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懐かしの日々
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文化11(1814)年1月29日、長谷川家の嫡男であった平蔵宣茂が亡くなった。風邪をこじらせての、実にあっけない最期であった。
そうなると必然的にその弟である平蔵が新たな嫡男ということになる。当然、長谷川家の者たちは皆、そう思っていた。当主である宣義ですらそうであった。
だがとうの本人とも言うべき平蔵にはその気はさらさらなかった。
「冗談じゃねぇや。あんな家、誰が帰るかよっ!」
平蔵はそうのたもうたものだった。確かに嫡男になるということは畢竟、長谷川家に戻ることを意味する。
しかし平蔵はそもそも、長谷川家が、いや、父の宣義を嫌って家出をしたのだ。そうであれば今さら実家に帰るつもりはなかった。
「だが、それじゃあ長谷川家は…」
潰れちまうぜ…、金四郎は平蔵と差しで呑みつつ、そう示唆した。平蔵より愚痴を聞かされたからだ。
「あんな家、潰れちまった方が良いんだよ」
平蔵はそう放言する始末だった。
「だがそれじゃあ…、平蔵…、お爺様は悲しむんじゃねぇか?」
金四郎にしては珍しく諭すようにそう言った。するとこれにはさしもの平蔵も顔を歪めさせた。何しろ、「お爺様」は平蔵の謂わば、
「急所」
と言えたからだ。
「なら…、余所から養子でも迎えりゃ良いじゃねぇか…」
平蔵はそう言うと、盃に酒を注いで一気に呑み干した。最早、やけ酒であり、お世辞にも良い呑み方とは言えなかったが、しかし、金四郎には一々、注意する気にもなれなかった。
金四郎はその代わりに更に諭した。
「それでも同じじゃねぇか?」
「同じって、何だよ」
「余所から養子を迎えりゃ、確かに家は存続するだろうが、やはり、お爺様は…、お爺様の血を…、長谷川平蔵の血を脈々と受け継いでいるお前に継いで欲しい…、そう思うんじゃねぇか?」
無論、「お爺様」の長谷川平蔵はもうこの世には亡い。つまりは、
「草葉の陰で…」
とそういう意味であった。
そしてそれはやはり平蔵の…、今の平蔵の「急所」であり、平蔵の顔を歪ませたものである。
「お前…、どうしてそこまで俺を家に帰らせようとする?」
平蔵は流石に不自然なものを感じたらしく、そう勘を働かせた。流石に勘働きの方も、「お爺様」譲りと言ったところか。
金四郎がそう指摘すると、平蔵は実に嬉しげな表情を見せたものであるが、それも束の間、「さては誰かに…、用人にでも頼まれたか?」と尋ねた。
「ああ。その通りだ…」
平蔵の勘働き通りであったので、金四郎はあっさりと白旗を掲げた。
実は長谷川家の用人がどこをどう辿ってきたものか、平蔵と親しくしている金四郎を探り当てたのだ。その用人から金四郎は平蔵に対して家に戻ってくれるよう説得して欲しいと、そう頼まれたのであった。
「こんなもんまで押し付けられちまったからな…」
金四郎はそう言うと、懐中より厚みのある紫の袱紗を取り出し、それを平蔵へと押し付けた。
「何でぇ…、お前のもんだろ…」
平蔵は怪訝な表情を浮かべた。
「お前から返しといてくれや…」
金四郎は微笑みを浮かべてそう告げ、平蔵をして、「お前…」と言わせたきり、絶句させた。
それから平蔵は金四郎をまじまじ見つめたものだった。平蔵は金四郎の顔からある種の覚悟を感じ取ったようだ。
どうあっても俺を家に戻らせる覚悟のようだ…、平蔵はそうと察すると深々と溜息をつくことで白旗とした。
「わぁったよ…、でも、これはお前の金だ。好きにしな…」
平蔵はそう言うと、金四郎に紫の袱紗を押し返した。
「いや…」
金四郎とて、この紫の袱紗、もとい金を頂戴する気は更々なかった。
この金を頂戴してしまって、手前が金の誘惑に負けて、平蔵を説得しようとした…、そう思えてならなかったからだ。いや、実際その通りなのだが、金四郎なりのせめてもの意地、もとい「かっこつけ」であった。
すると平蔵もそうと察すると、結局、この金だ一夜限りの大尽遊び、一夜にして吉原で使い果たした。
さて、「別れの宴」を終えると平蔵は金四郎に対しても家に戻ることをすすめた。いや、命じた。
「俺だけ戻るなんて不公平だろ?」
確かに平蔵の言う通りだと、金四郎は家に戻ることを約束した。
すると金四郎はそれから平蔵にある頼みをした。
「もう一度、俺と撲り合っちゃ貰えねぇか?」
金四郎なりのせめてものけじめ…、遊びを終えて家に帰る、そのためのけじめとしての謂わば、
「通過儀礼」
のようなものであった。すると平蔵は、「実は俺から言おうとしてたことだぜ」とそう言うや、白い歯を覗かせた。
その晩、金四郎と平蔵は以前に撲り合った河原で「再戦」を果たした。結局、またしても金四郎が一方的にやられたが、それでも金四郎も平蔵に一発、お返しすることができた。いや、それは平蔵が金四郎のためにあえて一発、貰ってくれたようなものだった。
そして金四郎と平蔵は撲り合いを終えると、大いに笑いあったものであった。それはまるで。
「雄叫び」
