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1巻
1-2
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◇◇◇
めでたく廃妃となった私は、馬車を乗り継いで実家のミルセア公爵邸へ帰還した。
目の前に広がる懐かしい景色に、帰ってきた実感が湧く。
しかし……当然、父が私を許すはずはなかった。邸に帰還して早々に書斎に呼び出される。
「なにを考えているんだ、カーティア。廃妃を受け入れたなど……ふざけているのか⁉」
父が机を強く叩き、大きな音が鳴り響く。
控えている家令の肩が跳ねたけど、当の私は窓の外でひらめく蝶を目で追っていた。
「聞いているのか⁉ カーティア!」
「へ、あぁ。聞いておりませんでした、お父様」
「お、おま……わかっているのか、お前は我がミルセア公爵家の家名に泥を塗ったのだぞ!」
「お父様、私は王宮にて陛下からの寵愛を失い、冷遇という言葉が相応しい扱いを受けておりました。もう何年も……」
「そんなことは知っている! だが、その程度で挫けてどうする! お前には公爵家の娘として、たとえ血反吐を吐いてでも王妃の座を死守する義務があるのだぞ! 感情なぞ捨てろ!」
あぁ、父は私の扱いを知っていてなお、助けてはくれなかったのね。
まぁ、当然か……父にとって私は政略の駒、権力闘争の益になればそれでいいだけの存在だ。
亡き母と違い、父からは塵程の愛ももらわなかったから、今更悲しくはない。
「お父様、いくら喚いても私が廃妃となった事実は変わりません。気に入らぬなら、罰してください。喜んでお受けしますわ」
ミルセア家と縁を切れば、気楽な生活にまっしぐらだ。喜んで引き受けたい。
むしろ、こちらから勘当を願うべきだろうか?
「ふん、お前が生意気を言うのであればそうしてやろう。五日の期間をやる。それまで震えて待て。もし反省の弁を述べるなら、それまでに……」
「五日……わかりました。ではお母様が残した蔵書は私がいただきますね。それでは」
「は……カーティア、ま、待て!」
今すぐでもよかったけれど、せっかく五日間の猶予ができたのだ。有意義に使おう。
父の制止を無視して書斎を出て、お母様の部屋へ向かう。
母は身体が弱く、私が八歳になる頃に亡くなった。しかし、いただいた言葉は今も私の中に残っている。
『カーティア、本は……まだ見ぬ世界、知恵を与えてくれる。読み、学べば、人生はきっと充実するはずよ』
新たな人生を送ろうとしている今の私にとって、母の蔵書は参考になるだろう。
残された本の種類は様々だった、難しい医学書、農学書、薬学書。
そのほかにも、才能ある者しか使えぬ魔法学書や、母の秘蔵のロマンス小説など……
そのどれもが新鮮な知識と物語で、私は寝る間も惜しんで読みふけった。
父の嫌がらせで、私の世話をする者は誰もいなかったけど、一人には慣れているから問題ない。
王妃だった頃と違って時間を好きに使えるから、本を夜更けまで読み続けられる。
怠惰に過ごす日々は、本当に幸せで……あっという間に五日が経った。
母の蔵書をあらかた読み終えて、蓄えた知恵を実践に移したい気持ちが沸き立っている。
農地で作物を育てて過ごすのは楽しそうだし、薬学や魔法学も……三年後に備えて学ぶべきよね。
ワクワクと期待に胸を膨らませていると、父の怒声が響いた。
「カーティア! 書斎に来い! 話がある!」
あぁ、父との話が残っていたことを忘れていた。
さっさと終わらせようと、足早に父の書斎へと向かう。
「カーティア、お前は反省の言葉を……一度も述べに来なかったな」
「そのようなことを期待されても困ります。私は反省などしておりませんもの」
「ぐっ……なら、もう今までのような豪華な暮らしはできぬ覚悟はあるのだろうな?」
「あら、食事は固いパンのみ、冷水で身を洗う日々よりも貧しくなるのなら、むしろ楽しみです」
「こ、この……」
「さぁ! どうぞ私を勘当してください」
「なら望み通り! お前は勘当だ! 王妃でなくなったお前は公爵家の恥! 消えよ!」
机を殴りつけ、父は力の限り叫ぶ。
その視線や声に、私を娘だと思う気持ちは見当たらない。あぁ、それは最初からだったか。
なんにせよ、父自ら親子の縁を解消してくれたのだから、異論などない。
「喜んでお受けします。ミルセア公爵様」
「お前……どのように生きていく気だ」
「し、失礼します! 旦那様!」
父……いや、ミルセア公爵の言葉を遮り、家令が駆け込んできた。酷く焦っているようだ。
「何用だ」
「じ、実は……客人が来ております……そ、それもカーティア様に」
「カーティアに? 帰せ! もはや娘でもない者の客人など家に招くな!」
「そ、それが……きゃ、客人というのは……」
どもりながらも家令は客人の名を告げる。
その名を聞き、流石に私も動揺を隠せなかった。この場にいるはずのないお人だったからだ。
慌てて出迎えの準備を済ませ、応接室に向かう。
「お待たせしました……シュルク殿下」
「いや、こちらこそ急な来訪で申し訳ない。カーティア王妃。いや、もう違うか」
「既にご存知でしたか。どうぞ殿下は気楽にカーティアとお呼びください」
彼はシュルク・カルセイン。グラナート王国の西に面する大国、カルセインの第一王子だ。
そんな彼が他国の、一端の公爵邸に来訪するなど、異例中の異例といえる。
