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オリジン
蛟様 前篇
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古い昔の記憶。
その年も例年通りの暑い夏だった。
町というよりは村と呼ぶ方が相応しい山奥。土地の割に活気があるように見えるのは子供が多いからだろう。公園では子供達が竹の枝を手に走り回って遊んでいる。
「あの子がいいわね」
木陰の下。黒いレースで顔を隠した女が呟く。女は顔だけでは無い、ゴシック風とでも言えば良いのか全身をひらひらとした布で覆っており素肌を一切見せないようにしている。真夏日の中で布で覆われたシルエットは異様に映る。
「ですが、既にお決まりになってたのではなくて?」
女の側では従者が黒い日傘を広げている。よっぽど紫外線を嫌うのか。肌を隠した上で日傘など、奇怪な目で晒されも仕方が無い事だろう。
しかし、側を通る通行人は彼女達を見ても驚く事無く会釈をして通り過ぎていく。老若男女が揃って挨拶する様は黒レースの女のこの町での地位の高さを物語っていた。
「まだ大丈夫。決めるのは私達なのよ。そう、あの子の方が相応しいわ」
「あらそうなのね。それは失礼」
「いえ、いいのよ」
二つの目が覗く視線の先には少年の姿があった。一緒になって遊んでいるが、他の子供達とは少し雰囲気が違って見える。女の目線はその少年に釘付けだった。
「でもあの子、初めて見たわ。どこの子かしら」
「あらご存知なくて?与倉家の嫁入りした次女の倅よ。夏季の帰省で二週間ほど滞在するらしくてよ」
「あらあら、それはそれは……」
ふふふ。ふふふと、笑い合う女の声。
黒いレースで覆われた視線に少年が気付く事は無い。
少年は幸せだった。まだそれがどれだけ幸福なことかを知る事が出来なかったとしても。
夕焼け空の下。
眞鍋昌は慣れないでこぼこのあぜ道を歩いていた。
昼に通り雨が過ぎたせいか地面はぐずぐずに緩んでる。足元を見れば跳ねた泥が茜色のローファーを汚していた。
太い羽音を立てる虫がすぐ横を通り過ぎる。
避けようとよろめいた体に夕日が差し込み白いブラウスを赤く染め上げる。
こんな事ならジャージ持ってくるんだった。
昌は大きくため息をついた。
立ち止まり泥が跳ねていないかを確認してから再び歩き始めた。
夏の初め、母方の実家への帰省。それは眞鍋家では毎年行われるイベントだ。
数日間を退屈な田舎で過ごすだけ。まだ小学生の弟は虫に川に山にと大喜びだが、昌にとってはマイナスポイントだ。
虫は嫌いだし川や山にはそもそも行こうとも思わない。
さて、あの元気な弟はどこまで行ったのか。
折り畳み式の携帯電話が五時を過ぎた事を知らせてくれる。
「せい君を迎えにいってあげて」
母からの使いを思い出す。この田舎道を歩いて弟が遊んでそうな場所を探すというものだ。夕方には勝手に戻ってくると昌はごねたが結局押し切られてしまった。
母はいつもごねる晶を「昌はお姉ちゃんだから」と丸め込めている。
遊びに夢中で暗くなるのが分からず帰れなくなるなんて事があるほど弟は幼くない。
母は心配性だとぼやく昌だが、気持ちが分からないわけではない。歳が離れた弟というものは可愛く見えるのだ。
公園に入ると子供が走り回って遊んでるのが見えた。
「いた」
よかった。遠くに探しに行かなくても良さそうだ。
「せい君、帰るよー」
「あっ!お姉ちゃん」
弟の星一郎は人懐っこい笑顔を浮かべ、子犬のように昌の方へ走ってくる。
手足は擦り傷だらけでTシャツは乾いた泥があちこちに残っている。
昌にとっては退屈な山中も、星一郎はお気に入りのようだ。
「うわー、泥だらけ。何してたの?」
「ゆう君と川で遊んでた」
知らない名前だ。たぶん、新しく出来た友達なのだろう。
子供というのは順応が早い。
呆れてつつも昌は羨ましくも思った。
「帰ったらご飯の前にお風呂だね」
「えー」
「えーじゃないよ。そんな格好で居間に入ったら怒られるよ」
夕焼けが山の後ろに隠れ始めていた。
なんだか一日が終わるのも早く感じる。
明日は商店街にもいってみようかな。などと考えた矢先、昌は身体の自由を失った。
「え?」
突然強い力で揺さぶられる。大きな手が、昌の肩を捕らえていた。
誰?
