紅湖に浮かぶ月

紅雪

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紅湖に浮かぶ月5 -始壊-

1章 唐突な提案

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「未来へ架かる橋は、先人の屍で出来ているものである。」


城館の一室、両側合わせて二十人は並びそうな長机にの片隅に五人が集まって
いる。それぞれが長机に掛けられたクロスの精緻な刺繍を追うように視線を落
としており、顔は誰も浮かなく部屋の空気を重くしているようだった。
「後発で向かった偵察からの報告では、先発二百四名全て虐殺されていたと。」
「ただ、五体満足な死体はなく全てが、四肢が潰れ引き千切られ、若しくは切
断されていたため全滅の判断は状況からです。」
中年の軍服を来た二人が状況を説明する。長机の端に座る初老の男性が、その
報告に腕を組んで険しい表情をした。目を閉じ眉間に皺を寄せていた初老の男
性は、目を開けると残り四人に鋭い眼光を向け、立派に蓄えた口髭を動かす。
「カリメウニア兵の確認は?」
「いえ、密偵によればターレデファン側、カリメウニア側、どちらも山脈間道
に入ってはいないそうです。」
「ならば一体、二百名もの兵が何故全滅するのだ。後発が辿り着く小一時間の
合間に。」
怒気を含んだ声を上げ初老の男性が顔を更に険しくすると、その態度に四人が
萎縮した。
「見極める必要があるな。誰がやったのか。ただでは済まさぬ。」
「如何して見つけましょう?」
壮年の男性が疑問を投げる。
「何、皆殺しにしてまで隠したいものがあるのだろう。カリメウニアもターレ
デファンも関係ないとなれば、もう一度行くしかあるまい。」
「釣る、わけですか・・・」
中でも一番若い青年が、表情に陰りを見せて言った。次の部隊を餌にして、相
手が何者か、あわよくばそのものが滞在する場所までを特定しようと言うのだ。
その考えを悟っては、いい気分ではいられなかったために漏れた言葉も自然と
詰まってしまう。
「ふん、悪戯に死なせるよりは良かろう。」
初老の男性が鼻を鳴らして言うも、青年は納得出来るわけもなく、気付かれな
いように奥歯を噛み締めた。
「少数精鋭に致しましょうか?」
最初に報告をした中年男性が言う。
「ゴスケヌ、お前の部隊を三倍向かわせろ。」
「さっ、三倍ですか!?」
少数精鋭を疑問として言った中年、ゴスケヌが驚きに声を大きくした。死地の
可能性が高いというのに、向かわせる兵の数を増やす等ゴスケヌには到底理解
出来なかったからだ。
「精鋭とは言え数を減らせばこちらの意図に気付く可能性があるだろう。あく
まで人員を割いて目的を達成する意志があるように見せねば意味が無い。もし
先の部隊を殲滅した者が現れれば、途中で撤退させればよい。」
「確かに仰る通りですが、今回の件は既に知れ渡っております。士気が高まら
ねば現地で戦いが始まった時、蜘蛛の子を散らすように逃げ出しかねません。」
ゴスケヌの言葉に沈黙が流れる。初老の男性も腕を組んだまま厳しい顔をした。
「単純ですが、やはり特別報奨でしょうか・・・」
もう一人の中年男性が沈黙を破り、恐る恐る口を開いた。
「手が無ければ、ベナガハの言う通りだろうな。」
皆真っ先に考える事だが、何か他に手はないか考えていたところでの中年、ベ
ナガハの発言に初老の男性が同意する。今現在、案も出ないためベナガハの発
言を分かってる事だと、馬鹿にする者はいない。
「そうですな、昇進と賞金をちらつかせましょうか。」
「それだけ危険だと思われ、逆に敬遠されるのではないでしょうか?」
壮年男性の発言に、青年が懸念を口にした。
「確かにフラガニアの言にも一理あるな。」
青年、フラガニアの発言に壮年男性は顎に手を当て、唸るように言った。そこ
で室内をまた沈黙が支配する。
「いっその事、ゴスケヌ殿の部隊ではなく危険度が高い任務として雄志を募る
方がいいのでは。それならば功によっては昇進もあるとして。」
「ゲイラルの案も悪くは無いが、有望株が集まってしまっては軍の損失も大き
くなる可能性が出るな。」
壮年男性、ゲイラルの提案に今度は初老男性が懸念を口にした。一番手っ取り
早い報奨という手段から考えが広がらず、またも沈黙が流れる。
「手段はどうであれ、何かしらの懸念は出るだろう。やはり単純に参加者への
特別報奨と、休暇あたりで手を打つか。功など無いが、体裁として上げた者に
は追加報奨と休暇でも付けて。」
「インブレッカ将軍の言うところが落としどころですかな。」
初老男性、インブレッカの言にゲイラルが同意後、他に案も出なく会議は終了
となった。インブレッカは一人室内に残り黙考する。
本来軍人なのだから、将軍である自分が命令すれば嫌でも従うしかない。それ
を良しとするのは軍人たるものの務めであり鑑だが、人間である以上必ず不平
不満を抱く者もいる。一辺倒の在り方では何処かで破綻するだろうと。
自分が出れば士気は上がるだろうが、それも軍人としての意識が高いものだけ
であり、今回のように金と休みに釣られるような者であれば、圧力としか感じ
ないだろうと。
「難しいとものだな。」
死にに行けと言えれば楽なのだがと考えながら、インブレッカは誰も居ない部
屋で独り愚痴った。



「今日は随分とやる気が無さそうね。」
「ん、そんな事はないわよ。」
開店直後、まだお客さんも居ない店内で、カウンターに左手の肘を付き、そこ
に頬を乗せる私にリュティが言ってきた。言った通りやる気が無いわけでは無
い。単に憂鬱なだけだ。
分かっていた事ではあるけれど、やはり司法裁院は司法裁院だなって。昨夜確
認した依頼内容はアイキナ市に居たときと大差ない。アーランマルバに来てか
らの依頼は、人殺しである事に変わりは無いけれど、そこまで精神に負担をか
けるものではなかった。
自分勝手な話しだが、対象からの被害が見えない方が精神的に負担は少ない。
殺人犯を相手にするにしても加害者単体であればいいが、その場に被害者が存
在していたり、被害を受けている最中だと、一気に感情が爆発してしまう。
黒い感情が噴き上がって来て、自分を抑えられなくなるし、感情自体を出ない
よう抑える事も出来ない。分かってはいても出来ないのよ。
存在を隠さなければならない以上、被害者や無関係の人でも、その場に居た場
合は始末する必要がある。それは命を奪うという意味ではなく、自分の情報が
漏れなければいいだけだ。でも都合よく精神だけ壊れているとか判別できない
状態になっているなんて、滅多にないから結局殺さざるを得ないのだけど。そ
れが精神の負担になるのは分かっていた。それでも続ける事を選んでいる私は、
受け入れる必要がある。自分が自分でいられる限りは。
「何を優先するべきかは、考えないとだめよ。」
「分かっているわ。」
リュティの言葉に姿勢は変えずに相槌を打つ。別に投げやりになっているわけ
では無いし、適当に返事をしたわけでもない。自分でも良く分かっているのよ、
お店が今の私にとって一番大切だって事は。
お店の扉が開いた事により、私の姿勢と思考は中断させられた。司法裁院の仕
事をする前からこんなんでは、持たないなと思って自嘲する。気を取り直して、
今日もお店を頑張るか。
そう思った矢先だが、お店に入って来たのはアクセサリーショップが似つかわ
しくないおっさんだった。いや、偏見だっていうのは分かっているのよ。もし
かすると彼女や奥さんにプレゼントを買いに来たのかも知れないし。でもそれ
だったらもっといいお店に行くでしょうね。
そんな事を考えているうちに、おっさんは私の目の前に来ていた。アクセサリ
ーには目もくれず真っ直ぐこっちに来たという事は、薬莢の依頼かと思いリス
トを取り出す。
「貴女がミリア殿ですか?」
おっさんの開口一番は私が何者かを確認する言葉だった。リストを出そうとし
ていた手を止め、私はおっさんをやや鋭い視線で見据える。
「あんた誰?」
「失礼。グラドリア国、呪紋式師のカマルハー・ネーキャスオと申します。」
おっさんは丁寧に挨拶すると一礼した。カマルハーの素性などどうでもいい。
「何処ぞの執政統括には来なくていいと言った筈なのだけど?」
どうせ私の意向なんて無視して、何時かは来るんだろうなと思っていたけれど、
それでも意思を伝えるために敢えて言っておく。私に用は無いし、会いたくも
無いのだと。
「聞いております。だが、どうしてもお会いして見たかったのです。」
「私は全くこれっぽっちも会いたく無いわ。後、営業の邪魔。」
邪険に扱って早々に帰ってもらうのと、心象を悪くしておこうと思って私は言
った。まあ、混じりけ無しの本音でもあるのだけど。だがカマルハーは苦笑し
ただけで終わった。
「聞いていた通りの反応です。」
うるさいわね、余計なお世話よ。そもそも誰よそんな事を吹き込んだ奴は。っ
て、一人しか居ないか。
「薬莢の依頼をしても?」
はっ?馬鹿?
「自分で記述すればいいでしょう。」
自分が国内有数の記述師だって分かってて、何阿呆な事を言っているんだこい
つは。それに国で抱えている記述師だって何人もいる筈だ。自分が時間が無い
とか、出来ない理由があるなら誰かにやらせればいい。それ以前にこ此処に来
る時間があるなら記述出来るじゃない。
「出来れば、貴女が記述しているところを見学したいのだ。」
「はぁっ?」
何を言っているんだこのおっさんは。効果も呪紋式も決まっているものだ、誰
が記述しようと同じ事でしょう。わざわざ他人の記述を見たいとか変態じゃな
いの。
「色んな人の記述を見てきたし、自分でも努力してきたと自負している。だが、
それを越えるであろう記述があるとすれば、見たいと思っても不思議ではない
でしょう。」
そう言われると、私は他の人が描いた記述なんて気にした事がないから、そん
なに変わるものか分からない。もともと自分用に描いていた物を、商品として
展開しただけなのだら、見る機会なんてなかった。そう考えると、記述師雇っ
た時は、私が出来を確認しなければならないのか、考えて無かったわ。
「もちろん、依頼の代金は払う。それに勧誘をするつもりも無い。」
リンハイアに聞いて勧誘は初から諦めているのね、それはいい事だ。それに代
金払うのであれば損は無い気がするが、見られるのは嫌だな。
「見ないと駄目なの?」
「記述済みの薬莢は既に見ている、私が知りたいのはその工程なのだ。」
カマルハーは力強く頷いて言った。言っている事は間違って無いが、作業を人
に見られるのは恥ずかしいのよね。慣れた人ならいいのだけど。とも言ってら
れないか。何れロンカットのお店を再開する事を考えれば、これも必要な事か
も知れない。
「しょうがないわね。」
代金も貰えるならまあいいかと思って承諾する。
「ありがとう。記述してもらう呪紋式は決まっている。日程はミリア殿に合わ
せよう。」
そこまでして見たいものか?やっぱり変態なんじゃなかろうか。
「別に今からでもいいわよ。」
私はリュティの方を見て言う。リュティも察したようで頷いてくれた。何度も
足を運ばれても鬱陶しい、今終わらせられるなら終わらせてしまいたい。後は
相手の都合次第だけど。
「それはありがたい。」
問題無かったようだ。私は立ち上がると、カマルハーに着いて来るよう促して
作業場に移動した。

