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第四章
②
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(大丈夫、よね)
圭のことももちろんだが、保育園で寂しい思いをしているだろう幸太が心配になった。
時間の間隔はまだ曖昧だが、夕方になるといつもぐずる。昼寝から起きてオヤツを食べて遊んだ後がお迎えの時間だとわかっているから、いつもより遅いのは感じ取っているかもしれない。
駅前のタクシー乗り場に目を向けるが、長蛇の列でとても乗れそうにはない。保育園までは距離があるため、タクシーに乗れたらありがたかったが仕方がない。圭に保育園の迎えに行く旨をメールで入れて、静香は駅から歩きだした。
いつもなら十五分の距離だが、滑らないように気をつけて歩いていると、いつもの倍は時間がかかる。結局、保育園に着いたのは六時半を過ぎていた。保育室からは幸太の泣き声が聞こえてくる。
(ああ……やっぱり……)
転ばないように気をつけながら保育室に迎えに行くと、いつもより少しだけ不機嫌な保育士の顔があった。チクチクと小言を言われる前にこちらから頭を下げる。保育士は静香よりも十ほどは上だ。何度となく〝最近の若い子は〟と噂しているのを知っている。
「遅くなって申し訳ありません。あの、夫はこちらに来ていないですよね?」
「来ておりません。お忙しいのはわかりますが、遅れる時は連絡をもらえないと困ります」
「すみません。気をつけます。幸太、ごめんね、遅くなって」
「ママ~あぁ~っ」
「ごめん、ごめん」
幸太を抱き上げて背中をポンポンと宥めるように叩くと、しゃくり上げながら必死にしがみついてくる。これは靴を一人で履くどころではないなと靴箱から幸太の靴を出そうと手を伸ばすと、コートのポケットに入れておいたスマートフォンが振動した。
「あ、パパかも。幸太、ごめん。ちょっと下りて待ってね」
「パパ~」
「靴履いて待てるかな? 上手に履けたら電話変わってあげる」
幸太を下ろすと、大好きなパパと話せることで機嫌はすっかり直ったのか、自分で靴を履きだした。これは五分は時間が稼げるぞ、とその間にスマートフォンをポケットから取り出した。
(あれ……この番号なんだろう……?)
このタイミングでかかってくる電話は圭以外にいないと思っていたのに、表示されているのは知らない番号からだった。
訝しげに思いながらも電話に出ると、聞こえてきたのは圭の声ではなかった。
「はい……? はい、そうですが……え、あの……どういうこと、ですか?」
話す内容が頭に入ってこない。
(事故に遭ったって……どういうこと……? 怪我したの……?)
脳裏を過ぎったのは、詐欺の電話ではないかということだった。
けれど実際圭はここにはいないし、電話の相手に金銭を要求されたわけでもない。はい、しか言えない静香を落ち着かせるように、相手はゆっくりとした声色で告げてきた。
『奥様に、ご遺体の確認をしていただきたいのですが……』
「遺体って……」
目の前が真っ暗になる。
詐欺の電話だったらどんなにマシだろうと、頭の中でそんなことを考えていた。
手に持ったスマートフォンが手のひらからすべり落ちる。
拾わなければと床に視線を移すと、流れる涙が床を濡らした。
「ママぁ~」
静香の不安を感じ取ったのだろう。子どもというのは敏感だ。
震える手で幸太を胸の中に抱きしめると、立ち上がる気力さえなくなってしまった。嘘だと思いたいのに、本当だったらとっくに保育園に着いているはずの圭が来ていないことが、より電話が真実であることの証拠のような気がして、どうしていいかわからなくなった。
「私を迎えに来ようとしてたから……」
誰にも届かない呟きが、自分の中に重くのしかかる。
もっと早くに電話をしていればよかった。
心配だから、車はやめてと言えばよかっただけなのに。