そう思ったが、口には出せなかった。
昌を掴んでいるのは知らない男だった。背は高い、猫背で俯いているにも関わらず昌より頭二つ分ほど大きい。
でっぱった腹に引き伸ばされたキャラクターもののTシャツに、子供が履くような安っぽい短パンを履いている。毛深くきつい体臭、身だしなみなど一切気にしていないのだろう頭髪は乱れフケが吹いている。
不気味な男だ。異様な圧迫感があった。こいつはヤバいと昌の直感が告げている。
男はぐいっと昌を引き寄せた。力の限り手を引いたような乱暴な動作で、昌は抵抗するどころか転けないようにするだけで精一杯だった。
空いているもう一方の手が昌の目の前に迫る。
「きゃ?!」
昌は咄嗟に目を閉じた。
「ねぇ、アメいる?」
男の声は甲高く、少年のようだった。
恐る恐る目を開ける。ボロボロに包まれた包装紙が一つ、皿のような手の平に乗せられていた。
「アメ、いる?」
男の顔が昌を覗き込んだ。肉が垂れ下がった頬に脂汗が浮いている。苔のように無造作に生えた髭。醜く老け込んだ顔とは対照的に目だけはギラギラとした若々しい輝きを帯びていた。
怖い。
昌は怯え、声を出せなくなっていた。肩を掴まれているだけなのに、刃物を突きつけられているような緊迫感が昌を支配している。
この男が何か行動を起こしたとしても昌には抵抗する事は出来ないだろう。
昌に出来るはこのまま石のようにじっとしている事だけだった。
もうだめだ。
そう諦めていた昌の側に足音が近づく。
「あらあら、しょうちゃん。何してるの?」
そう声をかけたのは黒いレースを被ったゴシック風の格好をした女だ。ゆったりとした歩調でこちらに近づいて来ている。その側に従者が沿って歩き日傘を差している。
女の風貌から外見的な特徴は見られないが、しわがれた声から高齢という事だけは分かった。
「ママーッ!」
男が甲高い声を出す。声変わりをしていない子供のような声が老けた男の喉から出ている。気色が悪かった。
「あらあら」
黒レースの女はそう口だけで笑う。男が「ママ」と呼んでいることから男の母親なのだろう。
彼女はしゃがみ込むと、心配そうに姉を見つめていた弟へと目線を合わせた。
「ぼくちゃん~川であそんだの~?」
「うん」
「深い所は流れが早くて危ないから、子供だけで川に入っちゃだめよ~」
普通だった。
弟が何を言われるのか身構えていた昌だったが、女の言葉はごく普通の大人から子供への注意だった。
「ほらもう帰るわよ」
母親の女が呼びかけると男は昌の肩を掴んでいた手をさっと離した。
解放された。
そう思った昌だが、男の手が再び昌へ触れる。
男は昌のズボンのポケットの中に無理やり手を捻じ込んだ。布越しの太腿に男の体温を感じ、ぞくりと鳥肌が立つ。
男は手の中の包装紙をポケットに残して腕を引き抜いた。
撫でるようなその手つきがイヤらしい。
「また! あげるからね」
男はそう囁き女の側へ小走りで駆けていった。
二つの大きな背中は夕焼けが沈む方へ去って行き直ぐに見えなくなった。
「うぅ……」
汚された気分だった。
男と出会ってしまった事で自分の人生に深い染みがついてしまった。そういった思いを昌は漠然と抱いた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
星一郎の差し出した手を思わず握ってしまい。堪えていたものが、こぼれ落ちた。
「大丈夫、帰ろう」
昌は震える声で、それでも精一杯気丈に振る舞った。
暗い気持ちを抱えたまま帰路に着いた二人を待っていたのはサイレンのような泣き叫ぶ声だった。
垣根の前からでも聞こえるような大きな声だ。尋常では無い。
昌はすぐにこの声が母のものだと分かった。
慌てて玄関を開けると、廊下にぺたりと足をつけ座り込んでいる母の姿が目に映る。