「ほう、これがミリア殿の作業場ですか。まだ真新しいですな。」
カマルハーは入るなり、作業場を見回しながら言う。
「当たり前でしょう、まだ開店して一ヶ月なんだから。で、描かせたい呪紋式
って何?」
「これは失礼。」
忘れてたんじゃないでしょうね。胡乱気な私の視線を気にせずに、カマルハー
は背広の内側から紙片を取り出して広げると、私に見えるように掲げた。
「これだ。」
また人の傷を抉るようなものを出してきやがって。それでラウマカーラ教徒を
何人業火に巻き込んだと思っているのよ。嫌な奴。
「描いたらさっさと帰ってよね。薬莢。」
私はカマルハーを睨みつつ言って右手を差し出す。薬莢が無ければ記述は出来
ない、以前受けた時は大型呪紋式銃の薬莢だった筈。私のお店ではそんなもの
は扱っていない。
「いえ、小銃用の薬莢への記述をお願いします。普段のように。」
ちっ。やっぱり当然のように知っているわけね。って事はこの前の結界につい
ても知っているわよね。
「薬莢分のお金も払ってよね。」
「分かっている。」
私は渋々作業台に向かって座ると、未記述の薬莢を取り出す。
「紙は?」
カマルハーが横から作業台に呪紋式の描かれた紙片を出して来る。
「いちいち持ってこなくても、言ってくれれば分かるわよ。」
どれだけ描かされたと思っているのよ。そうじゃなくても覚えてしまうのだけ
ど。
「何?覚えているというのか。」
「そうよ。」
「例え覚えたとしても、仕事なら本当に間違いがないか確認するだろう。」
ああもう、煩いわね。
「邪魔をするなら今すぐ帰って。」
私は横から覗き込んでいるカマルハーを睨み付けると、苛立ちを隠さずに言っ
た。見たいと言ってきたのはカマルハーなのだから、遠慮してやるつもりは無
い。
「あ、すまない。」
それからカマルハーは記述が終わるまで一言も喋らず、見入っていたようだっ
た。横には居たから多分そうだろう。恥ずかしさに堪えながら描いたんだ、見
てなかったら殺す。
「終わったわよ。」
それから三十分程して描き終わると、私は記述の終わった薬莢を指で摘まんで、
カマルハーの顔の前に持っていく。だが何故か、カマルハーは固まったまま動
かない。見てはいるようだったが。
「聞いてる?」
鬱陶しいな。私の苛立ちを察したのか、カマルハーはっとして私に視線を移し
た。
「一体なんなのだ、それは・・・」
絞り出すように言ったカマルハーは、どうやら驚いているようだった。何って
言われてもねぇ、記述に決まっているのだから逆にこっちが何言ってるんだこ
のおっさんはって気分になる。
「記述以外のなんだって言うのよ?」
「まるで機械のようなその正確さだ。」
んな事を言われても。そんなに正確か?最初は結構戸惑ったんだけどな。
「成る程、リンハイア様が依頼した時とは比べ物にならない程綺麗な記述だ。
しかも早い。」
そりゃ慣れれば早くなるでしょうし、描くのも正確になってくるでしょうよ。
顎に手を当てて考え事をしながら呟くカマルハーを、何を当たり前の事をと思
って冷めた目で私は見る。
「もういいでしょ。」
「明らかに私よりも正確で早い。」
私の話しは聞いてないようで、カマルハーは私を見ながらまだぶつくさ言って
いた。
「終わったの、よ。」
鬱陶しいので私は言いながらカマルハーの足を踏みつけた。
「あ、ああすまん。」
「考え事なら帰ってからして、私も仕事中なんだから。」
カマルハーはまだ考え事をしながら作業場から出ようとする。だが出る直前で
足を止め、振り向いて真剣な表情で私を見た。ああ、面倒事だったら嫌だな。
「提案があるのだが?」
「嫌よ。」
私はきっぱりと言い切る。今までリンハイアにどれだけ辛酸を舐めさせられた
と思っているんだ。国の奴らの話しなんか聞きたくもない。
「いや、損ではないと思うぞ、店にとってもな。」
カマルハーはそう言うと笑ってみせる。何を考えているんだこおっさんは。お
店にとっても損にならないですって?
「どういう事?」
私の疑問にカマルハーは頷くと口を開く。
「うちの記述師を技術研修として店に置いてみないか?」
「は?」
やっぱり面倒事じゃないか。何で国の人間を雇わなければならないのよ。阿呆
か。それ以前に、二重で仕事していいのか?
「研修として派遣するのでもちろん給与は不要だ。その代わり、店での記述を
させてもらいたい。勿論商品だし研修でもあるから厳しくしてもらって構わな
い。」
面倒ね。って、ん?それって色々と話しがうますぎないか?国の記述師をただ
で利用出来るってだけでもそうだ。しかも私は記述師を探しているから丁度い
い、さらに給与は国が支払うのだからお金も浮くわけだ。
「で、私に何かさせようって腹?」
私だけがお得な提案をするわけがない、何かしらの利点があるからこその話し
だろう。記述師の募集はかけているのだから、知られて当然だし利用されても
不思議はない。ただ内容が胡散臭いのよね。
「言った以上の含みはない。それに、こちらにも得はあるのでね。」
「そっちは人員を割いてその分の負担を被り、私は記述師がただで確保出来て
仕事が楽になる。何処にそっちの得があるのか分からないわ。」
何を企んでいるのか分からないけれど、そんな美味しい話しは信用出来ない。
「見ての通り私も歳だ、何れ後継が必要になる。若いので見所がある奴が居て
な、外で揉まれるのも経験となるだろう。記述師が必要なら悪い話しではある
まい。」
記述の経験なら別に今のままでも出来るでしょうに。私のお店以上に豊富な種
類の記述を行っているのでしょうから。カマルハーの言っている事は分かるけ
れど、得には感じない。
「逆に損じゃない、それ。」
私は信用せずに半眼を向けて言うと、カマルハーは苦笑する。
「優れた技術を目の当たりにするだけでも人は成長する。それに、ミリア殿が
記述するのは店で扱う表向きの呪紋式だけではないだろう?」
そう言う事か。確かに自分用にも色々記述するし、身体強化みたいに一般的に
出回っている呪紋式とは多少異なるものもあったりする。加えて式伝継承をリ
ンハイアが知っていた事を考えれば、カマルハーも知っていると考えるのが自
然。それが狙いと言う事か。
「呪紋式の獲得と私の監視、というところかしら?」
「正直に言えば、そうなります。ただ、後者は考えていません。」
嘘臭い。人の事を散々引っ掻き回しておいて今更って感じだわ。
「どうしても人手が入り用の時は、一時的に戻す可能性はありますが、それ以
外は好きなようにしてもらって構いません。」
「信用出来ないわね。」
「そこは妥協点というものでしょう。」
むう。確かにそう、疑ってばかりでは前に進めないのは分かっているけれど。
呪紋式に関してはどうでもいい、見られたく無いものは一人の時に記述すれば
いいだけだ。
「怪しい動きや、気に入らない時は放り出すわよ。」
「それで結構。」
ここまで言われては考慮の価値はあるか。一度様子を見てみるのも有りかもし
れないわね。記述師の募集にしても見つかる可能性も低いし、上手いところを
突いて来たものね。
「少し考えさせて、時間は掛けないから。」
「ありがとう。いい返事を期待してる。」
とりあえずリュティには話しておかないとな。結果は見えているけれど。
国お抱えの記述師なら変なのは来ないでしょう。カマルハーが有望株と言って
いるわけだし、後継としても考慮されているくらいだ、即戦力にもなりそう。
まあその辺はカマルハーの一方的な話しだから、本人に会ってみないと実際の
ところは不明だ。
「で、返事は何処に?私は城なんか行かないわよ。」
「此処に頼む。」
カマルハーは一枚の紙片を渡してくる、そこには小型端末の呼び出し先が書い
てあった。本人のものか別の人か分からないけれど、個人相手なら煩わしくな
くていいわ。
「分かったわ。」
私が紙片を受け取ると、カマルハーは封筒を続けて私に押し付ける。感触から
して記述の代金だろう。そう言えば渡して無かったなと思って、記述した薬莢
を作業台から掴んで振り向く。
「はぃ・・・」
渡そうとしたらカマルハーは、作業場から既に居なくなっていた。急いで店内
に戻るとお店から出ようとしている。
「待ってよ。」
私の言葉に振り向いたカマルハーへ、薬莢を投げつける。放物線を描いて飛ぶ
薬莢を右手で掴むとポケットに仕舞い、笑顔を見せるとカマルハーはお店を出
ていった。店内にいたお客さんが何事かと見ていたが、気にしない事にする。
お金だけ貰うのは嫌だったんだからしょうがないじゃない。
私はカウンターに移動すると、封筒の中身をちらっと見て確認すると金庫に放
り込んだ。五十万くらい入っていたが、多過ぎだっての。既に居ないカマルハ
ーに向け、内心で文句を言った。

