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1巻
1-3
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外国まで留学するほど学のあるお貴族様と同じ墓に入ろうなんざ、土台無理な話だ。……絆されちまったよ、なんて思った途端に気付く、この現実。
うちの居間にすっかり馴染んで寛いでいるキラキラしいお貴族様は、王城の宰相府に入府したばかりの前途有望な若者で、気さくに市井に降りては来るけれど本来なら雲の上の人だ。
俺は大人でフレディはまだまだ若者で、分別をつけるのは俺の役目なんだろうな。
「お前が俺を好きでいてくれているのは、よく分かった。けど、それを受け入れるかどうかは別の話だ。カッツェンの件が全部片付いたら、もううちに来るな」
胸に何かつかえたように、言葉を紡ぐ口が重い。フレディの顔が見られなくて視線を逸らす。我ながら自分らしくない。
「ふふふ」
不意にフレディが笑い声を立てた。
「僕が好きになったシルヴィーのままで、嬉しくなってしまいます。ねぇ、シルヴィー。あなた、僕のこと好きでしょう?」
はぁ?
そうかもしれないが、お前は何を根拠にそんなことを抜かしてやがるかな⁉
背けていた視線をフレディに向けると、満面の笑みとぶつかった。子どもの頃、メンチカツを頬張っていた時の、心底から嬉しいと感じている笑顔だ。
「僕のことを好きじゃないシルヴィーなら、これからも平気で自宅の居間に招き入れますよ。もう来るなって言ってくれたってことは、僕の体面とか将来の婚姻相手とか、いろんな柵を考慮してくれたってことです。つまり、僕のことが好きだから、僕の負担になりたくないんですよね?」
なんも言えねぇ。
いや、なんか言わないと、フレディの言葉を肯定していると思われてしまう。
「いや、その」
どう言えばいいのか答えを探していると、先にフレディが口を開いた。
「ふふふ。我が国の宰相閣下は、一部の人々の間では腹黒で有名なんです」
いきなりの話題転換だな。俄には信じられない。新聞では爽やかな美形で愛妻家って特集されてたし、昔会った本人もそんな感じだった。
「スニャータの騎士団長を務めておられる前王の第四王子は、脳筋で人の話を聞かないと評判なんです」
それは后子殿下からの情報と一致するな。たまに交流があるらしい。
とはいえ、それがどうした。
「僕、宰相閣下のお眼鏡にかなって宰相府入りしたんですよ。スニャータ留学中は、騎士団長に特別目をかけていただきましたしね」
「……話が見えないんだけど」
「ですからね、僕。そこそこ腹黒くて空気読まないんですよ」
どんな秘密の暴露だ⁉
「シルヴィーの気持ちが僕に傾いているのを確信したので、遠慮しないで口説きます。がんがん誘惑するので改めて覚悟し直してください」
とろりと色気を滴らせて、フレディが微笑んだ。
今まで遠慮してたのかよ⁉
唖然として口をパッカンと開けたまま、フレディを見る。チェリーブロンドと灰色がかった緑の瞳の、とても美しい男だ。
「では、そろそろお暇します。いい加減帰って、あの男の取り調べを確認しなくては」
……そうだった。コイツはまだ仕事中だった。業務中におっさんを口説いてんじゃねぇよ。
「いってきますの口づけをしたいところですが、今したら、とてもいやらしいのをしたくなりそうなので、我慢しておきますね」
爽やかに爽やかじゃない言葉を残して、フレディは去っていった。……ここはお前のうちじゃない。いってきますとかないだろう。
顔が。
熱い。
針の筵……
夕方になってもフレディの甘い声が脳裏で回っていた。
落ち着かないし、久々に酒場で一杯やるか。カッツェンもしょっ引かれたことだしな。
そう思ってやってきたジャネットの店に、何故か姉ちゃんまでいた。
子どもたちはどうした?
……たまには旦那さんに預けて飲みに行きたいんだとさ。気持ちは分かる。否定はしない。むしろ男も育児に参加するのはいいことだと思う。
だが、俺を肴に飲むのはやめてくれ。
姉ちゃんとジャネットは、ニヤニヤしながら俺を見ている。
「……金物屋の女将さん、何をどこまでジャネットの耳に入れたんだ?」
恐る恐る聞いてみた。
「アンタが付き纏い野郎に追い詰められてるのを、キラキラした貴族の美形さんが奪い返して攫っていったって」
概ね合ってはいるが、ちょいちょい女将さんの願望が入っている。
「その後はねぇ、腰を抜かしたこの馬鹿を送ってきてくれて、愛の告白よ。母さんとふたりで扉にしがみついて聞きながら、悶えちゃったわよ」
……ふたりを止めろよ、父さん。
つか、聞いてたのかよ。
「で、キラキラの美形さんって、当然フレッド様なんでしょうね」
「それは勿論」
ジャネットがにやにや笑って姉ちゃんに問いかけた。彼女はフレディにカッツェンのことを質問されているから、金物屋の女将さんの話を聞いてすぐに事情が分かったはずだ。それをわざわざ俺の前で姉ちゃんに確認するこたぁないだろう。
したり顔で頷く姉ちゃんも、だいぶ酒が回っている。……ザルの姉ちゃんがほろ酔いなんて、どれだけ飲んだんだよ。
「頑張ったわねぇ、フレッド様。あ~んな小さな頃からアンタ一筋。魚屋のエーメも八百屋のクラリサもさっさと見切りをつけてお嫁に行ったのに、ずーっとアンタしか見てないんだもん」
「エーメもクラリサも、フレディ坊ちゃんが一生懸命すぎて、自分じゃ無理だって身を引いたんでしょ」
「違うわよ。身を引いたんじゃなくて、ドン引いたのよ」
……黙れ、女ども。言えないけど。
「ふたりはさ、フレディが言ってたこと、昔から本気にしてた?」
「勿論よ」
「当たり前じゃない」
そうなのか?
「馬鹿みたいに口を開けないのよ。馬鹿弟」
「イリス姉さん。馬鹿みたいじゃなくて、そのまんま馬鹿よ」
「そうね」
魔女どもめ。子どもの頃、悪戯をすると母さんに『魔女に食べられるよ』なんて脅されたもんだが、あんな御伽噺の魔女なんかより、目の前のふたりのほうがよっぽど怖い。
「アンタ、何か変なこと、考えてないでしょうね?」
「いや、なんにも」
魔女は勘が鋭い。
「シルヴィーは腹芸ができないんだから、しらばっくれても無駄よ」
姉ちゃんが手を伸ばして、頬をむぎゅっと引っ張ってくる。地味に痛い。
「で、アンタはどうすんの? 今、他に好きな人がいるわけじゃないんでしょ……ていうか、だいぶ挙動不審なんだけど、子どもの頃、エルの前に立った時のアンタを思い出すわよ」
どんな俺だよ。
「肝心なことは何も言わないで、黙って軒下の蜘蛛の巣を払ってる姿よ」
肝心なことは何も言わない、か。
玉砕が怖くて怯んでたんだよなぁ。我ながらヘタれたガキだった。成人までにはなんとかしようと決意していたのに、あっさり王様に掻っ攫われたのは、もういい思い出だ。
「……相談相手が、姉ちゃんとジャネットしかいないのが地味にキツい」
「何よ、あたしたちじゃ不満だって言うの?」
「いや、同じ男の立場の意見が欲しい」
地元商工会の若衆やら、子どもの頃に通った学問所で一緒だったまだ繋がりが切れていない奴やら、友達がいないわけじゃない。なんならたまに一緒に飲むし。
それがなぁ、そいつらには『面倒見のいい頼れる兄貴』だと思われている節があって、前に飲みの席で『一発コマしてやれば、どんな相手もシルヴィーにイチコロっす』とか抜かしやがった。
付き合ってもいない相手にそんなマネできるか⁉
だいたい結婚して子どももいる奴から、そんなことを言われるなんて思わなかったさ。酒の席のノリとはいえ、つい『お前の奥さんや娘さんが、そんな男に引っ掛かったらどうするんだ』と説教をかましてしまった。何故か『兄貴……』と恍惚とされたがな!
