上 下
19 / 116

将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 前篇

しおりを挟む
 意知おきとも神田かんだばし門内もんないにある屋敷やしきもどったのは夕七つ(午後4時頃)をぎたころであった。すで夕焼ゆうやぞらだというに田沼たぬま門前もんぜんにはまだ、陳情ちんじょうきゃくれつし、そのれつたるや神田かんだばし門内もんないどころか、門外もんそとまでつづいていた。

 このままでは暮六くれむつ(午後6時頃)になってももんじられない事態じたいとなるやもれず、田沼たぬまではそれをふせぐべく、家臣かしん規制きせい乗出のりだしていた。

 邸内ていないにおいては家臣かしん伊勢いせ次郎左衛門じろうざえもん村上むらかみ半左衛門はんざえもんくすのき半七郎はんしちろうらが「取次とりつぎ」に従事じゅうじしていた。

 ちなみに伊勢いせ次郎左衛門じろうざえもんはかつては、意知おきとも妻女さいじょよし附属ふぞくし、用人ようにんつとめていた。

 それがよし歿後ぼつごにはよしの「わす形見がたみ」とも言うべき嫡子ちゃくし龍助りゅうすけ附属ふぞく用人ようにんとしてつかえており、「取次とりつぎ」をも兼務けんむしていた。

 おなじことは村上むらかみ半左衛門はんざえもんにも言え、半左衛門はんざえもんもかつては木挽町こびきちょうにある下屋敷しもやしき管理かんりまかされていたのだが、いま意知おきとも附属ふぞくし、用人ようにんとしてつかえるかたわら、「取次とりつぎ」に従事じゅうじしていた。

 村上むらかみ半左衛門はんざえもん意知おきとも帰邸きていると、「取次とりつぎ」の仕事しごとやすめて意知おきとももとへとあしはこんだ。

かえりなさいませ…」

 半左衛門はんざえもん意知おきとものそう挨拶あいさつすると、ちち意次おきつぐんでいることをげた。

父上ちちうえが?」

「はい。かえ次第しだいんでまいれ、と…」

 意次おきつぐより左様さようおおけられたことを半左衛門はんざえもん意知おきとも打明うちあけた。

左様さようか…、あいかった」

 意知おきともはそうおうずると、半左衛門はんざえもん案内あんない謝絶しゃぜつし、一人ひとり意次おきつぐもとへとあしはこんだ。

 と言っても、いきなり意次おきつぐまえ姿すがたせたわけではない。

 意次おきつぐいま奥座敷おくざしきにて陳情ちんじょうきゃく面会中めんかいちゅうであったからだ。

 この奥座敷おくざしきにしても、康福やすよし意知おきとも龍助りゅうすけ父子ふしまねくのに使つかった奥座敷おくざしき同様どうよう一本いっぽん廊下ろうかだけでつうずるわば独立どくりつした部屋へやであった。

 これは陳情ちんじょう内容ないようほか陳情ちんじょうきゃくれないように、との配慮はいりょからであった。

 その奥座敷おくざしきへとつうずる一本いっぽん廊下ろうかまえ、さしずめ奥座敷おくざしきへの入口いりぐち付近ふきんにも部屋へやが、それも広々ひろびろとした部屋へやしつらえられていたものの、そこにもまた、意次おきつぐへの面会めんかい陳情ちんじょうきゃくあふれており、広々ひろびろとした部屋へやであるにもかかわらず、それほどひろくはかんじられなかった。それどころか手狭てぜまかんじられるほどであった。

 そこでは「側用人そばようにん」の潮田うしおだ由膳ゆうぜん三浦みうら庄二しょうじ二人ふたり配下はいかとも言うべき「公用人こうようにん」の山崎やまざき藤五郎とうごろう高木たかぎ俊蔵しゅんぞう、それに各務源吾かがみげんご大竹おおたけ三左衛門さんざえもんしたがえて、意次おきつぐへの面会めんかいいまいまかと待受まちうける陳情ちんじょうきゃく接遇せつぐうつとめていた。

