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安永のトリカブト殺人事件 ~一橋治済の家基暗殺計画に予期せぬ「伏兵」、正義漢・山村數馬良音の登場~
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西之丸の盟主たる次期将軍・家基が御不例、重篤とあって、西之丸の警備は平時以上に厳重を極めた。
西之丸へと登城する者は西之丸の両番―、小姓組番と書院番の両方の番士、並びに本丸より西之丸勤番として出役するやはり両番の番士による「身体検査」を受けることになる。
それは相手が仮令、老中であったとしてもだ。
例えば今日、23日の昼、九つ半(午後1時頃)には本丸老中の松平康福が、それから半刻(約1時間)後の昼八つ(午後2時頃)には同じく本丸老中の田沼意次が夫々、西之丸へと家基を見舞ったのだが、その際、まずは玄関にて西之丸両番士、並びに西之丸勤番の本丸両番士による、
「徹底的な…」
身体検査を受けた。
が、それで終わりではなく、家基が臥せる中奥へと足を踏み入れるに際しても、その手前、中奥と表向との境目である時斗之間、その手前の表向側において西之丸供番として西之丸に出役している本丸両番士による二度目の「身体検査」を受けることになり、老中の松平康福や田沼意次も勿論、受けた。
ちなみに本丸両番士が勤める西之丸勤番と西之丸供番だが、西之丸勤番は西之丸の殿中警備を職掌とし、一方、西之丸供番は西之丸の盟主たる次期将軍の警衛を職掌とする。
それ故、この内、次期将軍が鷹狩りなどで外出する際、扈従するのは西之丸供番であり、そうではない場合、つまりは今の様に次期将軍が中奥にいる場合は時斗之間を背にして謂わば、「門番」の役目を果たす。
表向から中奥へと足を踏み入れる者に目を光らせるのは基本的には中奥と表向との境目である時斗之間、そこに詰める坊主の仕事であったが、しかし坊主だけでは限界があった。
無論、西之丸においても本丸同様、時斗之間の手前には新番所があり、新番士―、西之丸新番士もまた、表向から時斗之間を踏越えて中奥へと足を踏み入れ様とする者にやはり目を光らせてはいたものの、それでも次期将軍の御座す中奥を守るにはまだ心許ない。
そこで本丸両番士が西之丸供番として、つまりは次期将軍を護るべく西之丸へと派される。
そこで次期将軍が例えば鷹狩りなどで外出する際には単なる殿中警備の為に西之丸へと派される西之丸勤番の本丸両番士ではなく、西之丸供番の本丸両番士が扈従するのは斯かる事情による。
さて、老中でさえ、西之丸供番の本丸両番士による「身体検査」は元より、その遥か手前の玄関においても西之丸勤番の本丸両番士、並びに西之丸両番士による「身体検査」を受けるのだから、医師は言うに及ばず、であった。
明日の2月24日は暁七つ(午前4時頃)より昼四つ(午前10時頃)までは西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰の叔父と甥の「コンビ」に加えて、本丸奥医師の橘元周、そして本丸表番医師の遊佐信庭と天野敬登、そして峯岸瑞興の5人が家基の枕頭に付添うことになっていた。
その為、彼等はその前日に当たる今日、23日の暮六つ(午後6時頃)の直前に西之丸入りを果たした。
暮六つ(午後6時頃)から翌朝の明六つ(午前6時頃)までは御城の諸門、所謂、三十六見附は堅く閉じられるからだ。
無論、門番に事情を明かせば、その間でも脇門より通れる。
それが次期将軍・家基の治療ともなれば尚更であろうが、しかしそれよりは門が開いている内に西之丸入りを果たし、そこで「出番」を待った方が合理的であった。
何より、小川子雍らが西之丸入りを果たした暮六つ(午後6時頃)の直前、西之丸への「来訪者」への「身体検査」を担う西之丸勤番の本丸両番士、西之丸両番士、そして西之丸供番の本丸両番士は皆、一橋家所縁の者、つまりは治済の息のかかった者達で占められていた。
否、正確には占められている筈であった、と言うべきか。
小川子雍ら5人の医師団は西之丸の玄関にては、