レニーメルナ通りの駅とは反対の角に、リエグノアというお店がある。濃厚雲
丹クリームのリングイネをフォークに巻き続けながら私は呆っとしていた。巻
かれたパスタがお皿の上で回り続けるのを見ながら、今後の事を考える。
「遊ぶのは行儀が良くないわよ。」
「遊んでないわよ。」
不貞腐れて言うとフォークを口に運ぶ。お店には休憩中の札を下げ、リュティ
に話そう思いとランチに来たのだが、まだ話せないでいる。話し難いとかでは
なく、本当にカマルハーの話しに乗っていいのかまだ悩んでいるだけ。
「雲丹は美味しいわね。」
「このお店、デザートも美味しくていいわ。本当にいい場所にお店を構えたわ
ね。」
リュティは何時もの微笑で言った。話しがあると分かりつつも急かしては来な
い。急かされて困る内容でもないが。
「城から記述師を貸してくれるらしいのよ。」
食後の紅茶を飲みながら私は独り言の様に呟いた。
「丁度いいじゃない。」
フロマージュを口に運びながらリュティが言う。
「そうなのだけど、リュティが教えてくれた呪紋式も漏れるわよ。」
「いいんじゃない、私は気にしないわよ。」
「そう。」
まあ、そう言うだろうとは思っていた。結局、私がどうするかだけなのよね。
ものは試しだしね、乗っかってみようかな。ロンカットのお店も再開したいし。
「ま、気に入らなければ追い出すだけだし、受けてみるか。」
悩んでいてもしょうがないと思い私は決断する。話しを聞いた時から傾いてい
たのは間違いないし。募集している記述師が見つかったと思って、記述しても
らおうか。
「生産性が上がるといいわね。」
「そしたら、店員募集をかけてロンカットのお店も再開ね。」
前向きに往かないとな、そう考えてリュティ言葉に展望を乗せる。後はヒリル
かなぁ、アーランマルバで店員を任せられれば、リュティは薬莢のカウンター
に移ってもらい、私は作業に専念出来るようになる。今のところはそれが理想
かな。
「上手く行くといいわね。」
リュティが笑顔で最後の一口を口に運んだ。
「そうだね。」
私も相槌を打つと紅茶を飲み干した。

「はい、サラーナです。」
「誰よ?」
小型端末の音声呼び出しをして、応じた相手に私は誰何の声を出す。
「・・・」
沈黙が流れる。いや、固まられても困るのだけど。カマルハーの奴、連絡先を
間違えたんじゃないでしょうね。
「もしかして、ミリアさんですか?」
「ええ。」
「主任から話しは聞いています。」
通信先の相手、サラーナは妙に明るい声で応じてくる。だけど。
「主任って誰よ。」
サラーナが誰かも主任が誰かも、何故私の事が分かったのかもまったく分から
ない。いや主任はおそらくカマルハーだろうと思うが、こういう中途半端な状
態は嫌いなのよね。
「すいません、主任はカマルハー主任で、僕は助手のサラーナ・ベアナイズと
申します。主任より、返事はこの端末に連絡があると伺っておりました。」
良くできました。って私は教師じゃないっての。
「そう、状況が理解出来たわ。」
「この連絡は主任へのお返事でよろしかったでしょうか。」
「そうよ。」
まったく、カマルハーももう少し説明してって欲しかったわね。何でこんな事
で疲れなきゃいけないのよ。
「返事は僕の方で承ります。」
「そう、じゃああんたの話しに乗るわ、って伝えて。」
「分かりました。」
声の明るさが増したがなんなんだ。
「明後日から行くことが可能ですが、お店へ伺う希望の日程はありますか?」
助手だからなのか、話しが早くて助かるわ。カマルハーの予定や、今日の話し
も分かっているのだろう。
「私もいつでもいいから、明後日でもいいわよ。」
「分かりました。早速明後日からお世話になります、宜しくお願いします!」
五月蝿い。そんなに声を張り上げなくても聞こえてるわよ。まったく。
「はいはいよろしく、ちゃんと・・・」
ん?待てよ。何か言い回しが微妙に噛み合っていない気がしたのよね。伝えて
よねって言おうと思ったが、後は報告のみなんじゃないだろうか。
「まさかサラーナ、来るのってあんたなの?」
「はい、そうです。聞いて無かったんですか?」
そう言う事か、サラーナは話しが分かっていて通信していた。だけど私は来る
本人だと分からずに話していたのだから、違和感を感じるのも不思議じゃない。
カマルハーが一言、本人の連絡先だとでも言ってくれればこんなに疲れなくて
良かったのに。これは嫌がらせなんじゃないかって気がしてきたわ。
「もう一言お願い出来るかしら?」
「はい、何でしょう?何でも伝えますよ。」
「次に会った時は殴る。以上。」
「え・・・あ、はい、伝えます。」
私の言葉にサラーナは戸惑っているようだったが知った事ではない。文句があ
るのなら自分の上司に言いなさいよね。
「それじゃ、明後日からよろしくね。」
私はそれだけ言うと通信を切断した。
ランチが終わり、返事をしようと連絡したのだが、無駄に疲れさせられた。本
当に次会ったら殴るわ。必要な事を言わずに嫌がらせされたも同然よ。
しかし、サラーナの雰囲気には驚いた。呪紋式師は城内で黙々と記述したり、
呪紋式銃を開発したりしていて暗い印象があったからだ。偏見だと分かっては
いるが、あの明るい声はその印象の所為で驚かざるをえなかった。声の感じも
私より若そうだったな。大丈夫かな。
カマルハーなら任せたって言えそうだけど、声の主はどうしても頼りなさそう
に感じてしまった。そう言えば、技術研修が目的だったわね、気にする事じゃ
無かったわ。
「明後日から来るわ。」
私は店内に戻るとリュティに小声で言う。お客さんがいるので、流石に堂々と
は話せない。
「急なのね。」
「本当よね。申し訳ないけれど、最初はお店をお願いする事が多くなると思う
わ。」
やってもら事や、色々教えるとなるとお店に居られる時間はどうしても減るだ
ろう。その分リュティの負担になってしまうのは悪いなと思う。
「大丈夫よ、アーランマルバにも慣れてきたし、そんなに忙しいわけじゃない
もの。」
うっさいわね。事ある毎に言われると悪意を感じるわ、故意に言っているんじ
ゃないかって気さえするわ。
「ありがと。」
その辺は突っ込まずにお礼だけ言っておく。実際のところリュティにそんな気
は無いだろうし、私がそれに反応しているのも気付いているだろう。反応待ち
とか遊んでいる可能性もあるので放置が一番ね。
「早速薬莢の記述をさせるのかしら?」
「当然、使い物にならなければ置いておく意味はないもの。」
「そうね。」
カマルハーが有望株だと言っているのだから、使い物にならないって事はない
だろうけど。相手が頼りないというよりは、初めての事に対して私が不安なの
だろうと思った。