それに、私と彼は国交のためにほんの数回お茶をした程度の仲でしかない。来訪の理由はなんだろうか。
「それで……殿下のご用件とは……?」
「前置きは必要ないね、単刀直入に言おう。君に結婚を申し込みにきた。僕が次期国王となるため、他国から信も厚い君に、ぜひ僕と共に国政を――」
「……あぁ。申し訳ありませんが、お断りします」
礼儀など気にせず、きっぱりと断る。
私は、残りの人生を面倒なしがらみに囚われたくない。
政略の道具になることも、巻き込まれることもごめんなのだ。
たとえ相手が大国の王子でも、その意志は変わらない。
話を遮るように断ったけれど、シュルク殿下は笑ってくださった。
私と彼の立場には天と地程の差があるのに、その気安い反応は意外だ。
農地に恵まれた大地を有し、魔法学の技術を発展させたカルセイン王国は、かつてグラナート王国周辺で長く続いた戦争を終わらせた過去をもつ。
それは、皇帝の統治のもとに多くの人口を有し、圧倒的な軍事力を持つアイゼン帝国と、百年前に停戦条約を結んだことがきっかけだ。
他よりも圧倒的に抜きん出た二国間の停戦を機に、各国の争いも絶えた。
そして、その二つの大国に挟まれているのが私の住むグラナート王国だ。
位置関係もあり、我が国は大国同士の橋渡しのような存在を担っている。私はその第一人者だった。
建前上は対等だが、歴史的な関係からグラナート王国はカルセイン王国に逆らえない。
なのに私の無礼に怒りもせず、シュルク殿下は話を続けた。
「駄目かな? カーティア、君が築き上げた信頼……僕は正当に評価するし、望むのなら愛も与えます」
「シュルク殿下、ありがたいお言葉です。しかし……もう私にはどれも必要ないものです」
「どうしても駄目だろうか?」
「……申し訳ございません。でも、どうしてそこまで私を評価してくださるのですか?」
シュルク殿下はくすりと笑う。
「数年前のカルセインでの交流会、君は我が王との謁見の際に言っただろう? 魔法学の学び舎の門戸を広げ、様々な意見を取り入れるべきだと」
「そ、そんなこともありました……ね」
「現王はそれを実践し、魔法学園を平民にも解放した。すると、平民から抜きん出た才能の持ち主が数多く現れ、魔法学は大きく発展した。それもあり、我が国は君を高く評価している」
確かに過去にカルセイン王へ提案したことはあったが、まさか実行してくださっていたとは……
「評価していただけるのはありがたいです。殿下からの婚約の申し出も、喜びで胸を満たされました。しかし、私はもう政略の中に身を投じる気はないのです」
「そうか……いや、僕が悪かった。君を無理に継承権争いへ巻き込もうとしていた」
シュルク殿下には腹違いの兄弟が何人もいて、王位継承権を争う政敵が多い。
継承戦のため、私に声をかけたのだろうけど、面倒事はごめんだ。
その後も、シュルク殿下とは気さくに会話を続けた。
私が気に病むことがないよう、明るく接してくださったのだろう。
しかし、その朗らかな空気を乱す者が部屋の扉を開いた。
「失礼します。シュルク殿下……我が娘と懇意にしていただき、ありがたく思います」
……ミルセア公爵だ。
シュルク殿下と和気あいあいと話している様子を見て、恩恵にあずかろうとしたのだろう。
勘当したはずの私を娘と呼ぶとは、どうやら彼には恥などないようだ。
「ミルセア公爵、この場をお貸しいただいていることには感謝いたします。しかし私はもう勘当された身、娘ではありません」
「カ、カーティア。殿下の御前なのだ、そのような話は後に」
「おや、勘当を……? それは惜しいことをしましたね、ミルセア公爵」
シュルク殿下は私にいたずらっぽく微笑むと、ミルセア公爵を見て目を細めた。
「僕だけでなく、彼女の身を案じている国や、影響力を取り入れたい国はもう既に動き出しております。そんな彼女を勘当したとは……」
「あ、あぁ。カ、カーティア……さっきの話だが、どうかもう一度話し合いを……」
「ミルセア公爵、貴方が言ったのでしょう? もう終わった話など蒸し返さず、ご退室を」
ミルセア公爵は肩を落とし、「失礼しました」と、哀愁の漂う背を向けて部屋を出た。
「よかったのかい?」
「ええ、彼は私を政略の駒としか見ておりませんので」
もう政略の渦中からは離れて生きるのだ。家の望む駒になるつもりはない。
しかし、シュルク殿下は私を過大評価しているようだ。他国が私のために動くはずがないのに。
「しかし、君はいい意味で変わったね」
「え……そうでしょうか?」
「あぁ、前はまるで……誰かに認めてもらいたいと、焦っているように見えたから」
確かに、私は焦っていたのかもしれない。他国の問題にも積極的に介入し、解決に少なからず貢献できていたと思う。
全ては、アドルフに振り向いてもらうための努力だった。しかし今は、そんな焦りは微塵もない。
そのことを、シュルク殿下は見抜いたのだろう。
「今はただ、自由に生きていたいのです」
せっかく手に入れた二度目の人生、縛られる生活など二度とごめんだ。
「自由に……か。今日は難しいかもしれないよ?」
「へ?」
素っ頓狂な声を出した私を、シュルク殿下が窓の近くで手招く。
何事かと近づくと、彼は外を指差して笑った。
「言っただろう? 各国が君の身を案じて、引き入れたがっていると……僕は一番乗りなだけ」
「……うそ」