「何ら問題なく…」
西之丸両番士、並びに西之丸勤番の両番士による「身体検査」をパスした。つまりは「身体検査」をフリーパス、受けずに件のトリカブトの毒と河豚毒とを持込むことに成功した。
だが西之丸供番の本丸両番士による二度目の「身体検査」で問題が発生した。
本丸小姓組番は4番組の番士、山村數馬良音が小川子雍ら5人の医師団に対して、
「徹底的な…」
身体検査を行おうとしたのだ。
それこそ薬箱の中まで、それも薬包紙の一つ一つまで丁寧に検め様とした。
それが本来、あるべき姿であったが、しかし外の、
「治済の息のかかった…」
彼等番士からすれば、山村數馬の行動は暴挙、もとい治済への「裏切り」としか映らなかった。
当然、彼等番士は山村數馬の「暴挙」を止めさせ様とした。
「医師への検めは無用に致せ」
まずそう口火を切ったのは山村數馬の「先輩」である江口文右衛門輝證であった。
江口文右衛門は一橋家臣、江口六郎右衛門輝文が実兄であり、
「バリバリの…」
一橋派、治済シンパと言えた。
無論、今日の治済の計画―、小川子雍らが治療に託けて、今度こそ家基の息の根を止めんとするその計画について承知しており、後輩の一人、山村數馬にしてもそうだと、頭から信じていた。
それ故、山村數馬の暴挙が信じられず、急に気でも触れたのでなくば、裏切りとしか考えられなかった。
それは山村數馬とは同期である松平兵庫榮隆にしても同様である。
ちなみに松平兵庫はやはり、
「バリバリの…」
一橋派、治済シンパにして西之丸目附の松平田宮恒隆が嫡子であり、勿論、治済の「計画」、もとい「姦計」について把握していた。
そこで松平兵庫も江口文右衛門に「加勢」して、山村數馬を宥めた。
「番方の我等には医学の心得がある訳でもなし、検めたところで無駄であろう…」
松平兵庫は山村數馬をそう宥めたものの、しかし數馬は納得しなかった。
「されば医学の心得のある、そう、医師に協力を求めれば良いではないか」
山村數馬はそう言放ち、江口文右衛門と松平兵庫を絶句させた。
成程、山村數馬の言う通り、医師の手を借りるのは、「身体検査」には極めて有効であろう。
だがその場合、小川子雍らが家基に服ませるべく薬箱に仕舞うトリカブトの毒と河豚毒とが発見されてしまうことになり、それは治済の「計画」の失敗を意味する。
本丸小姓組番4番組の中からは山村數馬が江口文右衛門や松平兵庫と共に西之丸供番に選ばれたからには、山村數馬も当然、
「治済の共犯者…」
江口文右衛門にしろ松平兵庫にしろ、そう信じて疑わなかった。
それ故、実際には治済の「計画」を水泡に帰さしめる山村數馬の行動が江口文右衛門や松平兵庫には信じられず、遂に江口文右衛門が堪り兼ね、
「医師への検めは適当で良いのだ…、一橋様の御為にも…」
声を押し殺して山村數馬を叱った。
だが山村數馬はそれに対して、
「何故、一橋様の御名がここで出てくるので?」
江口文右衛門にそう反論したことから、文右衛門を絶句させた。
一方、山村數馬はそんな江口文右衛門を尻目に、
「否…、養父上からも同じ様なことを…、一橋様の御為にも、今日の検め…、西之丸供番としての検めは緩やか…、適当で良いと申付けられたが…、何故、我等が一橋様のことを考えねばならぬので?我等が…、西之丸供番としての我等が第一に考えるべきは大納言様のことであろう?」
そう正論を吐いたのだ。
それで江口文右衛門も、それに松平兵庫も、「成程…」と合点がいった。
成程、山村數馬が父にして公事方勘定奉行の山村信濃守良旺は如何にも一橋派であった。
それは長女の夫を介して、であった。
即ち、山村良旺が長女は本丸小納戸の松平傳之助乗識の許に嫁いでおり、その父、舅の松平織部正乗尹は本丸小納戸頭取であり、我が子、傳之助の上司にも当たる。
だがこの松平乗尹・傳之助父子は揃って、将軍・家治に日光社参に扈従出来なかった。
松平傳之助よりも年次の浅い、小納戸が日光社参に扈従する中、己や、小納戸頭取たる父、乗尹までが日光社参に扈従出来ず、その間、松平乗尹・傳之助父子は家治から留守を仰せ付けられたことから、疎外感を抱き、そこを一橋治済に衝かれた。
