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側用人の水野忠友から奏者番の田沼意知が若年寄に加わる可能性があることを伝えられた酒井忠休は全身を硬直させる。

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 側用人そばようにん詰所つめしょ中奥なかおくの中でもとりわけ奥にあり、笹之間ささのまと接していた。

 山﨑やまざき長巴ちょうは忠友ただとも忠休ただよしの二人をその側用人そばようにん詰所つめしょの出入口の障子しょうじの前まで案内すると、当然のごとく、長巴ちょうはがその障子しょうじを開けた。

 そして長巴ちょうははその出入口の障子しょうじを開けるなり、出入口前のわき廊下ろうかにてひかえ、忠友ただとも忠休ただよしの二人がその出入口から詰所つめしょへと入るのを廊下ろうかに両手をいてこれをむかえ、そうして二人が詰所つめしょの中へと入ったのを見計みはからうや、長巴ちょうはは頭を上げて障子しょうじを閉めると、己がピタリと閉じたその障子しょうじを背にして再びひかえた。よもやいないとは思うが、立ち聞きするような不埒ふらちな者がいないか、それに目を光らせるためであった。

 さて、詰所つめしょの中へと入った忠友ただとも忠休ただよしはと言うと、忠休ただよしさき下座げざ着座ちゃくざしたことから忠友ただともはホッとした様子で上座かみざ着座ちゃくざした。

 忠友ただともはやはり忠休ただよしに対する「い目」から、忠休ただよし上座かみざをすすめるべきかと、なやんでいたのだ。

 だが如何いか忠休ただよしに対して「い目」があるからと言って…、忠休ただよしに対して「不義理ふぎり」を働いたからと言って、側用人そばようにんたる己がそこまで忠休ただよしに対して下手したてに出ることには忠友ただとも抵抗ていこうを覚えていたのだ。

 一方、忠休ただよしはと言うと、やはり忠友ただとものその「不義理ふぎり」を水に流したとは言え、それでもまだ若干じゃっかん、割り切れないものを感じていたものの、それでもだからと言ってこの詰所つめしょあるじ…、それどころかこの中奥なかおくそのもののあるじと言っても過言かごんではない忠友ただともをさしおいて上座かみざに座るほど無分別むふんべつではなかった。

 こうして下座げざ忠休ただよしさきに座ってくれたことから忠友ただともも何の気兼きがねもなしに上座かみざに座って忠休ただよしと向かい合うや、

「されば若年寄がことぞ…」

 そう切り出したのであった。

「若年寄がこと、と?」

 忠休ただよしがそう問い返すや、忠友ただともうなずいた。

「そは一体…」

 かさねて問う忠休ただよしに対して忠友ただともは、「されば人事ぞ…」と答えた。

「そは…、若年寄が新たに一人、補任ぶにんされると?」

 忠休ただよしがそうかんを働かせるや、忠友ただともうなずいた。

 いや、それはわざわざかんなどと呼ぶべきものでもなかったやも知れぬ。

 それと言うのも今の若年寄は…、ここ本丸ほんまるの若年寄はこの忠休ただよしふくめて4人しかそんせず、それゆえに、

「もう一人…」

 若年寄を加えるべきではないかと、それが忠休ただよしら若年寄のわば、

共通きょうつう認識にんしき…」

 であった。それと言うのも若年寄の定員ていいんは老中のそれと同じく5人というのが仕来しきたりであったからだ。

 いや、勿論もちろん仕来しきたりに過ぎず、それゆえ4人でも一向いっこうかまわないわけで、現に本丸ほんまる老中はそれよりも少ない3人しかいなかった。

 すなわち、今日、将軍・家治の三縁山さんえんざんへの参拝さんぱいに従った首座しゅざ松平まつだいら康福やすよし久世くぜ廣明ひろあきら、そして留守るすあずかった田沼たぬま意次おきつぐの3人しかいなかった。

 それでも若年寄の場合、老中とはいささか事情が異なった。

 それと言うのも若年寄は老中に表向おもてむき重職じゅうしょくであり、老中となら幕閣ばっかくに数えられてはいるものの、実際には、

「老中のパシリ…」

 その色合いがかった。若年寄は老中の命を受けて実務じつむにない、それゆえ若年寄に細々こまごまとした実務じつむを命じる立場の老中は3人でも別段べつだん支障ししょうはなかった。老中はあくまで大きな方向性を示すだけで十分じゅうぶんであったからだ。

 いや、それに今、忠休ただよしの目の前に座る側用人そばようにん忠友ただとも側用人そばようにんとしての仕事のかたわら、老中としての仕事も手伝っており、何より意次おきつぐが一人で老中二人分の仕事をこなしていたので、実際には今の老中は5人いるも同然であった。