そう姉ちゃんとジャネットに説明すると、ふたりは長々と深いため息を漏らす。何か言いたいことがあるのか?
「アンタ、惚れた相手は大事にしたい男だったのね。そんで、『触ってくれないのは好きじゃないからなのね』なんて言われて浮気されるんだわ」
「ジャニー、そこまで辿り着かないから。このヘタれた馬鹿弟は」
「まさか姉さん、シルヴィーって童貞じゃないわよね?」
「流石にそれはないでしょ! …………って、シルヴィー?」
黙れ、魔女ども!
「それは、まぁ、ごめんね?」
「うんと、その、ごめんね?」
ふたりは視線を彷徨わせながら、取り繕うように言った。せめて笑い飛ばせ。いや、こういうことを笑い飛ばすようなヒトデナシじゃないのは分かっているけど、居た堪れないだろう。
「……そういう店に行けとは言わないけど、なんか複雑」
「姉ちゃん、そういうのは金払ってするもんじゃなくて、こうだと思った人とするもんだろう?」
あー、小っ恥ずかしい。なんで実の姉と幼馴染みの前で、こんな話をしてるんだよ。
手にしたジョッキの中身を呷って、カウンターに叩きつけるように置く。ちなみに一杯目だ。麦酒で酔える俺は金がかからなくていい。
「なんていうか、さぁ」
頭を抱えて突っ伏す。
「身分とかどうしてもってなったら、どうにでもなると思うんだ。なにしろエスタークは后子様がエルだもんな」
パン屋の倅が王様の嫁さんになれる国だ。まぁ、エルの甥っ子が王子様だったっていう、強烈な後ろ盾があるわけだけど。
俺たち商店街の面子が知らないお貴族様のアレコレもあったらしいものの、そこら辺はエルは曖昧に笑って隠している。
「とにかく、子爵様も奥様も気さくな方だし、兄上方も度々店に足を運んでくれるし、俺が肉屋の倅だからって馬鹿にするような人たちじゃないんだよ」
あー、なんか眠くなってきた。ぐちぐちと取り留めのない言葉を吐き出しながら、頬をカウンターに擦り付ける。
「イリス姉さん、フレッド様のご家族、お店に来てるの?」
「ご贔屓いただいてるわ……って、まさかの家族ぐるみで大歓迎?」
魔女どもが何か言っているな。眠くて理解が追いつかないけど。
「でもなぁ、せっかく留学から帰ってきて、宰相府なんて立派な職場で、王太子殿下の側近にまで上り詰めたのに……俺の嫁になったら、肉屋のカミさんだぞぅ? 店に誇りを持っちゃいるけど、差がありすぎないか?」
「え? アンタ、フレッド様を嫁にもらう前提なの?」
「……帰ってきたフレッド様、とても嫁側には見えないんだけど」
「そうなんだよなぁ。肉屋の嫁さんに収まるより、もっと広い世界で活躍してほしいんだよなぁ」
「なんか話が噛み合ってないけど、フレッド様と馬鹿弟が結婚しても、コイツ一生、童貞なんだなってことは理解したわ」
姉ちゃんの声が通り過ぎる。
疲れているのかなぁ。一杯の麦酒に酔っ払って、俺はうとうとと微睡んだ。
§
なんか昨夜は、ジャネットのところでグダグダして寝たっぽい。なのに気が付くと、自宅の寝台に寝ていたのが疑問だ。姉ちゃんが俺を担げるわけもないし、できたとしても放っておかれるだろう。
酔っ払いつつも、自力で歩いて帰ってきたのか?
カーテンから差し込む光は、いつもの時間に目が覚めたことを教えてくれる。今朝は街外れの牧場に行く予定だ。豚を一頭と鶏を二十羽引き取ってこないとならない。
もそもそと起き出して、寝台の下に足を下ろそうとし……おわぁあぁぁッ‼
「なんで俺の部屋にフレディが⁉ お貴族様を床に寝かせて、俺は寝台でぐうすか寝てるとか、どうなってるんだ⁉ ていうか、何が起こってるんだ⁉」
いや、マジでないから!
毛布にくるまって丸くなっていたフレディは、俺の声がうるさかったのか目を開けた。
「朝からシルヴィーの顔が見られるなんて、役得ですね。おぶってきた甲斐がありました」
身を起こしたとはいえ床に座ったまま、朝にふさわしい清々しさでのたまうのは、どう見てもフレディだ。くっそ、朝から美しいな⁉
待てよ、コイツなんて言った?
「……俺を家まで連れて帰ってくれたの、お前?」
「はい」
やっぱりかぁ……
「カッツェンが捕縛されたので、ジャネット姉さんのところで祝杯でも上げているかと足を運んでみたんです」
そうしたら、潰れた俺を姉ちゃんに押し付けられたのか……。マジですまん。
「悪いな、重かっただろう?」
「アランやフェンネル王子より軽いですよ。本当はおぶるより抱き上げたかったんですけど、途中で目が覚めたらシルヴィーが恥ずかしがると思って、我慢しました」
配慮に感謝しよう。抱っこ姿を他人に目撃されていたら羞恥で死ねる。
フェンネル王子とやらには会ったことがないが、確かに先日久しぶりに会ったアラン坊ちゃんは、岩のような大男に育っていた。あの図体に坊ちゃんはないな。彼を背負うくらいなら、俺のほうが断然軽いのは理解できる。だが、どういう局面に陥ったらアラン様をおぶる事態になるのだろうか?
「スニャータで騎士団の訓練に参加してたんですよ。アランとフェンネル王子は全力で打ち合って最後はぶっ倒れるので、同じ訓練に参加した連中なら、全員彼らを担げますよ」
本当にお前、何を勉強しに行っていたんだ?
「友好国とは言え他国の貴族を騎士団の訓練に参加させるなんて、有り得るのか?」
変に武力をつけられても困るし、騎士団の内情なんて、絶対に漏らしちゃいけないんじゃないのか?
「そこは、まぁ。フェンネル王子が相手ですから」
会ったこともない王子が心配になってきた。エルがさんざっぱら脳筋って繰り返していたのがよく分かる話だ。
まぁ、よその国のことは、肉屋の倅には関係ない。
それよりも、コイツはいつまで床に座っている気だ?
「床はやめて、椅子でも寝台でも座れよ」
「いえ、シルヴィーが部屋を出るまでこうしています」
「やっぱりお前、硬い床で眠ってどこか痛めたんじゃないか? 一緒に寝台に潜り込んでもよかったのに」
俺の寝台はそこそこデカい。子供部屋の名残だ。俺は小さな寝台で寝ていたけど、姉三人はこの寝台で一緒に眠っていたからな。
「駄目ですよ、シルヴィー。そんな不用意なことを言ってはいけません。それに格好つけさせてくださいよ。実は僕、好きな人の部屋で朝を迎えるなんて初めてで、色々のっぴきならないんです。しばらくすると落ち着くと思うので、少し外してもらえると嬉しいです」
…………
毛布をどけない理由は分かった……
爽やかに微笑んでいるけど、全然爽やかじゃない。健康な若い男なら当然のことだが、この綺麗な男がそうなるだなんて、想像したこともなかった!
