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1巻
1-3
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彼のことを、ずっと〝おじ様〟と呼んでいた。だが、どうしてそれを知っているのだろうか。
ポッと頬を赤らめると、彼はクスクスと笑いながら言う。
「矢上さんから聞きましたよ。美雪さんが、私のことを〝おじ様〟と呼んでいると。それを聞いたときに、美雪さんにはぜひ〝おじ様〟と呼んでもらいたいと思ったんです」
意外なリクエストに目を丸くさせると、彼は穏やかに目元を緩ませる。
「私の名前を知らなかったからだとは思いますが、おじ様なんて若い女の子に呼んでもらったらドキドキしちゃいますしね」
「ふふっ」
おじ様は、私を緊張や不安から解き放とうとしてくれたのだろう。その優しさに涙ぐんでしまいそうだ。和やかな雰囲気になって顔を綻ばせた私に、おじ様は秘書の男性を紹介してくれた。
「彼は私の第一秘書をしています。恭祐さんです。前会社からの付き合いでしてね。彼が入社したときからの仲なのです。彼のことは〝恭祐さん〟と呼んであげてください。皆、そう呼んでいますので」
「恭祐……さん、ですね」
「ええ。そうですよ。彼も私も名字は〝たかむら〟です。漢字は違うんですけどね」
おかしそうに噴き出しながら言うおじ様を見て、きょとんとする。どこか意味深に感じたからだ。
不思議そうにしている私を見てますます楽しそうなおじ様だったが、秘書の彼――恭祐さんをチラリと見て肩を竦める。盛大にため息をついたあと、おじ様は困惑した様子で言う。
「困ったことに、彼は一人だと自堕落的な生活をしてしまうんですよ」
「自堕落的……」
「ええ、本当に無頓着なんですよ。何事においても」
「は、はぁ……」
「放っておくと、食べるのも忘れるぐらい仕事の虫でしてね。それが心配で、彼が秘書になってからは私がお目付役になっているんです。お節介焼きなんですよ、私は」
クスクスと楽しげに笑うおじ様だが、その隣から異様な雰囲気を感じた。
恐る恐る、恭祐さんに視線を向ける。どこかストイックな雰囲気がある彼なら、プライベートも折り目正しい生活をしているように感じるのだが……
彼には似合わない〝無頓着〟という言葉を聞き、その意外性に目を見張った。話題が自分に飛んできて、恭祐さんは不機嫌な様子だ。意外な一面を見て驚く。
視線が合うと、ばつが悪そうにそらされてしまった。そんな私たちの様子を見て笑ったあと、おじ様は眉尻を下げて顔を曇らせる。
「早いところ、彼を見てくれるかわいいお嫁さんが来てくれるといいのですけどねぇ」
おじ様がため息交じりで愚痴をこぼすと、恭祐さんの眉間にある皺がより深く刻まれた。
威圧的なオーラを彼から感じる。そんな彼に怯えている私に反して、おじ様は慣れているのだろう。余裕綽々で、その冷たい視線を受け止めている。
「そんな理由もあり、彼と一緒にこの家に住んでいるのですよ。私としても、近くに彼がいてくれれば公私ともに私を支えてもらえますし。Win-Winの関係ですよ。とても助かっているんです」
「そうなんですね」
おじ様を見ていると、ほのぼのとした気持ちになる。大企業の社長とは思えないほどだ。高みに上ったからこそ、心に余裕があるのだろうか。すっかり心を許していたが、ふと彼の隣にいる恭祐さんに視線を向けて再び震え上がった。依然として厳しい表情のまま、冷たい視線を私に向けていたからだ。
一気に顔色を悪くした私を見て、おじ様は困ったように隣にいる彼を諫める。
「ほら、恭祐さんが怖い顔をして美雪さんを見ているから、彼女が怯えてしまっていますよ? 可哀想に……」
「むぅ……」
指摘されて少しだけ表情を和らげた恭祐さんだが、まだ怖いものは怖い。彼に対して不興を買ってしまっただろうか。あれこれ考えて、肩を落とす。色々とやらかしていたことを思い出したからだ。
会社の前に何時間も居座り、挙げ句の果てに熱を出して倒れるという大迷惑をかけた。
社長であるおじ様が「ここで看病する」と言ってくれたから、渋々滞在させてくれたのだろう。考えれば考えるほど、落ち込んでしまう。
本を正せば、彼は意識を戻した私が涙を流しているのを心配して、病院に連れて行こうと言ってくれた。そんな心の優しい恭祐さんにこうまで厳しい視線を向けられることは、理由がわかっていても苦しくなる。
とにかく、私はこのお屋敷においては、厄介者で間違いはない。こうして元気になったのだから、早くお暇した方がいいだろう。もう一度だけお礼を言おうと口を開いたが、恭祐さんの方が早かった。
「君が倒れたとき、帰れないと言っていた」
「え……?」
そんなことを言っていたのか。薄く口を開いて、唖然とした。
あのときは朦朧としていたため、彼らとのやり取りをあまり覚えていない。
帰れない。それは、本当のことだ。だからといって、ここにずっと滞在している訳にはいかない。
入社できず働き口がなくなってしまった以上、私に残された道はただ一つだ。父たちがいる実家に帰るだけである。
硬い表情になって口を閉ざすと、恭祐さんはますます追求してきた。
「帰りたくない、とも言っていた」
「……」
そんなことも言っていたのか。初対面の相手にそんなヘビーな内容を口にしていたことに自分も驚いてしまう。それほど、あのときの私は切羽詰まっていたということだ。
だが、今は違う。熱にうなされていないし、少しだが気持ちも整理がついてきた。まだまだ考え込んでしまうが、終わってしまったものは取り返せないし、考えたところで事態が好転するとはとても思えない。それに、彼らにはここまで多大な迷惑をかけてきてしまった。これ以上、こちらの事情で振り回すことなどできないだろう。