窓の外に見えたのは、煌びやかで豪奢な馬車の群れだった。
「君がもう政治から遠ざかると聞いて安心した。他国に君の影響力が渡ることを危惧していたが、杞憂に終わりそうだ。それでは、振られた僕は先に失礼するよ、ここは騒がしくなる」
呆然と立ち尽くす私を置いて、シュルク殿下は部屋を出て行ってしまった。
「困ったことがあれば、いつでも頼ってくれ」と微笑みを残して。
外にいる方々はお世話になった他国の重鎮ばかり……無下になどできるはずはなかった。
◇◇◇
入れ替わり立ち代わりで訪れる来訪者への対応で、目まぐるしい一日だった。
彼らの要件は婚約の申し出や文官への推薦で、もう政治に関わりたくない私は全てを断った。
しかし、まさかここまで評価してもらっていたなんて。
「なにか困りごとがあればいつでも頼ってください。貴方には多くの助言をいただいた」
「カーティア様には、わが国の食料問題改善に手を貸していただいた。ご恩をいつか返させてください」
折角の申し出を断っているにもかかわらず、来る人は皆がお礼を言って去っていった。
以前はアドルフしか見ていなくて気付かなかったが、私は鈍感だったようだ。
他国の方々に、私は想像以上に愛されていたのかもしれない。
「それでは、カーティア様。貴方に祝福を」
「えぇ、ありがとうございます」
最後の来訪者が去っていくのを見送り、大きく息を吐く。
ようやく終わったと思った時には、既に夜中となっていた。
「さて……出ていかないと」
外の夜闇を見つめながら呟くと、意気揚々とした声が返ってきた。
「いやぁ、カーティア。事前に相談してくれていれば、廃妃には賛成だったぞ……仕方がない、また我が家の娘に戻るといい」
「……」
「本当はお前が冷遇されていたことに心を痛めていたんだ。また親子に戻って、じっくりと新しい婚約者を選定しようじゃないか」
ミルセア公爵……ある意味で尊敬の念すら抱く。彼に恥という概念はないのだろうか。
「ミルセア公爵、私に媚を売っている場合ですか?」
「カーティア、父と呼んでくれ。ここを出て行けばきっと後悔するのだから。言うことを聞きなさい」
「後悔ですか……ところで、来訪してくださった皆様には、私が王宮で受けた仕打ちや、貴方に勘当されたことは全て明かしました。非難の声明を出してくださるそうです」
「は……な、なにを……お前はなにをしたのかわかっているのか⁉ 王に仕える公爵家としての責任を……!」
「その公爵家から追い出したのは、どなたでしたっけ?」
「な……あ……おま」
「おや? 後悔するのはミルセア公爵の方でしたね?」
「ま……まま……待て! ゆ、許してくれ、カーティア」
「嫌に決まっております」
さぁ、もう屋敷を出て、好きなことだけして生きられる場所を探そう。
いたずらに時間を消費すれば……この件を聞いたアドルフたちがなにをしてくるかわからない。
そう考えていた時だった。
「あ……あの! カーティア様。よ、よろしいでしょうか?」
今日で何度目になるだろうか、家令が焦った様子で駆け込んできてため息がこぼれた。
「また来客ですか? 申し訳ありませんが、夜も遅いのでお断りを……」
「その、アイゼン帝国の方です。そ……それも……宰相様です」
「これは……また……」
最後の最後で、シュルク殿下と並ぶ程のお客様がやってくるとは。
アイゼン帝国の宰相といえば、皇帝に次ぐ権力者だ。
「わかりました。応接室へ案内してください」
慌てて去っていく家令を見送り、私はミルセア公爵に向き直る。
「ミルセア公爵、これ以上のお話は時間の無駄ですので、ご退室を」
「許してくれ、父を……救ってくれ」
「出ていきなさい。帝国にまで貴方の醜聞を広げてほしいの?」
「ひ……」
低い声で脅すと、そそくさとミルセア公爵は出て行った。
シュルク殿下と面識のあったカルセイン王国と違い、アイゼン帝国は国際交流会にさえ文官しか出席しない閉鎖的な国だ。交流は乏しく、内部の情報は少ない。
帝国の宰相様が、いったい私になんの用なのか。
「入ってよいだろうか」
「……どうぞ」
入ってきたのは、見上げる程大きな体躯の偉丈夫だった。歳は、私よりも二十は上だろうか。
「夜遅くの来訪で申し訳ない。お初にお目にかかります。……アイゼン帝国にて宰相を務める、ジェラルド・カイマンと申します」
「カーティアです。ジェラルド様」
カーテシーをした際に、ジェラルド様の外套の下に漆黒の鎧が見えた。
上手く隠してはいるが、腰には剣を差している。
アイゼン帝国は軍事力に優れていると聞くが、宰相様まで武装しているとは驚きだ。
「それで、ジェラルド様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「あぁ、早速ですが本題に入りましょう。カーティア嬢、実は貴方に縁談を持ってまいりました」
またか……断りの言葉を考えないと。
内心ため息を吐いた時、ジェラルド様はこう言った。
「少々特殊な縁談となりますが、カーティア嬢の自由と、望むものを与えることを約束します」
含みのある言葉に、思わず問いかける。
「特殊な縁談……とは?」
「我が皇帝と、愛なき偽装結婚をしていただきたい。代わりに自由を約束いたします。政務もなにもしなくていい。望むなら土地も用意しましょう」
愛のない結婚。政治にかかわる義務はない。つまり……面倒なしがらみはないということ?