コイツ、本当にもう子どもじゃないんだ。
って、呆然としている場合じゃない。
「ご、ごめんなぁッ。おっさんなんで、気ぃ利かなくてぇッ!」
半分転げるように部屋を飛び出す。声がひっくり返って、阿呆丸出しだ。背中からクスクスとフレディの笑い声が追いかけてくる。年下のくせに、その余裕が憎たらしい!
とりあえず、飯だ、飯。朝はしっかり食っとかないとな。
母さんが台所でガチャガチャやっている。
「あら、おはよう。駄目じゃない、フレディ坊ちゃんに迷惑かけちゃ」
「いや、この場合、迷惑をかけたのは姉ちゃんじゃないか?」
貴族の坊ちゃんに、酔っ払いを押し付けられる図太さが怖い。
「いいえ、ちっとも迷惑じゃありませんよ」
澄ました表情のフレディがやってくる。
「おはようございます。お義母様」
あれ? 俺の母さんを呼ぶニュアンスがちょっと違わないか? 今まで『シルヴィーのお母様』とか言ってたよな? 気のせいか。
「あらあら。おはようございます。坊ちゃん。客間を用意できなくてごめんなさいねぇ」
空き部屋は姉ちゃんたちが子連れで店番に来てくれた時のために、子どものもので溢れている。床で寝かせるのとぬいぐるみに塗れて寝かせるのと、どっちがマシかって話だ。
俺を空き部屋に突っ込んで、フレディに俺の寝台を貸すって手段もあっただろうに。おっさんがぬいぐるみに塗れるのはキモいが、見るのは精々母さんくらいだろう。
いや、過ぎたことだ。次からはそうすりゃいい。
「シルヴィー、父さんを呼んできて。フレディ坊ちゃんも一緒にどうぞ。お口汚しですけどね」
「お口汚しなんてとんでもない。とてもいい匂いがします」
父さんを呼びに行っている間、ふたりは和気藹々と会話を弾ませていた。
フレディは、というよりリューイの学友たちは、エルの仕込みで台所に立つのを恥と思わない。お貴族様に何をやらせているんだとか思うのに、エル曰く、食べるものの大切さを感じることが大切なんだそうだ。
母さんを手伝ってテーブルに皿を並べるフレディを見て、少し気が遠くなった。……馴染んでいる。
コイツ、本気で肉屋の嫁になる気なのか?
「……シルヴィー、店のことは気にしなくていいからな。もともとイリスが継ぐはずだったんだし、好きにするといい」
俺と一緒に並んで突っ立っていた父さんが、ぽつりと言った。うちの三人の姉ちゃんたち、年子なんだよ。俺だけ下の姉ちゃんから七つ離れているんだ。一番上のイリスとは九つ違い。彼女が跡取り娘の自覚をした頃に、弟である俺が生まれたわけだ。
店のことは心配していないさ。
ただ、フレディの出世に響くのが怖い。
なんとか円満に諦めてくれないものか。
お前なんか嫌いだ、二度と来るなって言ってやればいいのか? でも嘘はつきたくないんだよなぁ。
現実を見せれば、何かが変わるんだろうか?
まだ薄暗いうちの朝食は、肉屋を営む我が家の日常だった。商いをしていない家は朝食のパンに焼き立てを買いに行くんだけど、うちは前日の晩のうちに買っておく。焼き上がりの時間よりも朝食が早いからだ。
エルに美味しい温め方を習ったから、困っていない。
朝食を終えてフレディと部屋に向かう。
「いっぺんお屋敷に帰って、寝直す? それとも俺の寝台で寝とく?」
仕事に行くんなら着替えるか? なら、お屋敷に帰ったほうがいいんじゃないか。俺は出かけるが。
「今日は、休みなんです。シルヴィーの仕事を見せてもらってもいいですか?」
「…………あんまり、おすすめしないぞ」
まぁ、綺麗じゃないところを見せて幻滅させればいいか? でも嫌だな。コイツに汚いとか野蛮だとか言われたらちょっと凹みそうだ。
情緒不安定というやつか?
幻滅させたほうがいいのかもしれないという気持ちと、そんなのは嫌だと駄々を捏ねる気持ちがごちゃ混ぜになって、胃のあたりがどんよりと重い。
やたら上機嫌なフレディと並んで馬借屋へ向かう。お貴族様の服は汚れると困るので、彼には父さんの服を着せた。
俺の服は縦も横も入らなかった。父さんの服は、腹周りに合わせて購入したものを捲り上げて着たので、やや丈が足りないものの妥協できている。……胸周りはちょうどいいけど、腰はガバガバだな。
今日は姉ちゃんたちに店を任せて、街外れの農場に向かう。
馬借屋に預けている荷馬車に馬を繋いでいる横で、フレディは馬の鼻面を撫でていた。荷馬車を牽くのにぴったりな、ずんぐりむっくりした背の低い馬だ。動物好きは昔から変わらないらしい。
「いい子ですね、働く馬だ」
貴族の馬車を牽く美しい馬とは見目がまるで違うが愛嬌のあるその馬は、嫌がらずにフレディの手を受け入れている。俺はいつもこの子を借りる。名前は甘栗号だ。俺がつけたんじゃない。馬借屋の娘が店の馬に食べ物の名前をつけるんだ。
「荷馬車はシルヴィーのうちのもので、馬は借りるんですね」
「店は通りに面してるから、厩とかないしな」
庶民は遠出する時や大きな荷物を運ぶ時、馬借屋から馬と荷車を組み合わせて借りる。うちの荷馬車が自前なのは、運ぶ荷が生肉だからだ。運んでいる途中で血がついたり匂いがついたりするため、他の客に貸せない。だから自前で用意したものを、金を払って管理してもらっていた。
ふたり並んで馭者台に座る。
「農場で豚一頭と鶏二十羽を仕入れるんだ」
「その農場は、いろんな種類の家畜を飼っているの?」
色々飼うと効率悪いんだよな。もっともな疑問だろう。
「これから行くのは仲買みたいな農場なんだ。専門の畜産農家から少しずつ買って、俺たちみたいな肉屋に卸してる。地方の畜産農家で潰してから運んだんじゃ、肉は腐っちゃうだろ? かと言って、生きたままの家畜を王都の真ん中に運び込むのは現実的じゃない。糞尿を垂れ流すし、屠殺の汚れは疫病の元だ」
「勉強になります」
フレディが真面目な表情で頷いた。
一刻(約二時間)ほどの道のりは、天気もいいし風は爽やかだし風景が長閑だ。王都から少し出るだけで石畳は消え、木々の緑が眩い。
農場に着かなきゃいいなんて考えていたのに、ずんぐりむっくりの甘栗号はカポカポと歩いて仕事を全うした。目的地に着いてしまい、いよいよ気が滅入る。
「シルヴィー、どうしたんですか? 具合が悪いんですか?」
「いや……別に……」
本当に、別になんでもないんだ。
まぁいい。これが肉屋の仕事だ。これで幻滅されたら、それはそれでよし。
「おう、シルヴィー。今日はえらい男前の兄ちゃんと一緒だな。嫁さん候補かい?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ」
農場の若大将が甘栗号の蹄の音に気付いて納屋から出てきた。アラン様ばりに縦も横もデカいが、むさ苦しさはコイツのほうが百倍上だ。
「馬鹿なことなのか? そりゃ安心したよ。おメェは俺んとこの嫁さん候補だからよ!」
ガハハと笑って若大将が言う。コイツはいつもこんなふざけたことを言いやがる。
「シルヴィーはこちらの方に求婚されているのですか?」
フレディの表情が固くなった。
「まさか。コイツは俺がここに来る度にこんなこと言ってるけど、屠殺夫を増やしたいだけさ。なかなか人が集まらないんだ。ついでに嫁さんにも逃げられた」
