19 / 105
2巻
2-2
しおりを挟む
私たちは手を繋いだまま、いつも二人で過ごす薔薇園近くのテーブルセットに横並びで座っていた。
シルウィオを見つめると、彼は照れたように視線を逸らす。
「カティ」
「ん? どうしたの?」
「これを」
緊張した面持ちの彼が渡してきたのは髪留め――深紅の宝石が輝く、色鮮やかなリボンだった。
「これ、くれるの?」
「拾っ……いや、カティのために買ってきた」
前は照れ隠しで濁していたのに、今では正直に言ってくれるようになった事に成長を感じ、微笑ましく思う。
私は農作業のためにくくっていた髪を一度ほどくと、受け取った髪留めでまとめ直した。
「どう……かな?」
「……」
「ちゃんと言って、シルウィオ」
「綺麗だ。誰にも……渡したくない」
「ありがとう、シルウィオ……私も大好きだよ」
「っ‼」
一ヶ月前に病に倒れた時は、シルウィオに多くの心配をかけてしまった。
だから先程のブルックス伯爵の言葉で、少し心臓が跳ねたのを思い出す。
『お飾りの妃』として私を求めた以前までのシルウィオであれば、病弱な妃には価値がないと思うかも。
そんな不安もあったけど、シルウィオは私を気遣い、今も優しく抱きしめてくれる。
それが……それがたまらなく安心できて、嬉しいんだ。
「カティ……」
「どうしたの?」
「好きだ」
緊張したように、私の手をギュッと握ってくるシルウィオの言葉を聞いて思わず微笑む。
私が言おうとしていたのに、彼が先に言ってくれたみたいだ。
「うん……私も大好きですよ」
私がシルウィオの手を握り返すと、彼も小さく微笑んだ。
私にだけに見せてくれる笑みを浮かべ、優しい紅の瞳を向ける。
「……嬉しい」
そう呟き、まるで子犬のように肩を寄せてくる彼に心が惹かれる。
鼓動は大きく高鳴るけど、二人で過ごす時間はほわほわとした雰囲気で心地よく過ぎていく。
彼の皇后になれて、改めて幸せだと思い知らされたみたいだ。
第二章 認められなくとも、私が皇后です
満月の月明かりが窓から差し込み、廊下を照らす。
静けさを感じる城内を私はシルウィオと共に歩み、彼の部屋へ向かっていた。
「足元は、大丈夫か」
「う……うん」
昼間もずっと一緒なのに、夜になるとどうして緊張してしまうのだろうか。
照れや緊張を感じている間に、すぐに部屋に辿り着く。
シルウィオの部屋は燭台がほのかに灯るだけで、少し薄暗くて、私たちは自然と寝台に寄り添って座った。
「カティ……手」
「……うん。シルウィオ」
いつも通りにシルウィオは私の手を握り、そっと指を撫でた後に優しいキスをくれた。
「ん……」
「カティ……」
「シルウィオ、明日は早いのでしょう? 寝ないと」
「もっと、こうしていたい」
彼はどうやら、二人の時間を長く過ごしたいらしい。
望み通り手を繋ぎながら話をして時間を過ごすうちに、すっかり夜は更けてくる。
「そろそろ、寝ようか。シルウィオ」
「……」
ふいに、優しく肩を押されて私は寝台へと倒れる。
何人も寝られそうな広い寝台だけど、私の隣……すぐ近くにシルウィオは横になった。
「また、明日」
「ふふ、そうですね。また明日」
そのまま、彼は羽毛の布団をかけてくれて、温かな感覚に包まれた私を眠気が襲う。
燭台の火が消されて、視界は暗闇で覆われた。
「……」
沈黙の中、ゆっくり瞳を閉じようとした時だった。
「カティ……」
「ん? どうしました?」
「……こっちに来い」
シルウィオが私に声をかけ、手を引いて身を寄せた。
月明かりの差し込むほの暗い部屋の中で、彼の深紅の瞳は鮮明に見えた。
少し緊張した面持ちなのが、近くだとよく分かった。
「今日はこれで寝る……いいな」
「いいよ。シルウィオ……」
「ん」
私は抱きしめられた勢いに任せて、シルウィオへと口付けをした。
そうすれば、彼は嬉しそうにもっと強く抱きしめてくれるから。
「ふふ、こうして寝るのは初めてですね」
「……」
「ちょっと、緊張します」
「そう、だな」
彼の胸に顔をうずめれば、ドクドクと大きな鼓動が聞こえてくる。
どれだけ緊張しているのかを感じて、私は思わず笑ってしまった。
やっぱり、緊張していたのは私だけでないみたいだ。
それが嬉しい。
「寝られますか?」
「……カティと一緒なら寝なくてもいい」
「それはだめ、ほら目を閉じて」
彼に抱きしめられながら、私も目を閉じる。
お互いの鼓動はやがて収まっていき、心地よい沈黙が部屋に広がりはじめた。
シルウィオは疲れもあったのか、少しずつ呼吸が深くなり、寝息へと変わっていく。
「……」
こうして共に寝ていると、改めて私たちは夫婦なのだと実感が湧く。
いずれ夜伽の時は、来るのだろうか。
そ、それまでに、こうして共に寝るぐらいの事には慣れておかないと。
シルウィオとの子ども……考え始めれば、少しの不安が胸に宿る。
『つい一ヶ月前まで死に瀕していたというではありませんか! 未来の御子を産む身体が病弱などあってはならないのです』
ブルックス伯爵が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
やっていた行為は最低最悪だけど、あの言葉にドキリとした自分がいたのは事実だ。
病魔に侵された私は、子を宿して無事でいられるのか。
(私で……大丈夫なのだろうか……)
前回の人生では望めなかった幸せ。
経験のない不安を抱えながら、私は眠りの世界へと落ちていった。
◇◇◇
