20 / 116
将軍・家治が奏者番ではあるが、未だ大名ですらない部屋住の身の田沼意知を若年寄へと進ませる真の理由 中篇
しおりを挟む
家治が意知を若年寄へと進ませる真の理由―、それはズバリ、今は亡き愛息・家基の死の真相の探索に当たらせる為であった。
もっと言えば、家基を死に追いやった下手人、それも黒幕の探索にある。
2年前の天明元(1781)年12月15日、御座之間にて老中や側用人、それに若年寄や奏者番の筆頭たる寺社奉行らが列座する中、将軍・家治は意知一人を奏者番に任じた直後に、列座していた彼等、老中らを御座之間より退出させて意知と二人きりになると、その旨、命じたのであった。
意知も最初は信じられなかった。家基の死が病死ではなく、他殺、それも毒殺の疑いが濃厚だとは。
だが家治の話を聞く内、考えが変わった。
安永8(1779)年2月21日、新井宿のほとりへと鷹狩りに出向いた家基がその帰途、立寄った品川の東海寺にて俄かに腹痛を訴え、御城は西之丸へと担ぎ込まれた―、当時、西之丸の御側御用取次であった水上正興はそれを知ると、
「一服盛られたに相違あるまい…」
咄嗟にそう直感したそうな。
正興は既に鷹狩りの前から、その日の鷹狩りについて、いつもとは違う、何か、ただならぬものを感じていたからであり、それ故、家基が俄かの腹痛を訴え、西之丸に担ぎ込まれたと知るや、そう直感したのであった。
それと言うのも正興は相役、同僚である西之丸御側御用取次の小笠原信喜の動き、いや、蠢きと言った方がしっくり来る、それが気になって仕方がなかったからだ。
小笠原信喜の蠢き、家基の鷹狩りに随う人員の選考である。
信喜は選考を担当した訳だが、その選考基準たるや、
「御三卿の清水家所縁の者…」
それが選考基準なのではあるまいかと、そう思わせる程に、清水家と何らかの形で繋がりのある者で占められていたのだ。
いや、それに若干名、意次と所縁のある者も占められていたのだ。
それが家基が21日、夕の七つ半(午後5時頃)に品川の東海寺より御城西之丸へと担ぎ込まれてから、24日の巳の上刻、即ち昼四つ(午前10時頃)に薨ずるまでの間、家基の側を固めていたのはやはり御三卿の一橋家所縁の者であり、それでは鷹狩り―、家基が生前、最期となってしまった件の新井宿のほとりへの鷹狩りに随った、清水家所縁の者、或いは田沼家所縁の者はと言えば、それとは逆に排除されたのだ。
いや、興正も最初はそのことに気付かなかった。
だが小笠原信喜の「蠢き」が気になり、そこで西之丸目付の中でもとりわけ、秋霜烈日で知られる深谷十郎左衛門に内々に探索を依頼したのであった。
「どうにも此度の鷹狩りはいつもとは違う…」
興正は仔細を、即ち、信喜の「蠢き」について深谷十郎左衛門に打明けた上で、
「されば大納言様におかせられては…、一服盛られたのやも知れぬ…」
その可能性に触れて探索を依頼した訳である。
そこで深谷十郎左衛門はまずは、興正が言う通り、真、新井宿のほとりへの鷹狩りに随った者達が皆、清水家、及び田沼家所縁の者で占められているのか、それを確かめることから始めたそうな。
これを確かめるには表右筆に問合わせるのが常道であった。それと言うのも旗本・御家人の名簿を管理するのは表右筆だからだ。
この表右筆という役職だが、本丸・西之丸共に置かれており、本丸役人、及び無役の旗本と、それに全ての御家人の名簿を管理するのが本丸表右筆ならば、西之丸表右筆は西之丸役人のみ、その名簿を管理する。
家基は次期将軍として西之丸の主であったので、その家基の鷹狩りに随った者達も基本的には西之丸にて家基に仕える役人ということで、彼等が真、清水家、及び田沼家所縁の者であるかどうか、それを確かめるには西之丸表右筆に当たれば良い。
いや、池原良誠の場合は本丸奥医師であり、それ故、池原良誠が清水家、及び田沼家所縁の者かどうか、それを確かめるには本丸の表右筆に当たる必要があるが、しかし、池原良誠の場合、田沼意次と親しく交際しており、そのことは周知の事実であったので、田沼家所縁の者と言え、態々、本丸表右筆に当たる必要はなかった。
そして真、清水家、及び田沼家と所縁があるのか否か、それを確かめるには名簿に当たるのが常道であった。
ともあれ深谷十郎左衛門は西之丸にある表右筆の詰所へと足を運ぶと、分限帳改方の波多野主水保春に来意を告げると、名簿を見せてくれる様、頼んだ。名簿を管理するのは表右筆の中でも、
「分限帳改方」
それを兼務する表右筆であり、西之丸の場合、波多野主水がそれを兼務していた。
波多野主水は、
「鬼より怖い…」
目付の深谷十郎左衛門からの要請ということもあり、直ちに名簿を差出した。
こうして十郎左衛門は名簿を繰り、家基の鷹狩りに随った者達の身元、出自について自らの目で確かめたのであった。
その結果、興正が言う通り、大半の者が清水家と所縁があり、また少数ながら田沼家と所縁のある者もいた。
いや、それだけではない。十郎左衛門が名簿を繰っていると、波多野主水が横から驚くべきことを口にしたのだ。
「それにしても、ここ数日、やけに閲覧者が多いこと…」
波多野主水のその呟きを十郎左衛門は聞き逃さず、名簿を繰る手を止めると、「どういう意味か?」と糺したのだ。
「いえ、相役の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人も過日…、大納言様が御放鷹の前にも熱心に名簿を繰っておりました故…」
「吉十郎と文左衛門が?」
十郎左衛門が思わずそう聞返したのには理由があった。それと言うのも、十郎左衛門は遠山吉十郎も野本文左衛門も知っていたからだ。
遠山吉十郎こと吉十郎景審にしろ、野本文左衛門こと文左衛門尹虎にしろ、波多野主水が「相役」と称した様に二人共、表右筆であった。
だが、遠山吉十郎と野本文左衛門の場合、波多野主水とは異なり、日記方を兼務していた。これはその名の通り、日記をつける掛であり、遠山吉十郎や野本文左衛門の様に、西之丸表右筆の日記方ともなると、西之丸で起こった出来事について日記に書留める。
但し、表右筆の日記方だけで、全ての出来事を網羅出来る訳ではない。
書損じや、或いは勘違い、思い違いから日記に正確さを欠くことにもなろう。
そこでこの日記方は今は波多野主水一人が兼務する分限帳改方の様な所謂、独任制、一人に任せるのではなく、合議制、複数人の表右筆で兼務させる体制が取られており、西之丸の場合だと、遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が兼務していた。
いや、表右筆だけに日記を書留めるのを任せていたのでは、やはり間違いもあるやも知れず、そこでより日記の正確性を期すべく、目付においても、
「日記御用掛」
という兼務ポストを設けており、この日記御用掛を兼務する目付が日記方を兼務する表右筆と擦り合わせながら日記をつけることになる。
それ故、入室が厳しく制限されている目付の詰所もこと、表右筆、それも日記方の表右筆はその職務柄、特に入室が許されていた。
そして西之丸の目付においては新庄與惣右衛門直内がこの日記御用掛を兼務しており、目付の詰所にて新庄與惣右衛門が遠山吉十郎と野本文左衛門の二人と共に日記を作成する姿を深谷十郎左衛門も度々、目にしていた。
十郎左衛門が遠山吉十郎と野本文左衛門の二人の表右筆を見知っていたのは斯かる事情による。
「して…、そこもとと同じ表右筆とは申せ、畑違いとも申せる日記方の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が何故に、名簿を…、分限帳改方のそこもとが管理せし名簿を閲覧せしことを望んだのか、その理由は訊いたのでござろうか?」
十郎左衛門が波多野主水にそう尋ねるや、「無論、訊きましてござる」と即答した。十郎左衛門の時とは、えらい違いである。
いや、相手が鬼より怖い目付の深谷十郎左衛門ともなれば話は別であろう。即ち、その十郎左衛門より名簿を見せろと要請されれば、理由も問わずに見せるより外にはないであろう。
だが相手が相役、同僚の表右筆である遠山吉十郎と野本文左衛門の二人ともなれば、やはり話は別である。
即ち、深谷十郎左衛門に対する時とは違い、強く出られるというものである。
さて、遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が名簿を閲覧したがったその理由だが、
「御側御用取次の小笠原様が命とのことにて…」
波多野主水は「御側御用取次の小笠原様」こと若狭守信喜の名を挙げた。
「そは…、小笠原様が遠山吉十郎と野本文左衛門の両名に対して名簿を閲覧する様、命じた…、と?」
十郎左衛門は確かめる様にそう尋ねた。
「左様…」
「して、具体的には…、小笠原様は如何な思惑にて、遠山吉十郎と野本文左衛門の両名に名簿を閲覧する様、命じたのか…、その点に関しても、吉十郎と文左衛門に確かめられたか?」
十郎左衛門がその点を波多野主水に糺すと、主水は表情を曇らせた。どうやら確かめてはいないらしい。案の定、
「いえ、そこまでは…」
主水は表情を曇らせつつ、そう答えた。
「左様か…、いや、そこまでは確かめぬもの…」
十郎左衛門は主水に理解を示した。仮に主水が小笠原信喜の「意図」について、吉十郎と文左衛門に確かめてみたところで、吉十郎と文左衛門の二人がそこまで口を割るとは思えなかったからだ。
それに何より、小笠原信喜の「意図」については容易に見当がつく。
「大納言様の新井宿のほとりへの御放鷹に随うことが出来る者の中から清水家、及び田沼家所縁の者を探し出せ…」
恐らく、信喜は吉十郎と文左衛門の二人に名簿を閲覧する様、命じた際にその「意図」を伝えたに違いない。
そして家基は新井宿のほとりへの鷹狩りの帰途、立寄った品川の東海寺において俄かに発病、急に腹痛を訴え、御城の西之丸へと担ぎ込まれた…、しかも家基が発病、急の腹痛を訴えたその現場とも言うべき品川の東海寺には、家基の鷹狩りに随った、それも清水家、及び田沼家所縁の者で殆ど占められていた…、これで仮に家基の腹痛が病によるものではなく、御側御用取次の水上興正が指摘した様に、一服盛られた為だとしたら、まず疑わしいのは家基の鷹狩りに随った彼等、清水家、及び田沼家所縁の者ということになる…。
しかも家基が腹痛を訴えたのは、品川の東海寺にて一服した後…、茶菓子を食べた直後とのことである。