そうなんだよなぁ。若大将の元嫁さんは、野蛮だとか不潔だとか言って、逃げるように出ていったらしいんだよ。家畜に勝手に名前をつけていて『私の可愛いマリーを殺すなんて、あなたは悪魔よ!』と言い放ったとかなんとか。
「……それは、なんとも言えない奥様をお迎えになりましたね。その方も、生まれてから一度も肉を口にしたことがなかったわけじゃないのでしょうに」
フレディが気の毒げに言う。
それは俺も思った。そもそも家畜の仲買屋に嫁に来てそれはない。家業を知らずに結婚したわけでもあるまいに。
人間の口に入る肉や魚は、どこかで誰かが息の根を止めたものだ。
「誰のおかげで、汚れずに日々の糧を手に入れられるんでしょうね。ここは国王陛下の座す王都ですから、家畜を飼ったり狩をせずとも手に入れることはできますが、エスタークにだって夫が狩ってきた兎を妻が絞めるのが当たり前の地方はありますよ」
お貴族様のフレディがそんなふうに言ってくれるなんて、思ってもみなかった。
「シルヴィー、なんて表情をしてるんですか」
フレディの指が頬をくすぐる。こそばゆくて手のひらごと押さえると、うっかり自分の頬に押し付けるみたいになり、慌てて振り払った。
「前時代の貴族社会では、娯楽のために狩をしたんですよ。誰が一番大きな獲物を手に入れるのか、より多くの獲物を仕留めたのは誰か。食べるためじゃないんです。見栄と優位性の訴求のためだけに生き物の生命を刈り取るのが社会的地位の確立だ、と信じる愚か者が大勢いたのですよ」
難しすぎて意味がよく分からない。
「屠殺は意味のない殺傷行為ではないってことです」
よく分からんが、俺は慰められているらしい。
「だいたい、后子殿下に躾けられた僕たちが、家畜を絞めるのを生業にしている方々を、蔑ろにできるわけないじゃないですか。魚は切り身で泳いでないし、蜜柑は一房ごとに別れてないし、パンだってそのまま木に実ってるわけじゃないんですよ」
エルに引率されて、商店街を見学して歩いていたフレディを思い出す。そういや王太子のご学友たちは、エルに指導されて自分で料理もするんだった。
「天井から吊るされた豚だって見てるんですから、シルヴィーの仕事は全部分かってるつもりですよ」
また、フレディの手のひらが頬を覆う。今度は両方だった。
「泣きそうな表情をしてるから、泣かないおまじないです」
額にそっと唇が落とされて、俺は呆然とフレディを見上げた。余裕めいた穏やかな瞳が見下ろしてくる。灰色がかった緑の瞳は、熱に潤んでいるように見えた。
「あー、ごほんごほん。仲がいいのは分かったから、兄ちゃんや、俺を威嚇するんじゃない。……アンタが嫁候補じゃないのは、よぉく理解した」
ぎゃあ、若大将が見ていた! 見ていなかったらいいわけじゃないけども‼
アタフタして押しのけると、フレディは抵抗なく離れる。ちくしょう、余裕ぶりやがって。いつもは頑として動かないくせに。クスクス笑ってんじゃねぇ。
「早いとこ始めないと帰りが遅くなっちまうぜ。支度はしてあるから、兄ちゃんはここで待ってるなり見学なり、好きにしろや」
若大将に肩を落としながら言われて、フレディは満面の笑みで見学を申し出たのだった。
結局フレディは見学どころか手伝いまでした。見事な解体の腕前に、若大将とここのじいちゃんが職場に勧誘しはじめる。それをにこやかに断って、内臓を抜いた豚と羽をむしって血抜きした鶏を荷馬車に積んで出発した。
「留学中に騎士団の演習で、野営訓練もしたんですよ」
……いや、だから。お前はいったい何を勉強してきたんだ。
「何を心配していたのか知りませんが、僕は獲物の解体経験がありますよ。今更シルヴィーが屠殺夫の真似事をするからって、怖がったりしません」
帰りの手綱を握ってくれていたフレディが、甘栗号の歩みを止めた。甘栗号はぶふんと愛嬌のある声を出して、道草を食いはじめる。
王都まではまだ半刻はかかる。樹々に囲まれた長閑な道は、煉瓦とタイルで固められた王都と違って、心地良い風を感じた。
食肉になった豚と鶏は、藁で編んだ筵に巻かれた氷で冷やされている。多少帰りが遅くなっても、肉が傷む心配はない。
「……悪い。俺が豚を絞めてるところを見たら、気持ちが変わるんじゃないかと思って」
隣に腰掛けているのに、ちょっと遠くなった気がする。
「僕が肉屋に相応しくないって、証明しようとしたんですか?」
「そうじゃなくて、怖がって逃げてくれると思ったんだ」
「……それで、本当に僕が怖がって逃げたら、寂しくなって泣くんでしょう?」
「泣くわけないだろ」
……落ち込みはするだろうがな。
「でも、目論見は外れましたね。僕が豚の解体ができるなんて思っていなかったでしょう?」
野営訓練で猪を狩って、みんなで食べたらしい。食料は現地調達の訓練で三日間獲物にありつけず、川の水を啜って、野草を齧りながらの狩だったって……本当に、どんな目的で留学していたんだ⁉
「それに僕の出世とシルヴィーとの結婚は、なんにも関係ないですよ。あなたは僕が肉屋と縁づいたからって、仕事ができなくなるって思っていませんか?」
……結婚。
俺はともかく、若いお前が考えるのは早くないか?
「フレディはまだ若いよ」
「ええ、そうです。若造なんですよ。だから好きなひとの一言で一喜一憂して、やる気を出したり全部放り投げたくなったりするんです。僕の出世にシルヴィーは関係ないって言いましたが、あなたに誇ってもらえるためなら、いくらでも頑張れますから」
なんだよ、この男前。俺のほうがよっぽどガキじゃないか。
「ねぇ、シルヴィー。僕の運命のひと。まだ仕事を始めたばかりで頼りない僕だけど、十二年前からあなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください」
「馬鹿。血の臭いも落としきれてないのに、色気のない求婚しやがって」
「だからですよ。これはシルヴィーの仕事だし、日常じゃないですか。僕は綺麗に取り繕ったあなたじゃなくて、普段の飾らないあなたに申し込みたかったんです。何度言ったらいいんですか? 僕が好きになったのは涙脆くてお人好しの、肉屋のシルヴェスタです。豚を担ごうが牛を担ごうが、愛しさが逃げてしまうことはないんです」
真っ直ぐな言葉は、すんなりと胸の中に染みてきた。年齢も仕事も全部取っ払って、フレディは俺しか見ていない。
「シルヴィーは優しすぎて、考え込みすぎるんですよ。だから付け込みます。あなたが結婚してくれなかったら、僕は子爵家の部屋住みのまま、誰とも結婚しないで寂しく死んでいくんですよ。だからお願いです。僕と結婚して」
うちの居間にすっかり馴染んで寛いでいるキラキラしいお貴族様は、王城の宰相府に入府したばかりの前途有望な若者で、気さくに市井に降りては来るけれど本来なら雲の上の人だ。
俺は大人でフレディはまだまだ若者で、分別をつけるのは俺の役目なんだろうな。
「お前が俺を好きでいてくれているのは、よく分かった。けど、それを受け入れるかどうかは別の話だ。カッツェンの件が全部片付いたら、もううちに来るな」
胸に何かつかえたように、言葉を紡ぐ口が重い。フレディの顔が見られなくて視線を逸らす。我ながら自分らしくない。
「ふふふ」
不意にフレディが笑い声を立てた。
「僕が好きになったシルヴィーのままで、嬉しくなってしまいます。ねぇ、シルヴィー。あなた、僕のこと好きでしょう?」
はぁ?
