妄想恋愛しちゃダメですか?

橘柚葉

文字の大きさ
23 / 26

第二十三話

しおりを挟む
「珠美さん、迎えに来ましたよ」
「……尚先生」
 フジコが去ってから十分後。本当に尚先生がやってきた。
 だけど、十分なんて短い時間で心の整理などできない。
 狼狽える私から視線を外し、尚先生はテーブルにあるグラスを見つめた。
「珠美さん、お酒飲まれたんですか?」
「い、いえ。これは全部フジコが飲んだもので」
 私はこれだけです、とウーロン茶が入ったグラスを指差す。すると尚先生は穏やかにほほ笑んだ。
「お腹は減っていませんか?」
「はい、大丈夫です」
 フジコとおつまみをシェアして食べたからお腹がいっぱいだ。
 そう言うと、尚先生は伝票を手にした。
「さぁ、出ましょうか」
 それだけ言うと、スタスタと足早にレジまで行き、お勘定をし始めてしまった。
 私は慌てて靴を履き、店を出てしまった尚先生を追いかける。
 店の扉を開くと、そこには尚先生が壁に寄りかかって私を待っていてくれた。
「尚先生、お金支払います。私とフジコが食べたんですから。それにフジコからもお金を預かっていますし」
「もう支払いを済ませてしまいましたし、何より金額を忘れてしまいました」
「金額を忘れただなんて絶対嘘です!」
 困って尚先生に詰め寄ると、そのまま尚先生に抱きしめられてしまった。
「な、尚先生!?」
「本当にお酒は飲んでいない?」
「っ!」
 チュッと私の唇にキスをし、「うん、アルコールの香りはしないね」と爽やかに笑う。
 半年付き合ってもこういう尚先生のさりげないタッチに慣れない私は、今日もドギマギしてしまう。
 それにこうして二人きりだけのとき、尚先生の口調が少し変わってきた。
 初めて出会った頃から私に対して尚先生は丁寧なしゃべり方だった。
 半年経った今でも物腰柔らかく丁寧な言葉使いに変わりはないが、少しだけ親しみが込められている様に感じる。
 そんなときは、嬉しくて再びドキドキしてしまうのだ。
 真っ赤になって俯く私の耳元で、尚先生が甘く囁く。
「珠美さんは私と一緒のとき以外ではお酒を飲んではいけませんよ。あんなに可愛い珠美さんを誰にも見せたくないですから」
「っ!」
 鹿島さんにもですよ、と尚先生は私に念を押した。
 ますますドキドキするから止めてください、と心の中で叫んでいた私だったが、尚先生の次の言葉に固まる。
「鹿島さんから今日電話がありました」
「はい……」
「珠美さんが何かに悩んでいる。それも私との関係のことで悩んでいると聞きました」
「……」
 押し黙っていると、尚先生はギュッと私を抱きしめてきた。
「鹿島さんはそれ以上は言ってくれませんでした。ですから、私は珠美さんが何に悩んでいるのか知りません」
「……」
「教えていただけませんか?」
 尚先生に言ってしまいたい。そうすればこの胸のモヤモヤは解消されることだろう。
 しかし、そのことを口にしたが最後。私は尚先生に振られてしまうかもしれない。
 尚先生が私に手を出さない理由。それが私に興味が持てなくなったということだとしたら……私は立ち直ることが出来ないだろう。
 だからと言って私からキスをしたり、抱いてくださいだなんて言えない。言える訳がない。
 佑さんに言われたように「尻軽女」だと尚先生に思われたくない。
 尚先生ならそんなふうに言うことはないと思う。そう信じたい。だけど……
 私は未だに昔のトラウマに囚われているのだろう。
『今、行動しなくちゃ。尚先生、他の女に捕られちゃうかもよ?』
 フジコに先ほどまでさんざん言われ続けてきた言葉だ。
 何度想像しても胸が痛む。他の女の人とキスする尚先生を想像するなんてイヤだ。
 まだ、想像だけならいい。本当にそんな現実がやってきたら……?
(いやだ、絶対にいや。私は尚先生が好きだもの……誰にも渡さない!)
 先生のキレイな唇も、その大きな手も、優しく柔らかい声も、全部全部私のモノにしてしまいたい。
「珠美さん?」
 心配そうに私の顔を覗き込んだ尚先生に、私は自らキスをしていた。
 私からキスをする。また、自分がそんなことをするなんて思ってもみなかった。
