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11章 色と名前のない世界
12話 花と少女III
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闇を通じて、ジャミルの使い魔ウィルの声が聞こえた。
ここは、虚無の世界。あの人の心の闇。
目の前には黒い木で構成された森が広がり、木の枝にはカラスがたくさん止まってわたしとレイチェルを見下ろしている。
空の上を時折赤い光線――火の矢が飛んでいく。
草も木も空も色がないのに、火は現実と同じように赤い。
あの矢を放っているのはあの人だろうか。
それともあの人の傍らでずっと泣いていた、あの黒い泥の子供だろうか……。
「……っ、……あ、あの……」
"レイチェル"と呼びかけたいのに、喉につっかえて出てこない。
ジャミルとウィルの会話の中にこの現象についての説明はなかった。
相手の名前を呼べないのは、この闇の主である彼が定めた制約だろうか?
「……ね、あの……もう、行こう?」
「…………」
肩を叩いて促してみるも、レイチェルの反応はない。
あの時――息絶えていた彼を見た瞬間地面に崩れ落ちてぺしゃりと座りこんで、そのまま時間が止まっているように、全く動かない。
涙は出ていない。表情が消え去り、瞬きもせず、視線はどこにあるか分からない。
この世界の影響を受けてなのか、今わたしは彼女の"水"が視えない。
でも視えなくても分かる。表情がなくても、痛いほどに分かる……。
「あの……あの鳥の声、聞こえていた? あの人、ここのどこかにいる。助けに――」
「……いや」
「え?」
レイチェルの唇が震えて、青い目から涙がボロボロとこぼれる。
「いや! いやだ! いや!! わたし行かない、ここにいる! もう、もう、いやだぁ……っ」
「……あ……」
顔を覆い隠して首を激しく振り、レイチェルが叫んだ。
「で、でも……ここにいても……」
「助けに行くって、どうやって? ……見たでしょ!? 頭殴られて心臓刺されて、あんな血まみれで……その上、あの泥人間みたいになってまで無理矢理に動かされて……これ以上、何やっても苦しめるだけだよ!!」
「でも……あ、あの人、きっと、助けを必要としてる」
「してない! してないもん!! わたしなんか、いらないんだもんっ……!!」
「ど、どうして……そんなこと」
「だって彼を救うのには、真名を呼ばなきゃいけないんでしょ!? 彼の真名なんて知らないし、ずっと呼んでた"あの名前"も呼べない! ……頭の中に、彼の名前も、顔も、声も、何も……なんにも出てこない!!」
「…………」
「みんなが無理でもわたしだけは呼べるなんて、そんなこともない……わたし……わたしは彼にとって、特別でもなんでもないの!! ……やだ、もう! もう、いやだ! なんにもなんにも、できない!! もう、いやあああ――っ!!」
地に伏せて地面を何度も叩き、レイチェルは声が枯れそうなくらいに泣き叫ぶ。
「…………っ」
――どうしたらいいのか分からない。
大事な人が奪われた絶望と悲しみ……わたしが育てた花が枯らされた時のそれよりももっとずっと深い。
わたしは自分を取り戻してもやっぱりまだ感情が少なく、人の気持ちも分からない。
……それでなくても、彼女の悲しみは、きっと仲間の誰も経験のないもの。誰も想像できないだろう。
「……っ、ねえ……」
「やだ、もう……、放っておいて……っ!」
「…………」
――このままレイチェルを放っておいたら、どうなるのだろう。
ウィルが「魂だけを招いた」と言っていた。
ここで動かなければ、彼女の魂――心はここに閉じ込められたまま。それはつまり、"死"を意味する。
彼の闇の中で、彼女の心が死ぬ。そんなの、彼は望まないだろう。
でもわたしの中には、彼女を立ち上がらせる言葉がない。
(どうすればいいの……)
「!」
何もできず彼女の背中をさすっていると、視界にあるものが映り込んだ。
花が咲いている。葉っぱは灰色だけど、花は曇りのない白色。フリルのような花びらがいくつも重なって、大きな円を形成している。
(あの花……)
花に駆け寄りいくつか摘んで、レイチェルの元に戻った。
「……ね、彼を助けに行こう。きっと……あなたのこと、待ってる」
「待ってなんかない!! 慰めはやめてよ……! わたし役立たずだもん……だからあの人は、わたしなんか、いらないんだ……う、う、ひっ」
「そんなことない。……ね、これ、見て」
「!!」
摘んできた花をレイチェルに見せると、彼女は目を大きく見開いてすぐにバッと顔をそらした。
「いやだ、なんで!? ……それ、その花、彼の血だまりに咲いてた花でしょう!」
「この花……名前、知ってる?」
「知らないよ! やめて、どうして今、そんな……! いやだお願い、そんなの、見せないでよお……っ」
