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第三章 恋文は風に乗せて
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第三章 恋文は風に乗せて
南西の山岳地帯は、洛陽とは異なる厳しさを持っていた。石混じりの風が絶え間なく吹きつけ、斜面を越えるごとに空は曇り、寒気が骨の奥に染み込む。
その地に駐屯する裴景輝は、戦略の策定と現地豪族との交渉に忙殺されながらも、毎夜の帳が下りる頃、ただひとつの心の拠り所を持っていた。
それは、洛陽に残る杜若から届く一通の手紙。
細筆で綴られた文字は柔らかく、香を焚きしめた紙からは、あの庭で交わした白梅の香りがふんわりと漂うようだった。
「今日、園の楊貴妃桜がほころびました。けれど、花を見上げながらも、将軍がそばにいらしたなら――と、心は少しだけ寂しくなります」
そんな何気ない一文が、裴景輝の胸を深く打った。将軍として名を馳せても、戦場で声を張っても、この手紙を読む時ばかりは、ひとりの男に戻る。
彼もまた、ひとつずつ心を込めて返歌をしたためた。
「遠き山に 咲く花もまた 君を想う
春の匂いの 文に咲きたり」
言葉にできぬ想いを、和歌に託し、彼女へと託す。
やがて、その往復書簡は十を数え、二人の距離は時空を越えて、なお近くなっていた。
◆
ある夜のこと。
洛陽の杜家では、月見の宴が開かれていた。だが、杜若の心はうわの空だった。
父・杜詩白はその様子に気づき、ふと娘の前に座り、杯を差し出した。
「……景輝殿からの文は、もう届いたか」
その問いに、杜若はうつむき、小さくうなずいた。
「はい、けれど、ここ数日は筆が重そうで……戦が長引いているのでしょうか」
杜詩白はしばし黙し、やがて静かに言葉を継いだ。
「裴景輝はな、かつて我が友の命を守った男だ。誠実で、義を重んじる。しかし……その分、己の感情を最後まで語ろうとしない」
杜若の瞳が揺れた。
「……感情、ですか」
「そうだ。恋に落ちることを恐れる者は多いが、誠実すぎる者ほど、それを“弱さ”と錯覚する」
その言葉は、まるで裴景輝の心を見透かしているかのようだった。
「だが、もしお前が、彼の“弱さ”ごと受け入れるというのなら、父として、これほど嬉しいことはない」
驚いたように顔を上げる娘に、杜詩白は静かに笑いかけた。
「私は、そなたを政略の道具にはせぬ。己の選んだ人と生きよ」
◆
その夜、杜若は灯火のもと、一通の文をしたためた。
けれど、今回は和歌ではなかった。
筆で丁寧に記したのは、ただの思いだった。
「将軍――
私は、あなたの書き損じた行や、言葉の継ぎ目さえ愛おしいと思ってしまいます。
どうか、戦の中にあっても、自らを閉ざさぬで。
私は、どんなあなたも、見つめ続けていたいのです」
手紙を読み返し、そっと唇をかすめた。震える指先で封を綴じ、香を焚いて封蝋を押す。
その手紙は、翌朝、信頼のおける家僕に託され、南西の風へと運ばれていった。
◆
数日後――。
戦の只中にあった裴景輝の元に、その手紙が届いたのは、ちょうど軍議が終わった夜だった。
火灯のもと、文を開いた彼は、最初の数行で筆を落とし、黙然と立ち上がった。
眉の奥で、張り詰めていた何かが、ほどける音がした。
「……若さま?」
副官が不思議そうに声をかける。だが彼は、ただ空を見上げてつぶやいた。
「今すぐ、洛陽へ帰りたい……いや、あの人のそばに帰りたい」
その言葉には、もはや躊躇も虚勢もなかった。
裴景輝の胸の奥で、ようやくひとつの恋が、確かな形を取り始めていた。
――次章へ続く。
南西の山岳地帯は、洛陽とは異なる厳しさを持っていた。石混じりの風が絶え間なく吹きつけ、斜面を越えるごとに空は曇り、寒気が骨の奥に染み込む。
その地に駐屯する裴景輝は、戦略の策定と現地豪族との交渉に忙殺されながらも、毎夜の帳が下りる頃、ただひとつの心の拠り所を持っていた。
それは、洛陽に残る杜若から届く一通の手紙。
細筆で綴られた文字は柔らかく、香を焚きしめた紙からは、あの庭で交わした白梅の香りがふんわりと漂うようだった。
「今日、園の楊貴妃桜がほころびました。けれど、花を見上げながらも、将軍がそばにいらしたなら――と、心は少しだけ寂しくなります」
そんな何気ない一文が、裴景輝の胸を深く打った。将軍として名を馳せても、戦場で声を張っても、この手紙を読む時ばかりは、ひとりの男に戻る。
彼もまた、ひとつずつ心を込めて返歌をしたためた。
「遠き山に 咲く花もまた 君を想う
春の匂いの 文に咲きたり」
言葉にできぬ想いを、和歌に託し、彼女へと託す。
やがて、その往復書簡は十を数え、二人の距離は時空を越えて、なお近くなっていた。
◆
ある夜のこと。
洛陽の杜家では、月見の宴が開かれていた。だが、杜若の心はうわの空だった。
父・杜詩白はその様子に気づき、ふと娘の前に座り、杯を差し出した。
「……景輝殿からの文は、もう届いたか」
その問いに、杜若はうつむき、小さくうなずいた。
「はい、けれど、ここ数日は筆が重そうで……戦が長引いているのでしょうか」
杜詩白はしばし黙し、やがて静かに言葉を継いだ。
「裴景輝はな、かつて我が友の命を守った男だ。誠実で、義を重んじる。しかし……その分、己の感情を最後まで語ろうとしない」
杜若の瞳が揺れた。
「……感情、ですか」
「そうだ。恋に落ちることを恐れる者は多いが、誠実すぎる者ほど、それを“弱さ”と錯覚する」
その言葉は、まるで裴景輝の心を見透かしているかのようだった。
「だが、もしお前が、彼の“弱さ”ごと受け入れるというのなら、父として、これほど嬉しいことはない」
驚いたように顔を上げる娘に、杜詩白は静かに笑いかけた。
「私は、そなたを政略の道具にはせぬ。己の選んだ人と生きよ」
◆
その夜、杜若は灯火のもと、一通の文をしたためた。
けれど、今回は和歌ではなかった。
筆で丁寧に記したのは、ただの思いだった。
「将軍――
私は、あなたの書き損じた行や、言葉の継ぎ目さえ愛おしいと思ってしまいます。
どうか、戦の中にあっても、自らを閉ざさぬで。
私は、どんなあなたも、見つめ続けていたいのです」
手紙を読み返し、そっと唇をかすめた。震える指先で封を綴じ、香を焚いて封蝋を押す。
その手紙は、翌朝、信頼のおける家僕に託され、南西の風へと運ばれていった。
◆
数日後――。
戦の只中にあった裴景輝の元に、その手紙が届いたのは、ちょうど軍議が終わった夜だった。
火灯のもと、文を開いた彼は、最初の数行で筆を落とし、黙然と立ち上がった。
眉の奥で、張り詰めていた何かが、ほどける音がした。
「……若さま?」
副官が不思議そうに声をかける。だが彼は、ただ空を見上げてつぶやいた。
「今すぐ、洛陽へ帰りたい……いや、あの人のそばに帰りたい」
その言葉には、もはや躊躇も虚勢もなかった。
裴景輝の胸の奥で、ようやくひとつの恋が、確かな形を取り始めていた。
――次章へ続く。
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