無論、毒見は為されたが、その毒見を担ったのが御膳番の小納戸の石谷次郎左衛門と三浦左膳義和、そしてヒラの小納戸の押田藤右衛門勝融であり、このうち石谷次郎左衛門と押田藤右衛門は田沼家と所縁があり、一方、三浦左膳は清水家と所縁があった。
それだけではない、石谷次郎左衛門らが茶菓子の毒見を担う際、これを監督した小納戸頭取衆の新見讃岐守正則と高井下總守實員は両名共に田沼家と所縁があった。
その上、家基の御前にて給仕を担った4人の小姓のうち、高井伊豫守清寅と大久保靱負忠俶の2人は清水家と所縁があった。
これだけの「状況」が揃えば、
「御三卿の清水重好が家基に代わる次期将軍となるべく、田沼意次と手を握り、鷹狩りの機を利用して、家基を毒殺した…」
その「証拠」、所謂、「状況証拠」となるであろう。
だが、御側御用取次の小笠原信喜が、
「故意に…」
清水家、及び田沼家所縁の者を選んで、それも表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人に命じて清水家、及び田沼家所縁の者を名簿から抽出させ、家基の鷹狩りに随わせたという、もう一つの「状況」がそこに加われば、別の様相を帯びてくる。
「さも、御三卿の清水重好が家基に代わる次期将軍となるべく、田沼意次と手を結び、鷹狩りの機を利用して家基を毒殺した…、と思わせようとした」
その可能性である。
仮にその可能性こそが事実である場合には家基が亡くなり、且つ、清水重好及び田沼意次にその罪を被かせることで「最大の利益を」を上げられる者に外ならない。
それではこの場合における「最大の利益」とは何か、それはズバリ、
「次期将軍の座」
それであった。
そして家基に代わる次期将軍候補として、まず始めに挙げられるのは御三卿にして、将軍・家治の腹違いの弟である清水重好であろう。
だが、清水重好が田沼意次と手を結んで、家基の毒殺を謀った…、その様な疑惑が浮上すれば、その真偽に関わりなく、「次期将軍レース」から脱落するであろう。
それでは清水重好に次いで次期将軍の候補は誰かと問われれば、それはやはり御三卿の一橋治済を措いて外にはいないであろう。
深谷十郎左衛門はそこまで思考を廻らせると、御側御用取次の小笠原信喜が御三卿の一橋家と親しいことを思い出した。
深谷十郎左衛門が就いている西之丸目付の主な職掌は西之丸に仕える役人の監察にある。
その点、全ての諸役人は元より、無役の旗本・御家人に至るまでその監察に当たる本丸目付に較べれば、その「守備範囲」は狭いと言えるが、それでも西之丸目付は本丸目付と同様、西之丸に仕える役人であれば、老中や若年寄さえもその「守備範囲」であり、御側御用取次も、であった。
深谷十郎左衛門は西之丸目付として、西之丸御側御用取次の小笠原信喜をも、その監察の対象とし、勿論、信喜に悟られぬ様、その動静を探った。
するとその過程で、小笠原信喜の屋鋪に一橋家に仕える、それも当主・治済の寵臣とも言うべき岩本喜内正信が度々、出入りする姿が確かめられた。
しかも岩本喜内が訪れたのは表六番丁にある屋鋪ではなく、小石川にある屋鋪であった。
旗本でもその頂点に位置する本丸留守居や、或いはそれに次ぐ御側衆ともなると、大名と同様、下屋敷を拝領する。
小笠原信喜の場合もそうであり、信喜の場合、小石川に下屋敷を拝領しあのであった。
その小石川にある信喜の下屋敷を治済の寵臣の岩本喜内が度々、訪れていたのだ。
だとするならば、小笠原信喜は一橋家、それも次期将軍の座を狙う治済と繋がりがあることになり、それはひいては信喜が治済の「姦計」に手を貸した「状況証拠」となろう。
この「仮説」を更に進めると、信喜の命により、家基の鷹狩りに随わせる清水家及び田沼家所縁の者を抽出した表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人もまた、信喜同様、治済と何らかの繋がりがあると考えられた。
深谷十郎左衛門は西之丸役人の監察を主たる職掌とする西之丸目付として勿論、表右筆である遠山吉十郎と野本文左衛門の二人もその監察下に置いていた。
だが遠山吉十郎と野本文左衛門の二人は小笠原信喜の場合とは違い、一橋家の家臣が訪ねる様なことはなかった。勿論、その逆、遠山吉十郎や野本文左衛門から一橋家へと足を運ぶ様なこともなかった筈である。
無論、深谷十郎左衛門とてそれこそ、
「四六時中…」
遠山吉十郎や野本文左衛門の行動を監視している訳ではないので、或いは見落としがあるやも知れない。
そこで十郎左衛門は遠山吉十郎と野本文左衛門、この両者の「家族」について把握することにした。
仮に「家族」の一員の中に一橋家と所縁のある者が含まれていれば、信喜の様に一橋家の家臣が訪れずとも、いや、密かに訪れたが為に、十郎左衛門が見落としていたとしても、それが確かめられれば一橋家と繋がりがある傍証となる。
そこで十郎左衛門は波多野主水に名簿の中から遠山吉十郎と野本文左衛門、両者の戸籍を見せてくれる様、頼んだ。
すると波多野主水は膨大な名簿の中から即座に遠山吉十郎と野本文左衛門の両者の戸籍を取出すと、それを十郎左衛門に差出した。
十郎左衛門は二人分の戸籍を受取ると、それに目を通した。
結果、十郎左衛門の予感が的中、正に「ビンゴ」であった。
まず遠山吉十郎だが、養嗣子である吉五郎景照を介して一橋家と繋がりがあった。
即ち、遠山吉十郎が養嗣子として迎えた吉五郎景照は実は旗本・山中七左衛門玄祖が一橋家臣の内藤友右衛門助政の娘の行との間に生した三男であったのだ。
次に野本文左衛門だが、実弟の勝蔵吉範が一橋家臣の伊藤助左衛門吉高の養嗣子であったのだ。
これで遠山吉十郎と野本文左衛門の両者が一橋家と繋がりがあることが明らかとなり、ひいては十郎左衛門が思い描いた「仮説」の通りである可能性が高まった。
深谷十郎左衛門が思い描いた「仮説」―、次期将軍の座を狙う一橋治済が、鷹狩りの機会を利用して次期将軍・家基を毒殺、しかもその罪を家基が亡くなった場合、次期将軍の「最右翼」に擬せられる清水重好に擦り付け、更には田沼意次をもその「共犯」に仕立てるべく、そこで治済は西之丸御側御用取次の小笠原信喜に対して、家基の鷹狩りに清水家及び田沼家所縁の者を随わせることを指示、それに対して信喜も治済からのその指示を遂行すべく、表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の両者に命じて清水家及び田沼家所縁の者を抽出させ、そうして彼等を家基の鷹狩りに随わせた―、もしこの「仮説」が正しいとするならば、家基には鷹狩りの途中で「効目」が現れる毒が用いられたことになる。つまりは遅効性の毒である。
そうでなければ家基の鷹狩りに随った清水家及び田沼家所縁の者に、ひいては清水重好及び田沼意次に家基殺害の罪を被くことは出来ないからだ。
だとするならば、家基が毒を摂取したのは鷹狩りの直前ということになり、それが可能なのは朝食を措いて外には考えられなかった。
だがここで、十郎左衛門の思考は停止した。それと言うのも、朝食の機会に家基に毒を摂取させるのは不可能であるかの様に思われたからだ。
鷹狩りの直前、家基は大奥にて朝食を摂ったのだが、家基が口にする朝食は事前に、家基附の老女、年寄である初崎が見守る中、やはり家基附の御客応答が毒見を担う。
毒見を担う家基附の御客応答は複数人おり、その中の誰が家基の朝食の毒見を担ったのか、この時はさしもの深谷十郎左衛門にも分からなかったが、しかし、誰であろうとも初崎が監視している以上は朝食に毒を混入することは不可能である様に思われた。
何しろ初崎は家基の乳母であり、家基が晴れて将軍となった暁には、つまりは西之丸の主から本丸の主になった暁には初崎も西之丸老女から本丸老女へと昇格が約束されている。
そうであれば初崎にとって家基は言葉は悪いが、大事な「手蔓」、もっと言えば「金蔓」であり、その様な家基を初崎が害するとは、十郎左衛門にはどうしても思えなかった。
また、十郎左衛門にはもう一つ、分からないことがあった。それは、
「如何なる毒が使われたのか…」
という点であった。遅効性の毒が使われたであろうことは推察出来たものの、それでは具体的には如何なる毒かと問われれば、十郎左衛門としても答え様がなかった。
いや、それだけではない。誰が毒を調合したのか、つまりは治済に手を貸したのか、それもまた謎であった。恐らく本草学にでも通じている者であることは推察出来たが、それが具体的には誰であるのか、やはり十郎左衛門にはその人名を挙げることは出来なかった。
尤も、十郎左衛門の「仮説」通りだとして、その場合、治済には誤算が生じたことになるであろう。それは、
「家基はまだ、死んではいない…」
ということであった。
十郎左衛門の「仮説」通りだとして、その場合には治済としては鷹狩りの最中、それも帰途に立寄った東海寺にて、家基が茶菓子を口にした直後に死亡、即死するのを期待した筈である。
だが実際には家基は即死しなかった。
随行した、やはり田沼家所縁、と言うよりは意次と個人的に親しい本丸奥医師の池原良誠が家基に徹底的な胃洗浄を施し、それが功を奏したらしく、即死には至らなかったのだ。
茶菓子を口にした直後、腹痛を訴えた家基に対して池原良誠が家基に水を鱈腹、呑ませたのであった。
尤も、それで完治した訳ではなく、家基の容体は依然、重篤であった。
だとするならば、治済としては今度こそ、止めを刺そうとするのではあるまいか―、十郎左衛門はそこまで考えた時、慌てて懐中より一枚の書付を取出した。
その書付には西之丸にて家基の治療に当たる医師の名と、それに西之丸を警護する番方、武官の名が事細かに認められていた。西之丸目付の直属の上司に当たる西之丸若年寄から渡されたものであった。
そこには西之丸に仕える役人のみならず、本丸に仕える役人の名まで認められていた。
具体的には、例えば家基の「治療」に当たる医師として、本丸にて仕える表番医師の大淵友庵信敦と、間違いなくその子であろう大淵友元義長、それから中川專菴義方と恐らくはその子であろう中川隆玄瑞照、それに峰岸春庵瑞興と遊佐卜庵信庭の名が認められていた。
また平日は登城せずに不時の用に備える、正に家基が重体の今、登城する寄合医師として、岡井運南道晟と千田玄知温恭、そして畠山隆川常赴と篠崎朴菴長正の名が認められており、更には小普請医師に過ぎない田澤玄丈保久の名まであった。小普請医師とは修行中の身であった。
