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深谷式部盛朝は松平正淳に続いて水上興正までが一橋治済によって返り討ちに遭ったために、倫子や萬壽姫、そして家基の死の探索に乗り出すことにする。
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「されば…、式部は止めませなんだので?美濃が行動を…」
意次はそのような疑問を呈した。
確かに、正淳の遺志を継いで治済と…、倫子や萬壽姫、果ては家基まで手にかけた治済と対決、もとい刺し違えるつもりだと、そのような覚悟を興正から打ち明けられた盛朝としては、そのような興正の、言葉は悪いが、
「匹夫の勇…」
そのような行動を諫める筈ではないかと、意次には疑問に思えてならなかった。
すると家治もそのような意次の疑問も尤もであると理解を示し、「無論、止めたそうな…」と即答するや、その上で、「なれど…」と続けた。
「最前申した通り、興正は正淳が最期の言葉をまともに聞いてやらなんだことをいたく後悔しており…、本来なれば家基が御側御用取次として、家基に近侍せし己こそが治済と刺し違えねばならぬところ、正淳に先を越されてしもうたと…」
「美濃は式部に然様な…、命を的に…」
死ぬ覚悟を見せたのかと、意次はそう問うや、家治は頷いた。
「されば興正より然様なる覚悟を見せ付けられれば、盛朝としてもそれ以上は興正を止められず…、なれど興正としてもむざむざと犬死するつもりはないとも申したそうな…」
「されば…、仮に己も美濃と同様、死を遂げし暁にはそれは一橋殿が畏れ多くも御台様や姫君様、そして大納言様を害し奉りし下手人である何よりの証となるゆえに、式部には探索をと…、美濃は斯様に式部に頼みましたので?」
意次がそう勘を働かせると、家治は感心したように頷いた。意次のその勘の良さに心底、感心していたのだ。
「されば寸分違わぬものよ…、いや、その前に興正は盛朝に対して、治済にはったりを利かせるとも申したそうな…」
家治はどこか懐かしむようにそう言った。
すると今度は意知が勘を働かせる番であった。
「畏れ多くも御台様や姫君様、そして大納言様を害し奉りし確たる証を握っておりますゆえに…、その上、松平若狭までもその口を封ぜしことも含めて畏れ多くも上様に言上仕る所存…、さればその前に御三卿として、武士らしく潔くされますことを…、とでも申すつもりであると、斯様に申しましたので?」
意知は興正が盛朝に告げた「ハッタリ」の中身についてそう勘を働かせた。
「正しくその通りぞ…」
家治は意知の勘を首肯すると、
「なれどその結果、興正まで命を落とすことと相成り…」
実に痛ましそうな顔をした。
「されば興正は3月3日の上巳に登城せし折、同じく登城せし治済を呼び止めては然様にはったりを利かせたそうな…」
家基が亡くなった、いや、殺された安永8(1779)年、その年の3月3日の上巳の節句の総登城日にはしかし、いつものように将軍・家治は総登城に及んだ群臣に会うことはなく、ただ、御三家と御三卿、それに加賀前田家の当主と溜之間詰には対面し、外の群臣については老中が将軍・家治に代わって応対した。
その際、御三卿は月次御礼と同じく中奥の御座之間にて将軍・家治と対面を果たしたわけだが、その折、西之丸の御側御用取次であった興正もまた、家基の葬送の打ち合わせのため、将軍たる家治に仕える側用人や御側御用取次と会う必要から中奥への入ることが許され、そこで興正はその機を捉えて、廊下にて治済を呼び止めてその旨、もとい「ハッタリ」を利かせたそうな。
「流石に、正淳のように直に治済が館へと討ち入ることは憚られたらしい…」
正淳は直に一橋館へと討ち入り、その結果、その日に返り討ちに遭ったことを考えれば、興正がそうはしなかったのも当然と言えよう。少なくともその場にて返り討ちに遭う「リスク」は回避できる。
或いは治済に不意打ちを喰らわせるのが目当てだったやも知れぬ。正淳と同様、館へと乗り込んでも、対面を果たすまでの間、治済に「心の準備」を与えるだけだからだ。
尤も、結果として興正までが返り討ちに遭うことになってしまったわけだが。
「されば一週間後の3月10日に興正まだが正淳の後を追うようにして…」
家治はそこで言葉を区切ると、唇を噛み締めた。