 具体的ぐたいてきには茶菓子ちゃがし用意よういする。茶碗ちゃわからになったならば、あるいはちゃめたならば

「すかさず…」

 あつちゃれるといった具合ぐあいで、接遇せつぐうつとめていたのだ。これもまた、陳情ちんじょうきゃく意次おきつぐもとへと殺到さっとうする所以ゆえんと言えた。

 そこ部屋へや意知おきとも姿すがたせると、まずは公用人こうようにん各務源吾かがみげんご反応はんのうした。

「あっ、わかさ…」

 源吾げんごはついくせで、「若様わかさま」とぼうとして、しかし客人きゃくじんまえであることをおもしたので、あわててくちつぐんだ。客人きゃくじんまえで「さま」をけるのははばからねばならない。

 ともあれ、源吾げんごのそのこえほかの、側用人そばようにん公用人こうようにん給仕きゅうじめると、意知おきともほういて叩頭こうとうした。

 いや、意知おきとも叩頭こうとうしたのは彼等かれら家中かちゅうものばかりではない。陳情ちんじょうきゃくにしても、意知おきとも存在そんざい当然とうぜん気付きづき、同様どうように、いや、それ以上いじょう深々ふかぶかあたまげてみせた。

「あっ、どうか左様さようかしこまらないでください」

 意知おきともはまず、陳情ちんじょうきゃくたいしてそのあたまげさせると、三浦みうら庄二しょうじ家中かちゅうものには給仕きゅうじつづけてくれるよううながした。

「あの、如何いか用向ようむきにて?」

 すで給仕きゅうじえていた源吾げんご意知おきとも一体いったいなにをしにたのかと、それをたずねた。

「いや、ちちばれて…」

 意知おきともがそうこたえると、源吾げんごは「それなれば…」とこしげて、意次おきつぐもとへとかおうとした。無論むろん意知おきともたことを主君しゅくん意次おきつぐしらせるためだが、意知おきともはそんな源吾げんごせいした。

いまはまだ、客人きゃくじんとの面談めんだん最中さなかであろうぞ…」

 陳情ちんじょう邪魔じゃまをしてはいけない…、それが意知おきとも源吾げんごせいした理由わけであった。

「さればここでたせてもらってもかまわいませぬか…、いや、門前もんぜんにてならんでいる客人きゃくじんには申訳もうしわけないが…」

 意知おきとも部屋へやちち意次おきつぐへの面会めんかい待受まちうける彼等かれら陳情ちんじょうきゃくたいしてそうこえをかけた。

 すると彼等かれら陳情ちんじょうきゃくみな

かまいませぬとも…」

 そうこえそろえたのであった。

 それからもなくして、それまで意次おきつぐ面会めんかいおよんでいた陳情ちんじょうきゃく中老ちゅうろう潮田うしおだ尉右衛門じょうえもんともなわれて、くだん廊下ろうかつたってその待合所まちあいじょとも言うべき部屋へやへともどってた。

 本来ほんらいならば、潮田うしおだ尉右衛門じょうえもんつぎ陳情ちんじょうきゃく主君しゅくん意次おきつぐもとへと案内あんないすべきところ、いまちがった。

 潮田うしおだ尉右衛門じょうえもんもまた、意知おきとも姿すがたみとめておどろいた表情ひょうじょうかべた。

 その尉右衛門じょうえもんこと次第しだいささやいたのは側用人そばようにん潮田うしおだ由膳ゆうぜんであった。尉右衛門じょうえもん由膳ゆうぜんとはじつ親子おやこであったからだ。

 ともあれ、由膳よしぜんより仔細しさい打明うちあけられた尉右衛門じょうえもん意知おきとも意次おきつぐもとへと案内あんないした。

失礼致しつれいいたします…」

 意知おきともはそうこえをかけてから意次おきつぐ奥座敷おくざしきへとあしれ、すると尉右衛門じょうえもんがそれと同時どうじ外側そとがわから障子しょうじめた。障子しょうじめするのも中老ちゅうろうたる潮田うしおだ尉右衛門じょうえもん仕事しごとであった。

