105 / 119
安永のトリカブト殺人事件 ~一橋治済の「反撃」、異なる証言~
しおりを挟む
翌日の22日、2月22日に一橋治済は家老の田沼意致を伴い、登城すると、御側御用取次の稲葉正明を介して将軍・家治に面会を求めた。
治済は御三卿の詰所である御控座敷に稲葉正明を呼付け、そこで正明に将軍・家治への面会希望を伝えたことから、やはり御三卿としてその場に陪席していた清水重好も、
「それなれば…」
治済への対抗心から、治済と共に将軍・家治に逢いたい旨、正明に告げたのだ。
実を言えば、これこそが治済の「狙い」であった。
重好の前で治済が正明に対して、将軍・家治への「取次」を、即ち、面会希望を伝えれば、重好も必ずや、治済への対抗心から、治済と共に―、治済と肩を並べて家治に逢いたいと、そう言出すに違いないと、治済はそう読んでいた。
一方、正明も治済のそんな胸中には気付いていながらも、素知らぬ顔で、重好と一緒の面会でも構わぬかと、糺した。
すると治済も構わぬと応えたことから、正明は家治の許へと急ぎ、治済と重好、両名の面会希望を取次いだ。
かくして治済と重好は御座之間において、
「肩を並べて…」
家治への面会が叶った。
尤も、重好の場合、治済への対抗心から、つまりは、
「治済が兄・家治に逢《あ》うなら自分も…」
その様な短絡的な動機から家治に逢いたいと願ったに過ぎない。
それ故、重好には家治に逢って話すべきことなど何もなかったので、家治を前にして戸惑ってしまった。
一方、治済にはその様な重好の胸中が手に取る様に分かり、重好のその「幼児性」に内心、苦笑した。
ともあれ治済には重好とは異なり、家治に具体的な用件があったので、重好と肩を並べて家治に面会するや、挨拶もそこそこ、早速、本題に入った。
「上様におかせられましては、この治済めが畏れ多くも大納言様の暗殺を企んでいるものと、左様、御疑いあそばされ、そこで家老として上様腹心の水谷但馬をこの治済の許へと、監視の為に送込まれたのでござりましょうが、なれどその結果や如何に?」
治済は前夜の水谷勝富への厭味と同じく、家治にもそう厭味をぶつけた。
「この治済めに何か御不審の点でもありましたでしょうか…」
治済のその問いかけに、家治は何も応えることが出来なかった。
成程、治済には不審な点は、それこそ家基の暗殺を企むその兆候すらも窺えなかった。
それは水谷勝富からの報告からも明らかであった。何しろ治済は寝起きまで水谷勝富と、それに田沼意致とも共にしていた。
つまりは治済は水谷勝富と田沼意致の2人の家老の徹底的な監視下に置かれていた訳で、勝富は治済には不審な点は見受けられないと、家治にそう報告していた。
そんな中、家基が昨日、2月21日の鷹狩りの最中、それも昼、御殿山の花見において斃れたとあらば、少なくとも家基が斃れた件について治済は無実、一切、関与していないと判断せざるを得ない。
ましてや、家基が斃れた、正に元凶、諸悪の根源とも言うべき件の御殿山の花見の場には一橋家所縁の者は誰一人としていなかった。
となれば、治済は昨日、家基が斃れたこととは無関係―、治済が誰かを使嗾して家基に害を為したと、そう考えることは出来なかった。
「その、大納言様が御斃れあそばされた御殿山の花見でござりまするが、一橋家…、この治済が所縁の者は一人としておらず、翻って、清水家、或いは田沼家所縁の者で占められていたとか…」
治済は横目で重好を眺めつつ、家治にそう言上した。
それは家基が斃れたのは清水重好、或いは田沼意次の所為、もっと言えば重好、或いは意次が家基に一服盛らせたのではないかと、そう示唆するものであった。
治済は重好が居並ぶ前で家治に斯かる示唆をしたく、そこで態々、重好の前で御側御用取次の稲葉正明に対して家治への面会の取次ぎを頼んだのであった。
そうすれば重好のその幼児性丸出しの性格から考えて、