好きな人と寝るのは思った以上によく眠れるようだ。
翌日は目覚めが良く、私はいつも通りに庭園で畑作業をしていた。
シルウィオは政務中だが、その間は護衛騎士のグレインが傍に控えてくれている。
何かがあってはならないため、帝国最強の騎士であるグレインを私の護衛にと、シルウィオが判断してくれていた。
「カーティア様、今日も畑作業ですか」
「はい、ジェラルド様に頼んで堆肥を持ってきてもらいましたから。これを撒きます」
畑の近くに山のように積もった堆肥は畑の肥料であり、家畜の糞などを発酵させた物だ。
臭いは少しキツイけど、畑の実りは格段に良くなるようで、今から期待が膨らむ。
「懐かしいですね。俺の実家の周りも……この堆肥の匂いがしていましたよ。臭いので兄弟が泣くんですよね」
「グレインは平民生まれだったのですよね。なら畑作業などは慣れているの?」
「いえ、幼い頃にジェラルド様に剣の腕を見込まれて家を出たので……農作業なんかはなにも知りません。なので俺も農作業を手伝っていいですか? ちょっと経験してみたいです!」
私はグレインと共に、そんな世間話をしながら畑作業をしていく。
彼は護衛騎士ではあるが、明るくて、まるで犬のような愛嬌があるから接しやすい。
そのため彼が護衛してくれている際などは、こうして気さくに会話したりする仲だ。
「コッコさん。俺に堆肥かけないでください!」
帝国で最も剣の腕が立つグレインが、畑の周りを飛び跳ねるコッコちゃんが巻き上げる堆肥から逃げている。
そんな情けない姿を見て、皇帝の懐刀である彼の実力を怪しんだ事も、実は少しだけあった。
しかし、彼が剣を振るう時の真剣な様子を知る今は、護衛としてとても信頼を置いている。
「さて、グレイン。畑を耕すのを手伝ってくれる? 今日中に終わらせたいの」
「もちろんです! やりましょう!」
皇后らしくないだろうが、土にまみれて一通り畑を耕していく。
以前に使用人が喜んでくれた声を思い出して、次はなにを植えようかとやる気がみなぎる。
趣味程度に始めた菜園だけど、やってみれば案外楽しいものだ。
なんて……思っていた時だった。
「カーティア様、少しお下がりください」
ポツリとグレインが小さく告げ、私はクワを持っていた手を止める。
どうしたのかと振り返れば、グレインは腰に差した剣の柄に手を当てていた。
彼が鋭い目で見つめる先には、こちらへ悠然と近づく豪奢なドレスを着た女性の姿があった。
この城の庭園には、許可なく立ち入れはしないはずなのに……
「そこの令嬢。近づく前に名前を……許可なく我らが帝国の皇后様に近づくな」
グレインの諌めるような言葉を受けて、その女性はピタリと立ち止まる。
近づいて分かったが、女性は人形のように華やかな顔立ちをしていた。
アメジストのような紫の瞳に笑みを添え、蒼色の髪をなびかせてカーテシーをする。
「失礼いたしました。まさか、貴方がカーティア皇后様だったなんて」
その女性は、こちらをはっきりと見つめながらクスクスと笑った。
――瞬間、グレインがその女性の眼前に詰め寄り、冷たい瞳で問いかけた。
「名を言え……皇后様の御前だと分からないか?」
「あまりに皇后様らしからぬ振る舞いをしていた方でしたから……私はマーガレットと申します。お見知りおきください」
名乗られたけれど、分からない事ばかりで困ってしまうわね。
「あの……誰でしょうか? この庭園にどうやって入って……」
「父に頼み、無理を言って入れてもらったのです。どうしても皇后様にお会いしたかったから」
「私に?」
「ええ。私はバジルア公爵家の娘ですの。ここまで言えば分かるかしら?」
バジルア公爵家の名に心当たりはあった。
しかし今はそれより……凄く気になる事があった。
「どうでもいいけど、畑に足を置かないでくださる? せっかく耕したのに」
「た、耕した⁉ なにを言って……まぁ、いいわ。私はただ貴方を呼ぶために来ただけだもの」
私を呼びに来たとは、どういう事だろうか。
疑問を抱く私に、マーガレットは薄い笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
「貴方に来てほしい所があって、父に無理を言って庭園に入らせてもらったの。私についてきてくれないかしら? 我が公爵家とも友好的なお話をするのは、皇后として有益でしてよ」
「え、嫌です。畑作業が残っていますから」
きっぱり断れば、彼女は戸惑いながら私を見つめる。
「……は? 公爵家より畑が優先とでも言う気なの? なにを言って――」
「皇后様はお断りするとおっしゃっているので、お引き取り願えますか」
そうそう、グレイン、追い払ってちょうだい。
なんだか知らないけれど、突然やってきた令嬢にホイホイついていく程に暇ではないのよ。
こっちは庭園での作業に忙しいのだから!
「本当にいいのかしら? 私の父は今、シルウィオ陛下に謁見していますの。その場にカーティア皇后様も来てくださらないと、後で後悔するのでは?」
なにやら引っかかる物言いに、私は首を傾げる。
「どうして貴方の父とシルウィオの謁見に、私がいる必要が?」
「それはもちろん……きっと今頃、貴方が皇后に相応しくないと父が忠言しておりますもの」
「はい?」
「あらあら、二度も言わないと分からないのかしら。その土にまみれた身なりの貴方を見て、私は確信を抱きましたわ……貴方は皇帝陛下の伴侶に相応しくないとね?」
私を挑発して、怒りを誘っている?