この小普請医師は原則、臨床教育を通じて、一人前の医師に成長する訳だが、しかし家基の治療など凡そ、臨床教育の教材としては不適切であろう。
ともあれ彼等、医師は普段は西之丸に出入りすることはなく、しかし今は不時、家基が重体という緊急時であり、その家基の治療に当たるべく、西之丸へと登城、出入りするので、
「西之丸目付もその旨、心得ておくように…」
つまりは彼等が西之丸に登城、出入りしても、
「この書付に認められている者に関しては誰何せぬ様に…」
との意味から深谷十郎左衛門をはじめとする西之丸目付は西之丸若年寄から斯かる書付を下されたのであった。
十郎左衛門は目付として、医師の顔ぐらいは全て把握していた。それが仮令、ここ西之丸に仕える医師ではなく、本丸に仕える医師であったとしてもだ。
だがそんな十郎左衛門も彼等の家族、所謂、「由緒」までは把握しきれていなかった。
それでも一橋家と所縁があることは推察出来た。
本来、家基の治療に当たるべき西之丸の奥医師からは法眼の小川玄達子雍と同じく法眼の山添宗允直辰の名が見えるだけであったからだ。
重体の家基の治療に当たるべき医師として、その書付に認められていた小川子雍と山添直辰の二人だけが西之丸奥医師であった。
西之丸奥医師は勿論、小川子雍と山添直辰だけではない。外にも、西之丸奥医師団の頂点に位置する法印の吉田桃源院善正を筆頭に、同じく法印の森養春院當定と、それに次ぐ法眼として岡甫菴壽考や河野良以通久、そして井上良泉玄高もおり、しかし彼等は皆、家基の治療に当たることは許されていなかった。
「これもまた、小笠原信喜の仕業か…」
深谷十郎左衛門は咄嗟にそう思った。水上興正の話を聞いた後だけに、そう思うのが自然であった。
だが如何に小笠原信喜とて、ここまで恣意的な「配置」を行うのは不可能であろう。何しろ西之丸御側御用取次には小笠原信喜の外にも水上興正や、それに佐野右兵衛尉茂承がその名を列ねていたからだ。
それ故、信喜が斯かる恣意的な配置を行おうにも、水上興正が阻むに違いなく、場合によっては昼行灯で有名な佐野茂承さえも流石に難色を示す恐れがあり、そうなれば如何に信喜の力を以てしても不可能というものであろう。
だとするならば、信喜よりも更に上の者が信喜の後ろ盾となり、その者が信喜を使嗾して、斯かる恣意的な「配置」を行わせたと考えるべきであろう。
その場合、信喜よりも更に上の者、それも信喜の後ろ盾となりそうな人物と言えば、それは御側御用取次の稲葉越中守正明を措いて外には考えられなかった。
本丸御側御用取次の稲葉正明ならば一人でも充分に水上興正や佐野茂承を伍することが出来よう。
ともあれ、深谷十郎左衛門は小川子雍と山添直辰の「家族」についても調べることにした。
本来ならば、家基の「治療」に携わることが許された―、恐らくは稲葉正明の後ろ盾を得たに違いない小笠原信喜によって配されたに違いない医師団全員の「家族」について調べたいところであったが、生憎とここ西之丸にて保管されてある名簿、戸籍は西之丸に仕える役人の分だけということで、西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰の両者の戸籍しか保管されてはいなかったのだ。
だがそれでも十郎左衛門にはそれだけでも充分であった。小川子雍か山添直辰のどちらか、或いはこの両者が一橋家と所縁があれば、
「一橋治済は家基の治療の名を借りて、今度こそ家基の命を奪う腹積りなのだろう…」
十郎左衛門のその勘が裏付けられることになるからだ。
果たしてその結果だが、案に相違して小川子雍にしろ山添直辰にしろ、一橋家との所縁はなかった。
尤もそれは、
「直接的な関係はない…」
だけなのやも知れぬ。
それが証拠に、家基の「治療」に当たる医師団だが、小川子雍と関わりのある者が二人も含まれていたのだ。
一人は相役、同僚の西之丸奥医師である山添直辰であり、今一人は寄合医師の篠崎長正であった。
このうち、山添直辰は小川子雍同様、
「直接的には…」
一橋家との所縁は見出せなかったものの、しかし、篠崎長正に関しては何とも言えなかった。篠崎長正の戸籍は本丸の表右筆によって保管されていたからだ。
それでも篠崎長正が小川子雍の次女の際を娶っていることは、小川子雍の戸籍から判明した。
即ち、小川子雍と篠崎長正は岳父と婿の関係にある。
また、小川子雍と山添直辰との関係だが、子雍の実姉の淨が山添宗積直之の許へと嫁ぎ、直之と淨との間に生まれたのが山添直辰であり、つまり小川子雍と山添直辰とは叔父と甥の関係にあったのだ。
これで仮に篠崎長正が一橋家と所縁があれば、小川子雍は婿である篠崎長正に感化、と言うよりは洗脳されて、
「一橋派」
となり、そして小川子雍が更に甥の山添直辰を「一橋派」へと洗脳したとも考えられた。
だとしたら外の医師についても一橋家との所縁がある可能性が充分にあり得た。
また書付には番方、武官の名も認められていた。本丸より大番や書院番、小姓組番、それに新番や小十人組番といった所謂、
「五番方」
その番士が西之丸の警備に当たるべく、本丸より西之丸へと派されることになり、そこで西之丸に仕える書院番や小姓組番、新番や小十人組番の番士は本来、本丸に仕える彼等に引合わされた。
これから仕事をする上で顔を知っておく必要があるからで、その場に深谷十郎左衛門ら西之丸目付も陪席した。
十郎左衛門ら西之丸目付は西之丸に仕える役人ならば奥医師に限らず、書院番や小姓組番、新番や小十人組番の番士の顔と名前を把握していた。本丸に較べて人数が少ないので、その程度であれば記憶出来る。いや、その程度の記憶力は最低限、備わっていた。
だが本丸に仕える「五番方」ともなると、如何に記憶力が備わっている目付と雖も、完全に「お手上げ」である。そこまでの記憶力は―、「五番方」全員の顔と名前を記憶出来る能力までは備わってはいなかった。
そこでやはり、
「彼等に関しては誰何せぬように…」
その目的から、これから西之丸を警備する彼等、本丸に仕える「五番方」を十郎左衛門たち西之丸目付にも引合わせた次第であった。
十郎左衛門はその時の様子を思い浮かべた。彼等番士は、いや、彼等だけではない、奥医師にしてもそうだが、次期将軍たる家基が今正に、生死の境を彷徨うているというに、悲愴感は全くと言って良い程に身受けられなかった。
それどころかどこか期待感さえ漂わせている程であった。少なくとも深谷十郎左衛門の目にはそう見えた。
恐らくは番士にしても医師同様、一橋家と所縁があるに違いなく、そこで医師による家基への「治療」を邪魔立てされぬよう、西之丸の警備に当たるつもりなのであろう…、そう勘付いた十郎左衛門は直ちに本丸へと赴き、将軍・家治への面会を求めた。
西之丸目付が本丸の主たる将軍に面会を求めるなど、あまり前例のないことではあったが、しかし、目付であることに変わりはなく、しかもその面会理由が、
「大納言様の御命に関わること…」
となれば大納言こと家基の実父たる将軍・家治としては逢わない訳にはゆかない。
家治は御座之間にて、それも「御人払御用」の形式において西之丸目付の深谷十郎左衛門との面会に臨んだ。
十郎左衛門はその場において、これまでの経緯を要領良く家治に説明した上で、このまま事態を見過ごせば今度こそ、家基の命が危ういと言上したのであった。
それに対して家治は直ちに側用人と御側御用取次、それに老中と若年寄と、更には西之丸若年寄と同じく西之丸御側御用取次をも召出した。
そこで家治はまずは西之丸若年寄と同じく西之丸御側御用取次に対しては、家基の治療に当たるべき西之丸奥医師として、小川子雍と山添直辰の二人だけではなく、全ての西之丸奥医師に家基の治療に当たらせるよう命じた。
家治は次いで本丸側用人とその直属の部下である御側御用取次、及び本丸若年寄に対して、家基の治療に当たるべき本丸奥医師として、池原良誠とそれに同じく法眼である森雲悦當光と千賀道隆久頼を加える様に命じた。
将軍に近侍する奥医師は事実上、御側御用取次の支配下にあり、しかし、名目上は若年寄支配の役職であるので、そこで家治は御側御用取次とそれを更に支配する側用人、及び若年寄にその旨、命じたのであった。
ちなみに同じ理由から、家治は西之丸奥医師全員でもって家基の治療に当たらせる件について西之丸若年寄及びび西之丸御側御用取次にその旨、命じたのであった。
ともあれ、家治のその親裁とも言うべき命令に対して、本丸御側御用取次の稲葉正明と西之丸御側御用取次の小笠原信喜の両名が、家治や十郎左衛門が予期した通りの反応を示した。
即ち、難色を示したのであった。
成程、稲葉正明や小笠原信喜が一橋治済に取込まれていれば、つまりは家基の死を願っているならば、難色を示すのも当然と言えた。
何しろ、池原良誠は家基の救命措置に当たり、東海寺にて家基が亡くなるのを阻止し、森當光はその良誠の三女の功を娶っていた。つまり、池原良誠と森當光とは岳父と婿の関係にあり、當光もまた、名医であった。
そして千賀久頼はやはり名医の譽が高く、意次・意知父子とも個人的に親しい関係にあった。
つまりはこの3人であれば、真に家基の治療に携わってくれるであろうことが期待出来た。
稲葉正明も小笠原信喜も、ことに正明は彼等、本丸奥医師を事実上、差配する者としてそのことを良く把握していたので、彼等3人が家基の治療に加わることに難色を示したに違いなく、それだけでも正明や信喜は家基の死を願っている傍証と言えた。
ともあれ正明は、ことに池原良誠が医師団に加わることに難色を示した。
「されば池原雲伯は畏れ多くも大納言様の御側にありながら、大納言様の御不例を防げず…」
家基の鷹狩りに随行しながら、家基を重体に陥らせた張本人…、正明は池原良誠をそう見做して、良誠が家基の医師団に加わることに難色を示してみせたのであった。
一見、尤もらしい言分ではあったが、しかし、正明の「腹の底」は透けて見えた。
「池原良誠が家基の医師団に加われば、或いは家基の救命に成功するやも知れぬ…」
それに外ならず、そこで家治もそんな正明の「腹の底」を読取ると、
「されば良誠が家基の鷹狩りに随うてくれたからこそ…、家基の救命措置を施してくれたからこそ、家基は東海寺にて命を落とさずに済んだのだ…」
家治はまずは良誠を弁護した上で、
「さればその良誠なれば、家基を恢復へと導いてくれるやも知れぬ…、それとも正明は家基の恢復を望んではおらぬのか?」
正明に対して挑発気味にそう煽った。