「自分も…」
治済と共に家治に逢いたいと、そう言出すに違いないと、治済はそう読切っていたからだ。
結果は見事に的中、治済は重好を隣に控えさせ、家治に対して、重好か、或いは意次が家基に一服盛ったのではないかと、そう示唆したのであった。
当然、重好は猛反撥した。
「待たれぃっ、それではまるでこの重好が大納言様に一服盛らせた様に聞こえるがっ!?」
重好は隣の治済の方へと顔を向け、そう声を張上げた。
「仮に大納言様が病の所為で斃れたのでなければ、一服盛られたものと考えざるを得ず、その場合、花見に扈従せし者が、とりわけ花見の為に弁当を誂えし者が下手人と考えざるを得ず…、聞けば…、大目付の松平對馬が申すところによれば、大納言様におかせられては御膳所の東海寺にて用意せし昼餉には、即ち、御膳奉行の毒見を済ませし昼餉には手をつけずに、隣の御殿山へと御出向きになられ、そこで御膳番小納戸の用意せし、裏を返さば御膳奉行の毒見は済ませておらぬ御重を口にした後に斃れられたとか…、そしてその御膳番の小納戸でござるが、清水家と所縁のありし…、宮内卿殿が従弟の三浦左膳や、或いは田沼家と所縁のありし…、田沼主殿が姪を娶りし石谷次郎左衛門、それに同じく清水家所縁の石場弾正や田沼家所縁の坪内五郎左衛門らが用意せしものとのことなれば…」
重好が三浦左膳や石場弾正を使嗾して、或いは意次が石谷次郎左衛門や坪内五郎左衛門を同じく使嗾して御重に一服盛付け、それを家基に服ませたのではないかと、治済はそうも示唆したのであった。
重好は当然、猛反撥した。
家治も、「滅多なことを口に致すな」と治済を窘めた。
「家基が毒を服ませられたなどと…、確たる証はないのだからな…」
家治はそう付加えた。
「確かに…、さればその、三浦左膳や石谷次郎左衛門らが用意せし御重を検めれば、答えは自ずと明らかになるかと…」
治済がそう提案すると、家治は困った表情を浮かべた。そこで治済は、
「上様…、如何為されましたので?」
さも、家治の困惑の表情が分からぬといった様子で家治にそう声をかけた。
「それがの…、その、三浦左膳らが用意せし御重が見当たらぬのだ…」
「見当たらぬとは、またどういう次第で?」
「いや、言葉通りの意味ぞ…、されば御重が消えてしむたのだ…」
「そは…、三浦左膳らが片付けたとか…」
「いや… 三浦左膳や石谷次郎左衛門らにしても、御重を片付けし覚えはないそうな…」
家治は昨晩、御殿山での花見の一件につき、自ら「関係者」を聴取した。
その中には御重を用意した御膳番小納戸の三浦左膳と石谷次郎左衛門、それに石場弾正と坪内五郎左衛門、この4人も勿論、含まれていた。
彼等は勿論、御重には何ら問題はなかったと、家治に愁訴嘆願に及んだ。
治済は家治からそう聞かされると思わず苦笑した。
「まぁ…、仮に何か問題があったとしても、ありましたとは、素直に申上げるとも思えず…」
治済がそう告げると、家治は実に苦々しげな表情を覗かせた。治済の言う通りだからだ。
「これで仮に、御重が現場に残されておりましたならば、御重には真実、問題がなかったのか否か、それを確めることも叶い申したものを…、肝心要の御重が忽然と消えたとならば…、それも揃いも揃うて、4人が用意せし御重が同時に消えたとならば、最早、確かめ様もなく…」
治済は三浦左膳らが故意に御重を処分したのではないかと、そう示唆した。
治済のその示唆に対して家治はと言うと、真実に以て癪ではあったが、認めざるを得なかった。
無論、三浦左膳や石谷次郎左衛門らが故意に御重に毒を仕込んだなどとは、家治も思っていなかった。
だがその御重が家基が斃れた現場から消えたとなれば、如何に家治が三浦左膳らを信じていたとしても、外の者は、殊に治済はそうはゆくまい。
「やはり御重に何か…、毒でも仕込まれていたのではあるまいか…」
