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11章 色と名前のない世界

2話 絡まる狂気の糸

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 "エリス"は濡れた前髪からしたたり落ちる水の雫と、円卓に散らばったリンドウの花を見て呆然としている。
 
 さっきまで面白そうにクスクスと笑いながら悪口を垂れ流していたのにどうしたんだろう?
 もしかして、彼の悪評を聞いたわたしが彼に不信感を抱いて泣いたりするとでも思っていたんだろうか?
 
 お金目当てに女の人に近づくなんて大嘘だ。
 他人を騙して利用することが出来るならきっと壊れたりなんかしない。
 そもそも彼は人と関わらない――傷つくのが怖いんだもの。
 自分の気持ちすら置き去りにして逃げようとする、臆病な人よ。
 
『逃げ癖のある弱い男なんて……』というこの人の言葉はある意味正しいのかもしれない。
 だけどわたしが好きになったのは、弱くて臆病で、傷を抱えた彼。
 
『あなたを愛する彼を、彼を愛するあなたを、何があっても信じぬいてください』
 
 ――こんな人の根拠のない悪口で、わたしの想いは揺らがない。
 彼よりこの人を信じる理由なんて、どこにもない。
 
「……何がしたいのか分かりませんけど、わたしの彼を侮辱しないで!」
「侮辱だなんて……そんな、誤解よ。私はただ」
「何が誤解よ!  見たままの真実でしょ、嘘ばっかりついて彼の評判を貶めて!!」
「なっ……」
「もう帰ります! 二度と来ませんから!!」
 
 言いながら机を叩いて立ち上がり、テントを出ようとするも――。
 
「え、あれ……!?」
 
 テントの入り口に被さっていたカーテンがどこにもなく、出口が分からない。
 外からの光がまるで入っていないように、室内は最初に入った時よりも暗い。
 そして密室のはずなのに、天井からぶら下がっている星形の花水晶の飾りが風に揺れてぶつかり合い、シャラシャラと音がする。
 
「……どこへ行こうと言うの……逃がさなくてよ」
「!!」
 
 "エリス"がゆらりと立ち上がり、左手を掲げた。
 中指に着けている指輪が赤く光っている――これって、血の宝玉じゃ……?
 
 ――ううん、そんなことどうでもいいわ。この人、わたしに魔法を撃つ気だ!
 
「やめなさいよ!!」
「キャッ!?」
 
 彼女の頬を思い切り叩いて、魔法を中断してやった。
 まさか攻撃されるとは思っていなかったようで、"エリス"は頬を抑えて立ち尽くしている。
 少しして正気を取り戻した彼女の側からもビンタが飛んできた。
 
「何をするのよ、無礼者!」
「……っ!」
 
 ――痛い。
 痛いけど、正直言ってアーテさんよりも弱い。
 それでもわたしが少し怯んだのを見て、彼女はわたしから1歩2歩と下がろうとする。
 そうはさせないとわたしは彼女の左手をつかみ、空いている方の手で彼女にまた平手をお見舞いした。
 
「痛……っ!」
 
 利き手じゃない方で打ったから、あんまり痛い目見せられないのが残念だ。
 魔法を発動できないように、わたしは彼女の右手もつかんだ。
 
 ジョアンナ先生が授業で言っていた。
『魔術師は距離を詰められたら終わりだ』と……。
 一流の魔術師でも、術の発動には時間がかかる。
 だから距離を取って戦い、そばには護衛をつけるか、もしくは自身で短剣など軽い武器を用いての護身術で立ち回りをする人もいるらしい。
 
 この人は今護衛もいなければ、どうやら護身術らしきものも身につけていないようだ。
 それどころか、わたしの腕の拘束すら解けない。
 
「なによ、あなた……弱いじゃない!」
「なんですって……」
「弱いくせに、よくもわたしの彼を弱い弱い言ってくれたわね、この……っ」
「……くっ」
 
 1回わたしは彼女の左手から手を放した。
 そして彼女の顔めがけて、またまた平手を打ってやった。
 
「キャ……ッ!!」
「この、インチキ占い師!!」
 
 わたしがそう叫ぶと、彼女が目を見開いて驚いた。
 また顔をぶたれたからなのか、悲しいくらいに語彙がアレな悪口に驚いているのか……。
 
「なんて、乱暴なの……! これだから、無能は」
「うるさい! 何よ、こんなもの!!」
「ヒッ……」
 
 テーブルに置いてある水晶玉をひっつかんで、地面に落として叩き割った。
 
「こんなの、光らせてるだけでなんにも見えてないんでしょ!? それに……っ」
「な……何を、やめなさい!」
「これも、これもこれも……!!」
 
 叫ぶ"エリス"に構わず、わたしはテーブルを覆う布を剥がしてから蹴り倒し、続いて天井からぶら下がっている花水晶も次々に引きちぎった。
 
「ぜ――んぶ、雰囲気作りのための小道具でしょ!! 嘘つき!!」
 
 ――なんだかわたし、今おかしい? さすがに暴れすぎのような……。
 尖った花水晶を無理な力で握ったから、手から血が出ている。
 それなのに痛みは感じない。むしろ血を見たために頭が余計にカーッとなって、「もっと痛めつけなきゃ」という気持ちすら沸きあがってくる。
 
