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偽り婚ですが前向きに生きていこうと思います。
⑶
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それから数日して、院長バネッサ宛に一通の手紙が届いたのである。
受け取ったアリーシャがバネッサのしわしわの手に渡した時、彼女はしばらく赤い封蝋を眺めていた。
その紙の質感を確かめるように、優しく指で撫で、彼女は柔らかく呟いた。
「まあ。懐かしいこと」
「……え?」
「いいえ。そんな気がしただけですよ。さて、どなたからでしょうね」
「だいたい、想像がつきます」
「まあそう言わずに。手紙は、楽しんで封を開けるべきですよ」
彼女の瞳は、アルランに負けじと穏やかで優しいものがある。聖職衣に身体を包み、聖母のように微笑んでいた。
アリーシャにとっては彼女が母親代わりである。神に授かった白銀の髪を知るのもまた、バネッサだけであった。
そして、貴族の方々に気に入ってもらえるよう、文字を書くことも、読むことも、ダンスの手解きでさえもしていただけた。それはアリーシャだけではなく、この孤児院で育つ子宝全てにおいてである。
外で暮らしたことがないので、平民の生活において、それが一般的かどうかはアリーシャには分からない。しかしその教育が役に立っている事は目の当たりにしている。
養子に出た子供たちは、たまに会いにきてくれた。皆が揃って其れ相応の衣装をまとい、精悍な顔になっていた。それが愛されて、受け入れられているなによりの証拠であった。
白銀の髪を持つアリーシャは養子に出してもらえなかったが、バネッサに対しては特別な想いがある。
アリーシャは膝をつき、甘えるように彼女が腰掛けるロッキングチェアの肘掛けにもたれかかった。そして共に、手紙の始終を見守ることにした。
「差出人は、これはこれは。恐れ多いことですね」
ルゼ・サンドリア、その人である。
青いインクで刻まれた、第一王位継承者の美しく乱れのない字の羅列がそう言っていた。
「王太子殿下は嫌いです。鬼畜ですもの」
「あらあら。いけませんよ。そのようなことを言ってはなりません」
「でも、嫌ですもの」
嗜めるその声も、ここ何年かで掠れたように思う。
「鬼畜でなければ、王位継承者の威厳を保てないこともありますよ。なにせ、まだお若いのですから」
「お若い?」
「二十三になられたとか」
それほどに若いとは思ってはいなかった。
バネッサは養子に出た子供たちに会うため、上流階級の方々の邸宅に訪問する事がある。そういう時に宮廷の内情も耳にするのだろう。そのあたりの話には詳しかった。
アリーシャが上目遣いで見上げると、翡翠の瞳は笑ってくれている。
(バネッサさんはきっと、お若い頃はさぞ美しかったでしょうね)
八十を超えた人だった。しかし彼女の所作や賢さ、人々を慈しむ心の綺麗さも相まって、どこか平民とは言い難い雰囲気を感じることがしばしばあるのだ。
そんな彼女とふたり、朝日に照らされる手紙に目を向けた。そして、
「ついに、隠しきれなくなりしたね」
文字を追うバネッサは穏やかな声で告げた。
その手紙には、親代わりであるバネッサに対し、アリーシャの決断を受け入れるよう、丁寧且つ威圧的に書かれている。
「はい。でも、髪を見てしまったのがアルランさまでよかったのです」
そうですね、と言って、バネッサはふっと笑った。
「……どうして笑うのですか?」
「いいえ。お相手がドルーシュ家の館の主というものですから、つい」
「バネッサさんはご存じなの……?」
口ぶりからそう思わずにはいられなかった。しかしバネッサは首を横に振る。
「いいえ。わたくしも存じません。ただ、」
「ただ……?」
「お会いした事は、あるかもしれませんね。知らずにいただけで」
「……そう、ですか」
腑に落ちない。アリーシャがそんな事を頭に浮かべて首を傾げると、バネッサは優しくアリーシャの頬に手を当てた。
「王太子殿下は、あなたを他の者の前に晒すことはないと書いていましたね。それは、素直に喜ぶべき配慮です」
その配慮は、他国の者の視線を避けるためだろうと思われた。ルゼ・サンドリアは徹底して聖女の存在を隠し通すつもりなのだろう。
アリーシャは真っ直ぐに聖母の瞳を見つめた。
「あなたはこれから、ドルーシュ家の女神像と共に生き、祈りを捧げ、静かに過ごせるのです。それに、」
「……それに?」
「お相手の方との子作りは、快楽と欲に身体を預けて溺れさせてくれる、案外楽しいものですよ」
「えっ?」
聖母らしからぬ、謎めいた言葉である。
ご経験者でなければ分からない、未知の世界だ。
快楽と欲に身体を預けて溺れたことはまだない。
「その運命は、神のお導きではありませんが、」
鬼畜な王太子の威圧的命令であった。
「じきに迎えにくるその人は、おそらくは心のお優しい方です」
なぜかバネッサは言い切った。満面の笑みとも言える表情で。
「……でも、お若いのかもわかりませんし」
「男を見た目で判断してはなりません」
「お、おとこ……」
このお方は、生まれながらの聖母ではないのだろうと思う。
「身体の相性と財力。それは極めて重要ですよ」