唇を固く結んだまま、厳しい視線を私に向け続けている恭祐さんと対峙する。
そんな私たちを横から見ていたおじ様が、「まぁまぁ」と話に入ってきた。
「美雪さん、何か事情があるのでしょう?」
「おじ様」
彼が話に入ってくれたおかげで助かった。ホッとして表情を緩めると、おじ様は優しくほほ笑んでくれる。しかし、なぜか恭祐さんはますます怖い顔になった。あまりに恐ろしくて視線をそらしておじ様に向き直る。
恭祐さんの視線が鋭く、顔にジリジリとした熱を感じて居心地が悪い。大いに慌てている私を見たおじ様は、目尻を下げたあと優しく語りかけてきた。
「こうやって知り合ったのも、何かの縁。私に話してみませんか?」
「え?」
人の怖さに直面したあとに、こうして優しい声をかけてもらえると嬉しくなる。
目尻に溜まった涙を人差し指で拭っていると、おじ様は依然として面白くなさそうな表情でいる恭祐さんに苦言を呈した。
「若いお嬢さんに、そんな怖い顔をしていたら怯えてしまいますよ」
「そ、そんなつもりは……!」
彼が視線を泳がした。心なしか顔が赤い。先程までの彼とは打って変わり、隙だらけな気がした。
硬い表情の恭祐さんしか見たことがなかったので、かなり意外だ。目を瞬かせ彼を見つめると、ばつが悪そうに頭に手を置いてガシガシと髪を乱している。
黙りこくったままの彼を見て、優しい笑みを浮かべているおじ様。彼らは主従関係なのだが、それ以上の絆が見えた気がした。
彼らといると、縋ってしまいたくなる。私だけでは手に負えそうにもない悩みを抱えているからだ。
本当は甘えてしまいたい。話だけでも聞いてほしかった。しかし、人様に頼っていいようなものではないだろう。小さく首を横に振る。
「お気持ちは嬉しいです。でも、とてもお話しできるようなものではなくて……」
私が渋っているのを見て、おじ様は難しい顔つきになる。そして、なぜか恭祐さんに視線を向けて何かを目で訴えているようにも見えた。
どうしておじ様が伺いを立てるように彼を見ているのか。そのことに疑問を抱いたとき、恭祐さんがテーブルの上で手を組んだ。そして、こちらを射貫くように強い眼差しを向けてくる。少しの違和感は、彼の顔を見て消え失せた。ドクンと胸が大きく高鳴る。
先程までは、彼の雰囲気に怯えてしまっていて見ることができなかったから気がつかなかった。
私をとても心配しているように彼の瞳が揺らいでいること、そして真摯な視線は厳しさだけでなく優しさに溢れていることに。
唇を動かそうとしたが、何を言いたいのか自分でもわからず、そのまま噤んだ。
恭祐さんは小さく息を吐き出したあと、冷静沈着という言葉がよく似合う声色で言った。
「家に帰ることができない、家出少女を見過ごすことはできない」
「家出少女って……。もう、成人しています!」
真面目くさった顔で言うものだから、思わず噴き出してしまう。クスクスと声を出して笑い出した私に、恭祐さんは呆気に取られている様子だ。しかし、すぐに憮然とした顔に戻る。どうして笑われているのか、わからないからだろう。彼が不機嫌になるだろうと予想していたが、やっぱりなった。予想が当たり、彼には悪いが楽しくなってしまう。久しぶりに心から笑った気がした。三日前の入社式の日から笑えなかったから、なんだか凝り固まった心が少しだけ解れた気がする。
恭祐さんがおじ様に視線を向けると、彼は小さく頷いた。そして、こちらに身を乗り出すように、説得を試みてくる。
「もし、美雪さんがここを出て事件に巻き込まれでもしたら……。おじ様は、心配で夜も眠れません」
「おじ様……」
「ねぇ、美雪さん。お願いですから、私を頼ってはくれませんか?」
彼にはお世話になった。感謝をしてもしきれないほどだ。
あの日、倒れた私を介抱してくれ……結果的には、家に帰らなくてもよくなった。間接的にではあるが、二度助けられたことになる。そんな相手に、何も言わずに去るのはかえって失礼になるだろう。私は、覚悟を決めて彼らに話すことを決めた。
「ずっと父と二人きりで暮らしていたのですが、一年前に父が再婚して新しい家族ができました。でも、事情がありまして……。就職を機に家を出ようと考えていたんです。でも、家を出ることができなくなりました」
そこで視線を落とす。入社できなかったことが心に重くのし掛かっているようで、現実を口にするだけで苦しい。
それに、肝心なことはやはり言えなかった。誰かに助けを求めた方がいいはずなのに、どうしても『あの人』からの恐ろしい執着心が枷となっていて口に出せない。『あの人』が彼らに危害を加えてしまうかもしれないという恐れが先立ち、怖くて言い出すことができないのだ。キュッと唇を噛みしめたあと、顔を上げて二人を見つめた。
「本当は私もあの日、シャルールドリンクの入社式に出席するはずでした。ですが、どうしてか入社辞退届を出されていて……私の入社は、ないものとなっていました」
「……それで、あの場所にいて何時間もうちの会社を見ていたのですね」
「はい」
おじ様は納得したように頷いたあと、視線を落とした。
その様子を見る限り、あの時点で私が入社できなかった新入社員だということは知らなかったようだ。私の身元もわからないのに、心配して声をかけてくれたのだろう。ありがたくて、我慢しきれなかった涙が頬を伝う。慌てて手で拭うと、目の前にハンカチが差し出された。顔を上げると、今も眉間に皺を寄せている恭祐さんがいつのまにか立ち上がり、ハンカチを手渡してきている。それをありがたく借りて、ハンカチで涙を拭う。
彼は再び腰を下ろし、声をかけてくる。
「働く場所もない今、君はどうするつもりなのか。家に帰るのか?」
「一度、帰るしかないと思っています」
本当は帰りたくなんてない。だが、今の私には行く場所がない状況だ。とりあえずは家に戻り、父には正直に今回の顛末を話さなければならないだろう。