無論、正明は、「滅相もござりませぬ」と即座に、と言うよりは慌てて否定して見せた。何しろ、直ぐ傍には直属の上司たる側用人や、更には老中や若年寄も控えていたのだ。
いや、彼等、側用人たちも家治のその「煽り」には一様に驚かされたものである。平素、家治は家臣に対してその様な「煽り」を見せることはないからだ。
それだけに家治が今に限って、普段は見せることのない「煽り」を、正明に対しては見せたことで、
「ひょっとして…」
正明は家治の言う通り、家基の死を望んでいるのではあるまいか…、側用人らにそう思わせる効果を与えた。
正明も勿論、そうと察したからこそ、慌てて否定したのであった。
一方、家治は「それなれば…」と、池原良誠をも医師団に加えることで、正明を押切った。
家治はそれから老中に対して、西之丸の警備に当たる大番士について、大番頭と良く協議の上、再考するように命じた。
「余の気のせいとは思うが…、西之丸の警衛の為に西之丸へと派されし大番士だが、余の見たところ、どうにも一橋家所縁の者が多い…、と申すよりは、一橋家所縁の者で占められている様に思えるによって、されば今一度、西之丸へと派されし大番士について大番頭と良く協議の上、一橋家のみならず、田安家や清水家所縁の者も含めて…、万遍無く選ぶが良いぞ…」
幕府の所謂、「武官五番方」の中でも、大番のみは、その大番を束ねる大番頭のみは老中支配であった為に、家治は老中にそう命じたのであった。
それは兎も角、家治は言ってみれば「爆弾」を投下した様なものである。
先程の、正明への「煽り」の流れからすれば、
「一橋治済こそが家基の命を奪おうとしている黒幕…」
そう言っているのも同然であったからだ。
家治は続けて若年寄に対しても、西之丸へと派遣される書院番、小姓組番、新番、小十人組番の各番士についても同様に、その再考を命じると共に、一橋家所縁の者に偏ることなく、田安家や清水家所縁の者も選ぶ様に命じたのであった。
武官五番方のうち、大番を除いた謂わば、「四番方」、その頭は若年寄支配である為に、斯様に命じたのであった。
そしてこの段になって、家治によって召出された彼等、老中や側用人、御側御用取次らは、
「一橋治済こそが家基の命を奪おうとしている黒幕…」
家治がそう考える様になった背景に、西之丸目付であり乍、ここ本丸中奥の御座之間にて陪席している深谷十郎左衛門の存在を読取った。つまりは深谷十郎左衛門が家治に何事かを進言して、家治にそう思わせたに違いない…、側用人や側用人らはそう確信した。
こうして家治は一連の、家基の命を守るべき「親裁」を済ませると、老中や側用人らには退出を命じ、再び、十郎左衛門と二人きり、所謂、「御人払御用」を演出したのであった。
老中や側用人らは家治と十郎左衛門を残して御座之間より退出した訳で、彼等は立去り際、十郎左衛門への嫉妬を覚えると同時に、十郎左衛門こそが家治に一橋治済こそが家基の命を奪おうとしていると、そう思わせた張本人だと、その思いを愈愈もって強くした。
さて、家治は再び、十郎左衛門と二人きりとなると、その場で廣瀬のことを打明けたのであった。
即ち、元・田安家の老女、それも寶蓮院附の老女にして、その前は家治が正室・倫子との間に生した萬壽姫の毒見役をその職掌とする中年寄をも勤めていた廣瀬が不審死を遂げた一件である。
いや、
「表向きは…」
廣瀬の死は一応、自害として処理されていたが、その実、廣瀬は嘗て、己が仕えていた萬壽姫が病死ではなく毒殺との疑いを強くし、そのことを今の主である寶蓮院に伝えると同時に、家治にもそのことを伝えようとした直前、それも前日に謎の死を遂げ、家治は今もって、廣瀬の死が決して自害などではなく、
「誰かに口封じされたのではあるまいか…」
その疑いを強く抱いていた。
いや、廣瀬が寶蓮院に告白していたのは、つまりは家治にも告発しようとしていたのは萬壽の死、それが毒殺ではないか、との疑いだけではない、その前に卒した倫子もまた、
「毒殺されたのではないか…」
との疑いであり、しかもそれが一橋治済の差配によるのではないか、ということであった。
家治は廣瀬が己に告発しようとしていたその内容を寶蓮院より聞かされ、そして今、家治は今度はそれをそのまま深谷十郎左衛門に伝えたのであった。
そして家治は家基の急の発病を毒殺未遂と断定した上で、これを倫子並びに萬壽の連続毒殺事件の延長線上にあるとして、十郎左衛門に対して、これら一連の「事件」の探索を命じたのであった。
その際、家治は十郎左衛門に対して、その通称を、
「式部」
へと改める様にも命じたのであった。式部という通称は十郎左衛門よりも格式が高く、それはつまりは、
「西之丸目付から本丸目付へと異動、栄転させよう…」
家治のその意思が込められていた。
深谷十郎左衛門改、深谷式部は家治の命を勿論、謹んで拝受すると同時に、
「田安館にも一橋家の、いや、一橋治済の間諜がいるかも…」
その可能性を指摘した。
そうでなければ廣瀬が都合良く、家治に告発する前日に死ぬなどとは、それも口封じされるとは考えられなかったからだ。
家治もその可能性は考えており、そこで斯かる間諜、即ち、廣瀬を殺害した実行犯の探索をも併せて深谷式部に命じたのであった。
廣瀬が家治に斯かる告発に及ぼうとしていたのは、即ち、口封じをされたのは寶蓮院の養女である種姫が次期将軍・家基の婚約者として西之丸の大奥入りを果たそうとしていた直前の安永4(1775)年のことであり、この時点で既に4年が経過しており、今でもその間諜、もとい廣瀬の口を封じた下手人が田安館に潜んでいるのか、それは深谷式部にも何とも言えず、家治にその可能性をも指摘した。
それに対して家治もやはりその可能性は織込み済みであり、それでも尚、式部に廣瀬殺しの下手人の探索を命じたのであった。
この上は深谷式部は最早、何も補足することはなく、早速、探索に取掛かった。
深谷式部は探索の手始め、取っ掛かりとして、遅効性の毒物の正体を明らかにすることから手をつけることにした。
それが解明かせないことには治済の有罪を立証することは出来ない。
そこで深谷式部は池原雲亮良明を頼ることにした。
深谷式部は目付ではあるが、薬学には通じていない。
だが遅効性の毒物の正体を解明かすには、どうしても薬学の知識が必要であり、深谷式部は薬学に通じている者として、医師を思い浮かべた。
だが医師ならば誰でも良いという訳ではなかった。例えば、一橋家に所縁のある医師に相談しようものなら、治済に筒抜けになる危険性が大いにあり得た。
それ故、一橋家と所縁のない医師、というのが絶対条件であり、その条件に当て嵌まる者として、深谷式部は池原良明を思い浮かべたのだ。
それと言うのも良明は、池原良誠の嫡男であったからだ。
池原良誠は意次と親しいことから、そこに治済に目をつけられて、治済から家基毒殺未遂の濡れ衣を着せられようとしている。
そうであれば本来、良誠に探索への協力を求めたいところであったが、生憎と良誠はこれから家基の治療で手一杯となるであろうから、そこで良誠の息・良明に協力を求めることにしたのだ。
池原良明もまた医師であり、良誠の息である為に、治済に通じている危険性も皆無と言えた。協力を求めるには正に打ってつけの人材と言えた。
池原良誠の屋敷は愛宕下の一等地にあり、深谷式部が訪れると妻女の濤が出迎えてくれた。
深谷式部が来意を告げると、暫く待つ様にと、濤に言われた。どうやら池原良明は今は不在であり、しかし間もなく帰って来るらしい。
濤曰く、良明は今はまだ、神田にある医学館、「躋壽館」にて臨床実習の最中とのことである。
池原良明は父、良誠と同様、医師とは申せ、まだその「卵」に過ぎない。
それ故、「躋壽館」にて臨床実習を重ねることで、医師としての技術を磨くのだ。
それから間もなくして、良明が帰宅し、深谷式部は濤の計らいにより、奥座敷にて良明に引合わせて貰うと、良明に対して、濤にも打明けられなかった詳しい来意を告げたのであった。
良明は式部の話に耳を傾けるうち、流石に顔色が変わった。
いや、元々、良明の顔色は勝れなかった。
この段階で既に、家基が新井宿への鷹狩りの帰途に立寄った東海寺にて、出された茶菓子を口にした途端、俄かの腹痛に襲われて、|西之丸へと担ぎ込まれてから一日が経過していた。
良明もそれ故、父・良誠より、己が家基の鷹狩りに随いながら、家基の遭難を防げなかったことを打明けていたのやも知れぬ。
ともあれ、良明は式部の話をすっかり聞き終えるなり、まず、倫子と萬壽、この両者に対して使われた毒として、砒素を挙げた。
倫子と萬壽の二人に砒素を服ませて毒殺したのではないか、そうすることで病死に見せかけたのではないかと、良明はその可能性を指摘した。
それに対して式部も成程、と大いに頷かされた。
問題は家基に使われた毒であった。
良明がその毒、遅効性の毒として挙げたのは何と茸であった。
「テングタケなる茸なれば、毒が遅れて発現し…」
良明が指摘したその可能性に、式部はしかし、頭を振った。
「大納言様が御膳には…、これは上様が御膳にも当て嵌まることだが、食材に茸は使われぬものにて…」
それ故、テングタケなる毒キノコを家基が摂取した可能性は極めて低かった。
すると良明は自然毒の中で遅効性の毒を持つものと言えば、テングタケ以外には思い当たらず、特別に調合、
「数種類の毒を配合したのではあるまいか…」
その可能性を指摘したのだ。
式部はそれが何であるのか、良明に重ねて問うたが、流石に良明にもこの段階では見当もつかなかった。
それも無理からぬことであり、式部は良明に対して、毒の究明を依頼したのであった。
良明は式部の依頼を快諾したものの、
「己一人では…、事が事だけに手に余ります故、助力を求馬手も構いませぬか?」
式部にそう申出たのであった。
式部は良明のその申出に対して難色を示した。出来れば良明一人で解明かして貰いたかったからだ。
だが、そうは言っても良明一人の力では手に余るのも事実であり、そこで式部は助力を求める相手として、
「一橋家と所縁のない者…」
それを条件として挙げた。
良明も式部の話を聞いて、それは十二分に心得ており、戸田要人祐之なる者の名を挙げた。
「戸田要人…、その者も医師にて?」
式部が尋ねると、しかし良明は意外にも頭を振った。
「今でこそ無役の小普請の身なれど、嘗ては御書院番士にて…」
驚いたことに、戸田要人なる者は番方、武官であった。
