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酒井忠休は側用人の水野忠友より大事な話があると告げられ、中奥にある側用人の詰所へと誘われる。

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 翌日、10月14日は六代将軍・家宣いえのぶ命日めいにちに当たり、ゆえに将軍・家治は家宣いえのぶまつられている三縁山さんえんざんもうでた。三縁山さんえんざんとは増上寺ぞうじょうじであり、徳川将軍家の菩提寺ぼだいじの一つとして数えられ、先祖せんぞうやまうのも将軍としての仕事の一つ、それも大事な仕事の一つであった。

 無論むろん、将軍がたった一人でおまいりするわけではなかった。将軍・家治の両隣りょうどなりには御三家の筆頭ひっとうである尾張おわり宗睦むねちか嫡子ちゃくしである治行はるゆき水戸みと治保はるもり格好かっこう陪拝ばいはい…、将軍・家治と共にもうでたのであった。

 ちなみに尾張おわり当主とうしゅ宗睦むねちかはこの時、その国許くにもとである尾張おわりにおり、ゆえにこの江戸におらず、そのわりに宗睦むねちか嫡子ちゃくしである治行はるゆき陪拝ばいはい…、将軍・家治と共に参拝さんぱいすることが許されたのであった。これは家治なりの配慮はいりょであった。

 さて、その将軍・家治とそれに尾張おわり治行はるゆき水戸みと治保はるもり真後まうしろには老中筆頭ひっとうである首座しゅざ松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしと同じく老中の久世くぜ大和守やまとのかみ廣明ひろあきら、それに側用人そばようにん水野みずの出羽守でわのかみ忠友ただともと若年寄筆頭ひっとうである勝手かって御用ごようがかり忠休ただよし、同じく若年寄の加納かのう遠江守とおとうみのかみ久堅ひさかたとそして御側衆おそばしゅう筆頭ひっとうである御側御用取次おそばごようとりつぎ本郷ほんごう伊勢守いせのかみ泰行やすゆきとヒラの御側衆おそばしゅうである津田つだ日向守ひゅうがのかみ信之のぶゆき豫参よさん…、したがったのであった。

 忠友ただとも忠崇ただたかの件で…、忠休ただよしからそのそく忠崇ただたか詰衆つめしゅうなみとして菊之間きくのま縁頬えんがわ入りをたさせてやりたいとのその陳情ちんじょう御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば越前守えちぜんのかみ正明まさあきらと共に受けておきながら、側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎ閣議かくぎにおいて稲葉いなば正明まさあきらがそれをはかるや、同じく御側御用取次おそばごようとりつぎ横田よこた筑後守ちくごのかみ準松のりとしとその子分こぶんである本郷ほんごう泰行やすゆき猛反対もうはんたいしたために、忠友ただとももあっさりと態度たいどひるがえして忠崇ただたかの「デビュー」に反対に回った…、その件で忠休ただよしい目があり、こともあろうにその忠休ただよしが己の真後まうしろを歩いていたので、忠友ただとも始終しじゅう、落ち着かない様子を見せた。

 それとは正反対なのが忠休ただよしに対してはまったい目のない、つまりは堂々どうどう忠崇ただたかの「デビュー」に反対した本郷ほんごう泰行やすゆきであり、その態度もまた堂々どうどうたるものであった。

 さて、将軍・家治一行が参拝さんぱいを終え、ふたたび江戸城へともどるや、忠休ただよし忠友ただともに呼び止められた。

石見いわみ殿、ちとよろしいかのう…」

 忠休ただよし久堅ひさかたと共に若年寄の執務しつむ室であるつぎ御用ごよう部屋へと戻ろうとしたところで背後はいごから忠友ただともにそう呼び止められたのであった。

「何で御座ござるか?」

 忠休ただよしはそれに対してかえりもせずに応じて、つぎ御用ごよう部屋へと入ろうとしたので、忠友ただともはいよいよもってあわてた様子ようすで、

「いや、石見いわみ殿の耳に是非ぜひ、入れておきたい話があるのだ…」

 早口はやくちでそう告げたのであった。

 すると忠休ただよしとなりにいた久堅ひさかた流石さすが忠休ただよしのその態度たいどを見かねたらしく、

酒井さかい様…」

 そう口をはさんだので、忠休ただよし流石さすが大人おとなげないことをしたと反省はんせいするや、ようやくにして忠友ただともへと振り返った。

身共みどもの耳に入れたきお話と?」

 忠休ただよしは振り返るなり、忠友ただともにそう聞き返した。

然様さよう…」

一体いったい、何で御座ござろう…」

「いや、ここではちと…」

 場所を変えたい…、忠友ただともはそう示唆しさした。つまりは余人よじんには聞かれたくない話ということらしかった。

「いや、なれど身共みどもにはこれから仕事が御座ござるゆえ…」

 これは別段べつだん、意地悪でも何でもなく、まぎれもない事実であった。ことに忠休ただよしは若年寄の筆頭ひっとうである勝手かって御用ごようがかりであり、これは老中の筆頭ひっとうである首座しゅざさらにその次席じせきにして財政ざいせいにな勝手かってがかり相当そうとうする。つまりは首座しゅざ勝手かってがかりねているようなものであり、財政ざいせいになうと共に他の若年寄の仕事全般ぜんぱんにも目を配らなければならなかったのだ。

