囚われの君を愛し抜くから

橘柚葉

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1巻

1-2

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 傘を差し掛けてくれた男性がおじ様のことを〝我が主人〟と言っていたので、社長はおじ様で、秘書は超絶美麗な彼なのだろう。
 とても驚いたが、すぐに腑に落ちる。彼らは、私がずっとあのベンチに座っていたことを知っている様子だった。もしかしたら、社長室から私の姿が見えていたのかもしれない。不審者がいる、と警戒して、あのとき声をかけてきたのだろう。
 横になっていてとは言われたが、初めましての挨拶はきちんとしたい。重い身体を起こして自己紹介を返す。

「三枝美雪と言います。このたびは、助けていただきありがとうございました」

 深々と頭を下げると、彼女は両手を顔の前で振って慌て出した。

「いいのよ、いいのよ。私は特に何もしていないの! ちょっと待っていて、社長を呼んでくるから。午前中は入社式とかあってバタバタしていたんだけど、午後からは在宅に切り替えてWeb会議をしているの。今は休憩中だから、ちょうどいいわね」

 先程まではかっこいい大人の女性といった雰囲気だったが、ぱたぱたとした仕草はかわいらしい。
 慌てた様子で部屋を出て行こうとする彼女の後ろ姿をほほ笑ましく見ていたが、現実を思い出して気持ちがズンと沈んでしまう。

(もし、何者かに入社辞退届を出されていなかったら……)

 矢上さんのような素敵な女性がいる職場で働けていたのかもしれない。そう考えると、悲しくなった。入社できなかったことを思い出し、再び涙が零れてしまう。
 涙を手でいていると、矢上さんが私を助けてくれた男性二人を連れてきた。しかし、私の頬に伝う涙を見て一同が大慌てし始める。

「どうしたの? 美雪ちゃん。苦しいの? どこか苦しいのね? それとも、痛いのかしら? ええ? どうしましょう!」
「お嬢さん、横になりなさい。とにかく今は安静にしていることが大切ですよ」

 おじ様と矢上さんがオロオロと慌て出したのを見て、「大丈夫です」と告げようとした。だが、その言葉は驚きでみ込むこととなる。傘を差し掛けてくれた男性――シャルールドリンク社長の第一秘書にいきなり布団をがされたからだ。え、と声を出して驚いていると、彼は私を抱き上げた。

「え? え?」

 熱で頭が朦朧もうろうとしている上に、想像をはるかに超えた事態になっている。
 目をまたたかせて慌てふためいているというのに、彼は相変わらず眉間の皺を消すことはない。
 綺麗な横顔を至近距離で見つめてしまい、顔が熱くなる。
 これは多分、風邪からの熱ではない。こんなふうに男性に抱きしめられたこともなければ、抱き上げられたこともないからだ。恥ずかしくて逃げ出したくなる。
 あり得ない状況を目の当たりにし、ドキドキしすぎて何も言えなくなってしまう。

「病院に連れて行く」

 低く鋭い声でそれだけ言うと、私を横抱きにしたまま部屋の外へ出てしまう。
 身長の高い彼に抱き上げられ、あまりの高さに怯えてしまった。キュッと彼のスーツのジャケットを握りしめると、彼は眉間に皺を寄せたまま不安そうに顔を覗き込んでくる。

「大丈夫か。辛いんだろう? 早く、医者に診せよう。ここでは、しっかりとした検査ができないから」
「え? いえ、待ってください」
「待てない。そして、待つつもりはない」

 部屋を飛び出して廊下に出てからも、彼は私を下ろそうとはしなかった。ただ、前を見て足早あしばやに歩いていく。その足取りに迷いはない。
 背後から「落ち着いてください」という矢上さんの声がしたのだが、その声に耳を傾けようともしない。
 彼女の話では、先程医師には診てもらって風邪や過労だと診断が出たと言っていたはず。これ以上の検査は、必要ないだろう。それなのに、どこかムキになっている彼に訴える。