良明の説明によると、戸田要人なる者は32年前の延享4(1747)年9月まで本丸にて書院番士を勤めており、しかし、本草学に魅せられて番を辞し、つまりは書院番を退職して、爾来、独学にて本草学を究めた変わり種であった。
いや、明和2(1765)年に良明も通う躋壽館が開校されるや、戸田要人は躋壽館にも通う様になった。
躋壽館は医学校ではあるが、広く門戸を開放しており、戸田要人も特に入塾が許された。
本草学を究めたい、との戸田要人の熱意が躋壽館の開設者である多紀安元元孝に認められたのであった。
戸田要人は多紀元孝に入塾を希望した際に、これまで己が究めた本草学の、さしずめ研究報告書を多紀元孝に提出し、元孝はその精緻さに舌を巻いたそうな。
かくして戸田要人は躋壽館に入塾し、しかし、医師の卵ではないので臨床実習に参加することはなく、主に座学の講義を受けるのみであった。
躋壽館においては臨床実習のみならず、座学もカリキュラムとして組まれており、戸田要人も躋壽館におけるその座学に惹かれて入塾を志したのであった。
そして、今では良明は座学においてはこの戸田要人と机を並べる仲であった。
躋壽館には良明の外にも例えば、小森西菴頼長や千田玄慶恭副、本賀貞珉保有や岡井玄用道博といった面々が通っており、彼等は皆、良明と同じく、
「御医師子息」
という立場であり、このうち、小森頼長と千田恭副、それに本賀保有は寄合医師の子息であった。
即ち、頼長は小森西倫頼堯の、恭副は千田玄知温恭の、そして保有は本賀徳順貞玉の夫々、子息であった。
一方、道博の父、岡井運南道晟は表番医師であった。
戸田要人はその中でも、良明を学友と選んだのは外でもない、良明が一番、才能があったからだ。
一方、良明も戸田要人のその本草学における才能、それも博識ぶりには深い敬意を払っていた。
その様な次第であり、成程、戸田要人は所謂、「相棒」としては最適任と言えた。
もっと言えば、家基を死に追いやった下手人、それも黒幕の探索にある。
2年前の天明元(1781)年12月15日、御座之間にて老中や側用人、それに若年寄や奏者番の筆頭たる寺社奉行らが列座する中、将軍・家治は意知一人を奏者番に任じた直後に、列座していた彼等、老中らを御座之間より退出させて意知と二人きりになると、その旨、命じたのであった。
意知も最初は信じられなかった。家基の死が病死ではなく、他殺、それも毒殺の疑いが濃厚だとは。
だが家治の話を聞く内、考えが変わった。
安永8(1779)年2月21日、新井宿のほとりへと鷹狩りに出向いた家基がその帰途、立寄った品川の東海寺にて俄かに腹痛を訴え、御城は西之丸へと担ぎ込まれた―、当時、西之丸の御側御用取次であった水上正興はそれを知ると、
「一服盛られたに相違あるまい…」
咄嗟にそう直感したそうな。
正興は既に鷹狩りの前から、その日の鷹狩りについて、いつもとは違う、何か、ただならぬものを感じていたからであり、それ故、家基が俄かの腹痛を訴え、西之丸に担ぎ込まれたと知るや、そう直感したのであった。
それと言うのも正興は相役、同僚である西之丸御側御用取次の小笠原信喜の動き、いや、蠢きと言った方がしっくり来る、それが気になって仕方がなかったからだ。
小笠原信喜の蠢き、家基の鷹狩りに随う人員の選考である。
信喜は選考を担当した訳だが、その選考基準たるや、
「御三卿の清水家所縁の者…」
それが選考基準なのではあるまいかと、そう思わせる程に、清水家と何らかの形で繋がりのある者で占められていたのだ。
いや、それに若干名、意次と所縁のある者も占められていたのだ。
それが家基が21日、夕の七つ半(午後5時頃)に品川の東海寺より御城西之丸へと担ぎ込まれてから、24日の巳の上刻、即ち昼四つ(午前10時頃)に薨ずるまでの間、家基の側を固めていたのはやはり御三卿の一橋家所縁の者であり、それでは鷹狩り―、家基が生前、最期となってしまった件の新井宿のほとりへの鷹狩りに随った、清水家所縁の者、或いは田沼家所縁の者はと言えば、それとは逆に排除されたのだ。
いや、興正も最初はそのことに気付かなかった。
だが小笠原信喜の「蠢き」が気になり、そこで西之丸目付の中でもとりわけ、秋霜烈日で知られる深谷十郎左衛門に内々に探索を依頼したのであった。
「どうにも此度の鷹狩りはいつもとは違う…」
興正は仔細を、即ち、信喜の「蠢き」について深谷十郎左衛門に打明けた上で、
「されば大納言様におかせられては…、一服盛られたのやも知れぬ…」
その可能性に触れて探索を依頼した訳である。
そこで深谷十郎左衛門はまずは、興正が言う通り、真、新井宿のほとりへの鷹狩りに随った者達が皆、清水家、及び田沼家所縁の者で占められているのか、それを確かめることから始めたそうな。
これを確かめるには表右筆に問合わせるのが常道であった。それと言うのも旗本・御家人の名簿を管理するのは表右筆だからだ。
この表右筆という役職だが、本丸・西之丸共に置かれており、本丸役人、及び無役の旗本と、それに全ての御家人の名簿を管理するのが本丸表右筆ならば、西之丸表右筆は西之丸役人のみ、その名簿を管理する。
家基は次期将軍として西之丸の主であったので、その家基の鷹狩りに随った者達も基本的には西之丸にて家基に仕える役人ということで、彼等が真、清水家、及び田沼家所縁の者であるかどうか、それを確かめるには西之丸表右筆に当たれば良い。
いや、池原良誠の場合は本丸奥医師であり、それ故、池原良誠が清水家、及び田沼家所縁の者かどうか、それを確かめるには本丸の表右筆に当たる必要があるが、しかし、池原良誠の場合、田沼意次と親しく交際しており、そのことは周知の事実であったので、田沼家所縁の者と言え、態々、本丸表右筆に当たる必要はなかった。
そして真、清水家、及び田沼家と所縁があるのか否か、それを確かめるには名簿に当たるのが常道であった。
ともあれ深谷十郎左衛門は西之丸にある表右筆の詰所へと足を運ぶと、分限帳改方の波多野主水保春に来意を告げると、名簿を見せてくれる様、頼んだ。名簿を管理するのは表右筆の中でも、
「分限帳改方」
それを兼務する表右筆であり、西之丸の場合、波多野主水がそれを兼務していた。
波多野主水は、
「鬼より怖い…」
目付の深谷十郎左衛門からの要請ということもあり、直ちに名簿を差出した。
こうして十郎左衛門は名簿を繰り、家基の鷹狩りに随った者達の身元、出自について自らの目で確かめたのであった。
その結果、興正が言う通り、大半の者が清水家と所縁があり、また少数ながら田沼家と所縁のある者もいた。
いや、それだけではない。十郎左衛門が名簿を繰っていると、波多野主水が横から驚くべきことを口にしたのだ。
「それにしても、ここ数日、やけに閲覧者が多いこと…」
波多野主水のその呟きを十郎左衛門は聞き逃さず、名簿を繰る手を止めると、「どういう意味か?」と糺したのだ。
「いえ、相役の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人も過日…、大納言様が御放鷹の前にも熱心に名簿を繰っておりました故…」
「吉十郎と文左衛門が?」
十郎左衛門が思わずそう聞返したのには理由があった。それと言うのも、十郎左衛門は遠山吉十郎も野本文左衛門も知っていたからだ。
遠山吉十郎こと吉十郎景審にしろ、野本文左衛門こと文左衛門尹虎にしろ、波多野主水が「相役」と称した様に二人共、表右筆であった。
だが、遠山吉十郎と野本文左衛門の場合、波多野主水とは異なり、日記方を兼務していた。これはその名の通り、日記をつける掛であり、遠山吉十郎や野本文左衛門の様に、西之丸表右筆の日記方ともなると、西之丸で起こった出来事について日記に書留める。
但し、表右筆の日記方だけで、全ての出来事を網羅出来る訳ではない。
書損じや、或いは勘違い、思い違いから日記に正確さを欠くことにもなろう。
そこでこの日記方は今は波多野主水一人が兼務する分限帳改方の様な所謂、独任制、一人に任せるのではなく、合議制、複数人の表右筆で兼務させる体制が取られており、西之丸の場合だと、遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が兼務していた。
いや、表右筆だけに日記を書留めるのを任せていたのでは、やはり間違いもあるやも知れず、そこでより日記の正確性を期すべく、目付においても、
「日記御用掛」
という兼務ポストを設けており、この日記御用掛を兼務する目付が日記方を兼務する表右筆と擦り合わせながら日記をつけることになる。
それ故、入室が厳しく制限されている目付の詰所もこと、表右筆、それも日記方の表右筆はその職務柄、特に入室が許されていた。
そして西之丸の目付においては新庄與惣右衛門直内がこの日記御用掛を兼務しており、目付の詰所にて新庄與惣右衛門が遠山吉十郎と野本文左衛門の二人と共に日記を作成する姿を深谷十郎左衛門も度々、目にしていた。
十郎左衛門が遠山吉十郎と野本文左衛門の二人の表右筆を見知っていたのは斯かる事情による。
「して…、そこもとと同じ表右筆とは申せ、畑違いとも申せる日記方の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が何故に、名簿を…、分限帳改方のそこもとが管理せし名簿を閲覧せしことを望んだのか、その理由は訊いたのでござろうか?」
十郎左衛門が波多野主水にそう尋ねるや、「無論、訊きましてござる」と即答した。十郎左衛門の時とは、えらい違いである。
いや、相手が鬼より怖い目付の深谷十郎左衛門ともなれば話は別であろう。即ち、その十郎左衛門より名簿を見せろと要請されれば、理由も問わずに見せるより外にはないであろう。
だが相手が相役、同僚の表右筆である遠山吉十郎と野本文左衛門の二人ともなれば、やはり話は別である。
即ち、深谷十郎左衛門に対する時とは違い、強く出られるというものである。
さて、遠山吉十郎と野本文左衛門の二人が名簿を閲覧したがったその理由だが、
「御側御用取次の小笠原様が命とのことにて…」
波多野主水は「御側御用取次の小笠原様」こと若狭守信喜の名を挙げた。
「そは…、小笠原様が遠山吉十郎と野本文左衛門の両名に対して名簿を閲覧する様、命じた…、と?」
十郎左衛門は確かめる様にそう尋ねた。
「左様…」
「して、具体的には…、小笠原様は如何な思惑にて、遠山吉十郎と野本文左衛門の両名に名簿を閲覧する様、命じたのか…、その点に関しても、吉十郎と文左衛門に確かめられたか?」
十郎左衛門がその点を波多野主水に糺すと、主水は表情を曇らせた。どうやら確かめてはいないらしい。案の定、
