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11章 色と名前のない世界

16話 言の葉

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(これ、落とさないようにしないと……)
 
 彼のお父様に出会って、別れ際"あること"を聞いた。
 そしてもう一つ、お父様から渡された物があった。
 一片ひとひらの葉っぱ――これを届けて欲しいと言われた。
 
 道とも言えない道を歩いて進む。
 それまでずっと平坦だったけれど、下り坂にさしかかった。
 黒い泥で足元がぬかるんで滑り落ちそうになってしまう。
 時折「ピチョン」と水音がする。
 
 やがて下り坂は階段に変化した。
 左右は壁。両手を広げるスペースもないくらいに狭い上、天井も低い。
 足元のぬかるむ泥はなくなったものの、これはこれで進みづらい。
 壁を伝いながら下へ下へ――終わりが見えない。
 この階段はどこまで続くんだろう。
 心の闇に存在する階段。これを下っていくということはつまり、彼の闇の深層へ行くということを示しているんだろうか……。
 
 
 ◇
 
 
「あ……!!」
 
「あ! や、やっと会えた……無事だったのね!?」
「うん、うん! みんなも……!」
 
 長い長い階段を下りきって広い空間に出ると、はぐれてしまったルカ、そしてここへ来てからずっと会えなかったカイル、ジャミル、ベルがいた。
 相変わらず名前は呼び合えない。でも姿を見られただけですごくホッとして、涙が一瞬で滝のように流れてしまう。
 ルカもベルもそれは同じようで、泣きながら抱き合ってしまった。
 ありがとうみんな、わたしは大丈夫、無事で良かった……そんなことを言いながら再会を喜び合う。
 
「良かったよ……会えないんじゃないかと思っていた」
 
 少し離れた所から、カイルがそう言って微笑む。
 いつもと姿がちがう。彼がカイルと出会った頃くらいの姿だ。
 わたしやルカと同じように、彼にとってのカイルはこの姿のイメージが強いんだろうか。
 
「みんな会えたはいいけど……どうすりゃいいんだろうな……」
「…………」
 
 ジャミルの一言に、みんなの顔が曇る。
 
 地面も壁も天井も黒い泥で形成されたこの空間は、あの狭い長い階段を通っていたから広く見えるだけで改めて見ると狭い。
 見回してみると、ここから先に階段は続いていないようだった。
 つまり、ここが彼の闇の終着点。

 そこかしこに土と泥にまみれた紙幣と貨幣が乱雑に転がっている。
 それに、囓った痕がある何かの生き物の死骸――丸焦げになったものもあれば、生焼けのものもある。おそらくあまりに不味いために放置され腐り果てたと思われる肉が、とてつもない異臭を発している。
 どうやらここは彼が"カラス"として生きていた頃根城にしていた洞窟が元になっているようだ。
 
 奥の方で、大きく盛り上がった黒い泥の塊がジュルジュルと音を立てながらうごめいている。
 アルゴスが出した泥人間よりもさらに不定形で、人の形を保っていない。
 目の所が赤く光を放っていることで、ギリギリ何かの生物であることが分かる。
 
「あ……、っ……」
 
 呼んでみようとしても、やっぱり名前が出てこない。
 
 彼はこの闇を、絶対的な理性と様々な経験や出会いで得た"光"でどうにか封じ込めていたのだろう。
 ところが彼の過去をなぞるような出来事が立て続けに起きて、その封印は解けてしまった。
 ヒースコートの地震での負傷、助け起こした老人の息子夫婦からの罵倒。
 そこにフランツと昔の自分との絶対的な差を見たために暗い気持ちが生じた。
 とどめにネロという司祭による、"カラス"をしていた時代の自分に対する許しがたい侮辱――。
 全てが彼の心の闇を刺激して、彼はそれを抑えきれなくなった。
 
 赤眼になったあとも、光の塾の真実やキャプテンのことなど全てが悪い方に回って彼の心は闇の底に引きずり込まれ、あんな風に正体をなくしてしまって……。
 
「っ、あ……の」
 
 一歩前に踏み出して、黒い泥に声をかける。
 泥はこちらを振り向くことはない。ずっと所在なく右や左を行き来している。
 
「わたしの声、聞こえますか。ね、一緒に帰りま――」
 
 そう言ったと同時に黒い泥で出来た壁に人間の口のようなものが浮き上がって、一斉に大声で何かしゃべり出す。
 君達は捨てられたからゴミだ、カラスめ、疫病神、汚い、臭い――それらは全て彼が今まで浴びせられてきた汚い言葉。
 飛び交った罵詈雑言が、洞窟のようなこの場所で反響して頭の中にまで響き渡る。
 