二日後の朝、リュティと二人で朝御飯にしようと外に出る。たまにカフェ・ノ
エアで朝御飯を済ませているので、別段変わった行動ではない。変わっていた
のはお店の前に男が突っ立っていて、店内を覗き込んでいる事だった。まだ朝
の九時にもなっていないのに、十時から開店のお店を覗いたところで、早く開
く筈もない。入り口には営業時間を表示してあるのだし、時間より早く開ける
気など毛頭無い。
「変な奴だったら通報しよ。」
私が男を胡散臭そうに見て呟くと、隣に居たリュティが苦笑した。通り過ぎて
も動く気配が無いので、怪しいと思うのだけど何故苦笑されるのか。
「今日から来る人じゃないかしら。」
・・・
ああ、在ったわねそんな話し。思い出した私は、ノエアに入ろうとして立ち止
まると振り返る。顔は知らないのだから該当の人物かは不明。身長は百八十ま
では無さそうだがそれでも高めだろう。背広を着ていても細身に見えるのがま
た長身に見える一因となっていそうだった。
「人のお店の前で何をしているの?」
「うわっ・・・」
ノエアには入らずにお店の前に戻った私は、男の背後から声を掛ける。男は身
体を跳ねさせ驚きの声を上げると、慌てて私の方を振り向いた。ダークアッシ
ュの髪は目に掛からないくらいで、側面や背後も綺麗に切り揃えられ清潔感が
出ている。やや赤みがかった茶色の双眸を携える端正な顔立ちは周囲の目を惹
き付けそうだった。ただ、気弱そうな表情で無ければだが。
「店?・・・あ、もしかするとミリアさんですか?」
男は恐る恐る聞いてくる。
「そうだけど。」
私が答えると男の表情が明るくなる。
「今日からお世話になります、サラーナです。」
リュティの言う通りだった。言われて無ければ完全に放置しているところだっ
たが。
「何でこんなに早く来ているのよ。」
「時間を確認するのを忘れていまして、それに気付いたのが夜中で確認するわ
けにもいかず、取り敢えず普段の業務開始時間と同じに来てしまいました。」
言われてみれば時間の話しをした記憶が無いわね。申し訳なさそうに言うサラ
ーナだったが、時間を言わなかった私も悪いわね。
「ごめん、言うの忘れていたわね。」
「いえ、僕の確認不足ですから。」
何処か幼さが見える顔で苦笑して、サラーナは頭を掻いた。
「開店までまだ時間もあるし、私たちこれから朝御飯なのよ。一緒に来る?」
此処に置き去りもなんだし、時間を伝えて無かった負い目もあり朝御飯に誘う
しかないなと思って聞いてみる。
「はい、ご一緒させて頂きます。」
笑顔で答えるサラーナを連れて、私とリュティは改めてカフェ・ノエアに入っ
た。サラーナは朝食を済ませていて、珈琲だけ頼んで一緒のテーブルに着いた。
リュティの挨拶も未だだったので、食べながら自己紹介を済ませる。サラーナ
は二十三歳で、城で働いてからまだ二年らしい。カマルハーの助手になったの
は半年前らしいが、それでもこの歳で助手とは凄いのかも知れない。
私にとって経験が無い事なので何とも言えないが、カマルハーが期待している
のなら不思議ではないのだろう。そんな事よりも問題は、私にとって得かどう
かってところね。
記述師の資格を取ったのが五年程前で、二十歳で大学を卒業後直ぐに城で働き
始めたらしい。優秀なのかはさておき、記述師としては私より先輩なのは間違
いない。まあ、お店を手伝ってもらうにあたりそんな事は関係ないけれど。
しかし、私もそうだがサラーナもカマルハーに比べればずっと若い。私やサラ
ーナが有望なのではなく、実はカマルハーが大した事無いんじゃないかという
疑問が湧いてきた。

朝食を終えた私たちは早速店内の作業場に移動した。
「基本は薬莢の記述をしてもらうけれど、慣れてきたらお店の方もお願いね。」
「分かりました。主任からも必要とあれば色々経験して来い、と言われていま
すので是非。」
やる気は申し分無いわね。問題は記述の方がどれ程のものかってところなのだ
けど。
「記述の方を見ているから、暫く一人でお店をお願いしていい?」
「ええ、問題ないわ。」
開店時間が近付いたところで、黙って見ていたリュティにお店をお願いする。
微笑のまま了承すると、店内へと移動していった。
「まずね、アーランマルバに移っても、配送でお願い出来たら記述して欲しい
っていう三点セットからお願いしようかしら。」
何れロンカットのお店も再開すると言ったのだけど、配送でもいいから欲しい
とかいう兄ちゃんの要望に応えよういう計らいなのよね。名前はケリオンとか
言ったかしら、何か覚えないのよね。
「あの、三点セットとは何でしょうか?」
ですよねぇ。言われてみれば私が勝手にそう呼んでいるだけなのよね。
「怪我をした時にあると便利な、痛み止め、止血、増血のセットをそう呼んで
いるのよ。」
「なるほど、そうなんですね。分かりました、描いてみます。」
「よろしく。」
早速記述をさせる事に、サラーナは特に不満も見せずにやる気を出している。
手持ちの鞄から自前の記述セットを取り出し、作業台の上に広げた。私はそこ
に、小銃用の薬莢を置いてやる。
ところが、どの程度のものかと待っているのだけど一向に始まらない。たまに
こちらを窺う様に顔を向けるがそれだけ。まさか、今更記述は出来ないんです
とか言わないわよね?
「あの・・・」
「なに?」
恐る恐る聞いてきたサラーナに、若干苛立ちが出始めた私は聞き返す声も低く
なった。
「呪紋式の見本というか、記述するための元というか、それが無いと記述でき
ません。」
確かに言われてみればそうよね。しかし今はどちらも無い。
「描いたこと無いの?」
「ありますが、覚えられる程の数をこなしてないです。」
普通、そういうものなのか。
「どっちも無いのよねぇ。私が先に描けばいいのか。」
「え!?無いんですか、では覚えているという事ですか。」
「そうよ。」
記述を始めた私は適当に相槌を打つ。私がすぐ覚えてしまうのは忌々しい家系
の所為なのは分かっている。ただそこに、他人とどれだけの差が有るのかまで
は分からない。それは個人差なのだから、サラーナが覚えていないとしてもさ
して問題はない。記述した結果が薬莢にとっては大事なのだから。
「はい、これね。取り敢えず一セット描いてみて。」
「早い・・・」
サラーナの方を向いて薬莢を三つ差し出すと、何故か落胆したように呟いた。
「どうしたら、そんなに早く正確に記述出来るんですか。」
そうなのね。私は人に教える事が向いていないかも知れない。おそらくカマル
ハーは承知でサラーナを送り込んできたのだろう。だったら私が向いてない事
は問題じゃなく、サラーナ次第だろう。
「私のは一種の特技みたいなものだから気にしなくていいわ。」
とは言ってみるもののサラーナは変わらず自信無さ気な顔をしていた。面倒ね。
私は他人の精神まで面倒をみてられないわ。
「カマルハーに何て言われて来たかは知らないけれど、やらないなら帰ってい
いわよ。」
自分の事は自分で解決してと言おうと思ったが、私自身それがまったく出来て
いないのでどの口がと自粛した。その言葉が他人に対して出てきた事に嫌気が
差す。ただやらないのなら置いておく意味は無いので、冷たく言ったのは間違
いない。
「すいません、描きます。」
「そう。」
何かを決意したように見えたが気のせいかも知れない。それでもサラーナは作
業台に向き合うと記述を始めた。
初めて見る他人の記述はもどかしかった。私だったらと思ってしまって。でも
それを言い出したら今後誰も雇えない。サラーナは国内有数の記述師であるカ
マルハーの推薦とも言える人間なのだ。フリーの記述師を雇うより有用だと思
えば。
それでも薬莢の仕上がりは上々だった。若干の拙さと、時間が掛かる事を除け
ば問題ないだろう。後は経験でしょうね。
「どう、でしょうか?」
薬莢の一発に描き終わったサラーナが、表情に不安を隠せず聞いてくる。
「いいんじゃない。カマルハーだって歳だもの、それだけの記述をしてきたん
でしょう。数をこなせば上達するわよ。」
「ありがとうございます。」
表情を安堵に変えたサラーナは作業台に向き直ると、次の記述を始めようとし
た。
「カマルハーが期待してるんでしょ、もう少し自信を持ったら。それと、常に
出来型を思い浮かべて描くといいわよ。」
「はい!」
「私はお店にいるから、残り二発が描き終わったら教えて。」
「はい。」
力強く返事をしたサラーナに任せてみる事にした。見ていても疲れるだけだし。
言うほど悪くはないけれど、自分が使う薬莢は今のところ任せる気にはなれな
い。依頼してきているお客さんに失礼かもしれないが、自分の生死を左右する
ものはまだ先かなって思った。
「どうかしら?」
店内に戻った私にリュティが聞いてくる。
「少し経験を積めば行けそうね。その辺は彼次第だけど。」
「そう、良かったわね。」
微笑んでリュティ言うが、不安が無いわけではない。ロンカットのお店を再開
するにはもう少し時間がかかりそうだ。店員の募集はもう少し先にするかと考
えながら、私はカウンターに座るとアクセサリーを見てなにやら言っている女
性のお客さん二人に目を移した。