そして、家に戻ったら就職活動のやり直しだ。あれだけ苦労して就職活動をしたのに、振り出しに戻ってしまった。やるせない思いが心に影を落とす。
落ち込む私を見て、彼らも困惑している様子だ。自社に入社予定だった女性が、何者かによって勝手に入社辞退をされてしまった。その事態を、特に恭祐さんは重く受け止めている様子だ。腕組みをして眉間に皺を刻んだあと、彼は低く唸る。
「どうして、入社辞退届が……」
私は、肩を落として首を横に振る。
「私は、辞退を申し出てなんていません。入社することを楽しみにしていたのに」
悔しくて、言葉を吐き出しながら涙声になってしまう。入社式のとき、私の応対をしてくれた人事部課長に説明されたことも付け加えて話した。ハンカチをギュッと握りしめていると、恭祐さんが重く嘆息する。
「それだけ辞退をしたという証拠が残っていると、君が反論したとしても通らないだろうな」
「そう、ですよね」
コクリと頷くと、恭祐さんは眉間の皺をより深く刻む。重苦しい空気の中、彼は再び息を吐き出した。
「君に覚えがないのなら、誰かがなりすまして辞退を申し出たのだろう。昨今なりすましの件は問題になっているからな。オヤカクをする会社もあるというし」
「オヤカク?」
「親に確認を入れることだ。ご子息、ご息女が入社しようとしていますが、異論はありませんかと彼らの親に確認を取ることを言う。あとで揉める元にならないように」
そんな問題もあるのか、と目を丸くする。入社までに色々と問題が起こっているのは、どうやら私だけではないようだ。
「シャルールドリンクでは、今まで君のように誰かがなりすまして入社辞退を申し出てきたという例は一度もなかった。だからこそ、人事部としても対応には困ったことだろう」
おじ様も隣で大きく頷いたあと、「事情はわかりましたが……」と話に入ってきた。
「弊社に落ち度があったという可能性も捨てきれませんよ」
「おじ様」
「少しだけ時間をいただけませんか? 美雪さん。これから調査をしてみますから」
ダメ元ではあるが、お願いしたい。おじ様を見て、大きく頷く。
「よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。そんな私を見ておじ様は何度か頷いたあと、カラリと笑って提案をしてきた。
「さぁ。ここからが、ここにお呼びだてした本題です。美雪さん」
「え?」
入社辞退のなりすましについて調査してくれることに感謝していたのだが、まだ何か相談事があっただろうか。首を傾げると、おじ様はニコニコと朗らかな笑顔を崩さずに言う。
「美雪さんは、ご実家に帰りたくないのですよね。でも他に帰る場所がないから帰るつもり。そうですよね?」
「はい」
「お父様との関係は良好ですか?」
「え? はい。仲はいい方だと思います」
突然父の話を聞かれたので、慌てて返事をする。脈絡があまりになく、ますます疑問を抱く。
訝しげにしている私を見ても、おじ様の表情は変わらない。大企業のトップとしての威厳を含みつつ、ただ、柔らかくほほ笑んでいる。すっかり気を許していると、柔らかい声で質問された。
「それでしたら、今回のことはお父様にはなんとお話しされているのですか?」
一瞬、返事に悩む。だが、正直に伝えることにした。
「実は……嘘をついています。きちんと入社できて、同期のマンションに滞在させてもらっていると」
「なるほど。それで、お父様からはなんと返事が?」
「わかりました、と。荷物を送ってもらいたかったら言いなさいと連絡がありました」
素直に話す私を見て、彼は頷きながら顎に触れて何やら考え事をしている様子だ。
「お父様が心配されないように嘘をついているということですね。それなら、そのまま嘘をつき続けましょう。安心してもらうためにも、少々フォローはしないといけませんが」
きちんと正直にすべて話しなさいと注意されるかと思っていたので、ポカンと口を開けてしまう。
まさか、そんな返事が来るとは思っていなかった。おじ様は私をジッと見つめながら、提案をしてくる。
「と、いうことで。美雪さん」
「は、はい」
「調査が終わるまで、この家で家政婦をしませんか?」
「え……?」
呆気に取られていると、彼は笑みを浮かべたまま続ける。
「お話を聞く限りお父様との関係は良好。ご実家に帰りたくない理由は、新しい家族と折り合いが悪いからなんですよね。となれば、美雪さんが家に帰ることによりお父様が新しい家族と板挟みになる可能性が出てくる。その点も美雪さんが家に帰ることを躊躇している原因だと思うのですよ」
「……はい」
その通りだ。『あの人』に対して危惧していることを父に伝えれば、おじ様が言っている事態に陥るはずだ。
父は私を信頼してくれているが、『あの人』に対しても絶対的な信頼を寄せている。
それを知っているからこそ、『あの人』が私に対して今回のような妨害工作をしてきたと言ったとしても信じてくれないかもしれない。そういう不安があることも事実だ。
真剣な眼差しで見つめると、彼は好々爺といった雰囲気で目元を緩ませた。
「そういうものを全部ひっくるめて考えても、我が家にいることが今の美雪さんにはベストなんじゃないかと思うのですよ」
「でも! それじゃあ、迷惑ばかりかけることになって申し訳ないです」
慌てて首を横に振ると、なぜかおじ様は目を輝かせた。
「だから、家政婦をしていただきたいんですよ」
「え……?」
「入社の件については調査中。その間、美雪さんは身動きが取れない。職探しができないのに家には帰りたくないですよね?」
「そう、ですね」
渋々と頷くと、彼は試すように聞いてくる。
「で、美雪さんは、何もせずにこの家に止まるのは申し訳ないと思っているんでしょう? 理由がないのに無理だと主張されるのですよね?」
