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15章 祈り(前)

8話 教皇ワシリイ2世(後)

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 イリアスについて、知っているだけの情報を話した。
 
 父親は船大工。
 どういう経緯かは分からないが光の塾の下位組織にやってきた。
 そこでの呼称は「35番」――そう呼ばれるごとに「イリアスという名前があるのだから、そっちで呼べ」と返し、殴られていた。
 光の塾の教義と理念を植え付けようとする大人にことあるごとに教義の矛盾を突きつけ反論して、やはりその都度殴られていた。
 
 ある日、「することがないから」と言って、集めてきた木の枝を組んで船を作ろうとした。光の塾で固く禁じられている"モノ作り"だ。
 すぐに大人――神父に見つかり、逆鱗げきりんに触れてしまう。
 イリアスは懲罰房ちょうばつぼうに連れて行かれはりつけにされた上、俺と他の孤児達の見る前で鞭で何度も打たれた。
 それでも悔い改めないイリアスに業を煮やした神父は、俺達に鞭を渡しイリアスを打たせることを思いつく。
 
 全員で鞭打ったあと俺達は各自の部屋へ帰された。
 残った大人達は恐らく奴に苛烈な拷問を加え……その最中さなか紋章が発動。
「神の力に目覚めた」として、光の塾へ――。
 
「…………っ」
「た、隊長……!」
「グレン殿……」
 
 話の途中で吐き気を催してその場にうずくまってしまった。ベルナデッタとセルジュがこちらへと駆け寄って来る。
 
「……大丈夫かね」
「……申し訳……ありません。これ以上は……話したくありません……」
「……すまない。話してくれてありがとう」
「…………」
 
 息が荒れる。頭が痛い。吐きそうだ。
 視界に入る自分の手の甲には蕁麻疹じんましんが浮き出ている。
 以前この話をノルデンの王女だという女に恨み言としてぶつけた時はこんな風にならなかった。
 あの時は赤眼という極限状況で、恨みの感情が先行していたから普通に話せたのかもしれない。
 ――駄目だ。やっぱり俺はあの出来事を何も消化できていない。
 
「……グレン・マクロード君」
「!!」
 
 いつの間にか、教皇が俺の前にまで歩み寄っていた。
 気配を何も感じなかった――なんだ、こいつは。本当に聖職者なのか? 
 
「……君はイリアス・トロンヘイムを憎んでいるのだね」
「……はい。どれほどの事情があろうと、奴は敵でしかありません」
「……なるほど。それは、仕方がない。人間だからね。……だが、私はやはり言うよ」
「…………」
「……グレン君。彼を"ゆるす"ことは……できないだろうか」
 
 笑みはないが敵意もない、凪のように穏やかな表情――それなのに、なぜか畏怖の念を抱いてしまう。
 
「……ゆ……"赦す"、とは……何ですか」
 
 カラカラの口からようやくそれだけ絞り出すと、教皇は柔らかく笑みを浮かべる。
 
「……人の悲しみを知り、受け入れ、救うこと。憎しみを、捨て去ること。……それがひいては君の救いとなる」
「…………受け入れ、られません。それは……ミランダ教の教義でしょうか」
 
「そう。聖女ミランダ様は、女神様の御言葉みことばを人々に伝えるため世界を回った。だけれど、当時は女神様の兄神である光の神を信奉する――聖光神団せいこうしんだんの勢力が強かった。ミランダ様は人心を惑わす異端者として捕らえられ……死刑を宣告されたんだ。――処刑の前日、ミランダ様は面会に来た使者に向けてこうおっしゃった。『私は彼らを赦します。女神様を信ずる者、信じない者、全ての者のために私は祈ります。人に、天に、大地に、女神の加護のあらんことを』――とね」
 
「…………」
「その瞬間ミランダ様と使者達は光に包まれ、女神様が始めに顕現けんげんされた場所……ミロワール湖へと導かれた。ミランダ様はそのまま女神様のおそばに行くことを望み、ミロワール湖へと身を投げた――それが、ミランダ教の始まり……」
「…………何をおっしゃりたいのか、分かりません。悲しみを知り、受け入れ、救う。……憎しみを捨てる? そんな……そんなもの……」
「た、隊長……」
「……無価値だ……!」
 
 頭に血が昇る。しかし、なぜか炎は出ない。沈黙魔法サイレスで抑えられているわけでもないのに一体どうしたんだ。
 
「……無価値。分かるよ、グレン・マクロード君。しかし、憎しみという感情もまた……無価値だ。遅効性の毒と同じだよ。生きる動力にはなるが……抱き続けていては、いずれ前に進む力が失われる」
「綺麗事を……!」
「綺麗事ではないよ、真実だ。私には分かる。かつて……憎しみを、血を浴びることで晴らした者として」
「……!?」
 
 ぎょっとして教皇の顔を見上げるが、教皇は柔らかな笑みを浮かべたまま――時間でも止まっているかのように表情は全く崩れない。
 
「……君も騎士をやっていたなら、仕事としてぞくを斬ったことくらいはあると思うが……私はちがうんだ。私は、憎い相手をあやめたことがある。賊ではない、ただの人間をね」
「…………」
 
 さすがに言葉が出ない。
 周りの人間を見渡してみるが、いずれも眉間にしわをよせているか目を伏せているくらいで特段驚いた様子はない。聖女に王太子にセルジュ、ベルナデッタですら同じだ。
 ここにいる者は全員ミランダ教徒――教皇が人を殺めた過去があるというのは、周知の事実なのだろうか?
 
