紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月5 -始壊-

2章 欲する者、忌避する者

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「形成する知識と記憶はそんな簡単に変えて等くれない。」


中間層が多いとはいえ、ナナフォーリ住宅街に建っている家屋は大きいのが多
い。家と言うよりは屋敷と言える建物が散見される。その所為か静かで、自分
の衣擦れの音が気になるくらいだ。この状況は閑静な住宅街という言葉が、本
当に当てはまるなと思わされた。
駅前には建っていたビルが、五分も駅から離れると見当たらなくなる。雑多な
感じもなく本当に住宅地なんだなと思いながら、目的地を目指していた。
お金持ちが住む家はまあ、何となく同じ感じだ。大小はあれ、外壁に門、庭を
抜けて建屋が存在する。様式美なのだろうか、憧れない事も無いが私は店舗の
上の居住区域で十分だ。大きい家を持っても使い道が思い付かない。
いや、中を改装してカフェ兼アクセサリーショップとか。でもカフェは行きた
いものであって、やりたいものではないし、こんな屋敷が在るような場所じゃ
人が来なさそう。観光地でもないしね。
そんな事を考えているうちに辿り着いた目的の屋敷は予想通りの作りというか、
典型だった。さっさと終わらせて帰りたいので、壁を飛び越え敷地内に入る。
私が思うに監禁なんかする奴は大胆でいて用心深い。目的の場所は執拗に警戒
して、外は勘繰られないよう平静を装う。つまり屋内に入るまではそれほど警
戒してないだろうと。
屋敷の裏口は都合の良いことに鍵は掛かって居なかった。暗い屋内をどう探す
かだが、地上部分の窓に怪しいところは無いと依頼書に記載があったため、地
下の可能性が高いだろう。窓掛が締め切っている部屋なんか、通常の生活をし
ている家なら目に付くだろうし。
私は音を立てないように怪しい場所を調べる。ありがちな台所の床、階段下の
物置部屋、部屋では無さそうな扉、はトイレだった。廊下の突き当たり、は窓
なので関係無い。見つからない。もう就寝しているのか、住人の動きが感じら
れないのは助かるが。
正面玄関の広間に来て、途方に暮れるまではいかないが困った。怪しいところ
は探したつもりだし、空気の流れからそれらしい臭いもしない。広間から続く
二階への階段を見ながら、まさか堂々と二階か?と、まだ探していない二階へ
と目を向ける。
薄暗い中、階段に近付いていくと、階段下の壁に違和感を感じた。木造の壁だ
が、木目が途中でずれている。近付いてみると分かった、なかなか大胆。押し
てみると小さな扉になっていて、奥に壁が開いていった。私は躊躇せずにその
先の階段を降りる。
漂ってくる腐敗臭に顔をしかめながら突き当たりの鉄扉を開けた。溢れ出す臭
いがきつくなる。何でこういう奴らはこうなんだ、目的以外に無頓着なのか行
為に対する誇示なのか分からないが胸糞悪い。
部屋の中には幾つもの死体が部屋の隅に置かれていた。見る限り全部男性のよ
うだったが、腐敗が進んでいる死体に関しては分からない。一人、まだ生きて
いるであろう男性は裸のまま鎖に繋がれている。眠っているのか気絶している
のか不明だが、目的の人物は居ないので私は一階の広間に戻る事にした。
広間に戻った私は対象を探さなければと思い、腐敗臭を振り払うように一度頭
を振る。
「あら、お客様とは気付かずお出迎えしないで申し訳ありません。」
突然上から聞こえた声に驚いて、玄関の方に跳んで距離を取る。二階に目を向
けると女性が階段を降り始めたところだった。依頼書の写真と一致しているの
で、あれが今回の対象であるユニキナ・ノーデルゲで間違いなさそうだ。
ユニキナが階段を降りる足音に、鎖が擦れる金属音と何かを引き摺るような音
が混じっている。降りきった女性の横には初老で小太りのの男性が四つん這い
で床を這っていた。両手足を鎖で拘束され、首から伸びた鎖は女性が握ってい
る。裸の胴体に上腕、太腿は痣だらけで変色していた。
司法裁院の依頼書にも詳細は書いていなかったが、概ね想像通りだ。地下に監
禁されている男性もそうされるのだろう。しかしこの女性、線が細くひ弱そう
な感じは何処かで見たような。
「薬莢は夕刻に受け取りましたわよ。何か不手際でもありましたでしょうか。」
あ、髪の色が違うから気が付かなかったが、麻酔の薬莢を依頼してきた女か。
って事は薬莢もろくな事に使ってないでしょうね。地下に捕らわれていた男性
とかね。
「ちょっと野暮用。」
誰かは知らないが、あの初老男性は悪いけれど死んでもらうしかないなと思い、
ユニキナを睨み据えて言う。初老男性の方は出来れば苦しませずに殺そうと考
え、視線を移動させるとユニキナが妖艶に笑んだ。
「まさか、ポチが欲しいのですか?」
「いるわけないでしょ!」
私は突拍子もない言葉に、思わず声を大きくしていた。発想がそもそもおかし
いわ、目を向けただけで同類に思うなんて。
「ですわよね。この生活を望んで結婚したんですもの。お金が無ければこんな
老体と一緒になんかなりませんわ。」
待て待て。私の聞き間違いじゃ無ければ、鎖に繋がれ床を這ってポチと呼ばれ
ている初老男性が旦那ってことか。しかも平然と酷い事を聞いたな、鎖に繋い
でおきながらお金が無ければ一緒になっていないとか。
「冴えないお役所の中間管理職が、若い女性を相手にするのだから当たり前で
しょう?我が儘と思うでしょうけれど、お互い納得して一緒にいるのよ。」
ユニキナはそう言って微笑むと初老男性の背中に腰を下ろした。男性の顔が強
張ったのは踏ん張っているからだろうか。どうでもいいけれど私の知らない世
界ね、知りたくも無いけれど。
「私には興味の無い話しだし、お互いそれでいいなら好きにすればいいわ。」
私の知らないところで好きにやっていればいいだけの事。地下にあんなものが
無ければ、早々に引き上げているところよ。
「あら、でしたらご用件は何かしら?」
話しているとこっちがおかしくなりそうだ。早いところ用件を済ませよう。椅
子にされている旦那も腕が微かに震え始めている。細いとはいえ、人一人を四
つん這いで支えるのも疲れるのだろう。
「地下に居る男性について。」
単刀直入に聞くことにした。それで大概の人間は態度が急変する、と思ったが
ユニキナは呆気に取られたような顔をしただけだった。まさか開き直るつもり
か?
「そういう事でしたのね。」
ユニキナは納得したように頷くと再び妖しい笑みを浮かべる。
「そりゃ若い方がいいわよね。貴女の麻酔のお陰で先程、新しいポチを捕まえ
たばかりなのよ。貸してあげてもいいわよ。」
一瞬頭の中が白くなった。この女は私を同類だと思っているんだろうか。いや
それ以前に、自分がやっている事が犯罪だという意識が無いように感じる。説
くつもりなんて毛頭無いが、いや殺すの確定なのだけど胸糞悪いな。
「旦那だけで済ませれば良かったでしょう。」
良くは無いが、それでも他の男性まで犠牲にする必要はないだろうと思って私
は言っていた。見つけた時点で問答無用に殺しておけば良かったと、湧き上が
る黒い感情と共に私は後悔していた。
「この人が仕事に行っている間、私の相手をしてくれる人が必要なの。声を掛
けた男性も下心があって来ているのだもの、お互い様でしょう?」
そもそも考え方がどうかしている。お互いではなく一方的に相手の人生を蹂躙
しているだけじゃないか。そういう奴は何を言ったところで自分の何が間違っ
ているのか、理解しようとはしないんだ。
「この人は寛大だから、許してくれているのよ。だから不貞でもないわ。」
黙れ。そういう話しじゃない。人じゃ無いとは言わない、そういう人間は生ま
れるし幾らでも居る。だけど、私は気に入らないのよ。
「な、何よ、恐い顔をして・・・」
ゆっくりと近付く私にユニキナは動揺したのか、恐怖を顔に浮かべて言った。
黒い感情に包まれた私はどんな顔をしているのだろうか。見れたものじゃない
かも知れないわね。旦那も共犯だったなんて、本当に胸糞悪い奴らね、苦しま
せずにとか考えた私が馬鹿みたい。
近付いた私はユニキナの首に向かって右手の<六華式拳闘術・華流閃>を放つ。
首をはねる筈だった手刀は、ユニキナが旦那から飛び降り鎖を引いて旦那を持
ち上げたために、旦那の顔を両断した。左耳の下から鼻筋を抜け、右目を通っ
て右側頭部まで朱線が浮かぶ。
(あの細腕の何処にそんな力がっ? )
放り出された旦那が重低音を響かせ床に倒れると、衝撃で切断された頭部から
血と脳漿が飛び出し、目を見開いたままの顔を赤黒く染める。その体液が床を
汚す前に、私は階段を駆け上がるユニキナとの距離を一気に詰めると、背中に
向かって右拳を突き出す。右回転で振り向いたユニキナが、回転の勢いを使っ
て右手で私の突きを払う。
(っつ!馬鹿力め・・・)
更に逃げようとするユニキナの左足を、私は左手の<華流閃>で払った。踏み
出したユニキナの左足は、膝から上だけが赤黒い体液を垂らしながら進み、踏
ん張る事が出来ずにユニキナは前のめりに階段へ激突した。
「っっぎゃああああぁぁぁぁっ!」
階段に切断面が触れたユニキナは、両手で左足を押さえて絶叫を上げる。痛み
に悶えた勢いで階段に留まることも出来ず、左足から血を撒き散らしながら転
げ落ちていく。避けた私は直ぐにユニキナを追うと、床で止まったところで首
を目掛けて右足を振り下ろした。
跳ね起きたユニキナの、首があった場所を<六華式拳闘術・華巖閃>の鎌鼬が
撫で床を切り裂く。ユニキナは私に憎悪の右目を向けて動きが止まった。跳ね
起きた先に私が放っていた<六華式拳闘術・華徹閃>に、頭部の左半分を吹き
飛ばされて。吹き出した血と、溢れる脳漿で顔を汚しながら、ユニキナはゆっ
くりと崩れて行った。
私に向けた憎悪を浮かべた目だけは、ずっと私に向けたまま。
苦戦したわけじゃ無いが、すんなり殺せなかったのは間違いなく私の油断だっ
た。悲鳴を上げられてしまったので、近くに人が居れば警察局に直ぐ連絡が行
く可能性もある。そう考えると私は迷わず屋敷を後にした。
おそらく身体強化あたりの呪紋式でも使用していたのだろう。薬莢を依頼した
人物だと分かった時点でそれは考慮されるべきだった。それを怠っていたのだ
から油断以外の何物でもない、本当に。
アイキナ市に居たときと違って、擁護してくれる警察局員が居ない事を思い出
した。それに気付くと、油断していた自分に腹が立つ。私はアーランマルバに
来たばかりで、前みたいにある程度自由に動けない、そんな事も考えていなか
ったんだと。
帰りはユニキナの行為よりも、自分の馬鹿さ加減に辟易して帰った。ユニキナ
への胸糞の悪さと、自分への呆れで気分が悪すぎる。部屋に戻った私が即冷蔵
庫を開け麦酒を取り出したのは言うまでもない。
人は簡単に変わりはしない、そんな事は分かっているのよ。喉に流し込んだ麦
酒は変わらないのに、美味しく感じないのは私の問題だ。アイキナに居てもア
ーランマルバに居ても、場所が変わっただけで私自身が変わっていない。だか
ら、結局同じ事を繰り返して醜態を晒している自分に嫌気が差す事も変わらな
い。みっともない。



