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2巻
2-3
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思わずジェラルド様を見つめるが、彼も分からぬというように首を横に振る。
「ヴォーレン、先程お話しした通り、シルウィオ陛下は貴殿との謁見を断っております」
「ええ、そうでしたね。ですが事情が変わりました。我が娘が皇后様に無礼を働いたのです。早急に謝罪をさせていただきたい。直接、お二人に謝罪せねばなるまい」
まさか……
マーガレットが私に無礼を働いた事を逆手に取って、その謝罪といった形をとってまでシルウィオと謁見しようというの⁉
どうやらこの公爵、とんだ食わせ者のようだ。
「謝罪が遅くなれば、より話がこじれてしまいます。それは帝国の治安を統括する……宰相のジェラルド様のご負担でもありましょう? 私も過去同じ立場にいたので分かりますよ」
「……御託をべらべらと並べるな。カーティア皇后様を利用して、陛下と謁見する気か?」
あぁ、やはり私以上にジェラルド様の方が思惑に気付いている。
そして私が利用された事に、本気で怒りを示してくれていた。
「利用とは人聞きが悪い。こちらは誠意ある謝罪がしたいだけで――」
「……なにを考えているか知らないが、謝罪の場を望んだのは貴方だ。それを理解して待たれよ」
マーガレット同様、ヴォーレンはシルウィオの事を知らなすぎる。
自分で言うのもなんだけれど、私に無礼を働いたことへの謝罪をするなど……どんな場になるか。
「カーティア様、申し訳ありませんが同席していただけないでしょうか。シルウィオ陛下もきっとお望みになられるでしょうから」
「はい、ジェラルド様。元は私が彼女に応えてしまったがゆえの結果。同席しない訳にはいきませんよね」
私とジェラルド様、そしてマーガレットを連行していたグレインも含め、三人は視線を合わせる。
皆が思う事はきっと一つだ。
きっと今日は大変だぞ……止められるだろうか。
満場一致のそんな考えと共に、シルウィオとヴォーレンとの謁見が準備された。
さて、早速始まったのはいいけれど……
「シルウィオ陛下、我が娘のマーガレットがカーティア皇后様へ働いた無礼をまずお詫びさせ――」
「黙れ、謝罪は必要ない。その女が……俺がカティのために用意した庭園に無断で立ち入ったのか?」
開口一番、シルウィオは謝罪を切り捨てた。その声は怒りに染まっている。
瞳は鋭く、今にも紅の瞳と同じ色の鮮血が玉座の間を汚しそうな勢いだ。
謝罪の対象である私は彼の玉座の隣に座っているが、この場をただ見守るだけだ。
ここからは皇帝陛下の意向のみが優先される。私の意見は必要ないだろう。
シルウィオなら分かってくれて、怒ってくれるだろうから。
「も……申し訳ありません。陛下、ですが今はこちらの謝罪をぜひお聞きください」
「そこの女。カティの庭園に無断で立ち入ったのは、相応の覚悟があってのことだろうな?」
「ひっ……お、お父様。聞いていた話と違うわよ」
「お、落ち着けマーガレット。まずは冷静に話し合う機会を陛下に求めて――」
「先程から、誰に許可を得て喋っている。お前……」
シルウィオが手を動かした途端、ヴォーレンの腰に差されていた剣が浮かび上がる。
これはシルウィオの魔法によるものだ。
魔力で浮かんだ剣の切っ先が、ヴォーレンの首先に紙一重の距離で突き付けられた。
「っ⁉」
「俺は今、カティのために用意した庭園を荒らした狼藉者に用がある」
謁見前は冷静だったヴォーレンも、今のシルウィオを見て驚きを隠せないでいる。
普段は無表情で感情を表さないシルウィオが、ここまで怒りを示すと思っていなかったのだろう。
きっと後悔しているだろうな、だからジェラルド様も釘を刺していたのに……
「ご、ごめんなさい……私の方が、カーティア皇后様よりも相応しいと思って」
圧倒されている父の隣で、娘のマーガレットが空気を読まずに、場違いな言葉を吐く。
私はこの先の展開を思って項垂れてしまった。
あぁ、ヴォーレン。貴方はなにかを企てるよりも前にまず、娘の手綱をよく引いておくべきだった。
今ここで「皇后に相応しいのは自分だ」なんて言葉が、どれだけシルウィオの神経を逆なでするか。
「ひっ! きゃあぁぁ!」と悲鳴が聞こえるが、もう見るのが怖い。
仕方なく視線を上げれば、マーガレットの美しい髪がバッサリと切り落とされていた。
シルウィオは無表情のまま、冷酷な瞳を彼女へと向ける。
「……黙っていろ。誰がカティより皇后に相応しいだと?」
「あ……あの……」
「俺はカティ以外いらない。ふざけた問答をさせるな」
最初からシルウィオの答えは分かっていたけれど、私だけと言葉にしてくれる事が嬉しい。
ここにいていいと、肯定してもらえるのは胸が安堵に満たされるものだ。
「陛下……今一度、我が娘の非礼を謝罪させてください」
ヴォーレンは跪いて皇帝へ頭を下げる。
この謝罪は先程までの口先だけのものではない、本気で許しを乞うものだ。
公爵家という権威を守るためでもあると、その態度で分かった。
「謝罪は必要ないと、まだ言わせる気か?」
「っ⁉」
