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番外編 遠き炎に名を呼べば
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番外編 遠き炎に名を呼べば
杜若が政の中枢に名を刻んでいたその頃、裴景輝は北辺・幽州(ゆうしゅう)の最前線にいた。
夏の始まり。異民族との小競り合いが続く地――だが、今回は様子が違った。
「……伏兵、か」
敵は表向き小規模な部隊だったが、夜陰に紛れ伏兵を配し、こちらの進軍路を断っていた。
裴軍は谷間で包囲され、糧秣も絶たれる。味方は三千、敵はその倍。
副将が歯噛みする。
「このままでは――」
だが、裴景輝の顔には焦りの色はない。
「我らには、“帰る場所”がある。迷うな」
そう言って彼は、鎧の内から一枚の布を取り出した。
それは、杜若が書いた詩――あの日、旅立ちに際し託された、彼女の言葉だった。
「帰り来ぬ
春の風にも
揺るがぬ灯
我が名は杜若
君のため咲く」
◆
数日後。夜明けとともに裴軍は動いた。
敵の意表を突く“逆落とし”――絶壁を下り、霧の中から急襲をかける策。
馬も通れぬ断崖を、人と荷がひとつになって踏み越えた。
その決死の奇策は見事に成功し、伏兵を破り、敵将を討ち取った。
だが――勝利の代償は重く、裴景輝もまた深手を負っていた。
彼は自らを担いで運ばせることを拒み、ただ、副将に小さな包みを託した。
「これを……杜若に……もし、俺が帰れなければ……」
副将はその手を握りしめた。
「帰りましょう、将軍。まだ、花は咲いています」
◆
洛陽。
杜若が文をまとめる最中、急報が入った。
「幽州の戦が終わりました。勝利です。しかし……将軍が――」
その言葉に、筆が止まった。
その瞬間、背に冷たい風が走った。
「――景輝……」
彼女は誰もいない書房にひとり立ち尽くす。
だが、震える手で静かに香を焚くと、文机に向き直った。
「彼が帰る場所を、私は守らねばなりません」
書き始めたのは、皇帝への奏文ではなかった。
裴景輝への、手紙だった。
「あなたがどこにいても、この都の空には、白梅が咲いています。
風が吹くたび、花が揺れるたび、私はあなたの名を呼びます。
それだけで、私の中の灯が、揺るがずにいられるのです」
◆
十日後。
傷を癒やした裴景輝が、洛陽の門に帰還した。
城門をくぐると、誰よりも早く走って来たのは――杜若だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
言葉はそれだけで、すべてを伝えていた。
その夜、ふたりは香を焚き、詩を交わす。
杜若:「花の咲く
場所を絶やさぬ
あなたの手」
裴景輝:「その手をとれば
風も怖れず」
ふたりの掌が、静かに重なる。
――春はまためぐり、花もまた咲く。
名を呼ぶ者がいて、帰る場所がある限り。
杜若が政の中枢に名を刻んでいたその頃、裴景輝は北辺・幽州(ゆうしゅう)の最前線にいた。
夏の始まり。異民族との小競り合いが続く地――だが、今回は様子が違った。
「……伏兵、か」
敵は表向き小規模な部隊だったが、夜陰に紛れ伏兵を配し、こちらの進軍路を断っていた。
裴軍は谷間で包囲され、糧秣も絶たれる。味方は三千、敵はその倍。
副将が歯噛みする。
「このままでは――」
だが、裴景輝の顔には焦りの色はない。
「我らには、“帰る場所”がある。迷うな」
そう言って彼は、鎧の内から一枚の布を取り出した。
それは、杜若が書いた詩――あの日、旅立ちに際し託された、彼女の言葉だった。
「帰り来ぬ
春の風にも
揺るがぬ灯
我が名は杜若
君のため咲く」
◆
数日後。夜明けとともに裴軍は動いた。
敵の意表を突く“逆落とし”――絶壁を下り、霧の中から急襲をかける策。
馬も通れぬ断崖を、人と荷がひとつになって踏み越えた。
その決死の奇策は見事に成功し、伏兵を破り、敵将を討ち取った。
だが――勝利の代償は重く、裴景輝もまた深手を負っていた。
彼は自らを担いで運ばせることを拒み、ただ、副将に小さな包みを託した。
「これを……杜若に……もし、俺が帰れなければ……」
副将はその手を握りしめた。
「帰りましょう、将軍。まだ、花は咲いています」
◆
洛陽。
杜若が文をまとめる最中、急報が入った。
「幽州の戦が終わりました。勝利です。しかし……将軍が――」
その言葉に、筆が止まった。
その瞬間、背に冷たい風が走った。
「――景輝……」
彼女は誰もいない書房にひとり立ち尽くす。
だが、震える手で静かに香を焚くと、文机に向き直った。
「彼が帰る場所を、私は守らねばなりません」
書き始めたのは、皇帝への奏文ではなかった。
裴景輝への、手紙だった。
「あなたがどこにいても、この都の空には、白梅が咲いています。
風が吹くたび、花が揺れるたび、私はあなたの名を呼びます。
それだけで、私の中の灯が、揺るがずにいられるのです」
◆
十日後。
傷を癒やした裴景輝が、洛陽の門に帰還した。
城門をくぐると、誰よりも早く走って来たのは――杜若だった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
言葉はそれだけで、すべてを伝えていた。
その夜、ふたりは香を焚き、詩を交わす。
杜若:「花の咲く
場所を絶やさぬ
あなたの手」
裴景輝:「その手をとれば
風も怖れず」
ふたりの掌が、静かに重なる。
――春はまためぐり、花もまた咲く。
名を呼ぶ者がいて、帰る場所がある限り。
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