「もちろんです!」
身を乗り出さんばかりに前のめりで頷くと、彼は満足そうな表情を浮かべた。
「そこで、美雪さんにこの家の家政婦をしていただきたいのです。そうすれば、心苦しい気持ちにはならないでしょう? 住み込みの臨時アルバイトみたいなものだと考えていただければいいのですから」
「うぅ……っ」
グラグラと意思が揺れる。その提案は、私にとっては渡りに船。しかし、ここまで色々とお世話になった上に、提案を受け入れればさらにお世話をかけることになる。それを考えると心苦しいことに変わりはない。
チラリとおじ様を見ると、大丈夫ですよ、と安心させるような笑みを向けてくれた。
それを見て安堵したあと、ゆっくりとその隣を見る。ずっと無言で私たちのやり取りを聞いていた恭祐さんは、やっぱり眉間に皺を寄せていた。だが、彼の目は私をまっすぐ見つめている。その視線は、どこか心配そうに、それでいて見守ってくれているように感じた。そして、私と視線が合った瞬間、一つ大きく頷く。この話に乗るべきだ。乗りなさい。そんなふうに強く言い聞かされている気持ちになった。
私をジッと見つめながら、彼はおじ様に加勢してくる。
「家政婦の寿子さんだが……。ここ最近、体力的に仕事が大変になってきたと言っている。君が寿子さんの手助けをしてくれれば、喜ぶと思う」
ぶっきらぼうに言う恭祐さんを見て、なんとなく彼の人となりがわかってきた。要するに、不器用な人なのだ。見目がいいから何もかもを完璧にこなすように見えるが、そうではないらしい。
しかし、そういうところに人間くささを感じて、安心できた。
恭祐さんもOKを出してくれるのなら、大丈夫だろう。邪魔者扱いされていないことに、ホッとする。
「働かせていただけるのなら、なんでもします! よろしくお願いします」
決意表明をした私を見て、おじ様は満足げだ。
「すぐにでも――」
意気揚々と腰を上げると、おじ様は「めっ!」と小さな子を諭すようにストップをかけてくる。
目を見開いて驚く私を見て、おじ様は肩を竦めた。
「美雪さんはそう言い出すかと思っていましたが、それはダメです。また倒れてしまったら元も子もありませんよ。今は休むときです。雇い主としての命令です」
やる気満々で目を輝かせている私を制止してくる。おじ様は笑顔だが、言葉尻は強い。
絶対に許さないという気持ちが見え隠れしている。それを感じた私は、渋々とだが了承した。
「わかりました」
「わかっていただけて嬉しいですよ。――ああ、ちょうどいいところに来ましたね、寿子さん」
「はい、どうかされましたか?」
寿子さんがちょうど部屋に入ってきた。お茶を持ってきてくれたようだ。
お茶を座卓に置き始めた彼女に、おじ様は話しかける。
「喜んでください。美雪さんが家政婦をしてくださることになりましたよ」
「あら! まぁ!」
「口説き落とすことに成功しました」
「ふふふ! 旦那様。グッジョブですわ」
グッと親指を立てて恭祐さんに見せたあと、寿子さんは嬉しそうに口元を綻ばせた。
どうして恭祐さんを見て〝旦那様〟と言ったのかと首を傾げる。今まで寿子さんは、おじ様のことを〝旦那様〟と呼んでいたはず。そのことに多少の違和感を覚えていると、彼女は私に向かってほほ笑みかけてくる。
「本当に助かります。年のせいでしょうか。最近体力が落ちてきているのを痛感していたんですよ。このお屋敷、見ての通りとても広いでしょう。一人で掃除するのは大変で」
「え? こんなに広いお屋敷をお一人で管理されていたんですか?」
目を丸くさせると、彼女は頬に手を当てて眉尻を下げた。
「そうなんですよ。とはいっても、毎日お掃除をするのは主に使用している部屋などで、それ以外は一週間かけてやっているのですけどね」
これだけ広いお屋敷だ。自分の祖父母世代である彼女には重労働である。
少しでも手助けができるようになりたい。彼女にそう伝えると、とても喜んでくれた。
しかし、彼女にもしっかりと釘を刺されてしまう。
「でも、今日はのんびり過ごしてくださいね。病み上がりなんですもの。そうですよね?」
寿子さんは、そう言ってなぜか恭祐さんに同意を求めた。
「え? ああ。徐々に仕事をしてくれればいい」
動揺した様子の恭祐さんを見て、寿子さんは「あ!」と声を上げて慌てておじ様に話しかけた。
「えっと、旦那様。それでいいですわよね?」
「もちろんですよ、寿子さん。美雪さんには徐々に仕事をしてもらうようにしてくださいね」
どうして三人が挙動不審になっているのかわからず不思議に思ったが、寿子さんに手招きされて慌てて立ち上がる。
「では、美雪さんをお部屋にお連れしますね。まだ、病み上がりなんですもの。今日はベッドの上でゆっくりとしていてください。あちらにホットレモネードを用意しますから」
「寿子さん、ありがとうございます。嬉しいです……」
人の優しさにどっぷり浸かり、心身ともに疲れ切っていた心に滲みる。
涙腺まで弱くなった私の背中にポンポンと触れたあと、寿子さんは部屋へ戻ろうと促してきた。
部屋を出る前に、おじ様と恭祐さんに改めて頭を下げる。
「色々と本当にありがとうございます。お仕事、頑張らせていただきます」
「ええ、こちらこそ。頼みますね」
「はい」
満面の笑みで返事をして部屋を出ようとすると、「待て」と恭祐さんに呼び止められた。
どうしたのかと振り返ると、彼はいつものように難しい顔をしている。しかし、なかなか口を開かない。私が不安を抱いていると、ポツリと小さく呟いた。
「……無理はするな」
「え?」
「それだけだ」
そう言うと、彼は立ち上がり足早に部屋を出ていく。その後ろ姿を見送ったあと、呆気に取られながら呟いた。
「えっと? 恭祐さん?」
気を遣ってくれたのだろうか。彼の発言に驚いていると、おじ様と寿子さんは視線で合図を送り合ったあと笑い出す。