しかしあっさりとヴォーレンの謝罪は拒否され、彼は額に汗を流す。
目の前に立つ皇帝シルウィオの威圧を感じて、異を唱える事もできるはずがないだろう。
その決定には逆らえないという事が、温度のない瞳を見れば理解できるはずだから。
しかし……ヴォーレンはやはり強かだったようで、ここで謁見を望んでいた狙いを口にした。
「一つ、陛下へ進言したいことが……」
「……」
「無言は発言の許可と受け取らせていただきます。まずは陛下が現皇后を寵愛なさっている事は、重々承知できました。今のお姿を見れば明らかだ」
「……」
「しかし、我らがアイゼン帝国貴族の中には……皇帝と、純血のアイゼン帝国貴族との間に次代皇帝を設けるべきだと考えを持つ者が多くいるのも、また事実だとご存知のはず」
「なにが言いたい」
私はヴォーレンの言いたい事に、おおよその察しがついてしまった。
他国から嫁いだ私にとって、少し耳が痛い問題だ。
ここアイゼン帝国は長い歴史を持ち、純血思想が強い貴族が多い事は私も知っていた。
現に貴族の中では、シルウィオに逆らう者こそいないが……伝統ある皇族の血筋に他国の血が混ざるのを嫌う派閥がおり、それはきっと皇帝であるシルウィオも把握しているはず。
「もちろん、現皇后様に文句などありませぬ。しかしながら、今後も多くの帝国貴族との関係をより安泰とするためにも、我が娘……マーガレットを側室へ迎えていただくのはいかがでしょう」
ここまでヴォーレンが無礼な話を切り出したのは理由があると思う。
それはシルウィオの父――前皇帝は好色であり、何人もの側室を抱えていた事実があるからだ。
側室制度が認められているからこそ、シルウィオも側室を抱えると確信しているのかも。
「……側室だと」
「皇族に他国の血が入る事を望まぬ貴族もおります。このまま余計な動乱を起こすのではなく。どうか帝国の安泰のため……我が娘を側室として、御子をお作りください」
「それで、お前の娘を引き取れと?」
「自慢の美貌を持つ娘です……それに帝国では他に誰もいない希少な紫色の瞳を持つのです。側室となってお傍にいれば、きっと皇帝陛下の心を虜にできましょう」
ヴォーレンがマーガレットを庭園にけしかけてまで、謁見を望んだ理由が分かった。
自らの娘を政略的に益があると説得して、側室に娶るように提言をしに来たのだ。
確かに国の運営という目線でならば、彼の口上にも一定の利はあるのは確かだ。
「なにより、貴方が即位されるまで……醜き血の争いとなった皇位継承争いを、当時の宰相として止められなかった責任を私は重く受け止めております」
「……」
「宰相の立場を失った事に異論はありません。ですが元宰相として……改めて私はアイゼン帝国の平和を望んでおり、陛下の治世を安定させたいのです!」
かつての贖罪、そして忠誠を誓うような言葉の連続。
ヴォーレンは勝機を見出したような、商談を成功させる間際の商人のような笑みを向けた。
「いかがでしょうか、陛下。我が娘を側室とする事には帝国に多大な益がある。それをご理解いただきたいのです」
確かに、ヴォーレンの言う事には利がある。
だけどね、シルウィオは皇帝として……利だけで判断していなかった。
「黙れ」
「…………へ?」
「貴族が不満を抱いているだと? 誰が……カティが皇后に相応しくないと評価している?」
「へ、陛下。これは貴族の多くが純血を望んでいて……」
「隣国グラナートで起こった動乱を無事に収めたカティが、現皇后である事に誰が不満を抱いているのか、答えてみろ」
玉座の間にいた全ての者が慄くほどに、シルウィオの眼光が鋭くなっている。
なのにヴォーレンは察しが悪いのか、わざとなのか、抵抗の意を示す。
「お待ちください。確かにカーティア皇后様を信頼なさっているのは承知しております」
「それを理解したなら、もう口を開くな」
「しかし……お言葉ですが、皇后様はグラナート王国で廃妃となったというではありませぬか。そのような皇后様だけを寵愛すれば不満に思う者もいるはず」
ヴォーレンは……あまりにシルウィオを舐めすぎている。
周囲に控えていた皆が私と同じ考えを抱いただろう。
もし私の事を不満に思っていたとしても、実際にシルウィオに仇成す貴族がいるならば、とんだ命知らずだけだ。
シルウィオの恐ろしさをなにも知らず、再び口を開いたヴォーレンに、皆が分かりやすく視線を落とした。
「我が娘は、確かに皇后様へ失礼な発言をいたしました。しかし……それは陛下を想う愛があるからこそなのです!」
「……」
「それに私もかつて宰相であった立場だからこそ……皇族へ不満を抱き、仇成す貴族が生まれるやもしれぬと憂いており、マーガレットを側室として捧げて国を支えようとしているのです」
私が帝国貴族であるならば、皇后が誰であろうと異を唱えはしないだろう。
きっとこの場の、ヴォーレン以外の皆が同じ考えを抱くはずだ。
シルウィオの力を知る者たちにとって、彼と敵対するなど考えられるはずない。
シルウィオだけではない。彼に仇成せば帝国騎士グレインや、現宰相ジェラルド……忠義の厚い二人もいるのだ。
命が一万個あっても足りないわよ、どんな強敵たちだ。
なにより、シルウィオは貴族たちに恐れられてはいるが、その統治は素晴らしい程に完璧だ。
