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弐 その一
しおりを挟む結婚生活って、そもそも何をするのだろう。武蔵国河越庄を総括する河越重頼の長女として生まれ育った静にとって、嫁ぐという行為は未知の世界へと足を踏み入れることに等しいことだった。せいぜい親が決めた縁談に素直に頷いて子孫繁栄のために切磋琢磨することになるのかと思っていた。
けれど、降って湧いた縁談は、静にとって寝耳に水だった。
祖母、比企ノ尼が乳母として仕えた鎌倉の覇者、源頼朝の異母弟がその相手だと知り、静は唖然とした。どうして自分なのかと。
年頃の娘を探していたのだと頼朝は静に説明したが、それなら自分以外にも該当者はいくらでもいるはずだ。なぜ、鎌倉御一門の御曹司に自分が正室として嫁ぐのか? 不思議そうな表情で頼朝と対面した静は、正直に告げた。自分が選ばれたのは、おっさんに従うものとしての見せしめなのかと。
――そのとおり。聡い娘はすきだ。
頼朝は静の不躾な質問を笑った。武勲に優れた異母弟から権力を死守するために選んだ選択のひとつが、静の嫁入りなのだと聞かされ、納得した。
要するに、京都の朝廷と義経が手を結び公家の娘を勝手に娶るようなことがないよう先手を打つのだろう。それだけ、頼朝は自分の異母弟である義経を警戒している。
警戒。
もしかしたら自分はとんでもない人間の妻になるのかもしれない。この鎌倉の覇者が恐れる、義経という名の青年に、静は興味を抱く。
だが、頼朝は彼の才を潰そうと目論んでいる。そのために、静を京都へ向かわせる。これは決定事項。けして断れることがないとわかっていて、頼朝は頼む。命令と同義でしかないその依頼を、静は満面の笑みで引き受ける。
――目の前にいる権力者を脅かす男、その妻になるのなら、おっさんの言うとおりに素直に潰してしまうのは惜しい。
愛などそこには存在しない。あるのは自らの家に連なる利潤の追求。頼朝についたふりをして、義経を選ぶことなど容易い。だから静は無邪気に頷く。
そんな彼女の反応は、頼朝を安心させたとは言いがたい。当然のように頼朝は静に侍女を送った。要するにお目付け役だ。
それが浅葱。義経の行動をひとつひとつ報告する間諜だと、静はすぐ理解した。
だから静は必要以上に彼女に干渉しない。浅葱が本来仕える人間は頼朝であって、自分ではないと知っているから。けれど不審がられないように何も知らないふりをして、静は浅葱の動きを観察する。
どうやらそれを、禅にも悟られてしまったようだ。
「大丈夫よ、あたしは違う」
そう言って、静の前で挑むように笑いかけてきた禅。彼女は義経が放っておけないから傍にいることを選んだのだとあっけらかんと言い放つ。確かに義経という人間は見た目より幼く見えるし、どこか世間知らずな一面もある。けれど、ほんとうにそれだけなのだろうか。静は訝しげな視線を禅へ向ける。
「……何? 隠していることなんかもうないわよ」
禅は疑い深く自分を見つめる双眸を見返し、呆れたように肩を竦める。
「それよりも、あなたの方が腹黒そうね? 静」
「それは、誰よりもわたしが知っていることだから、今更指摘されても驚かないよ」
いけしゃあしゃあと応える少女の前で、禅はつまらなそうに問う。
「何をたくらんでいるの」
「内緒」
悪戯を思いついた子どものように、静はにんまり微笑んで、禅の前から姿を消す。
禅はふぅと溜め息をつき、くるりと後ろを振り返る。
「浅葱だっけ? 露見してるみたいよ、全部。あなたの賢いご主人様は忠誠を誓われたふりを受け入れて、とんでもないことを考えてるって教えてあげなさい、鎌倉の覇者に」
浅葱は禅の助言をきょとんとした表情で受け入れている。きっと何が起こったのか頭がついていってないのだろう。
禅は何も言わない浅葱の前をゆっくり通り過ぎ、耳元で甘く囁く。
「大丈夫よ、あたしは違う」
禅は静の味方でも、浅葱の味方でもない。
ただ、愛するひとが困らないように、障害となるものを妨げたいがために、禅は行動する。
顔面蒼白の浅葱が、禅をまじまじと見つめる。どうして、と蒼褪めた唇が音を紡ぐ。
禅はさぁねと興味なさそうに両腕を拡げ、呆然と佇む浅葱を面白そうに一瞥して、くるりと踵を返す。
取り残された浅葱は瞳に昏い色彩を宿したまま、禅が去っていった方角を見つめつづける。
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