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14章 狂った歯車
17話 "奇跡"
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「はあ……、はあ……」
ミロワール湖に続く道――あれほど全速力で走っていたのに、今の足取りは重い。
靴と土が擦れ合う音がするが、跳ね上がった心臓の音の方がそれに勝る。
頭の中……いや、体中にドクドクという音が響いている。
走る気になれない。息が荒れる。
走りすぎて疲れたからじゃない。
――怖い。
ただひたすらに、怖い。
5年前の夏、俺はあのミロワール湖でイリアスとテレーゼに襲われ足を負傷し、禁呪の魔器として利用された。
その時の記憶はほとんどない。術の影響などではなく、単純に恐怖から来るものだろう。
昔、俺は泳ぎが得意だった。でもあの時の経験から冷たい水に浸かることができなくなってしまった。
水辺に近づくことすら躊躇する。考えるだけで身震いしてしまうレベルだ。
「…………っ」
近づけば近づくほどに息が上がり足が震える。
これから俺が行くのはただの"水辺"じゃない。
ミロワール湖――俺が"死んだ"場所。全ての始まりの場所。
怖い、怖い。
行きたくない……!
◇
それから一体どれくらいの時間が経ったのか……ようやくミロワール湖の湖畔に辿り着いた。
足が震える。歯がずっとガチガチと音を立てている。
水面には怯えきった顔の自分が映っている……。
"こいつ"はきっと俺とちがって、誰を憎むことも絶望することもなく、本当に闇なんてひとつも抱えずに生きてきたんだろう。
こんな顔なんてしたことはないだろうし、こんな恐怖も抱いたことはない。
自警団でそれなりの腕だと聞いた。活躍しているんだろう、将来有望なんだろう。
俺は、平和に暮らすこの青年の人生も奪わなければいけない……。
(早く……さっさとやってしまおう……)
もう、ためらっている場合じゃない。
桟橋の端部に座り込んで持っていた短剣を鞘から取り出す。
これを自分自身に突き立てて、血を……。
「っ…………」
手が震えて、剣をうまく持てない。
剣や槍を取って十数年経つのに、今が一番うまく扱えない。
――何をやってるんだ。
思い出せ。術にあらがい、紙切れひとつ渡すためだけに自分の腹を貫いたセルジュのことを。
あれに比べれば、こんなのなんてことない。俺が刺すのは、腹や胸じゃない。刺すのは……。
「ぐっ……!!」
短剣を思い切り、足首に突き立てる。
5年前、そして昨日……ここを噛まれて刺されて貫かれた。
足首に激痛と熱がほとばしる。だが、痛みに呻いている場合じゃない。
「っ……、俺は……俺は、カイル・レッドフォード、そして……クライブ・ディクソン!! ……頼む! 1日でいい! 時間を戻して……俺をあの日へ……、綻びた時間の元へ、還してくれ!!」
満月の光に、鏡の水面。それから血に……魂。
魔力のない人間にも、ひとつだけ魔法が使える。奇跡を起こせる。
肉体に宿る、唯一の魔器――俺自身の魂を、投げて……!
「……わあああ――ーっ!」
叫びながら湖に飛び込んだ。
同じ時間、同じ場所、同じ箇所に傷をつけて、同じ湖に身を投げ出す。
魔法は心の力。時間を越えた時の自分の心と完全にリンクするはずだ。
そう。あの時の、自分の心……。
寒い。
冷たい。
痛い。
暗い。
怖い。
誰か、
誰か……
助けて――……。
――――――………………
――――…………
――……
(……全然……なんにもならないじゃないか……)
凍てつくような水の中、いつまでもいつまでも意識が続く。
外は暗くて、周りは真っ暗。
……何も見えない。
きっと最初に時間を飛んだ時みたいに、足から出た血で視界は真っ赤なんだろう。
沈んでいくばかりで、術らしきものは何も発動しない。
とんだ見当違いだったんだろうか。信じる力とやらが足りなかった?