「いえ、そこまでは…」
主水は表情を曇らせつつ、そう答えた。
「左様か…、いや、そこまでは確かめぬもの…」
十郎左衛門は主水に理解を示した。仮に主水が小笠原信喜の「意図」について、吉十郎と文左衛門に確かめてみたところで、吉十郎と文左衛門の二人がそこまで口を割るとは思えなかったからだ。
それに何より、小笠原信喜の「意図」については容易に見当がつく。
「大納言様の新井宿のほとりへの御放鷹に随うことが出来る者の中から清水家、及び田沼家所縁の者を探し出せ…」
恐らく、信喜は吉十郎と文左衛門の二人に名簿を閲覧する様、命じた際にその「意図」を伝えたに違いない。
そして家基は新井宿のほとりへの鷹狩りの帰途、立寄った品川の東海寺において俄かに発病、急に腹痛を訴え、御城の西之丸へと担ぎ込まれた…、しかも家基が発病、急の腹痛を訴えたその現場とも言うべき品川の東海寺には、家基の鷹狩りに随った、それも清水家、及び田沼家所縁の者で殆ど占められていた…、これで仮に家基の腹痛が病によるものではなく、御側御用取次の水上興正が指摘した様に、一服盛られた為だとしたら、まず疑わしいのは家基の鷹狩りに随った彼等、清水家、及び田沼家所縁の者ということになる…。
しかも家基が腹痛を訴えたのは、品川の東海寺にて一服した後…、茶菓子を食べた直後とのことである。
無論、毒見は為されたが、その毒見を担ったのが御膳番の小納戸の石谷次郎左衛門と三浦左膳義和、そしてヒラの小納戸の押田藤右衛門勝融であり、このうち石谷次郎左衛門と押田藤右衛門は田沼家と所縁があり、一方、三浦左膳は清水家と所縁があった。
それだけではない、石谷次郎左衛門らが茶菓子の毒見を担う際、これを監督した小納戸頭取衆の新見讃岐守正則と高井下總守實員は両名共に田沼家と所縁があった。
その上、家基の御前にて給仕を担った4人の小姓のうち、高井伊豫守清寅と大久保靱負忠俶の2人は清水家と所縁があった。
これだけの「状況」が揃えば、
「御三卿の清水重好が家基に代わる次期将軍となるべく、田沼意次と手を握り、鷹狩りの機を利用して、家基を毒殺した…」
その「証拠」、所謂、「状況証拠」となるであろう。
だが、御側御用取次の小笠原信喜が、
「故意に…」
清水家、及び田沼家所縁の者を選んで、それも表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人に命じて清水家、及び田沼家所縁の者を名簿から抽出させ、家基の鷹狩りに随わせたという、もう一つの「状況」がそこに加われば、別の様相を帯びてくる。
「さも、御三卿の清水重好が家基に代わる次期将軍となるべく、田沼意次と手を結び、鷹狩りの機を利用して家基を毒殺した…、と思わせようとした」
その可能性である。
仮にその可能性こそが事実である場合には家基が亡くなり、且つ、清水重好及び田沼意次にその罪を被かせることで「最大の利益を」を上げられる者に外ならない。
それではこの場合における「最大の利益」とは何か、それはズバリ、
「次期将軍の座」
それであった。
そして家基に代わる次期将軍候補として、まず始めに挙げられるのは御三卿にして、将軍・家治の腹違いの弟である清水重好であろう。
だが、清水重好が田沼意次と手を結んで、家基の毒殺を謀った…、その様な疑惑が浮上すれば、その真偽に関わりなく、「次期将軍レース」から脱落するであろう。
それでは清水重好に次いで次期将軍の候補は誰かと問われれば、それはやはり御三卿の一橋治済を措いて外にはいないであろう。
深谷十郎左衛門はそこまで思考を廻らせると、御側御用取次の小笠原信喜が御三卿の一橋家と親しいことを思い出した。
深谷十郎左衛門が就いている西之丸目付の主な職掌は西之丸に仕える役人の監察にある。
その点、全ての諸役人は元より、無役の旗本・御家人に至るまでその監察に当たる本丸目付に較べれば、その「守備範囲」は狭いと言えるが、それでも西之丸目付は本丸目付と同様、西之丸に仕える役人であれば、老中や若年寄さえもその「守備範囲」であり、御側御用取次も、であった。
深谷十郎左衛門は西之丸目付として、西之丸御側御用取次の小笠原信喜をも、その監察の対象とし、勿論、信喜に悟られぬ様、その動静を探った。
するとその過程で、小笠原信喜の屋鋪に一橋家に仕える、それも当主・治済の寵臣とも言うべき岩本喜内正信が度々、出入りする姿が確かめられた。
しかも岩本喜内が訪れたのは表六番丁にある屋鋪ではなく、小石川にある屋鋪であった。
旗本でもその頂点に位置する本丸留守居や、或いはそれに次ぐ御側衆ともなると、大名と同様、下屋敷を拝領する。
小笠原信喜の場合もそうであり、信喜の場合、小石川に下屋敷を拝領しあのであった。
その小石川にある信喜の下屋敷を治済の寵臣の岩本喜内が度々、訪れていたのだ。
だとするならば、小笠原信喜は一橋家、それも次期将軍の座を狙う治済と繋がりがあることになり、それはひいては信喜が治済の「姦計」に手を貸した「状況証拠」となろう。
この「仮説」を更に進めると、信喜の命により、家基の鷹狩りに随わせる清水家及び田沼家所縁の者を抽出した表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の二人もまた、信喜同様、治済と何らかの繋がりがあると考えられた。
深谷十郎左衛門は西之丸役人の監察を主たる職掌とする西之丸目付として勿論、表右筆である遠山吉十郎と野本文左衛門の二人もその監察下に置いていた。
だが遠山吉十郎と野本文左衛門の二人は小笠原信喜の場合とは違い、一橋家の家臣が訪ねる様なことはなかった。勿論、その逆、遠山吉十郎や野本文左衛門から一橋家へと足を運ぶ様なこともなかった筈である。
無論、深谷十郎左衛門とてそれこそ、
「四六時中…」
遠山吉十郎や野本文左衛門の行動を監視している訳ではないので、或いは見落としがあるやも知れない。
そこで十郎左衛門は遠山吉十郎と野本文左衛門、この両者の「家族」について把握することにした。
仮に「家族」の一員の中に一橋家と所縁のある者が含まれていれば、信喜の様に一橋家の家臣が訪れずとも、いや、密かに訪れたが為に、十郎左衛門が見落としていたとしても、それが確かめられれば一橋家と繋がりがある傍証となる。
そこで十郎左衛門は波多野主水に名簿の中から遠山吉十郎と野本文左衛門、両者の戸籍を見せてくれる様、頼んだ。
すると波多野主水は膨大な名簿の中から即座に遠山吉十郎と野本文左衛門の両者の戸籍を取出すと、それを十郎左衛門に差出した。
十郎左衛門は二人分の戸籍を受取ると、それに目を通した。
結果、十郎左衛門の予感が的中、正に「ビンゴ」であった。
まず遠山吉十郎だが、養嗣子である吉五郎景照を介して一橋家と繋がりがあった。
即ち、遠山吉十郎が養嗣子として迎えた吉五郎景照は実は旗本・山中七左衛門玄祖が一橋家臣の内藤友右衛門助政の娘の行との間に生した三男であったのだ。
次に野本文左衛門だが、実弟の勝蔵吉範が一橋家臣の伊藤助左衛門吉高の養嗣子であったのだ。
これで遠山吉十郎と野本文左衛門の両者が一橋家と繋がりがあることが明らかとなり、ひいては十郎左衛門が思い描いた「仮説」の通りである可能性が高まった。
深谷十郎左衛門が思い描いた「仮説」―、次期将軍の座を狙う一橋治済が、鷹狩りの機会を利用して次期将軍・家基を毒殺、しかもその罪を家基が亡くなった場合、次期将軍の「最右翼」に擬せられる清水重好に擦り付け、更には田沼意次をもその「共犯」に仕立てるべく、そこで治済は西之丸御側御用取次の小笠原信喜に対して、家基の鷹狩りに清水家及び田沼家所縁の者を随わせることを指示、それに対して信喜も治済からのその指示を遂行すべく、表右筆の遠山吉十郎と野本文左衛門の両者に命じて清水家及び田沼家所縁の者を抽出させ、そうして彼等を家基の鷹狩りに随わせた―、もしこの「仮説」が正しいとするならば、家基には鷹狩りの途中で「効目」が現れる毒が用いられたことになる。つまりは遅効性の毒である。
そうでなければ家基の鷹狩りに随った清水家及び田沼家所縁の者に、ひいては清水重好及び田沼意次に家基殺害の罪を被くことは出来ないからだ。
だとするならば、家基が毒を摂取したのは鷹狩りの直前ということになり、それが可能なのは朝食を措いて外には考えられなかった。
だがここで、十郎左衛門の思考は停止した。それと言うのも、朝食の機会に家基に毒を摂取させるのは不可能であるかの様に思われたからだ。
鷹狩りの直前、家基は大奥にて朝食を摂ったのだが、家基が口にする朝食は事前に、家基附の老女、年寄である初崎が見守る中、やはり家基附の御客応答が毒見を担う。
毒見を担う家基附の御客応答は複数人おり、その中の誰が家基の朝食の毒見を担ったのか、この時はさしもの深谷十郎左衛門にも分からなかったが、しかし、誰であろうとも初崎が監視している以上は朝食に毒を混入することは不可能である様に思われた。
何しろ初崎は家基の乳母であり、家基が晴れて将軍となった暁には、つまりは西之丸の主から本丸の主になった暁には初崎も西之丸老女から本丸老女へと昇格が約束されている。
そうであれば初崎にとって家基は言葉は悪いが、大事な「手蔓」、もっと言えば「金蔓」であり、その様な家基を初崎が害するとは、十郎左衛門にはどうしても思えなかった。
また、十郎左衛門にはもう一つ、分からないことがあった。それは、
「如何なる毒が使われたのか…」
という点であった。遅効性の毒が使われたであろうことは推察出来たものの、それでは具体的には如何なる毒かと問われれば、十郎左衛門としても答え様がなかった。
いや、それだけではない。誰が毒を調合したのか、つまりは治済に手を貸したのか、それもまた謎であった。恐らく本草学にでも通じている者であることは推察出来たが、それが具体的には誰であるのか、やはり十郎左衛門にはその人名を挙げることは出来なかった。
尤も、十郎左衛門の「仮説」通りだとして、その場合、治済には誤算が生じたことになるであろう。それは、
「家基はまだ、死んではいない…」
ということであった。
十郎左衛門の「仮説」通りだとして、その場合には治済としては鷹狩りの最中、それも帰途に立寄った東海寺にて、家基が茶菓子を口にした直後に死亡、即死するのを期待した筈である。
だが実際には家基は即死しなかった。
随行した、やはり田沼家所縁、と言うよりは意次と個人的に親しい本丸奥医師の池原良誠が家基に徹底的な胃洗浄を施し、それが功を奏したらしく、即死には至らなかったのだ。
茶菓子を口にした直後、腹痛を訴えた家基に対して池原良誠が家基に水を鱈腹、呑ませたのであった。
尤も、それで完治した訳ではなく、家基の容体は依然、重篤であった。
だとするならば、治済としては今度こそ、止めを刺そうとするのではあるまいか―、十郎左衛門はそこまで考えた時、慌てて懐中より一枚の書付を取出した。
その書付には西之丸にて家基の治療に当たる医師の名と、それに西之丸を警護する番方、武官の名が事細かに認められていた。西之丸目付の直属の上司に当たる西之丸若年寄から渡されたものであった。
そこには西之丸に仕える役人のみならず、本丸に仕える役人の名まで認められていた。
具体的には、例えば家基の「治療」に当たる医師として、本丸にて仕える表番医師の大淵友庵信敦と、間違いなくその子であろう大淵友元義長、それから中川專菴義方と恐らくはその子であろう中川隆玄瑞照、それに峰岸春庵瑞興と遊佐卜庵信庭の名が認められていた。
また平日は登城せずに不時の用に備える、正に家基が重体の今、登城する寄合医師として、岡井運南道晟と千田玄知温恭、そして畠山隆川常赴と篠崎朴菴長正の名が認められており、更には小普請医師に過ぎない田澤玄丈保久の名まであった。小普請医師とは修行中の身であった。
この小普請医師は原則、臨床教育を通じて、一人前の医師に成長する訳だが、しかし家基の治療など凡そ、臨床教育の教材としては不適切であろう。
ともあれ彼等、医師は普段は西之丸に出入りすることはなく、しかし今は不時、家基が重体という緊急時であり、その家基の治療に当たるべく、西之丸へと登城、出入りするので、
「西之丸目付もその旨、心得ておくように…」
つまりは彼等が西之丸に登城、出入りしても、
「この書付に認められている者に関しては誰何せぬ様に…」
との意味から深谷十郎左衛門をはじめとする西之丸目付は西之丸若年寄から斯かる書付を下されたのであった。
十郎左衛門は目付として、医師の顔ぐらいは全て把握していた。それが仮令、ここ西之丸に仕える医師ではなく、本丸に仕える医師であったとしてもだ。
だがそんな十郎左衛門も彼等の家族、所謂、「由緒」までは把握しきれていなかった。
それでも一橋家と所縁があることは推察出来た。
本来、家基の治療に当たるべき西之丸の奥医師からは法眼の小川玄達子雍と同じく法眼の山添宗允直辰の名が見えるだけであったからだ。
重体の家基の治療に当たるべき医師として、その書付に認められていた小川子雍と山添直辰の二人だけが西之丸奥医師であった。
西之丸奥医師は勿論、小川子雍と山添直辰だけではない。外にも、西之丸奥医師団の頂点に位置する法印の吉田桃源院善正を筆頭に、同じく法印の森養春院當定と、それに次ぐ法眼として岡甫菴壽考や河野良以通久、そして井上良泉玄高もおり、しかし彼等は皆、家基の治療に当たることは許されていなかった。
「これもまた、小笠原信喜の仕業か…」
深谷十郎左衛門は咄嗟にそう思った。水上興正の話を聞いた後だけに、そう思うのが自然であった。
だが如何に小笠原信喜とて、ここまで恣意的な「配置」を行うのは不可能であろう。何しろ西之丸御側御用取次には小笠原信喜の外にも水上興正や、それに佐野右兵衛尉茂承がその名を列ねていたからだ。
それ故、信喜が斯かる恣意的な配置を行おうにも、水上興正が阻むに違いなく、場合によっては昼行灯で有名な佐野茂承さえも流石に難色を示す恐れがあり、そうなれば如何に信喜の力を以てしても不可能というものであろう。
だとするならば、信喜よりも更に上の者が信喜の後ろ盾となり、その者が信喜を使嗾して、斯かる恣意的な「配置」を行わせたと考えるべきであろう。
その場合、信喜よりも更に上の者、それも信喜の後ろ盾となりそうな人物と言えば、それは御側御用取次の稲葉越中守正明を措いて外には考えられなかった。
本丸御側御用取次の稲葉正明ならば一人でも充分に水上興正や佐野茂承を伍することが出来よう。
ともあれ、深谷十郎左衛門は小川子雍と山添直辰の「家族」についても調べることにした。
本来ならば、家基の「治療」に携わることが許された―、恐らくは稲葉正明の後ろ盾を得たに違いない小笠原信喜によって配されたに違いない医師団全員の「家族」について調べたいところであったが、生憎とここ西之丸にて保管されてある名簿、戸籍は西之丸に仕える役人の分だけということで、西之丸奥医師の小川子雍と山添直辰の両者の戸籍しか保管されてはいなかったのだ。
だがそれでも十郎左衛門にはそれだけでも充分であった。小川子雍か山添直辰のどちらか、或いはこの両者が一橋家と所縁があれば、
「一橋治済は家基の治療の名を借りて、今度こそ家基の命を奪う腹積りなのだろう…」
十郎左衛門のその勘が裏付けられることになるからだ。
果たしてその結果だが、案に相違して小川子雍にしろ山添直辰にしろ、一橋家との所縁はなかった。
尤もそれは、
「直接的な関係はない…」
だけなのやも知れぬ。
それが証拠に、家基の「治療」に当たる医師団だが、小川子雍と関わりのある者が二人も含まれていたのだ。
一人は相役、同僚の西之丸奥医師である山添直辰であり、今一人は寄合医師の篠崎長正であった。
このうち、山添直辰は小川子雍同様、
「直接的には…」
一橋家との所縁は見出せなかったものの、しかし、篠崎長正に関しては何とも言えなかった。篠崎長正の戸籍は本丸の表右筆によって保管されていたからだ。
それでも篠崎長正が小川子雍の次女の際を娶っていることは、小川子雍の戸籍から判明した。
即ち、小川子雍と篠崎長正は岳父と婿の関係にある。
また、小川子雍と山添直辰との関係だが、子雍の実姉の淨が山添宗積直之の許へと嫁ぎ、直之と淨との間に生まれたのが山添直辰であり、つまり小川子雍と山添直辰とは叔父と甥の関係にあったのだ。
これで仮に篠崎長正が一橋家と所縁があれば、小川子雍は婿である篠崎長正に感化、と言うよりは洗脳されて、
「一橋派」
となり、そして小川子雍が更に甥の山添直辰を「一橋派」へと洗脳したとも考えられた。
だとしたら外の医師についても一橋家との所縁がある可能性が充分にあり得た。
また書付には番方、武官の名も認められていた。本丸より大番や書院番、小姓組番、それに新番や小十人組番といった所謂、
「五番方」
その番士が西之丸の警備に当たるべく、本丸より西之丸へと派されることになり、そこで西之丸に仕える書院番や小姓組番、新番や小十人組番の番士は本来、本丸に仕える彼等に引合わされた。
これから仕事をする上で顔を知っておく必要があるからで、その場に深谷十郎左衛門ら西之丸目付も陪席した。
十郎左衛門ら西之丸目付は西之丸に仕える役人ならば奥医師に限らず、書院番や小姓組番、新番や小十人組番の番士の顔と名前を把握していた。本丸に較べて人数が少ないので、その程度であれば記憶出来る。いや、その程度の記憶力は最低限、備わっていた。
だが本丸に仕える「五番方」ともなると、如何に記憶力が備わっている目付と雖も、完全に「お手上げ」である。そこまでの記憶力は―、「五番方」全員の顔と名前を記憶出来る能力までは備わってはいなかった。
そこでやはり、
「彼等に関しては誰何せぬように…」
その目的から、これから西之丸を警備する彼等、本丸に仕える「五番方」を十郎左衛門たち西之丸目付にも引合わせた次第であった。
十郎左衛門はその時の様子を思い浮かべた。彼等番士は、いや、彼等だけではない、奥医師にしてもそうだが、次期将軍たる家基が今正に、生死の境を彷徨うているというに、悲愴感は全くと言って良い程に身受けられなかった。
それどころかどこか期待感さえ漂わせている程であった。少なくとも深谷十郎左衛門の目にはそう見えた。
恐らくは番士にしても医師同様、一橋家と所縁があるに違いなく、そこで医師による家基への「治療」を邪魔立てされぬよう、西之丸の警備に当たるつもりなのであろう…、そう勘付いた十郎左衛門は直ちに本丸へと赴き、将軍・家治への面会を求めた。
西之丸目付が本丸の主たる将軍に面会を求めるなど、あまり前例のないことではあったが、しかし、目付であることに変わりはなく、しかもその面会理由が、
「大納言様の御命に関わること…」
となれば大納言こと家基の実父たる将軍・家治としては逢わない訳にはゆかない。
家治は御座之間にて、それも「御人払御用」の形式において西之丸目付の深谷十郎左衛門との面会に臨んだ。
十郎左衛門はその場において、これまでの経緯を要領良く家治に説明した上で、このまま事態を見過ごせば今度こそ、家基の命が危ういと言上したのであった。
それに対して家治は直ちに側用人と御側御用取次、それに老中と若年寄と、更には西之丸若年寄と同じく西之丸御側御用取次をも召出した。
そこで家治はまずは西之丸若年寄と同じく西之丸御側御用取次に対しては、家基の治療に当たるべき西之丸奥医師として、小川子雍と山添直辰の二人だけではなく、全ての西之丸奥医師に家基の治療に当たらせるよう命じた。
家治は次いで本丸側用人とその直属の部下である御側御用取次、及び本丸若年寄に対して、家基の治療に当たるべき本丸奥医師として、池原良誠とそれに同じく法眼である森雲悦當光と千賀道隆久頼を加える様に命じた。
将軍に近侍する奥医師は事実上、御側御用取次の支配下にあり、しかし、名目上は若年寄支配の役職であるので、そこで家治は御側御用取次とそれを更に支配する側用人、及び若年寄にその旨、命じたのであった。
ちなみに同じ理由から、家治は西之丸奥医師全員でもって家基の治療に当たらせる件について西之丸若年寄及びび西之丸御側御用取次にその旨、命じたのであった。
ともあれ、家治のその親裁とも言うべき命令に対して、本丸御側御用取次の稲葉正明と西之丸御側御用取次の小笠原信喜の両名が、家治や十郎左衛門が予期した通りの反応を示した。
即ち、難色を示したのであった。
成程、稲葉正明や小笠原信喜が一橋治済に取込まれていれば、つまりは家基の死を願っているならば、難色を示すのも当然と言えた。
何しろ、池原良誠は家基の救命措置に当たり、東海寺にて家基が亡くなるのを阻止し、森當光はその良誠の三女の功を娶っていた。つまり、池原良誠と森當光とは岳父と婿の関係にあり、當光もまた、名医であった。
そして千賀久頼はやはり名医の譽が高く、意次・意知父子とも個人的に親しい関係にあった。
つまりはこの3人であれば、真に家基の治療に携わってくれるであろうことが期待出来た。