「ねえ、グレン君。どうしてもイリアスへの憎しみを捨て去れず、討ちたいというのなら、私は道を示すことができる」
 
 ――『道を示す』というのは何だろう。怖くて聞けない。
 黙って何も言えないでいると、柔らかい笑顔で「グレン君」と再度呼びかけられた。
 
「…………はい」
「また、ここへ来てくれるだろうか」
「え……?」
「話をしよう。今度は君の友人、カイル・レッドフォード君も一緒に」
「カイルを? ……なぜ」
「恐らく彼の心は、君以上にイリアスへの憎悪で満たされている。……憎むことは不毛だ。前途ある若者が、そのようなことで歩みを止めてはならない……私は、彼の言葉も聞かなければいけない。彼の憎しみもまた、私が引き受けよう」
「………………」
 
 教皇の言葉はひどく観念的で、ほとんど飲み込めない。
 
 憎しみは不毛――それは分かる。
 だが、他者が他者に向けた憎しみを引き受けるなんて不可能に決まっている――。
 
 
 ◇
 
 
「……じゃあ、また教皇猊下とお話しするんですね」
「ああ……」
 
 レイチェルに今日の出来事を話し終えて若干心が軽くなったが、やはり気分は優れない。
 
「……大変、ですね。なんだか、重い話になりそう……」
「そうだな……」
「わっ」
 
 隣に座っているレイチェルにもたれかかるように倒れ、膝に頭をのせた。
 
「び、びっくりした。急に……」
「……疲れた。教皇怖い」
「そんなぁ……」
「……もう会いたくない。丸め込まれそうだ」
「ま……丸め込むって、そんな」
 
 困った顔でレイチェルが俺を覗き込んで、頭を撫でながら指で髪をく。「サラサラでさわり心地がよくて好き」らしい。
 
「……レイチェルは、今の教皇のことをどれくらい知ってる?」
「うーん……元々凄腕の剣士だったって話ですけど」
「なるほど……威圧感はそれでか」
「それで……50年以上前に殺人で逮捕されたんですけど、当時の教皇猊下が就任された際に恩赦されたそうです」
「恩赦……」
 
 その後なんとなく言葉が続かず、何を言えばいいか分からなくなってしまった。
 彼女もまた黙って、ずっと俺の髪を梳いている。
 いっそこのまま寝てしまえば楽だろうかと思って寝返りを打って目を閉じた時、「ねえ、グレンさん」という声が耳に入ってきた。
 
「……ん?」
「あのね、わたし……、キャプテンのことがあったあと、図書館のテオ館長に手紙を書いたんです」
「館長に……?」
「うん。わたしはグレンさんが、あんなに悲しんでるから、やっぱり……キャプテンのこと、許せなくて。それで、そういう自分は心が狭い、苦しいって、いっぱい書き殴っちゃったの」
「……そうだったのか」
 
 起き上がってソファに座り直し、彼女を抱き寄せる。
 
「……それでね、何日かあと、テオ館長から返事がきたの。手紙には励ましの言葉がいっぱいと……それと、『許せないのは、人間なら当たり前の感情。今はその人を許せなくてもいいから、許せない自分を、自分だけは許してあげてください』って、そう書いてあったの」
「…………」
「だからね、グレンさん、も……?」
 
 彼女を抱く手に力を込めてしまう。
 愛おしさが半分、それと……。
 
「ありがとう。……ごめん」
「ごめんって……?」
「……レイチェルも『憎むのをやめろ』と言うんじゃないかと……みんなミランダ教徒だから味方がいないと思い込んで、勝手に陰鬱になっていた」
「言いませんよ……わたし、そんなに人間できてない。だってあの人、グレンさんを殺したのよ。今生きてるけど、それは本当にたまたま……。あの人も、悲惨な境遇だったのかもしれないけど……でも無理だよ、そんなの」
「レイ――」
 
 肩に手が置かれたと思うと、次の瞬間彼女が唇を重ねてきた。そして、すぐさま俺の胸元に頭をぽすんとうずめてくる。
 
「……カイルは、大丈夫かな。教皇猊下とお話しして……怒ったりとか」
「どうだろうな……あいつにとっては、本当に憎悪を向けるべき相手だろうから」
「……いやだな……。イリアスは許せないけど、でも、誰かが誰かを憎むところなんて、見たくない……」
「…………」
 
『憎むことは不毛だ。前途ある若者が、そのようなことで歩みを止めてはならない』――。
 
 ――憎しみは不毛、無価値。遅効性の毒。
 生きる動力にはなるが、抱き続けていると前に進む力が失われる。
 
 ……知っている。
 どんなにその怒りが正当なものでも、恨みが積年のものであっても、相手にぶつけると心が何かに食われる。
 俺はかつて、副院長に恨みをぶつけておとしいれた。だが気が晴れたのはほんの一瞬……結局自分が壊れただけだった。
 二度とああなりたくはない。
 
(……だからといって……)
 
 昨日今日でそう簡単に気持ちが収まるものではない。
 ……あいつはどうなんだろう?
「許す」「許さない」……どちらに転んでも、俺はどういう気持ちを持ってどう振る舞うべきかなのか全く分からない。
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