実際には松平乗尹・傳之助父子が日光社参に扈従出来なかったのは、この2人を「反・家治」、「親・一橋」、「治済シンパ」へと仕立て上げ様と画策した治済の策略によるものだが、しかし松平乗尹・傳之助父子はそうとも気付かずに、
「そこもとら父子が日光社参に扈従出来なかったのは偏に、上様と、そこもとら父子とを引裂かんとせし田沼意次や、更には意次に与せし清水重好の謀略によるもの…」
治済のその「デマ」を真に受け、結果、治済が期待した通り、松平乗尹・傳之助父子は家治への怨みを募らせ、それが昂じて、「一橋派」、「治済シンパ」となり、今では治済の天下を望むまでに「成長」を遂げた。
その松平傳之助の舅、妻の夫が山村良旺であったことから、治済は松平傳之助を介して山村良旺をも抱込むことに成功した。
だが治済は、と言うよりは山村良旺はどうやら、倅の數馬良音までは「教育」し切れなかったと見える。
そうと察した江口文右衛門と松平兵庫は頭を抱えた。このままでは小川子雍らが西之丸中奥へとトリカブトの毒と河豚毒とを持込もうとしているのが発覚る恐れがあったからだ。
それはつまりは家基の暗殺―、治済が今度こそ家基の息の根を止め様としていることの発覚を意味していた。何しろ江口文右衛門は今し方、治済の名を口走らせてしまったからだ。
その上で小川子雍らがトリカブトの毒と河豚毒とを所持していたとなれば、それと治済とを、更には治済が小川子雍らを使嗾して家基の暗殺、毒殺を企んでいると、そう連想するのは容易であった。
かくして江口文右衛門と松平兵庫が頭を抱えていると、そこへ本丸書院番は2番組の番士、横尾藤次郎宅平が助け船を出した。
今、西之丸供番として目を光らせている本丸両番士だが、小姓組番が4番組ならば、書院番は2番組であった。
この本丸書院番2番組の中からは横尾藤次郎が西之丸供番に選ばれ、今、こうして本丸小姓組番は4番組の西之丸供番、即ち、江口文右衛門や松平兵庫、そして山村數馬と共に中奥へと通ずる時斗之間の手前にて目を光らせていた。
その横尾藤次郎が江口文右衛門と山村數馬の間に割って入ると、
「一橋民部卿様におかせられては誰よりも大納言様の御快癒を…、一日も早い御本復を望まれておれば、斯かる民部卿様の思いを大事にして貰いたいと、江口殿は、それに貴殿が御父上もそうであろう、斯かる思惑から一橋様の御名を出したのだ…」
文右衛門に代わって山村數馬にそう言訳した。
かなり苦しい言訳ではあったが、一応の筋は通っていたので、そこで山村數馬も「先輩」の江口文右衛門が、それに養父の山村良旺までもが一橋治済の名を出したことに、
「一応の…」
納得をしてみせた。
だがもう一つの「筋」、即ち、小川子雍らへの「身体検査」については譲らぬつもりであった。
山村數馬は西之丸供番としての職務を全うするつもりであった。
即ち、小川子雍らへの徹底的な「身体検査」である。場合によっては医師の力も借りるつもりであった。
だがそんな山村數馬の出鼻を挫いたのはやはり横尾藤次郎であった。
横尾藤次郎は家基の存在を持出し、山村數馬に小川子雍らへの「身体検査」を諦めさせたのであった。即ち、
「小川子雍らへの査検は成程、一見、尤もではあるが、なれど薬によっては薬包紙を解いた瞬間、外気に触れることで効果が半減するものもあると聞く、そうであればそれは結局、大納言様の御命にもかかわる…、貴殿が小川子雍らへの徹底的な査検の結果…、薬の一つ一つに至るまで検めた結果、大納言様へと服ませる筈の薬の効目が半減致したならば、貴殿は何とする?」
横尾藤次郎は山村數馬をそう責立てたのだ。
これに対して山村數馬はと言うと、そうまで横尾藤次郎に責立てられては引下がるより外になく、小川子雍らへの、
「徹底的な…」
身体検査を断念したのであった。
かくして小川子雍ら医師団はフリーパス、身体検査を受けずに家基が臥せる中奥へと足を踏み入れることが叶い、薬に託けてトリカブトの毒と河豚毒とを実際に所持していた子雍や、それを知る山添直辰らは心底、ホッとした。
否、ホッとしたのは小川子雍ら医師団だけではない。山村數馬を除く西之丸供番にしてもそうであった。