「待ってください。大丈夫ですから。ただの風邪だってお医者様が言っていたって矢上さんが」

 私の言葉を遮るように、彼は呟いた。

「……大丈夫なものか」
「え?」

 苦しそうに声を絞り出して言う彼を、目を見開き驚いて見つめる。
 未だ眉間に皺を寄せたままだが、彼はようやく足を止めた。そして、真剣な眼差しで見つめ返してくる。視線が鋭い。その迫力に押し黙る。

「じゃあ、どうして泣いていたんだ? 苦しくなったからなんだろう? 泣くぐらい辛いなら医者に診てもらった方がいい」
「えっと、でも……」
「大きな病が隠れているかもしれない。大丈夫だ、たいしたことない、安心して。その言葉が一番信用ならないんだ!」

 声を荒げる彼に唖然あぜんとしていると、駆け寄ってきた矢上さんとおじ様によって引き留められた。

「彼女はただの風邪と心労だって、さっきお医者様が診断してくれたでしょう? 落ち着いてください」
「そうですよ。少し落ち着きましょう」
「だが……」

 彼らに引き留められて、ようやく我に返ったらしい。
 だが、依然として眉間に深く皺が刻まれたままだ。彼の視線が私に向く。

「本当に大丈夫か?」
「っ!」

 ドキッとするほど色気を感じるその目で問いかけられ、ますます熱が出てしまいそうだ。顔を赤く火照ほてらせて、何度も頷いた。

「本当に大丈夫です。皆さんによくしていただいたおかげで、目を覚ますことができたんですから」
「……本当、か?」
「はい」

 再び大きく頷いたのだが、未だに彼のうれいは消えないようだ。
 なんと言えば彼は安心してくれるのだろうか。一生懸命考えるのだが、彼のことを全く知らない私では対処法など思いつく訳もない。
 くしゅん、と小さくくしゃみをすると、矢上さんが目をつり上げて彼を注意し始める。

「ほら、彼女は風邪引きさんなの。これ以上、身体を冷やして熱を上げたいんですか!」

 熱がまだ上がりきっていないのだろう。確かに悪寒おかんがしてブルブルと震えてしまう。
 彼の腕の中は温かいとはいえ、高熱が出ている私には少々寒く感じた。節々ふしぶしも痛いし、とにかく身体がだるい。
 だが、依然として私を抱き上げている彼は、医者に診せるべきか否かと葛藤中のようで、その場に立ち尽くしたままだ。ますます心配そうな表情になった彼の肩に、おじ様は手を置く。

「ほら、一度戻りましょう。雨にれて風邪を引いてしまったんです。まずは、彼女を暖かい布団に戻すことが先決ですよ」
「……」
「熱が下がって、それでも心配なら、彼女を病院に連れて行って精密検査でもなんでもしてもらえばいいんです。よろしいですね?」

 おじ様の言葉に異論はなったのだろう。彼は方向転換し、先程の部屋へと足を向けた。
 私をベッドに寝かせ、すぐさま布団をかけてくれる。

「寒くないか?」
「はい、お布団が暖かいので」

 今頃になって彼に持ち上げられた上、密着した状態だったことを思い出して恥ずかしくなってしまう。目を泳がせて曖昧あいまいにほほ笑んだのだが、彼は必死な様子で見つめてくる。
 異変はないか、苦しんではいないか。どんな小さなことでも見逃さないといった感じだ。
 男性に見つめられるだけでもドキドキしてしまうのに、相手は超絶美麗である。全くもって居たたまれない。
 心配症な彼を見て、矢上さんは肩をすくめた。