焼き魚を食べる少女は無表情で咀嚼すると、器用に口から骨だけを吐き出して
皿の端に乗せる。向かいで食べる老人は特に何も言わず、こちらも無表情に白
米を口に運んで咀嚼するとお椀を口に運んだ。
「上手いな。」
「ん。」
老人の言葉に少女が頷くと、老人は口元を緩めた。表情は無いが美味しいもの
を食べて満足しているのは、長年の付き合いのため老人にも機微は分かってい
る。それは少女にも同様だったため、老人が口の端を緩めた事に疑問の目を向
ける。老人は隠すようにお椀を口に運んだ。あれ依頼、酒が入る事の無くなっ
たお椀を。
「何でもない。」
「そう。」
誤魔化すように言った老人の言葉を、それ以上は興味が無いように少女は相槌
を打った。
朝食が終わりお茶を飲んでいると、少女の顔が強張った。老人が真剣な眼差し
を少女に向けたからなのだが、見ていなかった少女は気配で察し老人には顔を
向けようとしなかった。老人はお茶を啜ると、少女が見ていなくても口を開く。
「頼みがある。」
「・・・ゃだ。」
老人には目を向けず少女は小さく拒絶を口にする。何となく少女には老人が言
おうとしている事が分かっていた。でもそれは口で拒絶したところで、時間は
容赦なくもたらす結果だと分かりつつも。
「儂の我が儘で、お前にその業を押し付ける事になってしまうが。」
「聞きたくない。」
老人の言葉に少女は睨み返して声を大きくする。その目には涙が浮かび始めて
いた。
「やだ。」
はっきりと拒絶する少女に、老人は態度を変えずに見据えたまま話しを続ける。
「儂と仕合え。」
「なんで。もうしないって言った。」
老人の願いに少女の頬を涙が伝う。
「それでも良いかと思っとった。だが、そう思った途端に逆の思いが膨れ上が
るばかりになった。」
「わかんない。」
少女はそう言うも老人から目を離さず、涙が溢れる目で睨むように見ていた。
言葉では避けても気持ちが避けられないように。
「自分の事だから分かる、今を逃したくはない。」
「ジジイの思い込み。」
受け入れてしまえば結末まで止まらない。逆らえない刻の流れだとしても、少
女は言葉だけでも抗おうとしているようだった。現実を冗談にしようと笑んで
見せようとするが、顔が歪むだけで涙が加速していく。
「もって二日か三日だろう。己が身体だ、もう誤魔化す事も出来ぬ。」
老人はそう言うと表情を緩めた。自分が我が儘を言っているのは分かっていた、
それでも少女が受けてくれなければ叶わない思いと、押し付けるつもりなど無
かった事から。
「・・・」
少女は無言のまま、何時の間にか俯いていた。少女を追い詰めた後悔と、押し
留めていた思いを吐き出した満足の、ない交ぜになった気持ちを老人はお茶と
共に飲み下した。
「それで満足?」
「・・・ああ。」
少女の言葉に老人は一瞬戸惑ったが、静かに返事をした。言った事に対してな
のか、望んだ事に対してなのか、少女の真意は分からなかったがどちらでも良
かった。言葉にした現実は変わらない、故に少女に押し付けた枷は変わらない
が、それでも言った事に悔いは無かった。
「いいよ・・・」
「・・・」
絞るように漏らした少女の答えに老人は驚いた。言う前からその答えは無いと
思っていたから。何処までも自分の我が儘でしかない。その思いを受け止めら
れた事に老人の目にも涙が浮かぶ。
「お茶、飲んでからでいい?」
「ああ。」
俯いたまま少女はそう言うとお茶を啜った。拾ったのも我が儘、人里を離れ満
足な生活をさせてやらなかったのも我が儘、六華式拳闘術として掛心の技を教
えたのも我が儘、その上死に方すらも押し付けた。最後まで我が儘を通し、そ
れでも少女が受けてくれた事に老人は忸怩たる思いだった。自分の人生に悔い
は無いが、少女への思いだけがそう思わせた。
「行こうか。」
「すまない。」
「バカジジイ、今更。」
顔を上げて言う少女の顔は、微かだが笑みを浮かべていた。止まらない涙は納
得していないようだったが、笑みは優しく見えた。
「こんな生き方しか出来ぬ。」
「ほんと、今更・・・」
家を出る老人が言った言葉に、後ろに続く少女が呆れたように応える。寂寥を
含んだ言葉も老人は、己が業だと受け入れた。
家の裏手の広場で対峙するのを、老人は懐かしく感じていた。吐血して以来、
少女が嫌がったため来ていない。実際のところそんなに日は経っていないが、
十年以上ほぼ毎日ように来た場所だ。
踏み固められた土は硬いまま、空も何時もと変わらない。老人は上空に目を向
けるが感慨に耽る事もなく少女に目を向ける。少女の目から流れていた涙は既
に止まり、ただ老人を見据えていた。
お互い何を言うでも無く、合図も無しに少女の姿が霞む。老人との距離を一気
に詰めた少女の右拳が、老人の鳩尾目掛け繰り出される。容赦の無い一撃に老
人は満足そうに笑んで、右半身を引いて避けながら少女の顔に向かって左拳の
突きを放つ。少女は左に軽く避け、直ぐ様右足で踏み込み肩当てをするが老人
が後退して空かすと、同時に右足の中段蹴りが少女の胴に放たれる。
少女は跳び上がりながら右足の蹴りあげを老人の顎に放ちつつ、後方宙返りで
蹴りをやり過ごす。頭部を後ろに反らせて少女の蹴りを避けた老人は、右足の
蹴りを踏み込みに変え、少女が着地する前を狙い右拳の突き出す。が、一瞬早
く着地した少女の姿が消え空を打つ。
(ぬ、早い!)
老人の突き出した右腕の下に少女は既に潜り込んで左手の突きを脇腹目掛けて
放っていた。老人は直ぐ様右腕を引きつつ踏み込んだ右足を軸に、左手の回し
打ちで迎撃しようとしたが、既に少女の姿は無く、同時に衝撃が身体を駆け巡
った。
「これで、町に行っていいよね。」
「あぁ・・・」
泣きそうなか細い声で言う少女に、老人は満足そうに笑むと静かに答えた。背
中に突き刺さった少女の抜き手から、血が滴るのと同時に少女の目からも涙が
溢れ出す。同じく少女から溢れる嗚咽の中、老人の膝も地に落ちた。
仰向けになった老人を、少女は涙と鼻水で汚れた顔で見下ろす。
「一人で満足そう・・・」
口から血を吐きながら老人は満足そうに笑った。それでも少女に与えた枷から
か、目に悲哀の色を浮かべ涙を流す。だがそれを口にしてしまっては、応えた
少女の覚悟に叛くと思い口にはしなかった。
「ああ・・・儂は、幸せだ・・・」
「クソジジイ!・・・」
ぐしゃぐしゃの顔で少女は叫び、地面に崩れるように膝を付く。呼吸が弱くな
っていく老人を、霞む視界で何も出来ずに少女はただ見ていた。
「気にするな・・・どうせ、寿命だ・・・」
「バカ・・・死ね・・・」
優しく、弱くなっていく老人の言葉に、少女は悪態を付くと嗚咽が高まってい
く。逆に静まっていく老人の呼吸は、殆ど聞こえなくなっていた。
「元気・・・で・・・」
「ぅうっぁ・・・ぁぁぁぁああああああっ・・・」
老人は最後まで言えずに事切れた。穏やかな顔をして動かなくなった老人の顔
は見ずに、少女は天を仰いで悲しみの叫びを発し続けた。何もない広場には少
女の声だけが、力尽きるまで漂っていた。