治済にそう疑わせたとしても致し方あるまい。
それでも家治は治済に反論を試みた。
「そもそも御殿山での花見だが、西之丸御側御用取次の小笠原信喜が発案にて…」
「ほう…、この治済、大目付の松平對馬よりは、御膳所にて西之丸小納戸頭取の新見正則がまず、花見を大納言様へと御勧め申上げ、それに相役の押田岑勝や、それに平御側の大久保忠翰らが同調したと、斯様に伺いましたが…」
「いや、確かにその通りなのだが、その前日に小笠原信喜が新見正則に対して、家基に花見を勧めて貰いたいと打診致し、更に大久保忠翰と押田岑勝には新見正則に同調して貰いたいと…」
「成程…」
「されば御重についても…」
「やはり…、小笠原信喜が三浦左膳らに御重を…、花見用の御重を作る様に命じた、と?」
治済が先回りして尋ねると、家治も「左様…」と首肯した。
「して、その事、小笠原信喜は認めましたので?」
治済がその点を糺すと、家治は再び渋い表情となった。
治済は家治のその渋い表情を見て取るや、
「どうやら…、小笠原信喜は斯かる事実はないと、否定したものと御見受け致しましたが…」
家治にそう水を向け、家治を頷かせた。
「それでは…、誰が真実の花見の主催者か、それは分からぬ、ということでござりまするな?」
治済にそう尋ねられた家治は不承不承、頷いた。やはり癪では、それも大いに癪ではあったが、その通りだからだ。
「されば…、今、確かなことは、三浦左膳らが御重を用意、その御重を大納言様が御召上がりになられた途端、人事不省に陥り、そしてその御重が何故か現場から忽然と消えてしまった…、この3点でござりまするな?」
治済がそう纏めると、家治は慌てた口調で、「あっ、否、暫くっ」と治済を制した。
「家基はどうやら御重には手をつけてはいないとのこと…」
「御重を御召上がりにはなられていない、と?」
「左様…、されば家基は御重を番士らへと…」
家基は花見の警備に当たっていた、つまりは家基の警備をしていた番士らの為にと、三浦左膳らが拵えた御重から料理を大皿へと取分けると、番士らの許へと運んだそうな。
そして家基は番士らに料理を勧めている内に斃れたのだと、家治は治済に打明けた。
「ほう…、されば番士らは皆、大納言様は御重を御召上がりにはなられていないと、左様、口を揃えて証言致しておるのでござりまするな?」
治済はそうではないことを知りながら、しかし表面ではあくまで素知らぬ顔でそう確かめる様に尋ねた。
すると家治は治済が予期した通り、もうこれで何度目になろうか、表情を曇らせた。
「上様のその御様子…、御尊顔から察するに、大納言様におかせられては御重を御召上がりになられたと、左様、証言せし者もおるやに拝察仕りまするが…」
治済がそう糺すと、家治はこれにも不承不承、頷いて見せた。
治済が察した通り、家基は三浦左膳らが用意した御重に手をつけた―、料理を口にしたと、そう証言する者もあった。
即ち、西之丸書院番士の宇田川平五郎と西之丸供番として昨日の家基の鷹狩りに扈従した本丸書院番士の上原金蔵、それに番士ではなく、それよりも格上の従六位布衣役である西之丸目附の小野次郎右衛門の3人が家治の聴取に対してそう証言した。
ちなみにこの3人は小笠原信喜が家基を西之丸へと運ばせようとした際、真先に信喜に食ってかかり、力尽くでそれを阻止しようとした水原源之助を取押さえた者たちでもある。
「ほう…、西之丸目附までが左様に証言した次第で…」
家基はやはり三浦左膳らが用意した御重に手を付けた―、その証言には重みが、つまりは信用性があると、治済は示唆した。
家治もその点は認めざるを得なかった。
しかも、家基が三浦左膳らが用意した御重に手を付けたと、そう証言しているのはこの3人だけではなかったのだ。
「されば…」
家治は実に言い難そうにそう切出すと、外の「証言者」についても治済に打明けた。
即ち、西之丸小姓組番からは、