「え? え?」
なぜ笑い出したのかと視線で問うても、二人はその理由を話してはくれなかったのだった。
ポッと頬を赤らめると、彼はクスクスと笑いながら言う。
「矢上さんから聞きましたよ。美雪さんが、私のことを〝おじ様〟と呼んでいると。それを聞いたときに、美雪さんにはぜひ〝おじ様〟と呼んでもらいたいと思ったんです」
意外なリクエストに目を丸くさせると、彼は穏やかに目元を緩ませる。
「私の名前を知らなかったからだとは思いますが、おじ様なんて若い女の子に呼んでもらったらドキドキしちゃいますしね」
「ふふっ」
おじ様は、私を緊張や不安から解き放とうとしてくれたのだろう。その優しさに涙ぐんでしまいそうだ。和やかな雰囲気になって顔を綻ばせた私に、おじ様は秘書の男性を紹介してくれた。
「彼は私の第一秘書をしています。恭祐さんです。前会社からの付き合いでしてね。彼が入社したときからの仲なのです。彼のことは〝恭祐さん〟と呼んであげてください。皆、そう呼んでいますので」
「恭祐……さん、ですね」
「ええ。そうですよ。彼も私も名字は〝たかむら〟です。漢字は違うんですけどね」
おかしそうに噴き出しながら言うおじ様を見て、きょとんとする。どこか意味深に感じたからだ。
不思議そうにしている私を見てますます楽しそうなおじ様だったが、秘書の彼――恭祐さんをチラリと見て肩を竦める。盛大にため息をついたあと、おじ様は困惑した様子で言う。
「困ったことに、彼は一人だと自堕落的な生活をしてしまうんですよ」
「自堕落的……」
「ええ、本当に無頓着なんですよ。何事においても」
「は、はぁ……」
「放っておくと、食べるのも忘れるぐらい仕事の虫でしてね。それが心配で、彼が秘書になってからは私がお目付役になっているんです。お節介焼きなんですよ、私は」
クスクスと楽しげに笑うおじ様だが、その隣から異様な雰囲気を感じた。
恐る恐る、恭祐さんに視線を向ける。どこかストイックな雰囲気がある彼なら、プライベートも折り目正しい生活をしているように感じるのだが……
彼には似合わない〝無頓着〟という言葉を聞き、その意外性に目を見張った。話題が自分に飛んできて、恭祐さんは不機嫌な様子だ。意外な一面を見て驚く。
視線が合うと、ばつが悪そうにそらされてしまった。そんな私たちの様子を見て笑ったあと、おじ様は眉尻を下げて顔を曇らせる。
「早いところ、彼を見てくれるかわいいお嫁さんが来てくれるといいのですけどねぇ」
おじ様がため息交じりで愚痴をこぼすと、恭祐さんの眉間にある皺がより深く刻まれた。
威圧的なオーラを彼から感じる。そんな彼に怯えている私に反して、おじ様は慣れているのだろう。余裕綽々で、その冷たい視線を受け止めている。
「そんな理由もあり、彼と一緒にこの家に住んでいるのですよ。私としても、近くに彼がいてくれれば公私ともに私を支えてもらえますし。Win-Winの関係ですよ。とても助かっているんです」
「そうなんですね」
おじ様を見ていると、ほのぼのとした気持ちになる。大企業の社長とは思えないほどだ。高みに上ったからこそ、心に余裕があるのだろうか。すっかり心を許していたが、ふと彼の隣にいる恭祐さんに視線を向けて再び震え上がった。依然として厳しい表情のまま、冷たい視線を私に向けていたからだ。
一気に顔色を悪くした私を見て、おじ様は困ったように隣にいる彼を諫める。
「ほら、恭祐さんが怖い顔をして美雪さんを見ているから、彼女が怯えてしまっていますよ? 可哀想に……」
「むぅ……」
指摘されて少しだけ表情を和らげた恭祐さんだが、まだ怖いものは怖い。彼に対して不興を買ってしまっただろうか。あれこれ考えて、肩を落とす。色々とやらかしていたことを思い出したからだ。
会社の前に何時間も居座り、挙げ句の果てに熱を出して倒れるという大迷惑をかけた。
社長であるおじ様が「ここで看病する」と言ってくれたから、渋々滞在させてくれたのだろう。考えれば考えるほど、落ち込んでしまう。
本を正せば、彼は意識を戻した私が涙を流しているのを心配して、病院に連れて行こうと言ってくれた。そんな心の優しい恭祐さんにこうまで厳しい視線を向けられることは、理由がわかっていても苦しくなる。
とにかく、私はこのお屋敷においては、厄介者で間違いはない。こうして元気になったのだから、早くお暇した方がいいだろう。もう一度だけお礼を言おうと口を開いたが、恭祐さんの方が早かった。
「君が倒れたとき、帰れないと言っていた」
「え……?」
そんなことを言っていたのか。薄く口を開いて、唖然とした。
あのときは朦朧としていたため、彼らとのやり取りをあまり覚えていない。
帰れない。それは、本当のことだ。だからといって、ここにずっと滞在している訳にはいかない。
入社できず働き口がなくなってしまった以上、私に残された道はただ一つだ。父たちがいる実家に帰るだけである。
硬い表情になって口を閉ざすと、恭祐さんはますます追求してきた。
「帰りたくない、とも言っていた」
「……」
そんなことも言っていたのか。初対面の相手にそんなヘビーな内容を口にしていたことに自分も驚いてしまう。それほど、あのときの私は切羽詰まっていたということだ。
だが、今は違う。熱にうなされていないし、少しだが気持ちも整理がついてきた。まだまだ考え込んでしまうが、終わってしまったものは取り返せないし、考えたところで事態が好転するとはとても思えない。それに、彼らにはここまで多大な迷惑をかけてきてしまった。これ以上、こちらの事情で振り回すことなどできないだろう。
唇を固く結んだまま、厳しい視線を私に向け続けている恭祐さんと対峙する。
そんな私たちを横から見ていたおじ様が、「まぁまぁ」と話に入ってきた。
「美雪さん、何か事情があるのでしょう?」
「おじ様」