 魔法を撃ちたい"エリス"はわたしから距離を取ろうとするけど、そうはいかない。
 血の滲んだ手で彼女の髪をひっつかんでまたビンタすると、彼女もまたわたしを引っ掻いてビンタしてくる。
 
「いったーい!! 最低!!」
「放して! 放しなさい! 命令よ!!」
「何が"命令"よ! あんたわたしの何!? この! 許さないんだからー!!」
「っ……な、なぜ……!」
 
 ……チェル、レイチェル……。
 
(え……?)
 
 "命令"にカッとなったわたしが"エリス"の頬を立て続けに打ち、更にぐぎぎぎ……と髪を引っ張っていると、誰かの声が頭に響いた。
 
 聞いたことがあるような……誰の声だっけ?
 
「……レイチェル! レイチェル!!」
「!? この声……もしかして、ル――」
 
 言いかけたところで、どこからか伸びてきた手に腕をつかまれグイッと引き寄せられた――。
 
 
 ――――…………
 
 
「レイチェル! しっかり!」
「……う……」
 
 ――日の光が眩しい。どうやらあのテントから出られたようだ。
 引きずり出されて倒れているわたしを、誰かが膝枕してくれている。
 さっきまで暗闇の中にいたから目が光に慣れず、声の主の顔を認識できない。
 だけどこの声、間違いない。
 
「……ルカ、なの……?」
「うん。わたし……」
「そっか、無事だったんだね……よかった。みんな、捜してたんだよぉ……」
「ごめんなさい……」
 
「アリシア、そろそろ……うわっ!? ど、どうしたの、その子」
 
 男の人の声がする。"アリシア"って誰だろう……?
 
「わたしの、友達」
「友達……。き、君、大丈夫? 傷だらけだし、それに、虫……!」
「むし……?」
「と、とにかく、教会に行って治療してもらおう!」
 
 
 ◇
 
 
 ぼんやりとした思考のまま、わたしはルカと男性に連れられ教会へ。
 顔の傷と血だらけの手を治療してもらったあと、男性が「この子呪いを受けているみたいなんです」と治療してくれた回復術師の人に訴えた。
 術師の人がいぶかしみながらも呪文を唱え呪いを可視化すると、その場が騒然となった。
 
 わたしの身体を、わたしの頭よりも大きな蜘蛛が黒い糸を吐き出しながら這い回っていたのだ。
 そして幾重にも巻き付いた黒い糸束には、何かの文字が赤く薄ぼんやりと浮かび上がっていた――。
 
 事態は深刻だったようで、対応してくれていた回復術師では解呪できず、少し位の高い司祭様が出てきて蜘蛛を消してくれた。
 司祭様の話によれば、わたしにかかっていた呪いは"狂気ルナティック"という禁呪。
 正気を失わせて凶暴化させ、特定の相手を攻撃させる術――らしいけど、そんなものわたしにかけてどうする気だったんだろう?
 もしかして、あれだけわたしが暴れたのはその術のせい?
 とはいえ、術かかってなくてもやっぱりビンタくらいはしてた気がするけど……。
 
 話を聞いて、ルカがため息を一つ吐いた。
 
「よかった。レイチェルに、何もなくて」
「うん、ほんとだね……って、あれ!?」
「……何?」
「ル、ルカ……なんだよね?」
「そう」
 
 冷静になって、初めてルカの様相がまるで違うことに気がついた。
 ピンク色だった髪は紫に、藍色の瞳は翡翠のような緑に変わっている。
 これはディオール人の特徴だ、それに……。
 
「あ、あの……ごめんなさい。ここまで連れてきてもらって、なんですけど……ど、どちら様でしょう?」
 
 ルカの傍らにいる、彼女と同じ髪と目の色をしたディオール人の男性。
 女性的でどこか儚げな容姿は、ルカと少し似ている、ような……?
 
「あ……ごめんね。僕は、アルノー・ワイアット……この子、アリシアの兄です」
「えっ、えっ!? 兄?? お兄ちゃま!? ですか!? ていうか、アリシアって……うぅ、ダメ……」
「レイチェル……!?」
 
 目眩がして、わたしはふわーっとベッドに倒れてしまった。
 ――ここ数日、わたしの日常はイレギュラーな出来事だらけ。
 今日はテオ館長からの手紙で泣いて、インチキ占い師にグレンさんの悪口言われて激怒からの大暴れ、それでルカと再会したと思ったらまるで様子が違っててお兄ちゃまが登場して、それでわたしは蜘蛛で狂気で……。
 
 まだお昼にもなっていないのに、今日も密度が高すぎる。
 何から飲み込んでいけばいいか、分からない……。
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