴの香りが漂ってくる。
ごめんなさいと言いながらも、"エリス"に悪びれた様子はない。
テーブルについた両手の上に顔を乗せ楽しそうにクスクスと笑いながら、顔を拭うわたしを見ている。
「……ねえ、貴女の付き合っている人って、グレン・マクロードという人でしょう?」
「え? どうして……」
「ふふ……」
わたしの質問に答えることなく、"エリス"は妖艶に微笑む。
彼女の前に置いてある水晶玉がぼんやりと光り、暗いテント内のわたし達を青白く照らす。
「貴女のことが気になって、少し見せてもらったの。すごい人と付き合っているのね。驚いちゃった」
「すごい、人……?」
"見せてもらう"って、勝手に人のこと見ないでほしい。
やっぱりこの人変だ……そう思うのに、頭がぼんやりして言葉をなかなか紡ぎ出せない。
「そう。彼、ディオール最北端のイルムガルト辺境伯領が擁する騎士団……"黒天騎士団"で将軍をやっていたの。それも"北軍将"よ」
「北軍将……」
「あら……知らないのね。彼女なのに」
「…………」
急にいっぱい知らない単語を並べ立てられて、何がなんだか分からない。
イルムガルト? 黒天騎士団? 北軍将? ……それってそんなにすごいの?
「……でも仕方がないかしらね、あんな辞め方をしたのでは何も話せないでしょう……」
「あんな……辞め方?」
「ええ。なんでもある日急に全部投げ出して姿を消したとか」
「…………」
――そうだ。彼から聞いた。
「ちょっと疲れて消えたくなった」って。
それで、「生きる事に疲れて、どうでもよくなった。だから全部投げ出して逃げた」って。
「言いにくいけど――色々と黒い噂が絶えない男よ。女性との付き合い方も誠実ではなかったようだし」
「え……?」
「とある商会のお嬢様と付き合っていたらしいのだけど、商会の経営が傾いた頃に別れたのですって。金目当てで近づいたけど、没落して財産を失ったから捨てたってもっぱらの噂よ……」
「…………」
急に告げられた事実に頭が重くなる。
……なんでこんな話を聞かなければいけないんだろう?
どんな別れ方か知らないけど、前の彼女の話なんて聞きたくない。
「それに他の素行もよくなかったみたいよ。酒に酔って暴れて、給仕を殴りつけたりしていたらしいわ」
「え……?」
――彼はお酒が一滴も飲めない。微量の酒が入った魔力回復薬すら飲めないくらい……それで、ベルが上級魔力回復薬をわざわざ王都にまで買い付けに行ったんだもの。
お酒を飲んで暴れたなんて、とんでもない嘘だ。
わたしの表情を見て「意外な事実を知り落胆した」という風にでも取ったのか、彼女は目を細めて笑いながら「それにね」と、彼の悪い噂を更にしゃべり出す。
死神、炎の化身、魔王 なんていう数々の二つ名。
過去に人を殺したことがある、彼がノルデンから魔物を呼び寄せて、ディオールを襲わせていたのじゃないか……という噂。
「あと、西方の辺境の村が魔物に襲われて、それをたった1人で退治して救ったという話があるけれど……それも自作自演じゃないかと言われているわ」
「…………」
――何故か分からないが根も葉もない噂が好き放題に広がる。人を殺した過去があるらしいとか、あいつが魔物を呼び寄せてるんじゃないか? とか。
彼が言っていたことと同じだ。
この人は彼の噂を鵜呑みにして、それを事実として吹聴してきている。
だけどわたしは知っている。噂じゃない彼の真実を、他でもない彼の口から聞いている。
「そんなにも強いくせに、急に全部投げ出して逃げたのよ。何があったのか分からないけれど……無責任よね」
「…………」
「……しかも、今も倒れて憔悴しているんですって? 随分弱い男だこと」
「…………」
そう。彼は別段強い人じゃない。
非人道的な施設で"心"と"感情"を禁じられた幼い彼は、災害があったために常識がまるで違う外界に急に放り出された。
心や感情が何か定義づけられないで、きっと自分が強いか弱いかも分からないまま生きていた。
そしてそのまま大人になって……騎士だし、強いし、男だし……だから「自分は傷つかない、慣れている、だから強い」なんて思っていたのかもしれない。
騎士になったのは、お金と地位と名声のため。カラスと蔑む人間を見返すため。
それらを手に入れても彼への誹謗中傷は続いた。そして……。
――それでも、信じてくれる人間はいたからそれでも戦い続けていたら……ある日急にプツッと切れた。生きる事に疲れて、どうでもよくなった。だから全部投げ出してディオールから逃げた。
傷ついて傷ついて、限界を迎えて、とうとう壊れてしまったの。
きっと今は壊れた心を修復している最中――だけど傷ついた彼の心は治りきらないまま、キャプテンや光の塾によってさらに打ち砕かれた。
でも、それより何より、長い時間をかけて彼に傷を負わせ続けてきたのは、今目の前で楽しそうに口から悪評を垂れ流しているこの"エリス"みたいな人達――。
脳裏に浮かぶのは、あの日図書館で全てに絶望して泣き伏せる彼の姿。
あれは……あれは果たして"弱さ"だろうか?