そうかもしれないが、お前は何を根拠にそんなことを抜かしてやがるかな⁉
背けていた視線をフレディに向けると、満面の笑みとぶつかった。子どもの頃、メンチカツを頬張っていた時の、心底から嬉しいと感じている笑顔だ。
「僕のことを好きじゃないシルヴィーなら、これからも平気で自宅の居間に招き入れますよ。もう来るなって言ってくれたってことは、僕の体面とか将来の婚姻相手とか、いろんな柵を考慮してくれたってことです。つまり、僕のことが好きだから、僕の負担になりたくないんですよね?」
なんも言えねぇ。
いや、なんか言わないと、フレディの言葉を肯定していると思われてしまう。
「いや、その」
どう言えばいいのか答えを探していると、先にフレディが口を開いた。
「ふふふ。我が国の宰相閣下は、一部の人々の間では腹黒で有名なんです」
いきなりの話題転換だな。俄には信じられない。新聞では爽やかな美形で愛妻家って特集されてたし、昔会った本人もそんな感じだった。
「スニャータの騎士団長を務めておられる前王の第四王子は、脳筋で人の話を聞かないと評判なんです」
それは后子殿下からの情報と一致するな。たまに交流があるらしい。
とはいえ、それがどうした。
「僕、宰相閣下のお眼鏡にかなって宰相府入りしたんですよ。スニャータ留学中は、騎士団長に特別目をかけていただきましたしね」
「……話が見えないんだけど」
「ですからね、僕。そこそこ腹黒くて空気読まないんですよ」
どんな秘密の暴露だ⁉
「シルヴィーの気持ちが僕に傾いているのを確信したので、遠慮しないで口説きます。がんがん誘惑するので改めて覚悟し直してください」
とろりと色気を滴らせて、フレディが微笑んだ。
今まで遠慮してたのかよ⁉
唖然として口をパッカンと開けたまま、フレディを見る。チェリーブロンドと灰色がかった緑の瞳の、とても美しい男だ。
「では、そろそろお暇します。いい加減帰って、あの男の取り調べを確認しなくては」
……そうだった。コイツはまだ仕事中だった。業務中におっさんを口説いてんじゃねぇよ。
「いってきますの口づけをしたいところですが、今したら、とてもいやらしいのをしたくなりそうなので、我慢しておきますね」
爽やかに爽やかじゃない言葉を残して、フレディは去っていった。……ここはお前のうちじゃない。いってきますとかないだろう。
顔が。
熱い。
針の筵……
夕方になってもフレディの甘い声が脳裏で回っていた。
落ち着かないし、久々に酒場で一杯やるか。カッツェンもしょっ引かれたことだしな。
そう思ってやってきたジャネットの店に、何故か姉ちゃんまでいた。
子どもたちはどうした?
……たまには旦那さんに預けて飲みに行きたいんだとさ。気持ちは分かる。否定はしない。むしろ男も育児に参加するのはいいことだと思う。
だが、俺を肴に飲むのはやめてくれ。
姉ちゃんとジャネットは、ニヤニヤしながら俺を見ている。
「……金物屋の女将さん、何をどこまでジャネットの耳に入れたんだ?」
恐る恐る聞いてみた。
「アンタが付き纏い野郎に追い詰められてるのを、キラキラした貴族の美形さんが奪い返して攫っていったって」
概ね合ってはいるが、ちょいちょい女将さんの願望が入っている。
「その後はねぇ、腰を抜かしたこの馬鹿を送ってきてくれて、愛の告白よ。母さんとふたりで扉にしがみついて聞きながら、悶えちゃったわよ」
……ふたりを止めろよ、父さん。
つか、聞いてたのかよ。
「で、キラキラの美形さんって、当然フレッド様なんでしょうね」
「それは勿論」
ジャネットがにやにや笑って姉ちゃんに問いかけた。彼女はフレディにカッツェンのことを質問されているから、金物屋の女将さんの話を聞いてすぐに事情が分かったはずだ。それをわざわざ俺の前で姉ちゃんに確認するこたぁないだろう。
したり顔で頷く姉ちゃんも、だいぶ酒が回っている。……ザルの姉ちゃんがほろ酔いなんて、どれだけ飲んだんだよ。
「頑張ったわねぇ、フレッド様。あ~んな小さな頃からアンタ一筋。魚屋のエーメも八百屋のクラリサもさっさと見切りをつけてお嫁に行ったのに、ずーっとアンタしか見てないんだもん」
「エーメもクラリサも、フレディ坊ちゃんが一生懸命すぎて、自分じゃ無理だって身を引いたんでしょ」
「違うわよ。身を引いたんじゃなくて、ドン引いたのよ」
……黙れ、女ども。言えないけど。
「ふたりはさ、フレディが言ってたこと、昔から本気にしてた?」
「勿論よ」
「当たり前じゃない」
そうなのか?
「馬鹿みたいに口を開けないのよ。馬鹿弟」
「イリス姉さん。馬鹿みたいじゃなくて、そのまんま馬鹿よ」
「そうね」
魔女どもめ。子どもの頃、悪戯をすると母さんに『魔女に食べられるよ』なんて脅されたもんだが、あんな御伽噺の魔女なんかより、目の前のふたりのほうがよっぽど怖い。
「アンタ、何か変なこと、考えてないでしょうね?」
「いや、なんにも」
魔女は勘が鋭い。
「シルヴィーは腹芸ができないんだから、しらばっくれても無駄よ」
姉ちゃんが手を伸ばして、頬をむぎゅっと引っ張ってくる。地味に痛い。
「で、アンタはどうすんの? 今、他に好きな人がいるわけじゃないんでしょ……ていうか、だいぶ挙動不審なんだけど、子どもの頃、エルの前に立った時のアンタを思い出すわよ」
どんな俺だよ。
「肝心なことは何も言わないで、黙って軒下の蜘蛛の巣を払ってる姿よ」
肝心なことは何も言わない、か。
玉砕が怖くて怯んでたんだよなぁ。我ながらヘタれたガキだった。成人までにはなんとかしようと決意していたのに、あっさり王様に掻っ攫われたのは、もういい思い出だ。
「……相談相手が、姉ちゃんとジャネットしかいないのが地味にキツい」
「何よ、あたしたちじゃ不満だって言うの?」
「いや、同じ男の立場の意見が欲しい」
地元商工会の若衆やら、子どもの頃に通った学問所で一緒だったまだ繋がりが切れていない奴やら、友達がいないわけじゃない。なんならたまに一緒に飲むし。
それがなぁ、そいつらには『面倒見のいい頼れる兄貴』だと思われている節があって、前に飲みの席で『一発コマしてやれば、どんな相手もシルヴィーにイチコロっす』とか抜かしやがった。
付き合ってもいない相手にそんなマネできるか⁉
だいたい結婚して子どももいる奴から、そんなことを言われるなんて思わなかったさ。酒の席のノリとはいえ、つい『お前の奥さんや娘さんが、そんな男に引っ掛かったらどうするんだ』と説教をかましてしまった。何故か『兄貴……』と恍惚とされたがな!