2.「理性を失った欲望は波濤となって世界を蹂躙する。」

「モフェグォート山脈でエリミアインが遭遇した出来事が以上となります。」
膠着状態に入っている北方連国とターレデファン国を結ぶ山脈間道で起きた出
来事をアリータは報告した。受けたリンハイアも顔を曇らせる。
「そうか、モフェグォート山脈にも存在が確定したと見て間違いないだろうね
。」
執政統括の部屋は何時もと変わらず二人の声以外は静寂を保ち、漂う空気も何
処か重い。リンハイアは水差しからグラスに水を注いで口に運ぶ。
「ユリファラからの連絡では、ターレデファンで検問所の封鎖以外の動きはな
く現状維持の様です。」
「ターレデファンにとってエカラールの封鎖自体は大した問題ではない。飛び
火してくる事が不安なだけであってね。」
アリータの報告に、リンハイアは頷いて言った。
ペンスシャフル、グラドリアと陸地続きのターレデファンにとって、北方連国
は流通が有ろうと無かろうと痛手ではない。事実、国境を封鎖しても困るのは
輸出している企業だけだが、そこまで不満は高まっていない。モフェグォート
山脈を越える危険や高い運搬費があっても輸出しているのは、需要があってこ
そだがそれも必須なわけではないからだろう。
北方連国にとっては、南方の出入口であるターレデファンが封鎖された事は確
実に痛手となるだろう。まだそれほど不満は高まっていないが、長引くほど不
満が高まるのは想像に難くないとアリータは思った。
「だがカリメウニアとザンブオンの諍いは始まったばかりだ。特にザンブオン
側のインブレッカ将軍は止めようとしない。」
「戦争は避けられないという事でしょうか。」
リンハイアの言う通りであれば、平衡を保とうと思っても領民は黙っていない
だろう。高まった不満は心から余裕を奪い、その隙間に狂暴性を巣食わせる。
矛先は両政府に向けられ、何れ暴走するだろうとアリータは考え懸念を口にす
る。
「さて、どうかな。」
だがリンハイアからの答えは無かった。無い、のではなく、まだ見えていない
だけで予想は付いているのだろう。アリータはその言葉から、戦争以外の結果
も有り得るかも知れないと考えた。何れにせよ、いい結果になりそうにはない
と不安も膨らむ。
「エリミアインだけでは荷が勝ち過ぎるか。なるべく偵察に徹するよう伝えて
くれ。」
「分かりました。」
リンハイアの言葉の真意は分からなかったが、聞いても答えは返って来ないだ
ろうとアリータは了解だけした。
「セヌベリグの方はどうなっている?」
「今のところ変わった様子は無いようですが、それでも宰相ギネクロアの動き
は活発になってきたように感じるそうです。」
バノッバネフ皇国に滞在している執務諜員であるセヌベリグの事を聞かれ、ア
リータは答える。当初ユリファラを行かせる予定ではあったが、オーレンフィ
ネアの件から危険だとして一度戻している。その後、ギネクロアの動きが不穏
だとして再度向かわせようとしたが、ユリファラは既にターレデファン行きを
決めていたため、代わりに慎重派であるセヌベリグを首都ベルエッダに向かわ
せたのだ。
ユリファラが空いていたとしても、ギネクロアは勘もよく頭も切れる、一度行
ったユリファラを出すのは得策ではないと、リンハイアが言った事をアリータ
は思い出していた。
「引き続き勘付かれないよう注意してもらおうか。」
「はい。」
此処に来てバノッバネフ皇国が何をしようとしているのか、アリータには分か
らなかった。しかし、オーレンフィネアが今のまま変わらなければ、バノッバ
ネフ皇国はかなりの確率で断交に踏み切るだろう。現在発動している制裁を考
慮すれば。バノッバネフ皇国がどう動くのか、リンハイアはそれも見据えてい
るのだろうと思えた。
「オーレンフィネアに動きはありません。今のままでは更に状況は厳しくなる
のではないでしょうか。」
バノッバネフ皇国の動きが分からなくとも、動きの見せないオーレンフィネア
への懸念は出てくる。アリータはそう思うと懸念を口にした。
「だろうね。それは予想の枠を越えてオーレンフィネアに降り掛かる。」
リンハイアが厳しい顔つきをして言った事にアリータは驚きを隠せなかった。
何が起きるのか、それはリンハイアの頭の中にしかないが、その言葉は不安を
煽るには十分だった。
「アリータ、ハイリ老と打ち合わせの段取りを付けてもらえないか?」
「は、はい。」
アーリゲルの独走とはいえ、オーレンフィネアは各国よりその姿勢を糾弾され
ている。そのオーレンフィネアの末路に不安を抱いていたところに、突然話し
が変わった事でアリータは返事に詰まった。
「ハイリ様と打ち合わせと言うことは、サールニアス自治連国、でしょうか。」
軍の最高責任者であるハイリと話すと言うことは、現在起きているアンテリッ
サ国、ナベンスク領、モッカルイア領の三国同盟と、メフェーラス国の戦争に
他ならないとアリータは考えた。リンハイアが動くという事は、今行っている
物資支援だけでなく軍の派遣も視野に入るのだと。
「そうだ。特にナベンスク領を押さえられるわけにはいかない。」
戦争はナベンスク領とロググリス領の国境に端を発している。真っ先に落ちる
可能性は高いだろう。そうなれば分断されるアンテリッサ国とモッカルイア領
は窮地に陥る事になる。
断崖が多く急斜面のミンガーアトニ山岳が隔ているため、アンテリッサ国はメ
フェーラス国を襲撃出来ない。モッカルイア領からロググリス領に牽制をかけ
てはいるが、成果が上がっていないのが現状だ。国境でのメフェーラス国の反
撃が苛烈なため、モッカルイア領の兵が後込みしているとも聞く。
であれば上手く防御をしているメフェーラス国が有利と言え、モッカルイア領
からの牽制は難しい。
ナベンスク領には三国の連合軍が集まってはいるが、モッカルイア領から続く
ロンガデル高原は護るに適した場所でもなく、攻めるにも大軍投入は出来ない。
狂気にも似た咆哮で血走った目をして襲って来るメフェーラス軍に、気持ち共
に押されはじめているのが現状だと聞こえていた。
その状況でグラドリア国軍が加わったとしても、改善されるのだろうかとアリ
ータは疑問を感じる。
「要請がくるとすれば後方支援になる。メフェーラスへの牽制のつもりなのだ
ろう。だがそれでは戦況が不利になる事への歯止めにはならない。」
「私もそう思います。」
前線へ投入出来る数が限られている以上、アリータとしてもリンハイアの言う
ことは想像に難くない。後方支援で参戦すれば何れ飲まれてしまうだろう。
「要請が来る前にハイリ老と話しておく必要がある。こちらも国軍を派遣する
以上、無駄死には避けたいのでね。」
現状に風穴でも開けなければ覆すのは難しい。このまま続けても精々膠着を伸
ばす事しか出来ないだろう。メフェーラス国を崩す一手が必要になってくると
アリータも考えていた。
「ナベンスク領を侵されてはサールニアス自治連国は崩壊する。それは隣国で
あるグラドリアにとっても望まない事態だ。」
未だにロググリス領の荒廃は度々報道される。均衡を保っていたからこそメフ
ェーラス国は、貧しくも国内で抑圧を抑えていたのだろう。その均衡を破った
のがロググリス領主ヤングレフカ・マタラの死であり、堰を切った欲望は膨れ
上がり爆発した。
ロググリス領を蹂躙してなお足りず、より肥沃な土地へと進行を始めたのが今
回の戦争だ。決壊した流れは何れ他国にも波及する、つまりナベンスク領が落
ちれば必ずグラドリア国にも手が伸びるだろう。事態は最早対岸の火事ではな
いのだと、アリータの不安は増すばかりだった。
「メフェーラスは何れあれにも手を出す。彼らでもその流れは止められまい。」
アリータは以前、リンハイアから聞いたサールニアス自治連国にある大呪紋式
の事を思い浮かべていた。ナベンスク領にあるのだから、その存在はメフェー
ラス国を助長させるだけに留まらないだろう。つまり一番の懸念はメフェーラ
ス国が大呪紋式を手に入れると、手がつけられなくなる可能性があるという事
だ。
ただ、リンハイアが言う彼らについてアリータは何の事か分からなかった。大
呪紋式に関して何か言われていない事があるのだという事しか。それでもアリ
ータには存在が分からなくとも、想像はついていた。モフェグォート山脈に大
呪紋式があるのだとすれば、それを狙ったザンブオン軍を殲滅したのがリンハ
イアの言う彼らではないかと。
「アリータの考えている通りだ。ついでに言えば幾人かは何度も会っているよ
。」
「え?・・・」
考えが肯定された事は良かったが、会っている事に戸惑いを隠せずにアリータ
は声が漏れる。一体何時、何処で会った誰なのだろうと疑問が頭を埋め尽くし
ていく。
「何れ分かるよ。取り敢えずハイリ老との調整をお願いする。」
「はい、分かりました。」
リンハイアの言葉で疑問が霧散し、アリータは業務中だと我に返る。何れ分か
るのであれば、今はその疑問は置いておこうと。