いや、この口調や嘲笑は本気で言っているようね。いい度胸じゃない。
私は初めてマーガレットへと向き直った。
「それで、私を謁見に呼んでどうする気なの? それだけ馬鹿にしながら呼びつけるなんて」
「もちろん、陛下の前で見比べてもらうの。どちらが皇后に相応しいのかを、改めてね」
「……は?」
思わず、すっとんきょうな声を上げてしまう。
この人は何を言っているの?
「陛下はきっと、貴方で我慢しておられるわ。本心では他国の女性でなく、帝国生まれの純血の貴族を妃として迎えたかったはず」
あぁ駄目だ、恐らくこの令嬢は典型的な〝お貴族様〟タイプだ。
私の故郷であるグラナート王国にも腐る程にいた、貴族令嬢として甘やかされて育ったお嬢様。
無礼である自覚もなく、自らの主観にもとづいて傲慢な主張をしているのだろうな。
「陛下は少し怖い方でしたので、相手がおらず。貴方しか迎えられなかったのでしょう」
ほらきた、不敬だなんて自覚もない煽り。
虚飾にまみれて生きる令嬢の、根拠なき自信からの言説には呆れてしまうわね。
「私も以前のシルウィオ様が怖くて逃げてしまった身ですが……以前に貴方の傍で、優しく振る舞っておられたのを見て、今の陛下となら安心して添い遂げられそうだと思えたのです」
「そう、謁見の場に行く前に聞いておくわ……貴方はなにを要求しようというの?」
「陛下のため、皇后を譲ってくださらない? 土にまみれた貴方より、陛下は美しい帝国公爵家の私を娶りたいはず、なによりもそれが国益のためとなるの」
国益……ね。
本当に呆れてしまうわ、自分自身の立場を客観視できない令嬢をたくさん見てきたけど、彼女も同じね。
私はマーガレットの傲慢さを鼻で笑ってしまった。
「な、なにがおかしいのよ」
「無知とは幸せだと思ったのよ。くっだらない虚飾の中で生きていて、不幸にすら思うわ」
「はい? 馬鹿にしているのかしら? 私は帝国でも由緒正しき家系であるバジルア公爵家の令嬢なのよ? いくら貴方が皇后とはいえ、公爵家との仲を軽視していいわけが……」
「情けないわね……自分の家のことも知らないなんて」
「は?」
意味が分からないと首を傾げているマーガレットだけど、まぁ無理もないわね。
私は皇后としての責務を分かっており、有事の際に備えて帝国貴族の事情は調べている。
ジェラルド様の情報網もあるおかげで、彼女が誇っているバジルア公爵家の今の立場が危うい事も知っているのよね。
「バジルア公爵家の当主様は、シルウィオが皇帝に即位する前まで宰相を任せられていたとお聞きしております。確かに素晴らしい貴族家ね」
「え、えぇ、そうよ。私のお父様は現陛下が即位するまで宰相を立派に務めていた方ですの。帝国貴族の中でも一目置かれている存在なのよ。貴方が先程私を馬鹿にした言葉が許されると思って?」
自信に溢れて、勝利を確信して微笑むマーガレットだけど、やはり知らないのね。
「ここ数年、そのバジルア公爵家が支持を失い始めているのは気付いていないの?」
「……は? そ、そんなはずが……」
「貴方の父上は、かつて確かに宰相を務めておられましたが……その役職を下りるキッカケを皆が知り始めているのよ」
「キッカケ?」
なにも知らぬお嬢様……いや、彼女の父親はわざと聞かせていないのだろう。
自らの不手際を、娘に教える父親などいないのだから。
「宰相を務めていた際に、皇位継承者同士が争うのを止められなかった。その責任は重いと他の貴族も知り始めているの。貴方が思う以上に、バジルア公爵家の現在の立場は危ういでしょうね?」
「う……嘘よ。父は私にそんなこと一言も」
「そんな事も父に聞かねば分からないの? どうやら貴方って皇后どころか、公爵令嬢としてもお粗末のようね」
「ちが、わ……私にそんな侮辱を吐いて……」
「あら怖い。でもこれで理解できたでしょ、さっさと去って」
「わ、我がバジルア公爵家を侮った態度、いくら皇后でも見過ごせないわ! 父から貴方に厳重抗議をいたし――」
そんな言葉を吐きながら、顔を赤くしたマーガレットが前へ一歩踏み出す。
彼女の足先を見つめた私は――
「なに畑を踏み荒らしているの? いくら無知といえど許せない事があるわよ」
「なっ⁉」
この令嬢、神経を逆なでする言葉ばかりではなく、なんとせっかく整えた畑をまた踏み荒らしたのだ。
なんて非常識、なんて無礼なの!
「あの……カーティア様。皇后の立場を譲れと言われた事よりも畑を荒らされて怒るのは、基準が間違っているような気もしますよ」
グレインが苦笑しながらも、私に迫っていたマーガレットの手首を掴み上げた。
「とはいえ、我らが帝国の華が大切にされている菜園を踏み荒らしたのです。これ以上の狼藉は認められない」
「ぐっ、は、放してよ!」
グレインに捕らえられたマーガレットは抵抗し、腕を振り上げて身をよじる。グレインは令嬢を本気で拘束していたわけではないため、すぐに手を離した。
だが不幸な事に、その際にバランスを崩した彼女はなんと……
積み上げていた堆肥の上にダイブする形で、転んでしまったのだ。
「あ……」
「え……」
ここで堆肥について詳しく説明しよう!