そのものであった。来るべき時が来た…、それは今までの日々に別れを告げることに他ならず、それゆえの慟哭のようなものであったのやも知れぬ。
金四郎が平蔵の安っぽい挑発に乗せられる格好で思わず手を出してしまい、金四郎が、そして恐らくは平蔵にしてもそうだろうが、ひどく懐かしい感触に襲われたのはこのような事情があったためであった。
そうなると必然的にその弟である平蔵が新たな嫡男ということになる。当然、長谷川家の者たちは皆、そう思っていた。当主である宣義ですらそうであった。
だがとうの本人とも言うべき平蔵にはその気はさらさらなかった。
「冗談じゃねぇや。あんな家、誰が帰るかよっ!」
平蔵はそうのたもうたものだった。確かに嫡男になるということは畢竟、長谷川家に戻ることを意味する。
しかし平蔵はそもそも、長谷川家が、いや、父の宣義を嫌って家出をしたのだ。そうであれば今さら実家に帰るつもりはなかった。
「だが、それじゃあ長谷川家は…」
潰れちまうぜ…、金四郎は平蔵と差しで呑みつつ、そう示唆した。平蔵より愚痴を聞かされたからだ。
「あんな家、潰れちまった方が良いんだよ」
平蔵はそう放言する始末だった。
「だがそれじゃあ…、平蔵…、お爺様は悲しむんじゃねぇか?」
金四郎にしては珍しく諭すようにそう言った。するとこれにはさしもの平蔵も顔を歪めさせた。何しろ、「お爺様」は平蔵の謂わば、
「急所」
と言えたからだ。
「なら…、余所から養子でも迎えりゃ良いじゃねぇか…」
平蔵はそう言うと、盃に酒を注いで一気に呑み干した。最早、やけ酒であり、お世辞にも良い呑み方とは言えなかったが、しかし、金四郎には一々、注意する気にもなれなかった。
金四郎はその代わりに更に諭した。
「それでも同じじゃねぇか?」
「同じって、何だよ」
「余所から養子を迎えりゃ、確かに家は存続するだろうが、やはり、お爺様は…、お爺様の血を…、長谷川平蔵の血を脈々と受け継いでいるお前に継いで欲しい…、そう思うんじゃねぇか?」
無論、「お爺様」の長谷川平蔵はもうこの世には亡い。つまりは、
「草葉の陰で…」
とそういう意味であった。
そしてそれはやはり平蔵の…、今の平蔵の「急所」であり、平蔵の顔を歪ませたものである。
「お前…、どうしてそこまで俺を家に帰らせようとする?」
平蔵は流石に不自然なものを感じたらしく、そう勘を働かせた。流石に勘働きの方も、「お爺様」譲りと言ったところか。
金四郎がそう指摘すると、平蔵は実に嬉しげな表情を見せたものであるが、それも束の間、「さては誰かに…、用人にでも頼まれたか?」と尋ねた。
「ああ。その通りだ…」
平蔵の勘働き通りであったので、金四郎はあっさりと白旗を掲げた。
実は長谷川家の用人がどこをどう辿ってきたものか、平蔵と親しくしている金四郎を探り当てたのだ。その用人から金四郎は平蔵に対して家に戻ってくれるよう説得して欲しいと、そう頼まれたのであった。
「こんなもんまで押し付けられちまったからな…」
金四郎はそう言うと、懐中より厚みのある紫の袱紗を取り出し、それを平蔵へと押し付けた。
「何でぇ…、お前のもんだろ…」
平蔵は怪訝な表情を浮かべた。
「お前から返しといてくれや…」
金四郎は微笑みを浮かべてそう告げ、平蔵をして、「お前…」と言わせたきり、絶句させた。
それから平蔵は金四郎をまじまじ見つめたものだった。平蔵は金四郎の顔からある種の覚悟を感じ取ったようだ。
どうあっても俺を家に戻らせる覚悟のようだ…、平蔵はそうと察すると深々と溜息をつくことで白旗とした。
「わぁったよ…、でも、これはお前の金だ。好きにしな…」
平蔵はそう言うと、金四郎に紫の袱紗を押し返した。
「いや…」
金四郎とて、この紫の袱紗、もとい金を頂戴する気は更々なかった。
この金を頂戴してしまって、手前が金の誘惑に負けて、平蔵を説得しようとした…、そう思えてならなかったからだ。いや、実際その通りなのだが、金四郎なりのせめてもの意地、もとい「かっこつけ」であった。
すると平蔵もそうと察すると、結局、この金だ一夜限りの大尽遊び、一夜にして吉原で使い果たした。
さて、「別れの宴」を終えると平蔵は金四郎に対しても家に戻ることをすすめた。いや、命じた。
「俺だけ戻るなんて不公平だろ?」
確かに平蔵の言う通りだと、金四郎は家に戻ることを約束した。
すると金四郎はそれから平蔵にある頼みをした。
「もう一度、俺と撲り合っちゃ貰えねぇか?」
金四郎なりのせめてものけじめ…、遊びを終えて家に帰る、そのためのけじめとしての謂わば、
「通過儀礼」
のようなものであった。すると平蔵は、「実は俺から言おうとしてたことだぜ」とそう言うや、白い歯を覗かせた。
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そして金四郎と平蔵は撲り合いを終えると、大いに笑いあったものであった。それはまるで。
「雄叫び」
そのものであった。来るべき時が来た…、それは今までの日々に別れを告げることに他ならず、それゆえの慟哭のようなものであったのやも知れぬ。
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