ない頭使って必死こいて考えたのになあ……。
所詮俺なんて、特別な力なんて何もないちょっと強いだけの一般人。
時間越えたといっても巻き込まれただけだし、あの小説の主人公みたいな勇者でもなんでもない。
奇跡起こす力なんて、あるわけなかったんだ。
脳裏に浮かぶのは、この世界で会った兄と幼なじみの姿。
もしこの儀式が失敗して、俺の遺体が浮かび上がったなら……。
そうしたらきっと兄は、あの時強く止めなかった自分を責めるだろう。
レイチェルは、「自分があんな本を貸したばかりに」と泣くだろう。
――嫌だな。
誰も俺の死に責任を感じて欲しくない。重荷を背負って欲しくないよ。
時間を越えられずに無駄死にしてしまうのなら、せめてみんなの記憶から俺を消してほしい。
誰も彼も俺のことなんか忘れて、幸せに暮らして……。
――――――………………
――――…………
――……
「………………」
(……いつまで意識続いてんだ……もういい加減にしてくれよ……)
イリアスが術を放った時は、次の瞬間もう家だったじゃないか。
俺は水は嫌いなんだよ。
冷たいんだ、暗いんだ、怖いんだ。
死ぬならさっさと終わりにしてくれ。
『…………ね、………おね、がい…………』
(…………?)
誰かの声が聞こえた気がした。
でもやっぱり周りには何も見えない。
『…………シー、ザー…………』
(……シーザー……?)
飛竜のシーザー。
向こうの世界にだけ存在する俺の相棒。
従者であり、主人。そして半身……。
――ああ、そういやあいつ、どうしてるかなあ。
1週間閉じ込められてたからそれだけ離ればなれ……そんなの初めてだよな。
兄貴やグレンやレイチェルがエサくらいはあげてくれてると思うけど、あいつ俺以外には心開かないし頑固だから、どうかなあ。
こだわりがあって食わないエサとかあるんだよ。手焼かせてんじゃないかな、心配だな。
『…………ね、あなた、は、ずっと…………』
(……リタ……?)
さっきから聞こえるこの声は、リタのものじゃないだろうか?
なんでリタがシーザーを呼んでるんだろう。
全然分からない。もう死ぬから、色々な記憶が混線してる状態なのかな?
リタか……聖女の任期が終わるまであと2、3週間くらいだったのに足引っ張っちゃったな。
悪いことをした。せめて一言くらい謝りたかったけど……。
(眠い……)
急速に眠気が襲ってくる。
――駄目だ。俺、今度こそ死ぬんだな……。
なんとなしに手を上に伸ばしてみるも、当然つかみ上げてくれる手はない。
俺はあまり物事を深く考えない。ガキの頃からそうだった。大人になっても同じだ。
だって、事実に向き合い続けると潰れてしまうから。
俺の置かれた環境は脱却したいと思ってもどうしようもないことばかり。
壁は分厚くて高い。提示された選択肢は、いつも重い。
俺は武芸の腕前には絶対の自信がある。魔法は使えないけど強い。
何かしんどいことがあっても「昔のあれに比べれば」と思って、大抵のことは乗り越えられる。
自分で結論も打開策も考えられるし、なんとかしてきたけど……さすがに今回ばかりは本当に無理だ。
疲れた。辛い。独りじゃ無理だ。
俺だって、たまには誰かに助けてもらいたい。
誰でもいい。重たい荷物を一緒に持って欲しい。
この手をつかんで引き上げてほしい。
頼むよ。
……誰か。
誰か、俺を、助けて――……。
そう考えてもやっぱりこの手は誰にも、何にも届かない。
目の前は真っ暗。奇跡なんか起きやしない。
ああ……もう、終わりだ……。
――――…………
――――――…………
――――――………………
『……おね……がい……。
誰……か……、
彼……を……、
……たす……けて……、
シーザー……、
……お願い……、
誰か……』
――14章 終わり――
ミロワール湖に続く道――あれほど全速力で走っていたのに、今の足取りは重い。
靴と土が擦れ合う音がするが、跳ね上がった心臓の音の方がそれに勝る。
頭の中……いや、体中にドクドクという音が響いている。
走る気になれない。息が荒れる。
走りすぎて疲れたからじゃない。
――怖い。
ただひたすらに、怖い。
5年前の夏、俺はあのミロワール湖でイリアスとテレーゼに襲われ足を負傷し、禁呪の魔器として利用された。
その時の記憶はほとんどない。術の影響などではなく、単純に恐怖から来るものだろう。
昔、俺は泳ぎが得意だった。でもあの時の経験から冷たい水に浸かることができなくなってしまった。
水辺に近づくことすら躊躇する。考えるだけで身震いしてしまうレベルだ。
「…………っ」
近づけば近づくほどに息が上がり足が震える。
これから俺が行くのはただの"水辺"じゃない。
ミロワール湖――俺が"死んだ"場所。全ての始まりの場所。
怖い、怖い。
行きたくない……!