「五百八十三名、如何でしょう?」
会議室の長机片端に集まった四人は、表情を固くしてゴスケヌが言った内容に
対してインブレッカの反応待つ。
「問題ない。一両日中に集まるとはなかなか。本件は我輩がゲズニーク議長よ
り一任されているため許可は不要、早速明日にでも出撃させる。」
インブレッカの言葉を聞いて一同の顔が引き締まる。
「背後には隠葬隊が四人、隊長のメブオーグを含んで着きます。」
「あやつか。うむ、であれば問題ないだろう。何としても見つけ出して、ザン
ブオン軍に対して行った事への報復をしてやる。」
ベナガハの報告に対しインブレッカは眼光を鋭くして頷いた。二百四名もの兵
をたった二人に殺されたとあっては将軍の名折れ、しかも軍属の兵が圧倒的な
数の差をもってもその二人を倒せなかったのだ。インブレッカにとって名誉な
どどうでも良かったが、事実に対しては怒りが収まらなかった。
「であればメブオーグには調子に乗らぬよう念を押しておかねばな。」
「そうですな、あいつは直ぐに殺したがるからな。」
ゲイラルの言葉にゴスケヌが辟易したように同意すると、他の面子も同様の顔
になる。
「隠葬隊とは、一体何をしている隊なのですか?」
ただ一人、疑問顔だったフラガニアが話しについて行けず疑問を口にする。
「そうか、フラガニアは知らないのだな。隠葬隊とは、何処の国でも抱えてい
る暗部、諜報活動をしたり掃除したりする集団で、ザンブオンでの部隊名がそ
れだ。」
フラガニアの疑問にゲイラルが答える。話しの内容に納得はしたが、この国に
もそういう部隊は居たのだと知ると、フラガニアはいい気分にはなれなかった。
それが何処の国にも存在し、当たり前だとしても。やることは結局表に出せな
い汚れ仕事ばかりだと思えば。
「気付かれないよう探るにはうってつけだ。本来それが奴らの仕事なのだから
な。」
ゴスケヌが加えて言った事にも、フラガニアはいい気分にはなれない。国はそ
うやって発展したのだろうし、均衡を保っていられるのにも影響を及ぼしてい
るだろう。人は善行だけで生きているのではないから、言っている事に納得は
出来る。それでもその存在を肯定出来る気分ではない、ましてメブオーグとい
う隊長は今の話しだと殺す事を楽しんでいるように聞こえた。そんな危険な人
間を、しかも隊長として抱えているなど爆弾を抱えているとしか思えなかった。
それも存在が当たり前で、受け入れている軍の体制にも。
「明日は全力を以て事にあたるよう、出撃前に煽りを入れてはどうでしょう。」
「当然だ。これ以上舐めた真似などさせぬ。我輩も出るのだからな。」
ベナガハの言葉に頷いたインブレッカが、続けて言った発言で室内が騒然とし
た。
「将軍、今出ると仰いましたか!?」
ゴスケヌが卓に両手を付いて立ち上がると、血相をを変えて聞き返した。他の
三人も似たり寄ったりの態度を示している。インブレッカはそれを見て口の端
を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる。
「本気度が目に見えて変わるな。勿論、前線は避けるがな。」
「当たり前です。将軍に何かあればザンブオンが劣勢になるのは分かりきって
いる事です。隠したところで情報は漏れるもの、それを契機にカリメウニアが
付け上がるでしょう。」
インブレッカの笑みを見返し、ゲイラルが少しは立場を弁えろとばかり言った。
「分かっておる。ただこの件も、いや、下手をすればカリメウニア以上の重要
案件だ。手を抜くわけにもいかぬ。」
不敵な笑みを消すと真面目な顔になり、インブレッカは言い聞かせるように見
渡して言った。それを受けて四人も頷くと気を引き締めた。