そばには祖父が寄り添っている。
泣き崩れる母親を前にして、星一郎はどうして良いのか分らずきょとんとした表情で立ち尽くしていた。それは昌も同じだった。
「お母さん、どうしたの? 大丈夫?」
おそるおそる昌が口に出す。
その声に反応して母が顔を上げる。涙でくしゃくしゃになった顔。ずぶ濡れの瞳が弟の星一郎を捕えた。
「ごめんね。ごめんね」
母親は星一郎に飛びつくと、抱きしめ嗚咽のように泣きじゃぐる。
いよいよ昌はどうていいか分らなくなっていた。
「昌や」
名前を呼ばれてはっとそちらを見る。
「ちょっここんかい」
祖父、名倉健蔵が手招きしていた。
「話がある」
そう言う健蔵の後について連れられたのは健蔵の書斎だ。
「ねぇおじいちゃん。何があったの? お母さんは?」
「それを今から話す。智子なら今はそっとしておいてやれ」
智子とは母の名だ。星一郎もその場に残してしまっている。
健蔵は急須を引っ張り茶をくみ差し出した。
「今から話す事は嘘でもお前を揶揄うわけでは無いからな」
湯気立つ茶を飲み健蔵は厳しい表情で言った。その迫力に押され昌は無言で頷いた。
「そうじゃな。何から話そうか……河伯家は聞いたことあるか?」
「知らない」
「河伯家はこの町、いや村を仕切る一族じゃ。当主はワシも見たこと無いが、黒ずくめの女……河伯婦人とその息子は毎日のように外を彷徨いとる」
「黒ずくめと……息子?」
夕方、遭ったあの二人だ。
その姿、特に息子のあの中年男の顔を思い出すと体に触れられた感触が蘇り怖気立つ。
「どうした昌?」
昌の表情は露骨に曇っていた。
「わたし今日。その人達に会った」
健蔵がより険しい顔つきになる。
「何か言われたか?」
「何も、変な事は言われてないと思う」
むしろその方が怖かった。健蔵が会ったと聞いただけで心配するのも納得の異様な風貌。親子揃ってそうだった。
「でもアメ渡された、息子?の方から」
「食ったのか?」
「ううん。食べてない」
それどころか台所に捨てた。
健蔵はそれ以上、この話を広げなかった。
「まぁ、見たのなら話が早いの。連中はここらでは大きな権力を持っていてな。誰も逆らえんのじゃ。もしまた出会うても、余計な事は言わんほうがええ」
ふぅと健蔵がため息を吐く。
「あれらはこの町一番の権力者じゃ」
「権利?」
「そう、下手な役人やお巡りよりもよっぽど強い力を持っとる」
「そんな……」
そんなテレビや小説の中でしか聞かない存在が、こんな所にいるなんて。
とてもでは無いが、昌には信じられなかった。
「いいか、河伯家からは逃げられん。下手に関われば命取りじゃ」
「そんなに危険なら、お爺ちゃんはなんでここに住んでるの?」
浮かんだ疑問を昌は口に出す。
「ここから出て、ウチに来ればいいのに……」
「今言ったばかりじゃろ」
健蔵は言う。
「河伯家からは逃げられん」
きっぱりと、そう言い切った。有無を言わさぬ真剣な気迫に昌は言い淀んだ。
昌が何も言わないと、健蔵は茶を一口飲んだ。仕切り直しだ。
まだ母がああなった理由は聞けていない。
これからその話が始まるのだろう。そしてそれには河伯家とやらが関わっているに違いない。
「そうじゃな、いきなり言っても伝わらんじゃろう。まずは言い伝えから教えなきゃならん」
健蔵はゆっくりとした、さながら子供に昔噺を聞かせるような口調で話し始めた。
「昔、この土地にまだ人が住んでいなかった程の昔。この土地にはある神様が住んでおった」
その年も例年通りの暑い夏だった。
町というよりは村と呼ぶ方が相応しい山奥。土地の割に活気があるように見えるのは子供が多いからだろう。公園では子供達が竹の枝を手に走り回って遊んでいる。
「あの子がいいわね」