「とにかく、彼女は病人よ。それに、うら若き乙女の部屋に男性が長居するものではありません!」
「むぅ……」

 秘書の彼はうなったが、確かにそうだとおじ様は大きく頷いている。
 矢上さんは、そんな男性陣の背中を押して部屋の外へと追い出してしまった。そのあと廊下で彼女の叫び声が聞こえ、男性陣が何かを言っている。どうしたのか、と不思議に思っていると、未だに何か言っている男性陣を振り切って彼女は扉を閉めてしまう。

「どうか、されましたか?」

 何かめている様子を感じて心配になる。私のせいでめ事が起きているのなら、申し訳ない。

「違うの、違うの! ちょっと仕事のことでね」

 矢上さんはごまかすように盛大なため息をついたあと、ニッコリとほほ笑みかけてきた。

「寒気があるってことは、まだこれから熱が高くなるわね……。とにかく寝ていてね。あとで、軽く食べられる食事を用意して持ってくるから」

 倒れた私を介抱してくれただけでもありがたいのに、これ以上は甘えられない。
 帰りますから、と首を横に振ったのだが、彼女は顔を近づけてニンマリと笑う。

「あら? 今、この状況でここを抜け出すつもり?」
「え?」

 どういう意味だろうと首をかしげると、彼女は意味深にほほ笑んだ。

「さっきの……えっと、貴女を抱き上げた男性ね。あの人の様子を見たでしょう? 本当に今、出て行ってもいいと思っているの?」
「えっと……?」
「貴女が涙を流していただけで、あの取り乱しようよ? 熱がある貴女がここを飛び出したなんてわかったら……何をするか、わからないわね」

 それでもいいの? と試すように目を細めてきた。その表情はとても美しいのに、押しの強さを感じる。フルフルと首を横に振ると、矢上さんは「よろしい」と満足げに頷いた。
 しかし、未だにどこか納得しきれていない私の様子を見て、彼女は顔をくもらせる。

「絶対に、何も言わずに出て行くことだけは止めてね。お願いよ」
「え?」

 秘書の男性といい、矢上さんといい、どこか必死な様子が気になった。
 さすがに何も言わずに出て行くなんてことはしません、と言うと、彼女は困ったように眉を曇らせる。
 僅かな躊躇ちゅうちょのあと「私が言うべきじゃないかもしれないけど、言わないと貴女は遠慮しすぎそうだから」と前置いて矢上さんは口を開く。

「先程の彼ね。妹さんがいたんだけど、数年前に病気で亡くなってしまったの。そうね、彼女が亡くなったのはちょうど貴女ぐらいの年齢だったわ」
「え……?」

 言葉をなくした私を見て、矢上さんは目を伏せる。

「風邪をこじらせて、そのまま……。元々身体は弱かったらしいんだけどね」

 小さく嘆息したあと、彼女は重々しく口を開く。

「最初は軽い風邪だと思っていたの。彼女自身も大丈夫だ、心配いらないって言っていたらしいわ。それをに受けていたけど、急変してしまってね」
「……」
「彼は貴女と妹さんを重ねて見てしまったんだと思うの。ねぇ、美雪ちゃん。元気になるまで、ここにいてちょうだい」
「矢上さん、でも……」
「彼に恩を感じているのなら、ね?」
「……はい」

 ようやく素直に頷いたからだろう。矢上さんは、ホッとした表情を浮かべた。

「これにて交渉成立! 色々と詳しいことは体調が万全になってからね」
「はい……お世話になります」
「うん、安心して身体を休めて。ああ、そうそう。今、貴女がいるこの家は社長の自宅なの。お手伝いさんもいるから安心してね」

 廊下に出たときに病院でもホテルでもないことには気がついたが、まさかシャルールドリンク社長の自宅だったとは。

「じゃあ……こちらは、おじ様のご自宅なんですね。ご家族の方は私がここにいることを承諾してくださっているのでしょうか?」

 家主だけではなく、きちんとおじ様の家族にも了承してもらわなくては居づらい。
 矢上さんを見ると一瞬動きを止めたが、すぐに私に向き直った。

「えっと、社長……美雪ちゃんが言っているおじ様の奥様は鬼籍きせきに入られたの」
「そう、なんですね」
「ええ。娘さんは嫁がれていて、この家には社長と秘書の彼だけなの」
「社長であるおじ様と、秘書さんが一緒に住んでいるんですか?」
「そ、そうなのよぉ」

