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-俯く男と憎しむ女-2
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「んじゃー、先に叔父さんやっちゃおっかぁ」
「…………いま?」
「え、いまだよ? だっていまやんないと、おれが戻ってくるまでこの車ん中、叔父さんと二人きりじゃん。普通にキツイでしょ。あ、もしかして帰りたくなっちゃう? そしたら帰ってもいいよ? おれだって電車くらい乗れますし」
「……いや、だいじょうぶ、たぶん。……たぶん」
「えーあやしいなぁ。まーでも、そうだね、なんつーか……久しぶりだもんねぇ」
叔父さんは、どうやら年に四回は確定で自己主張をするらしい。
おれは藍ちゃんに頼まれた時しか除霊しないから、それがいつなのかよくわかっていなかった。たぶん藍ちゃんがスルーできるときは呼ばれないんだろう。
お父さんが死んだのは夏だった。
お母さんが死んだのは冬だった。
おとうとくんが死んだのは春だった。
おれが藍ちゃんに呼ばれて、叔父さんの除霊をしたのは、さていつの季節だったっけ?
まあ、一人で帰らなきゃいけなくなっても、別にどうでもいい。そりゃ藍ちゃんが送ってくれたほうが嬉しいけどね、藍ちゃんがベッドにもぐりこんで耳をふさいで叫びたいって言うなら、そうしたらいいじゃんって思うからだ。
だって仕方ない。
おれの除霊は言葉が、物語が必要だ。
いちいち語らなければいけない。塩をまくだけじゃなんの効果もない。耳から仕入れた言葉を、わざわざ口から吐かなきゃならない。
おれは人間の感情なんか持ち合わせてないからさ、どうでもいいけどさ。何度も、何度も、何度も聞くような話じゃないだろうっていう想像くらいはできる。
「耳栓買ったらいいんじゃないの? 音楽爆音でかけとくとか。そしたら、藍ちゃん聞かなくていいんじゃない?」
「いや、いい。聞くよ。わたしは、依頼人だから」
「ちがーうよ。依頼人は藍川康太くん。藍ちゃんはそのご家族」
「依頼人、死んでも仕事は継続してくれんの?」
「仕事、終わってないからねぇ」
うはは、と笑う。笑うことを思い出す。
そしておれは、何度も何度もこの冴えない顔したおっさんが出てくるたびに、藍ちゃんが泣きそうな顔でもういやだたすけてと電話を掛けてくるたびに繰り返す話を始める。
「藍ちゃんのね、叔父さんの話なんだけどね」
友達のね、とか、知り合いのね、とか。そういう言葉は使わない。誰かわかればいいだろと思っているから、おれは素直に藍ちゃんのことは藍ちゃんと言う。
「叔父さんって人はちょっと人として駄目な部類だったらしくてさ、なんでも、夜の商売の女に騙されて結構な借金作ったりとか、職場で一回り年下の女の子にちょっかいかけて上司に呼び出されされたりとか、とにかく良い噂を聞かない人だったんだって。何か揉めるたびに兄である藍ちゃんのお父さんに泣きつく。よせばいいのに、藍ちゃんのお父さんもお母さんもお人よしだったから、都度お金を貸したりだとか転職の手伝いをしたりした。藍ちゃんと康太くん姉弟にとって、叔父さんは親戚の大人というだけではなくシンプルに迷惑で大嫌いな人だった」
助手席の男は、うつむいたまま微動だにしない。
静止画のようなのに、たまにゆらゆらと陰が揺れる。
「たまーに来てさ、無茶なお願いして、藍ちゃんの家を困らせて帰ってく。ま、普通に疫病神だよね。それだけならまあ、ちょっと我慢すればいいかなって感じだけど。藍ちゃんと康太くんが成人してから、なんと叔父さんは藍川家に住み付いちゃった」
藍ちゃんも微動だにしない。煙草は火をつけたままで、吸わずにただじりじりと燃えていく。
いつから泣かなくなったかなぁ。最初は、もうやめてって縋って泣いた藍ちゃんは、いまはもう、なんの表情もなくじっと前を見つめているだけだ。
「藍ちゃんも康太くんも家を出ていたから、別にすごく不都合があったわけじゃない。叔父さんも藍川家にいる分には、ただ飯を食うだけで特に困った行動を取ったりはしなかったから。借金作るくらいなら、部屋でごろごろテレビでも見ていてくれた方がいい。お父さんもお母さんもそう思ってたのかもね。でもある日、叔父さんは急に『山に行く』と言って出かけて行った。そしてそれ以来、戻らなかった」
土のにおいがすこし、強くなる。
車内がじっとりと湿度を増す。雨の日の、山の中のように寒くて冷たくなる。
「次に叔父さんが現れたのは、お父さんの枕元だった。叔父さんの幽霊らしきものは、ただぼんやりと立って、タンスを指さしていた。一言もしゃべらない。出て行ったときの服装のまま、濡れて汚れた叔父さんはどう見てももう死者にしか見えない。叔父さんが指さしていたタンスの上から三段目に隠されていた手帳には、とある山の地図が挟んであったんだって。どうしていいかわからず、とりあえず休日にその場所に向かったお父さんは、山の麓の苔むした石碑の上で首を吊る叔父さんを見つけた」
