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番外編
仔猫の爪。
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外務卿×アントーニア
エーレイェンの外交の要、外務卿たるシャッペン伯爵マスクスは、ただいま仔猫に夢中である。仔猫の名前はアントーニア。れっきとした貴族の令嬢である。⋯⋯ただし実家は没落しているのだが。
リヴラ男爵令嬢アントーニアは、もとは王城の女官だった。女官というのは城の女性文官のことで、わかりやすく言うなら、女性王族の秘書官だ。
アントーニアが女官になったのは、今から四年前。彼女が十三歳のときだった。幼い彼女が登用されたのはひとえに、当時前王朝の王妃であったアリスレアの自死を防ぐための人質にするため。
没落した下位貴族の令嬢は、たとえ殺されてもひっそりと闇に葬るのにちょうどよかったのだ。
紆余曲折を得て、ヴィッツ侯爵家に保護された彼女は、表向きは、侯爵継嗣夫人となったアリスレアの話し相手となった。実際は侯爵夫人に可愛がられて淑女教育を受けるという、娘にも等しい扱いを受けているのだが。
マスクスが初めてアントーニアに会ったとき、十六歳の彼女は婚約適齢期だった。もともと素直な性格なのか、思っていることが表情に出る彼女は、出会う男という生き物を全て警戒していた。
アントーニアが仕えるアリスレアが、国王から虐待めいた寵愛とその乳兄弟による嫁いびりに耐える姿を、三年に渡ってそばで見ていたのだから、それも当然のことと言える。
そしてシャッペン伯爵マスクスは、アントーニアが警戒する『男』という生き物、そのものだった。
外務府に勤める文官も女官も『顔で選ばれている』と揶揄されることがままある。それは間違っていない。外国の要人をたぶらかすための顔だからだ。駐在大使に選ばれた者は、随行する外交官をタイプの違う美形で揃える。ターゲットの夫人や令嬢の口を滑らかにするためだ。
外務府の裏の顔は間諜部隊でもあるのだ。美しい顔と巧みな話術で情報を得て、ターゲットの趣味嗜好を探り、手土産を用意する。やりすぎては駄目だ。せいぜい手に入りにくい菓子を持参したり、家族の賛同を得られない趣味を肯定してやるくらいだ。
しかし、そうして気分を良くしてもらった相手は、面白いようにこちらに都合のいい条件で条約を結んでくれたりするのだ。
そんな外交上とてつもなく有利に働くマスクスの容姿は、アントーニアには最上級の危険人物に映ったようだ。
顔が良くて甘い言葉を吐く男は敵だ。
思春期の入り口を下衆な男に真っ黒に塗りつぶされた少女は、自分の仕える可憐な主人を護ることに必死だった。
今になって思えば、侯爵家に入って早々に、アリスレアの意識は少々逞しい前世の人格と入れ替わっていたから、そこまで神経質に護ってやらなくてもよかった。しかし、アントーニアに刷り込まれたアリスレアという人は、可憐で儚くて、アントーニアを護ることに腐心する、兄とも慕う存在だった。
マスクスは間違えた。精神的に虐待されていたに等しいアントーニアを、今まで見知ってきた、家族に愛されて可愛い我儘を許されて育った令嬢と同じように扱っては駄目だったのだ。
最初はいいな、と思った訳でなく、空気を肺に取り込むように、自然に恋の戯れの前哨戦として、揶揄いの言葉を発した。
一般的な審美眼において、彼の顔貌は美形に分類されている。自覚するまでもなく、外務府に採用されたのはそういうことだ。だから彼は、自分が拒絶されることなど思いもよらなかった。
もちろん、恋の鞘当てに不慣れな令嬢の戸惑いなどは感じたことはある。けれどアントーニアは怖恐れ、不安に瞳を揺らした。それでいて、アリスレアを傷つける者は許さぬと、威嚇するように睨みつけてきたのだ。
恋とはこういうものか。
恐怖を隠しもせず震える肩で自分を見る、まだ幼いと言ってもいい少女を相手に、言いようのない熱を覚えた。
マスクスは、仕事として恋の言葉を幾度も紡いだ。それは熱の籠らぬ上部だけの言葉だった。アントーニアには、そんな言葉は相応しくない。