牛糞などを発酵させて作る堆肥は、農産物を育てるための栄養として非常に優秀なの。
でもね、さっきもグレインと話していたけど、それはほんのりと臭くて……
「きゃぁぁぁ‼ なによ! なにこの臭い!」
とても貴族令嬢が嗅いだ事はない臭いだろうから、転んでドレスに堆肥が付着したマーガレットは悲鳴を上げる。
もう滑稽な喜劇のようで、その姿に呆れながらも……
そう、いい事を思いついてしまったの。
「落ち着きなさい、マーガレット」
「これが落ち着いていられるというの⁉ こ、これってふ、糞でしょ? 私の身体に糞が!」
「そんな事より、私も考えを改めたの。先程のシルウィオとの謁見に同席する話。引き受けるわ」
「え……いま、今さらなにを言って?」
「貴方が言ったのでしょ? 見比べてもらうってね。さぁ行きますよ」
マーガレットはぽかんとこちらを見てから、自らの汚れたドレスに数秒間視線を落とす。
そして私の思惑に気付いたのか、顔を紅潮させて首を横に振った。
「こ、こんな姿でなんてい、嫌よ! 無理、無理に決まっているじゃないの」
「そうは言っても貴方が言い出した事でしょう。グレイン……悪いけれど連行してもらえる?」
「承知いたしました! 連れていきます!」
グレインも私の思惑を理解しているのか、意気揚々とマーガレットの手を掴んだ。
彼女はいまさら懇願するように、私へ向き直る。
「あ……あの。私も言いすぎたわ、だからどうか今日は謁見の間に行くのは止めましょう? こんな姿で皇帝陛下の前になんて立てないわ」
「貴方が先程言った通り、畑作業をして土にまみれた私と同じ条件でしょう?」
「っ⁉ でもこのままじゃ、シルウィオ陛下に選んでいただいた時に……抱きつけないわ」
いや、まだ理解できてないのか。この人は……
「……言っておくけど、堆肥に汚れていなくとも結果は変わらないわよ」
「は? なにを根拠に言っているの。由緒正しき公爵家を取り入れるのは政略的に見ても――」
「貴方たちはシルウィオを恐れるあまり、知ろうともしなかったのね。あの人は……そんな些事で判断を変えないわよ」
本当になにも知らないのね。
シルウィオの心境と、彼を侮った末にどのような結果となるかを……
◇◇◇
マーガレットの話では、既に彼女の父とシルウィオは謁見をしているはずだった。
しかし玉座の間に辿り着くと、ジェラルド様と見知らぬ男性が大扉の前に立っていた。まだ謁見は始まっていないらしい。
「カーティア様? どうしてここに?」
「ジェラルド様、庭園に見知らぬ女性が現れて意味不明な事を言うので身柄を引き渡しにまいりましたよ! シルウィオにお伝えください」
「い、意味不明だなんて! 私に向かってなんて言葉を――」
「黙れ、貴方こそ我らが皇后に向かって無礼な口をきくな」
私に向かって温和な笑みを浮かべていたジェラルド様が、マーガレットに対して鋭く言葉を告げたことで、その場の雰囲気が張り詰めた。
まさに一喝と言っていい、威厳あるぴしゃりとした声だった。
「あ……わ、私……ちがうの」
どうやらまた言い訳の言葉を吐こうとしていたマーガレットだけど……
ジェラルド様と共に立っていた見知らぬ男性が彼女の身を引き、口を挟んだ。
「カーティア皇后、お初にお目にかかります。バジルア公爵家の当主を務めております。ヴォーレン・バジルアと申します。此度は我が娘がとんだ無礼を……」
「貴方がマーガレットの父ですね」
「どうぞ、ヴォーレンと気軽にお呼びください」
ヴォーレン・バジルアと名乗ったのは、初老に差し掛かった男性だ。
綺麗に整えた髪には白髪が交じり、深いしわが刻まれた顔には余裕そうな笑みを浮かべている。
マーガレットが先も誇っていた通り、彼はシルウィオが皇帝に即位するまで宰相であった。
しかし、当時激しさを増す皇位継承争いを止めずに放置した事で、その立場を追われている。
過去を知るからこそ警戒して見つめるが、彼はにこやかに礼をする。
「いと気高き皇帝陛下を敬称もなく呼ぶ姿。紛れもなく皇后様であられる。我らが皇帝陛下に大切になされる存在ができたこと、大変喜ばしく思います」
「挨拶は必要ありません。マーガレットから貴方は既にシルウィオと謁見をしていると聞いていたけれど、玉座の間の前でいったいなにを?」
「もちろん、貴方をお待ちしておりました。陛下と謁見するためにもです」
「……どういうこと」
シルウィオを見つめると、彼は照れたように視線を逸らす。
「カティ」
「ん? どうしたの?」
「これを」
緊張した面持ちの彼が渡してきたのは髪留め――深紅の宝石が輝く、色鮮やかなリボンだった。
「これ、くれるの?」
「拾っ……いや、カティのために買ってきた」
前は照れ隠しで濁していたのに、今では正直に言ってくれるようになった事に成長を感じ、微笑ましく思う。
私は農作業のためにくくっていた髪を一度ほどくと、受け取った髪留めでまとめ直した。
「どう……かな?」
「……」
「ちゃんと言って、シルウィオ」
「綺麗だ。誰にも……渡したくない」
「ありがとう、シルウィオ……私も大好きだよ」
「っ‼」
一ヶ月前に病に倒れた時は、シルウィオに多くの心配をかけてしまった。
