カリスマ主婦の息子、異世界で王様を餌付けする。

織緒こん

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パン屋の倅が知らない話。

《閑話》パン屋の倅が知らない話。⑤

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 宰相府の執務室に食欲をそそる香ばしい匂いが充満している。王弟殿下の叔父君、最近では猫殿と呼ばれる方からの差し入れのパンが、大量に積み上がっている。

 枝豆とほうれん草のチーズパンは新作のようだ。 しょっぱい系のパンはそれだけで食事になるし、シナモンとアイシングがたっぷりのシナモンロールは、仕事に疲れた頭にぴったりだ。

 ランバートは奪い合う必要もないほど積み上げられたそれに、ため息をついた。

 猫殿付きの侍従官がしたためた報告書の内容があまりに酷い。猫殿の精神的苦痛は大変なものだと思う。このパンの山は、その苛立ちの捌け口だ。

 宰相府は現在、ホーパエル派の弱みを握るのに、そこそこ忙しくしている。元老院のジジイどもは不敬極まりないのは今更なので、猫殿の味方でいるうちは放置⋯⋯のはずだったのだが、これは酷い。

 自宅サロンで他人の目がないなかで、少年の尻を触るなど、紳士の風上にも置けない。

その上、『尻の具合を確かめる』だなんて、猫殿は気付かなかったようだが、完全な寝台へのお誘いだ。決して脂肪の柔らかさを確かめる行為ではない。

 はじめて猫殿が茶会に出席した日、報告書を持参した侍従官のウィレムは、宰相閣下の執務机にそれを叩きつけると、『さぁ、読め。今、読め』と言わんばかりに仁王立ちになった。美人が激怒するさまは恐ろしい。

 ウィレムに気圧されるように、持っていた書類を脇に追いやって報告書に目を通しはじめた閣下も、眼鏡の奥のまなじりを剣呑に光らせて、報告書をぐちゃぐちゃに握りつぶしかけて、思いとどまった。代わりに犠牲になったのは、閣下ご愛用の万年筆だった。

「ウィレム、今後も必ずあなた本人が付き添ってください。あなたの手が空かないときは断ってもいいです」

「誰が次官に任せるものですか。私自ら、一言一句漏らすことなく、微に入り細に入り報告致しますからね。あなたは陛下と一緒に効果的な報復を考えておきなさいよ」

「おや、あなたは報復を考えるのに参加しないのですか?」

「するに決まっているじゃないですか」

 タイプの違う極上の男がふたり、クスクスと薄寒うすらさむい笑い声を漏らしている。

 最近の宰相閣下は、ホーパエル伯爵の足下を掬う格好の機会を得てとても上機嫌だったのに、一気に急降下した。ランバートはホーパエル伯爵令嬢の証言を記録したものを時系列に並べる作業をしながら、顳顬こめかみを揉みほぐした。

 宰相閣下と侍従官のほうは、なるべく見ないようにしていた。

 その三日後くらいに、侍従官と護衛騎士を引き連れた猫殿が、三人がかりで大きなバスケットを持ってきた。香ばしい匂いが漂って、宰相府の文官たちはソワソワしていたが、猫殿はどことなく浮かない表情カオをしていて、真面目そうな護衛騎士も厳しい表情カオだった。侍従官だけは猫殿に優しい視線を向けている。

「ちょっと、イライラすることがあって⋯⋯しばらく俺にお付き合いしてください。お口汚しでごめんなさい」

 しょんぼりした様子の萎れた猫殿は、とてもとても庇護欲をくすぐる。おずおずと差し出されたバスケットの中は、いつもいただく差し入れと変わらずいい匂いがして、腹の虫が騒ぎそうな出来栄えだった。

 お口汚しなんて⋯⋯と言いかけたランバートは、ウィレムにじっと見つめられているのに気付いた。『気に病ませるな!』と無言の圧力をかけられて、そんなつもりはかけらもないのに震え上がった。