長年続いていた貴族の腐敗を正して、帝国の民は多くの幸福を手に入れ、国力は上がっている。
それを知る者にとっては、シルウィオへの謀反をほのめかすようなヴォーレンの言葉は怒りさえ覚える内容であり、玉座の間では今にも剣を抜きそうな程、険しい雰囲気の騎士すらいた。
そんな事も知らず、ヴォーレンはいまだ意気揚々と言葉を続ける。
「我が娘マーガレットと子を作れば反抗勢力など出ませぬ! どうか側室へと抱えてください!」
「……」
「必要であれば、マーガレットと共に私も再び宰相にしてくだされば……アイゼン帝国はより安定した平和を――」
言葉の途中、シルウィオがふと、跪くヴォーレンへ手をかざした。
その瞬間だった――
「え? っ⁉ あぁぁぁ‼」
ヴォーレンの指が、ねじ切れそうな程に歪な方向へと曲がりはじめたのだ。
痛みで叫んだヴォーレンへ、シルウィオは平然と告げる。
「続けろ」
「え⁉ な、なにか気に障ったでしょうか⁉ 陛下!」
「全てだ、貴様の言葉全てが気に喰わん。しかし……話は聞いてやる。言え」
「あ、あ……あの……」
「許可してやる。言え、俺への提言なのだろう? お前の考えを述べてみろ」
「わ……わわ、私の娘はきっと、現皇后様に並ぶ価値があると――」
再び、別の指があらぬ方向へと曲がる。
絶叫を上げたヴォーレンへ、シルウィオは淡々と冷たい視線を送った。
「俺が選び、皇后として隣を望んだカティに異があるというのは……誰だ?」
「あ……」
そこで、ようやくヴォーレンは自分の失態を悟ったようだ。
シルウィオと私の関係を見誤っていたのだろう。色好きの前皇帝とシルウィオを重ね、その愛を軽視してしまっていた。
「貴様の意見を言ってみろ……カティになんの問題がある。俺が選び、愛している彼女に」
「あ……あの……も、申し訳ありま――」
「謝罪は要らないと言ったはずだ」
「っ……」
ヴォーレンの思惑は完全に崩れていた。
ここで側室をさらに薦めても、皇后を選んだシルウィオへの侮辱になってしまうのだから。
「どうやら――私が間違っていたようですね」
曲がった指の痛みのせいか、冷や汗を流しながらヴォーレンは呟く。荒い呼吸で痛みに耐えながらも、私へと視線を向けた。
「これ程の愛を抱いておられるとは、知りませんでした。無知ゆえに無礼な言葉と提言をしたことをお許しください」
謝罪の言葉と共にヴォーレンが頭を下げようとした瞬間、シルウィオはヴォーレンの目前まで歩み、彼の首元に剣を向ける。
流石のヴォーレンも瞳を見開きながら、押し黙るしかなかった。
「謝罪より必要なのは……先程の無礼な問答。カティへの失言にどう落とし前をつけるかだ」
「陛下……」
「それをお前自身が決めろ」
再び玉座に座ったシルウィオの視線の冷たさに、ヴォーレンの身体の震えは止まっていなかった。
「相応の責任を取らざるを得ないでしょう。私が仕組み、望んだ謁見にて無礼を働いてしまった。皇帝陛下のお怒りは当然。しかし陛下、私は本気で未来を憂いていたと知っていただきたい」
「言っておくが、俺は貴様らに媚びる生き方などしない。たとえそれで全てが敵となろうと……カティと共になる道しか選ぶ気はない」
「流石は皆が恐怖を抱く程に、帝国の統治を変えられた陛下ですね。私も今は……貴方に敵対しようなどと思いませぬよ」
ヴォーレンはふっと笑いながら、指の痛みに苦悶の表情を浮かべながら懐に手を入れる。
彼が取り出したのはいくつかの書類であり、それを見せつけるように掲げた。
「先日、陛下たちが捕らえたというブルックス伯爵家の交易先をまとめたものです。薬物の輸入元の特定と根絶ができましょう。これで手打ちにしていただけませんか」
流石は食わせ者と思わせるだけあり、ちゃんと最悪を想定して、許しを得る材料を用意していたようだ。
ヴォーレンが提示した書類をジェラルド様が受け取り、静かに頷く。
「よく調べられておりますな。陛下……この書類ならば、ブルックスが関わっていた組織を根絶やしにできそうです。これは大きな情報源となりましょう」
「……」
「どうか無礼をお許しいただけませぬか? 陛下」
許しを乞い、ヴォーレンとマーガレットが息を呑む音が聞こえる。
誰もが固唾をのんで見守る中で、シルウィオは小さく呟いた。
「こちらの意向を理解したなら、もう下がれ」
「寛大なご判断に感謝いたします。陛下が皇后様を寵愛されている事はこの身に確かに刻まれました。もう同じ轍は踏みませぬ」
シルウィオが正式にヴォーレンたちの謝罪を受け取った。
とあれば、もう今の私が口を挟む必要はない。
まぁ……本音を言えばシルウィオが「私だけ」と言ってくれた時にはもう溜飲が下がっていて、その後はシルウィオが暴走しないかハラハラしていたぐらいだから、むしろ安心している。
「それでは、私とマーガレットは帰還いたします。お時間をとらせてしまって申し訳ない」
「ぁ……」
マーガレットはヴォーレンに帰るよう促されたが、顔を青くして立ち止まる。
今までの問答で、彼女は側室になどなれないと悟ったはず。
なのに……
「い、嫌よ! わ、私は……公爵家の娘なんです。お父様……私」
せっかくヴォーレンが場を治めたのに、マーガレットはまだごねる気のようだ。
どうやら……つくづく、彼女は懲りないようね。
「カティ、もう行こう」