それに加えて、自由と私だけの土地をくれるなんて。
それは少し……いや、かなり興味を惹かれてしまう。
「お話を、聞かせていただけますか?」
再び漏れ出た問いかけに、ジェラルド様は丁寧に答えてくださった。
ジェラルド様から聞いた話をまとめると、アイゼン帝国の皇帝――シルウィオ・アイゼンは今年で二十五歳になるが、いまだ未婚であった。それには彼が公言した言葉に理由がある。
「誰かを愛する気も、子を作る気もない」……と言ったのだ。
それを聞いた貴族たちは当然、娘を皇后にしようとは思わなかった。娘が皇后になっても子を成せず、皇帝の寵愛すらないのなら、身を引くのは当然だ。
更に、シルウィオ皇帝は戴冠式の前に、自分以外の皇位継承権を持つ者を帝都から追放した過去がある。
その件も相まって、機嫌を損ねれば家ごと追放されると、誰もが彼を恐れた。
そして月日が流れ、国内では未婚の皇帝に不信感が募っている。
それらを解消するためにも、愛のない結婚を受け入れる女性を探していたようだ。
「と……いうことなのです。形だけの皇后として、我が国へ来てくださいませんか」
「……どうして私がその候補に?」
「廃妃となったカーティア嬢は自由を望むと聞きました。それに、皇后になっても貴族たちが異を唱えられない程に他国からの信も厚い。これ程都合のいい女性はおりませぬ」
五日前に廃妃となった件だけでなく、既に経緯まで調べあげているようだ。
帝国が持つ情報網が恐ろしい。
「ほ、本当に形だけの皇后でもいいのですか?」
「はい。対価として、自由な生活をお約束します。帝国民を安心させるためのお力添えを願いたい」
正直に言えば、かなり迷っている。本来であれば、他の国と同じく断るべきだ。
しかし、帝国で本当の意味でのお飾りの后になれば……後は望む自由が待っている。
その魅力的な条件に、質問を重ねていく。
「あの、土地というのは実際にはどれ程……」
「流石に城内には住んでいただきたいが……庭園は広いので、それなりの土地を扱えるはずです」
「で、では……農地を作っても? 薬草の研究もしたいので、それらも植えたいのですが」
「へ? の、農地? や、くそう?」
「はい‼」
「そ、そんなものでいいのですか? 望めば金でできた宮も、ドレスも宝石も用意しますが……」
「そんなつまらないものはいりません。私には自分だけの僅かな土地があれば充分です」
「つまら……なんと……」
ジェラルド様は驚きで言葉が出ないようだ。
これは……もしかして、本当に希望通りにいくかもしれない。
現状、帝国に嫁ぐことにメリットしかない。悠々自適に過ごせて……皇后になれば、グラナートに無理やり連れ戻される心配もない。
これは、かなりいいお話なのでは?
「ジェラルド様、もう一つお聞きしてもいいですか?」
「なんでしょうか」
「結婚した場合、政権争いに巻き込まれる可能性はありますか?」
ジェラルド様は頬に笑みを刻んで、首を横に振る。
「ご心配なく。我が陛下に逆らう者などおりませぬ。皆……首は繋がっていたいですから」
「それは……私の身は、安全なのですか?」
「ええ、貴方には庭園に設けた離宮に住んでいただきますので。陛下と会うことはそうありません」
心配はあるが、今は他に行く当てもない。
二度目の人生を自由に過ごす。その夢に最も近い誘いが来て、断る理由もない。
都合のいい話には乗っかる方がいい。もし帝国で面倒事に巻きこまれたなら、逃げ出してしまえばいいのだ。
うん、そうしよう。よし! 決めた。さっさと行こう!