長く共に過ごしていても、アリーシャはまだ、バネッサについて知らないことが多くある。
そんな事を思った翌日。お相手の方はアリーシャを迎えにきたのである。
受け取ったアリーシャがバネッサのしわしわの手に渡した時、彼女はしばらく赤い封蝋を眺めていた。
その紙の質感を確かめるように、優しく指で撫で、彼女は柔らかく呟いた。
「まあ。懐かしいこと」
「……え?」
「いいえ。そんな気がしただけですよ。さて、どなたからでしょうね」
「だいたい、想像がつきます」
「まあそう言わずに。手紙は、楽しんで封を開けるべきですよ」
彼女の瞳は、アルランに負けじと穏やかで優しいものがある。聖職衣に身体を包み、聖母のように微笑んでいた。
アリーシャにとっては彼女が母親代わりである。神に授かった白銀の髪を知るのもまた、バネッサだけであった。
そして、貴族の方々に気に入ってもらえるよう、文字を書くことも、読むことも、ダンスの手解きでさえもしていただけた。それはアリーシャだけではなく、この孤児院で育つ子宝全てにおいてである。
外で暮らしたことがないので、平民の生活において、それが一般的かどうかはアリーシャには分からない。しかしその教育が役に立っている事は目の当たりにしている。
養子に出た子供たちは、たまに会いにきてくれた。皆が揃って其れ相応の衣装をまとい、精悍な顔になっていた。それが愛されて、受け入れられているなによりの証拠であった。
白銀の髪を持つアリーシャは養子に出してもらえなかったが、バネッサに対しては特別な想いがある。
アリーシャは膝をつき、甘えるように彼女が腰掛けるロッキングチェアの肘掛けにもたれかかった。そして共に、手紙の始終を見守ることにした。
「差出人は、これはこれは。恐れ多いことですね」
ルゼ・サンドリア、その人である。
青いインクで刻まれた、第一王位継承者の美しく乱れのない字の羅列がそう言っていた。
「王太子殿下は嫌いです。鬼畜ですもの」
「あらあら。いけませんよ。そのようなことを言ってはなりません」
「でも、嫌ですもの」
嗜めるその声も、ここ何年かで掠れたように思う。
「鬼畜でなければ、王位継承者の威厳を保てないこともありますよ。なにせ、まだお若いのですから」
「お若い?」
「二十三になられたとか」
それほどに若いとは思ってはいなかった。
バネッサは養子に出た子供たちに会うため、上流階級の方々の邸宅に訪問する事がある。そういう時に宮廷の内情も耳にするのだろう。そのあたりの話には詳しかった。
アリーシャが上目遣いで見上げると、翡翠の瞳は笑ってくれている。
(バネッサさんはきっと、お若い頃はさぞ美しかったでしょうね)
八十を超えた人だった。しかし彼女の所作や賢さ、人々を慈しむ心の綺麗さも相まって、どこか平民とは言い難い雰囲気を感じることがしばしばあるのだ。
そんな彼女とふたり、朝日に照らされる手紙に目を向けた。そして、
「ついに、隠しきれなくなりしたね」
文字を追うバネッサは穏やかな声で告げた。
その手紙には、親代わりであるバネッサに対し、アリーシャの決断を受け入れるよう、丁寧且つ威圧的に書かれている。
「はい。でも、髪を見てしまったのがアルランさまでよかったのです」
そうですね、と言って、バネッサはふっと笑った。
「……どうして笑うのですか?」
「いいえ。お相手がドルーシュ家の館の主というものですから、つい」
「バネッサさんはご存じなの……?」
口ぶりからそう思わずにはいられなかった。しかしバネッサは首を横に振る。
「いいえ。わたくしも存じません。ただ、」
「ただ……?」
「お会いした事は、あるかもしれませんね。知らずにいただけで」
「……そう、ですか」
腑に落ちない。アリーシャがそんな事を頭に浮かべて首を傾げると、バネッサは優しくアリーシャの頬に手を当てた。
「王太子殿下は、あなたを他の者の前に晒すことはないと書いていましたね。それは、素直に喜ぶべき配慮です」
その配慮は、他国の者の視線を避けるためだろうと思われた。ルゼ・サンドリアは徹底して聖女の存在を隠し通すつもりなのだろう。
アリーシャは真っ直ぐに聖母の瞳を見つめた。
「あなたはこれから、ドルーシュ家の女神像と共に生き、祈りを捧げ、静かに過ごせるのです。それに、」
「……それに?」
「お相手の方との子作りは、快楽と欲に身体を預けて溺れさせてくれる、案外楽しいものですよ」
「えっ?」
聖母らしからぬ、謎めいた言葉である。
ご経験者でなければ分からない、未知の世界だ。
快楽と欲に身体を預けて溺れたことはまだない。
「その運命は、神のお導きではありませんが、」
鬼畜な王太子の威圧的命令であった。
「じきに迎えにくるその人は、おそらくは心のお優しい方です」
なぜかバネッサは言い切った。満面の笑みとも言える表情で。
「……でも、お若いのかもわかりませんし」
「男を見た目で判断してはなりません」
「お、おとこ……」
このお方は、生まれながらの聖母ではないのだろうと思う。
「身体の相性と財力。それは極めて重要ですよ」
長く共に過ごしていても、アリーシャはまだ、バネッサについて知らないことが多くある。
そんな事を思った翌日。お相手の方はアリーシャを迎えにきたのである。
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