そんなマーガレットを無視し、シルウィオが私の手を引いて立ち上がった。
無表情なのに、私の手を握って嬉しいのか、指を絡めてくる。
先程までの恐ろしかった皇帝陛下とは大違いだ。
だけどその姿を見たマーガレットは、悔しげな表情で一歩踏み出した。
「陛下、聞いてください! 私の高貴な美しさを見てくだ――」
「邪魔だ」
「ぁっっ‼」
会話も出来ぬまま、マーガレットはシルウィオの魔法により……なんと再び髪を剣で刻まれた。
あらら……一応は外に出られる程度だった髪が、今度は外も出られない姿になってしまった。
「こ、これ……いやぁぁぁ!」
マーガレットは窓のガラスに映る自分の姿を見つめて悲鳴を上げた。
なんだか可哀想にすら思えたので、私は少しの同情を抱いて首を横に振る。
もうやめておきなさいよと、伝えるためだ。
「いや! いやぁぁぁ!」
「黙りなさい、マーガレット」
嘆き叫んでいたマーガレットの口を塞ぎ、ヴォーレンが頭を下げる。
「度々申し訳ございません。我がバジルア公爵家は……諦めが悪いもので」
「……去れ」
「ええ、今すぐに。それでは……」
ヴォーレン親子が玉座の間より去った後、私やジェラルド様たちに訪れたのは……
「「「よ、良かった……これで終われて」」」
「なにを安心している」
「いえ、玉座の間が血に染まらず済んで良かったと……」
「カティの前で、そんな事はしない。血を見せたくない」
私がいて良かったと、ジェラルド様が心から思っているのが伝わってくるくらい激しく頷いている。
ひとまずヴォーレンたちは去ったので、これで一件落着といったところだろう。
「カティ、行こう。今日は長く一緒にいたい」
「ありがとうシルウィオ。でも……政務は大丈夫? まだ昼なのに」
「いい。カティと…………早く会いたくて、終わらせてきたから」
そう呟き、私の手を引いてくれる彼に笑ってしまう。
愛されている実感が、心を満たしていく。
「今日はありがとう……シルウィオ」
「……ヴォーレンたちの言葉は、なにも気にしなくていい」
シルウィオは先程の謁見にて、私が非難されているのを気にかけてくれていたのだ。
玉座の間を出て二人になった途端に、ぎゅっと抱きしめられる。
「俺が君に皇后である事を望んでいる。俺が……君に隣にいてほしい。離したくない」
「ふふ。嬉しいです。私ね……正直に言ってくれるシルウィオが、好きですよ」
照れながらも言ってくれた彼の背中に腕を回し、私も抱き着き返す。
「顔、上げろ」
「え……」
言われるがまま視線を上げれば、優しいキスが落とされる。
不安などあるはずもない……きっと彼は私以外に目を向けはしない。
私だけを、ずっと愛してくれるはずだ。
だから、私も心の底から彼が大好きだ。
「ねぇ、シルウィオ」
「なんだ」
二人で庭園までやってきて、いつもの薔薇園近くの椅子に座って話す。
私は今の嬉しい気持ちのまま、シルウィオに問いかけた。
「皇帝には純血の貴族との子どもを望む。そんな貴族が多いのは事実だけど……」
「それをカティが気にする必要はない」
「分かっているよ。でもね……思うの。そんな声を無視できるぐらいに幸せになろうって」
「っ……」
「私たちの元にも子どもが、いつか来てくれるはず。その時はきっと、そんな事を言う貴族はいなくなるはずだから」
そんなつもりはないけれど、子どもについて思わず言及する。
シルウィオは私の言葉を聞いて、驚いたような表情をした後に、俯いた。
「……カティは、子どもが欲しいか」
「え……う、うん。欲しくないって言ったら、嘘になるかな」
「……」
「シルウィオはどうかな?」
なんて答えてくれるだろうか。私との子どもを望んでくれるだろうか。
どきどきしながら問いかけた言葉に対して、シルウィオはしばらくの無言の後にぼそりと答えた。
「俺は、カティが居るだけでいい」
「え?」
「子どもなど……俺には、必要ない」
シルウィオはそんな呟きを漏らして立ち上がる。
久しぶりに見た……冷たく無感情な紅の瞳にキュッと胸が締め付けられる。
「政務が残っているのを思い出した。カティ、すまない……少し外す」
「シルウィオ? どうしたの」
「……すまない」
謝罪の言葉と共に歩き出したシルウィオは、こちらを振り向いてはくれなかった。
その真意が聞けぬまま、夜になっても彼は珍しく寝室に来なかった。
「私との子どもが……必要ないということ?」
私は不安な思いを抱えながら、瞳を閉じて夜を過ごした。
マーガレットとヴォーレンとの騒動は、その後に一つの大きな功を奏した。
どうやら、この一件が社交界にも知れ渡ったらしい。
貴族の中にはヴォーレンと同様の目論見を持っていた者がいたようだが、彼がどのような結果となったかを知り、皇帝を畏怖して抵抗の意志を失くした。
これで帝国内の私たちを侮る者は一掃できたと、ジェラルド様が嬉しそうにおっしゃっていた。
どうやら私の帝国での地盤はかなり固まったようだという。
でも、その報告を受けても私は……シルウィオの真意が分からぬまま。
『子どもなど……俺には、必要ない』という彼の言葉が、ずっと頭を巡っていた。
第三章 迷いと決意
色々とあったが、マーガレットとの一件から一ヶ月が経った。
あれからのシルウィオはいつも通りで、幸せな日々はなにも変わらない。