「承知いたしました。お話をお受けいたします」
「っ‼ ありがたい。それでは準備もあるでしょう、二十日後には迎えを」
「いえ、ジェラルド様。そのような時間はありませんよ! 今すぐに向かいましょう、すぐに連れて行ってください! 思い立ったが吉日! さぁ、はやく!」
「は? 準備はいいので? 荷物も……」
「そんなもの、既にまとめ終えております」
にこやかに答えれば、ジェラルド様は呆気に取られていた。
まさか、出て行く間際だったとは思っていなかったのだろう。本当に都合がいい。
「いいのですか? この国に未練や……別れの挨拶などは」
「そんなもの……」
この屋敷で育った幼少期、王宮での生活……彼と過ごした日々、お父様との生活……
思い出しても……腹立たしい記憶しかないじゃないか。
清々しい程に未練がない。
こんな国は捨てて、さっさと出ていこう。
「ありません。行きましょう!」
「え、えらくあっさりと……わかりました。では荷物を持って、外に停めた馬車のところに来てください」
「はい!」
あぁ、なんていい日だ。
帝国に行く不安よりも、自由な生活を送ることへの期待が勝る。
既にまとめていた荷物を持ち、意気揚々と屋敷の外へ向かう。
めでたく廃妃となった私は、馬車を乗り継いで実家のミルセア公爵邸へ帰還した。
目の前に広がる懐かしい景色に、帰ってきた実感が湧く。
しかし……当然、父が私を許すはずはなかった。邸に帰還して早々に書斎に呼び出される。
「なにを考えているんだ、カーティア。廃妃を受け入れたなど……ふざけているのか⁉」
父が机を強く叩き、大きな音が鳴り響く。
控えている家令の肩が跳ねたけど、当の私は窓の外でひらめく蝶を目で追っていた。
「聞いているのか⁉ カーティア!」
「へ、あぁ。聞いておりませんでした、お父様」
「お、おま……わかっているのか、お前は我がミルセア公爵家の家名に泥を塗ったのだぞ!」
「お父様、私は王宮にて陛下からの寵愛を失い、冷遇という言葉が相応しい扱いを受けておりました。もう何年も……」
「そんなことは知っている! だが、その程度で挫けてどうする! お前には公爵家の娘として、たとえ血反吐を吐いてでも王妃の座を死守する義務があるのだぞ! 感情なぞ捨てろ!」
あぁ、父は私の扱いを知っていてなお、助けてはくれなかったのね。
まぁ、当然か……父にとって私は政略の駒、権力闘争の益になればそれでいいだけの存在だ。
亡き母と違い、父からは塵程の愛ももらわなかったから、今更悲しくはない。
「お父様、いくら喚いても私が廃妃となった事実は変わりません。気に入らぬなら、罰してください。喜んでお受けしますわ」
ミルセア家と縁を切れば、気楽な生活にまっしぐらだ。喜んで引き受けたい。
むしろ、こちらから勘当を願うべきだろうか?
「ふん、お前が生意気を言うのであればそうしてやろう。五日の期間をやる。それまで震えて待て。もし反省の弁を述べるなら、それまでに……」
「五日……わかりました。ではお母様が残した蔵書は私がいただきますね。それでは」
「は……カーティア、ま、待て!」
今すぐでもよかったけれど、せっかく五日間の猶予ができたのだ。有意義に使おう。
父の制止を無視して書斎を出て、お母様の部屋へ向かう。
母は身体が弱く、私が八歳になる頃に亡くなった。しかし、いただいた言葉は今も私の中に残っている。
『カーティア、本は……まだ見ぬ世界、知恵を与えてくれる。読み、学べば、人生はきっと充実するはずよ』
新たな人生を送ろうとしている今の私にとって、母の蔵書は参考になるだろう。
残された本の種類は様々だった、難しい医学書、農学書、薬学書。
そのほかにも、才能ある者しか使えぬ魔法学書や、母の秘蔵のロマンス小説など……
そのどれもが新鮮な知識と物語で、私は寝る間も惜しんで読みふけった。
父の嫌がらせで、私の世話をする者は誰もいなかったけど、一人には慣れているから問題ない。
王妃だった頃と違って時間を好きに使えるから、本を夜更けまで読み続けられる。
怠惰に過ごす日々は、本当に幸せで……あっという間に五日が経った。
母の蔵書をあらかた読み終えて、蓄えた知恵を実践に移したい気持ちが沸き立っている。
農地で作物を育てて過ごすのは楽しそうだし、薬学や魔法学も……三年後に備えて学ぶべきよね。
ワクワクと期待に胸を膨らませていると、父の怒声が響いた。
「カーティア! 書斎に来い! 話がある!」
あぁ、父との話が残っていたことを忘れていた。
さっさと終わらせようと、足早に父の書斎へと向かう。
「カーティア、お前は反省の言葉を……一度も述べに来なかったな」
「そのようなことを期待されても困ります。私は反省などしておりませんもの」
「ぐっ……なら、もう今までのような豪華な暮らしはできぬ覚悟はあるのだろうな?」
「あら、食事は固いパンのみ、冷水で身を洗う日々よりも貧しくなるのなら、むしろ楽しみです」
「こ、この……」
「さぁ! どうぞ私を勘当してください」
「なら望み通り! お前は勘当だ! 王妃でなくなったお前は公爵家の恥! 消えよ!」
机を殴りつけ、父は力の限り叫ぶ。
その視線や声に、私を娘だと思う気持ちは見当たらない。あぁ、それは最初からだったか。
なんにせよ、父自ら親子の縁を解消してくれたのだから、異論などない。
「喜んでお受けします。ミルセア公爵様」
「お前……どのように生きていく気だ」
「し、失礼します! 旦那様!」
父……いや、ミルセア公爵の言葉を遮り、家令が駆け込んできた。酷く焦っているようだ。
「何用だ」
「じ、実は……客人が来ております……そ、それもカーティア様に」
「カーティアに? 帰せ! もはや娘でもない者の客人など家に招くな!」
「そ、それが……きゃ、客人というのは……」
どもりながらも家令は客人の名を告げる。
その名を聞き、流石に私も動揺を隠せなかった。この場にいるはずのないお人だったからだ。
慌てて出迎えの準備を済ませ、応接室に向かう。
「お待たせしました……シュルク殿下」
「いや、こちらこそ急な来訪で申し訳ない。カーティア王妃。いや、もう違うか」
「既にご存知でしたか。どうぞ殿下は気楽にカーティアとお呼びください」
彼はシュルク・カルセイン。グラナート王国の西に面する大国、カルセインの第一王子だ。
そんな彼が他国の、一端の公爵邸に来訪するなど、異例中の異例といえる。
それに、私と彼は国交のためにほんの数回お茶をした程度の仲でしかない。来訪の理由はなんだろうか。
「それで……殿下のご用件とは……?」
「前置きは必要ないね、単刀直入に言おう。君に結婚を申し込みにきた。僕が次期国王となるため、他国から信も厚い君に、ぜひ僕と共に国政を――」
「……あぁ。申し訳ありませんが、お断りします」
礼儀など気にせず、きっぱりと断る。
私は、残りの人生を面倒なしがらみに囚われたくない。
政略の道具になることも、巻き込まれることもごめんなのだ。
たとえ相手が大国の王子でも、その意志は変わらない。
話を遮るように断ったけれど、シュルク殿下は笑ってくださった。
私と彼の立場には天と地程の差があるのに、その気安い反応は意外だ。
農地に恵まれた大地を有し、魔法学の技術を発展させたカルセイン王国は、かつてグラナート王国周辺で長く続いた戦争を終わらせた過去をもつ。
それは、皇帝の統治のもとに多くの人口を有し、圧倒的な軍事力を持つアイゼン帝国と、百年前に停戦条約を結んだことがきっかけだ。
他よりも圧倒的に抜きん出た二国間の停戦を機に、各国の争いも絶えた。
そして、その二つの大国に挟まれているのが私の住むグラナート王国だ。
位置関係もあり、我が国は大国同士の橋渡しのような存在を担っている。私はその第一人者だった。
建前上は対等だが、歴史的な関係からグラナート王国はカルセイン王国に逆らえない。
なのに私の無礼に怒りもせず、シュルク殿下は話を続けた。
「駄目かな? カーティア、君が築き上げた信頼……僕は正当に評価するし、望むのなら愛も与えます」
「シュルク殿下、ありがたいお言葉です。しかし……もう私にはどれも必要ないものです」
「どうしても駄目だろうか?」
「……申し訳ございません。でも、どうしてそこまで私を評価してくださるのですか?」
シュルク殿下はくすりと笑う。
「数年前のカルセインでの交流会、君は我が王との謁見の際に言っただろう? 魔法学の学び舎の門戸を広げ、様々な意見を取り入れるべきだと」
「そ、そんなこともありました……ね」
「現王はそれを実践し、魔法学園を平民にも解放した。すると、平民から抜きん出た才能の持ち主が数多く現れ、魔法学は大きく発展した。それもあり、我が国は君を高く評価している」
確かに過去にカルセイン王へ提案したことはあったが、まさか実行してくださっていたとは……
「評価していただけるのはありがたいです。殿下からの婚約の申し出も、喜びで胸を満たされました。しかし、私はもう政略の中に身を投じる気はないのです」
「そうか……いや、僕が悪かった。君を無理に継承権争いへ巻き込もうとしていた」
シュルク殿下には腹違いの兄弟が何人もいて、王位継承権を争う政敵が多い。
継承戦のため、私に声をかけたのだろうけど、面倒事はごめんだ。
その後も、シュルク殿下とは気さくに会話を続けた。
私が気に病むことがないよう、明るく接してくださったのだろう。
しかし、その朗らかな空気を乱す者が部屋の扉を開いた。
「失礼します。シュルク殿下……我が娘と懇意にしていただき、ありがたく思います」
……ミルセア公爵だ。
シュルク殿下と和気あいあいと話している様子を見て、恩恵にあずかろうとしたのだろう。
勘当したはずの私を娘と呼ぶとは、どうやら彼には恥などないようだ。
「ミルセア公爵、この場をお貸しいただいていることには感謝いたします。しかし私はもう勘当された身、娘ではありません」
「カ、カーティア。殿下の御前なのだ、そのような話は後に」
「おや、勘当を……? それは惜しいことをしましたね、ミルセア公爵」
シュルク殿下は私にいたずらっぽく微笑むと、ミルセア公爵を見て目を細めた。
「僕だけでなく、彼女の身を案じている国や、影響力を取り入れたい国はもう既に動き出しております。そんな彼女を勘当したとは……」
「あ、あぁ。カ、カーティア……さっきの話だが、どうかもう一度話し合いを……」
「ミルセア公爵、貴方が言ったのでしょう? もう終わった話など蒸し返さず、ご退室を」
ミルセア公爵は肩を落とし、「失礼しました」と、哀愁の漂う背を向けて部屋を出た。
「よかったのかい?」
「ええ、彼は私を政略の駒としか見ておりませんので」
もう政略の渦中からは離れて生きるのだ。家の望む駒になるつもりはない。
しかし、シュルク殿下は私を過大評価しているようだ。他国が私のために動くはずがないのに。
「しかし、君はいい意味で変わったね」
「え……そうでしょうか?」
「あぁ、前はまるで……誰かに認めてもらいたいと、焦っているように見えたから」
確かに、私は焦っていたのかもしれない。他国の問題にも積極的に介入し、解決に少なからず貢献できていたと思う。
全ては、アドルフに振り向いてもらうための努力だった。しかし今は、そんな焦りは微塵もない。
そのことを、シュルク殿下は見抜いたのだろう。
「今はただ、自由に生きていたいのです」
せっかく手に入れた二度目の人生、縛られる生活など二度とごめんだ。