今夜に迫っている依頼の内容を改めて確認する。対象はユニキナ・ノーデルゲ
二十四歳。写真を見る限りでは綺麗で大人しそうな女性だ。場所はナナフォー
リ住宅区、当然そんな場所など知らなかった。
場所を調べるとオレンティア駅から五つ先の駅だったのでそれほど遠くはない。
何時も通り走って行けば問題ない、そう考えると司法裁院からの依頼は近場し
かない。私一人が司法裁院の仕事をしているわけではないだろうし、近場にい
る担当に回るようになっているのだろう。
もっとも今の私は司法裁院から直接依頼を受けている、裁院の担当がそこまで
考慮してくれているかは不明だ。いきなりアーランマルバの片隅の依頼が来な
いとも限らない。考えてもしょうがないので続きを思い出す。
ユニキナに逮捕歴はない、近隣住民の話しでは人当たりもよく普通に結婚生活
を送っているらしい。旦那も仕事に出ているようで不審な点はない。じゃあ何
故、司法裁院が依頼を回して来たのか疑問となってしまう。
今回の依頼は疑惑で回して来たわけだ。以前にもあったのよね、誘拐拉致監禁。
嫌な思いしかしない。やはり警察局が調べても何も出て来ないのだが、今回は
逮捕歴が無い人物だけに手が出し難いのかも知れない。それを調査した司法裁
院に一番の疑問を感じる事になる。
のだが、司法裁院の職員が行方不明になった事が今回の依頼の起因だろう。行
方不明になった職員の足取りを探している間に行きついたらしい。そうでなけ
れば見付けるのは難しいのではないかと思う。それに、犯罪者を探す組織でも
ないのに探していたら、ただの暇で奇特な組織だ。それ以前に警察局の仕事だ
ろうし。
時間の指定は二十一時以降、概ねその時間には屋敷の灯りが殆ど落ちるらしい。
健全な生活なことで。私なら麦酒を飲んで落ち着き始める時間だ。旦那がお役
所の職員らしいが、給料がいいのだろうか。ナナフォーリ住宅区は中間層が多
く住む場所らしく、ユニキナの住む家も地図を見る限りそれなりに大きい。
まあ燃やさないように気を付けようっと。
「出来ました。」
頭の中で今夜の依頼内容を確認していると、作業台の方から声が上がる。サラ
ーナが記述を終えて声を上げたようだ。私は作業場内に設けてある休憩用の椅
子から立ち上がり、任せてみた麻酔の薬莢を確認する。
「悪くはない・・・」
悪くはないのだけど、ニセイドあたりは満足しないかもしれない。呪紋式とし
ては完成しているから問題なく発動するだろう。そりゃ記述師なのだから失敗
した記述を出来ましたとは言わないわよね。
線の太さや記述の強弱が安定していないのは、効果に安定性がなくなる。以前
ニセイドが私に言っていた事が、他人が描いた記述を見る事により分かった気
がする。おそらくそういう事なのだろう。
「駄目、でしょうか?」
「駄目ってわけじゃ無いわ。個人的に使用する分には問題ないでしょうけど、
医療用としては使い難いわね。」
私の言葉を聞くと、サラーナは肩を落として落ち込んだ。別にそこまでの事を
言ったつもりは無いが、面倒ね。
「気にする事じゃ無いわ。嫌でも数をこなす必要があるのだから、そのうち上
達するでしょう。何の為に来ているのよ。」
「そうでした。納得いくまで記述してもいいでしょうか。」
サラーナは顔を上げて言ってくる、その顔にはやる気と強い意思を宿した瞳が
あった。
「いいわよ。そうじゃなくてはこっちも商売にならないもの。」
「はい。」
返事をするとサラーナは作業台に向かい、記述をやり直し始めた。何より経験
なのだろう、だからこそカマルハーはサラーナを外に出すことを決断し、私の
所に預けたんでしょうね。まんまと国に協力させられているようで腹立たしい
が、私のお店にとっても必要だから利用出来るものは利用してやる。
「店内にいるから、何かあったら呼んで。」
「分かりました。」
サラーナの返事を聞くと、私は店内に移動する。お客さんは居ないので、アク
セサリー用のカウンターで微笑を浮かべているリュティに近付く。相変わらず
お客さんも居ないのに微笑を浮かべている意味は分からないが。
「ヒリルは今月いっぱいで今の職場を退職するってさ。」
「来月からお店も賑やかになりそうね。」
「確かに。」
文書通信でやり取りした結果をリュティに話す。ヒリルには少し前に話したば
かりなのに、行動が早いというかなんというか。そんなに今の職場に不満があ
ったのだろうか。
取り敢えずオレンティア駅付近で住む場所を探すため、休みの日は物件探しで
アーランマルバを往復しなきゃと言っていた。お店の二階に一部屋あるが、言
ってやらない。どうしてもって時は泊める事自体吝かではないが、居座られて
も困る。私の仕事上、聞かれたり見られたりしては困る内容があるし、それだ
けヒリルにも危険が及ぶ。
「物怖じしないし、笑顔も可愛いから私より向いているんじゃないかしら。」
「どうかな。確かに人当たりは良いと思うのだけど、抜けてるところあるのよ
ね。」
それでも私よりは遥かに接客に向いているだろうと、リュティの苦笑を見なが
ら思った。そもそも私は店員をしたいわけではなく、アクセサリーショップが
やりたいのよね。
「それも愛嬌ですんだらお得よねぇ。」
「そうなのよね。」
人当たりや姿勢って見てる方も気付いていない事が多いと思うけれど、何か遇
ったとき不思議と心が反応して態度に出る気がするのよね。苛っとしたり、ま
あいいかと思ったり、相手によって態度が変わるのは無意識にでも相手の態度
を認識している所為ではないかと思える。そう思うとヒリルはお得なんじゃな
いかって。本人、そんな事は意識してなさそうだけど。
そこで店内にお客さんが入って来たので、私は薬莢受付のカウンターへと移動
する。が、途中でサラーナに呼ばれたので方向変換して作業場へと移動した。
「どうでしょうか。」
記述された薬莢を見るが、そこまでの変化はない。本人としては良くなったと
思っているから見せているのだろうが。一朝一夕でどうにかなる様な技術なら、
資格も要らないし世の中もっと記述師が溢れているわよね。
「良くはなっているわね。」
思っている事を言うのは簡単だけど、あまり気落ちさせてやる気を無くされて
も困ると思って当たり障りのない言葉を言う。
「分かりました、頑張ります。」
言わなくても察しがいいと結局伝わってしまうのね。でも、簡単に出来るなら
此処にいる意味も無い。それもサラーナは分かっているようだった。
「じゃ、この記述から質を落とさずに五発記述してくれる。」
問題ない出来だとは思うので、依頼に対する記述をさせてみる事にした。国で
二年も経験しているのだ、早いところ戦力になってもらわないと。
「分かりました。」
「私はちょっと出掛けてくるわ。」
「はい、お気を付けて。」
ふと思い立ったので出掛ける事にした。善は急げじゃないが、こういう事は早
い方がいい。私はリュティにも伝えるとお店の外に出て、小型端末で近くに目
的のお店がないか調べる。流石に国の首都だけあって見付けるのには苦労しな
かった。ただ此処からだと駅の反対側で、その駅から徒歩十五分くらいだ。
「少し遠いけれど行ってみようかな。」
私は呟くとお店からオレンティア駅の方に向かって歩き出した。