 三年前、初めてできた恋人とギクシャクしてしまい、どうにかつなぎ止めたいと思って自らしたキス。
 あのキスがきっかけで恋人には振られ、罵倒される事態を招いたのだ。
 それがトラウマとなり、恋愛なんてするもんじゃない。そう考えた私が行き着いた先は『脳内妄想恋愛』だった。
 脳内で恋愛をする。ドキドキするしキュンキュンして、それはそれで楽しかった。
 だって心が痛くなったり、切なくなったりすることはないのだから。
 でも、私は尚先生に出会ってしまった。もう、妄想恋愛には戻れない。
 あれだけ自分から積極的に恋愛をすることを拒んでいた私が、こうして尚先生にキスをしている。まさに捨て身の決断だった。
「尚先生……私、尚先生が好きです」
「……」
「私に触れないのはどうしてですか? 私、尚先生にもっと近づきたいです」
 言ってしまった。ついに言ってしまった……!!!
 どんな結果になったとしても逃げたくない。私はムンと唇を噛みしめて、尚先生の次の言葉を待った。
「やっとですね」
「え?」
 意外な返事がきて、正直面食らった。目を見開く私に、尚先生は嬉しそうに、本当に嬉しそうに目尻を下げた。
「珠美さんから言ってくれるのを、ずっと待っていましたよ」
「え……?」
 驚いて口を開いたままの私の手首を掴み、尚先生は私を引っ張ってどこかに連れて行く。
「尚先生?」
「今日は車で来ています。まずは車に行きましょう」
「ちょ、ちょっと待って。尚先生、速いですよ」
 なんだか今の尚先生は余裕がなさそうに見える。
 尚先生は私の手首を掴んだまま歩くのだが、もともと私と身長差があるので先生の歩調に合わせると私は小走りになってしまう。
 いつもなら尚先生が気を遣ってゆっくり歩いてくれるのだが、今は先生の歩調に合わすのが困難なほどだ。
 私が息を切らしているのがわかったのか。尚先生はバツが悪そうに笑った。
「すみません、珠美さん。ようやくだと思ったら気ばかりが焦ってしまって」
「っ!」
「正直に言うと、これ以上珠美さんを待つのは限界だと思っていました。もう、貴女に触れたくて仕方がなかった」
「それなら、なんで言ってくれなかったんですか?」
 先ほどまでは私の手首を掴んでいた尚先生だったが、いつもどおりの恋人繋ぎに戻して苦笑する。
「言いたかったですよ。貴女のすべてが欲しいとね。だけど、私は待ちたかったんです」
「え?」
「珠美さんの心の傷が治ることを。そして、貴女から積極的に恋愛をしてくれることを」 パーキングに着くと尚先生は車を解錠し、助手席を開けて私に座るように促してきた。
 私は促されるまま助手席に腰をかけると、尚先生は腰を屈め、扉に手を預けた。
「もう、私は待ちませんよ。貴女から飛び込んで来てくれた。だから、もう……止まりませんから」
 尚先生は助手席の扉を閉めると、運転席に乗り込んだ。
 シートベルトをして車のエンジンをかけると、尚先生はまっすぐを向いたまま呟いたのだった。
「今日は帰さないよ。これは決定事項だから」

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。 望んでいたわけじゃない。 けれど、逃げられなかった。 生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。 親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。 無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。 それでも――彼だけは違った。 優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。 形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。 これは束縛? それとも、本当の愛? 穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...