「この花、アザレアっていうの。花言葉がいくつかあって、白は」
「やめてったら!!」
「"愛されることを知った喜び"……彼の心にこの花を咲かせたのは、きっとあなた」
「…………」
何か言おうと大きく口を開いていたレイチェルは口をつぐみ、また目から大粒の涙をこぼす。
涙は座り込んだままの彼女の手の甲や膝や地面に次々に落ちた。
「ねえ……お願い、立って」
「…………っ」
「きっとあの人、あなたのこと、呼んでる」
「……でも、わたしは……」
「彼のことが、好き?」
「……え?」
「愛している?」
「…………」
わたしの問いに小さくうなずいたレイチェルをそっと抱きしめて頭を撫でる。
小さい頃わたしが泣いていたら、お兄ちゃまやお母さんがそうしてくれたように。
お花が枯らされて泣いていたわたしを、レイチェルが抱きしめてくれたように。
「……お願い、彼の心の中で、彼への気持ちを見失わないで。……あなたが見つけたあなたを、捨ててしまわないで……」
わたしは言葉がうまくない。
だから、いつか彼女が言ってくれた言葉を同じように言うことしかできない。
少ししてから、レイチェルは鼻をすすりながらわたしの背に手を回した。
「……ごめんっ、ごめんね……わたし、八つ当たり……ばっかり……うっ、うう……ひっ」
「いいの。わたし、あなたのおかげで色んな自分を見つけられたから……こんなことくらい」
「うう、うええ……」
「お願い……あの人を……お兄ちゃまを、助けて……」
何度もうなずきながら彼女はわたしにしがみつき、また声を上げて泣いた。
◇
レイチェルが落ち着くまで待って、わたし達は歩き出した。
――歩いている間、景色が歪んで色々な街や家の中に場面が切り替わり、闇に閉じ込めていた彼の記憶がお芝居のように展開される。
"カラス"と呼ばれて、わけもなく虐げられた少年の記憶。
その中で出てくる彼の姿は、常に人型をした黒い泥の塊に置き換わっている。
そして会話中の彼の名前を示す部分に必ず「ザザザ……」と雑音が入り、聞き取れない。
わたし達は彼の名前を忘れて、彼の姿も声も記憶から消えつつある。
今見ているのは一体誰の記憶だろう?
わたし達は誰を助けようとしているのだろう?
……それすら分からなくなりそうだ。
「……うぅ……っ」
後ろを歩くレイチェルはずっとすすり泣いている。
今目の前では、お絵かきがどうしてもできずに吐いてしまった黒い泥の子が、吐いたことを大声で糾弾されている。
怒られている間その子は何も言わない。目のところが赤く光るだけ。
「……大丈夫?」
「……ごめん、ごめん……ね……つらく、て……うぅ」
「……歩ける? 手、つないであげる」
「……っ、ありがとう……ひっ、う……」
彼女の手を引いて、ゆっくり歩く。
この世界に飛ばされた時から、彼女は学校の制服姿。下ろしていた髪はいつものように三つ編みになっていた。
そして、どこかの家の窓ガラスに映ったわたしの姿は、色が戻る前の桃色の髪と藍色の瞳。
今までの名前の"ルカ"は言えず、"アリシア"は言うことができる。
きっとわたしの名前や姿がちがうことを、彼が知らないからだ。
ここは彼の知っている情報と、彼の相手への印象で形成されているようだ。
――彼はどうなのだろう。
彼の中の自分は、どうして黒く塗りつぶされて、名前も聞き取れないのだろう。
どうしてみんなの頭から、彼の姿や声や名前が消えるのだろう。
彼は自分を消し去りたいのだろうか。
みんなの記憶からも消えたいくらいに、自分を殺したいのだろうか。
(そんなこと、ない……)
『神はいない。人間は汚いし、自分勝手だ』
「神はいない」――そう断言したのは、神を信じていないからじゃない。
誰よりも神を信じて、救いを求めていたから。
今も救いを求めて、心のどこかで信じている。でも何も救われないから、ああやって自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「……おにいちゃま……」
涙がこぼれる。
わたし達の"神様"はいない。
でも今あなたの心にわたし達がいる。
どうか気づいて。
わたし達はみんな、あなたを助けたいの。
ここは、虚無の世界。あの人の心の闇。
目の前には黒い木で構成された森が広がり、木の枝にはカラスがたくさん止まってわたしとレイチェルを見下ろしている。
空の上を時折赤い光線――火の矢が飛んでいく。
草も木も空も色がないのに、火は現実と同じように赤い。
あの矢を放っているのはあの人だろうか。
それともあの人の傍らでずっと泣いていた、あの黒い泥の子供だろうか……。
「……っ、……あ、あの……」
"レイチェル"と呼びかけたいのに、喉につっかえて出てこない。
ジャミルとウィルの会話の中にこの現象についての説明はなかった。
相手の名前を呼べないのは、この闇の主である彼が定めた制約だろうか?