◇
それから一体どれくらいの時間が経ったのか……ようやくミロワール湖の湖畔に辿り着いた。
足が震える。歯がずっとガチガチと音を立てている。
水面には怯えきった顔の自分が映っている……。
"こいつ"はきっと俺とちがって、誰を憎むことも絶望することもなく、本当に闇なんてひとつも抱えずに生きてきたんだろう。
こんな顔なんてしたことはないだろうし、こんな恐怖も抱いたことはない。
自警団でそれなりの腕だと聞いた。活躍しているんだろう、将来有望なんだろう。
俺は、平和に暮らすこの青年の人生も奪わなければいけない……。
(早く……さっさとやってしまおう……)
もう、ためらっている場合じゃない。
桟橋の端部に座り込んで持っていた短剣を鞘から取り出す。
これを自分自身に突き立てて、血を……。
「っ…………」
手が震えて、剣をうまく持てない。
剣や槍を取って十数年経つのに、今が一番うまく扱えない。
――何をやってるんだ。
思い出せ。術にあらがい、紙切れひとつ渡すためだけに自分の腹を貫いたセルジュのことを。
あれに比べれば、こんなのなんてことない。俺が刺すのは、腹や胸じゃない。刺すのは……。
「ぐっ……!!」
短剣を思い切り、足首に突き立てる。
5年前、そして昨日……ここを噛まれて刺されて貫かれた。
足首に激痛と熱がほとばしる。だが、痛みに呻いている場合じゃない。
「っ……、俺は……俺は、カイル・レッドフォード、そして……クライブ・ディクソン!! ……頼む! 1日でいい! 時間を戻して……俺をあの日へ……、綻びた時間の元へ、還してくれ!!」
満月の光に、鏡の水面。それから血に……魂。
魔力のない人間にも、ひとつだけ魔法が使える。奇跡を起こせる。
肉体に宿る、唯一の魔器――俺自身の魂を、投げて……!
「……わあああ――ーっ!」
叫びながら湖に飛び込んだ。
同じ時間、同じ場所、同じ箇所に傷をつけて、同じ湖に身を投げ出す。
魔法は心の力。時間を越えた時の自分の心と完全にリンクするはずだ。
そう。あの時の、自分の心……。
寒い。
冷たい。
痛い。
暗い。
怖い。
誰か、
誰か……
助けて――……。
――――――………………
――――…………
――……
(……全然……なんにもならないじゃないか……)
凍てつくような水の中、いつまでもいつまでも意識が続く。
外は暗くて、周りは真っ暗。
……何も見えない。
きっと最初に時間を飛んだ時みたいに、足から出た血で視界は真っ赤なんだろう。
沈んでいくばかりで、術らしきものは何も発動しない。
とんだ見当違いだったんだろうか。信じる力とやらが足りなかった?