「叔父と実弟が清水家臣の長田兵右衛門正續」
「妹が清水館に仕える清水又三郎時親」
この2人が、また西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従した本丸小姓組番からは、
「家基附の老女・初崎の養女を娶っている大田善大夫保好」
「弟が清水家臣の橋本喜平太敬賢」
「清水家老・本多昌忠の娘を娶る島崎一郎右衛門が実父、一郎兵衛忠要が実の甥である松平三郎左衛門康淳」
同じく本丸書院番からは、
「末娘を清水家臣に嫁がせている阿部大膳正明」
その外、番士ではないが、家基の為に茣蓙を持参した納戸番の越智小十郎と鷹匠の仙波市左衛門永昌が同じく、
「家基は三浦左膳らが用意した御重に手をつけた…」
家治の聴取にそう証言していたのだ。
ちなみに越智小十郎は清水用人・小笠原守惟の娘を娶っており、一方、仙波市左衛門に至ってはそもそも清水家臣であった。
仙波市左衛門は鷹匠としての腕を重好に買われ、清水家に召抱えられた。つまりは抱入であった。
御三卿の陪臣、それも抱入の者を将軍、或いは次期将軍の鷹狩りに扈従させるなど極めて異例のことであり、小笠原信喜の進言による。
これが同じ御三卿でも一橋家の陪臣であったならば、家治も家基の鷹狩りに扈従させるなど凡そ許さなかったであろう。
だが可愛い弟でもある重好に仕える鷹匠ともなれば話は別であった。
小笠原信喜もその点を見越して家治に対して、
「大納言様の御放鷹に扈従させましては…」
そう進言に及んだのであった。
すると家治もこれを認め、そこで弟の重好の同意を取付けて特に家基の鷹狩りに仙波市左衛門を扈従させた次第であった。
斯かる経緯から仙波市左衛門も花見の宴の相伴に預かることが許された。
その仙波市左衛門までが、
「家基は三浦左膳らが用意した御重に手を付けた…」
そう証言している以上、この証言は重く見なければならない。
治済は御三卿の詰所である御控座敷に稲葉正明を呼付け、そこで正明に将軍・家治への面会希望を伝えたことから、やはり御三卿としてその場に陪席していた清水重好も、
「それなれば…」
治済への対抗心から、治済と共に将軍・家治に逢いたい旨、正明に告げたのだ。
実を言えば、これこそが治済の「狙い」であった。
重好の前で治済が正明に対して、将軍・家治への「取次」を、即ち、面会希望を伝えれば、重好も必ずや、治済への対抗心から、治済と共に―、治済と肩を並べて家治に逢いたいと、そう言出すに違いないと、治済はそう読んでいた。
一方、正明も治済のそんな胸中には気付いていながらも、素知らぬ顔で、重好と一緒の面会でも構わぬかと、糺した。
すると治済も構わぬと応えたことから、正明は家治の許へと急ぎ、治済と重好、両名の面会希望を取次いだ。
かくして治済と重好は御座之間において、
「肩を並べて…」
家治への面会が叶った。
尤も、重好の場合、治済への対抗心から、つまりは、
「治済が兄・家治に逢《あ》うなら自分も…」
その様な短絡的な動機から家治に逢いたいと願ったに過ぎない。
それ故、重好には家治に逢って話すべきことなど何もなかったので、家治を前にして戸惑ってしまった。
一方、治済にはその様な重好の胸中が手に取る様に分かり、重好のその「幼児性」に内心、苦笑した。
ともあれ治済には重好とは異なり、家治に具体的な用件があったので、重好と肩を並べて家治に面会するや、挨拶もそこそこ、早速、本題に入った。
「上様におかせられましては、この治済めが畏れ多くも大納言様の暗殺を企んでいるものと、左様、御疑いあそばされ、そこで家老として上様腹心の水谷但馬をこの治済の許へと、監視の為に送込まれたのでござりましょうが、なれどその結果や如何に?」
治済は前夜の水谷勝富への厭味と同じく、家治にもそう厭味をぶつけた。
「この治済めに何か御不審の点でもありましたでしょうか…」