「……ね、あの……もう、行こう?」
「…………」
肩を叩いて促してみるも、レイチェルの反応はない。
あの時――息絶えていた彼を見た瞬間地面に崩れ落ちてぺしゃりと座りこんで、そのまま時間が止まっているように、全く動かない。
涙は出ていない。表情が消え去り、瞬きもせず、視線はどこにあるか分からない。
この世界の影響を受けてなのか、今わたしは彼女の"水"が視えない。
でも視えなくても分かる。表情がなくても、痛いほどに分かる……。
「あの……あの鳥の声、聞こえていた? あの人、ここのどこかにいる。助けに――」
「……いや」
「え?」
レイチェルの唇が震えて、青い目から涙がボロボロとこぼれる。
「いや! いやだ! いや!! わたし行かない、ここにいる! もう、もう、いやだぁ……っ」
「……あ……」
顔を覆い隠して首を激しく振り、レイチェルが叫んだ。
「で、でも……ここにいても……」
「助けに行くって、どうやって? ……見たでしょ!? 頭殴られて心臓刺されて、あんな血まみれで……その上、あの泥人間みたいになってまで無理矢理に動かされて……これ以上、何やっても苦しめるだけだよ!!」
「でも……あ、あの人、きっと、助けを必要としてる」
「してない! してないもん!! わたしなんか、いらないんだもんっ……!!」
「ど、どうして……そんなこと」
「だって彼を救うのには、真名を呼ばなきゃいけないんでしょ!? 彼の真名なんて知らないし、ずっと呼んでた"あの名前"も呼べない! ……頭の中に、彼の名前も、顔も、声も、何も……なんにも出てこない!!」
「…………」
「みんなが無理でもわたしだけは呼べるなんて、そんなこともない……わたし……わたしは彼にとって、特別でもなんでもないの!! ……やだ、もう! もう、いやだ! なんにもなんにも、できない!! もう、いやあああ――っ!!」
地に伏せて地面を何度も叩き、レイチェルは声が枯れそうなくらいに泣き叫ぶ。
「…………っ」
――どうしたらいいのか分からない。
大事な人が奪われた絶望と悲しみ……わたしが育てた花が枯らされた時のそれよりももっとずっと深い。
わたしは自分を取り戻してもやっぱりまだ感情が少なく、人の気持ちも分からない。
……それでなくても、彼女の悲しみは、きっと仲間の誰も経験のないもの。誰も想像できないだろう。
「……っ、ねえ……」
「やだ、もう……、放っておいて……っ!」
「…………」
――このままレイチェルを放っておいたら、どうなるのだろう。
ウィルが「魂だけを招いた」と言っていた。
ここで動かなければ、彼女の魂――心はここに閉じ込められたまま。それはつまり、"死"を意味する。
彼の闇の中で、彼女の心が死ぬ。そんなの、彼は望まないだろう。
でもわたしの中には、彼女を立ち上がらせる言葉がない。
(どうすればいいの……)
「!」
何もできず彼女の背中をさすっていると、視界にあるものが映り込んだ。
花が咲いている。葉っぱは灰色だけど、花は曇りのない白色。フリルのような花びらがいくつも重なって、大きな円を形成している。
(あの花……)
花に駆け寄りいくつか摘んで、レイチェルの元に戻った。
「……ね、彼を助けに行こう。きっと……あなたのこと、待ってる」
「待ってなんかない!! 慰めはやめてよ……! わたし役立たずだもん……だからあの人は、わたしなんか、いらないんだ……う、う、ひっ」
「そんなことない。……ね、これ、見て」
「!!」
摘んできた花をレイチェルに見せると、彼女は目を大きく見開いてすぐにバッと顔をそらした。
「いやだ、なんで!? ……それ、その花、彼の血だまりに咲いてた花でしょう!」
「この花……名前、知ってる?」
「知らないよ! やめて、どうして今、そんな……! いやだお願い、そんなの、見せないでよお……っ」
「この花、アザレアっていうの。花言葉がいくつかあって、白は」
「やめてったら!!」
「"愛されることを知った喜び"……彼の心にこの花を咲かせたのは、きっとあなた」