 だが若年寄には生憎あいにくと、意次おきつぐのような二人分の仕事をこなす能力のある者はおらず、あくまで4人の若年寄がいるに過ぎず、忠休ただよし激務げきむなのもそのためであった。

 あと1人…、意次おきつぐのような一人で二人分の仕事をこなせるような者をと、そんな贅沢ぜいたくは言わない、一人分の仕事をこなせる者で良いので、若年寄をあと1人、増やして欲しいというのが今いる若年寄の、それもとりわけ激務げきむである筆頭ひっとうたる勝手かって御用ごようがかりつとめる忠休ただよしの、

いつわらざる心情しんじょう…」

 であったのだ。

 忠休ただよしにはそのような切実せつじつな事情があったためにぐにそうかんを働かせることができたのであった。

 さて、忠休ただよしは己のその「かん」に忠友ただともうなずいたのを見て取るや、

「されば奏者番そうじゃばんあるいはその筆頭ひっとうたる寺社奉行より?」

 忠休ただよしは続けざま、忠友ただともにそう問うた。そしてそれは最早もはやかんなどではなく当然のことであった。

 それと言うのも若年寄に取り立てられるのは譜代ふだい大名にとっての出世の登竜門とうりゅうもん的ポストである奏者番そうじゃばんしくはその奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社奉行と決まっていたからだ。これは仕来しきたりをえて事実上の規則のようなものであった。

 現に忠休ただよし奏者番そうじゃばんから若年寄に取り立てられ、他の3人にしても奏者番そうじゃばんから、あるいは奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうである寺社奉行から若年寄へと取り立てられた。

「うむ。されば奏者番そうじゃばんより…」

 忠友ただともはなぜか答えにくそうにそう答え、忠休ただよし忠友ただとものその様子に内心ないしん、首をかしげた。奏者番そうじゃばんならば何ら問題はないからだ。いや、むしろ当然とさえ言えたからだ。

 ともあれ忠休ただよし忠友ただともの態度に内心ないしん不審ふしんねんを覚えたものの、とりあえずそれはわきいて、若年寄の候補となり得る奏者番そうじゃばんそらんじてみせた。

奏者番そうじゃばんの中で一番の古株ふるかぶ牧野まきの遠江守とおとうみのかみ康満やすみつなれば…、何しろ今から21年前の宝暦12(1762)年に奏者番そうじゃばんにんじられましたゆえ…」

 忠休ただよしはまずは一番の古株ふるかぶから切り出したものの、しかしぐに頭を振った。

「いや、牧野まきの遠江とおとうみは既に50を過ぎており、何より21年もの長きにわたり、奏者番そうじゃばんのままと申すのは…」

 それほど才覚さいかくがないことのあかしであろう…、忠休ただよしはそう示唆しさした。つまりは到底とうてい、若年寄を任せるわけにはゆかないということだ。一人で一人分の仕事もこなせない可能性た高いからだ。それではかえって足手あしでまといになるだけだ。

「さればいで古株ふるかぶは9年前の安永3(1774)年ににんじられし松平まつだいら玄蕃頭げんばのかみ忠福ただよしか…、松平まつだいら玄蕃げんば牧野まきの遠江とおとうみとはちごうていまだ40代、その上、中々なかなか才覚さいかくもあり…」

 これでは牧野まきの康満やすみつには才覚さいかくがないと言ったも同然どうぜんであった。

あるいは同じく安永3(1774)年の、それも松平まつだいら玄蕃げんばと同じ日に…、12月22日ににんじられし秋元あきもと但馬守たじまのかみ永朝つねともか…、秋元あきもと但馬たじまもまた、40代なれば、その上、やはり中々なかなか才覚さいかくの持ち主とか…」

 うんうんと、忠休ただよしは己の言葉にうなずいていた。

 忠友ただともはそんな忠休ただよし様子ようすの当たりにして、いよいよもって若年寄の候補者を答えにくくなった。

 が答えないわけにはゆかず…、だからこそこうしてわざわざ忠休ただよし中奥なかおくにある己の詰所つめしょへと招いたわけで…、そこで忠友ただともついに腹を決めた。

「それが…、田沼たぬま山城守やましろのかみ意知おきともなのだ…」

 忠友ただともがそう答えた途端とたん忠休ただよし全身ぜんしん硬直こうちょくさせた。それはまるで時間が止まったかのようであり、忠友ただともは実際、時間が止まったのではないかと、そう錯覚さっかくしたほどであった。
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