最初を間違えた自覚のあるマスクスは、突然態度を変えて不審がられるのを避けることにした。
念のため、リヴラ男爵に探りを入れる。アントーニアに持参金を持たせることができないので、嫁に出すのは諦めている様子に安心した。金持ちの老人の後妻の口なら、持参金など要らぬ場合がある。男爵がそれを避けようと力を尽くしているのに好感を持った。
まだ成人まで二年ある。
その間にゆっくり自分に慣れてもらおう。
そう思ったがまるで思う通りに行かない。若い少女が喜びそうな話題は、警戒心もあらわにそっぽを向かれる始末だ。男としての自尊心を突き崩されて、しばらく側を離れてみようとアリスレアの里帰りに同行することにしてみた。
なにがどう転がるのかわからないものだ。
アリスレアの幼馴染みを伴って王都に帰還したマスクスは、常識外れの少年少女に振り回された。特に魔法使いの少女は天真爛漫で、屋敷に水を引き、薔薇の蔓棘を屋敷の警備の抜け道に這わせ、始まりの女神エレイアの愛娘を呼び寄せた。
悪い子ではない。むしろいい子だ。しかし、どうにも常識がなかった。あれこれと常識を説くのに奔走することになり、すっかり疲れ果てることになった。
そうして外交用の余所行きの表情をする余裕も無くなったころ、アントーニアが歩み寄ってきたのだ。
「外務卿様、いつもの気取ったお表情より、今の方が安心しますわ」
年齢の近い魔法使いの少女とすっかり仲良くなったアントーニアは、シャッペン伯爵邸に訪ねて来るようになった。そのうちに、魔法使いの少女が不在でも一緒にお茶を楽しむまでになる。
ゆっくり、ゆっくりだ。
マスクスは自分に言い聞かせた。仔猫はようやく、世界は恐ろしいだけのものではないと知ったところなのだから。
「アントーニア嬢、トーニャと呼びたいのだけど、許してくれる?」
「⋯⋯はい」
「では、私のこともマスクスと呼んでくれる?」
「⋯⋯⋯⋯はい」
アントーニアは嫌なことは嫌と言える令嬢だ。
マスクスは仏頂面で受け入れてくれた少女の指先に、礼儀正しく親愛の口付けを落としたのだった。
エーレイェンの外交の要、外務卿たるシャッペン伯爵マスクスは、ただいま仔猫に夢中である。仔猫の名前はアントーニア。れっきとした貴族の令嬢である。⋯⋯ただし実家は没落しているのだが。
リヴラ男爵令嬢アントーニアは、もとは王城の女官だった。女官というのは城の女性文官のことで、わかりやすく言うなら、女性王族の秘書官だ。
アントーニアが女官になったのは、今から四年前。彼女が十三歳のときだった。幼い彼女が登用されたのはひとえに、当時前王朝の王妃であったアリスレアの自死を防ぐための人質にするため。
没落した下位貴族の令嬢は、たとえ殺されてもひっそりと闇に葬るのにちょうどよかったのだ。
紆余曲折を得て、ヴィッツ侯爵家に保護された彼女は、表向きは、侯爵継嗣夫人となったアリスレアの話し相手となった。実際は侯爵夫人に可愛がられて淑女教育を受けるという、娘にも等しい扱いを受けているのだが。
マスクスが初めてアントーニアに会ったとき、十六歳の彼女は婚約適齢期だった。もともと素直な性格なのか、思っていることが表情に出る彼女は、出会う男という生き物を全て警戒していた。
アントーニアが仕えるアリスレアが、国王から虐待めいた寵愛とその乳兄弟による嫁いびりに耐える姿を、三年に渡ってそばで見ていたのだから、それも当然のことと言える。
そしてシャッペン伯爵マスクスは、アントーニアが警戒する『男』という生き物、そのものだった。
外務府に勤める文官も女官も『顔で選ばれている』と揶揄されることがままある。それは間違っていない。外国の要人をたぶらかすための顔だからだ。駐在大使に選ばれた者は、随行する外交官をタイプの違う美形で揃える。ターゲットの夫人や令嬢の口を滑らかにするためだ。
外務府の裏の顔は間諜部隊でもあるのだ。美しい顔と巧みな話術で情報を得て、ターゲットの趣味嗜好を探り、手土産を用意する。やりすぎては駄目だ。せいぜい手に入りにくい菓子を持参したり、家族の賛同を得られない趣味を肯定してやるくらいだ。