彼が話に入ってくれたおかげで助かった。ホッとして表情を緩めると、おじ様は優しくほほ笑んでくれる。しかし、なぜか恭祐さんはますます怖い顔になった。あまりに恐ろしくて視線をそらしておじ様に向き直る。
恭祐さんの視線が鋭く、顔にジリジリとした熱を感じて居心地が悪い。大いに慌てている私を見たおじ様は、目尻を下げたあと優しく語りかけてきた。
「こうやって知り合ったのも、何かの縁。私に話してみませんか?」
「え?」
人の怖さに直面したあとに、こうして優しい声をかけてもらえると嬉しくなる。
目尻に溜まった涙を人差し指で拭っていると、おじ様は依然として面白くなさそうな表情でいる恭祐さんに苦言を呈した。
「若いお嬢さんに、そんな怖い顔をしていたら怯えてしまいますよ」
「そ、そんなつもりは……!」
彼が視線を泳がした。心なしか顔が赤い。先程までの彼とは打って変わり、隙だらけな気がした。
硬い表情の恭祐さんしか見たことがなかったので、かなり意外だ。目を瞬かせ彼を見つめると、ばつが悪そうに頭に手を置いてガシガシと髪を乱している。
黙りこくったままの彼を見て、優しい笑みを浮かべているおじ様。彼らは主従関係なのだが、それ以上の絆が見えた気がした。
彼らといると、縋ってしまいたくなる。私だけでは手に負えそうにもない悩みを抱えているからだ。
本当は甘えてしまいたい。話だけでも聞いてほしかった。しかし、人様に頼っていいようなものではないだろう。小さく首を横に振る。
「お気持ちは嬉しいです。でも、とてもお話しできるようなものではなくて……」
私が渋っているのを見て、おじ様は難しい顔つきになる。そして、なぜか恭祐さんに視線を向けて何かを目で訴えているようにも見えた。
どうしておじ様が伺いを立てるように彼を見ているのか。そのことに疑問を抱いたとき、恭祐さんがテーブルの上で手を組んだ。そして、こちらを射貫くように強い眼差しを向けてくる。少しの違和感は、彼の顔を見て消え失せた。ドクンと胸が大きく高鳴る。
先程までは、彼の雰囲気に怯えてしまっていて見ることができなかったから気がつかなかった。
私をとても心配しているように彼の瞳が揺らいでいること、そして真摯な視線は厳しさだけでなく優しさに溢れていることに。
唇を動かそうとしたが、何を言いたいのか自分でもわからず、そのまま噤んだ。
恭祐さんは小さく息を吐き出したあと、冷静沈着という言葉がよく似合う声色で言った。
「家に帰ることができない、家出少女を見過ごすことはできない」
「家出少女って……。もう、成人しています!」
真面目くさった顔で言うものだから、思わず噴き出してしまう。クスクスと声を出して笑い出した私に、恭祐さんは呆気に取られている様子だ。しかし、すぐに憮然とした顔に戻る。どうして笑われているのか、わからないからだろう。彼が不機嫌になるだろうと予想していたが、やっぱりなった。予想が当たり、彼には悪いが楽しくなってしまう。久しぶりに心から笑った気がした。三日前の入社式の日から笑えなかったから、なんだか凝り固まった心が少しだけ解れた気がする。
恭祐さんがおじ様に視線を向けると、彼は小さく頷いた。そして、こちらに身を乗り出すように、説得を試みてくる。
「もし、美雪さんがここを出て事件に巻き込まれでもしたら……。おじ様は、心配で夜も眠れません」
「おじ様……」
「ねぇ、美雪さん。お願いですから、私を頼ってはくれませんか?」
彼にはお世話になった。感謝をしてもしきれないほどだ。
あの日、倒れた私を介抱してくれ……結果的には、家に帰らなくてもよくなった。間接的にではあるが、二度助けられたことになる。そんな相手に、何も言わずに去るのはかえって失礼になるだろう。私は、覚悟を決めて彼らに話すことを決めた。
「ずっと父と二人きりで暮らしていたのですが、一年前に父が再婚して新しい家族ができました。でも、事情がありまして……。就職を機に家を出ようと考えていたんです。でも、家を出ることができなくなりました」
そこで視線を落とす。入社できなかったことが心に重くのし掛かっているようで、現実を口にするだけで苦しい。
それに、肝心なことはやはり言えなかった。誰かに助けを求めた方がいいはずなのに、どうしても『あの人』からの恐ろしい執着心が枷となっていて口に出せない。『あの人』が彼らに危害を加えてしまうかもしれないという恐れが先立ち、怖くて言い出すことができないのだ。キュッと唇を噛みしめたあと、顔を上げて二人を見つめた。
「本当は私もあの日、シャルールドリンクの入社式に出席するはずでした。ですが、どうしてか入社辞退届を出されていて……私の入社は、ないものとなっていました」
「……それで、あの場所にいて何時間もうちの会社を見ていたのですね」
「はい」
おじ様は納得したように頷いたあと、視線を落とした。
その様子を見る限り、あの時点で私が入社できなかった新入社員だということは知らなかったようだ。私の身元もわからないのに、心配して声をかけてくれたのだろう。ありがたくて、我慢しきれなかった涙が頬を伝う。慌てて手で拭うと、目の前にハンカチが差し出された。顔を上げると、今も眉間に皺を寄せている恭祐さんがいつのまにか立ち上がり、ハンカチを手渡してきている。それをありがたく借りて、ハンカチで涙を拭う。
彼は再び腰を下ろし、声をかけてくる。
「働く場所もない今、君はどうするつもりなのか。家に帰るのか?」
「一度、帰るしかないと思っています」
本当は帰りたくなんてない。だが、今の私には行く場所がない状況だ。とりあえずは家に戻り、父には正直に今回の顛末を話さなければならないだろう。
そして、家に戻ったら就職活動のやり直しだ。あれだけ苦労して就職活動をしたのに、振り出しに戻ってしまった。やるせない思いが心に影を落とす。