「自由に……か。今日は難しいかもしれないよ?」
「へ?」
素っ頓狂な声を出した私を、シュルク殿下が窓の近くで手招く。
何事かと近づくと、彼は外を指差して笑った。
「言っただろう? 各国が君の身を案じて、引き入れたがっていると……僕は一番乗りなだけ」
「……うそ」
窓の外に見えたのは、煌びやかで豪奢な馬車の群れだった。
「君がもう政治から遠ざかると聞いて安心した。他国に君の影響力が渡ることを危惧していたが、杞憂に終わりそうだ。それでは、振られた僕は先に失礼するよ、ここは騒がしくなる」
呆然と立ち尽くす私を置いて、シュルク殿下は部屋を出て行ってしまった。
「困ったことがあれば、いつでも頼ってくれ」と微笑みを残して。
外にいる方々はお世話になった他国の重鎮ばかり……無下になどできるはずはなかった。
◇◇◇
入れ替わり立ち代わりで訪れる来訪者への対応で、目まぐるしい一日だった。
彼らの要件は婚約の申し出や文官への推薦で、もう政治に関わりたくない私は全てを断った。
しかし、まさかここまで評価してもらっていたなんて。
「なにか困りごとがあればいつでも頼ってください。貴方には多くの助言をいただいた」
「カーティア様には、わが国の食料問題改善に手を貸していただいた。ご恩をいつか返させてください」
折角の申し出を断っているにもかかわらず、来る人は皆がお礼を言って去っていった。
以前はアドルフしか見ていなくて気付かなかったが、私は鈍感だったようだ。
他国の方々に、私は想像以上に愛されていたのかもしれない。
「それでは、カーティア様。貴方に祝福を」
「えぇ、ありがとうございます」
最後の来訪者が去っていくのを見送り、大きく息を吐く。
ようやく終わったと思った時には、既に夜中となっていた。
「さて……出ていかないと」
外の夜闇を見つめながら呟くと、意気揚々とした声が返ってきた。
「いやぁ、カーティア。事前に相談してくれていれば、廃妃には賛成だったぞ……仕方がない、また我が家の娘に戻るといい」
「……」
「本当はお前が冷遇されていたことに心を痛めていたんだ。また親子に戻って、じっくりと新しい婚約者を選定しようじゃないか」
ミルセア公爵……ある意味で尊敬の念すら抱く。彼に恥という概念はないのだろうか。
「ミルセア公爵、私に媚を売っている場合ですか?」
「カーティア、父と呼んでくれ。ここを出て行けばきっと後悔するのだから。言うことを聞きなさい」
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「は……な、なにを……お前はなにをしたのかわかっているのか⁉ 王に仕える公爵家としての責任を……!」
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「おや? 後悔するのはミルセア公爵の方でしたね?」
「ま……まま……待て! ゆ、許してくれ、カーティア」
「嫌に決まっております」
さぁ、もう屋敷を出て、好きなことだけして生きられる場所を探そう。
いたずらに時間を消費すれば……この件を聞いたアドルフたちがなにをしてくるかわからない。
そう考えていた時だった。
「あ……あの! カーティア様。よ、よろしいでしょうか?」
今日で何度目になるだろうか、家令が焦った様子で駆け込んできてため息がこぼれた。
「また来客ですか? 申し訳ありませんが、夜も遅いのでお断りを……」
「その、アイゼン帝国の方です。そ……それも……宰相様です」
「これは……また……」
最後の最後で、シュルク殿下と並ぶ程のお客様がやってくるとは。
アイゼン帝国の宰相といえば、皇帝に次ぐ権力者だ。
「わかりました。応接室へ案内してください」
慌てて去っていく家令を見送り、私はミルセア公爵に向き直る。
「ミルセア公爵、これ以上のお話は時間の無駄ですので、ご退室を」
「許してくれ、父を……救ってくれ」
「出ていきなさい。帝国にまで貴方の醜聞を広げてほしいの?」
「ひ……」
低い声で脅すと、そそくさとミルセア公爵は出て行った。
シュルク殿下と面識のあったカルセイン王国と違い、アイゼン帝国は国際交流会にさえ文官しか出席しない閉鎖的な国だ。交流は乏しく、内部の情報は少ない。
帝国の宰相様が、いったい私になんの用なのか。
「入ってよいだろうか」
「……どうぞ」
入ってきたのは、見上げる程大きな体躯の偉丈夫だった。歳は、私よりも二十は上だろうか。
「夜遅くの来訪で申し訳ない。お初にお目にかかります。……アイゼン帝国にて宰相を務める、ジェラルド・カイマンと申します」
「カーティアです。ジェラルド様」
カーテシーをした際に、ジェラルド様の外套の下に漆黒の鎧が見えた。
上手く隠してはいるが、腰には剣を差している。
アイゼン帝国は軍事力に優れていると聞くが、宰相様まで武装しているとは驚きだ。
「それで、ジェラルド様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「あぁ、早速ですが本題に入りましょう。カーティア嬢、実は貴方に縁談を持ってまいりました」
またか……断りの言葉を考えないと。
内心ため息を吐いた時、ジェラルド様はこう言った。
「少々特殊な縁談となりますが、カーティア嬢の自由と、望むものを与えることを約束します」
含みのある言葉に、思わず問いかける。
「特殊な縁談……とは?」
「我が皇帝と、愛なき偽装結婚をしていただきたい。代わりに自由を約束いたします。政務もなにもしなくていい。望むなら土地も用意しましょう」
愛のない結婚。政治にかかわる義務はない。つまり……面倒なしがらみはないということ?
それに加えて、自由と私だけの土地をくれるなんて。
それは少し……いや、かなり興味を惹かれてしまう。
「お話を、聞かせていただけますか?」
再び漏れ出た問いかけに、ジェラルド様は丁寧に答えてくださった。
ジェラルド様から聞いた話をまとめると、アイゼン帝国の皇帝――シルウィオ・アイゼンは今年で二十五歳になるが、いまだ未婚であった。それには彼が公言した言葉に理由がある。
「誰かを愛する気も、子を作る気もない」……と言ったのだ。
それを聞いた貴族たちは当然、娘を皇后にしようとは思わなかった。娘が皇后になっても子を成せず、皇帝の寵愛すらないのなら、身を引くのは当然だ。
更に、シルウィオ皇帝は戴冠式の前に、自分以外の皇位継承権を持つ者を帝都から追放した過去がある。
その件も相まって、機嫌を損ねれば家ごと追放されると、誰もが彼を恐れた。
そして月日が流れ、国内では未婚の皇帝に不信感が募っている。
それらを解消するためにも、愛のない結婚を受け入れる女性を探していたようだ。
「と……いうことなのです。形だけの皇后として、我が国へ来てくださいませんか」
「……どうして私がその候補に?」
「廃妃となったカーティア嬢は自由を望むと聞きました。それに、皇后になっても貴族たちが異を唱えられない程に他国からの信も厚い。これ程都合のいい女性はおりませぬ」
五日前に廃妃となった件だけでなく、既に経緯まで調べあげているようだ。
帝国が持つ情報網が恐ろしい。
「ほ、本当に形だけの皇后でもいいのですか?」
「はい。対価として、自由な生活をお約束します。帝国民を安心させるためのお力添えを願いたい」
正直に言えば、かなり迷っている。本来であれば、他の国と同じく断るべきだ。
しかし、帝国で本当の意味でのお飾りの后になれば……後は望む自由が待っている。
その魅力的な条件に、質問を重ねていく。
「あの、土地というのは実際にはどれ程……」
「流石に城内には住んでいただきたいが……庭園は広いので、それなりの土地を扱えるはずです」
「で、では……農地を作っても? 薬草の研究もしたいので、それらも植えたいのですが」
「へ? の、農地? や、くそう?」
「はい‼」
「そ、そんなものでいいのですか? 望めば金でできた宮も、ドレスも宝石も用意しますが……」
「そんなつまらないものはいりません。私には自分だけの僅かな土地があれば充分です」
「つまら……なんと……」
ジェラルド様は驚きで言葉が出ないようだ。
これは……もしかして、本当に希望通りにいくかもしれない。
現状、帝国に嫁ぐことにメリットしかない。悠々自適に過ごせて……皇后になれば、グラナートに無理やり連れ戻される心配もない。
これは、かなりいいお話なのでは?
「ジェラルド様、もう一つお聞きしてもいいですか?」
「なんでしょうか」
「結婚した場合、政権争いに巻き込まれる可能性はありますか?」
ジェラルド様は頬に笑みを刻んで、首を横に振る。
「ご心配なく。我が陛下に逆らう者などおりませぬ。皆……首は繋がっていたいですから」
「それは……私の身は、安全なのですか?」
「ええ、貴方には庭園に設けた離宮に住んでいただきますので。陛下と会うことはそうありません」
心配はあるが、今は他に行く当てもない。
二度目の人生を自由に過ごす。その夢に最も近い誘いが来て、断る理由もない。
都合のいい話には乗っかる方がいい。もし帝国で面倒事に巻きこまれたなら、逃げ出してしまえばいいのだ。
うん、そうしよう。よし! 決めた。さっさと行こう!
「承知いたしました。お話をお受けいたします」
「っ‼ ありがたい。それでは準備もあるでしょう、二十日後には迎えを」
「いえ、ジェラルド様。そのような時間はありませんよ! 今すぐに向かいましょう、すぐに連れて行ってください! 思い立ったが吉日! さぁ、はやく!」
「は? 準備はいいので? 荷物も……」
「そんなもの、既にまとめ終えております」
にこやかに答えれば、ジェラルド様は呆気に取られていた。
まさか、出て行く間際だったとは思っていなかったのだろう。本当に都合がいい。
「いいのですか? この国に未練や……別れの挨拶などは」
「そんなもの……」
この屋敷で育った幼少期、王宮での生活……彼と過ごした日々、お父様との生活……
思い出しても……腹立たしい記憶しかないじゃないか。
清々しい程に未練がない。
こんな国は捨てて、さっさと出ていこう。
「ありません。行きましょう!」
「え、えらくあっさりと……わかりました。では荷物を持って、外に停めた馬車のところに来てください」
「はい!」
あぁ、なんていい日だ。
帝国に行く不安よりも、自由な生活を送ることへの期待が勝る。
既にまとめていた荷物を持ち、意気揚々と屋敷の外へ向かう。
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