木陰の下。黒いレースで顔を隠した女が呟く。女は顔だけでは無い、ゴシック風とでも言えば良いのか全身をひらひらとした布で覆っており素肌を一切見せないようにしている。真夏日の中で布で覆われたシルエットは異様に映る。
「ですが、既にお決まりになってたのではなくて?」
女の側では従者が黒い日傘を広げている。よっぽど紫外線を嫌うのか。肌を隠した上で日傘など、奇怪な目で晒されも仕方が無い事だろう。
しかし、側を通る通行人は彼女達を見ても驚く事無く会釈をして通り過ぎていく。老若男女が揃って挨拶する様は黒レースの女のこの町での地位の高さを物語っていた。
「まだ大丈夫。決めるのは私達なのよ。そう、あの子の方が相応しいわ」
「あらそうなのね。それは失礼」
「いえ、いいのよ」
二つの目が覗く視線の先には少年の姿があった。一緒になって遊んでいるが、他の子供達とは少し雰囲気が違って見える。女の目線はその少年に釘付けだった。
「でもあの子、初めて見たわ。どこの子かしら」
「あらご存知なくて?与倉家の嫁入りした次女の倅よ。夏季の帰省で二週間ほど滞在するらしくてよ」
「あらあら、それはそれは……」
ふふふ。ふふふと、笑い合う女の声。
黒いレースで覆われた視線に少年が気付く事は無い。
少年は幸せだった。まだそれがどれだけ幸福なことかを知る事が出来なかったとしても。
夕焼け空の下。
眞鍋昌は慣れないでこぼこのあぜ道を歩いていた。
昼に通り雨が過ぎたせいか地面はぐずぐずに緩んでる。足元を見れば跳ねた泥が茜色のローファーを汚していた。
太い羽音を立てる虫がすぐ横を通り過ぎる。
避けようとよろめいた体に夕日が差し込み白いブラウスを赤く染め上げる。
こんな事ならジャージ持ってくるんだった。
昌は大きくため息をついた。
立ち止まり泥が跳ねていないかを確認してから再び歩き始めた。
夏の初め、母方の実家への帰省。それは眞鍋家では毎年行われるイベントだ。
数日間を退屈な田舎で過ごすだけ。まだ小学生の弟は虫に川に山にと大喜びだが、昌にとってはマイナスポイントだ。
虫は嫌いだし川や山にはそもそも行こうとも思わない。
さて、あの元気な弟はどこまで行ったのか。
折り畳み式の携帯電話が五時を過ぎた事を知らせてくれる。
「せい君を迎えにいってあげて」
母からの使いを思い出す。この田舎道を歩いて弟が遊んでそうな場所を探すというものだ。夕方には勝手に戻ってくると昌はごねたが結局押し切られてしまった。
母はいつもごねる晶を「昌はお姉ちゃんだから」と丸め込めている。
遊びに夢中で暗くなるのが分からず帰れなくなるなんて事があるほど弟は幼くない。
母は心配性だとぼやく昌だが、気持ちが分からないわけではない。歳が離れた弟というものは可愛く見えるのだ。
公園に入ると子供が走り回って遊んでるのが見えた。
「いた」
よかった。遠くに探しに行かなくても良さそうだ。
「せい君、帰るよー」
「あっ!お姉ちゃん」
弟の星一郎は人懐っこい笑顔を浮かべ、子犬のように昌の方へ走ってくる。
手足は擦り傷だらけでTシャツは乾いた泥があちこちに残っている。
昌にとっては退屈な山中も、星一郎はお気に入りのようだ。
「うわー、泥だらけ。何してたの?」
「ゆう君と川で遊んでた」
知らない名前だ。たぶん、新しく出来た友達なのだろう。
子供というのは順応が早い。
呆れてつつも昌は羨ましくも思った。
「帰ったらご飯の前にお風呂だね」
「えー」
「えーじゃないよ。そんな格好で居間に入ったら怒られるよ」
夕焼けが山の後ろに隠れ始めていた。
なんだか一日が終わるのも早く感じる。
明日は商店街にもいってみようかな。などと考えた矢先、昌は身体の自由を失った。
「え?」
突然強い力で揺さぶられる。大きな手が、昌の肩を捕らえていた。
誰?