結婚してもなお史哉を忘れられなかったことへの、罰のような気がした。
圭のことももちろんだが、保育園で寂しい思いをしているだろう幸太が心配になった。
時間の間隔はまだ曖昧だが、夕方になるといつもぐずる。昼寝から起きてオヤツを食べて遊んだ後がお迎えの時間だとわかっているから、いつもより遅いのは感じ取っているかもしれない。
駅前のタクシー乗り場に目を向けるが、長蛇の列でとても乗れそうにはない。保育園までは距離があるため、タクシーに乗れたらありがたかったが仕方がない。圭に保育園の迎えに行く旨をメールで入れて、静香は駅から歩きだした。
いつもなら十五分の距離だが、滑らないように気をつけて歩いていると、いつもの倍は時間がかかる。結局、保育園に着いたのは六時半を過ぎていた。保育室からは幸太の泣き声が聞こえてくる。
(ああ……やっぱり……)
転ばないように気をつけながら保育室に迎えに行くと、いつもより少しだけ不機嫌な保育士の顔があった。チクチクと小言を言われる前にこちらから頭を下げる。保育士は静香よりも十ほどは上だ。何度となく〝最近の若い子は〟と噂しているのを知っている。
「遅くなって申し訳ありません。あの、夫はこちらに来ていないですよね?」
「来ておりません。お忙しいのはわかりますが、遅れる時は連絡をもらえないと困ります」
「すみません。気をつけます。幸太、ごめんね、遅くなって」
「ママ~あぁ~っ」
「ごめん、ごめん」
幸太を抱き上げて背中をポンポンと宥めるように叩くと、しゃくり上げながら必死にしがみついてくる。これは靴を一人で履くどころではないなと靴箱から幸太の靴を出そうと手を伸ばすと、コートのポケットに入れておいたスマートフォンが振動した。
「あ、パパかも。幸太、ごめん。ちょっと下りて待ってね」
「パパ~」
「靴履いて待てるかな? 上手に履けたら電話変わってあげる」
幸太を下ろすと、大好きなパパと話せることで機嫌はすっかり直ったのか、自分で靴を履きだした。これは五分は時間が稼げるぞ、とその間にスマートフォンをポケットから取り出した。
(あれ……この番号なんだろう……?)
このタイミングでかかってくる電話は圭以外にいないと思っていたのに、表示されているのは知らない番号からだった。
訝しげに思いながらも電話に出ると、聞こえてきたのは圭の声ではなかった。
「はい……? はい、そうですが……え、あの……どういうこと、ですか?」
話す内容が頭に入ってこない。
(事故に遭ったって……どういうこと……? 怪我したの……?)
脳裏を過ぎったのは、詐欺の電話ではないかということだった。
けれど実際圭はここにはいないし、電話の相手に金銭を要求されたわけでもない。はい、しか言えない静香を落ち着かせるように、相手はゆっくりとした声色で告げてきた。
『奥様に、ご遺体の確認をしていただきたいのですが……』
「遺体って……」
目の前が真っ暗になる。
詐欺の電話だったらどんなにマシだろうと、頭の中でそんなことを考えていた。
手に持ったスマートフォンが手のひらからすべり落ちる。
拾わなければと床に視線を移すと、流れる涙が床を濡らした。
「ママぁ~」
静香の不安を感じ取ったのだろう。子どもというのは敏感だ。
震える手で幸太を胸の中に抱きしめると、立ち上がる気力さえなくなってしまった。嘘だと思いたいのに、本当だったらとっくに保育園に着いているはずの圭が来ていないことが、より電話が真実であることの証拠のような気がして、どうしていいかわからなくなった。
「私を迎えに来ようとしてたから……」
誰にも届かない呟きが、自分の中に重くのしかかる。
もっと早くに電話をしていればよかった。
心配だから、車はやめてと言えばよかっただけなのに。
結婚してもなお史哉を忘れられなかったことへの、罰のような気がした。
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