「おいしそうです。エルフィン様のパンはいつも大人気なんですよ」

「でも、今日のはいつものと違うから⋯⋯」

 結局猫殿は、しょんぼりしたまま宰相府から去って行った。

 あれからひと月あまり経ち、ジジイどもは猫殿を頻繁にお茶会に誘い、そのたびに差し入れのパンが届く。ウィレムが個人的に宰相閣下に報告したところによると、猫殿は相当参っていて、陛下にたいそう甘えていらっしゃるそうだ。

 陛下からの秋波を華麗に素通りさせていた猫殿が、ようやく恋人らしい態度をお取りになるのは微笑ましいが、ジジイどもの性的嫌がらせが原因だと思うと、素直に喜べない。

 せめてホーパエル伯爵のほうは早期に解決しようと、ランバートは気合を入れた。

 先ほど部下が持ってきた記録に目を通す。ホーパエル伯爵本人に関するものでなく、令嬢の証言から、頻繁に伯爵家に招かれていた数人を監視していたところ、彼らの家に共通で訪れている人物が浮かび上がった。

 ランバートは目を疑った。

 ひとりの女が、定期的にホーパエル派の邸宅を訪問している。ホーパエル派の貴族がホーパエル邸での会談をする日にも、当然のように訪問するその女は、あまり若くないが特別老けた様子もない、中流から上流の間と言った装いの、言ってみればなんの特徴もない女だった。ともすれば見落とされがちな⋯⋯。

 宰相府が抱えている諜報機関は、その女を調べた。女は別に素性を隠していなかったので、すぐにどこの誰だか突き止めることができたらしい。

 ランバートが衝撃を受けたのは、女の素性だった。

 占い師。

 それも城下に店を構えて、恋占いで少女たちに『乙女心の母』とか呼ばれちゃっているような。

 ランバートは数名の部下に指示して、資料庫から議会の記録を持ってこさせた。その中からホーパエル派の議員の提案や意見を日付とともに抽出し、占い師が訪問した日と照らし合わせてみる。

 議会が開かれる前日あるいは二~三日前までに、占い師は発言者の自宅を訪れていた。表向きは夫人や令嬢の話し相手として。

 なんてこった。

 こいつら、占いでまつりごとを動かしてやがる。

 報告書をまとめて宰相閣下に見せると、閣下はなぜか妙に納得したよう頷いた。なにか予想めいたものがあったのかと伺っていると、閣下はランバートに向かって肩を竦めた。

「イゾルデ嬢の教育の仕方が、いささか常軌を逸していたので⋯⋯。完璧な淑女になるよう教養を詰め込む一方で、同年代の友人は一切作らせず、まるで洗脳するように陛下のお子を産めと言い続けるなんて、狂信者のすることのようだと思っていただけですよ」

 それが証明されただけです。と、閣下はため息をついた。

「それなんですけど、ホーパエル家だけじゃなくて
二~三人、同じように育ったご令嬢がいるみたいなんですよ。そのうちの一人は、母君が夫に反発して娘を連れて家出して、離婚調停の真っ最中です」

「その母君の証言が欲しいな」

「すでに内密に連絡をとっています」

「⋯⋯だから、お前は手放せないんだよ」

 ニヤリと宰相閣下が笑ったので、ランバートは背中の真ん中に寒気が走った。

「彼らは犯罪はなにひとつ犯していない⋯⋯いえ、厳密に言えば不敬罪も極まっていますが、それはひとまず置いておきます。政を占いに頼るなど、たいそうな醜聞ですね」

 大方占いで、権勢を奮う姿が見えるとでも言われたのだろう。そこに陛下の姿はなかったのに違いない。

「十日後には后子ごうし内定させますよ。議会も二ヶ月も話し合えば、面目も立つでしょう。七日でホーパエル伯爵を落とします」

 ホーパエル派が后子を認めれば、祖父の息のかかった后子冊立に賛成している議員と併せて、平行線を辿っている話し合いが傾くだろう。内定の宣旨を賜ってしまえば、猫殿がジジイどもの茶会に出る必要はなくなる。

 宰相閣下がもう一度薄寒うすらさむい微笑みを浮かべたので、ランバートはそれに呼応するように自分の背中が寒くなったのを感じたのだった。
 
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