眠っている時に見る夢は、夢であって所詮造りものの映像かもしれない。夢と
いうものは、そういうものなのだろう。意識せずに勝手に見せられる断片の映
像、意味が有るのか無いのか定かではない。
現実は起きている時に降りかかる事象であって、夢の中は脳が持つ記憶を組み
合わせたパズルの断片なのかも知れない。しかし現実で見た事や体験した事な
ど無い事すら見せつけてくる。それは本で読んだり、テレビで見たり、想像し
たりする事で得られた記憶を、脳が組み合わせて遊んでいるのだろうか。どの
ような理由にしろ、寝ている時に見せられるものはろくなものじゃない内容が
多すぎる気がする。
だが、麦酒の缶を持ったまま起きた私が見た夢は、夢でなく紛れも無く現実に
在った過去の事象。忘れていたのか、思い出さないようにしていたのか、自分
でも分からないけれど、その記憶を呼び起こした映像。何故、この前から過去
の出来事だけ鮮明に呼び起こされるのか。普段見る意味不明な夢なんてすぐ忘
れるのに。起きてもはっきりと覚えている。
まあ、アラミスカ家の式伝継承とリュティとの邂逅が起因しているのは間違い
ないと思うのだけど、嬉しくもなんともない。嫌な記憶は嫌でしか無かったが、
当時の私は酷く寂しかったのだと今回の夢で気付かされた。それがまた嫌なの
だけど。当時は何を考えていたのか、何も考えていなかったのか分からない。
当時の私にとってジジイは、十年以上一緒に居た家族であり居て当たり前の存
在だったのだろう。その生活が当たり前だった所為で、現実を拒否していたの
かもしれない。
夢とはいえ現実に在った出来事だから目が覚めても消えはしないのだろう。嫌
でも突き付けられる再認識と事象の螺旋は記憶に刻み付けられ、私という存在
を構築している。
昨夜の胸糞悪い仕事と、自分の感情すら処理しきれずお酒に逃げた結果なのよ
ね。突っ伏していたテーブルから上半身を起こし、手に握っている缶を振って
みる。何時も通り中身は入ったままだ。勿体ないので口に運ぶと、炭酸が微か
に残っている。美味しくないのは分かっているのだけど。
炭酸が残っているという事は、そんなに時間は経っていないのだろうかと時計
を確認すると午前三時だった。中途半端な時間。
(もう一回寝よう・・・)
そう思いぬるくなった残りの麦酒を飲み干すと、私は寝室へと移動した。



早朝、暗闇の中で散らつく白い小雪が舞うモフェグォート山脈間道の手前には、
ザンブオン軍の有志が集まっていた。昨日から変わらずゆっくりと舞い散る雪
は、気温も上がらず晴れもしない大気の所為で薄らと積もっている。モフェグ
ォート山脈は白く化粧をされ、山頂は曇天に覆われて見る事が叶わない。
間道も積もった雪により、行軍の難も上がるであろう事は誰の目にも明らかだ
った。通常であれば車の往来も多いため、この程度の雪で間道が埋もれる事は
ない。だが今は、間道は通行止めになっているために、雪が土瀝青の道も覆い
隠してしまっている。
「最初に向かった兵が全滅した場所まで通常であれば二時間程。この足場の悪
さでは三時間はかかるか・・・」
集う兵を見ながらインブレッカは独り言葉を漏らした。予報からすれば暫く好
天は見込めそうにない、早いうちに出なければ間道の悪化も増すばかりだ。好
天が来たとしてもこの寒さでは雪が溶けるとも思えない。溶けたとしても舗装
されているのは車が通る部分だけのため、乱戦になればぬかるんだ泥土に足を
捕られるだろう。そう考えれば今が無難であるだろうとインブレッカは思って
いた。
ただ、悪道のなか重火器や武器を携え三時間とはいえ、行軍はかなりの疲弊を
伴う。こまめに休憩をさせる必要がある事を考慮すれば、もう少し要するだろ
うとインブレッカは思案した。六時に出発したとして、順調に行軍できれば昼
前には目的地に辿り着き、目的を達して夕方までには下山を終える予定でいた。
後は隠葬隊に任せて朗報を待てばいいと。
「もっとも、居場所さえ分かれば全力で潰しに行くが。」
インブレッカは自分を奮い立たせるように独り言うと、用意された簡易な椅子
から立ち上がり集った兵の前に出る。その姿を目にした前列から静寂が始まり、
五百八十三人の有志はあっという間に静まりかえった。緊張の面持ちで壇上に
上がったインブレッカに視線が集中する。
「内容は既に承知だろう。天候も敵に回ったが諸君等なら問題なかろう。乗り
越えて特別報奨を持って休暇を堪能するといい。功を上げた者には上乗せして
やる、存分に普段の己が鍛練を示せ。」
インブレッカが不敵な笑みを浮かべて檄を飛ばすと、一斉に雄叫びが上がり大
気を震わせる。インブレッカは満足気に頷くと右手を上げ、前方に振り下ろす。
それを合図に集った有志がモフェグォート山脈に向かって行軍を始めた。六百
人弱とはいえ、武器を携えた兵の行軍は長靴が地を打ち鳴らし音が響く。
「さて、我輩も出るか。」
行軍が踏み均した道を、インブレッカとそれを護衛する十人の兵が続いた。

別の場所からその行軍を見守る四人の男女が白い息を吐く。鼻の上まで覆う黒
い服に、上下の服からコートに至るまで黒一色に身を包んだ四人は、間道から
少し離れた小高い丘で隠れるように身を屈めていた。
「隊長、寒くはないのですか?」
その中の一人、唯一の女性が一人だけ防寒着も着けず装束のみで、目だけを出
した覆面男性に疑問を投げる。装束の上に防寒着を重ね、首もとにマフラーを
巻き手袋までしていても冷える女性にとって、その姿は異様に感じた。
「・ん・・・っ・ゃく」
「何でしょう?」
覆面から微かに漏れた声に、女性が聞き返す。
「心頭滅却だそうだウアナ。メブオーグ隊長は平気なんだよ。精神統一が成せ
る業なんだとさ。ウアナは一緒に行動した事が殆ど無いから知らないだろうが、
暑かろうと寒かろうと隊長には関係無いないのさ。」
別の男性が代弁して女性、ウアナに説明する。ウアナはメブオーグに胡乱気な
眼差しを向ける。精神を統一しようが暑いものは暑いし、寒いものは寒い。つ
まり変人なんだと自分に言い聞かせ、納得する事にして表情を引き締まらせた。
「成る程、流石です。」
理解は出来ないがそう言っておく事にした。メブオーグは視線を行軍する兵に
向けたまま、ウアナの言葉を肯定と受け取ったのか静かに頷く。当然、自分も
同類だと思われては困ると思ったが、ウアナにその言葉を出す勇気は無かった。
「そろそろ俺等も行動開始っすね。」
今まで黙ってやりとりを見ていた男性が、やる気無さそうに軽い口調で言った。
「ああ、先回りして場所を確保しなければな。」
別の男性の言葉を合図に四人は一斉に動いた。雪が積もり足場の悪さなど無い
かのように、黒い霞のように。