しかし、そうして気分を良くしてもらった相手は、面白いようにこちらに都合のいい条件で条約を結んでくれたりするのだ。
そんな外交上とてつもなく有利に働くマスクスの容姿は、アントーニアには最上級の危険人物に映ったようだ。
顔が良くて甘い言葉を吐く男は敵だ。
思春期の入り口を下衆な男に真っ黒に塗りつぶされた少女は、自分の仕える可憐な主人を護ることに必死だった。
今になって思えば、侯爵家に入って早々に、アリスレアの意識は少々逞しい前世の人格と入れ替わっていたから、そこまで神経質に護ってやらなくてもよかった。しかし、アントーニアに刷り込まれたアリスレアという人は、可憐で儚くて、アントーニアを護ることに腐心する、兄とも慕う存在だった。
マスクスは間違えた。精神的に虐待されていたに等しいアントーニアを、今まで見知ってきた、家族に愛されて可愛い我儘を許されて育った令嬢と同じように扱っては駄目だったのだ。
最初はいいな、と思った訳でなく、空気を肺に取り込むように、自然に恋の戯れの前哨戦として、揶揄いの言葉を発した。
一般的な審美眼において、彼の顔貌は美形に分類されている。自覚するまでもなく、外務府に採用されたのはそういうことだ。だから彼は、自分が拒絶されることなど思いもよらなかった。
もちろん、恋の鞘当てに不慣れな令嬢の戸惑いなどは感じたことはある。けれどアントーニアは怖恐れ、不安に瞳を揺らした。それでいて、アリスレアを傷つける者は許さぬと、威嚇するように睨みつけてきたのだ。
恋とはこういうものか。
恐怖を隠しもせず震える肩で自分を見る、まだ幼いと言ってもいい少女を相手に、言いようのない熱を覚えた。
マスクスは、仕事として恋の言葉を幾度も紡いだ。それは熱の籠らぬ上部だけの言葉だった。アントーニアには、そんな言葉は相応しくない。
最初を間違えた自覚のあるマスクスは、突然態度を変えて不審がられるのを避けることにした。
念のため、リヴラ男爵に探りを入れる。アントーニアに持参金を持たせることができないので、嫁に出すのは諦めている様子に安心した。金持ちの老人の後妻の口なら、持参金など要らぬ場合がある。男爵がそれを避けようと力を尽くしているのに好感を持った。
まだ成人まで二年ある。
その間にゆっくり自分に慣れてもらおう。
そう思ったがまるで思う通りに行かない。若い少女が喜びそうな話題は、警戒心もあらわにそっぽを向かれる始末だ。男としての自尊心を突き崩されて、しばらく側を離れてみようとアリスレアの里帰りに同行することにしてみた。
なにがどう転がるのかわからないものだ。
アリスレアの幼馴染みを伴って王都に帰還したマスクスは、常識外れの少年少女に振り回された。特に魔法使いの少女は天真爛漫で、屋敷に水を引き、薔薇の蔓棘を屋敷の警備の抜け道に這わせ、始まりの女神エレイアの愛娘を呼び寄せた。
悪い子ではない。むしろいい子だ。しかし、どうにも常識がなかった。あれこれと常識を説くのに奔走することになり、すっかり疲れ果てることになった。
そうして外交用の余所行きの表情をする余裕も無くなったころ、アントーニアが歩み寄ってきたのだ。
「外務卿様、いつもの気取ったお表情より、今の方が安心しますわ」
年齢の近い魔法使いの少女とすっかり仲良くなったアントーニアは、シャッペン伯爵邸に訪ねて来るようになった。そのうちに、魔法使いの少女が不在でも一緒にお茶を楽しむまでになる。
ゆっくり、ゆっくりだ。
マスクスは自分に言い聞かせた。仔猫はようやく、世界は恐ろしいだけのものではないと知ったところなのだから。
「アントーニア嬢、トーニャと呼びたいのだけど、許してくれる?」
「⋯⋯はい」
「では、私のこともマスクスと呼んでくれる?」
「⋯⋯⋯⋯はい」
アントーニアは嫌なことは嫌と言える令嬢だ。
マスクスは仏頂面で受け入れてくれた少女の指先に、礼儀正しく親愛の口付けを落としたのだった。
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