即ち、治済の息がかかった番士であり、山村數馬に小川子雍らへの身体検査を断念させた横尾藤次郎は父、横尾六右衛門昭平が一橋用人であった。
また横尾藤次郎と共に西之丸供番に選ばれた鈴木大助勝美と中田宇兵衛正喜にしても同様に縁者が一橋家臣であった。
鈴木大助の場合、やはり父・治左衛門直裕が一橋家臣、それも番頭という家老に次ぐ重職にあった。
一方、中田宇兵衛の場合、叔母―、父の実妹が一橋家臣の久野三郎兵衛芳矩が妻であり、また宇兵衛自身も母がこれまた一橋家臣の山本十郎左衛門胤将が娘であった。
つまり中田宇兵衛が父、左兵衛正綱は一橋家臣の山本十郎左衛門の娘を娶った訳で、そこに目をつけた治済は山本十郎左衛門を介して中田左兵衛・宇兵衛父子をも抱込んだのであった。
それ故、鈴木大助と中田宇兵衛にしても横尾藤次郎と同じく治済の天下獲りを望んでいたので、それを―、治済の「天下獲り」を無に帰せしめる山村數馬が小川子雍らへの徹底的な身体検査を言出した時には江口文右衛門や松平兵庫と共に大いに愕然とさせられ、しかし横尾藤次郎がそれを断念させると、逆に心底、ホッとさせられた。
西之丸へと登城する者は西之丸の両番―、小姓組番と書院番の両方の番士、並びに本丸より西之丸勤番として出役するやはり両番の番士による「身体検査」を受けることになる。
それは相手が仮令、老中であったとしてもだ。
例えば今日、23日の昼、九つ半(午後1時頃)には本丸老中の松平康福が、それから半刻(約1時間)後の昼八つ(午後2時頃)には同じく本丸老中の田沼意次が夫々、西之丸へと家基を見舞ったのだが、その際、まずは玄関にて西之丸両番士、並びに西之丸勤番の本丸両番士による、
「徹底的な…」
身体検査を受けた。
が、それで終わりではなく、家基が臥せる中奥へと足を踏み入れるに際しても、その手前、中奥と表向との境目である時斗之間、その手前の表向側において西之丸供番として西之丸に出役している本丸両番士による二度目の「身体検査」を受けることになり、老中の松平康福や田沼意次も勿論、受けた。
ちなみに本丸両番士が勤める西之丸勤番と西之丸供番だが、西之丸勤番は西之丸の殿中警備を職掌とし、一方、西之丸供番は西之丸の盟主たる次期将軍の警衛を職掌とする。
それ故、この内、次期将軍が鷹狩りなどで外出する際、扈従するのは西之丸供番であり、そうではない場合、つまりは今の様に次期将軍が中奥にいる場合は時斗之間を背にして謂わば、「門番」の役目を果たす。
表向から中奥へと足を踏み入れる者に目を光らせるのは基本的には中奥と表向との境目である時斗之間、そこに詰める坊主の仕事であったが、しかし坊主だけでは限界があった。
無論、西之丸においても本丸同様、時斗之間の手前には新番所があり、新番士―、西之丸新番士もまた、表向から時斗之間を踏越えて中奥へと足を踏み入れ様とする者にやはり目を光らせてはいたものの、それでも次期将軍の御座す中奥を守るにはまだ心許ない。
そこで本丸両番士が西之丸供番として、つまりは次期将軍を護るべく西之丸へと派される。
そこで次期将軍が例えば鷹狩りなどで外出する際には単なる殿中警備の為に西之丸へと派される西之丸勤番の本丸両番士ではなく、西之丸供番の本丸両番士が扈従するのは斯かる事情による。
さて、老中でさえ、西之丸供番の本丸両番士による「身体検査」は元より、その遥か手前の玄関においても西之丸勤番の本丸両番士、並びに西之丸両番士による「身体検査」を受けるのだから、医師は言うに及ばず、であった。
明日の2月24日は暁七つ(午前4時頃)より昼四つ(午前10時頃)までは西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰の叔父と甥の「コンビ」に加えて、本丸奥医師の橘元周、そして本丸表番医師の遊佐信庭と天野敬登、そして峯岸瑞興の5人が家基の枕頭に付添うことになっていた。
その為、彼等はその前日に当たる今日、23日の暮六つ(午後6時頃)の直前に西之丸入りを果たした。
暮六つ(午後6時頃)から翌朝の明六つ(午前6時頃)までは御城の諸門、所謂、三十六見附は堅く閉じられるからだ。