 それだけにその勝手かって御用ごようがかりつとめる忠休ただよしは他の若年寄にくらべて激務げきむであったのだ。

 それでもやはりと言うべきか、久堅ひさかたたすぶねを出した。

「されば身共みども適当てきとうに…」

 取り成しておくゆえに、酒井さかい様はどうぞ水野みずの様の元へと…、久堅ひさかた忠休ただよしに対してそう示唆しさしたのであった。

 久堅ひさかたにここまでの厚意こういを示されては、忠休ただよしとしても、

「場所を変えて話をしたい…」

 そう示唆しさする忠友ただとも無碍むげには出来なかった。

 いや、おかざりとは言え、仮にも相手は老中さえもおそれる側用人そばようにんなのである。そうであれば筆頭ひっとうとは言え、若年寄に過ぎない忠休ただよしないがしろにして良い相手ではなかった。

 忠休ただよしもその程度ていどのことは理解していたので、この際、そく忠崇ただたかのことは水に流して忠友ただともに従うことにした。

「されば、どこか場所を変えまして…」

 忠休ただよし忠友ただともに対してそう応ずるや、忠友ただともはホッとした様子をかべたかと思うと、

「されば身共みども詰所つめしょにて…」

 忠休ただよしにそうげたことから、これには忠休ただよしも驚かされた。

 それと言うのも側用人そばようにん詰所つめしょと言えば中奥なかおくにあるからだ。

 中奥なかおくはここ表向おもてむき…、表の政庁せいちょうに対してわば、

「将軍のプライベートエリア…」

 とでも呼ぶべき「エリア」であり、そうである以上、表向おもてむきの諸役人はみだりにその中奥なかおくへと立ち入ることが出来ず、それは例え、表向おもてむきのトップである老中さえもその例外ではなく、中奥なかおくを支配する、さしずめ、

「最高長官…」

 とでもしょうされる側用人そばようにんあるいは御側御用取次おそばごようとりつぎの許しがなければ老中とて中奥なかおくに立ち入ることは出来なかったのだ。

 それゆえ若年寄に過ぎない忠休ただよし勿論もちろん、それら側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎの許しがなければ中奥なかおくへと立ち入ることは出来ない。

 だがうらかえせば側用人そばようにんや、あるいは御側御用取次おそばごようとりつぎの許しさえあれば中奥なかおくに立ち入ることが出来、そして忠休ただよしはその側用人そばようにんたる忠友ただともからその詰所つめしょに…、中奥なかおくにある側用人そばようにんたる己の詰所つめしょにて話をしようと、そうさそわれていたのだ。

 そうであれば何ら遠慮えんりょはいらなかった。

 こうして忠休ただよし忠友ただともしたがい、中奥なかおくへと足を踏み入れたのであった。

 表向おもてむき中奥なかおくとの間は時斗之間とけいのまという部屋で区切られており、その時斗之間とけいのまめている坊主ぼうずしゅう所謂いわゆる

時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅう…」

 彼らが表向おもてむき中奥なかおくとの通行に、とりわけ表向おもてむきの人間が中奥なかおくへと立ち入らぬよう、それに目を光らせていたのであった。

 それゆえこれでもし忠休ただよしが一人でその時斗之間とけいのまに姿を見せ、そしてその時斗之間とけいのまを抜けて中奥なかおくへと立ち入ろうとしたならば、彼ら時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅう制止せいしを食らっていたに違いない。

 だが今の忠休ただよし中奥なかおく役人、それも中奥なかおくの「最高長官」たる側用人そばようにん水野みずの忠友ただともに付きしたがっており、ゆえに時斗之間とけいのま坊主ぼうずしゅうにしても心得こころえたもので、誰も見咎みとがめる者はいなかった。

 そんな中、「水野みずの様…」と声をかける坊主ぼうずがいた。ただし、彼ら目を光らせている坊主ぼうずではなく、忠友ただとも附属ふぞくする坊主ぼうずであった。

 表向おもてむきのトップである老中や若年寄には大名や旗本、それに諸役人らとの間でその面会や、あるいは文書の取次とりつぎに従事じゅうじする同朋頭どうぼうがしらという坊主ぼうず附属ふぞくしているように、中奥なかおくの「最高長官」である側用人そばようにん御側御用取次おそばごようとりつぎにもまた、同朋頭どうぼうがしら相当そうとうする、

時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうず…」

 その者が附属ふぞくしており、今、「水野みずの様…」と忠友ただともに声をかけたのは他ならぬ側用人そばようにんたる忠友ただとも附属ふぞくするその時斗之間とけいのま肝煎きもいり坊主ぼうず山﨑やまざき長巴ちょうはであった。

「おお、長巴ちょうはか。良いところに参った。詰所つめしょまで先立さきだちをたのむぞ」

 忠友ただともは目の前にてひかえるその山﨑やまざき長巴ちょうはにそう命ずるや、長巴ちょうはも、

かしこまりまして御座ござりまする…」

 そう応ずるや、平伏へいふくしてその青々あおあおとした頭を忠友ただともとそれに隣にて立つ忠休ただよしに向けたのであった。

 それから長巴ちょうはは頭を上げると、忠友ただとも忠休ただよしの前にたち側用人そばようにん詰所つめしょまで先立さきだち…、案内役をつとめたのであった。
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