だから先程のブルックス伯爵の言葉で、少し心臓が跳ねたのを思い出す。
『お飾りの妃』として私を求めた以前までのシルウィオであれば、病弱な妃には価値がないと思うかも。
そんな不安もあったけど、シルウィオは私を気遣い、今も優しく抱きしめてくれる。
それが……それがたまらなく安心できて、嬉しいんだ。
「カティ……」
「どうしたの?」
「好きだ」
緊張したように、私の手をギュッと握ってくるシルウィオの言葉を聞いて思わず微笑む。
私が言おうとしていたのに、彼が先に言ってくれたみたいだ。
「うん……私も大好きですよ」
私がシルウィオの手を握り返すと、彼も小さく微笑んだ。
私にだけに見せてくれる笑みを浮かべ、優しい紅の瞳を向ける。
「……嬉しい」
そう呟き、まるで子犬のように肩を寄せてくる彼に心が惹かれる。
鼓動は大きく高鳴るけど、二人で過ごす時間はほわほわとした雰囲気で心地よく過ぎていく。
彼の皇后になれて、改めて幸せだと思い知らされたみたいだ。
第二章 認められなくとも、私が皇后です
満月の月明かりが窓から差し込み、廊下を照らす。
静けさを感じる城内を私はシルウィオと共に歩み、彼の部屋へ向かっていた。
「足元は、大丈夫か」
「う……うん」
昼間もずっと一緒なのに、夜になるとどうして緊張してしまうのだろうか。
照れや緊張を感じている間に、すぐに部屋に辿り着く。
シルウィオの部屋は燭台がほのかに灯るだけで、少し薄暗くて、私たちは自然と寝台に寄り添って座った。
「カティ……手」
「……うん。シルウィオ」
いつも通りにシルウィオは私の手を握り、そっと指を撫でた後に優しいキスをくれた。
「ん……」
「カティ……」
「シルウィオ、明日は早いのでしょう? 寝ないと」
「もっと、こうしていたい」
彼はどうやら、二人の時間を長く過ごしたいらしい。
望み通り手を繋ぎながら話をして時間を過ごすうちに、すっかり夜は更けてくる。
「そろそろ、寝ようか。シルウィオ」
「……」
ふいに、優しく肩を押されて私は寝台へと倒れる。
何人も寝られそうな広い寝台だけど、私の隣……すぐ近くにシルウィオは横になった。
「また、明日」
「ふふ、そうですね。また明日」
そのまま、彼は羽毛の布団をかけてくれて、温かな感覚に包まれた私を眠気が襲う。
燭台の火が消されて、視界は暗闇で覆われた。
「……」
沈黙の中、ゆっくり瞳を閉じようとした時だった。
「カティ……」
「ん? どうしました?」
「……こっちに来い」
シルウィオが私に声をかけ、手を引いて身を寄せた。
月明かりの差し込むほの暗い部屋の中で、彼の深紅の瞳は鮮明に見えた。
少し緊張した面持ちなのが、近くだとよく分かった。
「今日はこれで寝る……いいな」
「いいよ。シルウィオ……」
「ん」
私は抱きしめられた勢いに任せて、シルウィオへと口付けをした。
そうすれば、彼は嬉しそうにもっと強く抱きしめてくれるから。
「ふふ、こうして寝るのは初めてですね」
「……」
「ちょっと、緊張します」
「そう、だな」
彼の胸に顔をうずめれば、ドクドクと大きな鼓動が聞こえてくる。
どれだけ緊張しているのかを感じて、私は思わず笑ってしまった。
やっぱり、緊張していたのは私だけでないみたいだ。
それが嬉しい。
「寝られますか?」
「……カティと一緒なら寝なくてもいい」
「それはだめ、ほら目を閉じて」
彼に抱きしめられながら、私も目を閉じる。
お互いの鼓動はやがて収まっていき、心地よい沈黙が部屋に広がりはじめた。
シルウィオは疲れもあったのか、少しずつ呼吸が深くなり、寝息へと変わっていく。
「……」
こうして共に寝ていると、改めて私たちは夫婦なのだと実感が湧く。
いずれ夜伽の時は、来るのだろうか。
そ、それまでに、こうして共に寝るぐらいの事には慣れておかないと。
シルウィオとの子ども……考え始めれば、少しの不安が胸に宿る。
『つい一ヶ月前まで死に瀕していたというではありませんか! 未来の御子を産む身体が病弱などあってはならないのです』
ブルックス伯爵が言っていた言葉が脳裏をよぎる。
やっていた行為は最低最悪だけど、あの言葉にドキリとした自分がいたのは事実だ。
病魔に侵された私は、子を宿して無事でいられるのか。
(私で……大丈夫なのだろうか……)
前回の人生では望めなかった幸せ。
経験のない不安を抱えながら、私は眠りの世界へと落ちていった。
◇◇◇
好きな人と寝るのは思った以上によく眠れるようだ。
翌日は目覚めが良く、私はいつも通りに庭園で畑作業をしていた。
シルウィオは政務中だが、その間は護衛騎士のグレインが傍に控えてくれている。
何かがあってはならないため、帝国最強の騎士であるグレインを私の護衛にと、シルウィオが判断してくれていた。
「カーティア様、今日も畑作業ですか」
「はい、ジェラルド様に頼んで堆肥を持ってきてもらいましたから。これを撒きます」
畑の近くに山のように積もった堆肥は畑の肥料であり、家畜の糞などを発酵させた物だ。
臭いは少しキツイけど、畑の実りは格段に良くなるようで、今から期待が膨らむ。
「懐かしいですね。俺の実家の周りも……この堆肥の匂いがしていましたよ。臭いので兄弟が泣くんですよね」