落ち込む私を見て、彼らも困惑している様子だ。自社に入社予定だった女性が、何者かによって勝手に入社辞退をされてしまった。その事態を、特に恭祐さんは重く受け止めている様子だ。腕組みをして眉間に皺を刻んだあと、彼は低く唸る。
「どうして、入社辞退届が……」
私は、肩を落として首を横に振る。
「私は、辞退を申し出てなんていません。入社することを楽しみにしていたのに」
悔しくて、言葉を吐き出しながら涙声になってしまう。入社式のとき、私の応対をしてくれた人事部課長に説明されたことも付け加えて話した。ハンカチをギュッと握りしめていると、恭祐さんが重く嘆息する。
「それだけ辞退をしたという証拠が残っていると、君が反論したとしても通らないだろうな」
「そう、ですよね」
コクリと頷くと、恭祐さんは眉間の皺をより深く刻む。重苦しい空気の中、彼は再び息を吐き出した。
「君に覚えがないのなら、誰かがなりすまして辞退を申し出たのだろう。昨今なりすましの件は問題になっているからな。オヤカクをする会社もあるというし」
「オヤカク?」
「親に確認を入れることだ。ご子息、ご息女が入社しようとしていますが、異論はありませんかと彼らの親に確認を取ることを言う。あとで揉める元にならないように」
そんな問題もあるのか、と目を丸くする。入社までに色々と問題が起こっているのは、どうやら私だけではないようだ。
「シャルールドリンクでは、今まで君のように誰かがなりすまして入社辞退を申し出てきたという例は一度もなかった。だからこそ、人事部としても対応には困ったことだろう」
おじ様も隣で大きく頷いたあと、「事情はわかりましたが……」と話に入ってきた。
「弊社に落ち度があったという可能性も捨てきれませんよ」
「おじ様」
「少しだけ時間をいただけませんか? 美雪さん。これから調査をしてみますから」
ダメ元ではあるが、お願いしたい。おじ様を見て、大きく頷く。
「よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。そんな私を見ておじ様は何度か頷いたあと、カラリと笑って提案をしてきた。
「さぁ。ここからが、ここにお呼びだてした本題です。美雪さん」
「え?」
入社辞退のなりすましについて調査してくれることに感謝していたのだが、まだ何か相談事があっただろうか。首を傾げると、おじ様はニコニコと朗らかな笑顔を崩さずに言う。
「美雪さんは、ご実家に帰りたくないのですよね。でも他に帰る場所がないから帰るつもり。そうですよね?」
「はい」
「お父様との関係は良好ですか?」
「え? はい。仲はいい方だと思います」
突然父の話を聞かれたので、慌てて返事をする。脈絡があまりになく、ますます疑問を抱く。
訝しげにしている私を見ても、おじ様の表情は変わらない。大企業のトップとしての威厳を含みつつ、ただ、柔らかくほほ笑んでいる。すっかり気を許していると、柔らかい声で質問された。
「それでしたら、今回のことはお父様にはなんとお話しされているのですか?」
一瞬、返事に悩む。だが、正直に伝えることにした。
「実は……嘘をついています。きちんと入社できて、同期のマンションに滞在させてもらっていると」
「なるほど。それで、お父様からはなんと返事が?」
「わかりました、と。荷物を送ってもらいたかったら言いなさいと連絡がありました」
素直に話す私を見て、彼は頷きながら顎に触れて何やら考え事をしている様子だ。
「お父様が心配されないように嘘をついているということですね。それなら、そのまま嘘をつき続けましょう。安心してもらうためにも、少々フォローはしないといけませんが」
きちんと正直にすべて話しなさいと注意されるかと思っていたので、ポカンと口を開けてしまう。
まさか、そんな返事が来るとは思っていなかった。おじ様は私をジッと見つめながら、提案をしてくる。
「と、いうことで。美雪さん」
「は、はい」
「調査が終わるまで、この家で家政婦をしませんか?」
「え……?」
呆気に取られていると、彼は笑みを浮かべたまま続ける。
「お話を聞く限りお父様との関係は良好。ご実家に帰りたくない理由は、新しい家族と折り合いが悪いからなんですよね。となれば、美雪さんが家に帰ることによりお父様が新しい家族と板挟みになる可能性が出てくる。その点も美雪さんが家に帰ることを躊躇している原因だと思うのですよ」
「……はい」
その通りだ。『あの人』に対して危惧していることを父に伝えれば、おじ様が言っている事態に陥るはずだ。
父は私を信頼してくれているが、『あの人』に対しても絶対的な信頼を寄せている。
それを知っているからこそ、『あの人』が私に対して今回のような妨害工作をしてきたと言ったとしても信じてくれないかもしれない。そういう不安があることも事実だ。
真剣な眼差しで見つめると、彼は好々爺といった雰囲気で目元を緩ませた。
「そういうものを全部ひっくるめて考えても、我が家にいることが今の美雪さんにはベストなんじゃないかと思うのですよ」
「でも! それじゃあ、迷惑ばかりかけることになって申し訳ないです」
慌てて首を横に振ると、なぜかおじ様は目を輝かせた。
「だから、家政婦をしていただきたいんですよ」
「え……?」
「入社の件については調査中。その間、美雪さんは身動きが取れない。職探しができないのに家には帰りたくないですよね?」
「そう、ですね」
渋々と頷くと、彼は試すように聞いてくる。
「で、美雪さんは、何もせずにこの家に止まるのは申し訳ないと思っているんでしょう? 理由がないのに無理だと主張されるのですよね?」
「もちろんです!」
身を乗り出さんばかりに前のめりで頷くと、彼は満足そうな表情を浮かべた。
「そこで、美雪さんにこの家の家政婦をしていただきたいのです。そうすれば、心苦しい気持ちにはならないでしょう? 住み込みの臨時アルバイトみたいなものだと考えていただければいいのですから」
