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オリジン
蛟様 中編
しおりを挟むそれが這った所は川となり、それが留まる所は湖となる。
それが一口啜れば湖は干上がり、それが一つ言えば雨が降る。
それは巨大な蛇の姿をしていると言うわれている。あまりに昔のことでもうそれの本当の姿を知っている者は居ない。
ただ、野山を跨ぐ大きな川がそれがいた証として今でも残っている。
この土地に人が住むようになると人々は川を辿るようにそれへと追従した。やがて土地には人が集まり、そこには村が造られた。
村は平穏に恵まれた。豊作に恵まれ、子宝に恵まれた。
人々はそれを崇めはじめた。そしてそれは蛟様と呼ばれるようになった。
ーー蛟様。
時代が神から人へ移る頃、蛟様は冬眠を始めた。
蛟様は目覚めの時までその眠りを守る者を選んだ。眠りを妨げぬよう、土地を守る役目を人間に与えたのだ。それは神と人との契約だった。
それに選ばれたのが河伯家の祖である。この契約が河伯家に力を与えた。蛟様の加護は一族を繁栄に導いた。それは権力であり、時代の流れにさえ乱される平穏であった。
ーー平穏。
平穏とはそれを持たぬ者の元にはいくら望もうが訪れないものだ。故に対価に相応しかったのだ。
河伯家は長い時の間、契約を守り続けた。
神の冬眠はただ眠るだけでは無い。
実に二十年に一度、蛟様は目を覚まし次の二十年の為、食事を取る必要があった。あるいは長い孤独を癒やすための同行者か。
何にせよ一人を差し出すのだ。
それが河伯家が蛟様と交した契約。
河伯家は町から一人を選び、それを蛟様へと贈る。この地に伝わる因習、お貢ぎだ。
人を……食事として、贈る。
弟はそれに選ばれた。
生贄に。
ガコンと車が揺れて昌の意識は眠りの微睡から現実へと連れ戻された。
「昌や」
田んぼの真ん中を古びた軽自動車が走る。
「大丈夫か?」
「うん。ちょっと眠たいだけ」
健蔵の運転する車の中。外の景色をぼんやりと眺める。ルームミラーに映る孫娘の表情からは感情が読み取れない。
「本当にいいんじゃな?」
念を押すような厳格な調子で健蔵は昌へ問いかける。
「うん。もう決めたから」
ぼそりと呟くような声で昌は答えた。声は小さく震えているが、躊躇いは感じられない。
もう、四度と繰り返された問答だった。
車が停止した。
健蔵は深いため息をつき、大仰に空を見上げた。
山中には白い建物が見える。
「ここからは歩くぞ」
「うん」
山道は狭く車が通れないようになっている。山に入る入り口は石を引いて造られた階段だけだった。
山奥の村の中でその建物だけが異常だった。
山の一角を鎧のように覆っている。汚れ一つ無い嘘のように白い外壁。ギザギザとしている、沢山の三角を重ねて造ったかのような奇怪な外観だ。
この建物は町民から宮殿と呼ばれている。
河伯家が使う建物らしい。それ以上の事は健蔵にも分らない。
宮殿の中に足を踏み入れる。二人を待ち構えていたのは河伯婦人だ。
健蔵が前に出て婦人と話す。可笑しいぐらいに畏まった健蔵の言葉は聞き慣れなくて、余計に不安を煽る。
黒のレース越しに婦人のすり抜けるような目線が昌に刺さる。
「あらあら貴方は」
「お話があって来ました」
「よく来たわね。いいわよいらっしゃい。息子もたなたのことが気に入ってるみたいだし」
気に入っている。その言葉にぞっとする。出来れば二度と会いたく無い。
昌が河伯家の息子に抱いている感情は嫌悪感のみだ。
河伯婦人に連れられて宮殿の中を行く。角張った外観とは打って変わり中はうねるような通路が続き、まるで迷路のようだった。河伯婦人の隣には常に従者がいて、室内でも日傘をさしていた。
通されたのは普通の応接室のような小部屋だった。
ふかふかのクッションは座り込むと尻が深く沈みこんだ。座り心地は悪くない筈なのに、何処か居心地が悪かった。
座っていても河伯婦人は相変わらず日傘の中にいた。
「それで、お話というのは」
河伯婦人がそう切り出すと健蔵は息をのみ答えた。
「お貢ぎの事です」
「あらあら、昨日伺った時に納得して頂けたのではなくて?」
とぼけたような言い草。健蔵から事前に要件は伝えている筈だ。
「我が家からの選出という事であれば意見はございません。お貢ぎに選ばれる事は名誉な事ですから」
「何が言いたいのかしら。そんな事、周知の事でしょう? あぁ、お嬢ちゃんは知らないのかしら」
河伯婦人が昌へ顔を向ける。平然にしなければならないのに、そう思う意識に反して身体がビクッと反応する。