そう思ったが、口には出せなかった。
昌を掴んでいるのは知らない男だった。背は高い、猫背で俯いているにも関わらず昌より頭二つ分ほど大きい。
でっぱった腹に引き伸ばされたキャラクターもののTシャツに、子供が履くような安っぽい短パンを履いている。毛深くきつい体臭、身だしなみなど一切気にしていないのだろう頭髪は乱れフケが吹いている。
不気味な男だ。異様な圧迫感があった。こいつはヤバいと昌の直感が告げている。
男はぐいっと昌を引き寄せた。力の限り手を引いたような乱暴な動作で、昌は抵抗するどころか転けないようにするだけで精一杯だった。
空いているもう一方の手が昌の目の前に迫る。
「きゃ?!」
昌は咄嗟に目を閉じた。
「ねぇ、アメいる?」
男の声は甲高く、少年のようだった。
恐る恐る目を開ける。ボロボロに包まれた包装紙が一つ、皿のような手の平に乗せられていた。
「アメ、いる?」
男の顔が昌を覗き込んだ。肉が垂れ下がった頬に脂汗が浮いている。苔のように無造作に生えた髭。醜く老け込んだ顔とは対照的に目だけはギラギラとした若々しい輝きを帯びていた。
怖い。
昌は怯え、声を出せなくなっていた。肩を掴まれているだけなのに、刃物を突きつけられているような緊迫感が昌を支配している。
この男が何か行動を起こしたとしても昌には抵抗する事は出来ないだろう。
昌に出来るはこのまま石のようにじっとしている事だけだった。
もうだめだ。
そう諦めていた昌の側に足音が近づく。
「あらあら、しょうちゃん。何してるの?」
そう声をかけたのは黒いレースを被ったゴシック風の格好をした女だ。ゆったりとした歩調でこちらに近づいて来ている。その側に従者が沿って歩き日傘を差している。
女の風貌から外見的な特徴は見られないが、しわがれた声から高齢という事だけは分かった。
「ママーッ!」
男が甲高い声を出す。声変わりをしていない子供のような声が老けた男の喉から出ている。気色が悪かった。
「あらあら」
黒レースの女はそう口だけで笑う。男が「ママ」と呼んでいることから男の母親なのだろう。
彼女はしゃがみ込むと、心配そうに姉を見つめていた弟へと目線を合わせた。
「ぼくちゃん~川であそんだの~?」
「うん」
「深い所は流れが早くて危ないから、子供だけで川に入っちゃだめよ~」
普通だった。
弟が何を言われるのか身構えていた昌だったが、女の言葉はごく普通の大人から子供への注意だった。
「ほらもう帰るわよ」
母親の女が呼びかけると男は昌の肩を掴んでいた手をさっと離した。
解放された。
そう思った昌だが、男の手が再び昌へ触れる。
男は昌のズボンのポケットの中に無理やり手を捻じ込んだ。布越しの太腿に男の体温を感じ、ぞくりと鳥肌が立つ。
男は手の中の包装紙をポケットに残して腕を引き抜いた。
撫でるようなその手つきがイヤらしい。
「また! あげるからね」
男はそう囁き女の側へ小走りで駆けていった。
二つの大きな背中は夕焼けが沈む方へ去って行き直ぐに見えなくなった。
「うぅ……」
汚された気分だった。
男と出会ってしまった事で自分の人生に深い染みがついてしまった。そういった思いを昌は漠然と抱いた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
星一郎の差し出した手を思わず握ってしまい。堪えていたものが、こぼれ落ちた。
