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偽り婚ですが前向きに生きていこうと思います。

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「セドール地方は王都から南側、海に面した街が多く、商業が盛んな地域になりますね」

 古い修道孤児院で幼い子供を抱いてあやすアリーシャに、地図を広げてそう教えてくれたのは、顔に優しい人柄が滲み出ているような綺麗な男だった。

「サーヴァルト子爵リオス殿は、子宝に恵まれなかったようです。ですが、ご婦人のお人柄もよく、民からも慕われていますよ」

 アリーシャの目に映る彼は、瞳が見えないほどいつも目が笑っていて、肩で揃えた黒い髪はシルクのようにさらさらと風に揺れていた。資料を差し出してくれる手は筋張っていて、指は細長い。普段はあまり見ることがない大人の男性を感じられる時間という意味では、月に一度彼がこの孤児院にくるその日は、アリーシャにとって少しだけ特別な日になっている。
 彼は修道服に身を包むアリーシャとは、まるで生きる世界が違う人だった。
 アリーシャは彼に微笑んで頷いた。
 
「安心しました。いつもご丁寧にありがとうございます、アルランさま」
「いいえ。孤児といえど、この国の未来を担う子供たちですからね。養子に出すのなら、家柄はしっかりと調査すべきです」

 二年ほど前から、彼は月に一度の頻度でアリーシャが育った孤児院を訪れるようになった。きっかけは彼の愛馬が道中で怪我をおい、通りかかったアリーシャが手当を施したことである。
 よく手入れされた綺麗な黒馬だった。主以外には懐かないからと、彼ははじめ遠慮していたが、愛馬の瞳に微笑みかけ、当たり前のように手当をした彼女の心のあたたかさに感銘を受けたようだった。
 それからささやかな夕食と、子供に挟まれて寝ることができる特別な寝床を提供したお礼と称して、あの日から毎月欠かさずに孤児院を訪れてくれている。
 高貴な容姿から察するに、彼はこの国の貴族の方であろうと想像できた。アルランという名前しかアリーシャは知らないが、宮廷司書官だと聞いたことがある。おそらくアリーシャとは見ている景色も違う。
 しかし彼は孤児をないがしろにするどころか、養子を求めにくる貴族の内情を調べる役を買って出てくれた、非常に優しい人だった。

(アルランさまは、やはり心が綺麗な方ですね)

 それでいて美しく、それでいて優しい目をしている。その瞳の色は、アリーシャと同じ青だった。

「この子はずいぶん大きくなりましたね」
「あと半年もすれば三歳になります。アルランさまが孤児院を訪れた頃は、まだ赤ん坊でしたが」

 アルランは、アリーシャが抱く女の子、ルーシアを見ていた。
 アルランに寄り添い、ルーシアの顔が見えるよう少しだけかがむと、腕の中で小さな手が彼に伸びる。

「僕のことがわかるのでしょうか」

 アルランは控えめに手を差し出した。

「もちろんです。孤児院の子供たちはみんな、優しいアルランさまが大好きですもの」
「それなら、僕も嬉しいのですが」
「だっこ、だっこー」

 アルランはアリーシャの腕の中から、ルーシアを優しく持ち上げた。そして広い胸にそっと収める。
 その光景を眺めるのが、アリーシャの月に一度の安らぎの時間であり、アルランの優しさに包み込まれるような幸せなひとときだったのだ。
 しかし虚しくも、その時間は唐突に終わりを迎える事になってしまう。
 ほんの少しの、運命の悪戯のせいで。

「すみません。貴女のベールまで連れてきてしまいましたね」
「ベール、ですか……?」

 ルーシアを抱くアルランの腕に絡むのは、見慣れたベールだ。
 アリーシャは訳あって、幼い頃から修道服をまとっていた。修道院のシスターのように。
 聖別奉献のしるしであり、神への謙遜を表すそのベールが、アリーシャの長い髪を隠すには欠かせないものだった。