治済のその問いかけに、家治は何も応えることが出来なかった。
成程、治済には不審な点は、それこそ家基の暗殺を企むその兆候すらも窺えなかった。
それは水谷勝富からの報告からも明らかであった。何しろ治済は寝起きまで水谷勝富と、それに田沼意致とも共にしていた。
つまりは治済は水谷勝富と田沼意致の2人の家老の徹底的な監視下に置かれていた訳で、勝富は治済には不審な点は見受けられないと、家治にそう報告していた。
そんな中、家基が昨日、2月21日の鷹狩りの最中、それも昼、御殿山の花見において斃れたとあらば、少なくとも家基が斃れた件について治済は無実、一切、関与していないと判断せざるを得ない。
ましてや、家基が斃れた、正に元凶、諸悪の根源とも言うべき件の御殿山の花見の場には一橋家所縁の者は誰一人としていなかった。
となれば、治済は昨日、家基が斃れたこととは無関係―、治済が誰かを使嗾して家基に害を為したと、そう考えることは出来なかった。
「その、大納言様が御斃れあそばされた御殿山の花見でござりまするが、一橋家…、この治済が所縁の者は一人としておらず、翻って、清水家、或いは田沼家所縁の者で占められていたとか…」
治済は横目で重好を眺めつつ、家治にそう言上した。
それは家基が斃れたのは清水重好、或いは田沼意次の所為、もっと言えば重好、或いは意次が家基に一服盛らせたのではないかと、そう示唆するものであった。
治済は重好が居並ぶ前で家治に斯かる示唆をしたく、そこで態々、重好の前で御側御用取次の稲葉正明に対して家治への面会の取次ぎを頼んだのであった。
そうすれば重好のその幼児性丸出しの性格から考えて、
「自分も…」
治済と共に家治に逢いたいと、そう言出すに違いないと、治済はそう読切っていたからだ。
結果は見事に的中、治済は重好を隣に控えさせ、家治に対して、重好か、或いは意次が家基に一服盛ったのではないかと、そう示唆したのであった。
当然、重好は猛反撥した。
「待たれぃっ、それではまるでこの重好が大納言様に一服盛らせた様に聞こえるがっ!?」
重好は隣の治済の方へと顔を向け、そう声を張上げた。
「仮に大納言様が病の所為で斃れたのでなければ、一服盛られたものと考えざるを得ず、その場合、花見に扈従せし者が、とりわけ花見の為に弁当を誂えし者が下手人と考えざるを得ず…、聞けば…、大目付の松平對馬が申すところによれば、大納言様におかせられては御膳所の東海寺にて用意せし昼餉には、即ち、御膳奉行の毒見を済ませし昼餉には手をつけずに、隣の御殿山へと御出向きになられ、そこで御膳番小納戸の用意せし、裏を返さば御膳奉行の毒見は済ませておらぬ御重を口にした後に斃れられたとか…、そしてその御膳番の小納戸でござるが、清水家と所縁のありし…、宮内卿殿が従弟の三浦左膳や、或いは田沼家と所縁のありし…、田沼主殿が姪を娶りし石谷次郎左衛門、それに同じく清水家所縁の石場弾正や田沼家所縁の坪内五郎左衛門らが用意せしものとのことなれば…」
重好が三浦左膳や石場弾正を使嗾して、或いは意次が石谷次郎左衛門や坪内五郎左衛門を同じく使嗾して御重に一服盛付け、それを家基に服ませたのではないかと、治済はそうも示唆したのであった。
重好は当然、猛反撥した。
家治も、「滅多なことを口に致すな」と治済を窘めた。
「家基が毒を服ませられたなどと…、確たる証はないのだからな…」
家治はそう付加えた。
「確かに…、さればその、三浦左膳や石谷次郎左衛門らが用意せし御重を検めれば、答えは自ずと明らかになるかと…」
治済がそう提案すると、家治は困った表情を浮かべた。そこで治済は、
「上様…、如何為されましたので?」
さも、家治の困惑の表情が分からぬといった様子で家治にそう声をかけた。
「それがの…、その、三浦左膳らが用意せし御重が見当たらぬのだ…」
「見当たらぬとは、またどういう次第で?」