彼と同じ目に遭って、それでも毅然として立っていられる人なんているんだろうか。
人の弱さを嘲笑うこの人は、一体何様のつもりだろう?
よくもわたしの大事な彼をこんなに悪く言って……何も知らないくせに。
彼の人となりも、何に苦しんで何に悲しんでいるかも、何も、何も分からないくせに……!
「ね、悪いことは言わないわ。いい年して逃げ癖のある弱い男なんて、早く捨てた方が貴女のため――」
彼女の言葉の途中、狭いテントの中にまた「ビシャッ」という水音が響いた。
――今度の水音の主はわたし。
彼女の傍らに飾ってあるリンドウの花を活けた小さな花瓶の中身を、彼女の顔に向けてぶちまけてやった。
「ごめんなさい。……手が、滑りました」
涙がボタボタこぼれて、せっかくもらった手紙にシミができてしまった。
これから先どうすればいいのか分からなかったわたしは、「風と鳥の図書館」のテオ館長に手紙を書いた。
ここ最近の出来事――主にグレンさんのこと。どうすれば彼を少しでも助けられるか、それに加え最近の自分の汚い感情など、辛いこと悩んでいることを思いつくまま手当たり次第に書き殴った。
「具体的な解決策がなくて申し訳ない」なんて書いてあったけれど、こっちこそあんな何が言いたいか分からないぐちゃぐちゃの文で申し訳なかったと思う。
でも、本当に誰に相談したらいいか分からなかった。
グレンさんにとってあの図書館は大事な空間。きっとテオ館長のことも大事に思っていたはず。
だからテオ館長なら少しでも彼の心に風を吹かせられるような答えをくれるんじゃないかと思ったの。
「自分を見失わない、彼をあきらめない、信じる……」
呪文のように唱えながら、手紙の文を指でなぞった。
◇
今日は日曜日。
わたしは1人でポルト市街にやってきていた。
「賞金首の男」がいなくなり、街は以前の活気を取り戻している。道行く人々の表情も明るい。
気晴らしに街に来たはいいものの、楽しく買い物する気分にはなれない。
今、砦はグレンさんだけだ。
キャプテンが死んだあの日から数日……彼は自室に籠もったままずっと出てこない。食事ももちろん摂っていない。
出かける前に彼の部屋をノックして声をかけたけど、返事はなかった。
カイルは配達の任務に出かけた。ジャミルは仕事。
そしてベルは"アルゴス"襲撃事件について聖銀騎士のセルジュ様に何か報告をしに行っているらしい。
グレンさんの顔を見られず、そしてごはんを作るという仕事が必要ない今、砦にいるのが場違いのような気すらしてくる。
テオ館長の手紙で少し勇気が出たけれど、ちょっとしたことで自分という人間の役割を見失ってしまいそうだ。
――ああ、駄目だ。
今からこんなんじゃ、この先どうするの。
とりあえずどこかのカフェでお茶でもしようかな……そんな風に思いながらボーッと歩いて……気がついた時わたしはカフェではなく、小さな紫色のテントの前に立っていた。
(あれ……?)