無論、門番に事情を明かせば、その間でも脇門より通れる。
それが次期将軍・家基の治療ともなれば尚更であろうが、しかしそれよりは門が開いている内に西之丸入りを果たし、そこで「出番」を待った方が合理的であった。
何より、小川子雍らが西之丸入りを果たした暮六つ(午後6時頃)の直前、西之丸への「来訪者」への「身体検査」を担う西之丸勤番の本丸両番士、西之丸両番士、そして西之丸供番の本丸両番士は皆、一橋家所縁の者、つまりは治済の息のかかった者達で占められていた。
否、正確には占められている筈であった、と言うべきか。
小川子雍ら5人の医師団は西之丸の玄関にては、
「何ら問題なく…」
西之丸両番士、並びに西之丸勤番の両番士による「身体検査」をパスした。つまりは「身体検査」をフリーパス、受けずに件のトリカブトの毒と河豚毒とを持込むことに成功した。
だが西之丸供番の本丸両番士による二度目の「身体検査」で問題が発生した。
本丸小姓組番は4番組の番士、山村數馬良音が小川子雍ら5人の医師団に対して、
「徹底的な…」
身体検査を行おうとしたのだ。
それこそ薬箱の中まで、それも薬包紙の一つ一つまで丁寧に検め様とした。
それが本来、あるべき姿であったが、しかし外の、
「治済の息のかかった…」
彼等番士からすれば、山村數馬の行動は暴挙、もとい治済への「裏切り」としか映らなかった。
当然、彼等番士は山村數馬の「暴挙」を止めさせ様とした。
「医師への検めは無用に致せ」
まずそう口火を切ったのは山村數馬の「先輩」である江口文右衛門輝證であった。
江口文右衛門は一橋家臣、江口六郎右衛門輝文が実兄であり、
「バリバリの…」
一橋派、治済シンパと言えた。
無論、今日の治済の計画―、小川子雍らが治療に託けて、今度こそ家基の息の根を止めんとするその計画について承知しており、後輩の一人、山村數馬にしてもそうだと、頭から信じていた。
それ故、山村數馬の暴挙が信じられず、急に気でも触れたのでなくば、裏切りとしか考えられなかった。
それは山村數馬とは同期である松平兵庫榮隆にしても同様である。
ちなみに松平兵庫はやはり、
「バリバリの…」
一橋派、治済シンパにして西之丸目附の松平田宮恒隆が嫡子であり、勿論、治済の「計画」、もとい「姦計」について把握していた。
そこで松平兵庫も江口文右衛門に「加勢」して、山村數馬を宥めた。
「番方の我等には医学の心得がある訳でもなし、検めたところで無駄であろう…」
松平兵庫は山村數馬をそう宥めたものの、しかし數馬は納得しなかった。
「されば医学の心得のある、そう、医師に協力を求めれば良いではないか」
山村數馬はそう言放ち、江口文右衛門と松平兵庫を絶句させた。
成程、山村數馬の言う通り、医師の手を借りるのは、「身体検査」には極めて有効であろう。
だがその場合、小川子雍らが家基に服ませるべく薬箱に仕舞うトリカブトの毒と河豚毒とが発見されてしまうことになり、それは治済の「計画」の失敗を意味する。
本丸小姓組番4番組の中からは山村數馬が江口文右衛門や松平兵庫と共に西之丸供番に選ばれたからには、山村數馬も当然、
「治済の共犯者…」
江口文右衛門にしろ松平兵庫にしろ、そう信じて疑わなかった。
それ故、実際には治済の「計画」を水泡に帰さしめる山村數馬の行動が江口文右衛門や松平兵庫には信じられず、遂に江口文右衛門が堪り兼ね、
「医師への検めは適当で良いのだ…、一橋様の御為にも…」
声を押し殺して山村數馬を叱った。
だが山村數馬はそれに対して、
「何故、一橋様の御名がここで出てくるので?」
江口文右衛門にそう反論したことから、文右衛門を絶句させた。
一方、山村數馬はそんな江口文右衛門を尻目に、
「否…、養父上からも同じ様なことを…、一橋様の御為にも、今日の検め…、西之丸供番としての検めは緩やか…、適当で良いと申付けられたが…、何故、我等が一橋様のことを考えねばならぬので?我等が…、西之丸供番としての我等が第一に考えるべきは大納言様のことであろう?」
そう正論を吐いたのだ。
それで江口文右衛門も、それに松平兵庫も、「成程…」と合点がいった。
成程、山村數馬が父にして公事方勘定奉行の山村信濃守良旺は如何にも一橋派であった。
それは長女の夫を介して、であった。
即ち、山村良旺が長女は本丸小納戸の松平傳之助乗識の許に嫁いでおり、その父、舅の松平織部正乗尹は本丸小納戸頭取であり、我が子、傳之助の上司にも当たる。
だがこの松平乗尹・傳之助父子は揃って、将軍・家治に日光社参に扈従出来なかった。
松平傳之助よりも年次の浅い、小納戸が日光社参に扈従する中、己や、小納戸頭取たる父、乗尹までが日光社参に扈従出来ず、その間、松平乗尹・傳之助父子は家治から留守を仰せ付けられたことから、疎外感を抱き、そこを一橋治済に衝かれた。
実際には松平乗尹・傳之助父子が日光社参に扈従出来なかったのは、この2人を「反・家治」、「親・一橋」、「治済シンパ」へと仕立て上げ様と画策した治済の策略によるものだが、しかし松平乗尹・傳之助父子はそうとも気付かずに、
「そこもとら父子が日光社参に扈従出来なかったのは偏に、上様と、そこもとら父子とを引裂かんとせし田沼意次や、更には意次に与せし清水重好の謀略によるもの…」
治済のその「デマ」を真に受け、結果、治済が期待した通り、松平乗尹・傳之助父子は家治への怨みを募らせ、それが昂じて、「一橋派」、「治済シンパ」となり、今では治済の天下を望むまでに「成長」を遂げた。
その松平傳之助の舅、妻の夫が山村良旺であったことから、治済は松平傳之助を介して山村良旺をも抱込むことに成功した。
だが治済は、と言うよりは山村良旺はどうやら、倅の數馬良音までは「教育」し切れなかったと見える。
そうと察した江口文右衛門と松平兵庫は頭を抱えた。このままでは小川子雍らが西之丸中奥へとトリカブトの毒と河豚毒とを持込もうとしているのが発覚る恐れがあったからだ。
それはつまりは家基の暗殺―、治済が今度こそ家基の息の根を止め様としていることの発覚を意味していた。何しろ江口文右衛門は今し方、治済の名を口走らせてしまったからだ。
その上で小川子雍らがトリカブトの毒と河豚毒とを所持していたとなれば、それと治済とを、更には治済が小川子雍らを使嗾して家基の暗殺、毒殺を企んでいると、そう連想するのは容易であった。
かくして江口文右衛門と松平兵庫が頭を抱えていると、そこへ本丸書院番は2番組の番士、横尾藤次郎宅平が助け船を出した。
今、西之丸供番として目を光らせている本丸両番士だが、小姓組番が4番組ならば、書院番は2番組であった。
この本丸書院番2番組の中からは横尾藤次郎が西之丸供番に選ばれ、今、こうして本丸小姓組番は4番組の西之丸供番、即ち、江口文右衛門や松平兵庫、そして山村數馬と共に中奥へと通ずる時斗之間の手前にて目を光らせていた。
その横尾藤次郎が江口文右衛門と山村數馬の間に割って入ると、
「一橋民部卿様におかせられては誰よりも大納言様の御快癒を…、一日も早い御本復を望まれておれば、斯かる民部卿様の思いを大事にして貰いたいと、江口殿は、それに貴殿が御父上もそうであろう、斯かる思惑から一橋様の御名を出したのだ…」
文右衛門に代わって山村數馬にそう言訳した。
かなり苦しい言訳ではあったが、一応の筋は通っていたので、そこで山村數馬も「先輩」の江口文右衛門が、それに養父の山村良旺までもが一橋治済の名を出したことに、
「一応の…」
納得をしてみせた。
だがもう一つの「筋」、即ち、小川子雍らへの「身体検査」については譲らぬつもりであった。
山村數馬は西之丸供番としての職務を全うするつもりであった。
即ち、小川子雍らへの徹底的な「身体検査」である。場合によっては医師の力も借りるつもりであった。
だがそんな山村數馬の出鼻を挫いたのはやはり横尾藤次郎であった。
横尾藤次郎は家基の存在を持出し、山村數馬に小川子雍らへの「身体検査」を諦めさせたのであった。即ち、
「小川子雍らへの査検は成程、一見、尤もではあるが、なれど薬によっては薬包紙を解いた瞬間、外気に触れることで効果が半減するものもあると聞く、そうであればそれは結局、大納言様の御命にもかかわる…、貴殿が小川子雍らへの徹底的な査検の結果…、薬の一つ一つに至るまで検めた結果、大納言様へと服ませる筈の薬の効目が半減致したならば、貴殿は何とする?」
横尾藤次郎は山村數馬をそう責立てたのだ。
これに対して山村數馬はと言うと、そうまで横尾藤次郎に責立てられては引下がるより外になく、小川子雍らへの、
「徹底的な…」
身体検査を断念したのであった。
かくして小川子雍ら医師団はフリーパス、身体検査を受けずに家基が臥せる中奥へと足を踏み入れることが叶い、薬に託けてトリカブトの毒と河豚毒とを実際に所持していた子雍や、それを知る山添直辰らは心底、ホッとした。
否、ホッとしたのは小川子雍ら医師団だけではない。山村數馬を除く西之丸供番にしてもそうであった。
即ち、治済の息がかかった番士であり、山村數馬に小川子雍らへの身体検査を断念させた横尾藤次郎は父、横尾六右衛門昭平が一橋用人であった。
また横尾藤次郎と共に西之丸供番に選ばれた鈴木大助勝美と中田宇兵衛正喜にしても同様に縁者が一橋家臣であった。
鈴木大助の場合、やはり父・治左衛門直裕が一橋家臣、それも番頭という家老に次ぐ重職にあった。
一方、中田宇兵衛の場合、叔母―、父の実妹が一橋家臣の久野三郎兵衛芳矩が妻であり、また宇兵衛自身も母がこれまた一橋家臣の山本十郎左衛門胤将が娘であった。
つまり中田宇兵衛が父、左兵衛正綱は一橋家臣の山本十郎左衛門の娘を娶った訳で、そこに目をつけた治済は山本十郎左衛門を介して中田左兵衛・宇兵衛父子をも抱込んだのであった。
それ故、鈴木大助と中田宇兵衛にしても横尾藤次郎と同じく治済の天下獲りを望んでいたので、それを―、治済の「天下獲り」を無に帰せしめる山村數馬が小川子雍らへの徹底的な身体検査を言出した時には江口文右衛門や松平兵庫と共に大いに愕然とさせられ、しかし横尾藤次郎がそれを断念させると、逆に心底、ホッとさせられた。
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歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
米国戦艦大和 太平洋の天使となれ
みにみ
歴史・時代
1945年4月 天一号作戦は作戦の成功見込みが零に等しいとして中止
大和はそのまま柱島沖に係留され8月の終戦を迎える
米国は大和を研究対象として本土に移動
そこで大和の性能に感心するもスクラップ処分することとなる
しかし、朝鮮戦争が勃発
大和は合衆国海軍戦艦大和として運用されることとなる
日本新世紀ー日本の変革から星間連合の中の地球へー
黄昏人
SF
現在の日本、ある地方大学の大学院生のPCが化けた!
あらゆる質問に出してくるとんでもなくスマートで完璧な答え。この化けたPC“マドンナ”を使って、彼、誠司は核融合発電、超バッテリーとモーターによるあらゆるエンジンの電動化への変換、重力エンジン・レールガンの開発・実用化などを通じて日本の経済・政治状況及び国際的な立場を変革していく。
さらに、こうしたさまざまな変革を通じて、日本が主導する地球防衛軍は、巨大な星間帝国の侵略を跳ね返すことに成功する。その結果、地球人類はその星間帝国の圧政にあえいでいた多数の歴史ある星間国家の指導的立場になっていくことになる。
この中で、自らの進化の必要性を悟った人類は、地球連邦を成立させ、知能の向上、他星系への植民を含む地球人類全体の経済の底上げと格差の是正を進める。
さらには、マドンナと誠司を擁する地球連邦は、銀河全体の生物に迫る危機の解明、撃退法の構築、撃退を主導し、銀河のなかに確固たる地位を築いていくことになる。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
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この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
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