「いや、言葉通りの意味ぞ…、されば御重が消えてしむたのだ…」
「そは…、三浦左膳らが片付けたとか…」
「いや… 三浦左膳や石谷次郎左衛門らにしても、御重を片付けし覚えはないそうな…」
家治は昨晩、御殿山での花見の一件につき、自ら「関係者」を聴取した。
その中には御重を用意した御膳番小納戸の三浦左膳と石谷次郎左衛門、それに石場弾正と坪内五郎左衛門、この4人も勿論、含まれていた。
彼等は勿論、御重には何ら問題はなかったと、家治に愁訴嘆願に及んだ。
治済は家治からそう聞かされると思わず苦笑した。
「まぁ…、仮に何か問題があったとしても、ありましたとは、素直に申上げるとも思えず…」
治済がそう告げると、家治は実に苦々しげな表情を覗かせた。治済の言う通りだからだ。
「これで仮に、御重が現場に残されておりましたならば、御重には真実、問題がなかったのか否か、それを確めることも叶い申したものを…、肝心要の御重が忽然と消えたとならば…、それも揃いも揃うて、4人が用意せし御重が同時に消えたとならば、最早、確かめ様もなく…」
治済は三浦左膳らが故意に御重を処分したのではないかと、そう示唆した。
治済のその示唆に対して家治はと言うと、真実に以て癪ではあったが、認めざるを得なかった。
無論、三浦左膳や石谷次郎左衛門らが故意に御重に毒を仕込んだなどとは、家治も思っていなかった。
だがその御重が家基が斃れた現場から消えたとなれば、如何に家治が三浦左膳らを信じていたとしても、外の者は、殊に治済はそうはゆくまい。
「やはり御重に何か…、毒でも仕込まれていたのではあるまいか…」
治済にそう疑わせたとしても致し方あるまい。
それでも家治は治済に反論を試みた。
「そもそも御殿山での花見だが、西之丸御側御用取次の小笠原信喜が発案にて…」
「ほう…、この治済、大目付の松平對馬よりは、御膳所にて西之丸小納戸頭取の新見正則がまず、花見を大納言様へと御勧め申上げ、それに相役の押田岑勝や、それに平御側の大久保忠翰らが同調したと、斯様に伺いましたが…」
「いや、確かにその通りなのだが、その前日に小笠原信喜が新見正則に対して、家基に花見を勧めて貰いたいと打診致し、更に大久保忠翰と押田岑勝には新見正則に同調して貰いたいと…」
「成程…」
「されば御重についても…」
「やはり…、小笠原信喜が三浦左膳らに御重を…、花見用の御重を作る様に命じた、と?」
治済が先回りして尋ねると、家治も「左様…」と首肯した。
「して、その事、小笠原信喜は認めましたので?」
治済がその点を糺すと、家治は再び渋い表情となった。
治済は家治のその渋い表情を見て取るや、
「どうやら…、小笠原信喜は斯かる事実はないと、否定したものと御見受け致しましたが…」
家治にそう水を向け、家治を頷かせた。
「それでは…、誰が真実の花見の主催者か、それは分からぬ、ということでござりまするな?」
治済にそう尋ねられた家治は不承不承、頷いた。やはり癪では、それも大いに癪ではあったが、その通りだからだ。
「されば…、今、確かなことは、三浦左膳らが御重を用意、その御重を大納言様が御召上がりになられた途端、人事不省に陥り、そしてその御重が何故か現場から忽然と消えてしまった…、この3点でござりまするな?」
治済がそう纏めると、家治は慌てた口調で、「あっ、否、暫くっ」と治済を制した。
「家基はどうやら御重には手をつけてはいないとのこと…」
「御重を御召上がりにはなられていない、と?」
「左様…、されば家基は御重を番士らへと…」
家基は花見の警備に当たっていた、つまりは家基の警備をしていた番士らの為にと、三浦左膳らが拵えた御重から料理を大皿へと取分けると、番士らの許へと運んだそうな。
そして家基は番士らに料理を勧めている内に斃れたのだと、家治は治済に打明けた。