 矢上さんは、うんうんと何度も頷く。そんな彼女を見て、首をかしげる。どうしたのか、と聞いたが、笑ってごまかされてしまう。大企業の社長秘書ともなると、プライベートでもついて回らないといけないのか。
 秘書さんって大変なお仕事ですね、と正直に伝えると矢上さんはなぜか苦笑した。

「ま、まあね。とにかく、ここには家政婦の女性もいるから安心してね」

 確かに男性二人が住む家に女性一人。さすがにそんな環境では居づらいので、それを聞いてホッと胸を撫で下ろしていると、なぜか彼女も安心した表情を浮かべていた。
 どうしましたか、と問いかけると、「なんでもないのよ」と話をそらすように彼女はバッグを取り出した。私のバッグだ。

「これ、貴女が持っていたバッグ。何も落としてはいないと思うけど、あとで確認しておいてくれる?」
「……はい」

 バッグを受け取りながら頷くと、矢上さんは「飲み物を取りに行ってくるわ」と部屋を出て行った。
 ほぅ、と小さく息を吐き出したあと、社長秘書である男性の必死な形相を思い出す。
 矢上さんの話を聞いて、冷静沈着そうな彼が取り乱した理由がわかった。彼の妹と私の姿が重なって見えたのだろう。
 彼の気持ちを考えると、胸の辺りが苦しくなる。これは大人しくしていなくてはダメだろう。これ以上、彼の心労を増やしてはいけない。
 布団を口元まで引き上げつつ、未だに熱でぼやけがちな目で天井を見つめる。
 今日は、最悪な日だった。
 誰かの手により入社することができず、挙げ句の果てには雨に打たれて倒れてしまい、人様の手をわずらわせてしまう始末。そして――
 背筋がゾクッとする。これは風邪の悪寒おかんじゃない。『あの人』の目が今も尚、私を怯えさせているからだ。
 おじ様たちに迷惑をかけてしまい心苦しくも感じるが、私にとってはラッキーだったのかもしれない。実家に帰らなくてもよくなったのだから。
 矢上さんが置いていってくれたバッグを開き、携帯を取り出す。
 父だけには、今のこの状況をメールしようとした。しかし、そこでふと指が止まる。入社式に出ていると思っている父を悲しませたくはない。いずれは入社できなかったことを話さなければならないだろう。だが、もう少し時間がほしい。まずは、自分の心と頭の整理が終わってからだ。
 それに、入社式に出られなかったことを『あの人』には絶対に知られたくない。父に今の状況を話してしまったら、間違いなく『あの人』にも伝わってしまう。それを考えると、父には本当のことを伝えない方がいい。

(今、私の居場所を知られてはまずいよね……)

 場所を知られたら最後、もしかしたらこのお屋敷に乗り込んでくる可能性もあるからだ。
 そんなことになれば、厚意で私を助けてくれたおじ様たちに迷惑がかかる。
 キュッと唇を噛みしめ決意を固めたあと、メールアプリを起動させてタップする。
 父には『同期の女の子が会社の近くに住んでいて、そのマンションでルームシェアしないかと相談があったの。今後のことを考えて、そのお宅にお邪魔させてもらうことにしました。少しの間、彼女のマンションで暮らしてみるね。また連絡します』と送ることにした。

「ごめんなさい、お父さん」

 嘘をつくことに関しては、後ろめたさが半端ない。だが、今は何がなんでも『あの人』から逃げなくてはならないのだ。手段は選べない。
 震える手でメールを送信して電源を切ったあと、罪悪感と共に少しの安堵感が眠気を誘う。
『あの人』にとらわれることがない、この優しく安全な場所のぬくもりを感じながら……