その場所は雑多な雰囲気の路地だった。雑居ビルが建ち並び、通りの雰囲気は
お世辞にも良いとは言えない。オレンティア駅の近郊でもこんな場所があるん
だなと思わされた。近いところで言えば、アイキナ市のメルクキ商業地区だろ
うか。夜になるとネオンが煌々として、飲み屋も多く、呼び込みが並び、如何
わしいお店も多い。そんな雰囲気だった。
その通りのとあるビルの二階に目的のお店はあった。なんか違法な感じがして
選ぶお店を間違えたような気がしてくる。二階に上がると硝子扉があり、ウー
リウスという店名の札が下がっていた。硝子は透明で店内が見える事から、妖
しい店ではないのが分かる。だって小銃や薬莢が既に見えているのだもの。
店内に入ると、カウンターで新聞を読んでいた髭面のおっさんが私を見る。目
付きが悪い。そして無言で新聞に目を戻す。居ずらい雰囲気だ。
呪紋式の小銃や薬莢は全て硝子棚の中にあり、鍵が掛けられていた。ちなみに
棚の硝子はかなり分厚い。小銃自体が安くないので、保管に対して慎重になる
のも分かる。よくこんな場所で襲われないなと思うわ。
私は薬莢の置いてある棚に近付くと硝子越しに中を覗き込む。大きいものでは
ないので見えにくい、ついでに言えば分厚い硝子がそれに輪を掛けている。
「ね、薬莢を見たいのだけど。」
「そっから見えんだから十分だろ。」
髭面は私に一瞬胡乱気な視線を向けたが、直ぐに新聞に目を戻してそう言った。
何て愛想の無い店員なんだろう、私でももう少しまともに接客するわよ。
「ここからじゃ呪紋式がよく見えないわ。」
髭面はもう一度私を見ると、足下から頭部まで視線を這わせる。気持ち悪い。
ってかそんなんで何が分かるのかしら。
「姉さん、呪紋式を見て分かるのか?」
疑問。何で私に視線を這わせた、見定めたんじゃないのか。
「そうよ。」
私が返事をすると、髭面は棚の裏に回って鍵を開けると薬莢の入った箱を取り
出した。成る程、私のお店は表からだけど、裏からって方法もあったか。でも
回り込む分手間だし、アクセサリーショップのうちは前がいいわね。
「ならこの呪紋式が何か当ててみな。」
髭面は箱とは別に、引き出しから薬莢を一発取り出すとカウンターに置いた。
私は試されているのか、面倒臭いわね。私は薬莢を掴むと記述された呪紋式を
見る。どうと言う事は無い、医療用に使用される増血の呪紋式だ。だが、かな
り拙い記述なうえに完成していない。こんな物を持っているという事は想い出
か何かの品だろうか。そんな事を考えたところで私には見た事以上の事なんて
分かりはしない。
「分からねぇのか?」
髭面が煽ってくる、鬱陶しい。私はその言葉で薬莢をカウンターに戻した。
「描ききれていない増血の呪紋式。」
「それだけか?」
「それだけよ。」
睨み据えてくる髭面の目を見返して私は言った。推理家でも透視家でもない、
そういう面倒な事はむしろごめんだ。しかも他人事なんて。
「ほらよ。」
髭面は口の端を上げて笑うと、薬莢の箱を私の前に置いた。何が面白いのか分
からないが折角の好機、早速箱を開けて中身を確認する。
「大体の奴は想い出の品か?とか、子供のか?とか、形見の品か?とか余計な
事を邪推して言いやがる。」
髭面の与太話しになんか興味はない。おぅ、なんか色々入ってるわ。
「俺ぁ呪紋式が何か聞いただけで妄想までは聞いてねぇのによ。」
私も髭面の話しは別に聞きたくない。ってかただの嫌がらせじゃんそれ。
「狩猟用?麻酔弾とか珍しい・・・」
私は最初に掴んだ薬莢を見て呟く。先端が突き刺さると麻酔の液体が漏れ出す。
火薬を使わないから射出は静かで弾も単純構造で済む。一番の利点は一度に複
数の弾を飛ばせる事かしら。
「火種・・・骨董品じゃない。」
次に手にしたのは火を起こすための呪紋式。都市瓦斯や電気が普及している現
代での使い道は皆無と言える。しかも普通に記述すればいいものを薬莢に記述
するだけ無駄ね。
「岩・・・」
確かに重いから運ぶのに便利でしょうね。薬莢に記述する意味はないじゃない。
「ね、ガラクタばかりじゃない。しかも呪紋式がいい加減、最初に見せた薬莢
と大差無いわよ。」
髭面は心外だとばかりに目を大きくすると、口の片端を上げてにやつく。
「姉さんがそれを見たいと言ったんじゃないか。」
ぐっ。そうだけど。最初の薬莢といい、今のやりとりといい、この髭面は性格
が悪いって事が分かったわ。
「麻酔の薬莢を見たいんだけど。他の医療用でもいいわ。」
「それならそうと言えばいいだろ。」
くそう・・・なんか腹立つわ。髭面は奥に設えられた金庫から薬莢を取り出し
た。二メートル近くある高さの金庫には、薬莢以外にもお金は当然だが大型呪
紋式銃まで入っていた。店内の分厚い硝子棚は飾りで、あの中が本命ってわけ
か、かなり用心深いわね。
「ほらよ。買うならどれも五万だ。」
何故か仏頂面になった髭面がカウンターに箱を複数置く。がしゃりと金属同士
がぶつかり重そうな音を立てた。買う気は無いので金額なんかどうでもいい。
私は早速箱を開けて薬莢を取り出すと呪紋式を確認する。最初に開けたのは麻
酔の呪紋式で数発確認すると、次に止血も確認した。私は薬莢を箱に戻し、髭
面の方に押して返す。
「ありがとう。」
「買わねぇのか?」
「うん。」
「冷やかしならけぇれ。」
明らかに不機嫌な顔になって髭面は言った。お店なのだから見るだけでもいい
じゃない。そう思ったが、此処を訪れる人は買うことが前提の人が多いかと思
い直す。私と違って依頼を受けてから記述するのではなく、あらかじめ出そう
な薬莢は在庫として置いてあるのね。確かにそれは需要がありそうだ、なるほ
ど、勉強になったわ。
「うん帰る、ありがとう。」
私はそう言ってお店の扉に向おうとして、足を止めるとデニムのポケットに手
を入れる。サラーナの記述を見ている時に仕舞った麻酔の呪紋式が描いてある
薬莢を取り出した。
「お礼。」
怪訝な顔でこちらを見ている髭面に、私はその薬莢を放り投げた。髭面は慌て
て掴むと薬莢を見始めた。
「こりゃぁ・・・おい、こいつは何処で・・・」
そんな言葉が聞こえた気がしたが、既に扉の外に出ていた私は階段を降りると
そのビルを後にした。私は他人の記述や売っている薬莢を見た事が無かった。
サラーナの記述を見て気付かされたが、自分の記述だけでの評価は出来ないと。
一般的に売られている薬莢が、どの程度のものか把握してからと思い立って見
に来たのだ。もっともさっきのお店が標準だとは思っていない、他にもあれば
見に行く必要があるし、判断はそれからでもいいかも知れない。
ただ収穫はあった。あのお店で売っている薬莢の記述より、サラーナの記述の
方が丁寧で綺麗だ。つまり出来としては十分なのだろうと。国に仕えカマルハ
ーに有望視されているだけはあると、ここで初めて認識出来た。
まあ最終的には私と大差ない記述をしてもらわなければならない、それがアク
セサリーショップ・フーのクオリティとして。
取り敢えずこの前受けた麻酔の薬莢の依頼は、サラーナが記述した物を渡そう。
十分な出来であれば何時までも遊ばせておくわけにはいかないし、数をこなし
て質も高めてもらわねばならない。
商品として出せると分かれば、後はアイキナ市で店員を募集してロンカット店
の再開ね。それも一気に現実味を帯びてきた。最初は小まめにお店の様子を見
に行く必要があるわね。薬莢は依頼を受けてからアーランマルバで記述、ロン
カットに配送という手順しかないが、それで十分だろう。
お得意様の分はあらかじめ記述をしておいて、ロンカット店に在庫として置い
ておけばいい。うん、何とかなりそうな気がしてきた。
そんな事を考えているうちに、何時の間にかオレンティア駅前に着いていた。
サラーナが来てから私も勉強させられた気がする。戻ったら休憩でもしてもら
うか。
私は目に付いた焼き菓子店に向かいながらそう思った。

「ただいま、休憩しよう。」
「閉店まで二時間もないじゃない。」
お店に戻った私がお菓子の袋を掲げて言うと、リュティが苦笑して言ってくる。
別に何時休憩したっていいじゃない。お客さんも居ないし、来たら出ればいい
だけの事。
「いいでしょ、別に。」
私は作業場に移動すると、休憩場所に置いてあるテーブルにお菓子を置く。
「サラーナ、休憩するわよ。」
「あ、はい。」
作業台に向かっているサラーナに声を掛けると、返事をしながら台の上に並べ
ていた薬莢を掴んで持ってくる。
「五発、出来たのですが確認をお願いします。」
そう言って差し出された薬莢を受け取り、私が確認を始めるとサラーナは不安
そうな顔で待つ。私が出掛ける前よりも良くなっている、なにより記述が丁寧
だった。先程のお店で売っていた薬莢に比べれば上等と言える出来だ。
「悪く無いわよ。この調子で記述してもらえると助かるわ。」
「ありがとうございます。」
笑顔になったサラーナが嬉しそうに言った。私もロンカット店の再開が現実的
になって来たので気分がいい。このまま順調に進めば言う事無し。
「そう言えば、この間の女性が薬莢を受け取りに来たから、渡したわよ。」
「あ、そう言えばそうだった。今日だったわね。」
作業場に入って来たリュティの言葉に、思い出して相槌を打つ。ダークブルー
の髪で、か弱そうな女性に麻酔の薬莢を依頼されていたんだったわ。そう言え
ば、依頼を受けた日に司法裁院の依頼書を確認したんだっけ。どっちも三日後
だから覚えやすいなと思ったくせに忘れていたわ。ってか手遅れだったか、あ
わよくばサラーナが記述した方を渡そうと思っていたのに。出掛けている間に
来てしまったのだから、しょうがない。もともと準備していた方をリュティが
対応してくれただけでも良しとしよう。
「ありがとう。」
同時に、今夜の依頼を思い出して憂鬱な気分になる。少し前までも同じ気分だ
ったが、薬莢とロンカット店の事ばかり考えて頭の隅に追いやっていた。忘れ
ていたわけではなく、考えないようにしていただけだ。
三人で休憩をした後、サラーナには帰ってもらった。初日から閉店まで付き合
わせる事もないし、仕事に関しては追々覚えてもらえればいい。司法裁院の依
頼があるため今日はノエアには行かず、リュティが帰った後、私は準備をして
依頼を遂行する為に家を出た。
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