 奥座敷おくざしきには意次おきつぐほかにも家老かろう各務かがみ久左衛門きゅうざえもん井上いのうえ伊織いおり陪席ばいせきしていた。

 各務かがみ久左衛門きゅうざえもん井上いのうえ伊織いおりとも家老かろうとして、陳情ちんじょう立会たちあっていた。それは第一義的だいいちぎてきには主君しゅくん意次おきつぐまもためであった。陳情ちんじょうきゃく太刀たちこそ玄関げんかんにて家中かちゅう刀番かたなばんあずけておくものの、脇差わきざしびたままであるからだ。

 それゆえ主君しゅくん意次おきつぐ陳情ちんじょうきゃく二人ふたりきりにしてしまってはあやうい。

 陳情ちんじょうきゃく悪心あくしんこさぬともかぎらないからだ。かり陳情ちんじょうきゃく悪心あくしんこして脇差わきざしこうものなら、そのとき陳情ちんじょう立会たちあものだれもいなければ取返とりかえしのつかないことになる。

 そこで家老かろう各務かがみ久左衛門きゅうざえもん井上いのうえ伊織いおり陳情ちんじょう常時じょうじ立会たちあう。

 もっとも、その危険性リスクはゼロとは言わないにしてもかぎりなくそれにちかいものであり、実際じっさいには陳情ちんじょう内容ないよう書留かきとめるのは各務かがみ久左衛門きゅうざえもん井上いのうえ伊織いおりおも仕事しごとであった。二人ふたり同時どうじ陳情ちんじょう内容ないよう書留かきとめさせることで、より正確せいかくそうとの、意次おきつぐ判断はんだんによる。

 だが意知おきとも場合ばあい陳情ちんじょうきゃくでもなければ、脇差わきざし危険性リスクもゼロと断言だんげん出来できたので、各務かがみ久左衛門きゅうざえもん井上いのうえ伊織いおり二人ふたりかせて退出たいしゅつしようとした。主君しゅくん意次おきつぐとそのそく意知おきともとのあいだ繰広くりひろげられるであろうまさに、

親子おやこ対話たいわ…」

 それを邪魔じゃましてはならないとの判断はんだんはたらいたためである。

 しかしそんな二人ふたり意次おきつぐせいした。

ぐにゆえ、それにはおよばぬ…」

 意次おきつぐおもみのあるこえこしかしかけた久左衛門きゅうざえもん伊織いおりせいした。

 そなると久左衛門きゅうざえもんにしろ伊織いおりにしろ、そのとどまるよりほかになかった。

 さて、意次おきつぐ二人ふたりとどまらせると早速さっそく本題ほんだいはいった。

周防守すおうのかみ殿どのもとへとまいったそうだが、用向ようむきなんであったか?」

 意次おきつぐ単刀直入たんとうちょくにゅう意知おきともにそうたずねた。

 だが意知おきともちち意次おきつぐよりのそのいにたいして、「もうせませぬ」と言下ごんか一蹴いっしゅうしてみせた。

 意次おきつぐ視線しせん意知おきとも視線しせんがぶつかりなか意次おきつぐはもうひとつだけ意知おきともうた。

龍助りゅうすけだけを…、大村おおむら六右衛門ろくえもん武田たけだ織右衛門おりえもんともなわせて帰宅きたくさせたようだが、意知おきともよ、おまえ一人ひとり、どこぞへと寄道よりみちでもいたしたのか?」

「はい。如何いかにも寄道よりみちいたしましてござります」

 意知おきとも正直しょうじきにそうこたえると、意次おきつぐはしかし、意外いがいにもそのさきについてはわなかった。おそらくは意知おきともがまたしてもこたえないのはあきらかであったからだ。