「グレインは平民生まれだったのですよね。なら畑作業などは慣れているの?」
「いえ、幼い頃にジェラルド様に剣の腕を見込まれて家を出たので……農作業なんかはなにも知りません。なので俺も農作業を手伝っていいですか? ちょっと経験してみたいです!」
私はグレインと共に、そんな世間話をしながら畑作業をしていく。
彼は護衛騎士ではあるが、明るくて、まるで犬のような愛嬌があるから接しやすい。
そのため彼が護衛してくれている際などは、こうして気さくに会話したりする仲だ。
「コッコさん。俺に堆肥かけないでください!」
帝国で最も剣の腕が立つグレインが、畑の周りを飛び跳ねるコッコちゃんが巻き上げる堆肥から逃げている。
そんな情けない姿を見て、皇帝の懐刀である彼の実力を怪しんだ事も、実は少しだけあった。
しかし、彼が剣を振るう時の真剣な様子を知る今は、護衛としてとても信頼を置いている。
「さて、グレイン。畑を耕すのを手伝ってくれる? 今日中に終わらせたいの」
「もちろんです! やりましょう!」
皇后らしくないだろうが、土にまみれて一通り畑を耕していく。
以前に使用人が喜んでくれた声を思い出して、次はなにを植えようかとやる気がみなぎる。
趣味程度に始めた菜園だけど、やってみれば案外楽しいものだ。
なんて……思っていた時だった。
「カーティア様、少しお下がりください」
ポツリとグレインが小さく告げ、私はクワを持っていた手を止める。
どうしたのかと振り返れば、グレインは腰に差した剣の柄に手を当てていた。
彼が鋭い目で見つめる先には、こちらへ悠然と近づく豪奢なドレスを着た女性の姿があった。
この城の庭園には、許可なく立ち入れはしないはずなのに……
「そこの令嬢。近づく前に名前を……許可なく我らが帝国の皇后様に近づくな」
グレインの諌めるような言葉を受けて、その女性はピタリと立ち止まる。
近づいて分かったが、女性は人形のように華やかな顔立ちをしていた。
アメジストのような紫の瞳に笑みを添え、蒼色の髪をなびかせてカーテシーをする。
「失礼いたしました。まさか、貴方がカーティア皇后様だったなんて」
その女性は、こちらをはっきりと見つめながらクスクスと笑った。
――瞬間、グレインがその女性の眼前に詰め寄り、冷たい瞳で問いかけた。
「名を言え……皇后様の御前だと分からないか?」
「あまりに皇后様らしからぬ振る舞いをしていた方でしたから……私はマーガレットと申します。お見知りおきください」
名乗られたけれど、分からない事ばかりで困ってしまうわね。
「あの……誰でしょうか? この庭園にどうやって入って……」
「父に頼み、無理を言って入れてもらったのです。どうしても皇后様にお会いしたかったから」
「私に?」
「ええ。私はバジルア公爵家の娘ですの。ここまで言えば分かるかしら?」
バジルア公爵家の名に心当たりはあった。
しかし今はそれより……凄く気になる事があった。
「どうでもいいけど、畑に足を置かないでくださる? せっかく耕したのに」
「た、耕した⁉ なにを言って……まぁ、いいわ。私はただ貴方を呼ぶために来ただけだもの」
私を呼びに来たとは、どういう事だろうか。
疑問を抱く私に、マーガレットは薄い笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。
「貴方に来てほしい所があって、父に無理を言って庭園に入らせてもらったの。私についてきてくれないかしら? 我が公爵家とも友好的なお話をするのは、皇后として有益でしてよ」
「え、嫌です。畑作業が残っていますから」
きっぱり断れば、彼女は戸惑いながら私を見つめる。
「……は? 公爵家より畑が優先とでも言う気なの? なにを言って――」
「皇后様はお断りするとおっしゃっているので、お引き取り願えますか」
そうそう、グレイン、追い払ってちょうだい。
なんだか知らないけれど、突然やってきた令嬢にホイホイついていく程に暇ではないのよ。
こっちは庭園での作業に忙しいのだから!
「本当にいいのかしら? 私の父は今、シルウィオ陛下に謁見していますの。その場にカーティア皇后様も来てくださらないと、後で後悔するのでは?」
なにやら引っかかる物言いに、私は首を傾げる。
「どうして貴方の父とシルウィオの謁見に、私がいる必要が?」
「それはもちろん……きっと今頃、貴方が皇后に相応しくないと父が忠言しておりますもの」
「はい?」
「あらあら、二度も言わないと分からないのかしら。その土にまみれた身なりの貴方を見て、私は確信を抱きましたわ……貴方は皇帝陛下の伴侶に相応しくないとね?」
私を挑発して、怒りを誘っている?
いや、この口調や嘲笑は本気で言っているようね。いい度胸じゃない。
私は初めてマーガレットへと向き直った。
「それで、私を謁見に呼んでどうする気なの? それだけ馬鹿にしながら呼びつけるなんて」
「もちろん、陛下の前で見比べてもらうの。どちらが皇后に相応しいのかを、改めてね」
「……は?」
思わず、すっとんきょうな声を上げてしまう。
この人は何を言っているの?