「うぅ……っ」
グラグラと意思が揺れる。その提案は、私にとっては渡りに船。しかし、ここまで色々とお世話になった上に、提案を受け入れればさらにお世話をかけることになる。それを考えると心苦しいことに変わりはない。
チラリとおじ様を見ると、大丈夫ですよ、と安心させるような笑みを向けてくれた。
それを見て安堵したあと、ゆっくりとその隣を見る。ずっと無言で私たちのやり取りを聞いていた恭祐さんは、やっぱり眉間に皺を寄せていた。だが、彼の目は私をまっすぐ見つめている。その視線は、どこか心配そうに、それでいて見守ってくれているように感じた。そして、私と視線が合った瞬間、一つ大きく頷く。この話に乗るべきだ。乗りなさい。そんなふうに強く言い聞かされている気持ちになった。
私をジッと見つめながら、彼はおじ様に加勢してくる。
「家政婦の寿子さんだが……。ここ最近、体力的に仕事が大変になってきたと言っている。君が寿子さんの手助けをしてくれれば、喜ぶと思う」
ぶっきらぼうに言う恭祐さんを見て、なんとなく彼の人となりがわかってきた。要するに、不器用な人なのだ。見目がいいから何もかもを完璧にこなすように見えるが、そうではないらしい。
しかし、そういうところに人間くささを感じて、安心できた。
恭祐さんもOKを出してくれるのなら、大丈夫だろう。邪魔者扱いされていないことに、ホッとする。
「働かせていただけるのなら、なんでもします! よろしくお願いします」
決意表明をした私を見て、おじ様は満足げだ。
「すぐにでも――」
意気揚々と腰を上げると、おじ様は「めっ!」と小さな子を諭すようにストップをかけてくる。
目を見開いて驚く私を見て、おじ様は肩を竦めた。
「美雪さんはそう言い出すかと思っていましたが、それはダメです。また倒れてしまったら元も子もありませんよ。今は休むときです。雇い主としての命令です」
やる気満々で目を輝かせている私を制止してくる。おじ様は笑顔だが、言葉尻は強い。
絶対に許さないという気持ちが見え隠れしている。それを感じた私は、渋々とだが了承した。
「わかりました」
「わかっていただけて嬉しいですよ。――ああ、ちょうどいいところに来ましたね、寿子さん」
「はい、どうかされましたか?」
寿子さんがちょうど部屋に入ってきた。お茶を持ってきてくれたようだ。
お茶を座卓に置き始めた彼女に、おじ様は話しかける。
「喜んでください。美雪さんが家政婦をしてくださることになりましたよ」
「あら! まぁ!」
「口説き落とすことに成功しました」
「ふふふ! 旦那様。グッジョブですわ」
グッと親指を立てて恭祐さんに見せたあと、寿子さんは嬉しそうに口元を綻ばせた。
どうして恭祐さんを見て〝旦那様〟と言ったのかと首を傾げる。今まで寿子さんは、おじ様のことを〝旦那様〟と呼んでいたはず。そのことに多少の違和感を覚えていると、彼女は私に向かってほほ笑みかけてくる。
「本当に助かります。年のせいでしょうか。最近体力が落ちてきているのを痛感していたんですよ。このお屋敷、見ての通りとても広いでしょう。一人で掃除するのは大変で」
「え? こんなに広いお屋敷をお一人で管理されていたんですか?」
目を丸くさせると、彼女は頬に手を当てて眉尻を下げた。
「そうなんですよ。とはいっても、毎日お掃除をするのは主に使用している部屋などで、それ以外は一週間かけてやっているのですけどね」
これだけ広いお屋敷だ。自分の祖父母世代である彼女には重労働である。
少しでも手助けができるようになりたい。彼女にそう伝えると、とても喜んでくれた。
しかし、彼女にもしっかりと釘を刺されてしまう。
「でも、今日はのんびり過ごしてくださいね。病み上がりなんですもの。そうですよね?」
寿子さんは、そう言ってなぜか恭祐さんに同意を求めた。
「え? ああ。徐々に仕事をしてくれればいい」
動揺した様子の恭祐さんを見て、寿子さんは「あ!」と声を上げて慌てておじ様に話しかけた。
「えっと、旦那様。それでいいですわよね?」
「もちろんですよ、寿子さん。美雪さんには徐々に仕事をしてもらうようにしてくださいね」
どうして三人が挙動不審になっているのかわからず不思議に思ったが、寿子さんに手招きされて慌てて立ち上がる。
「では、美雪さんをお部屋にお連れしますね。まだ、病み上がりなんですもの。今日はベッドの上でゆっくりとしていてください。あちらにホットレモネードを用意しますから」
「寿子さん、ありがとうございます。嬉しいです……」
人の優しさにどっぷり浸かり、心身ともに疲れ切っていた心に滲みる。
涙腺まで弱くなった私の背中にポンポンと触れたあと、寿子さんは部屋へ戻ろうと促してきた。
部屋を出る前に、おじ様と恭祐さんに改めて頭を下げる。
「色々と本当にありがとうございます。お仕事、頑張らせていただきます」
「ええ、こちらこそ。頼みますね」
「はい」
満面の笑みで返事をして部屋を出ようとすると、「待て」と恭祐さんに呼び止められた。
どうしたのかと振り返ると、彼はいつものように難しい顔をしている。しかし、なかなか口を開かない。私が不安を抱いていると、ポツリと小さく呟いた。
「……無理はするな」
「え?」
「それだけだ」
そう言うと、彼は立ち上がり足早に部屋を出ていく。その後ろ姿を見送ったあと、呆気に取られながら呟いた。
「えっと? 恭祐さん?」
気を遣ってくれたのだろうか。彼の発言に驚いていると、おじ様と寿子さんは視線で合図を送り合ったあと笑い出す。
「え? え?」
なぜ笑い出したのかと視線で問うても、二人はその理由を話してはくれなかったのだった。
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