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大人になった僕ら

34.残されたもの

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 3月8日。ミモザデーとも言われるこの日の朝、最近昼夜が逆転しがちな智が、寝坊気味な僕をたたき起こした。

「早音、起きろよ! 起きろって」

 起き抜けのぼんやりした視界に、金色と黒の丸ふたつ。智だ。
 最近智は目が悪くなってきていて、淡い金髪に黒縁眼鏡という特徴的な容姿になった。容姿を売りにしているのだからコンタクトにすればいいと助言したのだが、智は首を縦に振らなかった。「目に何か入れるなんて怖い」と。元ヤンが何言ってるんだろう、可愛すぎる。
 だが、安物の黒縁眼鏡をおしゃれアイテムに仕立て上げるほどの美貌を持つのが阪本智だった。SNSに投稿した初の眼鏡写真は、かつてないほどの『いいね』が付いたのだった。

「おは、よ……どうかしたの」
「早音、紫陽花のキャンドルできた! 見てくれよ」
「ああ、あれ……。随分頑張ったね。見せて」

 のそりと起き上がるのを待ちきれないとでもいうように、まだベッドにいるのに智はキャンドルを差し出して来た。
 きれいなペールブルーの円柱部分は楚々としていて、表面がきらきらとしている。それに僕は少し違和感を持った。

「あれ、円柱の所はソイワックスで作るって言ってなかった? これ、パームワックスでしょ。この光沢、ソイじゃ出ない」
「ああ、そうなんだ。なんかこう、雨粒できらきらするようなイメージにした方が喜ぶんじゃないかと思って、一から作り直したんだ。たしか、宝石とかも好きだから、俺の母親」
「……そっか」

 どこまでも、母親のことを思って作られたキャンドルは、見事と言うに相応しかった。これほど美しい作品は、智の作品群の中にも見当たらない。
 これなら僕がかつて『人でなしの嘘吐き』と思った女も、喜ぶんじゃないかと。そう思った。

「すぐに送っちゃう? それとも、ちょっとショップ休んで帰ってみる? 実家、こっち来て以来ずっと戻ってないだろ」
「……帰らない。けど、俺が送るよ。早音、ショップカード何処」
「机の下の引き出し。三段目」

 そうして、僕の担当である今日の発送分と合わせて、ふたりで郵便局へ向かおうとしたときだった。智のスマートフォンが鳴った。画面を見ると、智の母親の名前、つまり『阪本紫陽子』と表示されていた。

「タイミングいいな。今から送るって言っとこ」

 そうしてちょっと笑ってスマートフォンを耳に当てた智が「久しぶり、今キャンドルできたところだ」と言った次に、スピーカーから漏れ聞こえてきた声は、女性のものではなかった。

「え? はい、そうですけど……そう、息子です。何が……は? 何だそれ、ちょっと待てよ」

 智の声が荒くなって、それから顔色が真っ青になった。フローリングにスマートフォンを取り落とす。がんっ、という音。スピーカーは相変わらず男の声が鳴っている。

「智、どうしたの」

 それに答えない智は、顔色をなくして動かないので、僕が代わりに電話に出た。

「もしもし、智の友人ですが。智が出られない状態なので代わりに話を聞きます」
「ご友人さんですか。申し訳ありません、こちらでは智さんに直接でないとお伝えできない決まりなんです。ご親族の方でないと」
「親族?」

 智の親族、とは、今や母親だけだ。
 それに親族だけって、余程のことでもない限り、そんな指定はないだろう。
 ひとつ、嫌な推測が立つ。

「分かりました。一つだけ教えてください。そちらは何処かの病院でしょうか」
「いえ。○○町役場です」
「ありがとうございました。ちょっと智を説得します、お待ちください」

 僕の推測はおそらく完全に当たっている。
 智のスマートフォンを消音にして、智の肩を揺さぶる。

「智。智、しっかりして。君の母親に何かあったの」
「……さね。さね、何か、あいつ、死んだって」
「そう。どうして亡くなったの」
「分か、んね……何か言ってたけど、全然頭に入らなくて」

 想像通りだった。
 彼女が重大な病気を患っていたという話は聞いていない。事故死か、急性疾患だろう。それをはっきりさせるために、僕は震える智を抱き締めて「一緒に聞くからしっかりして」と囁く。

「早音、俺、俺は」
「大丈夫。僕がいる。今ちゃんとしないと、智が後悔するよ」

 何が、『僕がいる』だ。
 僕なんて、何者でもない、何の頼りにもならない底辺なのに。
 でもきっと、こういうときには、独りで聞くよりましだろう。だから、智のスマートフォンのスピーカーボタンを押して、それから智の手を握って発声を促した。
 
「……取り乱して、すいません。阪本紫陽子の息子です。何が、あったんですか」
「ご心中お察しします。もう一度、最初からお伝えします。阪本紫陽子さんが、お勤め先の店で亡くなっているのが、警察によって発見されました。検視の結果、くも膜下出血による病死と認定されまして」
「くも膜下……?」

 智が不思議そうにするので、僕は「脳の動脈にこぶができていて、それが破裂したってこと」と僕は付け加える。智の手がとても冷たくなる。生々しい、それこそ頭から血がなくなってしまうような感覚のする、死因だ。

「血管に瘤なんて、あいつ、言ってなかった……」
「そうでしょう。かかりつけ医もなかったようですから、ご本人もお気づきでなかったのでしょう。死亡推定時刻も早朝ですから、眠っている間にお亡くなりになったものと」
「そんな……」

 冷たい手から力が抜ける。僕は一生懸命に握り直してやる。智は身体にも力が入っていないから、今にも倒れてしまいそうだ。だが、町役場の職員が放った次の言葉で、智は身を固くした。

「ご遺体の確認とお引き取りにいらしてください。今、お住まいはどちらに」

 智が抱き締める僕をも突き飛ばす。スマートフォンに向けて怒鳴りつける。

「何で俺があいつの引き取りなんてしなきゃならないんだよ! あいつ、俺をマトモに育てもしなかったくせに、何で死んでまで俺を苦しめるんだ」

 そしてそのまま、サンダルを突っかけて走って逃げ出してしまった。
 僕は。
 少し迷ったが僕は、智を追わなかった。
 智は、苦しみも悩みもするだろうが、ここしか帰ってこられる場所がない。本当の意味で、そうなってしまったのだ。
 だから、気が少し晴れるまでは一人にしてやりたい。僕が拙い言葉で慰めるのは、いつだってできる。
 智を呼び続けるスマートフォンのスピーカー。それに僕は応答して、智の父の名を出した。母親の連絡先に智の父が入っていないかと。

「智はおそらく引き受けをしないと思います。智の父親なら、紫陽子さんの親戚関係も知っているかもしれませんから、先にそちらへ問い合わせてください」
「……分かりました。智さんが戻られたらご連絡ください」

 やっと静かになった部屋。
 僕は、ここで智を待つ。
 智の居場所であるここで、智の母親の代わりに。

    *

 智は結局遺体の引き取りもしなかったし、それどころか、母親の兄だというひとが喪主になって執り行われた葬式にも、出なかった。
 智の手元にはまだ、あのペールブルーのキャンドルがある。
 智が母親に教えてもらった、キャンドルというもの。
 そして、彼女のために手塩に掛けて作った、キャンドルが。
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