「ハイリ様自ら出向くのですか?」
先日行ったリンハイアとハイリの打ち合わせ内容を聞いて、アリータは驚きに
疑問を漏らした。三国同盟からの要請に備え行った打ち合わせでは、要請に対
するグラドリア国軍の派遣は確定となっている。
問題は何処に、どれだけ送らねばならないかだが、要請が来てみない事には確
定出来ない。それでも幾つかの案を備えて置けば、派遣まで迅速に事が進む。
その詳細の為の打ち合わせだったと認識していた。
「そうだ。ナベンスクを落とされるわけにもいかない。その為の布石としてハ
イリ老が現地に向かう。」
軍司顧問自ら出る等、本来であれば考えられないとアリータは思った。リンハ
イアもハイリも動かす側であり、率先して先陣する立場ではない。まして他国
の戦争である。対外も考慮すれば尚更だと。
だが、ナベンスク領に在るあれの為に軍事顧問自ら出向くのであり、それが無
ければ出る事も無かったのだろうとリンハイアの言葉から推測した。
「三国同盟から今日にでも要請は来る。向かうのもナベンスク領、ロンガデル
高原だ。」
まだ起きてもいない事を、まるで確定しているかのようにリンハイアは言った。
アリータはそれを聞いても、可能性くらいにしか思えない。それでもリンハイ
アが言う以上、そうなるのだろうと思っていた。
「私たちが動く要素はあるでしょうか?」
執務諜員が今回の戦争に関与する事があるのか、アリータは確認しておきたく
リンハイアに問う。
「必要は無い。既にサールニアス自治連国は戦争の真っ只中だ、とうに我々の
出番は無くなっている。不足の事態でも無い限りは。」
リンハイアの言う通り、戦争にならないようにするのが執政統括の務めだろう。
だからこそ、執務諜員は各国の情勢を把握するため、リンハイアの指示の下に
派遣されている。その執務諜員が戦争で動くとなれば、余程の事態だと考えら
れる。
サールニアス自治連国に関しては、各自治国、自治領があるとはいえ一つの国
として存在するため、今回の戦争も内戦と言える。内戦の場合、他国が関与す
るのはかなり難しい。リンハイアが戦争を食い止めるというわけにはいかない
のが現状だろうとアリータは考えている。
「サールニアスはハイリ老に任せるとして、今は北方連国とバノッバネフ皇国
の方を気にする必要がある。」
サールニアス自治連国の戦争はメフェーラス国の独走によるものだ。不毛な地
からの脱却、サールニアスの統一、それが見えている戦争だ。鎮圧してしまえ
ば終わる事だから、ハイリの土俵なのだろう。目的がナベンスク領にある大呪
紋式だった場合、リンハイアは違う手を打っていただろうか。それとも執務諜
員に出番が回って来ただろうかとアリータは考えた。それが目的でない保証は
何処にあるのだろうかという懸念は、胸の奥に仕舞って。
故に執政統括としては、今起きて対処可能な事よりも、先に在る懸念に対処し
なければならない。その為の執務諜員なのだと、リンハイアの言葉をアリータ
は受け取る事にした。
「その北方連国ですが今朝方、以前の倍以上の兵がモフェグォート山脈に出立
したと、エリミアインから朝一で報告が来ています。」
リンハイアは頷くと険しい顔をして、グラスから水を口に含んだ。
「インブレッカ将軍も本腰を入れ始めたか。」
「その様です。後発で将軍本人も続いたと、エリミアインも言っていました。」
「何?・・・そうか。」
リンハイアはアリータの報告に一瞬疑問を口にしたが、直ぐに一人納得したよ
うだった。反応からみるにインブレッカが出る事までは、予想していなかった
のだとアリータにも分かった。ただその後の言葉が何を意味しているのかまで
は分からない。
「バノッバネフの方はどうだ?」
「はい、セヌベリグによれば今のところ変化は無いようです。」
話しがバノッバネフへ飛んだ事でアリータは一瞬戸惑ったが、セヌベリグから
来ていた報告をする。
「ターレデファンの封鎖により執務諜員は動かせない、か。」
リンハイアはそう言うと顎に手を添えて何かを考え始める。今の発言から北方
連国へ執務諜員を送ろうと考えたのだろうが、言葉の最後にあった一瞬の躊躇
は何か。山越えを考えて止めたのではないかとアリータは考える。警戒態勢の
今、山越えは得策ではない。そんな事を考える程、北方連国の状況は悪いのだ
ろうかと不安を感じた。
「クスカ殿に連絡を取ってもらえないか、話したい事があると。」
「はい、あの薬莢製造工場の方ですね。」
「ああ。」
何度か来た事のある無愛想な背広姿の男性をアリータは思い出し返事をした。
本人の資質なのか敢えてそうしているのか、挨拶をしても変わらない眉間の皺
は、無愛想を通り越して不機嫌なのかと思わされる程だった。
その態度を見る限り、絶対営業では無いとアリータは断定している。ただ、薬
莢であればカマルハーが管理しているため、リンハイアは関係していない事を
考えれば、肩書きは嘘なのだろうとここに来て察した。
「聞いてもよろしいですか?」
「クスカ殿の事かな?」
「はい。」
アリータの問いが何かをリンハイアが口にする。話しの流れから分かりやすい
問いなので、アリータは素直に返事をした。聞きたいからと言って教えてくれ
る程、優しいとも思っていないが。
「彼が来たときでもいいかな?今回は一緒に居てもらって構わない。」
聞けない可能性は考慮していたが、同席は予想外だったためアリータは一瞬硬
直した。
「はい、問題ありません。」
返事をしたものの、未だにまさかという思いが抜けずにいた。直ぐに聞きたい
ところではあったが、近いうちに明かされると思えば、逸る気持ちをアリータ
は抑えた。
「北方連国の件は彼が来てから改めて話す。エリミアインには余計な事をせず
に注視するよう伝えてくれ。」
「分かりました。クノスの方は変わらずで問題無いでしょうか、今のところ変
わった動きもありませんし。」
「オーレンフィネアの方はそれで問題ない。」
クノスからは定期報告以外の連絡はなく、その内容に変化もない。そのためア
リータは現状維持の確認をした、リンハイアの中でもオーレンフィネアに動き
はないと思っているのだろうと安堵する。
ターレデファンについても、ユリファラからは定期報告以外の連絡はない。エ
カラールの検問所を封鎖した以降、多少の不満はあれど国内は通常通りに動い
ているとの事だった。北方連国としては大陸南方への出口になっているため、
迂闊に手は出せないのだろう。ザンブオンとカリメウニアが牽制しあっている
うちは。
「ユリファラも、ですかね。」
「ああ。」
一通りの話しが終わるとリンハイアは水を飲んで、椅子の背凭れに身体を預け
た。忙しくなる前の小休憩のように。