 わりに意次おきつぐただ一言ひとこと

「それでい…」

 そうつぶやいた。意次おきつぐとて、せがれ意知おきともが、

「ペラペラと…」

 打明うちあけるのを期待きたいしたわけではなかったからだ。それどころかくちかたさをためしたにぎない。

 仮令たとえじつおやであろうとも打明うちあけることはしない…、意次おきつぐせがれ意知おきともにそのようくちかたさを期待きたいしていたのであり、それにたいして意知おきとも見事みごとちち意次おきつぐ期待きたいこたえたと言える。

「もういぞ…」

 退がってかまわぬ…、意次おきつぐからそう示唆しさされた意知おきとも意次おきつぐ叩頭こうとうしてから立上たちあがった。

 するとそんな意知おきとも意次おきつぐ見上みあげると、「ああ、そうそう…」とおもい|出したかのようこえげ、

周防守すおうのかみさまより沢山たくさんの、それも結構けっこうなる玩具がんぐとどいたゆえに、周防守すおうのかみさまへとれい申上もうしあげるように…、いや、わたしからも勿論もちろんれい申上もうしあげるが…」

 意知おきともにそうげたのであった。

 それで意知おきとも龍助りゅうすけもと岳父がくふ康福やすよし屋敷やしき、それも大奥おおおくにて玩具がんぐせてもらったことをおもした。

 康福やすよし可愛かわいまご、それも外孫そとまご龍助りゅうすけため用意よういしたそれら玩具がんぐあまりにおおく、到底とうてい持帰もちかえれぬほどりょうであり、

あととどけさせるゆえ…」

 意知おきとも康福やすよし屋敷やしき辞去じきょする間際まぎわ康福やすよしよりそうげられていたのだ。

 それらのことをおもした意知おきともは、

承知しょちつかまつりました…」

 このときばかりは素直すなおにそうおうじ、今度こんどこそ意次おきつぐもと辞去じきょした。

 それから意知おきとも一人ひとり自室じしつこもった。かんがごとをするためである。龍助りゅうすけたち子供こども奥向おくむき所謂いわゆる、「大奥おおおく」にて女中じょちゅうたちが世話せわをしていた。

 それゆえ意知おきともだれにも邪魔じゃまされずにかんがごとをすることが出来できた。

 意知おきとも脇差わきざしも、扇子せんすさえも引抜ひきぬいて、だいになって仰向あおむけにた。

 それが意知おきともかんがごとをするさい姿勢スタイルであった。

 行儀ぎょうぎわるいのは自覚じかくするところであったが、かんがごとをするには一番いちばん姿勢スタイルであった。

 かんがごと―、それはおのれ若年寄わかどしよりすすまこと理由わけについてであった。

 成程なるほど将軍しょうぐん家治いえはる伊達だて重村しげむら島津しまづ重豪しげひでへの対抗上たいこうじょう、その家格かかく引上ひきあげてやろうと、つまりは殿中でんちゅうせき大廣間おおひろまから黒書院くろしょいん溜間たまりのまへとうつさせてやろうとかんがえているのも事実じじつである。

 また、中奥なかおくにて本来ほんらい直属ちょくぞく上司じょうしとも言うべき側用人そばようにん水野みずの忠友ただとも差置さしおいて、跳梁ちょうりょうほしいままにしているそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら横田よこた準松のりとし本郷泰行ほんごうやすゆき家治いえはる掣肘せいちゅうしようとかんがえているのもまた、事実じじつであった。

 だがそれらだけが、それらを実現じつげんさせるためだけに、家治いえはる意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるわけではなかった。
しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

喝鳶大名・内田正容

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:0

紀州太平記 ~徳川綱教、天下を獲る~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

逆転関が原殺人事件

ミステリー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:1

若竹侍

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:234pt お気に入り:0

天明草子 ~たとえば意知が死ななかったら~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:7

戦国薄暮期〜とある武将の三男になったので戦国時代を変えてみました

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:1

中世を駆ける~尼子家領地に転移した男~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:1

処理中です...