そう姉ちゃんとジャネットに説明すると、ふたりは長々と深いため息を漏らす。何か言いたいことがあるのか?
「アンタ、惚れた相手は大事にしたい男だったのね。そんで、『触ってくれないのは好きじゃないからなのね』なんて言われて浮気されるんだわ」
「ジャニー、そこまで辿り着かないから。このヘタれた馬鹿弟は」
「まさか姉さん、シルヴィーって童貞じゃないわよね?」
「流石にそれはないでしょ! …………って、シルヴィー?」
黙れ、魔女ども!
「それは、まぁ、ごめんね?」
「うんと、その、ごめんね?」
ふたりは視線を彷徨わせながら、取り繕うように言った。せめて笑い飛ばせ。いや、こういうことを笑い飛ばすようなヒトデナシじゃないのは分かっているけど、居た堪れないだろう。
「……そういう店に行けとは言わないけど、なんか複雑」
「姉ちゃん、そういうのは金払ってするもんじゃなくて、こうだと思った人とするもんだろう?」
あー、小っ恥ずかしい。なんで実の姉と幼馴染みの前で、こんな話をしてるんだよ。
手にしたジョッキの中身を呷って、カウンターに叩きつけるように置く。ちなみに一杯目だ。麦酒で酔える俺は金がかからなくていい。
「なんていうか、さぁ」
頭を抱えて突っ伏す。
「身分とかどうしてもってなったら、どうにでもなると思うんだ。なにしろエスタークは后子様がエルだもんな」
パン屋の倅が王様の嫁さんになれる国だ。まぁ、エルの甥っ子が王子様だったっていう、強烈な後ろ盾があるわけだけど。
俺たち商店街の面子が知らないお貴族様のアレコレもあったらしいものの、そこら辺はエルは曖昧に笑って隠している。
「とにかく、子爵様も奥様も気さくな方だし、兄上方も度々店に足を運んでくれるし、俺が肉屋の倅だからって馬鹿にするような人たちじゃないんだよ」
あー、なんか眠くなってきた。ぐちぐちと取り留めのない言葉を吐き出しながら、頬をカウンターに擦り付ける。
「イリス姉さん、フレッド様のご家族、お店に来てるの?」
「ご贔屓いただいてるわ……って、まさかの家族ぐるみで大歓迎?」
魔女どもが何か言っているな。眠くて理解が追いつかないけど。
「でもなぁ、せっかく留学から帰ってきて、宰相府なんて立派な職場で、王太子殿下の側近にまで上り詰めたのに……俺の嫁になったら、肉屋のカミさんだぞぅ? 店に誇りを持っちゃいるけど、差がありすぎないか?」
「え? アンタ、フレッド様を嫁にもらう前提なの?」
「……帰ってきたフレッド様、とても嫁側には見えないんだけど」
「そうなんだよなぁ。肉屋の嫁さんに収まるより、もっと広い世界で活躍してほしいんだよなぁ」
「なんか話が噛み合ってないけど、フレッド様と馬鹿弟が結婚しても、コイツ一生、童貞なんだなってことは理解したわ」
姉ちゃんの声が通り過ぎる。
疲れているのかなぁ。一杯の麦酒に酔っ払って、俺はうとうとと微睡んだ。
§
なんか昨夜は、ジャネットのところでグダグダして寝たっぽい。なのに気が付くと、自宅の寝台に寝ていたのが疑問だ。姉ちゃんが俺を担げるわけもないし、できたとしても放っておかれるだろう。
酔っ払いつつも、自力で歩いて帰ってきたのか?
カーテンから差し込む光は、いつもの時間に目が覚めたことを教えてくれる。今朝は街外れの牧場に行く予定だ。豚を一頭と鶏を二十羽引き取ってこないとならない。
もそもそと起き出して、寝台の下に足を下ろそうとし……おわぁあぁぁッ‼
「なんで俺の部屋にフレディが⁉ お貴族様を床に寝かせて、俺は寝台でぐうすか寝てるとか、どうなってるんだ⁉ ていうか、何が起こってるんだ⁉」
いや、マジでないから!
毛布にくるまって丸くなっていたフレディは、俺の声がうるさかったのか目を開けた。
「朝からシルヴィーの顔が見られるなんて、役得ですね。おぶってきた甲斐がありました」
身を起こしたとはいえ床に座ったまま、朝にふさわしい清々しさでのたまうのは、どう見てもフレディだ。くっそ、朝から美しいな⁉
待てよ、コイツなんて言った?
「……俺を家まで連れて帰ってくれたの、お前?」
「はい」
やっぱりかぁ……
「カッツェンが捕縛されたので、ジャネット姉さんのところで祝杯でも上げているかと足を運んでみたんです」
そうしたら、潰れた俺を姉ちゃんに押し付けられたのか……。マジですまん。
「悪いな、重かっただろう?」
「アランやフェンネル王子より軽いですよ。本当はおぶるより抱き上げたかったんですけど、途中で目が覚めたらシルヴィーが恥ずかしがると思って、我慢しました」
配慮に感謝しよう。抱っこ姿を他人に目撃されていたら羞恥で死ねる。
フェンネル王子とやらには会ったことがないが、確かに先日久しぶりに会ったアラン坊ちゃんは、岩のような大男に育っていた。あの図体に坊ちゃんはないな。彼を背負うくらいなら、俺のほうが断然軽いのは理解できる。だが、どういう局面に陥ったらアラン様をおぶる事態になるのだろうか?
「スニャータで騎士団の訓練に参加してたんですよ。アランとフェンネル王子は全力で打ち合って最後はぶっ倒れるので、同じ訓練に参加した連中なら、全員彼らを担げますよ」
本当にお前、何を勉強しに行っていたんだ?
「友好国とは言え他国の貴族を騎士団の訓練に参加させるなんて、有り得るのか?」
変に武力をつけられても困るし、騎士団の内情なんて、絶対に漏らしちゃいけないんじゃないのか?
「そこは、まぁ。フェンネル王子が相手ですから」
会ったこともない王子が心配になってきた。エルがさんざっぱら脳筋って繰り返していたのがよく分かる話だ。
まぁ、よその国のことは、肉屋の倅には関係ない。
それよりも、コイツはいつまで床に座っている気だ?
「床はやめて、椅子でも寝台でも座れよ」
「いえ、シルヴィーが部屋を出るまでこうしています」
「やっぱりお前、硬い床で眠ってどこか痛めたんじゃないか? 一緒に寝台に潜り込んでもよかったのに」
俺の寝台はそこそこデカい。子供部屋の名残だ。俺は小さな寝台で寝ていたけど、姉三人はこの寝台で一緒に眠っていたからな。
「駄目ですよ、シルヴィー。そんな不用意なことを言ってはいけません。それに格好つけさせてくださいよ。実は僕、好きな人の部屋で朝を迎えるなんて初めてで、色々のっぴきならないんです。しばらくすると落ち着くと思うので、少し外してもらえると嬉しいです」
…………
毛布をどけない理由は分かった……
爽やかに微笑んでいるけど、全然爽やかじゃない。健康な若い男なら当然のことだが、この綺麗な男がそうなるだなんて、想像したこともなかった!
コイツ、本当にもう子どもじゃないんだ。
って、呆然としている場合じゃない。
「ご、ごめんなぁッ。おっさんなんで、気ぃ利かなくてぇッ!」
半分転げるように部屋を飛び出す。声がひっくり返って、阿呆丸出しだ。背中からクスクスとフレディの笑い声が追いかけてくる。年下のくせに、その余裕が憎たらしい!
とりあえず、飯だ、飯。朝はしっかり食っとかないとな。
母さんが台所でガチャガチャやっている。
「あら、おはよう。駄目じゃない、フレディ坊ちゃんに迷惑かけちゃ」
「いや、この場合、迷惑をかけたのは姉ちゃんじゃないか?」
貴族の坊ちゃんに、酔っ払いを押し付けられる図太さが怖い。
「いいえ、ちっとも迷惑じゃありませんよ」
澄ました表情のフレディがやってくる。
「おはようございます。お義母様」
あれ? 俺の母さんを呼ぶニュアンスがちょっと違わないか? 今まで『シルヴィーのお母様』とか言ってたよな? 気のせいか。
「あらあら。おはようございます。坊ちゃん。客間を用意できなくてごめんなさいねぇ」
空き部屋は姉ちゃんたちが子連れで店番に来てくれた時のために、子どものもので溢れている。床で寝かせるのとぬいぐるみに塗れて寝かせるのと、どっちがマシかって話だ。
俺を空き部屋に突っ込んで、フレディに俺の寝台を貸すって手段もあっただろうに。おっさんがぬいぐるみに塗れるのはキモいが、見るのは精々母さんくらいだろう。
いや、過ぎたことだ。次からはそうすりゃいい。
「シルヴィー、父さんを呼んできて。フレディ坊ちゃんも一緒にどうぞ。お口汚しですけどね」
「お口汚しなんてとんでもない。とてもいい匂いがします」
父さんを呼びに行っている間、ふたりは和気藹々と会話を弾ませていた。
フレディは、というよりリューイの学友たちは、エルの仕込みで台所に立つのを恥と思わない。お貴族様に何をやらせているんだとか思うのに、エル曰く、食べるものの大切さを感じることが大切なんだそうだ。
母さんを手伝ってテーブルに皿を並べるフレディを見て、少し気が遠くなった。……馴染んでいる。
コイツ、本気で肉屋の嫁になる気なのか?
「……シルヴィー、店のことは気にしなくていいからな。もともとイリスが継ぐはずだったんだし、好きにするといい」
俺と一緒に並んで突っ立っていた父さんが、ぽつりと言った。うちの三人の姉ちゃんたち、年子なんだよ。俺だけ下の姉ちゃんから七つ離れているんだ。一番上のイリスとは九つ違い。彼女が跡取り娘の自覚をした頃に、弟である俺が生まれたわけだ。
店のことは心配していないさ。
ただ、フレディの出世に響くのが怖い。
なんとか円満に諦めてくれないものか。
お前なんか嫌いだ、二度と来るなって言ってやればいいのか? でも嘘はつきたくないんだよなぁ。
現実を見せれば、何かが変わるんだろうか?
まだ薄暗いうちの朝食は、肉屋を営む我が家の日常だった。商いをしていない家は朝食のパンに焼き立てを買いに行くんだけど、うちは前日の晩のうちに買っておく。焼き上がりの時間よりも朝食が早いからだ。
エルに美味しい温め方を習ったから、困っていない。
朝食を終えてフレディと部屋に向かう。
「いっぺんお屋敷に帰って、寝直す? それとも俺の寝台で寝とく?」
仕事に行くんなら着替えるか? なら、お屋敷に帰ったほうがいいんじゃないか。俺は出かけるが。
「今日は、休みなんです。シルヴィーの仕事を見せてもらってもいいですか?」
「…………あんまり、おすすめしないぞ」
まぁ、綺麗じゃないところを見せて幻滅させればいいか? でも嫌だな。コイツに汚いとか野蛮だとか言われたらちょっと凹みそうだ。
情緒不安定というやつか?
幻滅させたほうがいいのかもしれないという気持ちと、そんなのは嫌だと駄々を捏ねる気持ちがごちゃ混ぜになって、胃のあたりがどんよりと重い。
やたら上機嫌なフレディと並んで馬借屋へ向かう。お貴族様の服は汚れると困るので、彼には父さんの服を着せた。
俺の服は縦も横も入らなかった。父さんの服は、腹周りに合わせて購入したものを捲り上げて着たので、やや丈が足りないものの妥協できている。……胸周りはちょうどいいけど、腰はガバガバだな。
今日は姉ちゃんたちに店を任せて、街外れの農場に向かう。
馬借屋に預けている荷馬車に馬を繋いでいる横で、フレディは馬の鼻面を撫でていた。荷馬車を牽くのにぴったりな、ずんぐりむっくりした背の低い馬だ。動物好きは昔から変わらないらしい。
「いい子ですね、働く馬だ」
貴族の馬車を牽く美しい馬とは見目がまるで違うが愛嬌のあるその馬は、嫌がらずにフレディの手を受け入れている。俺はいつもこの子を借りる。名前は甘栗号だ。俺がつけたんじゃない。馬借屋の娘が店の馬に食べ物の名前をつけるんだ。
「荷馬車はシルヴィーのうちのもので、馬は借りるんですね」
「店は通りに面してるから、厩とかないしな」
庶民は遠出する時や大きな荷物を運ぶ時、馬借屋から馬と荷車を組み合わせて借りる。うちの荷馬車が自前なのは、運ぶ荷が生肉だからだ。運んでいる途中で血がついたり匂いがついたりするため、他の客に貸せない。だから自前で用意したものを、金を払って管理してもらっていた。
ふたり並んで馭者台に座る。
「農場で豚一頭と鶏二十羽を仕入れるんだ」
「その農場は、いろんな種類の家畜を飼っているの?」
色々飼うと効率悪いんだよな。もっともな疑問だろう。
「これから行くのは仲買みたいな農場なんだ。専門の畜産農家から少しずつ買って、俺たちみたいな肉屋に卸してる。地方の畜産農家で潰してから運んだんじゃ、肉は腐っちゃうだろ? かと言って、生きたままの家畜を王都の真ん中に運び込むのは現実的じゃない。糞尿を垂れ流すし、屠殺の汚れは疫病の元だ」
「勉強になります」
フレディが真面目な表情で頷いた。
一刻(約二時間)ほどの道のりは、天気もいいし風は爽やかだし風景が長閑だ。王都から少し出るだけで石畳は消え、木々の緑が眩い。
農場に着かなきゃいいなんて考えていたのに、ずんぐりむっくりの甘栗号はカポカポと歩いて仕事を全うした。目的地に着いてしまい、いよいよ気が滅入る。
「シルヴィー、どうしたんですか? 具合が悪いんですか?」
「いや……別に……」
本当に、別になんでもないんだ。
まぁいい。これが肉屋の仕事だ。これで幻滅されたら、それはそれでよし。
「おう、シルヴィー。今日はえらい男前の兄ちゃんと一緒だな。嫁さん候補かい?」
「馬鹿なこと言ってんじゃねぇ」
農場の若大将が甘栗号の蹄の音に気付いて納屋から出てきた。アラン様ばりに縦も横もデカいが、むさ苦しさはコイツのほうが百倍上だ。
「馬鹿なことなのか? そりゃ安心したよ。おメェは俺んとこの嫁さん候補だからよ!」
ガハハと笑って若大将が言う。コイツはいつもこんなふざけたことを言いやがる。
「シルヴィーはこちらの方に求婚されているのですか?」
フレディの表情が固くなった。