叔父さんは動かない。……せめて苦しんでみせてくれたらマシなのに、と思う。こんなことを思うのは、相手が藍ちゃんだからだし、藍ちゃんの時だけだ。
「警察を呼んだ。自殺で処理された。葬儀は出したしきちんと骨は墓に入れた。それなのに、叔父さんは相変わらず枕元に立った。ぼんやりと部屋の隅に佇む叔父さんは、たまたま帰省していた康太くんが『言いたいことがあるならハッキリ言ってさっさと消えろ』と叫ぶと、申し訳なさそうに顔を歪めて『ごめんな、ひとりじゃ足りなかった』と言った。そしてその翌週、お父さんが死んだ。首つりだった」
藍ちゃんは動かない。……泣いてないなら、それでいいけど。
「その後も叔父さんは消えない。ほとんど毎日、家の至るところに出ては、ごめんな、ごめんなと謝る。そして『まだ足りないんだって』と叔父さんが謝った冬の日、お母さんが死んだ。康太くんから相談を受けた霊能者は無力だった。どうしても除霊がうまくいかなかった。そして結局、春に康太くんも死んだ。みんな首を吊った。残ったのは藍ちゃんだけっていう、ただただ胸糞悪い話」
ポケットから出した袋から塩を摘まむ。
パッと助手席に散らす。
何の余韻もなく、何の言葉もなく、叔父さんは今日もさっぱりと跡形もなく消えた。
叔父さんが山に行った理由も、首を吊った理由も、そのあと家族が生贄のように命を絶った理由もいまだにわからないままだ。
ただ、叔父さんが原因であることだけは確かだ。
警告として出て来たのか、謝罪がしたくて出て来たのかわからない。とにかく藍ちゃんだけはどうにか死なずに済んだ。おれがたすけたのか、それとも単にまだ死ぬ年じゃないのか、もう『足りた』のかはわからないし、叔父さんは今も藍ちゃんの前に物言わぬまま立ち続ける。
終わったよーと笑えば、藍ちゃんがやっと息を吹き返したように煙を吐いた。
一度この話を、他の人にしたことがあるらしい。たぶん当時藍ちゃんが付き合っていた人なんだろうなーと思うんだけど、その人は『叔父さん、謝りたいだけなんじゃない?』と言ったという。
おれは笑った。藍ちゃんも笑っちゃったらしい。
おれと藍ちゃんは同じ意見だった。
『ひとの家族ぶっころしといて、なんで許されると思ってんの?』
その後、藍ちゃんと懇意になった人の影は見ないから、まー別れちゃったのかなーと思うけど。おれは藍ちゃんがだれと付き合っていようが別にどうでもいいから、あんまり詮索しようとも思わない。
はーしかし、この話長いんだよなぁ。
これでも結構端折って簡易版にしたんだ。なんか今日弱そうなオーラだったし、いけなかったら仕方ないからフルバージョンぶっぱなすしかないけど時間ないなぁーなんて思ってた。
ちゃんと消えて良かった。うん。藍ちゃんに二度この話聞かせるのは流石に鬼じゃん? と思うから。
「はー……仕事前に一仕事しちゃったぁ。やば、結構時間押してんじゃーん叔父さんの話ながーい」
「走れば間に合うから走れ。……あと、タイラくん連れてくなら、ちゃんと事前に連絡してあげな。あんたいつも直前十分前連絡じゃんか。あれ、ほんとよくないから。むしの居所が悪かったらぶっ飛ばしそうになるから」
「じゃーいままでの藍ちゃんのむしは全部良い感じの位置にいてくれたってことかー。ひゅう! こわ! きをつけたーいでもたぶん無理ー忘れるー」
「忘れないうちに都度連絡しろって言ってんの」
「あ、なるほど。藍ちゃんあったまいいーね? えーとじゃあ、すまほータイラさーん。タイラさーん起きてるかな? あ、声出ないかーじゃあラインでいいや」
えーとタイラさんなんかほとんど連絡しないからなーいつも一緒にいるし、タイラさんタイラさんカマヤタイラ……とやっとみつけたタイラさんのアイコンをタップ。
ささーっと用件だけ打って、ささーっと仕事に行こう。
「えーとなんだっけ? おれ何言おうと思ってたんだっけ? 今日の夕飯のリクエスト?」
「山。キシワダトワコ」
「あ、それそれ。えーと……『温泉行こう』でいっかぁ!」
「よくないでしょ……」
ぐったりとした藍ちゃんの声は聞かなかったことにして、えーいとそのままメッセージを送信した。
わりとすぐに既読ついて、『なに』『なにが』『温泉?』『てかおまえいまどこ』ってメッセがチラッと見えたけど、おれ走んなきゃ仕事間に合わないっぽいしとりあえず見なかったことにしてケツのポケットにスマホつっこむ。
「じゃー藍ちゃんいってきまー。帰りにスーパー寄って帰ろー。タイラさんお腹すいちゃうだろうからさぁ」
「……あんた、ほんとにタイラくんをどうするつもりなの……」
「え。飽きるまで構い倒すつもりだけど?」
なんか、すごい微妙な顔で睨まれたけど、いやほんと遅刻はよくない。謝礼に響く!