2.「他人に流されるのは思考の放棄だ、欲望こそ原動力である。」

「このままでは埒が明かないのではないかね、宰相殿。」
金糸銀糸の刺繍が施された赤い重厚な布が掛けられた机に、中年男性が肘を付
いて言った。同じく座っている椅子にも同じ布が掛けられている。短めの髪を
殆ど後ろに流しているが、前髪の一部が額に掛かっている。端整な顔立ちは髭
も生やさず、清潔感があり表情は穏和だった。ただ、眼だけが刺すように机の
向かいに立つ男性を射抜いていた。
「フィデムグート陛下の懸念もごもっともですが、執行までこのギネクロアに
お任せ頂きたい。」
靴先が隠れる程の毛足の絨毯を踏みしめ、ギネクロアは中年男性、フィデムグ
ートの視線を受け流し言うと頭を下げる。
「やり方が温いから変わらないのではないかと言っている。」
「先導している皇国が前に行きすぎては、逆に周辺国へ不穏を落とす事になり
ましょう。警戒がこちらに向き軋轢を生み出しかねません。」
法皇国オーレンフィネアへの強硬を望むフィデムグートに対し、ギネクロアは
諭すように言う。現段階の制裁でも他国では、強気だなんだと報道され政府も
追従して来ない。これ以上の独走は自分の首を締め兼ねないとギネクロアは考
えていた。
「着いて来ないのは緩いからではないのか、という話しなんだがな。宰相殿の
懸念を聞きたいのではない。」
既に期限付きで次の政策まで公表している。それを変更するなど不信を生むだ
けで、事態の好転はしない。懸念ではなく現実だとギネクロアは思うが、堪え
て平静を装う。
「皇国を案ずればこその慎重になっております。公表している態度を変えては
威信に関わりましょう。今先導しているのは皇国です、期日までは現状維持が
いいでしょう。」
穏和だったフィデムグートの顔が不満を表し始めた事に、ギネクロアは内心で
辟易しながら答える。
「まあよい。宰相殿がそこまで言うのであれば期日を待とう。それよりあれの
準備は出来ているのか。」
「ありがとうございます、全霊を以て以後も臨みましょう。あれについても滞
りなく。」
皇国も珍しくはない世襲制であり、宰相家も例外ではない。遺伝としては継が
れるのだろうが、家系の人間全てが資質を引き継ぎ開花するとは限らない。現
国皇がどうかと言われれば疑問だが、ギネクロアは前国皇である故ロデナイー
トと現国皇のフィデムグートとしか知らないため判別は出来ない。伝聞などは
信に値しないと思っているが、全ての国皇が今と変わらないのであれば、バノ
ッバネフ皇国は残っていなかっただろうとはギネクロアには思えた。
宰相家に伝わっているあれの所在についても、宰相家で良かったと安堵してい
た。フィデムグートであれば利用しかねない。滞りないとは言ったが、実際の
ところは方便でしかない。ギネクロアは『不慮の事故で死んだ』マールリザン
シュにも言った通り、自身が手を出すつもり等無い。何故なら今のオーレンフ
ィネアを見れば理由は明らかだからだ。
メーアクライズの件で各国が足並みを揃えた筈なのに、それでも利用しようと
する人間は出てくる。その末路が今のオーレンフィネアだと言うのに、同じ道
を辿らなければ理解出来ないのかと。
「では今暫く、刻を待つとしようか。」
「はっ。英名なご判断かと。それではわたくしめは此れにて。」
「うむ。」
ギネクロアは恭しく頭を下げて言うと、国皇の執務室を後にした。部屋の扉を
閉めると、やっと解放されたかと思いを溜め息に混ぜて吐き出す。皇国の事を
考慮すればあれを用いるべきではないが、国皇の説得の方が難儀だとギネクロ
アは内心辟易していた。
今は合わせて丸め込んでおかねば、面倒な事になると。他国、特に実被害を被
ったグラドリア国の動きの悪さには苛立ちを隠せない。法皇国オーレンフィネ
アに対して、隣国ペンスシャフル国よりも消極的なのだから。もう少し強気に
出てもらわねば皇国としても動きずらいと思わずにはいられなかった。



気分が悪い。まあそれはよくある事なので気にしてもしょうがない。開店時間
少し前、お店の前に回ると既にサラーナが待っていた。リュティも横で苦笑し
ている。お店の出入口以外に出入りする場所は無いので、そうなるのは必然な
のだけど、待たれるのは嫌だな。開店時間前に開けるつもりも無いし。
「開店してからでいいわよ。十時過ぎてから来てくれれば。」
家の造りをそこまで考慮してなかったというのもあるけれど、開ける前に自分
の家の中に入られるのも嫌なのよね。だから開店後でいいかと思って言う。個
人店だから開店は私の気分次第になることも多い、待ち惚けさせるのも酷だし。
「仕事ですから、気にしないで下さい。」
「いや、私が気にしているのは、開店前にお店の前に立たれるのが嫌なのよ。」
はっきり言っておかないと、勘違いされても面倒だし。
「成る程、分かりました。」
納得したのかしていないのか分からないけれど、サラーナは真面目な顔で頷い
た。給与を支払っているのは国だけど、その辺はカマルハーが融通を利かせて
くれれば良いだけの話しだ。私はそこまで面倒を見るつもりは無いし、そもそ
も私のお店なのだからこっちに合わせてもらわないと。
「うん、合わせるのはそっちよ。なんならカマルハーに言うけど?」
「いえ、大丈夫です。」
「そう、なら明日からそうしてくれると助かるわ。」
笑顔で言ったサラーナの横に移動して、お店の扉の鍵を解錠する。
「それと予定なく休む時はなるべく早く連絡するわ。」
「分かりました。」
お店に入りながら言った事に、サラーナの返事を聞いて今日の仕事に話しを切
り替える。
「昨日出来ていない三点セット、今日やってみて。」
「はい。」
「繰り返しや時間は問わないわ、聞きたい事やこれならって記述が出来たら教
えて。」
「はい。」
作業場でサラーナに記述を任せると、私は店内に戻ってカウンターを前に椅子
に座る。開店直後のためお客さんはまだ居ないので、カウンターに肘を付いて
顔を乗せた。リュティがこっちを見て呆れた笑いを漏らしているが、特に何も
言ってこない。
それは朝食の時からだが、昨夜司法裁院の仕事をした事と麦酒の缶を見て、余
計な気を回しているのだろう。昨日は司法裁院の仕事が有ったとはいえ、他に
も色々あってなんか疲れた。人を雇った?事、他人の記述を見た事、記述済み
の薬莢を売っているお店に行った事、ナナフォーリ住宅街に行った事、全部初
めてだ。そりゃ疲れるよね、って自分を擁護しておく。
今日はゆっくりしようと思っているので、サラーナには頑張ってもらおう。お
店はちょいちょいリュティに任せればいいし。って、司法裁院への報告だけは
出さなきゃいけないか。そう思って少しうんざりしたところで、お店の扉が開
いた。
「いらっしゃいませ。」
私は慌てて姿勢を直して来店に対しての言葉を口にした。リュティの何時もと
変わらない微笑を横目に。



ザンブオン軍が目的の場所に着いたのは、昼過ぎだった。降る雪は変わらずに
舞っていたが、強くも弱くもならず変化は見せていない。途中で二度ほど取っ
た休憩も想定内だった。インブレッカにとって想定外であり、遅れの原因とな
ったのは兵の練度である。雪山の行軍など普段から行っているわけではないの
で当然と言えば当然で、それを加味しての予想だたったのだが、結果としては
上回ったのだ。
カリメウニアやダレンキスが主な想定であるため、山岳の訓練はそれほど行わ
ない。モフェグォート山脈を越えて北方連国を攻める利が無いからだ。南方か
ら攻めるのであれば、ターレデファンを通らざるえないが、その場合無理に山
中で戦う必要もない。広くない間道は攻めるには不利なのだから。
山脈自体、越えようとする者はいるが、行軍が出来る地形でもない。戦う場所
が限られるため、訓練としては自給と持久を鍛える事が主な目的となっている。
まして降雪時は、敢えて山に入ろう等とは考えない。
今回の事ですら想定していなかった、まさか雪の中間道を登るなどとは。
「流石に冷えますね。」
インブレッカの横を歩くゲイラルが白い息と一緒に吐く。昼過ぎでも、日が射
さず雪が降る間道は登るにつれて寒さが増した。
「分かりきった事とはいえ、思う様にはいかぬな。」
肯定を含んでインブレッカも漏らす。行軍が遅れた原因の一つでもあるこの寒
さと、山肌を白に染めるものに視線を向けて。
「私よりフラガニアの方が良かったのでは。」
「あやつは今回の件は望んでいない。連れて来るのは酷だろうよ。」
寒さから一番若いフラガニアにすれば良かったのにとゲイラルは言ったが、イ
ンブレッカはあっさりと否定した。
「ま、確かに邪魔になりかねないですな。」
ゲイラルはインブレッカの言った含みを汲み取ったつもりだったが、それには
肯定も否定も返って来なかった。ゲイラルは肩を竦めて話題を替える事にする。
「来ますかね。」
「なに、その時はあれを探して手に入れるだけよ。腹の虫は収まらんがな。」
インブレッカは不服そうな声で言った事に、来ることを望んでいると察すると
ゲイラルは複雑な気分になった。死んでいった兵には申し訳ないと思いつつも、
出来れば何事も無い方が楽に越した事はないと。現れればまた多くの兵が死ぬ
事も分かっているが、なにより面倒事は避けたかった。
「来ましたか・・・」
その時、離れて先を行く兵達のどよめきが聞こえて、ゲイラルが望んではいな
いと含んで呟く。
「いや違うな。」
前方を見据えインブレッカがそれを否定した。それに対してゲイラルは他に何
がという疑問が沸いたが、直ぐに理解した。漂ってくる腐敗臭に顔をしかめて。
先に殲滅させられた兵の亡骸に遭遇して、目の当たりにした兵に動揺が表れた
のだと。

「多いね。」
「この前の倍以上は居るな。年寄りには辛いの、お前さん一人で何とかせんか
?銀閃のユエトリエリ・オルソーグ・イラセードならなんとかなるじゃろ。」
「恥ずかしいのでその名前はやめてください。それにさぼるとミサラナに怒ら
れますよ。」
山腹の中、山肌の突起に隠れてザンブオン軍の行軍を見ていたユエトリエリが
笑顔で言うと、グベルオルは呆れた顔で面倒臭そうに言った。
「それも厄介よの。」
笑顔で続けるユエトリエリの言葉に、グベルオルはやはり面倒臭そうに返した。
「前回と違ってやる気ですね。」
「後ろに恐そうな御仁が控えておるからだろうよ。」
数が多い上に、今回は自分と戦う前提で集められただろうと思わされ、ユエト
リエリは呆れを含んで言った。グベルオルが後方に目を向け、興味深そうに続
ける。
「インブレッカ将軍ですね。」
「ほう。そりゃまた大物よな。その御仁を討てば諦めてくれんかの。」
「ま、一時的でしょうね。」
グベルオルが提案するも、ユエトリエリが苦笑して言った。その点に於いては
グベルオルも内心で同意する。いくら潰したところでその場しのぎにしかなら
ず、人は過去の脅威よりも目の前の欲に飛び付く生き物だと証明されているの
だと。
「でも僕らは、その時間を稼ぐしか無いんだよね。」
「そうじゃの。」
ユエトリエリが笑顔に哀しみを浮かべて言い、グベルオルが同意すると身体を
重そうに動かす。後方に目を向けて、眉間に皺を寄せると表情を険しくした。
「儂はあれをやる。」
「ずるいですよグベルオル老。」
インブレッカを見据えるグベルオルに対して、ユエトリエリは笑顔で言うが足
は先行する軍へと向けて歩き出していた。
「帰って温かい紅茶が飲みたいなぁ。」
そう言うとユエトリエリの姿は、舞い散る雪を撹乱して消えた。

先行する兵達から悲鳴と怒号が上がった。耳に届くと同時にインブレッカは、
左腰に下げた剣を抜く。幅広の長剣を右下に垂らして持つと、前方を凝視する。
横ではゲイラルも両腰の短剣を抜剣して、先の兵を睨んでいた。
殆どが各々武器を手に散開を始める。慌てて移動したためか、雪に足を取られ
て体勢を崩す兵も少なくない。それはこれ迄の行軍から予想出来た事なので気
になる事では無かった。
その粗末な行動よりも敵影は見えないが、後ろに付いていた二十の瞳には悪夢
のような光景だけが映っていた。腕や首が宙を舞い、不規則な太さの赤い糸を
幾重にも引いていき、千切れては宙に赤い飛沫を撒き散らす。吹き上がった血
泉は、大気を赤く染め上げていった。
銃撃の音はたまに響くものの、剣撃の音は全く聞こえて来ない。ただ自軍の屍
だけが量産されていく光景がインブレッカを含む十人の目に映っていた。
「悪魔、でも出ましたかね。」
「分からぬ。だが当初の予定通り敗走する、後は隠葬隊に任せてな。」
インブレッカもゲイラルも前方の光景から目を離さずに言う。ただ冷静なイン
ブレッカと違い、ゲイラルは不敵な笑みを浮かべていた。
「はい、正直彼らには荷が勝ちすぎてましたね。」
「ああ、我らも後退するぞ。」
インブレッカはそう言うと抜剣したまま後退を始める。殿を務めるように、ゲ
イラルが最後尾に付くが、熱を持った眼差しは前方の惨劇に向けられたままだ
った。
「面倒じゃが、帰ってもらうわけにはいかんでの。」
突如背後から上がった声に、ゲイラルは振り向いた。インブレッカ始め他の八
人も剣を向け、現れた老人に警戒を最大にする。
「何者だ。」
「さて、お主等に名乗る名などあったかのう。」
インブレッカの上げた誰何の声に、老人は白く長い顎髭を撫でながら首を傾げ
て惚けて見せる。
「ふざけおって。」
インブレッカの声を合図に、先頭に居た三人の兵が一斉に襲い掛かる。兵の上
段からの振り下ろしを老人が避け、そこへ別の兵の突きが繰り出される。背後
で惨殺されている兵とは違い練度が高く、連携も申し分なしと思ったインブレ
ッカは直後驚きに目を見開く。
突き出された剣先にグベルオルは右拳を当て、そのまま砕くように突き出す。
その衝撃は刀身を粉砕して兵の持ち手を砕き腕を破壊して胴を打つと身体が後
方に吹き飛ぶ。同時にグベルオルの左拳は剣を振り下ろした兵の腹部にも潜り
込んでいた。拳を受けた兵は背中が弾け、皮膚にその下の黄色い脂肪、腸やそ
の中の汚物も鮮血と一緒に撒き散らかされる。後方で待機していた兵には飛び
散った血や内臓、汚物が叩き付けられ貼り付いた。
もう一人の兵はグベルオルの隙を見逃さず、仲間の惨状も気にせずに斬り込ん
だ。渾身の袈裟斬りはグベルオルの居た場所の空だけを斬り裂いて地面を打つ。
その兵の視界が一瞬赤く染まり暗転した。頭上から振り下ろしたグベルオルの
右拳は兵の頭を潰し、耳や鼻からは脳漿と血が吹き出し、眼球は視神経を引い
て飛び出す。衝撃はそのまま骨を砕いて胸部までを潰し、原型の無い頭部を上
半身に埋めて鮮血を飛沫かせた。
「ありゃ駄目ですね。」
その光景を見ていたゲイラルが薄ら笑いを浮かべて言った。
「確かに、雑兵ではどうにもならんな。」
「私が時間を稼ぐので、将軍は山を下りて下さい。」
何時の間にか構えた剣に力を込めていたインブレッカに、ゲイラルは隣から一
歩前に踏み出して言う。インブレッカが横目に見ると、グベルオルを前にゲイ
ラルの笑みは狂気を含んでいた。
「わかった。だが熱くなりすぎるな、隠葬隊元隊長。」
「分かってますよ。」
ゲイラルは両手に持った短剣を逆手に持ち変えて、硬直している兵の間を進む。
「お前らも下っとけ、邪魔だ。」
ゲイラルの声に硬直が解け、慌てて兵達は両側に道を開ける。悠々とグベルオ
ルにゲイラルは近付き、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「爺さんよ、あんたらちょっと殺り過ぎだね。」
「もう一人恐い御仁がおったか。」
血に塗れた左手でグベルオルは、無造作に伸ばした白髪に埋もれる頭を掻いて
困った様に言った。
「あの人程じゃ無いけどね。」
短剣の先で後ろに居るインブレッカを指して、ゲイラルは言うと姿が消える。
ゲイラルは首に向かって左手の短剣を突き出すと、グベルオルが左手で刀身を
掴む。ゲイラルは既に手を離していて、右手の短剣が胴に突き刺さった。が、
グベルオルの姿は消える。ゲイラルは突き出した右手を弧を描いて下から回し、
身体を回転させながら背後に斬り上げるが、鈍い振動と共に弾かれた。
「なんと・・・」
背後に回り短剣を弾いたグベルオルが、顎髭を撫でながら驚きの声を漏らす。
左脇腹が赤黒く染まっているローブは、確かに短剣が刺さった確証なのだが、
グベルオルは何事も無かった様に顎髭を撫でていた。
「なんだそりゃ、ちょっと厄介だねぇ。」
「そりゃこっちの台詞じゃな。」
グベルオルは目を細めると気配と共に姿が消える。ゲイラルの背後に移動した
グベルオルは、背中に拳を放った。ゲイラルの姿も消え、グベルオルの拳は残
像を穿つように空を突く。背後に回り込んだゲイラルの右手短剣がグベルオル
の背中を凪ぎ、逃げるように前に出た首筋を左手短剣の突きが追い縋る。グベ
ルオルは横に跳んでやり過ごすが、振り向き様に左手を払って飛来した短剣を
叩き落として顔を歪めた。
「二本、じゃと・・・」
グベルオルは左脇腹に突き刺さった短剣を引き抜くと、ゲイラルに投げ付ける。
「なにも背後を取るのは爺さんの専売特許ってわけじゃないさ。」
新しく抜いた短剣で、飛来した短剣を弾きながらゲイラルは不敵な笑みを浮か
べて言うと、右手の短剣を投擲した。グベルオルは飛来した短剣を右拳で砕く
と姿が消える。
「ぐっ・・・」
グベルオルが消えて直ぐにゲイラルは左に跳びつつ短剣を投擲、右手に現れた
グベルオルの右肩に刺さり苦鳴が漏れる。
「確かにそりゃ、雑魚相手には有効だな。」
「一体何本持っておる・・・」
両手に短剣を構えるゲイラルを忌々しげに見て言うと、右肩の短剣を引き抜く。
傷口を覆うように白光が浮かぶと、傷口が塞がり出血が止まった。
「爺さんの呪紋式の方が疑問なんだが、まあ私には興味ないね。人だろうが人
外だろうが、あんたは生きて帰れると思わないこったな。」
「やれやれ・・・骨が折れるわい。」
グベルオルは間道を下って小さくなるインブレッカと配下の兵の姿を見て溜め
息を吐くと、ゲイラルに向き直り眼光を鋭くする。
「怖いねぇ。」
ゲイラルは口の端を上げて言うと、構えを取るグベルオルにゆっくりと歩み寄
る。直後、無音でグベルオルとの距離を一瞬で詰めると、左の短剣で首を払う。
グベルオルは左拳でその短剣を打ち、同時に右拳をゲイラルの胴に放つ。が、
既にゲイラルは後方に跳躍しており空だけを打つ。
「おのれ・・・」
グベルオルは引き際に刺された左脇腹を押さえてゲイラルを睨むと、怨みを吐
くように声を漏らす。ゲイラルは右手の短剣を振り、血を払うと再びグベルオ
ルに向かって歩き出す。
「どんな拳をしているんだか。」
ゲイラルが刀身の砕けた左手の短剣を見て、呆れたように言ったところでグベ
ルオルの姿が消える。ゲイラルはそれを見ると愉悦に顔を歪めるて、一瞬身体
を撓めると姿が消える。ゲイラルの頭上に移動したグベルオルは、拳を振り下
ろそうとして姿が無い事に気付く。悪寒を感じ直ぐにまた移動するが、斬り飛
ばされた左手の肘から先だけが残った。移動したグベルオルの背後にゲイラル
は跳躍して、左手を斬ったのだった。ゲイラルは更に移動したグベルオルに、
砕けた左手の短剣を投げ付ける。
「何故分かる・・・」
飛来した短剣の柄を右手で弾くと、苦渋に顔を歪めゲイラルを睨み付けてグベ
ルオルは言った。
「空中じゃ降りるまで無防備になっちまうな。」
着地したゲイラルは苦笑して言うと、グベルオルに冷めた目を向ける。
「気配を消され回り込まれたら勘に頼るしかないが、爺さんの移動は丸分かり
なんだよな。」
「馬鹿な・・・」
「気配ごと消えるから分からないだろうって思ってんなら、頼り過ぎだな。」
グベルオルは苦渋の顔のまま、右手の短剣を上に投げては掴んで言うゲイラル
を睨み付けた。その仕草を止めるとグベルオルを睨み返す。
「どうせその手も生えるかくっつくかすんだろ。」
ゲイラルは言い終えると、地面を蹴ってグベルオルとの距離を一気に詰め、短
剣で顔を目掛けて突きを出す。グベルオルは避けずに右拳をゲイラルの胴を目
掛けて繰り出した。ゲイラルは慌てて短剣を離し身を捩って、グベルオルの拳
から逃れる。
「ぐあっ!」
直撃は免れたものの、衝撃が左脇腹を襲い回転しながらゲイラルは吹き飛んだ。
間髪入れずグベルオルはゲイラルの着地点へ移動して、右拳を突き出した。ゲ
イラルは左手で短剣をその腕に突き刺して、無理矢理空中で起動を変えてグベ
ルオルを飛び越える。
「危ねぇな・・・」
「ぬぅっ、まだ隠し持っておったか・・・」
グベルオルは振り向いて言うと忌々しげに、口で右腕に刺さった短剣をぬいて、
左目に刺さった短剣も抜いて粉砕した。右腕と左目に白光の呪紋式が浮かぶと
その傷を修復していく。
「そっちは治るからいいが、こっちは普通の人間なんだがな。」
ゲイラルは痛む脇腹を左手で押さえ、回避を捨てて反撃に出たグベルオルを睨
んで言った。その手がゆっくりと赤く染まっていく。
「普通には思えんの。」
グベルオルは言うとまた姿が消える。同時にゲイラルも消え、グベルオルが拾
おうとした落ちた左手を蹴飛ばす。
「させるかよ。」
現れたグベルオルが右手をゲイラルに打ち上げ、避けたゲイラルの抜き手が左
目を貫く。グベルオルは気にせずに姿を消して移動すると、蹴られて宙を舞う
左手を掴みに行く。
「だからさせねぇって。」
ゲイラルは更に追い縋って、左手を弾こうと左拳を突き出すが危険を感じて咄
嗟に引いた。だが間に合わず腕をグベルオルの右拳が掠める。
「いってぇぇっ!」
飛び退るゲイラルの腕が捻れ、半ばから千切れて鮮血を吹き出す。
「来る場所が分かっているなら攻撃出来るんじゃろ。これであいこじゃの。」
「てめぇ・・・」
口の端を上げたグベルオルにゲイラルは、痛みに顔を歪めて唸った。
「ぬっ・・・」
ゲイラルの動きが止まった事で、落ちた左腕を拾おうとしたグベルオルが苦鳴
を上げる。
「拾わせるわけにはいかないな。」
右手に持った短剣を振りながらゲイラルは不適な笑みを浮かべて言う。投擲さ
れた短剣が右腕とこめかみに刺さったグベルオルが、血に塗れ憎悪を浮かべた
表情をゆっくりとゲイラルに向ける。こめかみに刺さった短剣が右目を潰して
いたが、反対の左目には憤怒が浮かんでいた。
「まさかまだ持っていたとはな・・・」
グベルオルが怨みを吐き出している間に、ゲイラルは間合いを詰め右手を突き
出す振りをする。グベルオルは直ぐに姿を消して逃れるが、予想していたゲイ
ラルは移動場所を察知すると、一瞬で間合いを詰める。
「そんなに長い距離は移動出来ないんだろ。」
「くっ!」
グベルオルは胸への突きを辛うじて右腕で防ぐ。そこへゲイラルの蹴りが腹部
を捉え、グベルオルは後方に吹き飛んで雪の上を滑った。その身体を追うよう
に飛来した銀光は、吸い込まれるようにグベルオルの右太腿に突き立った。
「ぬぐっ・・・」
「連続での移動も無理そうだな。」
ゲイラルは短剣を更に取り出すと、追い討ちをかけるために走り出して直ぐに
横に跳んで短剣を投擲する。甲高い音と共に弾かれた短剣が宙を舞った。
「最後の短剣だったのに勘弁しろよな。って、餓鬼かよ。」
自分の突進を止めた上に短剣まで弾いた人物を見て眉をひそめる。
「グベルオル老、派手にやられちゃってるね。」
ユエトリエリは紺碧の髪も白い肌も血に染め笑顔をグベルオルに向ける。ゲイ
ラルは惨劇が起こっていた方を横目で見ると恐怖に顔をひきつらせた兵が間道
を下って来ていた。それはユエトリエリを追って来たのではなく、逃げる場所
が他に無いからだろう。白かった間道は赤黒く色を変え、その色の体液が流れ
出しそうな程だった。至る所に人体の断片や内臓が飛び散り湯気を上げている
光景はまさに地獄だった。
「お前、一人でやったのか・・・?」
ゲイラルは吐き気のする光景を見てユエトリエリに問う。
「グベルオル老がこっちをやるって言うからしょうがなくね。」
「お前ら何なんだよ・・・」
笑顔で言うユエトリエリにゲイラルは辟易して力無く漏らした。それは全滅に
はまだ遠いがかなりの数を殺して笑顔でいる少年にか。脇腹よりも千切れた左
腕の方が重傷で体力の限界から来る疲弊にか。ゲイラルにも分からなかったが、
何もかもどうでもいい気分になって来ていた。
(ま、時間は稼いだろ・・・)
そう思って苦笑したところで逃げ出して来た兵がゲイラルとユエトリエリの間
を駆け抜ける。二人が居ることも気付かず必死に恐怖の形相で走る兵の顔は、
ユエトリエリを過ぎたところで赤い糸を引いて宙に舞った。続く兵も胴を両断
され下半身が先行して前のめり倒れると、鮮血と桃色の腸をぶちまける。後か
ら上半身が鈍い音を立て地面に落ちると、衝撃で断面から内臓が飛び出した。
「まだ殺るか・・・」
ゲイラルはユエトリエリを睨み付けるが、笑顔のまま振る剣は止まらずに敗走
する兵の首を、腕を、足を、胴を容赦無く斬り飛ばし白い間道を赤く染めてい
く。断面から噴き出した鮮血が大気を赤く煙らせ、溢れた内臓と垂れ流された
汚物が悪臭を放ち、血臭と混じりゲイラルは吐き気が込み上げてくる。
ユエトリエリが兵の首を飛ばしたところで、頭部が在った場所を飛来してきた
短剣をユエトリエリは剣で受けると、ゲイラルに笑顔を向ける。
「さっき最後って言ったのに、おじさん嘘つきだね。」
ユエトリエリが剣を振るのを止めてそう言うと、ゲイラルとの間を兵達が駆け
抜けて行く。
「ああ、探したら一本残ってたんだ。」
「そっか、それは幸運だったね。」
ユエトリエリは言うと間に居た兵の胴を両断しながらゲイラルとの距離を一気
に詰め、剣を袈裟斬りに振り下ろす。ゲイラルは潜り込むように駆け抜けると
ユエトリエリを背にグベルオルの方にそのまま駆け抜け、短剣を投擲した。短
剣は起き上がっていたグベルオルの胸に吸い込まれローブを赤に染める。
「おのれ・・・」
「化け物どもめ・・・」
怨みを漏らすグベルオルを睨み、ゲイラルは地面に倒れ込んだ。太腿中程から
切断された左足が白い雪に赤を吸わせていく。
「くそ・・・」
「呆れるよ。」
ユエトリエリは短剣を持ったゲイラルの右腕を、剣で貫き大地に縫い止めると
笑顔で見下ろして言う。
「お前らには負けるけどな・・・」
ゲイラルは口の端を吊り上げて嗤って言うと、そこで胴と頭部を分断された。
噴き出した血がその顔を赤く染めていく。
「どうせその傷じゃ無理だろうからね。」
ユエトリエリは剣を振って血を払うと動かなくなったゲイラルに言った。
「グベルオル老は、大丈夫じゃなさそうだね。」
「だから儂は来たく無かったんじゃ。暫くは動けん。」
グベルオルは笑顔で聞くユエトリエリには目を向けず、血に染まったゲイラル
の頭部を忌々しく睨んでそれだけ言った。
「今日はもう引き上げるしかないね。」
まだ逃げ切れず近くを走って間道を下る兵を見ながら、ユエトリエリは呟いた。
「お主一人でもやれるじゃろ。」
「疲れたし、臭いし、寒いし、帰ろうよ。」
「まったく、使命感の無いやつじゃな。」
「グベルオル老には言われたくないって。」
ユエトリエリはそう言って苦笑すると、グベルオルを担ぎ上げて逃げる兵と反
対方向に進み、兵から見えなくなったところで雪が積もる山肌を駆け降りた。



「エリミアインからですが、ザンブオン軍はほぼ壊滅。インブレッカ将軍も出
ていたようですが、敵と遭遇後直ぐに帰還したようです。やはり前回と同じ二
人が出て応戦したそうです。」
リンハイアは浮かない顔でアリータの報告を聞いていた。
「で、その二人は?」
「はい。老人の方はかなり怪我をしていたようで、少年が担いで去っていった
そうです。」
その報告にリンハイアの浮かない顔が険しくなる。いくら人外の強さを持って
いるとはいえ、数や一部の強敵相手では耐えられないのだと。
「インブレッカ将軍の事だ、次は本気で動く。エリミアインには動向を逃さず
少しでも動きがあるようなら随時報告するように言ってくれ。」
「はい、分かりました。」
間に合えばいいがとは思うが、ザンブオンの準備時間に左右される事がリンハ
イアには歯痒かった。動きは分かっても所詮は他国の事、要する時間まではそ
うそう把握出来るものではない。
「ナベンスク領への派遣だが、要請の内容は概ね予想の範疇だった。既に準備
は整っているので一両日内には出立可能だろう。」
「いよいよ本格的に我が国も参戦するのですね。」
「ああ。」
避ける事の出来ない戦争に憂いの表情で言ったアリータに、リンハイアも同意
して頷いた。望まぬ人の方が遥かに多いだろうに、その意思とは関係なく争い
は起こされ否応なく周囲を巻き込んでいく。思想の衝突は長引くほど関係の無
い人を、地を、理不尽に蹂躙して終わるまで止まらない。
「クスカ殿の方は連絡が取れたか?」
動き出している事態に対しては現状何もする事はなく、思いを馳せる事に意味
は無いとリンハイアは振り払って話しを変えた。
「はい、明日の朝来るそうです。」
「そうか、ありがとう。」
リンハイアはそう言うとグラスから口に水を流し込んだ。北方連国への介入は
国として出来ない、クスカと話すまではエリミアインの情報しか得られないの
が現状だ。
「明日の朝か・・・」
静かな部屋の中でリンハイアの小さな呟きは、アリータにもはっきり聞こえた
が、思慮する顔を見るだけで言葉の真意を問う事は出来なかった。



夜半前、ザンブオンの城館では会議室に集まった四人は沈痛な面持ちで、長机
に視線を落としていた。インブレッカのみは目を瞑って何かを考えるように腕
を組んでいる。
「戻りませんな。」
ゴスケヌが視線を落としたまま静かに言うが、誰が追随するでもなく静寂がま
た流れる。暫しの間をおいてインブレッカは目を開けると、顔を上げた。その
仕草に三人の視線が集まる。
「隠葬隊は?」
「戻ったらすぐ此方に来るよう伝えてありますので、まだ戻っていないのかと
。」
誰にともなく上げたインブレッカの疑問にフラガニアが答える。
「次は出せる範囲での総力戦だ。ゲイラルと目的の一人であろう老人の闘いを
見る限り、届かない相手でもない。」
「これ以上の犠牲を出すに値するのですか?逃げ帰って来た兵は百五十七人で
す。まだ戻ってくる可能性があるかも知れませんが、前回と合わせ死者は六百
人を超えています。」
インブレッカの言葉にフラガニアが噛みつくように、今回の作戦の是非を口に
した。その行為を咎めるようにゴスケヌとベナガハが目を向けて何かを言おう
としたがインブレッカがそれを制する。
「それ以上の価値がある。ここまで諍いが発展しては、カリメウニアも引きは
しないだろう。ザンブオンの優位性を確立するには必要なのだ。戦争に発展す
れば一般人を含め、何万何十万と犠牲者が出るだろう。」
インブレッカの言うことも尤もだが、戦争ありきで考えているところがフラガ
ニアには納得がいかなかった。回避なり和解なり進むべき道はいくらでもある
はずだ。民間企業の尻拭いを理由に戦争を始めようとしている風にしか見えな
かったが、立場として食い込めない自分もやるせなかった。
「隠葬隊の情報を以て編成を実施する。撃破に向かう少数部隊と探索側に。」
「では撃破に向かうのは私の隊から選別しましょう。」
「うむ、頼んだ。」
インブレッカがベナガハの提案に頷いたところで、会議室の扉が叩かれる。イ
ンブレッカが入室を促し入って来たのは全身の服が黒一色の女性だった。
「隠葬隊ウアナ、帰還して報告に参じました。」
「ご苦労だった、まず空いている席に座るがよい。それで帰還早々悪いが早速
報告を聞かせてもらおう。」
「はい。」
ウアナは応じるとフラガニアの横に座り報告を始める。
「ザンブオン軍を殲滅した二人の居場所は突き止めました。」
ウアナの報告で歓喜の声がそれぞれから上がる。そのざわめきを無視してウア
ナは続ける。
「老体の方は酷く怪我をしておりましたが、死んではいないようです。」
「ゲイラルが殺し損ねたか・・・」
ウアナの報告にインブレッカは唸るように言った。自分が現場を離れる時には
優勢に見えたため、期待を込めてはいたのだが。
「はい、もう一人の少年が割って入り、ゲイラル殿はその少年に殺されました
。」
「なんと・・・やはり戻らないのはそれが原因だったか・・・」
「お前達はそれを黙って見ていたのか?」
「やめよ。隠葬隊の任務を忘れたのか。」
ゴスケヌとベナガハがウアナの報告に睨んで言ったが、インブレッカが諌める。
「すまん。」
「そうだった。」
「報告は以上となりまが、詳細については都度お聞きいただければ回答致しま
す。」
ゴスケヌとベナガハの態度は気にせずウアナが報告を終えると、インブレッカ
は頷いた。
「明日からの方針を決める。疲れているところ悪いが隠葬隊にも動いてもらう
ため、このまま参加してくれ。」
「分かりました。」
インブレッカに言われウアナは頷いた。インブレッカはそれを見ると、一同に
も視線を回し異論が無いこと確認して話し始めた。

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