「陛下はきっと、貴方で我慢しておられるわ。本心では他国の女性でなく、帝国生まれの純血の貴族を妃として迎えたかったはず」
あぁ駄目だ、恐らくこの令嬢は典型的な〝お貴族様〟タイプだ。
私の故郷であるグラナート王国にも腐る程にいた、貴族令嬢として甘やかされて育ったお嬢様。
無礼である自覚もなく、自らの主観にもとづいて傲慢な主張をしているのだろうな。
「陛下は少し怖い方でしたので、相手がおらず。貴方しか迎えられなかったのでしょう」
ほらきた、不敬だなんて自覚もない煽り。
虚飾にまみれて生きる令嬢の、根拠なき自信からの言説には呆れてしまうわね。
「私も以前のシルウィオ様が怖くて逃げてしまった身ですが……以前に貴方の傍で、優しく振る舞っておられたのを見て、今の陛下となら安心して添い遂げられそうだと思えたのです」
「そう、謁見の場に行く前に聞いておくわ……貴方はなにを要求しようというの?」
「陛下のため、皇后を譲ってくださらない? 土にまみれた貴方より、陛下は美しい帝国公爵家の私を娶りたいはず、なによりもそれが国益のためとなるの」
国益……ね。
本当に呆れてしまうわ、自分自身の立場を客観視できない令嬢をたくさん見てきたけど、彼女も同じね。
私はマーガレットの傲慢さを鼻で笑ってしまった。
「な、なにがおかしいのよ」
「無知とは幸せだと思ったのよ。くっだらない虚飾の中で生きていて、不幸にすら思うわ」
「はい? 馬鹿にしているのかしら? 私は帝国でも由緒正しき家系であるバジルア公爵家の令嬢なのよ? いくら貴方が皇后とはいえ、公爵家との仲を軽視していいわけが……」
「情けないわね……自分の家のことも知らないなんて」
「は?」
意味が分からないと首を傾げているマーガレットだけど、まぁ無理もないわね。
私は皇后としての責務を分かっており、有事の際に備えて帝国貴族の事情は調べている。
ジェラルド様の情報網もあるおかげで、彼女が誇っているバジルア公爵家の今の立場が危うい事も知っているのよね。
「バジルア公爵家の当主様は、シルウィオが皇帝に即位する前まで宰相を任せられていたとお聞きしております。確かに素晴らしい貴族家ね」
「え、えぇ、そうよ。私のお父様は現陛下が即位するまで宰相を立派に務めていた方ですの。帝国貴族の中でも一目置かれている存在なのよ。貴方が先程私を馬鹿にした言葉が許されると思って?」
自信に溢れて、勝利を確信して微笑むマーガレットだけど、やはり知らないのね。
「ここ数年、そのバジルア公爵家が支持を失い始めているのは気付いていないの?」
「……は? そ、そんなはずが……」
「貴方の父上は、かつて確かに宰相を務めておられましたが……その役職を下りるキッカケを皆が知り始めているのよ」
「キッカケ?」
なにも知らぬお嬢様……いや、彼女の父親はわざと聞かせていないのだろう。
自らの不手際を、娘に教える父親などいないのだから。
「宰相を務めていた際に、皇位継承者同士が争うのを止められなかった。その責任は重いと他の貴族も知り始めているの。貴方が思う以上に、バジルア公爵家の現在の立場は危ういでしょうね?」
「う……嘘よ。父は私にそんなこと一言も」
「そんな事も父に聞かねば分からないの? どうやら貴方って皇后どころか、公爵令嬢としてもお粗末のようね」
「ちが、わ……私にそんな侮辱を吐いて……」
「あら怖い。でもこれで理解できたでしょ、さっさと去って」
「わ、我がバジルア公爵家を侮った態度、いくら皇后でも見過ごせないわ! 父から貴方に厳重抗議をいたし――」
そんな言葉を吐きながら、顔を赤くしたマーガレットが前へ一歩踏み出す。
彼女の足先を見つめた私は――
「なに畑を踏み荒らしているの? いくら無知といえど許せない事があるわよ」
「なっ⁉」
この令嬢、神経を逆なでする言葉ばかりではなく、なんとせっかく整えた畑をまた踏み荒らしたのだ。
なんて非常識、なんて無礼なの!
「あの……カーティア様。皇后の立場を譲れと言われた事よりも畑を荒らされて怒るのは、基準が間違っているような気もしますよ」
グレインが苦笑しながらも、私に迫っていたマーガレットの手首を掴み上げた。
「とはいえ、我らが帝国の華が大切にされている菜園を踏み荒らしたのです。これ以上の狼藉は認められない」
「ぐっ、は、放してよ!」
グレインに捕らえられたマーガレットは抵抗し、腕を振り上げて身をよじる。グレインは令嬢を本気で拘束していたわけではないため、すぐに手を離した。
だが不幸な事に、その際にバランスを崩した彼女はなんと……
積み上げていた堆肥の上にダイブする形で、転んでしまったのだ。
「あ……」
「え……」
ここで堆肥について詳しく説明しよう!