じゃあねと笑っておれは走りだす。
なんだかんだ手を振ってくれる藍ちゃんはやっぱり藍ちゃんで、いやー藍ちゃん死ななくて良かったし、今日も叔父さんさっさと消えてくれてよかったなぁと思う。
おれは、絶対に、藍ちゃんには憎まれてるって信じてたんだけどね。
…………そっかぁ、そうでもないのか。うん。
じゃあ藍ちゃんのあの呆れたようなため息とか、たまに本気で怒るときの声とかは、あれ、シンプルに愛情なのか。びっくり。言われてみれば藍ちゃんの憎しみは、いつだって無表情かもしれない。
あの叔父さんを徹底的に無視する彼女の視線こそが、憎悪なのかも。……うん。どうやらおれは本当に、憎しまれてはいないっぽい。
あとなんか忘れんなって言われたけど、なんだっけ。
……まあ、いっか。うん。帰りにもう一回きいとこう、と思いながら、おれは仕方なく依頼人の家に向かって走り出した。
「…………いま?」
「え、いまだよ? だっていまやんないと、おれが戻ってくるまでこの車ん中、叔父さんと二人きりじゃん。普通にキツイでしょ。あ、もしかして帰りたくなっちゃう? そしたら帰ってもいいよ? おれだって電車くらい乗れますし」
「……いや、だいじょうぶ、たぶん。……たぶん」
「えーあやしいなぁ。まーでも、そうだね、なんつーか……久しぶりだもんねぇ」
叔父さんは、どうやら年に四回は確定で自己主張をするらしい。
おれは藍ちゃんに頼まれた時しか除霊しないから、それがいつなのかよくわかっていなかった。たぶん藍ちゃんがスルーできるときは呼ばれないんだろう。
お父さんが死んだのは夏だった。
お母さんが死んだのは冬だった。
おとうとくんが死んだのは春だった。
おれが藍ちゃんに呼ばれて、叔父さんの除霊をしたのは、さていつの季節だったっけ?