ない頭使って必死こいて考えたのになあ……。
所詮俺なんて、特別な力なんて何もないちょっと強いだけの一般人。
時間越えたといっても巻き込まれただけだし、あの小説の主人公みたいな勇者でもなんでもない。
奇跡起こす力なんて、あるわけなかったんだ。
脳裏に浮かぶのは、この世界で会った兄と幼なじみの姿。
もしこの儀式が失敗して、俺の遺体が浮かび上がったなら……。
そうしたらきっと兄は、あの時強く止めなかった自分を責めるだろう。
レイチェルは、「自分があんな本を貸したばかりに」と泣くだろう。
――嫌だな。
誰も俺の死に責任を感じて欲しくない。重荷を背負って欲しくないよ。
時間を越えられずに無駄死にしてしまうのなら、せめてみんなの記憶から俺を消してほしい。
誰も彼も俺のことなんか忘れて、幸せに暮らして……。
――――――………………
――――…………
――……
「………………」
(……いつまで意識続いてんだ……もういい加減にしてくれよ……)
イリアスが術を放った時は、次の瞬間もう家だったじゃないか。
俺は水は嫌いなんだよ。
冷たいんだ、暗いんだ、怖いんだ。
死ぬならさっさと終わりにしてくれ。
『…………ね、………おね、がい…………』
(…………?)
誰かの声が聞こえた気がした。
でもやっぱり周りには何も見えない。
『…………シー、ザー…………』
(……シーザー……?)
飛竜のシーザー。
向こうの世界にだけ存在する俺の相棒。
従者であり、主人。そして半身……。
――ああ、そういやあいつ、どうしてるかなあ。
1週間閉じ込められてたからそれだけ離ればなれ……そんなの初めてだよな。
兄貴やグレンやレイチェルがエサくらいはあげてくれてると思うけど、あいつ俺以外には心開かないし頑固だから、どうかなあ。
こだわりがあって食わないエサとかあるんだよ。手焼かせてんじゃないかな、心配だな。
『…………ね、あなた、は、ずっと…………』
(……リタ……?)
さっきから聞こえるこの声は、リタのものじゃないだろうか?
なんでリタがシーザーを呼んでるんだろう。
全然分からない。もう死ぬから、色々な記憶が混線してる状態なのかな?
リタか……聖女の任期が終わるまであと2、3週間くらいだったのに足引っ張っちゃったな。
悪いことをした。せめて一言くらい謝りたかったけど……。
(眠い……)
急速に眠気が襲ってくる。
――駄目だ。俺、今度こそ死ぬんだな……。
なんとなしに手を上に伸ばしてみるも、当然つかみ上げてくれる手はない。
俺はあまり物事を深く考えない。ガキの頃からそうだった。大人になっても同じだ。
だって、事実に向き合い続けると潰れてしまうから。
俺の置かれた環境は脱却したいと思ってもどうしようもないことばかり。
壁は分厚くて高い。提示された選択肢は、いつも重い。
俺は武芸の腕前には絶対の自信がある。魔法は使えないけど強い。
何かしんどいことがあっても「昔のあれに比べれば」と思って、大抵のことは乗り越えられる。
自分で結論も打開策も考えられるし、なんとかしてきたけど……さすがに今回ばかりは本当に無理だ。
疲れた。辛い。独りじゃ無理だ。
俺だって、たまには誰かに助けてもらいたい。
誰でもいい。重たい荷物を一緒に持って欲しい。
この手をつかんで引き上げてほしい。
頼むよ。
……誰か。
誰か、俺を、助けて――……。
そう考えてもやっぱりこの手は誰にも、何にも届かない。
目の前は真っ暗。奇跡なんか起きやしない。
ああ……もう、終わりだ……。
――――…………
――――――…………
――――――………………
『……おね……がい……。
誰……か……、
彼……を……、
……たす……けて……、
シーザー……、
……お願い……、
誰か……』
――14章 終わり――
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