でも、子どもは必要ないと告げたシルウィオの言葉が不意に頭をよぎる。
「ヴォーレン、先程お話しした通り、シルウィオ陛下は貴殿との謁見を断っております」
「ええ、そうでしたね。ですが事情が変わりました。我が娘が皇后様に無礼を働いたのです。早急に謝罪をさせていただきたい。直接、お二人に謝罪せねばなるまい」
まさか……
マーガレットが私に無礼を働いた事を逆手に取って、その謝罪といった形をとってまでシルウィオと謁見しようというの⁉
どうやらこの公爵、とんだ食わせ者のようだ。
「謝罪が遅くなれば、より話がこじれてしまいます。それは帝国の治安を統括する……宰相のジェラルド様のご負担でもありましょう? 私も過去同じ立場にいたので分かりますよ」
「……御託をべらべらと並べるな。カーティア皇后様を利用して、陛下と謁見する気か?」
あぁ、やはり私以上にジェラルド様の方が思惑に気付いている。
そして私が利用された事に、本気で怒りを示してくれていた。
「利用とは人聞きが悪い。こちらは誠意ある謝罪がしたいだけで――」
「……なにを考えているか知らないが、謝罪の場を望んだのは貴方だ。それを理解して待たれよ」
マーガレット同様、ヴォーレンはシルウィオの事を知らなすぎる。
自分で言うのもなんだけれど、私に無礼を働いたことへの謝罪をするなど……どんな場になるか。
「カーティア様、申し訳ありませんが同席していただけないでしょうか。シルウィオ陛下もきっとお望みになられるでしょうから」
「はい、ジェラルド様。元は私が彼女に応えてしまったがゆえの結果。同席しない訳にはいきませんよね」
私とジェラルド様、そしてマーガレットを連行していたグレインも含め、三人は視線を合わせる。
皆が思う事はきっと一つだ。
きっと今日は大変だぞ……止められるだろうか。
満場一致のそんな考えと共に、シルウィオとヴォーレンとの謁見が準備された。
さて、早速始まったのはいいけれど……
「シルウィオ陛下、我が娘のマーガレットがカーティア皇后様へ働いた無礼をまずお詫びさせ――」
「黙れ、謝罪は必要ない。その女が……俺がカティのために用意した庭園に無断で立ち入ったのか?」
開口一番、シルウィオは謝罪を切り捨てた。その声は怒りに染まっている。
瞳は鋭く、今にも紅の瞳と同じ色の鮮血が玉座の間を汚しそうな勢いだ。
謝罪の対象である私は彼の玉座の隣に座っているが、この場をただ見守るだけだ。
ここからは皇帝陛下の意向のみが優先される。私の意見は必要ないだろう。
シルウィオなら分かってくれて、怒ってくれるだろうから。
「も……申し訳ありません。陛下、ですが今はこちらの謝罪をぜひお聞きください」
「そこの女。カティの庭園に無断で立ち入ったのは、相応の覚悟があってのことだろうな?」
「ひっ……お、お父様。聞いていた話と違うわよ」
「お、落ち着けマーガレット。まずは冷静に話し合う機会を陛下に求めて――」
「先程から、誰に許可を得て喋っている。お前……」
シルウィオが手を動かした途端、ヴォーレンの腰に差されていた剣が浮かび上がる。
これはシルウィオの魔法によるものだ。
魔力で浮かんだ剣の切っ先が、ヴォーレンの首先に紙一重の距離で突き付けられた。
「っ⁉」
「俺は今、カティのために用意した庭園を荒らした狼藉者に用がある」
謁見前は冷静だったヴォーレンも、今のシルウィオを見て驚きを隠せないでいる。
普段は無表情で感情を表さないシルウィオが、ここまで怒りを示すと思っていなかったのだろう。
きっと後悔しているだろうな、だからジェラルド様も釘を刺していたのに……
「ご、ごめんなさい……私の方が、カーティア皇后様よりも相応しいと思って」
圧倒されている父の隣で、娘のマーガレットが空気を読まずに、場違いな言葉を吐く。
私はこの先の展開を思って項垂れてしまった。
あぁ、ヴォーレン。貴方はなにかを企てるよりも前にまず、娘の手綱をよく引いておくべきだった。
今ここで「皇后に相応しいのは自分だ」なんて言葉が、どれだけシルウィオの神経を逆なでするか。
「ひっ! きゃあぁぁ!」と悲鳴が聞こえるが、もう見るのが怖い。
仕方なく視線を上げれば、マーガレットの美しい髪がバッサリと切り落とされていた。
シルウィオは無表情のまま、冷酷な瞳を彼女へと向ける。
「……黙っていろ。誰がカティより皇后に相応しいだと?」
「あ……あの……」
「俺はカティ以外いらない。ふざけた問答をさせるな」
最初からシルウィオの答えは分かっていたけれど、私だけと言葉にしてくれる事が嬉しい。
ここにいていいと、肯定してもらえるのは胸が安堵に満たされるものだ。
「陛下……今一度、我が娘の非礼を謝罪させてください」
ヴォーレンは跪いて皇帝へ頭を下げる。
この謝罪は先程までの口先だけのものではない、本気で許しを乞うものだ。
公爵家という権威を守るためでもあると、その態度で分かった。
「謝罪は必要ないと、まだ言わせる気か?」
「っ⁉」
しかしあっさりとヴォーレンの謝罪は拒否され、彼は額に汗を流す。
目の前に立つ皇帝シルウィオの威圧を感じて、異を唱える事もできるはずがないだろう。
その決定には逆らえないという事が、温度のない瞳を見れば理解できるはずだから。
しかし……ヴォーレンはやはり強かだったようで、ここで謁見を望んでいた狙いを口にした。
「一つ、陛下へ進言したいことが……」
「……」
「無言は発言の許可と受け取らせていただきます。まずは陛下が現皇后を寵愛なさっている事は、重々承知できました。今のお姿を見れば明らかだ」
「……」
「しかし、我らがアイゼン帝国貴族の中には……皇帝と、純血のアイゼン帝国貴族との間に次代皇帝を設けるべきだと考えを持つ者が多くいるのも、また事実だとご存知のはず」
「なにが言いたい」
私はヴォーレンの言いたい事に、おおよその察しがついてしまった。
他国から嫁いだ私にとって、少し耳が痛い問題だ。
ここアイゼン帝国は長い歴史を持ち、純血思想が強い貴族が多い事は私も知っていた。
現に貴族の中では、シルウィオに逆らう者こそいないが……伝統ある皇族の血筋に他国の血が混ざるのを嫌う派閥がおり、それはきっと皇帝であるシルウィオも把握しているはず。
「もちろん、現皇后様に文句などありませぬ。しかしながら、今後も多くの帝国貴族との関係をより安泰とするためにも、我が娘……マーガレットを側室へ迎えていただくのはいかがでしょう」
ここまでヴォーレンが無礼な話を切り出したのは理由があると思う。
それはシルウィオの父――前皇帝は好色であり、何人もの側室を抱えていた事実があるからだ。
側室制度が認められているからこそ、シルウィオも側室を抱えると確信しているのかも。
「……側室だと」
「皇族に他国の血が入る事を望まぬ貴族もおります。このまま余計な動乱を起こすのではなく。どうか帝国の安泰のため……我が娘を側室として、御子をお作りください」
「それで、お前の娘を引き取れと?」
「自慢の美貌を持つ娘です……それに帝国では他に誰もいない希少な紫色の瞳を持つのです。側室となってお傍にいれば、きっと皇帝陛下の心を虜にできましょう」
ヴォーレンがマーガレットを庭園にけしかけてまで、謁見を望んだ理由が分かった。
自らの娘を政略的に益があると説得して、側室に娶るように提言をしに来たのだ。
確かに国の運営という目線でならば、彼の口上にも一定の利はあるのは確かだ。
「なにより、貴方が即位されるまで……醜き血の争いとなった皇位継承争いを、当時の宰相として止められなかった責任を私は重く受け止めております」
「……」
「宰相の立場を失った事に異論はありません。ですが元宰相として……改めて私はアイゼン帝国の平和を望んでおり、陛下の治世を安定させたいのです!」
かつての贖罪、そして忠誠を誓うような言葉の連続。
ヴォーレンは勝機を見出したような、商談を成功させる間際の商人のような笑みを向けた。
「いかがでしょうか、陛下。我が娘を側室とする事には帝国に多大な益がある。それをご理解いただきたいのです」
確かに、ヴォーレンの言う事には利がある。
だけどね、シルウィオは皇帝として……利だけで判断していなかった。
「黙れ」
「…………へ?」
「貴族が不満を抱いているだと? 誰が……カティが皇后に相応しくないと評価している?」
「へ、陛下。これは貴族の多くが純血を望んでいて……」
「隣国グラナートで起こった動乱を無事に収めたカティが、現皇后である事に誰が不満を抱いているのか、答えてみろ」
玉座の間にいた全ての者が慄くほどに、シルウィオの眼光が鋭くなっている。
なのにヴォーレンは察しが悪いのか、わざとなのか、抵抗の意を示す。
「お待ちください。確かにカーティア皇后様を信頼なさっているのは承知しております」
「それを理解したなら、もう口を開くな」
「しかし……お言葉ですが、皇后様はグラナート王国で廃妃となったというではありませぬか。そのような皇后様だけを寵愛すれば不満に思う者もいるはず」
ヴォーレンは……あまりにシルウィオを舐めすぎている。
周囲に控えていた皆が私と同じ考えを抱いただろう。
もし私の事を不満に思っていたとしても、実際にシルウィオに仇成す貴族がいるならば、とんだ命知らずだけだ。
シルウィオの恐ろしさをなにも知らず、再び口を開いたヴォーレンに、皆が分かりやすく視線を落とした。
「我が娘は、確かに皇后様へ失礼な発言をいたしました。しかし……それは陛下を想う愛があるからこそなのです!」
「……」
「それに私もかつて宰相であった立場だからこそ……皇族へ不満を抱き、仇成す貴族が生まれるやもしれぬと憂いており、マーガレットを側室として捧げて国を支えようとしているのです」
私が帝国貴族であるならば、皇后が誰であろうと異を唱えはしないだろう。
きっとこの場の、ヴォーレン以外の皆が同じ考えを抱くはずだ。
シルウィオの力を知る者たちにとって、彼と敵対するなど考えられるはずない。
シルウィオだけではない。彼に仇成せば帝国騎士グレインや、現宰相ジェラルド……忠義の厚い二人もいるのだ。
命が一万個あっても足りないわよ、どんな強敵たちだ。
なにより、シルウィオは貴族たちに恐れられてはいるが、その統治は素晴らしい程に完璧だ。
長年続いていた貴族の腐敗を正して、帝国の民は多くの幸福を手に入れ、国力は上がっている。
それを知る者にとっては、シルウィオへの謀反をほのめかすようなヴォーレンの言葉は怒りさえ覚える内容であり、玉座の間では今にも剣を抜きそうな程、険しい雰囲気の騎士すらいた。
そんな事も知らず、ヴォーレンはいまだ意気揚々と言葉を続ける。
「我が娘マーガレットと子を作れば反抗勢力など出ませぬ! どうか側室へと抱えてください!」
「……」
「必要であれば、マーガレットと共に私も再び宰相にしてくだされば……アイゼン帝国はより安定した平和を――」
言葉の途中、シルウィオがふと、跪くヴォーレンへ手をかざした。
その瞬間だった――
「え? っ⁉ あぁぁぁ‼」
ヴォーレンの指が、ねじ切れそうな程に歪な方向へと曲がりはじめたのだ。
痛みで叫んだヴォーレンへ、シルウィオは平然と告げる。
「続けろ」
「え⁉ な、なにか気に障ったでしょうか⁉ 陛下!」
「全てだ、貴様の言葉全てが気に喰わん。しかし……話は聞いてやる。言え」
「あ、あ……あの……」
「許可してやる。言え、俺への提言なのだろう? お前の考えを述べてみろ」
「わ……わわ、私の娘はきっと、現皇后様に並ぶ価値があると――」
再び、別の指があらぬ方向へと曲がる。
絶叫を上げたヴォーレンへ、シルウィオは淡々と冷たい視線を送った。
「俺が選び、皇后として隣を望んだカティに異があるというのは……誰だ?」
「あ……」
そこで、ようやくヴォーレンは自分の失態を悟ったようだ。
シルウィオと私の関係を見誤っていたのだろう。色好きの前皇帝とシルウィオを重ね、その愛を軽視してしまっていた。
「貴様の意見を言ってみろ……カティになんの問題がある。俺が選び、愛している彼女に」
「あ……あの……も、申し訳ありま――」
「謝罪は要らないと言ったはずだ」
「っ……」
ヴォーレンの思惑は完全に崩れていた。
ここで側室をさらに薦めても、皇后を選んだシルウィオへの侮辱になってしまうのだから。
「どうやら――私が間違っていたようですね」
曲がった指の痛みのせいか、冷や汗を流しながらヴォーレンは呟く。荒い呼吸で痛みに耐えながらも、私へと視線を向けた。
「これ程の愛を抱いておられるとは、知りませんでした。無知ゆえに無礼な言葉と提言をしたことをお許しください」
謝罪の言葉と共にヴォーレンが頭を下げようとした瞬間、シルウィオはヴォーレンの目前まで歩み、彼の首元に剣を向ける。
流石のヴォーレンも瞳を見開きながら、押し黙るしかなかった。
「謝罪より必要なのは……先程の無礼な問答。カティへの失言にどう落とし前をつけるかだ」
「陛下……」
「それをお前自身が決めろ」
再び玉座に座ったシルウィオの視線の冷たさに、ヴォーレンの身体の震えは止まっていなかった。
「相応の責任を取らざるを得ないでしょう。私が仕組み、望んだ謁見にて無礼を働いてしまった。皇帝陛下のお怒りは当然。しかし陛下、私は本気で未来を憂いていたと知っていただきたい」
「言っておくが、俺は貴様らに媚びる生き方などしない。たとえそれで全てが敵となろうと……カティと共になる道しか選ぶ気はない」
「流石は皆が恐怖を抱く程に、帝国の統治を変えられた陛下ですね。私も今は……貴方に敵対しようなどと思いませぬよ」
ヴォーレンはふっと笑いながら、指の痛みに苦悶の表情を浮かべながら懐に手を入れる。
彼が取り出したのはいくつかの書類であり、それを見せつけるように掲げた。
「先日、陛下たちが捕らえたというブルックス伯爵家の交易先をまとめたものです。薬物の輸入元の特定と根絶ができましょう。これで手打ちにしていただけませんか」
流石は食わせ者と思わせるだけあり、ちゃんと最悪を想定して、許しを得る材料を用意していたようだ。
ヴォーレンが提示した書類をジェラルド様が受け取り、静かに頷く。
「よく調べられておりますな。陛下……この書類ならば、ブルックスが関わっていた組織を根絶やしにできそうです。これは大きな情報源となりましょう」
「……」
「どうか無礼をお許しいただけませぬか? 陛下」
許しを乞い、ヴォーレンとマーガレットが息を呑む音が聞こえる。
誰もが固唾をのんで見守る中で、シルウィオは小さく呟いた。
「こちらの意向を理解したなら、もう下がれ」
「寛大なご判断に感謝いたします。陛下が皇后様を寵愛されている事はこの身に確かに刻まれました。もう同じ轍は踏みませぬ」
シルウィオが正式にヴォーレンたちの謝罪を受け取った。
とあれば、もう今の私が口を挟む必要はない。
まぁ……本音を言えばシルウィオが「私だけ」と言ってくれた時にはもう溜飲が下がっていて、その後はシルウィオが暴走しないかハラハラしていたぐらいだから、むしろ安心している。
「それでは、私とマーガレットは帰還いたします。お時間をとらせてしまって申し訳ない」
「ぁ……」
マーガレットはヴォーレンに帰るよう促されたが、顔を青くして立ち止まる。
今までの問答で、彼女は側室になどなれないと悟ったはず。
なのに……
「い、嫌よ! わ、私は……公爵家の娘なんです。お父様……私」
せっかくヴォーレンが場を治めたのに、マーガレットはまだごねる気のようだ。
どうやら……つくづく、彼女は懲りないようね。
「カティ、もう行こう」
そんなマーガレットを無視し、シルウィオが私の手を引いて立ち上がった。
無表情なのに、私の手を握って嬉しいのか、指を絡めてくる。
先程までの恐ろしかった皇帝陛下とは大違いだ。
だけどその姿を見たマーガレットは、悔しげな表情で一歩踏み出した。
「陛下、聞いてください! 私の高貴な美しさを見てくだ――」
「邪魔だ」
「ぁっっ‼」
会話も出来ぬまま、マーガレットはシルウィオの魔法により……なんと再び髪を剣で刻まれた。
あらら……一応は外に出られる程度だった髪が、今度は外も出られない姿になってしまった。
「こ、これ……いやぁぁぁ!」
マーガレットは窓のガラスに映る自分の姿を見つめて悲鳴を上げた。
なんだか可哀想にすら思えたので、私は少しの同情を抱いて首を横に振る。
もうやめておきなさいよと、伝えるためだ。
「いや! いやぁぁぁ!」
「黙りなさい、マーガレット」
嘆き叫んでいたマーガレットの口を塞ぎ、ヴォーレンが頭を下げる。
「度々申し訳ございません。我がバジルア公爵家は……諦めが悪いもので」
「……去れ」
「ええ、今すぐに。それでは……」
ヴォーレン親子が玉座の間より去った後、私やジェラルド様たちに訪れたのは……
「「「よ、良かった……これで終われて」」」
「なにを安心している」
「いえ、玉座の間が血に染まらず済んで良かったと……」
「カティの前で、そんな事はしない。血を見せたくない」
私がいて良かったと、ジェラルド様が心から思っているのが伝わってくるくらい激しく頷いている。
ひとまずヴォーレンたちは去ったので、これで一件落着といったところだろう。
「カティ、行こう。今日は長く一緒にいたい」
「ありがとうシルウィオ。でも……政務は大丈夫? まだ昼なのに」
「いい。カティと…………早く会いたくて、終わらせてきたから」
そう呟き、私の手を引いてくれる彼に笑ってしまう。
愛されている実感が、心を満たしていく。
「今日はありがとう……シルウィオ」
「……ヴォーレンたちの言葉は、なにも気にしなくていい」
シルウィオは先程の謁見にて、私が非難されているのを気にかけてくれていたのだ。
玉座の間を出て二人になった途端に、ぎゅっと抱きしめられる。
「俺が君に皇后である事を望んでいる。俺が……君に隣にいてほしい。離したくない」
「ふふ。嬉しいです。私ね……正直に言ってくれるシルウィオが、好きですよ」
照れながらも言ってくれた彼の背中に腕を回し、私も抱き着き返す。
「顔、上げろ」
「え……」
言われるがまま視線を上げれば、優しいキスが落とされる。
不安などあるはずもない……きっと彼は私以外に目を向けはしない。
私だけを、ずっと愛してくれるはずだ。
だから、私も心の底から彼が大好きだ。
「ねぇ、シルウィオ」
「なんだ」
二人で庭園までやってきて、いつもの薔薇園近くの椅子に座って話す。
私は今の嬉しい気持ちのまま、シルウィオに問いかけた。
「皇帝には純血の貴族との子どもを望む。そんな貴族が多いのは事実だけど……」
「それをカティが気にする必要はない」
「分かっているよ。でもね……思うの。そんな声を無視できるぐらいに幸せになろうって」
「っ……」
「私たちの元にも子どもが、いつか来てくれるはず。その時はきっと、そんな事を言う貴族はいなくなるはずだから」
そんなつもりはないけれど、子どもについて思わず言及する。
シルウィオは私の言葉を聞いて、驚いたような表情をした後に、俯いた。
「……カティは、子どもが欲しいか」
「え……う、うん。欲しくないって言ったら、嘘になるかな」
「……」
「シルウィオはどうかな?」
なんて答えてくれるだろうか。私との子どもを望んでくれるだろうか。
どきどきしながら問いかけた言葉に対して、シルウィオはしばらくの無言の後にぼそりと答えた。
「俺は、カティが居るだけでいい」
「え?」
「子どもなど……俺には、必要ない」
シルウィオはそんな呟きを漏らして立ち上がる。
久しぶりに見た……冷たく無感情な紅の瞳にキュッと胸が締め付けられる。
「政務が残っているのを思い出した。カティ、すまない……少し外す」
「シルウィオ? どうしたの」
「……すまない」
謝罪の言葉と共に歩き出したシルウィオは、こちらを振り向いてはくれなかった。
その真意が聞けぬまま、夜になっても彼は珍しく寝室に来なかった。
「私との子どもが……必要ないということ?」
私は不安な思いを抱えながら、瞳を閉じて夜を過ごした。
マーガレットとヴォーレンとの騒動は、その後に一つの大きな功を奏した。
どうやら、この一件が社交界にも知れ渡ったらしい。
貴族の中にはヴォーレンと同様の目論見を持っていた者がいたようだが、彼がどのような結果となったかを知り、皇帝を畏怖して抵抗の意志を失くした。
これで帝国内の私たちを侮る者は一掃できたと、ジェラルド様が嬉しそうにおっしゃっていた。
どうやら私の帝国での地盤はかなり固まったようだという。
でも、その報告を受けても私は……シルウィオの真意が分からぬまま。
『子どもなど……俺には、必要ない』という彼の言葉が、ずっと頭を巡っていた。
第三章 迷いと決意
色々とあったが、マーガレットとの一件から一ヶ月が経った。
あれからのシルウィオはいつも通りで、幸せな日々はなにも変わらない。
でも、子どもは必要ないと告げたシルウィオの言葉が不意に頭をよぎる。
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