「ほう…、されば番士らは皆、大納言様は御重を御召上がりにはなられていないと、左様、口を揃えて証言致しておるのでござりまするな?」
治済はそうではないことを知りながら、しかし表面ではあくまで素知らぬ顔でそう確かめる様に尋ねた。
すると家治は治済が予期した通り、もうこれで何度目になろうか、表情を曇らせた。
「上様のその御様子…、御尊顔から察するに、大納言様におかせられては御重を御召上がりになられたと、左様、証言せし者もおるやに拝察仕りまするが…」
治済がそう糺すと、家治はこれにも不承不承、頷いて見せた。
治済が察した通り、家基は三浦左膳らが用意した御重に手をつけた―、料理を口にしたと、そう証言する者もあった。
即ち、西之丸書院番士の宇田川平五郎と西之丸供番として昨日の家基の鷹狩りに扈従した本丸書院番士の上原金蔵、それに番士ではなく、それよりも格上の従六位布衣役である西之丸目附の小野次郎右衛門の3人が家治の聴取に対してそう証言した。
ちなみにこの3人は小笠原信喜が家基を西之丸へと運ばせようとした際、真先に信喜に食ってかかり、力尽くでそれを阻止しようとした水原源之助を取押さえた者たちでもある。
「ほう…、西之丸目附までが左様に証言した次第で…」
家基はやはり三浦左膳らが用意した御重に手を付けた―、その証言には重みが、つまりは信用性があると、治済は示唆した。
家治もその点は認めざるを得なかった。
しかも、家基が三浦左膳らが用意した御重に手を付けたと、そう証言しているのはこの3人だけではなかったのだ。
「されば…」
家治は実に言い難そうにそう切出すと、外の「証言者」についても治済に打明けた。
即ち、西之丸小姓組番からは、
「叔父と実弟が清水家臣の長田兵右衛門正續」
「妹が清水館に仕える清水又三郎時親」
この2人が、また西之丸供番として家基の鷹狩りに扈従した本丸小姓組番からは、
「家基附の老女・初崎の養女を娶っている大田善大夫保好」
「弟が清水家臣の橋本喜平太敬賢」
「清水家老・本多昌忠の娘を娶る島崎一郎右衛門が実父、一郎兵衛忠要が実の甥である松平三郎左衛門康淳」
同じく本丸書院番からは、
「末娘を清水家臣に嫁がせている阿部大膳正明」
その外、番士ではないが、家基の為に茣蓙を持参した納戸番の越智小十郎と鷹匠の仙波市左衛門永昌が同じく、
「家基は三浦左膳らが用意した御重に手をつけた…」
家治の聴取にそう証言していたのだ。
ちなみに越智小十郎は清水用人・小笠原守惟の娘を娶っており、一方、仙波市左衛門に至ってはそもそも清水家臣であった。
仙波市左衛門は鷹匠としての腕を重好に買われ、清水家に召抱えられた。つまりは抱入であった。
御三卿の陪臣、それも抱入の者を将軍、或いは次期将軍の鷹狩りに扈従させるなど極めて異例のことであり、小笠原信喜の進言による。
これが同じ御三卿でも一橋家の陪臣であったならば、家治も家基の鷹狩りに扈従させるなど凡そ許さなかったであろう。
だが可愛い弟でもある重好に仕える鷹匠ともなれば話は別であった。
小笠原信喜もその点を見越して家治に対して、
「大納言様の御放鷹に扈従させましては…」
そう進言に及んだのであった。
すると家治もこれを認め、そこで弟の重好の同意を取付けて特に家基の鷹狩りに仙波市左衛門を扈従させた次第であった。
斯かる経緯から仙波市左衛門も花見の宴の相伴に預かることが許された。
その仙波市左衛門までが、
「家基は三浦左膳らが用意した御重に手を付けた…」
そう証言している以上、この証言は重く見なければならない。
0
あなたにおすすめの小説
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
米国戦艦大和 太平洋の天使となれ
みにみ
歴史・時代
1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる