上 下
20 / 116

将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 中篇

しおりを挟む
 家治いえはる意知おきとも若年寄わかどしよりへとすすませるまこと理由わけ―、それはズバリ、いま愛息あいそく家基いえもと真相しんそう探索たんさくたらせるためであった。

 もっと言えば、家基いえもといやった下手人げしゅにん、それも黒幕くろまく探索たんさくにある。

 2年前ねんまえの天明元(1781)年12月15日、御座之間ござのまにて老中ろうじゅう側用人そばようにん、それに若年寄わかどしより奏者番そうじゃばん筆頭ひっとうたる寺社じしゃ奉行ぶぎょうらが列座れつざするなか将軍しょうぐん家治いえはる意知おきとも一人ひとり奏者番そうじゃばんにんじた直後ちょくごに、列座れつざしていた彼等かれら老中ろうじゅうらを御座之間ござのまより退出たいしゅつさせて意知おきとも二人ふたりきりになると、そのむねめいじたのであった。

 意知おきとも最初さいしょしんじられなかった。家基いえもと病死びょうしではなく、他殺たさつ、それも毒殺どくさつうたがいが濃厚のうこうだとは。

 だが家治いえはるはなしうちかんがえがわった。

 安永8(1779)年2月21日、新井宿あらいじゅくのほとりへと鷹狩たかがりに出向でむいた家基いえもとがその帰途きと立寄たちよった品川しながわ東海とうかいにてにわかに腹痛ふくつううったえ、御城えどじょう西之丸にしのまるへとかつまれた―、当時とうじ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎであった水上正興みずかみまさおきはそれをると、

一服いっぷくられたに相違そういあるまい…」

 咄嗟とっさにそう直感ちょっかんしたそうな。

 正興まさおきすで鷹狩たかがりのまえから、その鷹狩たかがりについて、いつもとはちがう、なにか、ただならぬものをかんじていたからであり、それゆえ家基いえもとにわかの腹痛ふくつううったえ、西之丸にしのまるかつまれたとるや、そう直感ちょっかんしたのであった。

 それと言うのも正興まさおき相役あいやく同僚どうりょうである西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよしうごき、いや、うごめきと言ったほうがしっくり来る、それがになって仕方しかたがなかったからだ。

 小笠原おがさわら信喜のぶよしうごめき、家基いえもと鷹狩たかがりにしたが人員メンバー選考せんこうである。

 信喜のぶよし選考せんこう担当たんとうしたわけだが、その選考せんこう基準きじゅんたるや、

三卿さんきょう清水しみず所縁ゆかりもの…」

 それが選考せんこう基準きじゅんなのではあるまいかと、そうおもわせるほどに、清水しみずなんらかのかたちつながりのあるものめられていたのだ。

 いや、それに若干名じゃっかんめい意次おきつぐ所縁ゆかりのあるものめられていたのだ。

 それが家基いえもとが21日、ゆうの七つ半(午後5時頃)に品川しながわ東海とうかいより御城えどじょう西之丸にしのまるへとかつまれてから、24日の上刻じょうこくすなわち昼四つ(午前10時頃)にこうずるまでのあいだ家基いえもとそばかためていたのはやはり三卿さんきょう一橋ひとつばし所縁ゆかりものであり、それでは鷹狩たかがり―、家基いえもと生前せいぜん最期さいごとなってしまったくだん新井宿あらいじゅくのほとりへの鷹狩たかがりにしたがった、清水しみず所縁ゆかりものあるいは田沼たぬま所縁ゆかりものはと言えば、それとはぎゃく排除はいじょされたのだ。

 いや、興正おきまさ最初さいしょはそのことに気付きづかなかった。

 だが小笠原おがさわら信喜のぶよしの「うごめき」がになり、そこで西之丸にしのまる目付めつけなかでもとりわけ、秋霜烈日しゅうそうれつじつられる深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん内々ないない探索たんさく依頼いらいしたのであった。

「どうにも此度こたび鷹狩たかがりはいつもとはちがう…」

 興正おきまさ仔細しさいを、すなわち、信喜のぶよしの「うごめき」について深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん打明うちあけたうえで、

「されば大納言だいなごんさまにおかせられては…、一服いっぷくられたのやもれぬ…」

 その可能性かのうせいれて探索たんさく依頼いらいしたわけである。

 そこで深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんはまずは、興正おきまさが言うとおり、まこと新井宿あらいじゅくのほとりへの鷹狩たかがりにしたがった者達メンバーみな清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものめられているのか、それをたしかめることからはじめたそうな。

 これをたしかめるにはおもて右筆ゆうひつ問合といあわせるのが常道じょうどうであった。それと言うのも旗本はたもと御家人ごけにん名簿めいぼ管理かんりするのはおもて右筆ゆうひつだからだ。

 このおもて右筆ゆうひつという役職ポストだが、本丸ほんまる西之丸にしのまるともかれており、本丸ほんまる役人やくにんおよ無役ニート旗本はたもとと、それにすべての御家人ごけにん名簿めいぼ管理かんりするのが本丸ほんまるおもて右筆ゆうひつならば、西之丸にしのまるおもて右筆ゆうひつ西之丸にしのまる役人やくにんのみ、その名簿めいぼ管理かんりする。

 家基いえもと次期じき将軍しょうぐんとして西之丸にしのまるあるじであったので、その家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった者達メンバー基本的きほんてきには西之丸にしのまるにて家基いえもとつかえる役人やくにんということで、彼等かれらまこと清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものであるかどうか、それをたしかめるには西之丸にしのまるおもて右筆ゆうひつたればい。

 いや、池原良誠いけはらよしのぶ場合ばあい本丸ほんまるおく医師いしであり、それゆえ池原良誠いけはらよしのぶ清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものかどうか、それをたしかめるには本丸ほんまるおもて右筆ゆうひつたる必要ひつようがあるが、しかし、池原良誠いけはらよしのぶ場合ばあい田沼たぬま意次おきつぐしたしく交際こうさいしており、そのことは周知しゅうち事実じじつであったので、田沼たぬま所縁ゆかりものと言え、態々わざわざ本丸ほんまるおもて右筆ゆうひつたる必要ひつようはなかった。

 そしてまこと清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりがあるのかいなか、それをたしかめるには名簿めいぼたるのが常道じょうどうであった。

 ともあれ深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん西之丸にしのまるにあるおもて右筆ゆうひつ詰所つめしょへとあしはこぶと、分限ぶげんちょうあらためかた波多野はたの主水もんど保春やすはる来意らいいげると、名簿めいぼせてくれるようたのんだ。名簿めいぼ管理かんりするのはおもて右筆ゆうひつなかでも、

分限ぶげんちょうあらためかた

 それを兼務けんむするおもて右筆ゆうひつであり、西之丸にしのまる場合ばあい波多野はたの主水もんどがそれを兼務けんむしていた。

 波多野はたの主水もんどは、

おによりこわい…」

 目付めつけ深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんからの要請ようせいということもあり、ただちに名簿めいぼ差出さしだした。

 こうして十郎左衛門じゅうろうざえもん名簿めいぼり、家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった者達メンバー身元みもと出自しゅつじについてみずからのたしかめたのであった。

 その結果けっか興正おきまさが言うとおり、大半たいはんもの清水しみず所縁ゆかりがあり、また少数しょうすうながら田沼たぬま所縁ゆかりのあるものもいた。

 いや、それだけではない。十郎左衛門じゅうろうざえもん名簿めいぼっていると、波多野はたの主水もんどよこからおどろくべきことをくちにしたのだ。

「それにしても、ここ数日すうじつ、やけに閲覧者えつらんしゃおおいこと…」

 波多野はたの主水もんどのそのつぶやきを十郎左衛門じゅうろうざえもんのがさず、名簿めいぼめると、「どういう意味いみか?」とただしたのだ。

「いえ、相役あいやく遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたり過日かじつ…、大納言だいなごんさま放鷹ほうようまえにも熱心ねっしん名簿めいぼっておりましたゆえ…」

吉十郎きちじゅうろう文左衛門ぶんざえもんが?」

 十郎左衛門じゅうろうざえもんおもわずそう聞返ききかえしたのには理由わけがあった。それと言うのも、十郎左衛門じゅうろうざえもん遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもんっていたからだ。

 遠山とおやま吉十郎きちじゅうろうこと吉十郎きちじゅうろう景審かげあきにしろ、野本のもと文左衛門ぶんざえもんこと文左衛門ぶんざえもん尹虎ただとらにしろ、波多野はたの主水もんどが「相役あいやく」としょうしたよう二人ふたりともおもて右筆ゆうひつであった。

 だが、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん場合ばあい波多野はたの主水もんどとはことなり、日記にっきかた兼務けんむしていた。これはそのとおり、日記にっきをつけるかかりであり、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもんように、西之丸にしのまるおもて右筆ゆうひつ日記にっきかたともなると、西之丸にしのまるこった出来事できごとについて日記にっき書留かきとめる。

 ただし、おもて右筆ゆうひつ日記にっきかただけで、すべての出来事できごと網羅もうら出来できわけではない。

 書損かきそんじや、あるいは勘違かんちがい、おもちがいから日記にっき正確せいかくさをくことにもなろう。

 そこでこの日記にっきかたいま波多野はたの主水もんど一人ひとり兼務けんむする分限ぶげんちょうあらためかたよう所謂いわゆる独任制どくにんせい一人ひとりまかせるのではなく、合議制ごうぎせい複数人ふくすうにんおもて右筆ゆうひつ兼務けんむさせる体制たいせいられており、西之丸にしのまる場合ばあいだと、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたり兼務けんむしていた。

 いや、おもて右筆ゆうひつだけに日記にっき書留かきとめるのをまかせていたのでは、やはり間違まちがいもあるやもれず、そこでより日記にっき正確性せいかくせいすべく、目付めつけにおいても、

日記にっきようがかり

 という兼務けんむポストをもうけており、この日記にっきようがかり兼務けんむする目付めつけ日記にっきかた兼務けんむするおもて右筆ゆうひつわせながら日記にっきをつけることになる。

 それゆえ入室にゅうしつきびしく制限せいげんされている目付めつけ詰所つめしょもこと、おもて右筆ゆうひつ、それも日記にっきかたおもて右筆ゆうひつはその職務しょくむがらとく入室にゅうしつゆるされていた。

 そして西之丸にしのまる目付めつけにおいては新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん直内なおうちがこの日記にっきようがかり兼務けんむしており、目付めつけ詰所つめしょにて新庄しんじょう與惣右衛門よそえもん遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりとも日記にっき作成さくせいする姿すがた深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん度々たびたびにしていた。

 十郎左衛門じゅうろうざえもん遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりおもて右筆ゆうひつ見知みしっていたのはかる事情じじょうによる。

「して…、そこもととおなおもて右筆ゆうひつとはもうせ、畑違はたけちがいとももうせる日記にっきがた遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたり何故なにゆえに、名簿めいぼを…、分限ぶげんちょうあらためかたのそこもとが管理かんりせし名簿めいぼ閲覧えつらんせしことをのぞんだのか、その理由わけいたのでござろうか?」

 十郎左衛門じゅうろうざえもん波多野はたの主水もんどにそうたずねるや、「無論むろんきましてござる」と即答そくとうした。十郎左衛門じゅうろうざえもんときとは、えらいちがいである。

 いや、相手あいておによりこわ目付めつけ深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんともなればはなしべつであろう。すなわち、その十郎左衛門じゅうろうざえもんより名簿めいぼせろと要請ようせいされれば、理由わけわずにせるよりほかにはないであろう。

 だが相手あいて相役あいやく同僚どうりょうおもて右筆ゆうひつである遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりともなれば、やはりはなしべつである。

 すなわち、深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんたいするときとはちがい、つよられるというものである。

 さて、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたり名簿めいぼ閲覧えつらんしたがったその理由わけだが、

そば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわらさまめいとのことにて…」

 波多野はたの主水もんどは「そば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわらさま」こと若狭守わかさのかみ信喜のぶよしげた。

「そは…、小笠原おがさわらさま遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両名りょうめいたいして名簿めいぼ閲覧えつらんするようめいじた…、と?」

 十郎左衛門じゅうろうざえもんたしかめるようにそうたずねた。

左様さよう…」

「して、具体的ぐたいてきには…、小笠原おがさわらさま如何いか思惑おもわくにて、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両名りょうめい名簿めいぼ閲覧えつらんするようめいじたのか…、そのてんかんしても、吉十郎きちじゅうろう文左衛門ぶんざえもんたしかめられたか?」

 十郎左衛門じゅうろうざえもんがそのてん波多野はたの主水もんどただすと、主水もんど表情ひょうじょうくもらせた。どうやらたしかめてはいないらしい。あんじょう

「いえ、そこまでは…」

 主水もんど表情ひょうじょうくもらせつつ、そうこたえた。

左様さようか…、いや、そこまではたしかめぬもの…」

 十郎左衛門じゅうろうざえもん主水もんど理解りかいしめした。かり主水もんど小笠原おがさわら信喜のぶよしの「意図いと」について、吉十郎きちじゅうろう文左衛門ぶんざえもんたしかめてみたところで、吉十郎きちじゅうろう文左衛門ぶんざえもん二人ふたりがそこまでくちるとはおもえなかったからだ。

 それになにより、小笠原おがさわら信喜のぶよしの「意図いと」については容易ようい見当けんとうがつく。

大納言だいなごんさま新井宿あらいじゅくのほとりへの放鷹ほうようしたがうことが出来できものなかから清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものさがせ…」

 おそらく、信喜のぶよし吉十郎きちじゅうろう文左衛門ぶんざえもん二人ふたり名簿めいぼ閲覧えつらんするようめいじたさいにその「意図いと」をつたえたにちがいない。

 そして家基いえもと新井宿あらいじゅくのほとりへの鷹狩たかがりの帰途きと立寄たちよった品川しながわ東海とうかいにおいてにわかに発病はつびょうきゅう腹痛ふくつううったえ、御城えどじょう西之丸にしのまるへとかつまれた…、しかも家基いえもと発病はつびょうきゅう腹痛ふくつううったえたその現場げんばとも言うべき品川しながわ東海とうかいには、家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった、それも清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものほとんめられていた…、これでかり家基いえもと腹痛ふくつうやまいによるものではなく、そば用取次ようとりつぎ水上興正みずかみおきまさ指摘してきしたように、一服いっぷくられたためだとしたら、まずうたがわしいのは家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった彼等かれら清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものということになる…。

 しかも家基いえもと腹痛ふくつううったえたのは、品川しながわ東海とうかいにて一服いっぷくしたあと…、茶菓子ちゃがしべた直後ちょくごとのことである。

 無論むろん毒見どくみされたが、その毒見どくみになったのが膳番ぜんばん小納戸こなんど石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん三浦左膳みうらさぜん義和よしかず、そしてヒラの小納戸こなんど押田おしだ藤右衛門とうえもん勝融かつなかであり、このうち石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもん押田おしだ藤右衛門とうえもん田沼たぬま所縁ゆかりがあり、一方いっぽう三浦左膳みうらさぜん清水しみず所縁ゆかりがあった。

 それだけではない、石谷いしがや次郎左衛門じろうざえもんらが茶菓子ちゃがし毒見どくみになさい、これを監督かんとくした小納戸こなんど頭取とうどりしゅう新見しんみ讃岐守さぬきのかみ正則まさのり高井たかい下總守しもうさのかみ實員さねかず両名りょうめいとも田沼たぬま所縁ゆかりがあった。

 そのうえ家基いえもとぜんにて給仕きゅうじになった4人の小姓こしょうのうち、高井たかい伊豫守いよのかみ清寅きよとら大久保おおくぼ靱負ゆきえ忠俶ただあつの2人は清水しみず所縁ゆかりがあった。

 これだけの「状況じょうきょう」がそろえば、

三卿さんきょう清水しみず重好しげよし家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとなるべく、田沼たぬま意次おきつぐにぎり、鷹狩たかがりの利用りようして、家基いえもと毒殺どくさつした…」

 その「証拠しょうこ」、所謂いわゆる、「状況じょうきょう証拠しょうこ」となるであろう。

 だが、そば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよしが、

故意こいに…」

 清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものえらんで、それもおもて右筆ゆうひつ遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりめいじて清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりもの名簿めいぼから抽出ちゅうしゅつさせ、家基いえもと鷹狩たかがりにしたがわせたという、もうひとつの「状況じょうきょう」がそこにくわわれば、べつ様相ようそうびてくる。

「さも、三卿さんきょう清水しみず重好しげよし家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐんとなるべく、田沼たぬま意次おきつぐむすび、鷹狩たかがりの利用りようして家基いえもと毒殺どくさつした…、とおもわせようとした」

 その可能性かのうせいである。

 かりにその可能性かのうせいこそが事実じじつである場合ばあいには家基いえもとくなり、つ、清水しみず重好しげよしおよ田沼たぬま意次おきつぐにそのつみかずかせることで「最大さいだい利益りえきを」をげられるものほかならない。

 それではこの場合ばあいにおける「最大さいだい利益りえき」とはなにか、それはズバリ、

次期じき将軍しょうぐん

 それであった。

 そして家基いえもとわる次期じき将軍しょうぐん候補こうほとして、まずはじめにげられるのは三卿さんきょうにして、将軍しょうぐん家治いえはる腹違はらちがいのおとうとである清水しみず重好しげよしであろう。

 だが、清水しみず重好しげよし田沼たぬま意次おきつぐむすんで、家基いえもと毒殺どくさつはかった…、そのよう疑惑ぎわく浮上ふじょうすれば、その真偽しんぎかかわりなく、「次期じき将軍しょうぐんレース」から脱落だつらくするであろう。

 それでは清水しみず重好しげよしいで次期じき将軍しょうぐん候補こうほだれかとわれれば、それはやはり三卿さんきょう一橋ひとつばし治済はるさだいてほかにはいないであろう。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんはそこまで思考しこうめぐらせると、そば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし三卿さんきょう一橋ひとつばししたしいことをおもした。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんいている西之丸にしのまる目付めつけおも職掌しょくしょう西之丸にしのまるつかえる役人やくにん監察かんさつにある。

 そのてんすべての諸役人しょやくにんもとより、無役ニート旗本はたもと御家人ごけにんいたるまでその監察かんさつたる本丸ほんまる目付めつけくらべれば、その「守備範囲しゅびはんい」はせまいと言えるが、それでも西之丸にしのまる目付めつけ本丸ほんまる目付めつけ同様どうよう西之丸にしのまるつかえる役人やくにんであれば、老中ろうじゅう若年寄わかどしよりさえもその「守備範囲しゅびはんい」であり、そば用取次ようとりつぎも、であった。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん西之丸にしのまる目付めつけとして、西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよしをも、その監察かんさつ対象たいしょうとし、勿論もちろん信喜のぶよしさとられぬよう、その動静どうせいさぐった。

 するとその過程かていで、小笠原おがさわら信喜のぶよし屋鋪やしき一橋ひとつばしつかえる、それも当主とうしゅ治済はるさだ寵臣ちょうしんとも言うべき岩本いわもと喜内きない正信まさのぶ度々たびたび出入でいりする姿すがたたしかめられた。

 しかも岩本いわもと喜内きないおとずれたのはおもて六番ろくばんちょうにある屋鋪やしきではなく、小石川こいしかわにある屋鋪やしきであった。

 旗本はたもとでもその頂点ちょうてん位置いちする本丸ほんまる留守居るすいや、あるいはそれにそばしゅうともなると、大名だいみょう同様どうよう下屋敷しもやしき拝領はいりょうする。

 小笠原おがさわら信喜のぶよし場合ばあいもそうであり、信喜のぶよし場合ばあい小石川こいしかわ下屋敷しもやしき拝領はいりょうしあのであった。

 その小石川こいしかわにある信喜のぶよし下屋敷しもやしき治済はるさだ寵臣ちょうしん岩本いわもと喜内きない度々たびたびおとずれていたのだ。

 だとするならば、小笠原おがさわら信喜のぶよし一橋ひとつばし、それも次期じき将軍しょうぐんねら治済はるさだつながりがあることになり、それはひいては信喜のぶよし治済はるさだの「姦計かんけい」にした「状況じょうきょう証拠しょうこ」となろう。

 この「仮説かせつ」をさらすすめると、信喜のぶよしめいにより、家基いえもと鷹狩たかがりにしたがわせる清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりもの抽出ちゅうしゅつしたおもて右筆ゆうひつ遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりもまた、信喜同様のぶよしどうよう治済はるさだなんらかのつながりがあるとかんがえられた。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん西之丸にしのまる役人やくにん監察かんさつおもたる職掌しょくしょうとする西之丸にしのまる目付めつけとして勿論もちろんおもて右筆ゆうひつである遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたりもその監察かんさついていた。

 だが遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん二人ふたり小笠原おがさわら信喜のぶよし場合ばあいとはちがい、一橋ひとつばし家臣かしんたずねるようなことはなかった。勿論もちろん、そのぎゃく遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもんから一橋ひとつばしへとあしはこようなこともなかったはずである。

 無論むろん深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんとてそれこそ、

四六時中しろくじちゅう…」

 遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん行動こうどう監視かんししているわけではないので、あるいは見落みおとしがあるやもれない。

 そこで十郎左衛門じゅうろうざえもん遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん、この両者りょうしゃの「家族ファミリー」について把握はあくすることにした。

 かりに「家族ファミリー」の一員いちいんなか一橋ひとつばし所縁ゆかりのあるものふくまれていれば、信喜のぶよしよう一橋ひとつばし家臣かしんおとずれずとも、いや、ひそかにおとずれたがために、十郎左衛門じゅうろうざえもん見落みおとしていたとしても、それがたしかめられれば一橋ひとつばしつながりがある傍証ぼうしょうとなる。

 そこで十郎左衛門じゅうろうざえもん波多野はたの主水もんど名簿めいぼなかから遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両者りょうしゃ戸籍こせきせてくれるようたのんだ。

 すると波多野はたの主水もんど膨大ぼうだい名簿めいぼなかから即座そくざ遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両者りょうしゃ戸籍こせき取出とりだすと、それを十郎左衛門じゅうろうざえもん差出さしだした。

 十郎左衛門じゅうろうざえもん二人分ふたりぶん戸籍こせき受取うけとると、それにとおした。

 結果けっか十郎左衛門じゅうろうざえもん予感よかん的中てきちゅうまさに「ビンゴ」であった。

 まず遠山とおやま吉十郎きちじゅうろうだが、養嗣子ようししである吉五郎きちごろう景照かげてるかいして一橋ひとつばしつながりがあった。

 すなわち、遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう養嗣子ようししとしてむかえた吉五郎きちごろう景照かげてるじつ旗本はたもと山中やまなか七左衛門しちざえもん玄祖よしもと一橋ひとつばし家臣かしん内藤ないとう友右衛門ともえもん助政すけまさむすめこうとのあいだした三男さんなんであったのだ。

 つぎ野本のもと文左衛門ぶんざえもんだが、実弟じってい勝蔵吉範かつぞうよしのり一橋ひとつばし家臣かしん伊藤いとう助左衛門すけざえもん吉高よしたか養嗣子ようししであったのだ。

 これで遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両者りょうしゃ一橋ひとつばしつながりがあることがあきらかとなり、ひいては十郎左衛門じゅうろうざえもんおもえがいた「仮説かせつ」のとおりである可能性かのうせいたかまった。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんおもえがいた「仮説かせつ」―、次期じき将軍しょうぐんねら一橋ひとつばし治済はるさだが、鷹狩たかがりの機会きかい利用りようして次期じき将軍しょうぐん家基いえもと毒殺どくさつ、しかもそのつみ家基いえもとくなった場合ばあい次期じき将軍しょうぐんの「最右翼さいうよく」にせられる清水しみず重好しげよしなすけ、さらには田沼たぬま意次おきつぐをもその「共犯きょうはん」に仕立したてるべく、そこで治済はるさだ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよしたいして、家基いえもと鷹狩たかがりに清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものしたがわせることを指示しじ、それにたいして信喜のぶよし治済はるさだからのその指示しじ遂行すいこうすべく、おもて右筆ゆうひつ遠山とおやま吉十郎きちじゅうろう野本のもと文左衛門ぶんざえもん両者りょうしゃめいじて清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりもの抽出ちゅうしゅつさせ、そうして彼等かれら家基いえもと鷹狩たかがりにしたがわせた―、もしこの「仮説かせつ」がただしいとするならば、家基いえもとには鷹狩たかがりの途中とちゅうで「効目ききめ」があらわれるどくもちいられたことになる。つまりは遅効性ちこうせいどくである。

 そうでなければ家基いえもと鷹狩たかがりにしたがった清水しみずおよ田沼たぬま所縁ゆかりものに、ひいては清水しみず重好しげよしおよ田沼たぬま意次おきつぐ家基殺害いえもとさつがいつみかずくことは出来できないからだ。

 だとするならば、家基いえもとどく摂取せっしゅしたのは鷹狩たかがりの直前ちょくぜんということになり、それが可能かのうなのは朝食ちょうしょくいてほかにはかんがえられなかった。

 だがここで、十郎左衛門じゅうろうざえもん思考しこう停止ストップした。それと言うのも、朝食ちょうしょく機会きかい家基いえもとどく摂取せっしゅさせるのは不可能ふかのうであるかのようおもわれたからだ。

 鷹狩たかがりの直前ちょくぜん家基いえもと大奥おおおくにて朝食ちょうしょくったのだが、家基いえもとくちにする朝食ちょうしょく事前じぜんに、家基附いえもとづき老女ろうじょ年寄としよりである初崎はつざき見守みまもなか、やはり家基附いえもとづききゃく応答あしらい毒見どくみになう。

 毒見どくみにな家基附いえもとづききゃく応答あしらい複数人ふくすうにんおり、そのなかだれ家基いえもと朝食ちょうしょく毒見どくみになったのか、このときはさしもの深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんにもからなかったが、しかし、だれであろうとも初崎はつざき監視かんししている以上いじょう朝食ちょうしょくどく混入こんにゅうすることは不可能ふかのうであるようおもわれた。

 なにしろ初崎はつざき家基いえもと乳母めのとであり、家基いえもとれて将軍しょうぐんとなったあかつきには、つまりは西之丸にしのまるあるじから本丸ほんまるあるじになったあかつきには初崎はつざき西之丸にしのまる老女ろうじょから本丸ほんまる老女ろうじょへと昇格しょうかく約束やくそくされている。

 そうであれば初崎はつざきにとって家基いえもと言葉ことばわるいが、大事だいじな「手蔓てづる」、もっと言えば「金蔓かねづる」であり、そのよう家基いえもと初崎はつざきがいするとは、十郎左衛門じゅうろうざえもんにはどうしてもおもえなかった。

 また、十郎左衛門じゅうろうざえもんにはもうひとつ、からないことがあった。それは、

如何いかなるどく使つかわれたのか…」

 というてんであった。遅効性ちこうせいどく使つかわれたであろうことは推察すいさつ出来できたものの、それでは具体的ぐたいてきには如何いかなるどくかとわれれば、十郎左衛門じゅうろうざえもんとしてもこたようがなかった。

 いや、それだけではない。だれどく調合ちょうごうしたのか、つまりは治済はるさだしたのか、それもまたなぞであった。おそらく本草学ほんぞうがくにでもつうじているものであることは推察すいさつ出来できたが、それが具体的ぐたいてきにはだれであるのか、やはり十郎左衛門じゅうろうざえもんにはその人名じんめいげることは出来できなかった。

 もっとも、十郎左衛門じゅうろうざえもんの「仮説かせつどおりだとして、その場合ばあい治済はるさだには誤算ごさんしょうじたことになるであろう。それは、

家基いえもとはまだ、んではいない…」

 ということであった。

 十郎左衛門じゅうろうざえもんの「仮説かせつどおりだとして、その場合ばあいには治済はるさだとしては鷹狩たかがりの最中さなか、それも帰途きと立寄たちよった東海とうかいにて、家基いえもと茶菓子ちゃがしくちにした直後ちょくご死亡しぼう即死そくしするのを期待きたいしたはずである。

 だが実際じっさいには家基いえもと即死そくししなかった。

 随行ずいこうした、やはり田沼たぬま所縁ゆかり、と言うよりは意次おきつぐ個人的こじんてきしたしい本丸奥ほんまるおく医師いし池原良誠いけはらよしのぶ家基いえもと徹底的てっていてき胃洗浄いせんじょうほどこし、それがこうそうしたらしく、即死そくしにはいたらなかったのだ。

 茶菓子ちゃがしくちにした直後ちょくご腹痛ふくつううったえた家基いえもとたいして池原良誠いけはらよしのぶ家基いえもとみず鱈腹たらふくませたのであった。

 もっとも、それで完治かんちしたわけではなく、家基いえもと容体ようだい依然いぜん重篤じゅうとくであった。

 だとするならば、治済はるさだとしては今度こんどこそ、とどめをそうとするのではあるまいか―、十郎左衛門じゅうろうざえもんはそこまでかんがえたときあわてて懐中かいちゅうより一枚いちまい書付かきつけ取出とりだした。

 その書付かきつけには西之丸にしのまるにて家基いえもと治療ちりょうたる医師いしと、それに西之丸にしのまる警護けいごする番方ばんかた武官ぶかん事細ことこまかにしたためられていた。西之丸にしのまる目付めつけ直属ちょくぞく上司じょうしたる西之丸にしのまる若年寄わかどしよりからわたされたものであった。

 そこには西之丸にしのまるつかえる役人やくにんのみならず、本丸ほんまるつかえる役人やくにんまでしたためられていた。

 具体的ぐたいてきには、たとえば家基いえもとの「治療ちりょう」にたる医師いしとして、本丸ほんまるにてつかえるおもてばん医師いし大淵友庵信敦おおぶちゆうあんのぶあつと、間違まちがいなくそのであろう大淵友元義長おおぶちゆうげんよしなが、それから中川專菴義方なかがわせんあんよしかたおそらくはそのであろう中川なかがわ隆玄りゅうげん瑞照のぶてる、それに峰岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおき遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわしたためられていた。

 また平日へいじつ登城とじょうせずに不時ふじようそなえる、まさ家基いえもと重体じゅうたいいま登城とじょうする寄合よりあい医師いしとして、岡井おかい運南うんなん道晟みちあきら千田玄知せんだげんち温恭あつただ、そして畠山はたけやま隆川りゅうせん常赴つねおき篠崎朴菴長正しのざきぼくあんながまさしたためられており、さらには小普請こぶしん医師いしぎない田澤たざわ玄丈げんじょう保久やすひさまであった。小普請こぶしん医師いしとは修行中インターンであった。

 この小普請こぶしん医師いし原則げんそく臨床教育ティーチングホスピタルつうじて、一人前いちにんまえ医師いし成長せいちょうするわけだが、しかし家基いえもと治療ちりょうなどおおよそ、臨床教育ティーチングホスピタル教材きょうざいとしては不適切ふてきせつであろう。

 ともあれ彼等かれら医師いし普段ふだん西之丸にしのまる出入ではいりすることはなく、しかしいま不時ふじ家基いえもと重体じゅうたいという緊急時きんきゅうじであり、その家基いえもと治療ちりょうたるべく、西之丸にしのまるへと登城とじょう出入ではいりするので、

西之丸にしのまる目付めつけもそのむね心得こころえておくように…」

 つまりは彼等かれら西之丸にしのまる登城とじょう出入ではいりしても、

「この書付かきつけしたためられているものかんしては誰何すいかせぬように…」

 との意味いみから深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんをはじめとする西之丸にしのまる目付めつけ西之丸にしのまる若年寄わかどしよりからかる書付かきつけくだされたのであった。

 十郎左衛門じゅうろうざえもん目付めつけとして、医師いしかおぐらいはすべ把握はあくしていた。それが仮令たとえ、ここ西之丸にしのまるつかえる医師いしではなく、本丸ほんまるつかえる医師いしであったとしてもだ。

 だがそんな十郎左衛門じゅうろうざえもん彼等かれら家族ファミリー所謂いわゆる、「由緒ゆいしょ」までは把握はあくしきれていなかった。

 それでも一橋ひとつばし所縁ゆかりがあることは推察すいさつ出来できた。

 本来ほんらい家基いえもと治療ちりょうたるべき西之丸にしのまるおく医師いしからは法眼ほうげん小川おがわ玄達子雍げんたつたねやすおなじく法眼ほうげん山添宗允直辰やまぞえそういんなおときえるだけであったからだ。

 重体じゅうたい家基いえもと治療ちりょうたるべき医師いしとして、その書付かきつけしたためられていた小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおとき二人ふたりだけが西之丸にしのまるおく医師いしであった。

 西之丸にしのまるおく医師いし勿論もちろん小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおときだけではない。ほかにも、西之丸にしのまるおく医師いしだん頂点トップ位置いちする法印ほういん吉田よしだ桃源院とうげんいん善正よしまさ筆頭ひっとうに、おなじく法印ほういんもり養春院ようしゅんいん當定まささだと、それに法眼ほうげんとしておか甫菴ほあん壽考としなり河野こうの良以通久よしもちみちひさ、そして井上いのうえ良泉りょうせん玄高はるたかもおり、しかし彼等かれらみな家基いえもと治療ちりょうたることはゆるされていなかった。

「これもまた、小笠原おがさわら信喜のぶよし仕業しわざか…」

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん咄嗟とっさにそうおもった。水上興正みずかみおきまさはなしいたあとだけに、そうおもうのが自然しぜんであった。

 だが如何いか小笠原おがさわら信喜のぶよしとて、ここまで恣意的しいてきな「配置はいち」をおこなうのは不可能ふかのうであろう。なにしろ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎには小笠原おがさわら信喜のぶよしほかにも水上興正みずかみおきまさや、それに佐野さの右兵衛尉うひょうえのじょう茂承もちつぐがそのつらねていたからだ。

 それゆえ信喜のぶよしかる恣意的しいてき配置はいちおこなおうにも、水上興正みずかみおきまさはばむにちがいなく、場合ばあいによっては昼行灯ひるあんどん有名ゆうめい佐野さの茂承もちつぐさえも流石さすが難色なんしょくしめおそれがあり、そうなれば如何いか信喜のぶよしちからもってしても不可能ふかのうというものであろう。

 だとするならば、信喜のぶよしよりもさらうえもの信喜のぶよしうしだてとなり、そのもの信喜のぶよし使嗾しそうして、かる恣意的しいてきな「配置はいち」をおこなわせたとかんがえるべきであろう。

 その場合ばあい信喜のぶよしよりもさらうえもの、それも信喜のぶよしうしだてとなりそうな人物じんぶつと言えば、それはそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば越中守えっちゅうのかみ正明まさあきらいてほかにはかんがえられなかった。

 本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらならば一人ひとりでも充分じゅうぶん水上興正みずかみおきまさ佐野さの茂承もちつぐすることが出来できよう。

 ともあれ、深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおときの「家族ファミリー」についても調しらべることにした。

 本来ほんらいならば、家基いえもとの「治療ちりょう」にたずさわることがゆるされた―、おそらくは稲葉いなば正明まさあきらうしだてたにちがいない小笠原おがさわら信喜のぶよしによってはいされたにちがいない医師団いしだん全員ぜんいんの「家族ファミリー」について調しらべたいところであったが、生憎あいにくとここ西之丸にしのまるにて保管ほかんされてある名簿めいぼ戸籍こせき西之丸にしのまるつかえる役人やくにんぶんだけということで、西之丸にしのまるおく医師いし小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおとき両者りょうしゃ戸籍こせきしか保管ほかんされてはいなかったのだ。

 だがそれでも十郎左衛門じゅうろうざえもんにはそれだけでも充分じゅうぶんであった。小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおときのどちらか、あるいはこの両者りょうしゃ一橋ひとつばし所縁ゆかりがあれば、

一橋ひとつばし治済はるさだ家基いえもと治療ちりょうりて、今度こんどこそ家基いえもといのちうば腹積はらづもりなのだろう…」

 十郎左衛門じゅうろうざえもんのそのインスピレイション裏付うらづけられることになるからだ。

 たしてその結果けっかだが、あん相違そういして小川おがわ子雍たねやすにしろ山添直辰やまぞえなおときにしろ、一橋ひとつばしとの所縁ゆかりはなかった。

 もっともそれは、

直接的ちょくせつてき関係かんけいはない…」

 だけなのやもれぬ。

 それが証拠しょうこに、家基いえもとの「治療ちりょう」にたる医師団いしだんだが、小川おがわ子雍たねやすかかわりのあるもの二人ふたりふくまれていたのだ。

 一人ひとり相役あいやく同僚どうりょう西之丸にしのまるおく医師いしである山添直辰やまぞえなおときであり、今一人いまひとり寄合よりあい医師いし篠崎長正しのざきながまさであった。

 このうち、山添直辰やまぞえなおとき小川おがわ子雍同様たねやすどうよう

直接的ちょくせつてきには…」

 一橋ひとつばしとの所縁ゆかり見出みいだせなかったものの、しかし、篠崎長正しのざきながまさかんしてはなんとも言えなかった。篠崎長正しのざきながまさ戸籍こせき本丸ほんまるおもて右筆ゆうひつによって保管ほかんされていたからだ。

 それでも篠崎長正しのざきながまさ小川おがわ子雍たねやす次女じじょきわめとっていることは、小川おがわ子雍たねやす戸籍こせきから判明はんめいした。

 すなわち、小川おがわ子雍たねやす篠崎長正しのざきながまさ岳父がくふ婿むこ関係かんけいにある。

 また、小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおときとの関係かんけいだが、子雍たねやす実姉じっしきよ山添宗積直之やまぞえそうせきなおゆきもとへととつぎ、直之なおゆききよとのあいだまれたのが山添直辰やまぞえなおときであり、つまり小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおときとは叔父おじおい関係かんけいにあったのだ。

 これでかり篠崎長正しのざきながまさ一橋ひとつばし所縁ゆかりがあれば、小川おがわ子雍たねやす婿むこである篠崎長正しのざきながまさ感化かんか、と言うよりは洗脳せんのうされて、

一橋ひとつばし

 となり、そして小川おがわ子雍たねやすさらおい山添直辰やまぞえなおときを「一橋ひとつばし」へと洗脳せんのうしたともかんがえられた。

 だとしたらほか医師いしについても一橋ひとつばしとの所縁ゆかりがある可能性かのうせい充分じゅうぶんにありた。

 また書付かきつけには番方ばんかた武官ぶかんしたためられていた。本丸ほんまるより大番おおばん書院番しょいんばん小姓こしょう組番ぐみばん、それに新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばんといった所謂いわゆる

番方ばんかた

 その番士ばんし西之丸にしのまる警備けいびたるべく、本丸ほんまるより西之丸にしのまるへとされることになり、そこで西之丸にしのまるつかえる書院番しょいんばん小姓こしょう組番ぐみばん新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばん番士ばんし本来ほんらい本丸ほんまるつかえる彼等かれら引合ひきあわされた。

 これから仕事しごとをするうえかおっておく必要ひつようがあるからで、その深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん西之丸にしのまる目付めつけ陪席ばいせきした。

 十郎左衛門じゅうろうざえもん西之丸にしのまる目付めつけ西之丸にしのまるつかえる役人やくにんならばおく医師いしかぎらず、書院番しょいんばん小姓こしょう組番ぐみばん新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばん番士ばんしかお名前なまえ把握はあくしていた。本丸ほんまるくらべて人数にんずうすくないので、その程度ていどであれば記憶きおく出来できる。いや、その程度ていど記憶力きおくりょく最低限さいていげんそなわっていた。

 だが本丸ほんまるつかえる「番方ばんかた」ともなると、如何いか記憶力きおくりょくそなわっている目付めつけいえども、完全かんぜんに「お手上てあげ」である。そこまでの記憶力きおくりょくは―、「番方ばんかた全員ぜんいんかお名前なまえ記憶きおく出来でき能力のうりょくまではそなわってはいなかった。

 そこでやはり、

彼等かれらかんしては誰何すいかせぬように…」

 その目的もくてきから、これから西之丸にしのまる警備けいびする彼等かれら本丸ほんまるつかえる「番方ばんかた」を十郎左衛門じゅうろうざえもんたち西之丸にしのまる目付めつけにも引合ひきあわせた次第しだいであった。

 十郎左衛門じゅうろうざえもんはそのとき様子ようすおもかべた。彼等かれら番士ばんしは、いや、彼等かれらだけではない、おく医師いしにしてもそうだが、次期じき将軍しょうぐんたる家基いえもと今正いままさに、生死せいしさかい彷徨さまようているというに、悲愴感ひそうかんまったくと言ってほど身受みうけられなかった。

 それどころかどこか期待感きたいかんさえただよわせているほどであった。すくなくとも深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんにはそうえた。

 おそらくは番士ばんしにしても医師いし同様どうよう一橋ひとつばし所縁ゆかりがあるにちがいなく、そこで医師いしによる家基いえもとへの「治療ちりょう」を邪魔じゃまてされぬよう、西之丸にしのまる警備けいびたるつもりなのであろう…、そう勘付かんづいた十郎左衛門じゅうろうざえもんただちに本丸ほんまるへとおもむき、将軍しょうぐん家治いえはるへの面会めんかいもとめた。

 西之丸にしのまる目付めつけ本丸ほんまるあるじたる将軍しょうぐん面会めんかいもとめるなど、あまり前例ぜんれいのないことではあったが、しかし、目付めつけであることにわりはなく、しかもその面会めんかい理由りゆうが、

大納言だいなごんさまいのちかかわること…」

 となれば大納言だいなごんこと家基いえもと実父じっぷたる将軍しょうぐん家治いえはるとしてはわないわけにはゆかない。

 家治いえはる御座之間ござのまにて、それも「人払ひとばらいよう」の形式けいしきにおいて西之丸にしのまる目付めつけ深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんとの面会めんかいのぞんだ。

 十郎左衛門じゅうろうざえもんはそのにおいて、これまでの経緯いきさつ要領ようりょう家治いえはる説明せつめいしたうえで、このまま事態じたい見過みすごせば今度こんどこそ、家基いえもといのちあやういと言上ごんじょうしたのであった。

 それにたいして家治いえはるただちに側用人そばようにんそば用取次ようとりつぎ、それに老中ろうじゅう若年寄わかどしよりと、さらには西之丸にしのまる若年寄わかどしよりおなじく西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎをも召出めしだした。

 そこで家治いえはるはまずは西之丸にしのまる若年寄わかどしよりおなじく西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎたいしては、家基いえもと治療ちりょうたるべき西之丸にしのまるおく医師いしとして、小川おがわ子雍たねやす山添直辰やまぞえなおとき二人ふたりだけではなく、すべての西之丸にしのまるおく医師いし家基いえもと治療ちりょうたらせるようめいじた。

 家治いえはるいで本丸側用人ほんまるそばようにんとその直属ちょくぞく部下ぶかであるそば用取次ようとりつぎおよ本丸ほんまる若年寄わかどしよりたいして、家基いえもと治療ちりょうたるべき本丸奥ほんまるおく医師いしとして、池原良誠いけはらよしのぶとそれにおなじく法眼ほうげんであるもり雲悦當光うんえつまさみつ千賀せんが道隆どうりゅう久頼ひさふゆくわえるようめいじた。

 将軍しょうぐん近侍きんじするおく医師いし事実上じじつじょうそば用取次ようとりつぎ支配下しはいかにあり、しかし、名目上めいもくじょう若年寄わかどしより支配しはい役職ポストであるので、そこで家治いえはるそば用取次ようとりつぎとそれをさら支配しはいする側用人そばようにんおよ若年寄わかどしよりにそのむねめいじたのであった。

 ちなみにおな理由わけから、家治いえはる西之丸にしのまるおく医師いし全員ぜんいんでもって家基いえもと治療ちりょうたらせるけんについて西之丸にしのまる若年寄わかどしより及びおよ西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎにそのむねめいじたのであった。

 ともあれ、家治いえはるのその親裁しんさいとも言うべき命令めいれいたいして、本丸ほんまるそば用取次ようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきら西之丸にしのまるそば用取次ようとりつぎ小笠原おがさわら信喜のぶよし両名りょうめいが、家治いえはる十郎左衛門じゅうろうざえもん予期よきしたとおりの反応はんのうしめした。

 すなわち、難色なんしょくしめしたのであった。

 成程なるほど稲葉いなば正明まさあきら小笠原おがさわら信喜のぶよし一橋ひとつばし治済はるさだ取込とりこまれていれば、つまりは家基いえもとねがっているならば、難色なんしょくしめすのも当然とうぜんと言えた。

 なにしろ、池原良誠いけはらよしのぶ家基いえもと救命きゅうめい措置そちたり、東海とうかいにて家基いえもとくなるのを阻止そしし、森當光もりまさみつはその良誠よしのぶ三女さんじょこうめとっていた。つまり、池原良誠いけはらよしのぶ森當光もりまさみつとは岳父がくふ婿むこ関係かんけいにあり、當光まさみつもまた、名医めいいであった。

 そして千賀せんが久頼ひさふゆはやはり名医めいいほまれたかく、意次おきつぐ意知おきとも父子ふしとも個人的こじんてきしたしい関係かんけいにあった。

 つまりはこの3人であれば、しん家基いえもと治療ちりょうたずさわってくれるであろうことが期待きたい出来できた。

 稲葉いなば正明まさあきら小笠原おがさわら信喜のぶよしも、ことに正明まさあきら彼等かれら本丸奥ほんまるおく医師いし事実上じじつじょう差配さはいするものとしてそのことを把握はあくしていたので、彼等かれら3人が家基いえもと治療ちりょうくわわることに難色なんしょくしめしたにちがいなく、それだけでも正明まさあきら信喜のぶよし家基いえもとねがっている傍証ぼうしょうと言えた。

 ともあれ正明まさあきらは、ことに池原良誠いけはらよしのぶ医師団いしだんくわわることに難色なんしょくしめした。

「されば池原雲伯いけはらうんぱくおそおおくも大納言だいなごんさまそばにありながら、大納言だいなごんさま不例ふれいふせげず…」

 家基いえもと鷹狩たかがりに随行ずいこうしながら、家基いえもと重体じゅうたいおちいらせた張本人ちょうほんにん…、正明まさあきら池原良誠いけはらよしのぶをそう見做みなして、良誠よしのぶ家基いえもと医師団いしだんくわわることに難色なんしょくしめしてみせたのであった。

 一見いっけんもっともらしい言分いいぶんではあったが、しかし、正明まさあきらの「はらそこ」はけてえた。

池原良誠いけはらよしのぶ家基いえもと医師団いしだんくわわれば、あるいは家基いえもと救命きゅうめい成功せいこうするやもれぬ…」

 それにほかならず、そこで家治いえはるもそんな正明まさあきらの「はらそこ」を読取よみとると、

「されば良誠よしのぶ家基いえもと鷹狩たかがりにしたごうてくれたからこそ…、家基いえもと救命きゅうめい措置そちほどこしてくれたからこそ、家基いえもと東海とうかいにていのちとさずにんだのだ…」

 家治いえはるはまずは良誠よしのぶ弁護べんごしたうえで、

「さればその良誠よしのぶなれば、家基いえもと恢復かいふくへとみちびいてくれるやもれぬ…、それとも正明まさあきら家基いえもと恢復かいふくのぞんではおらぬのか?」

 正明まさあきらたいして挑発ちょうはつ気味ぎみにそうあおった。

 無論むろん正明まさあきらは、「滅相めっそうもござりませぬ」と即座そくざに、と言うよりはあわてて否定ひていしてせた。なにしろ、そばには直属ちょくぞく上司じょうしたる側用人そばようにんや、さらには老中ろうじゅう若年寄わかどしよりひかえていたのだ。

 いや、彼等かれら側用人そばようにんたちも家治いえはるのその「あおり」には一様いちようおどろかされたものである。平素へいそ家治いえはる家臣かしんたいしてそのような「あおり」をせることはないからだ。

 それだけに家治いえはるいまかぎって、普段ふだんせることのない「あおり」を、正明まさあきらたいしてはせたことで、

「ひょっとして…」

 正明まさあきら家治いえはるの言うとおり、家基いえもとのぞんでいるのではあるまいか…、側用人そばようにんらにそうおもわせる効果こうかあたえた。

 正明まさあきら勿論もちろん、そうとさっしたからこそ、あわてて否定ひていしたのであった。

 一方いっぽう家治いえはるは「それなれば…」と、池原良誠いけはらよしのぶをも医師団いしだんくわえることで、正明まさあきら押切おしきった。

 家治いえはるはそれから老中ろうじゅうたいして、西之丸にしのまる警備けいびたる大番士おおばんしについて、大番頭おおばんがしら協議きょうぎうえ再考さいこうするようにめいじた。

のせいとはおもうが…、西之丸にしのまる警衛けいえいため西之丸にしのまるへとされし大番士おおばんしだが、たところ、どうにも一橋ひとつばし所縁ゆかりものおおい…、ともうすよりは、一橋ひとつばし所縁ゆかりものめられているようおもえるによって、されば今一度いまいちど西之丸にしのまるへとされし大番士おおばんしについて大番頭おおばんがしら協議きょうぎうえ一橋ひとつばしのみならず、田安たやす清水しみず所縁ゆかりものふくめて…、万遍まんべんえらぶがいぞ…」

 幕府ばくふ所謂いわゆる、「武官ぶかん番方ばんかた」のなかでも、大番おおばんのみは、その大番おおばんたばねる大番頭おおばんがしらのみは老中ろうじゅう支配しはいであったために、家治いえはる老中ろうじゅうにそうめいじたのであった。

 それはかく家治いえはるは言ってみれば「爆弾ばくだん」を投下とうかしたようなものである。

 先程さきほどの、正明まさあきらへの「あおり」のながれからすれば、

一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもといのちうばおうとしている黒幕くろまく…」

 そう言っているのも同然どうぜんであったからだ。

 家治いえはるつづけて若年寄わかどしよりたいしても、西之丸にしのまるへと派遣はけんされる書院番しょいんばん小姓こしょう組番ぐみばん新番しんばん小十人こじゅうにん組番ぐみばん各番かくばんについても同様どうように、その再考さいこうめいじるとともに、一橋ひとつばし所縁ゆかりものかたよることなく、田安たやす清水しみず所縁ゆかりものえらようめいじたのであった。

 武官ぶかん番方ばんかたのうち、大番おおばんのぞいたわば、「四番方よんばんかた」、そのかしら若年寄わかどしより支配しはいであるために、斯様かようめいじたのであった。

 そしてこのだんになって、家治いえはるによって召出めしだされた彼等かれら老中ろうじゅう側用人そばようにんそば用取次ようとりつぎらは、

一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもといのちうばおうとしている黒幕くろまく…」

 家治いえはるがそうかんがえるようになった背景はいけいに、西之丸にしのまる目付めつけでありながら、ここ本丸中奥ほんまるなかおく御座之間ござのまにて陪席ばいせきしている深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん存在そんざい読取よみとった。つまりは深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもん家治いえはる何事なにごとかを進言アドバイスして、家治いえはるにそうおもわせたにちがいない…、側用人ろうじゅう側用人そばようにんらはそう確信かくしんした。

 こうして家治いえはる一連いちれんの、家基いえもといのちまもるべき「親裁しんさい」をませると、老中ろうじゅう側用人そばようにんらには退出たいしゅつめいじ、ふたたび、十郎左衛門じゅうろうざえもん二人ふたりきり、所謂いわゆる、「人払ひとばらいよう」を演出えんしゅつしたのであった。

 老中ろうじゅう側用人そばようにんらは家治いえはる十郎左衛門じゅうろうざえもんのこして御座之間ござのまより退出たいしゅつしたわけで、彼等かれら立去たちさぎわ十郎左衛門じゅうろうざえもんへの嫉妬しっとおぼえると同時どうじに、十郎左衛門じゅうろうざえもんこそが家治いえはる一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもといのちうばおうとしていると、そうおもわせた張本人ちょうほんにんだと、そのおもいを愈愈いよいよもってつよくした。

 さて、家治いえはるふたたび、十郎左衛門じゅうろうざえもん二人ふたりきりとなると、その廣瀬ひろせのことを打明うちあけたのであった。

 すなわち、もと田安たやす老女ろうじょ、それも寶蓮院附ほうれんいんづき老女ろうじょにして、そのまえ家治いえはる正室せいしつ倫子ともことのあいだした萬壽ますひめ毒見どくみやくをその職掌しょくしょうとする中年寄ちゅうどしよりをもつとめていた廣瀬ひろせ不審ふしんげた一件いっけんである。

 いや、

表向おもてむきは…」

 廣瀬ひろせ一応いちおう自害じがいとして処理しょりされていたが、そのじつ廣瀬ひろせかつて、おのれつかえていた萬壽ますひめ病死びょうしではなく毒殺どくさつとのうたがいをつよくし、そのことをいまあるじである寶蓮院ほうれんいんつたえると同時どうじに、家治いえはるにもそのことをつたえようとした直前ちょくぜん、それも前日ぜんじつなぞげ、家治いえはるいまもって、廣瀬ひろせけっして自害じがいなどではなく、

だれかに口封くちふうじされたのではあるまいか…」

 そのうたがいをつよいていた。

 いや、廣瀬ひろせ寶蓮院ほうれんいん告白こくはくしていたのは、つまりは家治いえはるにも告発こくはつしようとしていたのは萬壽ます、それが毒殺どくさつではないか、とのうたがいだけではない、そのまえしゅっした倫子ともこもまた、

毒殺どくさつされたのではないか…」

 とのうたがいであり、しかもそれが一橋ひとつばし治済はるさだ差配さはいによるのではないか、ということであった。

 家治いえはる廣瀬ひろせおのれ告発こくはつしようとしていたその内容ないよう寶蓮院ほうれんいんよりかされ、そしていま家治いえはる今度こんどはそれをそのまま深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんつたえたのであった。

 そして家治いえはる家基いえもときゅう発病はつびょう毒殺どくさつ未遂みすい断定だんていしたうえで、これを倫子ともこならびに萬壽ます連続毒殺れんぞくどくさつ事件じけん延長線上えんちょうせんじょうにあるとして、十郎左衛門じゅうろうざえもんたいして、これら一連いちれんの「事件じけん」の探索たんさくめいじたのであった。

 そのさい家治いえはる十郎左衛門じゅうろうざえもんたいして、その通称つうしょうを、

式部しきぶ

 へとあらためるようにもめいじたのであった。式部しきぶという通称つうしょう十郎左衛門じゅうろうざえもんよりも格式かくしきたかく、それはつまりは、

西之丸にしのまる目付めつけから本丸ほんまる目付めつけへと異動いどう栄転えいてんさせよう…」

 家治いえはるのその意思いしめられていた。

 深谷ふかや十郎左衛門じゅうろうざえもんあらため深谷式部ふかやしきぶ家治いえはるめい勿論もちろんつつしんで拝受はいじゅすると同時どうじに、

田安たやすやかたにも一橋ひとつばしの、いや、一橋ひとつばし治済はるさだ間諜スパイがいるかも…」

 その可能性かのうせい指摘してきした。

 そうでなければ廣瀬ひろせ都合つごうく、家治いえはる告発こくはつする前日ぜんじつぬなどとは、それも口封くちふうじされるとはかんがえられなかったからだ。

 家治いえはるもその可能性かのうせいかんがえており、そこでかる間諜スパイすなわち、廣瀬ひろせ殺害さつがいした実行犯じっこうはん探索たんさくをもあわせて深谷式部ふかやしきぶめいじたのであった。

 廣瀬ひろせ家治いえはるかる告発こくはつおよぼうとしていたのは、すなわち、口封くちふうじをされたのは寶蓮院ほうれんいん養女ようじょである種姫たねひめ次期じき将軍しょうぐん家基いえもと婚約者こんやくしゃとして西之丸にしのまる大奥おおおくりをたそうとしていた直前ちょくぜんの安永4(1775)年のことであり、この時点じてんすでに4年が経過けいかしており、いまでもその間諜スパイ、もとい廣瀬ひろせくちふうじた下手人げしゅにん田安たやすやかたひそんでいるのか、それは深谷式部ふかやしきぶにもなんとも言えず、家治いえはるにその可能性かのうせいをも指摘してきした。

 それにたいして家治いえはるもやはりその可能性かのうせい織込おりこみであり、それでもなお式部しきぶ廣瀬ひろせごろしの下手人げしゅにん探索たんさくめいじたのであった。

 このうえ深谷式部ふかやしきぶ最早もはやなに補足ほそくすることはなく、早速さっそく探索たんさく取掛とりかかった。

 深谷式部ふかやしきぶ探索たんさく手始てはじめ、かりとして、遅効性ちこうせい毒物どくぶつ正体しょうたいあきらかにすることからをつけることにした。

 それが解明ときあかせないことには治済はるさだ有罪ギルティ立証りっしょうすることは出来できない。

 そこで深谷式部ふかやしきぶ池原いけはら雲亮うんりょう良明よしあきらたよることにした。

 深谷式部ふかやしきぶ目付めつけではあるが、薬学やくがくにはつうじていない。

 だが遅効性ちこうせい毒物どくぶつ正体しょうたい解明ときあかすには、どうしても薬学やくがく知識ちしき必要ひつようであり、深谷式部ふかやしきぶ薬学やくがくつうじているものとして、医師いしおもかべた。

 だが医師いしならばだれでもいというわけではなかった。たとえば、一橋ひとつばし所縁ゆかりのある医師いし相談そうだんしようものなら、治済はるさだ筒抜つつぬけになる危険性リスクおおいにありた。

 それゆえ一橋ひとつばし所縁ゆかりのない医師いし、というのが絶対ぜったい条件じょうけんであり、その条件じょうけんまるものとして、深谷式部ふかやしきぶ池原いけはら良明よしあきらおもかべたのだ。

 それと言うのも良明よしあきらは、池原良誠いけはらよしのぶ嫡男ちゃくなんであったからだ。

 池原良誠いけはらよしのぶ意次おきつぐしたしいことから、そこに治済はるさだをつけられて、治済はるさだから家基毒殺いえもとどくさつ未遂みすいぎぬせられようとしている。

 そうであれば本来ほんらい良誠よしのぶ探索たんさくへの協力きょうりょくもとめたいところであったが、生憎あいにく良誠よしのぶはこれから家基いえもと治療ちりょう手一杯ていっぱいとなるであろうから、そこで良誠よしのぶそく良明よしあきら協力きょうりょくもとめることにしたのだ。

 池原いけはら良明よしあきらもまた医師いしであり、良誠よしのぶそくであるために、治済はるさだつうじている危険性リスク皆無かいむと言えた。協力きょうりょくもとめるにはまさってつけの人材じんざいと言えた。

 池原良誠いけはらよしのぶ屋敷やしき愛宕下あたごした一等地いっとうちにあり、深谷式部ふかやしきぶおとずれると妻女さいじょなみ出迎でむかえてくれた。

 深谷式部ふかやしきぶ来意らいいげると、しばらようにと、なみに言われた。どうやら池原いけはら良明よしあきらいま不在ふざいであり、しかしもなくかえってるらしい。

 なみいわく、良明よしあきらいまはまだ、神田かんだにある医学いがくかん、「躋壽館せいじゅかん」にて臨床りんしょう実習じっしゅう最中さなかとのことである。

 池原いけはら良明よしあきらちち良誠よしのぶ同様どうよう医師いしとはもうせ、まだその「たまご」にぎない。

 それゆえ、「躋壽館せいじゅかん」にて臨床りんしょう実習じっしゅうかさねることで、医師いしとしての技術ぎじゅつみがくのだ。

 それからもなくして、良明よしあきら帰宅きたくし、深谷式部ふかやしきぶなみはからいにより、奥座敷おくざしきにて良明よしあきら引合ひきあわせてもらうと、良明よしあきらたいして、なみにも打明うちあけられなかったくわしい来意らいいげたのであった。

 良明よしあきら式部しきぶはなしみみかたむけるうち、流石さすが顔色かおいろわった。

 いや、元々もともと良明よしあきら顔色かおいろすぐれなかった。

 この段階だんかいすでに、家基いえもと新井宿あらいじゅくへの鷹狩たかがりの帰途きと立寄たちよった東海とうかいにて、された茶菓子ちゃがしくちにした途端とたんにわかの腹痛ふくつうおそわれて、|西之丸にしのまるへとかつまれてから一日いちにち経過けいかしていた。

 良明よしあきらもそれゆえちち良誠よしのぶより、おのれ家基いえもと鷹狩たかがりにしたがいながら、家基いえもと遭難そうなんふせげなかったことを打明うちあけていたのやもれぬ。

 ともあれ、良明よしあきら式部しきぶはなしをすっかりえるなり、まず、倫子ともこ萬壽ます、この両者りょうしゃたいして使つかわれたどくとして、砒素ひそげた。

 倫子ともこ萬壽ます二人ふたり砒素ひそふくませて毒殺どくさつしたのではないか、そうすることで病死びょうしせかけたのではないかと、良明よしあきらはその可能性かのうせい指摘してきした。

 それにたいして式部しきぶ成程なるほど、とおおいにうなずかされた。

 問題もんだい家基いえもと使つかわれたどくであった。

 良明よしあきらがそのどく遅効性ちこうせいどくとしてげたのはなんきのこであった。

「テングタケなるきのこなれば、どくおくれて発現はつげんし…」

 良明よしあきら指摘してきしたその可能性かのうせいに、式部しきぶはしかし、かぶりった。

大納言だいなごんさまぜんには…、これは上様うえさまぜんにもまることだが、食材しょくざいきのこ使つかわれぬものにて…」

 それゆえ、テングタケなるどくキノコを家基いえもと摂取せっしゅした可能性かのうせいきわめてひくかった。

 すると良明よしあきら自然毒しぜんどくなか遅効性ちこうせいどくつものと言えば、テングタケ以外いがいにはおもたらず、特別とくべつ調合ちょうごう

数種類すうしゅるいどく配合はいごうしたのではあるまいか…」

 その可能性かのうせい指摘してきしたのだ。

 式部しきぶはそれがなんであるのか、良明よしあきらかさねてうたが、流石さすが良明よしあきらにもこの段階だんかいでは見当けんとうもつかなかった。

 それも無理むりからぬことであり、式部しきぶ良明よしあきらたいして、どく究明きゅうめい依頼いらいしたのであった。

 良明よしあきら式部しきぶ依頼いらい快諾かいだくしたものの、

おのれ一人ひとりでは…、ことことだけにあまりますゆえ助力じょりょくもと馬手もかまいませぬか?」

 式部しきぶにそう申出もうしでたのであった。

 式部しきぶ良明よしあきらのその申出もうしでたいして難色なんしょくしめした。出来できれば良明よしあきら一人ひとり解明ときあかしてもらいたかったからだ。

 だが、そうは言っても良明よしあきら一人ひとりちからではあまるのも事実じじつであり、そこで式部しきぶ助力じょりょくもとめる相手あいてとして、

一橋ひとつばし所縁ゆかりのないもの…」

 それを条件じょうけんとしてげた。

 良明よしあきら式部しきぶはなしいて、それは十二分じゅうにぶん心得こころえており、戸田とだ要人かなめ祐之すけゆきなるものげた。

戸田とだ要人かなめ…、そのもの医師いしにて?」

 式部しきぶたずねると、しかし良明よしあきら意外いがいにもかぶりった。

いまでこそ無役むやく小普請こぶしんなれど、かつては書院番しょいんばんにて…」

 おどろいたことに、戸田とだ要人かなめなるもの番方ばんかた武官ぶかんであった。

 良明よしあきら説明せつめいによると、戸田とだ要人かなめなるものは32年前ねんまえの延享4(1747)年9月まで本丸ほんまるにて書院番しょいんばんつとめており、しかし、本草学ほんぞうがくせられてばんし、つまりは書院番しょいんばん退職たいしょくして、爾来じらい独学どくがくにて本草学ほんぞうがくきわめたわりだねであった。

 いや、明和2(1765)年に良明よしあきらかよ躋壽館せいじゅかん開校かいこうされるや、戸田とだ要人かなめ躋壽館せいじゅかんにもかよようになった。

 躋壽館せいじゅかん医学校いがっこうではあるが、ひろ門戸もんこ開放かいほうしており、戸田とだ要人かなめとく入塾にゅうじゅくゆるされた。

 本草学ほんぞうがくきわめたい、との戸田とだ要人かなめ熱意ねつい躋壽館せいじゅかん開設者かいせつしゃである多紀たき安元元孝あんげんもとたかみとめられたのであった。

 戸田とだ要人かなめ多紀たき元孝もとたか入塾にゅうじゅく希望きぼうしたさいに、これまでおのれきわめた本草学ほんぞうがくの、さしずめ研究けんきゅう報告書レポート多紀たき元孝もとたか提出ていしゅつし、元孝もとたかはその精緻せいちさにしたいたそうな。

 かくして戸田とだ要人かなめ躋壽館せいじゅかん入塾にゅうじゅくし、しかし、医師いしたまごではないので臨床りんしょう実習じっしゅう参加さんかすることはなく、おも座学ざがく講義こうぎけるのみであった。

 躋壽館せいじゅかんにおいては臨床りんしょう実習じっしゅうのみならず、座学ざがくもカリキュラムとしてまれており、戸田とだ要人かなめ躋壽館せいじゅかんにおけるその座学ざがくかれて入塾にゅうじゅくこころざしたのであった。

 そして、いまでは良明よしあきら座学ざがくにおいてはこの戸田とだ要人かなめつくえならべるなかであった。

 躋壽館せいじゅかんには良明よしあきらほかにもたとえば、小森こもり西菴頼長さいあんよりなが千田せんだ玄慶恭副げんけいたかすけ本賀ほんが貞珉保有ていみんやすよし岡井おかい玄用道博げんようみちひろといった面々めんめんかよっており、彼等かれらみな良明よしあきらおなじく、

御医師ごいし子息しそく

 という立場たちばであり、このうち、小森こもり頼長よりなが千田せんだ恭副たかすけ、それに本賀ほんが保有やすよし寄合よりあい医師いし子息しそくであった。

 すなわち、頼長よりなが小森こもり西倫頼堯さいりんよりたかの、恭副たかすけ千田せんだ玄知げんち温恭あつただの、そして保有やすよし本賀ほんが徳順とくじゅん貞玉さだよし夫々それぞれ子息しそくであった。

 一方いっぽう道博みちひろちち岡井おかい運南うんなん道晟みちあきらおもてばん医師いしであった。

 戸田とだ要人かなめはそのなかでも、良明よしあきら学友がくゆうえらんだのはほかでもない、良明よしあきら一番いちばん才能さいのうがあったからだ。

 一方いっぽう良明よしあきら戸田とだ要人かなめのその本草学ほんぞうがくにおける才能さいのう、それも博識はくしきぶりにはふか敬意けいいはらっていた。

 そのよう次第しだいであり、成程なるほど戸田とだ要人かなめ所謂いわゆる、「相棒あいぼう」としては最適任さいてきにんと言えた。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

紀州太平記 ~徳川綱教、天下を獲る~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:21pt お気に入り:1

喝鳶大名・内田正容

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:42pt お気に入り:0

逆転関が原殺人事件

ミステリー / 完結 24h.ポイント:42pt お気に入り:1

天明草子 ~たとえば意知が死ななかったら~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:7

毒花令嬢の逆襲 ~良い子のふりはもうやめました~

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:84,335pt お気に入り:3,431

突然の契約結婚は……楽、でした。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:46,996pt お気に入り:1,429

悪役令息の義姉となりました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:25,085pt お気に入り:1,433

若竹侍

歴史・時代 / 完結 24h.ポイント:340pt お気に入り:0

中世を駆ける~尼子家領地に転移した男~

歴史・時代 / 連載中 24h.ポイント:63pt お気に入り:1

戦国薄暮期〜とある武将の三男になったので戦国時代を変えてみました

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:1

処理中です...