どこへ行こうとしてたんだっけ?
ここって前会った"エリス"っていう占い師のところじゃ……。
「……こんにちは」
「!!」
またあの占い師の女性――エリス・ディスコルディアという人に声をかけられた。
今日はベールを被っていない。銀髪に青い目――アーテさんと同じ、ノルデン貴族の人だ。
アーテさんも綺麗な人だったけど、この人はさらに美しい。
絵画や彫像のような現実離れした美貌は、同じ女性のわたしですら目を奪われそうだ。
「また、会えたわね。……レイチェル・クラインさん」
「…………」
「ねえ、今日も占いをしていかない? 貴女、悲しい目をしているもの……」
「……結構です。わたし、忙しいので」
「そう言わずに。今日もお代はいただかないわ。どうかしら」
「結構です。前、貴女に言われたことはわたしの役には立ちませんでしたから。……私生活を馬鹿にされましたし、不愉快だからもうやりません」
以前この人に言われたことでイライラして、仲間に八つ当たりしてしまった――言うべき相手はこの人だったのに。
半ば睨み付けるように彼女を見据え言葉強めに拒絶すると、彼女は銀の睫毛を伏せ目を横にそらしうつむく。
「そんな……そんなつもりはなかったのよ。誤解されるなんて、悲しいわ」
「!」
彼女がそう言った後、一瞬目の前が霞んで目眩を覚える。
……なんだろう、一体。昨日はそんなに夜更かししていないし……。
いつの間にかわたしに歩み寄っていたエリスという女性が、わたしの頬を両手で包んでわたしの目をまっすぐに見つめる。
「…………あ」
「……ね、占い……していくでしょう?」
「……はい……」
何も考えられず、口が勝手に動いた。
何? 一体、何が起こっているの――?
◇
「座ってちょうだいな」
「………………」
彼女に導かれるままに、わたしはテントの中へ。
そして彼女の対面に置いてあるイスに腰掛けた。
「きゃっ!」
座った途端に、顔に冷たい液体をかけられた。
「……ごめんなさい。手が滑ってしまったわ」
「……っ」
顔にかかった液体は油のようにぬるついていて、強烈なリンゴの香りが漂ってくる。
ごめんなさいと言いながらも、"エリス"に悪びれた様子はない。
テーブルについた両手の上に顔を乗せ楽しそうにクスクスと笑いながら、顔を拭うわたしを見ている。
「……ねえ、貴女の付き合っている人って、グレン・マクロードという人でしょう?」
「え? どうして……」
「ふふ……」
わたしの質問に答えることなく、"エリス"は妖艶に微笑む。
彼女の前に置いてある水晶玉がぼんやりと光り、暗いテント内のわたし達を青白く照らす。
「貴女のことが気になって、少し見せてもらったの。すごい人と付き合っているのね。驚いちゃった」
「すごい、人……?」
"見せてもらう"って、勝手に人のこと見ないでほしい。
やっぱりこの人変だ……そう思うのに、頭がぼんやりして言葉をなかなか紡ぎ出せない。
「そう。彼、ディオール最北端のイルムガルト辺境伯領が擁する騎士団……"黒天騎士団"で将軍をやっていたの。それも"北軍将"よ」
「北軍将……」
「あら……知らないのね。彼女なのに」
「…………」
急にいっぱい知らない単語を並べ立てられて、何がなんだか分からない。
イルムガルト? 黒天騎士団? 北軍将? ……それってそんなにすごいの?
「……でも仕方がないかしらね、あんな辞め方をしたのでは何も話せないでしょう……」
「あんな……辞め方?」
「ええ。なんでもある日急に全部投げ出して姿を消したとか」
「…………」
――そうだ。彼から聞いた。
「ちょっと疲れて消えたくなった」って。
それで、「生きる事に疲れて、どうでもよくなった。だから全部投げ出して逃げた」って。
「言いにくいけど――色々と黒い噂が絶えない男よ。女性との付き合い方も誠実ではなかったようだし」
「え……?」
「とある商会のお嬢様と付き合っていたらしいのだけど、商会の経営が傾いた頃に別れたのですって。金目当てで近づいたけど、没落して財産を失ったから捨てたってもっぱらの噂よ……」
「…………」
急に告げられた事実に頭が重くなる。
……なんでこんな話を聞かなければいけないんだろう?