「そ、祖父から話は聞いています。理解、しているつもりです」
「あらあら、そうなの。驚いたでしょう? 外ではもうこういうのないからねぇ。でもこれはずっとむかしから続いている大切な事なのよ」
「はい……」
「それで。お貢ぎの、何を話に来たのかしら? 教えてくださる?」
「それは……」
言いかけた建蔵の言葉を昌が遮る。これだけは自分の口から言わなければダメだった。
「私が代わりにやります」
その言葉に河伯婦人は「まぁ」と驚いた素振りを見せ、健蔵は眉間に深い皺を寄せた。
健蔵がこの宣言を聞いたのは二度目だった。
健蔵から話を聞き、昌が事情を理解してから一晩が過ぎたその翌朝。
昌は健蔵に自分の決断を告白した。
一晩考えた昌の結論がそれだった。弟の代わりに姉である昌がお貢ぎと成る。
健蔵が行ったのは説明だけだ。昌はもう高校生だ。決して子供ではない。
弟がある日突然消えて、それを「何でもないから心配しないで」などと騙せる筈がない。もう自分の頭で考えて動けるだけの力があるのだ。
だから不用意に取り乱さぬよう、諦めがつくように健蔵は説明したのだ。
だからこそ、およそ考えもつかないような事を口走る孫娘に健蔵は肝を冷やされたのだ。
年端もいかない娘がどうしてそのような結論に至ったのか。
結局、説得は無駄だった。だからこうして河伯家との直接交渉の場を設けたのだ。
「でもダメよ」
河伯婦人は昌の決断をそう一蹴した。
「もうあの子に決まったの。お貢ぎを決めるのは私たち河伯一族よ。だからあなたの意見を受け取る事はできないの」
口調だけは残念そうに婦人は続ける。
「お貢ぎを決める権利は河伯家にのみありますのよ」
そう口を挟んだのは日傘をさしている従者だった。抑制の無い無機質な声。
河伯婦人はやれやれといった仕草を見せ、話を続けた。
「自分からお貢ぎに志願してくれるのは素晴らしい心がけと思うわ。町から離れて暮らすあなたにも町の血が流れている事が良く分かったわ。でも、あなたにはあなたに相応しい人生があるのではなくて?」
日傘に隠された婦人の目線が昌を覗いている。
どきりと釘を刺されたような動悸を覚えると同時に昌は違和感を感じた。
「それに、家族の事も考えるべきよ」
次に婦人の口から出たその言葉に昌は面食らった。昌は母には何も告げずこの場に来ていた。
しかし、続く河伯婦人の言葉を昌は処理出来なかった。
「それに幼い方がやり直しも早いでしょう? あなたの家族にとってもお貢ぎは弟さんがするべきよ」
「え?」
何を言ったのか、分からなかった。だから……。
「どういう……意味ですか?」
だから、昌は聞き返してしまった。
健蔵は噛み締めたような苦しそうな表情をしていた。
「あらあら分からないかしら? 弟さんが居なくなって寂しいのでしょう。ならもう一度お作りになればよろしくてよ。心配なら夫がお手伝いさせていただきますわ。種は保証しますよ?」
河伯家の人間は独自の倫理観で生きている。
健蔵の忠告は正しかった。河伯婦人の言葉をまともに感じていたのはただ表面上、たまたま自分達と河伯家の倫理観が重なっていただけに過ぎないのだ。
ダメだ。
こんなのを相手にしては。
目眩のようなものを感じ、昌は俯いてしまった。
「うふふ。大丈夫よ、あなたのお母様はまだ十分お若い、直ぐにでも仕込めるわ」
そこから先はあまりよく覚えていない。河伯婦人が口を開くたびにぐるぐると目が回り酔わされてしまう。
目が覚めた時には帰りの車の中だった。
酷く鬱蒼とした暗い気持ちだった。喪失感にも似ていた。もし仮にお貢ぎの交代がうまくいっていたらどうだったのだろうか。
窓から覗く景色は 車は田んぼの続く道から、家屋が並んだ道に変わっていた。規模は小さいが商店街のような場所だ。
仲良く手を繋いで歩く親子が見えた。
「止って」
昌が呟く。小さな声であったが健蔵は聞き逃さなかった。
「どうした昌や」
「ううん、ごめんねお爺ちゃん」
何かを見つけた訳では無い。
ただ、じっと座っていられるような気分ではじゃなかっただけ。
「ちょっと一人になってもいい?」
心配する祖父を大丈夫だからとなだめ、車を降りる。
何も無い田舎の町は空気だけは澄んでいた。
商店街を一人歩く昌。ここから実家までは歩いて行ける距離だ。とりあえず家まで歩こう、帰る頃にはお昼ご飯が用意されている筈だ。
歩きながら昌は辺りを見回す。商店街と言えば聞こえはいいが民家の合間合間にお店が挟まっているような印象だ。店よりもシャッターの方が多いように見える。人通りも多いとは言えず、すれ違うのも老人ばかりだった。