   2


 意識がはっきりしたときには、三日が経過していた。まさか、父にメールを送ったあと、そんなにも長く朦朧もうろうとしながら眠り続けることになるとは思いもしなかった。
 先程携帯を立ち上げて確認したら、父からはメールを送った日に『わかりました。お友達に迷惑をかけないように。あと、荷物を送ってほしかったら連絡ください』という返信が届いていた。父は、私を信用してくれている。だからこその、この返事なのだろう。
 母は私が幼い頃に亡くなっている。それこそ、母の記憶がないぐらい昔だ。それからは、父ひとり子ひとりで生活してきた。男手ひとつで育ててくれた父には、感謝しかない。だからこそ、父が再婚したいと言い出したときには背中を押したのだ。しかし――
 こちらのお宅で用意してくれたワンピースに着替えながら思い悩んでいると、部屋に家政婦の寿子としこさんがやってきた。
 御年七十の女性だ。とてもおしとやかで、おっとりとした雰囲気がある人である。

「あら、とってもお似合いですよ。美雪さん」
「ありがとうございます」

 膝下丈のワンピースはアイボリーで春らしい色合いだ。ウエスト部分にはリボンがあり、切り替えプリーツでとてもかわいい。しかし、このワンピースで寿子さんと一悶着ひともんちゃくがあったのだ。
 朝食を済ませたあと、寿子さんは私にこのワンピースを手渡してきた。

『このワンピースに着替えてくださいね』
『素敵なワンピースですね。でも、私にはスーツがあるので。それで大丈夫です』

 遠慮する私に、彼女は首を横に振った。

『この家で、こんな若いお嬢さんの服を他に誰が着ると言うのですか? 美雪さんが着なければ、捨てるだけになってしまうんですよ?』

 これ以上甘えることはできないと言ったのだが、最終的に涙目で訴えられてしまった。

『着てくれませんか? 貴女に似合うと思って用意されたそうですよ?』

 その目に負けた私は、ありがたく頂戴することにした。しかし、そのあとケロリとした表情を浮かべていた寿子さんを見ていると、められたのではないかとにらんではいるのだけど。
 私の格好を見て、彼女は嬉しそうに何度も頷いたあと、のんびりとした口調で言った。

「美雪さん、どうぞこちらへ。旦那様方がお待ちですよ」

 こちらのお宅にかつぎ込まれてから三日。昨夜あたりから熱が下がって元気になった私は、ようやく恩人たちと会えることになったのだ。
 身だしなみを確認したあと、寿子さんの後について部屋を出る。
 彼女は社長宅で働いて長いらしく、内情に詳しいのだと矢上さんが言っていたことを思い出す。
 寿子さんにも、熱でうなされているときに大変お世話になった。
 何度もお礼は言ったが、後日きちんとしたお礼がしたい。そんなことを考えながら足を進める。
 体調が戻るまでは最初に運ばれた部屋でずっと寝ていたので気がつかなかったのだが、ここは相当大きなお家だ。お屋敷と呼ぶにふさわしい。
 不躾ぶしつけだとわかっていても、どうしても周りを見回してしまう。
 寿子さんの足がふすまの前で止まった。ふと、外を見ると立派な和風庭園があった。かなりの敷地があるようだ。グルリと見渡しても塀が見えない。
 私が借りていたゲストルームの辺りの様子から洋館だと思っていたのだが、いつの間にか和風な雰囲気に変わっている。
 この家は一体どれほど広いのか。自分が生きている世界とまるで違うものを目の当たりにし、驚愕してしまう。
 寿子さんが「お連れいたしました」と中に向かって声をかけた。