「……っ、何、これ……!?」
「……君も、駄目か」
「え……?」
 
 カイルがため息をつき、他のみんなもうなだれる。
 
「どういうこと……?」
「あいつになんか言葉かけようとしたら、あの壁が一斉に大声でしゃべり出してオレ達の声をかき消しちまうんだ」
「そうなの。それで……」
 
 ベルが何か言おうとしたその時、黒い泥の目が赤く光る。
 次の瞬間泥の周りに小さな火がたくさん浮き上がり、その火は矢となって放射状に素早く飛んでいって、全て壁に浮き出た口に命中した。
 火が当たった壁はけたたましい音を立てて爆発し、浮き出ていた口たちがジュウ……という音とともに蒸発していく。
 
「ひっ……!」
 
 身の毛がよだつ光景に、思わず恐怖を含んだ声が出てしまう。
 
「ああやって、火の矢が飛んで口を攻撃して……それがずっと繰り返されている」
「…………」
 
 ルカが淡々とした口調で説明してくれる。一見落ち着いて見えるけれど、目が潤んでいる。
 彼女もまたあの人に何か言葉をかけようとしてくれたんだろう。
 
「……どうしたらいいんだ……」
 
 両の拳を握りしめて、カイルが肩を震わせる。
 
「おかみさんの言う通り、なのか……。いくらあいつに言葉をかけても、悪い言葉しか届かない……その呪いを、解けない……名前も結局、また忘れてしまった……」
「……ことば……」
 
「あっ……オイ!」
「駄目よ、今近づいたら……!」
 
 カイルの言葉を聞いて、わたしは黒い泥の元へ駆け出した。
 目は光っていないし、火の矢も飛んでこない。彼が火の矢を当てるのは敵意の火を見たときだけ。きっとわたしも、仲間のことも攻撃しない。
 あの泥は彼の闇そのものだけど、どこかでわたし達のことを覚えてくれている――そう信じて、わたしは黒い泥に思い切り抱きついた。
 粘性のある黒い泥が腕や顔にまつわりついてくる。冷たくて、そして洞窟内と同じ悪臭がする。
 
 まだ何も言っていないのに壁にまた口がたくさん浮かんで汚い言葉を次々に投げてくる。
 それに対しまた火を出そうとする彼をギュッと抱きしめて制し、わたしは彼の耳と思われる部分に顔を近づけた。
 こんなに至近距離なら、ちゃんと声は届くはず。
 ここで彼に出会って、最初にかける言葉は決まっていた。
 
「レオンハルト……ベルセリウス……さん」
「!」
 
 ――それは彼のお父様から聞いた、彼の名前――真名まな
 愛し合った若い2人が赤ちゃんの誕生を心から喜び、願いを込めて付けた名前。
 
「……お父様から、聞きました。ノルデンの勇者様の名前ですって。勇ましくてかっこいい……素敵なお名前です」
 
 わたしにまつわりついていた泥が波のように引いていく。
 抱きしめていた黒い泥の塊からも徐々に泥が剥離していき、その姿が露わになっていく。
 黒い長髪を後ろで結んだ、赤眼の少年――年齢は、フランツくらいだろうか。
 壁や天井にいくつも浮き上がっていた口はかき消え、その場が静寂に包まれた。
 
 目の前の少年は、おそらく聞き覚えのない名前で呼ばれ、かつそのことで自分の姿が露わになったことに茫然としている。
 けれどすぐに、その少女のような綺麗な顔立ちが怒りで歪んでいく。目が赤く光を放ち、彼の周りに火が浮かぶ。
 そんな彼の手を取って包むと、少年は憎々しげにわたしを睨んだ。
 
「おれに、触るな……!」
「レオンハルトさん……あのね、お父様から預かったものがあるんです」
「でたらめだ! 名前なんかない。親はおれがゴミだから捨てたんだ!」
「ちがうよ。ね、これ受け取って。……お届け物、です」
 
 言いながら、ふところに入れていた葉っぱを彼の手の上にそっと置いた。
 その瞬間葉っぱが黄金色に輝いて、辺りが光に包まれた。
 周囲の景色が切り替わり、またあの屋敷が現れる。
 そしてわたしが見たのと同じ思い出が目の前でまた繰り返された。
 彼に似た雰囲気の若い夫婦と赤ちゃんのキラキラした思い出。夢と希望を語り合う夫婦、そして……家族が引き裂かれる凄惨な光景も、全て。
 
『この子は神に選ばれた子、神はこの子の無限大の可能性を見通しておいでだ。このまま放っておくのはもったいない。大丈夫、ほんの少しの期間離れるだけです。神の手により紋章が発現したならお返しすると約束しましょう』
『魔法や紋章の有無などどうでもいい、この子が生まれただけで私達は幸せだ、この子の成長を見届けることこそ我々の幸せだ!』
 
 突如現れた光の塾――反論や抵抗も空しく、母親は殺されて赤ちゃんも取り上げられてしまう。
 全てを奪われた父親は、自分の父親を呪う言葉を吐き出したあと、子供の幸せを祈りながら絶命していく。
 
『ゆるしてくれ、ウルスラ……、レオン、ハルト……、……しあ、わせに……』
 
 その様子を、少年が地面にへたり込んで見ている。
 目から流れる涙は拭われることなく黒い泥の地面に雨のように落ち、それと同時にまだ少し彼の身体と顔に付着している泥が剥がれ落ちていく。
 
 ――まさかこうなるとは思っていなかった。
 この光景は、彼に見せるべきではなかったんじゃないだろうか?
 彼はキャプテンが自分の名前を名乗らずに逝ったことを自分のせいだと思ってしまう人。
 ご両親が亡くなったのを自分のせいだと思ってしまわないだろうか……?
 
 
『レオン、ハルト……』
「!」
 
 上の方から男の人の声が響いた。
 いつの間にか上に舞い上がっていたあの葉っぱが金色の光を放ちながらふわふわと落ちてくる。
 
『どこ……に……、手を……どうか』
 
 かすかに響くその声を聞いて、少年は恐る恐る手をかざしてその葉っぱを手にする。
 葉っぱはまばゆい光を放ってすぐに消え……少年の手をとる形で、銀髪の青年が姿を現した。
 
(シグルドさん……!)
 
 彼のお父様、シグルド・ベルセリウスさん――右手の土の紋章がぼんやりと光を放っている。あの血のような色の赤ではく、黄金色の優しい光。
 それに呼応するかのように、少年の左手の甲の火の紋章が赤く輝く。
 少年の身体が、赤と黄金の2色の光に包まれた。しばらくして光が消え――。
 
「あ……!!」
 
 全員、息を呑む。
 光が消えて現れたのは、わたし達がよく知るあの人。
 ずっとずっと一緒にいたあの人。
 わたしが好きな、わたしを好きだと言ってくれたあの人。
 
 ――涙が出る。
 
 ああ、やっと会えた。でもここへきてもやっぱり名前は頭に出てこない。
 
 彼は元の姿に戻ったことよりも、唐突に現れた自分に似た容姿の青年――シグルドさんに驚愕している。
 そんな彼の頭をシグルドさんがそっと撫でてニコリと笑った。
 まるで子供をあやすように、優しく柔らかく。
 
『ああ……レオンハルト、やっと君の姿を見られた。大きく……なったんだね。もう本当に、立派な大人だ……』
「…………」
『でも僕にとっての君は、赤ん坊だったから……だから、いつものように呼ばせてもらうね。……"レオくん"』
「!!」
 
『"レオンハルト"――素敵な名前ですけれど、赤ちゃんには少しいかめしいかもしれませんわね。"レオくん"と呼ぶのはどうでしょうか?』
 
 お母様のウルスラさんの提案で、以降夫婦は赤ちゃんをずっと"レオくん"と呼んでいた。
 おそらく記憶にない呼称――それでも自分のものだと分かるのか、彼の目から涙がとめどなく流れる。
 彼よりも若く、そして彼より少しだけ背の低い父親が、泣いている彼の頬を両手で包んでその涙を拭う。
 
『泣かないで……。伝えたいことがあるんだ』
 
 そう言うと、シグルドさんは悲しげに微笑む。
 
『……レオくん、ひとりぼっちにしてごめんね。辛い時悲しい時、そばにいて守ってあげられなくてごめん。僕達を、いくらでも恨んでくれていい。……だけどどうかお願いだ。生まれてきたことが間違いだなんて、そんなことを思わないで。……僕達は若くて幼かった。君が生まれる前、それに君が生まれた時も、人が見れば滑稽なくらい子供のようにはしゃいで……理想ばかり抱いて語り合った。……親兄弟に蔑まれて生きていた僕達にとって、君の誕生と存在それこそが、幸せと夢……そして希望の光。少しの間だけど、僕達は本当に幸せだった。生まれてきてくれて、幸せをくれてありがとう……愛している』
 
 そこまで言ったところでシグルドさんの姿が消え、代わりに黄金に輝く葉っぱが現れてふわふわと宙に舞う。
 光が少しずつ弱まり、葉っぱはゆっくりと地面に落ちていく。先ほどまで父親の姿をしていたその葉っぱを彼が掴まえようとするけれど、うまく手に取ることができない。

『どうか……どうか、幸せに……』
 
 若い父親の気持ちを全て届けたらしいその黄金の葉は輝きを失い、わたしが最初に受け取ったのと同じ何の変哲もない緑の葉になり地に落ちた。

 ――再び静寂が訪れた洞窟に、置いていかれた"子供"の嗚咽の声だけが響き渡る。
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