牛糞などを発酵させて作る堆肥は、農産物を育てるための栄養として非常に優秀なの。
でもね、さっきもグレインと話していたけど、それはほんのりと臭くて……
「きゃぁぁぁ‼ なによ! なにこの臭い!」
とても貴族令嬢が嗅いだ事はない臭いだろうから、転んでドレスに堆肥が付着したマーガレットは悲鳴を上げる。
もう滑稽な喜劇のようで、その姿に呆れながらも……
そう、いい事を思いついてしまったの。
「落ち着きなさい、マーガレット」
「これが落ち着いていられるというの⁉ こ、これってふ、糞でしょ? 私の身体に糞が!」
「そんな事より、私も考えを改めたの。先程のシルウィオとの謁見に同席する話。引き受けるわ」
「え……いま、今さらなにを言って?」
「貴方が言ったのでしょ? 見比べてもらうってね。さぁ行きますよ」
マーガレットはぽかんとこちらを見てから、自らの汚れたドレスに数秒間視線を落とす。
そして私の思惑に気付いたのか、顔を紅潮させて首を横に振った。
「こ、こんな姿でなんてい、嫌よ! 無理、無理に決まっているじゃないの」
「そうは言っても貴方が言い出した事でしょう。グレイン……悪いけれど連行してもらえる?」
「承知いたしました! 連れていきます!」
グレインも私の思惑を理解しているのか、意気揚々とマーガレットの手を掴んだ。
彼女はいまさら懇願するように、私へ向き直る。
「あ……あの。私も言いすぎたわ、だからどうか今日は謁見の間に行くのは止めましょう? こんな姿で皇帝陛下の前になんて立てないわ」
「貴方が先程言った通り、畑作業をして土にまみれた私と同じ条件でしょう?」
「っ⁉ でもこのままじゃ、シルウィオ陛下に選んでいただいた時に……抱きつけないわ」
いや、まだ理解できてないのか。この人は……
「……言っておくけど、堆肥に汚れていなくとも結果は変わらないわよ」
「は? なにを根拠に言っているの。由緒正しき公爵家を取り入れるのは政略的に見ても――」
「貴方たちはシルウィオを恐れるあまり、知ろうともしなかったのね。あの人は……そんな些事で判断を変えないわよ」
本当になにも知らないのね。
シルウィオの心境と、彼を侮った末にどのような結果となるかを……
◇◇◇
マーガレットの話では、既に彼女の父とシルウィオは謁見をしているはずだった。
しかし玉座の間に辿り着くと、ジェラルド様と見知らぬ男性が大扉の前に立っていた。まだ謁見は始まっていないらしい。
「カーティア様? どうしてここに?」
「ジェラルド様、庭園に見知らぬ女性が現れて意味不明な事を言うので身柄を引き渡しにまいりましたよ! シルウィオにお伝えください」
「い、意味不明だなんて! 私に向かってなんて言葉を――」
「黙れ、貴方こそ我らが皇后に向かって無礼な口をきくな」
私に向かって温和な笑みを浮かべていたジェラルド様が、マーガレットに対して鋭く言葉を告げたことで、その場の雰囲気が張り詰めた。
まさに一喝と言っていい、威厳あるぴしゃりとした声だった。
「あ……わ、私……ちがうの」
どうやらまた言い訳の言葉を吐こうとしていたマーガレットだけど……
ジェラルド様と共に立っていた見知らぬ男性が彼女の身を引き、口を挟んだ。
「カーティア皇后、お初にお目にかかります。バジルア公爵家の当主を務めております。ヴォーレン・バジルアと申します。此度は我が娘がとんだ無礼を……」
「貴方がマーガレットの父ですね」
「どうぞ、ヴォーレンと気軽にお呼びください」
ヴォーレン・バジルアと名乗ったのは、初老に差し掛かった男性だ。
綺麗に整えた髪には白髪が交じり、深いしわが刻まれた顔には余裕そうな笑みを浮かべている。
マーガレットが先も誇っていた通り、彼はシルウィオが皇帝に即位するまで宰相であった。
しかし、当時激しさを増す皇位継承争いを止めずに放置した事で、その立場を追われている。
過去を知るからこそ警戒して見つめるが、彼はにこやかに礼をする。
「いと気高き皇帝陛下を敬称もなく呼ぶ姿。紛れもなく皇后様であられる。我らが皇帝陛下に大切になされる存在ができたこと、大変喜ばしく思います」
「挨拶は必要ありません。マーガレットから貴方は既にシルウィオと謁見をしていると聞いていたけれど、玉座の間の前でいったいなにを?」
「もちろん、貴方をお待ちしておりました。陛下と謁見するためにもです」
「……どういうこと」
49
あなたにおすすめの小説
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
側妃は捨てられましたので
なか
恋愛
「この国に側妃など要らないのではないか?」
現王、ランドルフが呟いた言葉。
周囲の人間は内心に怒りを抱きつつ、聞き耳を立てる。
ランドルフは、彼のために人生を捧げて王妃となったクリスティーナ妃を側妃に変え。
別の女性を正妃として迎え入れた。
裏切りに近い行為は彼女の心を確かに傷付け、癒えてもいない内に廃妃にすると宣言したのだ。
あまりの横暴、人道を無視した非道な行い。
だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
それらの行為に……彼女の心が吹っ切れた。
屋敷を飛び出し、一人で生きていく事を選択した。
ただコソコソと身を隠すつもりはない。
私を軽んじて。
捨てた彼らに自身の価値を示すため。
捨てられたのは、どちらか……。
後悔するのはどちらかを示すために。
私が死んで満足ですか?
マチバリ
恋愛
王太子に婚約破棄を告げられた伯爵令嬢ロロナが死んだ。
ある者は面倒な婚約破棄の手続きをせずに済んだと安堵し、ある者はずっと欲しかった物が手に入ると喜んだ。
全てが上手くおさまると思っていた彼らだったが、ロロナの死が与えた影響はあまりに大きかった。
書籍化にともない本編を引き下げいたしました
夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。
Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。
そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。
そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。
これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。
(1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)
娼館で元夫と再会しました
無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。
しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。
連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。
「シーク様…」
どうして貴方がここに?
元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!
妹と旦那様に子供ができたので、離縁して隣国に嫁ぎます
冬月光輝
恋愛
私がベルモンド公爵家に嫁いで3年の間、夫婦に子供は出来ませんでした。
そんな中、夫のファルマンは裏切り行為を働きます。
しかも相手は妹のレナ。
最初は夫を叱っていた義両親でしたが、レナに子供が出来たと知ると私を責めだしました。
夫も婚約中から私からの愛は感じていないと口にしており、あの頃に婚約破棄していればと謝罪すらしません。
最後には、二人と子供の幸せを害する権利はないと言われて離縁させられてしまいます。
それからまもなくして、隣国の王子であるレオン殿下が我が家に現れました。
「約束どおり、私の妻になってもらうぞ」
確かにそんな約束をした覚えがあるような気がしますが、殿下はまだ5歳だったような……。
言われるがままに、隣国へ向かった私。
その頃になって、子供が出来ない理由は元旦那にあることが発覚して――。
ベルモンド公爵家ではひと悶着起こりそうらしいのですが、もう私には関係ありません。
※ざまぁパートは第16話〜です
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にレジーナの小説・漫画を1話以上レンタルしている
と、レジーナのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。