まあ、一人で帰らなきゃいけなくなっても、別にどうでもいい。そりゃ藍ちゃんが送ってくれたほうが嬉しいけどね、藍ちゃんがベッドにもぐりこんで耳をふさいで叫びたいって言うなら、そうしたらいいじゃんって思うからだ。
だって仕方ない。
おれの除霊は言葉が、物語が必要だ。
いちいち語らなければいけない。塩をまくだけじゃなんの効果もない。耳から仕入れた言葉を、わざわざ口から吐かなきゃならない。
おれは人間の感情なんか持ち合わせてないからさ、どうでもいいけどさ。何度も、何度も、何度も聞くような話じゃないだろうっていう想像くらいはできる。
「耳栓買ったらいいんじゃないの? 音楽爆音でかけとくとか。そしたら、藍ちゃん聞かなくていいんじゃない?」
「いや、いい。聞くよ。わたしは、依頼人だから」
「ちがーうよ。依頼人は藍川康太くん。藍ちゃんはそのご家族」
「依頼人、死んでも仕事は継続してくれんの?」
「仕事、終わってないからねぇ」
うはは、と笑う。笑うことを思い出す。
そしておれは、何度も何度もこの冴えない顔したおっさんが出てくるたびに、藍ちゃんが泣きそうな顔でもういやだたすけてと電話を掛けてくるたびに繰り返す話を始める。
「藍ちゃんのね、叔父さんの話なんだけどね」
友達のね、とか、知り合いのね、とか。そういう言葉は使わない。誰かわかればいいだろと思っているから、おれは素直に藍ちゃんのことは藍ちゃんと言う。
「叔父さんって人はちょっと人として駄目な部類だったらしくてさ、なんでも、夜の商売の女に騙されて結構な借金作ったりとか、職場で一回り年下の女の子にちょっかいかけて上司に呼び出されされたりとか、とにかく良い噂を聞かない人だったんだって。何か揉めるたびに兄である藍ちゃんのお父さんに泣きつく。よせばいいのに、藍ちゃんのお父さんもお母さんもお人よしだったから、都度お金を貸したりだとか転職の手伝いをしたりした。藍ちゃんと康太くん姉弟にとって、叔父さんは親戚の大人というだけではなくシンプルに迷惑で大嫌いな人だった」
助手席の男は、うつむいたまま微動だにしない。
静止画のようなのに、たまにゆらゆらと陰が揺れる。
「たまーに来てさ、無茶なお願いして、藍ちゃんの家を困らせて帰ってく。ま、普通に疫病神だよね。それだけならまあ、ちょっと我慢すればいいかなって感じだけど。藍ちゃんと康太くんが成人してから、なんと叔父さんは藍川家に住み付いちゃった」
藍ちゃんも微動だにしない。煙草は火をつけたままで、吸わずにただじりじりと燃えていく。
いつから泣かなくなったかなぁ。最初は、もうやめてって縋って泣いた藍ちゃんは、いまはもう、なんの表情もなくじっと前を見つめているだけだ。
「藍ちゃんも康太くんも家を出ていたから、別にすごく不都合があったわけじゃない。叔父さんも藍川家にいる分には、ただ飯を食うだけで特に困った行動を取ったりはしなかったから。借金作るくらいなら、部屋でごろごろテレビでも見ていてくれた方がいい。お父さんもお母さんもそう思ってたのかもね。でもある日、叔父さんは急に『山に行く』と言って出かけて行った。そしてそれ以来、戻らなかった」
土のにおいがすこし、強くなる。
車内がじっとりと湿度を増す。雨の日の、山の中のように寒くて冷たくなる。
「次に叔父さんが現れたのは、お父さんの枕元だった。叔父さんの幽霊らしきものは、ただぼんやりと立って、タンスを指さしていた。一言もしゃべらない。出て行ったときの服装のまま、濡れて汚れた叔父さんはどう見てももう死者にしか見えない。叔父さんが指さしていたタンスの上から三段目に隠されていた手帳には、とある山の地図が挟んであったんだって。どうしていいかわからず、とりあえず休日にその場所に向かったお父さんは、山の麓の苔むした石碑の上で首を吊る叔父さんを見つけた」
叔父さんは動かない。……せめて苦しんでみせてくれたらマシなのに、と思う。こんなことを思うのは、相手が藍ちゃんだからだし、藍ちゃんの時だけだ。
「警察を呼んだ。自殺で処理された。葬儀は出したしきちんと骨は墓に入れた。それなのに、叔父さんは相変わらず枕元に立った。ぼんやりと部屋の隅に佇む叔父さんは、たまたま帰省していた康太くんが『言いたいことがあるならハッキリ言ってさっさと消えろ』と叫ぶと、申し訳なさそうに顔を歪めて『ごめんな、ひとりじゃ足りなかった』と言った。そしてその翌週、お父さんが死んだ。首つりだった」
藍ちゃんは動かない。……泣いてないなら、それでいいけど。
「その後も叔父さんは消えない。ほとんど毎日、家の至るところに出ては、ごめんな、ごめんなと謝る。そして『まだ足りないんだって』と叔父さんが謝った冬の日、お母さんが死んだ。康太くんから相談を受けた霊能者は無力だった。どうしても除霊がうまくいかなかった。そして結局、春に康太くんも死んだ。みんな首を吊った。残ったのは藍ちゃんだけっていう、ただただ胸糞悪い話」