「まさか。コイツは俺がここに来る度にこんなこと言ってるけど、屠殺夫を増やしたいだけさ。なかなか人が集まらないんだ。ついでに嫁さんにも逃げられた」
そうなんだよなぁ。若大将の元嫁さんは、野蛮だとか不潔だとか言って、逃げるように出ていったらしいんだよ。家畜に勝手に名前をつけていて『私の可愛いマリーを殺すなんて、あなたは悪魔よ!』と言い放ったとかなんとか。
「……それは、なんとも言えない奥様をお迎えになりましたね。その方も、生まれてから一度も肉を口にしたことがなかったわけじゃないのでしょうに」
フレディが気の毒げに言う。
それは俺も思った。そもそも家畜の仲買屋に嫁に来てそれはない。家業を知らずに結婚したわけでもあるまいに。
人間の口に入る肉や魚は、どこかで誰かが息の根を止めたものだ。
「誰のおかげで、汚れずに日々の糧を手に入れられるんでしょうね。ここは国王陛下の座す王都ですから、家畜を飼ったり狩をせずとも手に入れることはできますが、エスタークにだって夫が狩ってきた兎を妻が絞めるのが当たり前の地方はありますよ」
お貴族様のフレディがそんなふうに言ってくれるなんて、思ってもみなかった。
「シルヴィー、なんて表情をしてるんですか」
フレディの指が頬をくすぐる。こそばゆくて手のひらごと押さえると、うっかり自分の頬に押し付けるみたいになり、慌てて振り払った。
「前時代の貴族社会では、娯楽のために狩をしたんですよ。誰が一番大きな獲物を手に入れるのか、より多くの獲物を仕留めたのは誰か。食べるためじゃないんです。見栄と優位性の訴求のためだけに生き物の生命を刈り取るのが社会的地位の確立だ、と信じる愚か者が大勢いたのですよ」
難しすぎて意味がよく分からない。
「屠殺は意味のない殺傷行為ではないってことです」
よく分からんが、俺は慰められているらしい。
「だいたい、后子殿下に躾けられた僕たちが、家畜を絞めるのを生業にしている方々を、蔑ろにできるわけないじゃないですか。魚は切り身で泳いでないし、蜜柑は一房ごとに別れてないし、パンだってそのまま木に実ってるわけじゃないんですよ」
エルに引率されて、商店街を見学して歩いていたフレディを思い出す。そういや王太子のご学友たちは、エルに指導されて自分で料理もするんだった。
「天井から吊るされた豚だって見てるんですから、シルヴィーの仕事は全部分かってるつもりですよ」
また、フレディの手のひらが頬を覆う。今度は両方だった。
「泣きそうな表情をしてるから、泣かないおまじないです」
額にそっと唇が落とされて、俺は呆然とフレディを見上げた。余裕めいた穏やかな瞳が見下ろしてくる。灰色がかった緑の瞳は、熱に潤んでいるように見えた。
「あー、ごほんごほん。仲がいいのは分かったから、兄ちゃんや、俺を威嚇するんじゃない。……アンタが嫁候補じゃないのは、よぉく理解した」
ぎゃあ、若大将が見ていた! 見ていなかったらいいわけじゃないけども‼
アタフタして押しのけると、フレディは抵抗なく離れる。ちくしょう、余裕ぶりやがって。いつもは頑として動かないくせに。クスクス笑ってんじゃねぇ。
「早いとこ始めないと帰りが遅くなっちまうぜ。支度はしてあるから、兄ちゃんはここで待ってるなり見学なり、好きにしろや」
若大将に肩を落としながら言われて、フレディは満面の笑みで見学を申し出たのだった。
結局フレディは見学どころか手伝いまでした。見事な解体の腕前に、若大将とここのじいちゃんが職場に勧誘しはじめる。それをにこやかに断って、内臓を抜いた豚と羽をむしって血抜きした鶏を荷馬車に積んで出発した。
「留学中に騎士団の演習で、野営訓練もしたんですよ」
……いや、だから。お前はいったい何を勉強してきたんだ。
「何を心配していたのか知りませんが、僕は獲物の解体経験がありますよ。今更シルヴィーが屠殺夫の真似事をするからって、怖がったりしません」
帰りの手綱を握ってくれていたフレディが、甘栗号の歩みを止めた。甘栗号はぶふんと愛嬌のある声を出して、道草を食いはじめる。
王都まではまだ半刻はかかる。樹々に囲まれた長閑な道は、煉瓦とタイルで固められた王都と違って、心地良い風を感じた。
食肉になった豚と鶏は、藁で編んだ筵に巻かれた氷で冷やされている。多少帰りが遅くなっても、肉が傷む心配はない。
「……悪い。俺が豚を絞めてるところを見たら、気持ちが変わるんじゃないかと思って」
隣に腰掛けているのに、ちょっと遠くなった気がする。
「僕が肉屋に相応しくないって、証明しようとしたんですか?」
「そうじゃなくて、怖がって逃げてくれると思ったんだ」
「……それで、本当に僕が怖がって逃げたら、寂しくなって泣くんでしょう?」
「泣くわけないだろ」
……落ち込みはするだろうがな。
「でも、目論見は外れましたね。僕が豚の解体ができるなんて思っていなかったでしょう?」
野営訓練で猪を狩って、みんなで食べたらしい。食料は現地調達の訓練で三日間獲物にありつけず、川の水を啜って、野草を齧りながらの狩だったって……本当に、どんな目的で留学していたんだ⁉
「それに僕の出世とシルヴィーとの結婚は、なんにも関係ないですよ。あなたは僕が肉屋と縁づいたからって、仕事ができなくなるって思っていませんか?」
……結婚。
俺はともかく、若いお前が考えるのは早くないか?
「フレディはまだ若いよ」
「ええ、そうです。若造なんですよ。だから好きなひとの一言で一喜一憂して、やる気を出したり全部放り投げたくなったりするんです。僕の出世にシルヴィーは関係ないって言いましたが、あなたに誇ってもらえるためなら、いくらでも頑張れますから」
なんだよ、この男前。俺のほうがよっぽどガキじゃないか。
「ねぇ、シルヴィー。僕の運命のひと。まだ仕事を始めたばかりで頼りない僕だけど、十二年前からあなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください」
「馬鹿。血の臭いも落としきれてないのに、色気のない求婚しやがって」
「だからですよ。これはシルヴィーの仕事だし、日常じゃないですか。僕は綺麗に取り繕ったあなたじゃなくて、普段の飾らないあなたに申し込みたかったんです。何度言ったらいいんですか? 僕が好きになったのは涙脆くてお人好しの、肉屋のシルヴェスタです。豚を担ごうが牛を担ごうが、愛しさが逃げてしまうことはないんです」
真っ直ぐな言葉は、すんなりと胸の中に染みてきた。年齢も仕事も全部取っ払って、フレディは俺しか見ていない。
「シルヴィーは優しすぎて、考え込みすぎるんですよ。だから付け込みます。あなたが結婚してくれなかったら、僕は子爵家の部屋住みのまま、誰とも結婚しないで寂しく死んでいくんですよ。だからお願いです。僕と結婚して」
応援ありがとうございます!
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