「…それを、美濃が死を受けまして、深谷式部は探索に乗り出しましたので?」
意知は暫く間を置いた後、家治にそう尋ね、家治を頷かせた。
意次はそのような疑問を呈した。
確かに、正淳の遺志を継いで治済と…、倫子や萬壽姫、果ては家基まで手にかけた治済と対決、もとい刺し違えるつもりだと、そのような覚悟を興正から打ち明けられた盛朝としては、そのような興正の、言葉は悪いが、
「匹夫の勇…」
そのような行動を諫める筈ではないかと、意次には疑問に思えてならなかった。
すると家治もそのような意次の疑問も尤もであると理解を示し、「無論、止めたそうな…」と即答するや、その上で、「なれど…」と続けた。
「最前申した通り、興正は正淳が最期の言葉をまともに聞いてやらなんだことをいたく後悔しており…、本来なれば家基が御側御用取次として、家基に近侍せし己こそが治済と刺し違えねばならぬところ、正淳に先を越されてしもうたと…」
「美濃は式部に然様な…、命を的に…」
死ぬ覚悟を見せたのかと、意次はそう問うや、家治は頷いた。
「されば興正より然様なる覚悟を見せ付けられれば、盛朝としてもそれ以上は興正を止められず…、なれど興正としてもむざむざと犬死するつもりはないとも申したそうな…」
「されば…、仮に己も美濃と同様、死を遂げし暁にはそれは一橋殿が畏れ多くも御台様や姫君様、そして大納言様を害し奉りし下手人である何よりの証となるゆえに、式部には探索をと…、美濃は斯様に式部に頼みましたので?」
意次がそう勘を働かせると、家治は感心したように頷いた。意次のその勘の良さに心底、感心していたのだ。
「されば寸分違わぬものよ…、いや、その前に興正は盛朝に対して、治済にはったりを利かせるとも申したそうな…」
家治はどこか懐かしむようにそう言った。
すると今度は意知が勘を働かせる番であった。
「畏れ多くも御台様や姫君様、そして大納言様を害し奉りし確たる証を握っておりますゆえに…、その上、松平若狭までもその口を封ぜしことも含めて畏れ多くも上様に言上仕る所存…、さればその前に御三卿として、武士らしく潔くされますことを…、とでも申すつもりであると、斯様に申しましたので?」
意知は興正が盛朝に告げた「ハッタリ」の中身についてそう勘を働かせた。
「正しくその通りぞ…」
家治は意知の勘を首肯すると、
「なれどその結果、興正まで命を落とすことと相成り…」
実に痛ましそうな顔をした。
「されば興正は3月3日の上巳に登城せし折、同じく登城せし治済を呼び止めては然様にはったりを利かせたそうな…」
家基が亡くなった、いや、殺された安永8(1779)年、その年の3月3日の上巳の節句の総登城日にはしかし、いつものように将軍・家治は総登城に及んだ群臣に会うことはなく、ただ、御三家と御三卿、それに加賀前田家の当主と溜之間詰には対面し、外の群臣については老中が将軍・家治に代わって応対した。
その際、御三卿は月次御礼と同じく中奥の御座之間にて将軍・家治と対面を果たしたわけだが、その折、西之丸の御側御用取次であった興正もまた、家基の葬送の打ち合わせのため、将軍たる家治に仕える側用人や御側御用取次と会う必要から中奥への入ることが許され、そこで興正はその機を捉えて、廊下にて治済を呼び止めてその旨、もとい「ハッタリ」を利かせたそうな。
「流石に、正淳のように直に治済が館へと討ち入ることは憚られたらしい…」
正淳は直に一橋館へと討ち入り、その結果、その日に返り討ちに遭ったことを考えれば、興正がそうはしなかったのも当然と言えよう。少なくともその場にて返り討ちに遭う「リスク」は回避できる。
或いは治済に不意打ちを喰らわせるのが目当てだったやも知れぬ。正淳と同様、館へと乗り込んでも、対面を果たすまでの間、治済に「心の準備」を与えるだけだからだ。
尤も、結果として興正までが返り討ちに遭うことになってしまったわけだが。
「されば一週間後の3月10日に興正まだが正淳の後を追うようにして…」
家治はそこで言葉を区切ると、唇を噛み締めた。
「…それを、美濃が死を受けまして、深谷式部は探索に乗り出しましたので?」
意知は暫く間を置いた後、家治にそう尋ね、家治を頷かせた。
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