「大丈夫、帰ろう」
昌は震える声で、それでも精一杯気丈に振る舞った。
暗い気持ちを抱えたまま帰路に着いた二人を待っていたのはサイレンのような泣き叫ぶ声だった。
垣根の前からでも聞こえるような大きな声だ。尋常では無い。
昌はすぐにこの声が母のものだと分かった。
慌てて玄関を開けると、廊下にぺたりと足をつけ座り込んでいる母の姿が目に映る。
そばには祖父が寄り添っている。
泣き崩れる母親を前にして、星一郎はどうして良いのか分らずきょとんとした表情で立ち尽くしていた。それは昌も同じだった。
「お母さん、どうしたの? 大丈夫?」
おそるおそる昌が口に出す。
その声に反応して母が顔を上げる。涙でくしゃくしゃになった顔。ずぶ濡れの瞳が弟の星一郎を捕えた。
「ごめんね。ごめんね」
母親は星一郎に飛びつくと、抱きしめ嗚咽のように泣きじゃぐる。
いよいよ昌はどうていいか分らなくなっていた。
「昌や」
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「そうじゃな。何から話そうか……河伯家は聞いたことあるか?」
「知らない」
「河伯家はこの町、いや村を仕切る一族じゃ。当主はワシも見たこと無いが、黒ずくめの女……河伯婦人とその息子は毎日のように外を彷徨いとる」
「黒ずくめと……息子?」
夕方、遭ったあの二人だ。
その姿、特に息子のあの中年男の顔を思い出すと体に触れられた感触が蘇り怖気立つ。
「どうした昌?」
昌の表情は露骨に曇っていた。
「わたし今日。その人達に会った」
健蔵がより険しい顔つきになる。
「何か言われたか?」
「何も、変な事は言われてないと思う」
むしろその方が怖かった。健蔵が会ったと聞いただけで心配するのも納得の異様な風貌。親子揃ってそうだった。
「でもアメ渡された、息子?の方から」
「食ったのか?」
「ううん。食べてない」
それどころか台所に捨てた。
健蔵はそれ以上、この話を広げなかった。
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ふぅと健蔵がため息を吐く。
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「権利?」
「そう、下手な役人やお巡りよりもよっぽど強い力を持っとる」
「そんな……」
そんなテレビや小説の中でしか聞かない存在が、こんな所にいるなんて。
とてもでは無いが、昌には信じられなかった。
「いいか、河伯家からは逃げられん。下手に関われば命取りじゃ」
「そんなに危険なら、お爺ちゃんはなんでここに住んでるの?」
浮かんだ疑問を昌は口に出す。
「ここから出て、ウチに来ればいいのに……」
「今言ったばかりじゃろ」
健蔵は言う。
「河伯家からは逃げられん」
きっぱりと、そう言い切った。有無を言わさぬ真剣な気迫に昌は言い淀んだ。
昌が何も言わないと、健蔵は茶を一口飲んだ。仕切り直しだ。
まだ母がああなった理由は聞けていない。
これからその話が始まるのだろう。そしてそれには河伯家とやらが関わっているに違いない。
「そうじゃな、いきなり言っても伝わらんじゃろう。まずは言い伝えから教えなきゃならん」
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