「…………」
何か言おうと大きく口を開いていたレイチェルは口をつぐみ、また目から大粒の涙をこぼす。
涙は座り込んだままの彼女の手の甲や膝や地面に次々に落ちた。
「ねえ……お願い、立って」
「…………っ」
「きっとあの人、あなたのこと、呼んでる」
「……でも、わたしは……」
「彼のことが、好き?」
「……え?」
「愛している?」
「…………」
わたしの問いに小さくうなずいたレイチェルをそっと抱きしめて頭を撫でる。
小さい頃わたしが泣いていたら、お兄ちゃまやお母さんがそうしてくれたように。
お花が枯らされて泣いていたわたしを、レイチェルが抱きしめてくれたように。
「……お願い、彼の心の中で、彼への気持ちを見失わないで。……あなたが見つけたあなたを、捨ててしまわないで……」
わたしは言葉がうまくない。
だから、いつか彼女が言ってくれた言葉を同じように言うことしかできない。
少ししてから、レイチェルは鼻をすすりながらわたしの背に手を回した。
「……ごめんっ、ごめんね……わたし、八つ当たり……ばっかり……うっ、うう……ひっ」
「いいの。わたし、あなたのおかげで色んな自分を見つけられたから……こんなことくらい」
「うう、うええ……」
「お願い……あの人を……お兄ちゃまを、助けて……」
何度もうなずきながら彼女はわたしにしがみつき、また声を上げて泣いた。
◇
レイチェルが落ち着くまで待って、わたし達は歩き出した。
――歩いている間、景色が歪んで色々な街や家の中に場面が切り替わり、闇に閉じ込めていた彼の記憶がお芝居のように展開される。
"カラス"と呼ばれて、わけもなく虐げられた少年の記憶。
その中で出てくる彼の姿は、常に人型をした黒い泥の塊に置き換わっている。
そして会話中の彼の名前を示す部分に必ず「ザザザ……」と雑音が入り、聞き取れない。
わたし達は彼の名前を忘れて、彼の姿も声も記憶から消えつつある。
今見ているのは一体誰の記憶だろう?
わたし達は誰を助けようとしているのだろう?
……それすら分からなくなりそうだ。
「……うぅ……っ」
後ろを歩くレイチェルはずっとすすり泣いている。
今目の前では、お絵かきがどうしてもできずに吐いてしまった黒い泥の子が、吐いたことを大声で糾弾されている。
怒られている間その子は何も言わない。目のところが赤く光るだけ。
「……大丈夫?」
「……ごめん、ごめん……ね……つらく、て……うぅ」
「……歩ける? 手、つないであげる」
「……っ、ありがとう……ひっ、う……」
彼女の手を引いて、ゆっくり歩く。
この世界に飛ばされた時から、彼女は学校の制服姿。下ろしていた髪はいつものように三つ編みになっていた。
そして、どこかの家の窓ガラスに映ったわたしの姿は、色が戻る前の桃色の髪と藍色の瞳。
今までの名前の"ルカ"は言えず、"アリシア"は言うことができる。
きっとわたしの名前や姿がちがうことを、彼が知らないからだ。
ここは彼の知っている情報と、彼の相手への印象で形成されているようだ。
――彼はどうなのだろう。
彼の中の自分は、どうして黒く塗りつぶされて、名前も聞き取れないのだろう。
どうしてみんなの頭から、彼の姿や声や名前が消えるのだろう。
彼は自分を消し去りたいのだろうか。
みんなの記憶からも消えたいくらいに、自分を殺したいのだろうか。
(そんなこと、ない……)
『神はいない。人間は汚いし、自分勝手だ』
「神はいない」――そう断言したのは、神を信じていないからじゃない。
誰よりも神を信じて、救いを求めていたから。
今も救いを求めて、心のどこかで信じている。でも何も救われないから、ああやって自分に言い聞かせていたのかもしれない。
「……おにいちゃま……」
涙がこぼれる。
わたし達の"神様"はいない。
でも今あなたの心にわたし達がいる。
どうか気づいて。
わたし達はみんな、あなたを助けたいの。
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