「珍しい髪色だったのですね。初めて見ました」

 そう告げたアルランの目はひととき、確実に微笑みを失っているように見えた。それはアリーシャの瞳も同様だ。
 鏡がなくてもよくわかる。ベールがアルランの腕にあるということは、アリーシャの髪はアルランの目に映っているという事だ。
 お互い素敵な笑みで向き合っているが、アリーシャには焦燥感が芽生えている。
 アルランは風に揺れるアリーシャの白銀の髪を見下ろして笑ってはいるが、おそらく「その髪、僕ははっきりと見ましたよ」と言っているに違いないのだ。

(ど、どうしましょう……聖女だとバレたでしょうか)

 アリーシャはひとまず、にっこりと笑って誤魔化すことにした。
 それは誰にも見られてはならない、隠し通さなければならない白銀の髪なのだ。

「その髪は、」
「ア、アルランさま……っ」
「どうしました?」

 しかし笑って誤魔化せるものではない。『聖女は白銀の髪を持って生まれる』、それは誰もが幼い頃から御伽話や古書で知りすぎている事実である。アルランが知らないわけがない。
 アリーシャは床に膝をつき、同時に両手もついていた。額もいつでも床に擦り付けられるほど腰を低く向かい合う。

「どうか、このことはご内密にしていただけますでしょうか。いえ、お忘れくださいませ……」

 聖女の証である白銀の髪を、アリーシャはなんとしても隠し通したい。
 どうか忘れてほしいのだ。

「……やはり、そうなのですか?」

 優しく確かめられるアリーシャ。

「はい……、実はそうなのです……」

 ついに、知れる時が来てしまった。とアリーシャは思った。

 聖女は千年、再来はないと言われている。しかし古い文献から最後に聖女の存在を確認してから既に千年が経っていると思われた。
 白銀の髪を持って生まれるそれは、女神像に祈りを捧げれば、命の続く限り平和と安泰を齎す存在だ。その力は子孫の代まで続くとも言われている。
 聖女の使命は生涯祈りを捧げることだ。それを成せない日があろうものなら、その命が尽きる。尽きれば千年、聖女は再来しないのだとか。
 アリーシャは祈りを捧げるためだけに生を受けた、儚い存在だった。

「そうですか」
「はい、……そうなのです」
「そうでしたか」
「……はい」

 その存在を誰もが欲するだろう。
 自国に聖女の存在があろうものなら、女神像に自国の平和と安泰を齎すよう生涯祈り続けろというだろう。
 その存在を他国の者たちはどう思うのだろうか。やはり欲するのが人の性というものだ。案の定、古い歴史の中で聖女の存在は争いの火種を生んでいる。
 神さまというのは、時折人を試すのだとアリーシャは思う。人々にギフトを授け、邪な思考を抱くものはいないかと。いたとすれば、その時争いが起こり、聖女には深い悲しみが訪れるのだろう。聖女は祈ることをやめ、結果、人々は神に授かったギフトを千年失う。

(争いが起これば、この孤児院もどうなるかわかりませんし……どうしましょう)

 子供たちはどうなるのか、それを考えただけでアリーシャは怖かった。ましてやそれが、自分という存在のせいで。
 このような髪の色で産まれてしまったから自分は捨てられたのだろうとさえ思う。この髪は神から授かったギフトではない。呪いとさえ思っていた。
 幸い、修道院がある孤児院に捨てられた。修道服を着ていれば他のシスターに紛れこみ、目立たずに生きて来れたのだ。ベールで髪を覆って、ひっそりと静かに。
 そうやってささやかに生きることを教えてくれたのは、修道院長のバネッサだ。
 そして生きながらえるために、小さな女神像にこの孤児院の平和と安泰を祈ってきたのだ。聖女として産まれたことを、十八年間隠し通して。

「アルランさま……どうか、おお、お忘れください……」

 忘れてもらうしかない。アルランの優しさに、賭けるしかなかった。
 アリーシャは青い目に涙を浮かばせてみたが。

「そうですか。しかしですね、」
「……アルランさま?」
「申し訳ないが、私は今日、ひとりではないのです」
「ひとりではない……、と言うと、」
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