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15章 祈り(後)

36話 さまよえるイリアス(2)

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「……う……っ」
 
 呻きながら寝返りを打つ。
 耳に鳥の鳴き声が響く。薄く開けた目に日光が差し込んでくる。
 ――ああ、朝だ。どうやら今日も生きているらしい……。
 
 のそりと身体を起こすと、そこは教会の医務室だった。
 
 ――僕は街を出ようとするか、ある程度活動すると倒れるようになってしまっていた。
 どこぞで倒れそのまま朝を迎えるか、あるいはどこかに運ばれて……。
 最初は確か、酒場だった。その次の日は、この教会。次も教会、その次は宿屋だった。
 次はまた教会。そして今日もまた、教会……。
 
(宿屋がよかったな……)
 
 言ってはなんだが、教会のベッドは固くて寝心地が良くない。
 宿屋と比べるのも無体な話だが……どうせ倒れて運ばれるなら、寝心地のいい場所がいい。そう考えながらもう一度横になる。
 安い簡素なベッドが「ギシ……」と音を立てた。
 
「………………」
 
 ここはあの「ミハイールの教会」に似ている。
 同じ国内にある同じ宗教の教会……似ているのは当然だ。
 だが目を閉じて鳥の鳴き声とベッドのきしむ音を聞いていると、心があの「ミハイールの教会」へ回帰しようとする。
 このところ、あそこにいた頃の夢ばかり見ているからかもしれない。
 しかしその思考は、柱時計の音で遮られた。
 時計の音は、8回。
 
(……シリルのやつ、遅いな……)
 
 倒れてここへ運ばれると、翌朝必ずシリルが現れる。この教会を受け持っている司祭だ。
 顔を合わせると、驚き、安堵、友好、憂慮といった感情を示す"芽"が生える。
 だがこれらは全て、次会った時にはなくなっている。どうやら僕に関する記憶は1日と持たないらしい。
 今日もまたあの芽たちが、色も形も変わりなく規則正しい順序で生えるのだろう。
 
 彼が病人の様子を見るためここを巡回する時間は7時半と決まっている。
 だが、今日はなかなか現れない。……別に待っている必要もないのだが……。
 
「お目覚めになりましたか」「街の入り口で倒れておられたんですよ」
「そうでしたか」「助けていただいてありがとうございます」
 
 そういう定型文の会話を交わしたあと軽く自己紹介をして、最後は彼に見送られながら教会を出る――それが日の区切りになりつつあった。
 
 ――ああ、やはり宿屋は駄目だな。あそこにはシリルがいない。
 "時計"がないと、1日の始まりの実感が……。
 
「!」
 
 足音が聞こえる。
 シリルだ――いつもより遅い時間になったから急いでいるのだろう、足音は大きく、落ち着きがない。
 しばらくするとドアがバタンと開き、シリルが入ってきた。
 僕の姿を認めると目を見開く。足元から、また"驚嘆"の芽が生える。
 いつもよりも大きい気がしたが、気のせいだろうか。
 
 シリルは眼鏡を上げてから少し笑い、共に医務室に入ってきた修道女に手で何事か促した。
 修道女は神妙な顔でうなずき、扉を開けて出て行く……。
 
(何だ……?)
 
 シリルは柔和な笑みを浮かべながらこちらに歩み寄ってくる。
 第一声はいつも、「お目覚めになりましたか」――そのはずだ。
 だが……。
 
「……道に迷いし旅人よ。我が教会によくぞおいでくださいました」
「え……?」
 
 彼の口から出たのは、いつもと全く違う言葉。
 思わずシリルの顔を凝視してしまう。
 シリルはそれに動揺することはない。いつもの笑顔を絶やさず言葉を続ける。
 
「何か、お困りごとがおありですか? わたくしでよろしければ、お話を聞かせてください。あなたの心の荷物を、ほんのわずかでも軽くできればと思います」
「………………」
 
 いつもと違う言葉――――だが、修道士、そして司祭になる過程で幾度も耳にしたことのある口上。
 これは、この口上は。
 
「赤い眼をした彷徨さまよい人」に出会った時、かける言葉……。
 
「……っ、……いいえ。体調は……少し悪いですが、私は別に困ってはおりません」
 
 ――声が震える。時計の秒針の音が、外の庭木に止まる鳥の声が、妙に大きく聞こえる。
 今自分が発した声は、この場面に適切な音量だっただろうか。
 今"表舞台"に出て台詞を発しているのは、果たしてどの役者だろう――?
 
「……さようでございますか。この先道に迷うことがあったなら、その時はまたここへおいでください。我らが女神は、女神を信ずる者信じない者、生きとし生けるもの全ての味方です」
「…………ありがとう、ございます」
 
 礼を述べ立ち上がる。……これ以上、この定型文を聞きたくない。
 
「あ、お待ちください。表から出るのは危険です」
「え……」
 
 立ち去ろうとすると、シリルに呼び止められた。
 ――ああ、そうだった。赤眼の対応にはまだ続きがあるんだ。
 
「安全な道をご案内いたします。どうぞこちらへ」
 
 シリルが医務室の扉を開け、またニコリと笑う。
 
「…………」
 
 ミランダ教の教会には、表玄関の他に地下を経由しなければ出られない裏の出口がある。
 そこは通常使われることはない。教会で働く者そして御用聞きなど表玄関を通らず入りたい者は、地上にある勝手口を使用する。
 ならば、その裏口を使うのは何者か。
 赤眼の者だ。
 教会に赤眼の者が訪れた場合、慌てず騒がず、また必要以上に構い過ぎず、その教会を受け持つ司祭が外の世界への出口へ導く。
 表玄関の扉は西側、勝手口は北方向、そしてその出口は南向きに設けられる。
 南は日照時間が多い。「あなたの前途は、決して暗いものではない」というメッセージ性を含んでいるのだと習った。
 出口――地上へと続く階段のところで、司祭は赤眼の者を見送る――。
 
「ここから外へ出られます。旅の方、どうかお気をつけて」
「…………ありがとう、ございます、神父様」
 
 礼を述べると、シリルはまたニコリと笑う。
 
「私の名は"シリル・ヒューム"です。貴方のお名前を教えていただけますか」
「……ヨハンです」
「ヨハン殿。良いお名前です。今日出会えたことを嬉しく思います。……どうか貴方に、女神の加護のあらんことを」
 
 何もかも一から十まで脚本通りの、完璧な振る舞い。
 ……足元の、芽は……。
 
「…………」
 
 無言で頭を下げ、外へと続く階段を上る――地上に出ると、左手か右手かに必ず高い壁が立っている。そして上り切ってすぐのところには鏡が取り付けられていると聞いた。
 なぜそういう構造なのかと思っていたが今の自分の心理と行動からようやく合点がてんがいった。
 暗い通路を歩いているなか至近距離に鏡が登場すると、誰かいるのかと驚いてついそちらを見てしまうのだ。
 
 ――鏡の中には、赤い眼をした自分が映っている。
 今日出会ったシリルは初動こそ少し違っていたが、言動も態度もいつも通りだった。
 赤眼への対応は全て脚本通り。だが彼の足元には、驚き、安堵、友好、憂慮の芽が生えていた。
 いつもと変わらない感情――彼は"役"を演じていなければ、"台詞"を読んでもいない。
 
「シリル……君は、本物の司祭なんだね……」
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