ポケットから出した袋から塩を摘まむ。
パッと助手席に散らす。
何の余韻もなく、何の言葉もなく、叔父さんは今日もさっぱりと跡形もなく消えた。
叔父さんが山に行った理由も、首を吊った理由も、そのあと家族が生贄のように命を絶った理由もいまだにわからないままだ。
ただ、叔父さんが原因であることだけは確かだ。
警告として出て来たのか、謝罪がしたくて出て来たのかわからない。とにかく藍ちゃんだけはどうにか死なずに済んだ。おれがたすけたのか、それとも単にまだ死ぬ年じゃないのか、もう『足りた』のかはわからないし、叔父さんは今も藍ちゃんの前に物言わぬまま立ち続ける。
終わったよーと笑えば、藍ちゃんがやっと息を吹き返したように煙を吐いた。
一度この話を、他の人にしたことがあるらしい。たぶん当時藍ちゃんが付き合っていた人なんだろうなーと思うんだけど、その人は『叔父さん、謝りたいだけなんじゃない?』と言ったという。
おれは笑った。藍ちゃんも笑っちゃったらしい。
おれと藍ちゃんは同じ意見だった。
『ひとの家族ぶっころしといて、なんで許されると思ってんの?』
その後、藍ちゃんと懇意になった人の影は見ないから、まー別れちゃったのかなーと思うけど。おれは藍ちゃんがだれと付き合っていようが別にどうでもいいから、あんまり詮索しようとも思わない。
はーしかし、この話長いんだよなぁ。
これでも結構端折って簡易版にしたんだ。なんか今日弱そうなオーラだったし、いけなかったら仕方ないからフルバージョンぶっぱなすしかないけど時間ないなぁーなんて思ってた。
ちゃんと消えて良かった。うん。藍ちゃんに二度この話聞かせるのは流石に鬼じゃん? と思うから。
「はー……仕事前に一仕事しちゃったぁ。やば、結構時間押してんじゃーん叔父さんの話ながーい」
「走れば間に合うから走れ。……あと、タイラくん連れてくなら、ちゃんと事前に連絡してあげな。あんたいつも直前十分前連絡じゃんか。あれ、ほんとよくないから。むしの居所が悪かったらぶっ飛ばしそうになるから」
「じゃーいままでの藍ちゃんのむしは全部良い感じの位置にいてくれたってことかー。ひゅう! こわ! きをつけたーいでもたぶん無理ー忘れるー」
「忘れないうちに都度連絡しろって言ってんの」
「あ、なるほど。藍ちゃんあったまいいーね? えーとじゃあ、すまほータイラさーん。タイラさーん起きてるかな? あ、声出ないかーじゃあラインでいいや」
えーとタイラさんなんかほとんど連絡しないからなーいつも一緒にいるし、タイラさんタイラさんカマヤタイラ……とやっとみつけたタイラさんのアイコンをタップ。
ささーっと用件だけ打って、ささーっと仕事に行こう。
「えーとなんだっけ? おれ何言おうと思ってたんだっけ? 今日の夕飯のリクエスト?」
「山。キシワダトワコ」
「あ、それそれ。えーと……『温泉行こう』でいっかぁ!」
「よくないでしょ……」
ぐったりとした藍ちゃんの声は聞かなかったことにして、えーいとそのままメッセージを送信した。
わりとすぐに既読ついて、『なに』『なにが』『温泉?』『てかおまえいまどこ』ってメッセがチラッと見えたけど、おれ走んなきゃ仕事間に合わないっぽいしとりあえず見なかったことにしてケツのポケットにスマホつっこむ。
「じゃー藍ちゃんいってきまー。帰りにスーパー寄って帰ろー。タイラさんお腹すいちゃうだろうからさぁ」
「……あんた、ほんとにタイラくんをどうするつもりなの……」
「え。飽きるまで構い倒すつもりだけど?」
なんか、すごい微妙な顔で睨まれたけど、いやほんと遅刻はよくない。謝礼に響く!
じゃあねと笑っておれは走りだす。
なんだかんだ手を振ってくれる藍ちゃんはやっぱり藍ちゃんで、いやー藍ちゃん死ななくて良かったし、今日も叔父さんさっさと消えてくれてよかったなぁと思う。
おれは、絶対に、藍ちゃんには憎まれてるって信じてたんだけどね。
…………そっかぁ、そうでもないのか。うん。
じゃあ藍ちゃんのあの呆れたようなため息とか、たまに本気で怒るときの声とかは、あれ、シンプルに愛情なのか。びっくり。言われてみれば藍ちゃんの憎しみは、いつだって無表情かもしれない。
あの叔父さんを徹底的に無視する彼女の視線こそが、憎悪なのかも。……うん。どうやらおれは本当に、憎しまれてはいないっぽい。
あとなんか忘れんなって言われたけど、なんだっけ。
……まあ、いっか。うん。帰りにもう一回きいとこう、と思いながら、おれは仕方なく依頼人の家に向かって走り出した。
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