「ああ、寿子さん。入ってもらってください」

 中からおじ様――シャルールドリンク社長の声が聞こえる。それを聞いた寿子さんは、襖を開けた。
 畳敷きのその部屋には一枚板の大きな座卓があり、床の間には立派な掛け軸とセンスのいい生け花が飾られている。この部屋をパッと見ただけでも、格式高いことだけは伝わってきた。
 中にはおじ様と秘書の男性が座っていて、入ってきた私を見つめてくる。

「ほら、お嬢さん。こちらに、いらしてください」
「は、はい!」

 この三日間、初日を除いて彼らが私の元に来ることはなかった。恐らく、矢上さんの発言を聞いて、遠慮してくれていたためだろう。すすめられるがまま座布団に座ると、寿子さんが襖を閉めて出て行った。それを合図に、おじ様は声をかけてくる。

「お嬢さん、体調はいかがですか?」

 相変わらず柔らかい物腰だ。ほんわかとした雰囲気のおじ様に、大きく頷いた。

「はい、体調は元に戻りました」
「そうですか。それならよかった」

 安堵した様子の彼を見て、恐縮してしまう。おじ様とその隣にいる秘書の男性に頭を下げた。

「今更ですが、三枝美雪と申します。このたびは、ありがとうございました。そして、ご迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした」

 心からのお礼と謝罪を言ったあと、顔を上げて二人に言う。

「また後日、改めてお礼に伺います」

 この数日間の感謝を伝えたのだが、男性陣二人は顔を見合わせている。どちらも苦い顔をしていることに気がつき、首をかしげた。どうしたのだろうか、と不思議に思っていると、秘書の男性は小さく嘆息する。

「……ここを出て行くつもりか」
「え?」

 そんなふうに言われるとは思っておらず、目をまたたかせた。訳がわからずにいると、今度はぞんざいな口調で繰り返される。

「ここを出て行くつもりなのか、と聞いている」
「えっと……そのつもりですが」

 私がこのお宅にずっといていい訳がないし、なによりいる理由もない。彼の意図がわからず、焦ってしまう。
 初めて会った三日前にも思ったことだが、彼は常に眉間に皺を寄せて難しい顔をしている。
 もちろん今も、その表情を崩していない。クールで口調がきつめなので、怖さも倍増だ。
 思わずすくんでしまった私を見て、おじ様はフフッと笑ってなだめてくる。

「大丈夫、彼は美雪さんを心配しているだけですから。怒ってなどいませんよ?」
「は、はぁ……」

 そんなフォローが入っても怖いものは怖い。真っ正面に座る彼からの厳しい視線に負けそうになっていると、おじ様は目尻にたっぷり皺を寄せて声をかけてきた。

「矢上さんから聞いていると思いますが……。私はシャルールドリンクの社長をしています」
「えっと……。野崎のざきさん、ですか?」

 シャルールドリンク社長の名前は、野崎だったはず。面接で聞かれるであろうことは、今も尚、頭の中に入っていた。それを指摘すると、おじ様は首を横に振る。

「実はこの春、社長は交代することが決定しています」
「え?」
「社長は野崎さんでしたが、病気療養のために今春社長職を退しりぞくことが決定しました。それで、私がその後釜に座ることになったんですよ。元々は違うグループ会社で働いていましたが、今回縁あってシャルールドリンクに」
「そうだったんですね」

 たかむらホールディングスにはたくさんのグループ会社がある。その中の一つがシャルールドリンクだ。そして、おじ様は今春までは他のグループ会社のトップ、もしくは重役だったのだろう。それなら、このお屋敷の大きさなども納得できる。

「ええ。現在、着々と準備を進めているところでして。社長代理として数週間前から動いておりましてね。入社式でも新入社員たちが私を見て驚いていましたね」
「そう……だったんですね」

 今の私には、もう関係のない情報だ。そう思えば思うほど、寂しさが込みあげてくる。
 意気消沈していると、おじ様は茶目っ気たっぷりの表情で懇願してきた。

「でも、美雪さんには、社長ではなくておじ様って呼んでほしいですね」
「え?」


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