どんな別れ方か知らないけど、前の彼女の話なんて聞きたくない。
「それに他の素行もよくなかったみたいよ。酒に酔って暴れて、給仕を殴りつけたりしていたらしいわ」
「え……?」
――彼はお酒が一滴も飲めない。微量の酒が入った魔力回復薬すら飲めないくらい……それで、ベルが上級魔力回復薬をわざわざ王都にまで買い付けに行ったんだもの。
お酒を飲んで暴れたなんて、とんでもない嘘だ。
わたしの表情を見て「意外な事実を知り落胆した」という風にでも取ったのか、彼女は目を細めて笑いながら「それにね」と、彼の悪い噂を更にしゃべり出す。
死神、炎の化身、魔王 なんていう数々の二つ名。
過去に人を殺したことがある、彼がノルデンから魔物を呼び寄せて、ディオールを襲わせていたのじゃないか……という噂。
「あと、西方の辺境の村が魔物に襲われて、それをたった1人で退治して救ったという話があるけれど……それも自作自演じゃないかと言われているわ」
「…………」
――何故か分からないが根も葉もない噂が好き放題に広がる。人を殺した過去があるらしいとか、あいつが魔物を呼び寄せてるんじゃないか? とか。
彼が言っていたことと同じだ。
この人は彼の噂を鵜呑みにして、それを事実として吹聴してきている。
だけどわたしは知っている。噂じゃない彼の真実を、他でもない彼の口から聞いている。
「そんなにも強いくせに、急に全部投げ出して逃げたのよ。何があったのか分からないけれど……無責任よね」
「…………」
「……しかも、今も倒れて憔悴しているんですって? 随分弱い男だこと」
「…………」
そう。彼は別段強い人じゃない。
非人道的な施設で"心"と"感情"を禁じられた幼い彼は、災害があったために常識がまるで違う外界に急に放り出された。
心や感情が何か定義づけられないで、きっと自分が強いか弱いかも分からないまま生きていた。
そしてそのまま大人になって……騎士だし、強いし、男だし……だから「自分は傷つかない、慣れている、だから強い」なんて思っていたのかもしれない。
騎士になったのは、お金と地位と名声のため。カラスと蔑む人間を見返すため。
それらを手に入れても彼への誹謗中傷は続いた。そして……。
――それでも、信じてくれる人間はいたからそれでも戦い続けていたら……ある日急にプツッと切れた。生きる事に疲れて、どうでもよくなった。だから全部投げ出してディオールから逃げた。
傷ついて傷ついて、限界を迎えて、とうとう壊れてしまったの。
きっと今は壊れた心を修復している最中――だけど傷ついた彼の心は治りきらないまま、キャプテンや光の塾によってさらに打ち砕かれた。
でも、それより何より、長い時間をかけて彼に傷を負わせ続けてきたのは、今目の前で楽しそうに口から悪評を垂れ流しているこの"エリス"みたいな人達――。
脳裏に浮かぶのは、あの日図書館で全てに絶望して泣き伏せる彼の姿。
あれは……あれは果たして"弱さ"だろうか?
彼と同じ目に遭って、それでも毅然として立っていられる人なんているんだろうか。
人の弱さを嘲笑うこの人は、一体何様のつもりだろう?
よくもわたしの大事な彼をこんなに悪く言って……何も知らないくせに。
彼の人となりも、何に苦しんで何に悲しんでいるかも、何も、何も分からないくせに……!
「ね、悪いことは言わないわ。いい年して逃げ癖のある弱い男なんて、早く捨てた方が貴女のため――」
彼女の言葉の途中、狭いテントの中にまた「ビシャッ」という水音が響いた。
――今度の水音の主はわたし。
彼女の傍らに飾ってあるリンドウの花を活けた小さな花瓶の中身を、彼女の顔に向けてぶちまけてやった。
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