それでも喫茶店の中には主婦が話しているのが見え、玩具屋には子供のグループが集まってわいわいと話している。
この中にもお貢ぎにされた家族がいるのだろうか。
脳裏に浮かぶのはそんな事ばかり。健蔵から話を聞いて以降、昌の脳はそれに捕われていた。気分転換にはなりそうにも無い。
健蔵は諦めろといった。そうしなければならないのかもしれない。普通の女子高生である自分が行動や決断を起こす必要はあったのだろうか。
「全部、悪い夢だったら良いのに」
ふと、昌の歩く足が止る。
路地の影に誰かいる。誰かが自分を見ているのに気が付いたからだ。
昌が気がついた事を察したのかそいつは暗がりから顔を出した。
見覚えのある顔だった。一度見たら忘れる事など出来ない風貌。
河伯家の息子だ。そいつは前に見た時と同じようにニタニタと笑いながら右手をちょいちょいと動かさし手招きしている。
厭なものを見た。
それがまず昌が抱いた感想だ。
お貢ぎの事もあるが、ただでさえ初対面でトラウマを植え付けられた男だ。この町で一番、出会いたくない存在と言える。
早歩きにその場を立ち去ると、河伯家の息子は路地裏を伝うように昌の後を付けてくる。
背中に鳥肌が立つのを感じる。どんどんと膨れあがって行く不安が昌を駆り立て歩む足を速くする。やがて走り出した昌は脇目も振らず逃げだそうとした。
目を離したのが不味かった。昌は直ぐにそう後悔する羽目となる。
突然、背に米俵を載せられたかのよな衝撃。
昌は悲鳴を出す間も無く前のめりに倒れる。が、地面に顔がぶつかるよりも前に停止した。
太い腕が昌の腰に巻きついている。
「捕まえた」
背中さら抱きつくような格好で昌を押さえ込んでいる。
尻に当たる感触。丁度、男の短パンの位置、硬く膨らんだそれが布越しに擦り付けられる。
「いやぁああああ?!」
割れたガラスのようなつんざく悲鳴。喉が避けるんじゃないかと思う程の音量だった。
生命の危機を感じた昌は力の限り暴れて逃れようとするも、河伯家の息子はがっちりと昌の身体を抑えて離さない。
河伯家の息子の脂ぎった汗の感触を肌に感じる。それは河白家の息子が動く度、昌の体に染みこむように塗られていった。まるでナメクジの大群が体に張り付いてるかのような不快感だ。
「誰かっ! 助けて?! たすけてぇ!」
誰でもいい。
この男を引き剥がしてさえくれれば、そう願いながら周囲に目を向ける。
昌の悲鳴を聞いてからか辺りにはちらほらと人が集まっている。
距離をとった先で彼らは昌を見ていた。
誰も助けない。
只、見ているだけだ。彼らの目は憐れむような、言うならば交通事故の現場を見るような目線だった。
子供を連れた母親が子に見せぬよう立ち去る姿が見えた。
「誰か……」
河伯家はこの町で強い力を持つ。祖父、健蔵から教えられた事だ。あれは自由なのだ。
ずるずると引っ張られるように路地裏へ連れ込まれていく昌。
「遊ぼっ遊ぼっ」
耳元で粘っこい笑みを浮かべた河伯家の息子が繰り返し言う。
路地裏の奥へ奥へと連れ込まれて行く昌。どんどんと遠ざかる町の光に手を伸ばすも救いの手は現れない。
もう自分は助からない。
頬を伝う涙と共に後悔と無念と思い出と共に走馬灯のように脳裏へ浮かんでは消える。
もう自分は助からない。
もがく力も尽きた昌の中にその言葉が暗示のように繰り返される。
もう自分は助からない。
なら、どうせ助からないなら……。
暗がりに閉ざされていく思考。
昌の中にやけとも思える一つの考えが浮かんだ。
「ねぇあなたって河伯家の人だよね」
震えの止まらぬ声で昌が言う。
「そう! ぼく河伯だよ」
昌を引っ張りながら河伯家の息子は答えた。手を挙げて返事をする小学生のような元気の良い声。
「あなたのお母さんは……」
「ママ!」
「ひっ」
耳元で叫ぶように河伯家の息子は言う。この男が口を開くと昌は震えて声が出なくなった。
「ママはね、ぼくのお願いなんでも聞いてくれるんだよ」
それでも勇気を振り絞り、昌は口を開く。
昌はこれを言わなければならなかった。
「あなたの言うこと聞くから、私のお願いも聞いてくれる?」
どうせ助からないなら、弟だけでも助けたい。
昌はこの夏二度目の覚悟を決めた。
「あなたのお母さんに、私をお貢ぎにするよう頼んで」
河伯家の息子はニタリと笑い昌の手を引いた。
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