春よ、君を守りたし ―中華恋絵巻―

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番外編 遠き炎に名を呼べば

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番外編 遠き炎に名を呼べば

杜若が政の中枢に名を刻んでいたその頃、裴景輝は北辺・幽州(ゆうしゅう)の最前線にいた。

夏の始まり。異民族との小競り合いが続く地――だが、今回は様子が違った。

「……伏兵、か」

敵は表向き小規模な部隊だったが、夜陰に紛れ伏兵を配し、こちらの進軍路を断っていた。

裴軍は谷間で包囲され、糧秣も絶たれる。味方は三千、敵はその倍。

副将が歯噛みする。
「このままでは――」

だが、裴景輝の顔には焦りの色はない。

「我らには、“帰る場所”がある。迷うな」

そう言って彼は、鎧の内から一枚の布を取り出した。

それは、杜若が書いた詩――あの日、旅立ちに際し託された、彼女の言葉だった。

「帰り来ぬ
春の風にも
揺るがぬ灯
我が名は杜若
君のため咲く」



数日後。夜明けとともに裴軍は動いた。

敵の意表を突く“逆落とし”――絶壁を下り、霧の中から急襲をかける策。

馬も通れぬ断崖を、人と荷がひとつになって踏み越えた。

その決死の奇策は見事に成功し、伏兵を破り、敵将を討ち取った。

だが――勝利の代償は重く、裴景輝もまた深手を負っていた。

彼は自らを担いで運ばせることを拒み、ただ、副将に小さな包みを託した。

「これを……杜若に……もし、俺が帰れなければ……」

副将はその手を握りしめた。

「帰りましょう、将軍。まだ、花は咲いています」



洛陽。

杜若が文をまとめる最中、急報が入った。

「幽州の戦が終わりました。勝利です。しかし……将軍が――」

その言葉に、筆が止まった。

その瞬間、背に冷たい風が走った。

「――景輝……」

彼女は誰もいない書房にひとり立ち尽くす。

だが、震える手で静かに香を焚くと、文机に向き直った。

「彼が帰る場所を、私は守らねばなりません」

書き始めたのは、皇帝への奏文ではなかった。

裴景輝への、手紙だった。

「あなたがどこにいても、この都の空には、白梅が咲いています。
風が吹くたび、花が揺れるたび、私はあなたの名を呼びます。
それだけで、私の中の灯が、揺るがずにいられるのです」



十日後。

傷を癒やした裴景輝が、洛陽の門に帰還した。

城門をくぐると、誰よりも早く走って来たのは――杜若だった。

「おかえりなさい」

「ただいま」

言葉はそれだけで、すべてを伝えていた。

その夜、ふたりは香を焚き、詩を交わす。

杜若:「花の咲く
場所を絶やさぬ
あなたの手」
裴景輝:「その手をとれば
風も怖れず」

ふたりの掌が、静かに重なる。

――春はまためぐり、花もまた咲く。
名を呼ぶ者がいて、帰る場所がある限り。
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