稲葉正明も小笠原信喜も、ことに正明は彼等、本丸奥医師を事実上、差配する者としてそのことを良く把握していたので、彼等3人が家基の治療に加わることに難色を示したに違いなく、それだけでも正明や信喜は家基の死を願っている傍証と言えた。
ともあれ正明は、ことに池原良誠が医師団に加わることに難色を示した。
「されば池原雲伯は畏れ多くも大納言様の御側にありながら、大納言様の御不例を防げず…」
家基の鷹狩りに随行しながら、家基を重体に陥らせた張本人…、正明は池原良誠をそう見做して、良誠が家基の医師団に加わることに難色を示してみせたのであった。
一見、尤もらしい言分ではあったが、しかし、正明の「腹の底」は透けて見えた。
「池原良誠が家基の医師団に加われば、或いは家基の救命に成功するやも知れぬ…」
それに外ならず、そこで家治もそんな正明の「腹の底」を読取ると、
「されば良誠が家基の鷹狩りに随うてくれたからこそ…、家基の救命措置を施してくれたからこそ、家基は東海寺にて命を落とさずに済んだのだ…」
家治はまずは良誠を弁護した上で、
「さればその良誠なれば、家基を恢復へと導いてくれるやも知れぬ…、それとも正明は家基の恢復を望んではおらぬのか?」
正明に対して挑発気味にそう煽った。
無論、正明は、「滅相もござりませぬ」と即座に、と言うよりは慌てて否定して見せた。何しろ、直ぐ傍には直属の上司たる側用人や、更には老中や若年寄も控えていたのだ。
いや、彼等、側用人たちも家治のその「煽り」には一様に驚かされたものである。平素、家治は家臣に対してその様な「煽り」を見せることはないからだ。
それだけに家治が今に限って、普段は見せることのない「煽り」を、正明に対しては見せたことで、
「ひょっとして…」
正明は家治の言う通り、家基の死を望んでいるのではあるまいか…、側用人らにそう思わせる効果を与えた。
正明も勿論、そうと察したからこそ、慌てて否定したのであった。
一方、家治は「それなれば…」と、池原良誠をも医師団に加えることで、正明を押切った。
家治はそれから老中に対して、西之丸の警備に当たる大番士について、大番頭と良く協議の上、再考するように命じた。
「余の気のせいとは思うが…、西之丸の警衛の為に西之丸へと派されし大番士だが、余の見たところ、どうにも一橋家所縁の者が多い…、と申すよりは、一橋家所縁の者で占められている様に思えるによって、されば今一度、西之丸へと派されし大番士について大番頭と良く協議の上、一橋家のみならず、田安家や清水家所縁の者も含めて…、万遍無く選ぶが良いぞ…」
幕府の所謂、「武官五番方」の中でも、大番のみは、その大番を束ねる大番頭のみは老中支配であった為に、家治は老中にそう命じたのであった。
それは兎も角、家治は言ってみれば「爆弾」を投下した様なものである。
先程の、正明への「煽り」の流れからすれば、
「一橋治済こそが家基の命を奪おうとしている黒幕…」
そう言っているのも同然であったからだ。
家治は続けて若年寄に対しても、西之丸へと派遣される書院番、小姓組番、新番、小十人組番の各番士についても同様に、その再考を命じると共に、一橋家所縁の者に偏ることなく、田安家や清水家所縁の者も選ぶ様に命じたのであった。
武官五番方のうち、大番を除いた謂わば、「四番方」、その頭は若年寄支配である為に、斯様に命じたのであった。
そしてこの段になって、家治によって召出された彼等、老中や側用人、御側御用取次らは、
「一橋治済こそが家基の命を奪おうとしている黒幕…」
家治がそう考える様になった背景に、西之丸目付であり乍、ここ本丸中奥の御座之間にて陪席している深谷十郎左衛門の存在を読取った。つまりは深谷十郎左衛門が家治に何事かを進言して、家治にそう思わせたに違いない…、側用人や側用人らはそう確信した。
こうして家治は一連の、家基の命を守るべき「親裁」を済ませると、老中や側用人らには退出を命じ、再び、十郎左衛門と二人きり、所謂、「御人払御用」を演出したのであった。
老中や側用人らは家治と十郎左衛門を残して御座之間より退出した訳で、彼等は立去り際、十郎左衛門への嫉妬を覚えると同時に、十郎左衛門こそが家治に一橋治済こそが家基の命を奪おうとしていると、そう思わせた張本人だと、その思いを愈愈もって強くした。
さて、家治は再び、十郎左衛門と二人きりとなると、その場で廣瀬のことを打明けたのであった。
即ち、元・田安家の老女、それも寶蓮院附の老女にして、その前は家治が正室・倫子との間に生した萬壽姫の毒見役をその職掌とする中年寄をも勤めていた廣瀬が不審死を遂げた一件である。
いや、
「表向きは…」
廣瀬の死は一応、自害として処理されていたが、その実、廣瀬は嘗て、己が仕えていた萬壽姫が病死ではなく毒殺との疑いを強くし、そのことを今の主である寶蓮院に伝えると同時に、家治にもそのことを伝えようとした直前、それも前日に謎の死を遂げ、家治は今もって、廣瀬の死が決して自害などではなく、
「誰かに口封じされたのではあるまいか…」
その疑いを強く抱いていた。
いや、廣瀬が寶蓮院に告白していたのは、つまりは家治にも告発しようとしていたのは萬壽の死、それが毒殺ではないか、との疑いだけではない、その前に卒した倫子もまた、
「毒殺されたのではないか…」
との疑いであり、しかもそれが一橋治済の差配によるのではないか、ということであった。
家治は廣瀬が己に告発しようとしていたその内容を寶蓮院より聞かされ、そして今、家治は今度はそれをそのまま深谷十郎左衛門に伝えたのであった。
そして家治は家基の急の発病を毒殺未遂と断定した上で、これを倫子並びに萬壽の連続毒殺事件の延長線上にあるとして、十郎左衛門に対して、これら一連の「事件」の探索を命じたのであった。
その際、家治は十郎左衛門に対して、その通称を、
「式部」
へと改める様にも命じたのであった。式部という通称は十郎左衛門よりも格式が高く、それはつまりは、
「西之丸目付から本丸目付へと異動、栄転させよう…」
家治のその意思が込められていた。
深谷十郎左衛門改、深谷式部は家治の命を勿論、謹んで拝受すると同時に、
「田安館にも一橋家の、いや、一橋治済の間諜がいるかも…」
その可能性を指摘した。
そうでなければ廣瀬が都合良く、家治に告発する前日に死ぬなどとは、それも口封じされるとは考えられなかったからだ。
家治もその可能性は考えており、そこで斯かる間諜、即ち、廣瀬を殺害した実行犯の探索をも併せて深谷式部に命じたのであった。
廣瀬が家治に斯かる告発に及ぼうとしていたのは、即ち、口封じをされたのは寶蓮院の養女である種姫が次期将軍・家基の婚約者として西之丸の大奥入りを果たそうとしていた直前の安永4(1775)年のことであり、この時点で既に4年が経過しており、今でもその間諜、もとい廣瀬の口を封じた下手人が田安館に潜んでいるのか、それは深谷式部にも何とも言えず、家治にその可能性をも指摘した。
それに対して家治もやはりその可能性は織込み済みであり、それでも尚、式部に廣瀬殺しの下手人の探索を命じたのであった。
この上は深谷式部は最早、何も補足することはなく、早速、探索に取掛かった。
深谷式部は探索の手始め、取っ掛かりとして、遅効性の毒物の正体を明らかにすることから手をつけることにした。
それが解明かせないことには治済の有罪を立証することは出来ない。
そこで深谷式部は池原雲亮良明を頼ることにした。
深谷式部は目付ではあるが、薬学には通じていない。
だが遅効性の毒物の正体を解明かすには、どうしても薬学の知識が必要であり、深谷式部は薬学に通じている者として、医師を思い浮かべた。
だが医師ならば誰でも良いという訳ではなかった。例えば、一橋家に所縁のある医師に相談しようものなら、治済に筒抜けになる危険性が大いにあり得た。
それ故、一橋家と所縁のない医師、というのが絶対条件であり、その条件に当て嵌まる者として、深谷式部は池原良明を思い浮かべたのだ。
それと言うのも良明は、池原良誠の嫡男であったからだ。
池原良誠は意次と親しいことから、そこに治済に目をつけられて、治済から家基毒殺未遂の濡れ衣を着せられようとしている。
そうであれば本来、良誠に探索への協力を求めたいところであったが、生憎と良誠はこれから家基の治療で手一杯となるであろうから、そこで良誠の息・良明に協力を求めることにしたのだ。
池原良明もまた医師であり、良誠の息である為に、治済に通じている危険性も皆無と言えた。協力を求めるには正に打ってつけの人材と言えた。
池原良誠の屋敷は愛宕下の一等地にあり、深谷式部が訪れると妻女の濤が出迎えてくれた。
深谷式部が来意を告げると、暫く待つ様にと、濤に言われた。どうやら池原良明は今は不在であり、しかし間もなく帰って来るらしい。
濤曰く、良明は今はまだ、神田にある医学館、「躋壽館」にて臨床実習の最中とのことである。
池原良明は父、良誠と同様、医師とは申せ、まだその「卵」に過ぎない。
それ故、「躋壽館」にて臨床実習を重ねることで、医師としての技術を磨くのだ。
それから間もなくして、良明が帰宅し、深谷式部は濤の計らいにより、奥座敷にて良明に引合わせて貰うと、良明に対して、濤にも打明けられなかった詳しい来意を告げたのであった。
良明は式部の話に耳を傾けるうち、流石に顔色が変わった。
いや、元々、良明の顔色は勝れなかった。
この段階で既に、家基が新井宿への鷹狩りの帰途に立寄った東海寺にて、出された茶菓子を口にした途端、俄かの腹痛に襲われて、|西之丸へと担ぎ込まれてから一日が経過していた。
良明もそれ故、父・良誠より、己が家基の鷹狩りに随いながら、家基の遭難を防げなかったことを打明けていたのやも知れぬ。
ともあれ、良明は式部の話をすっかり聞き終えるなり、まず、倫子と萬壽、この両者に対して使われた毒として、砒素を挙げた。
倫子と萬壽の二人に砒素を服ませて毒殺したのではないか、そうすることで病死に見せかけたのではないかと、良明はその可能性を指摘した。
それに対して式部も成程、と大いに頷かされた。
問題は家基に使われた毒であった。
良明がその毒、遅効性の毒として挙げたのは何と茸であった。
「テングタケなる茸なれば、毒が遅れて発現し…」
良明が指摘したその可能性に、式部はしかし、頭を振った。
「大納言様が御膳には…、これは上様が御膳にも当て嵌まることだが、食材に茸は使われぬものにて…」
それ故、テングタケなる毒キノコを家基が摂取した可能性は極めて低かった。
すると良明は自然毒の中で遅効性の毒を持つものと言えば、テングタケ以外には思い当たらず、特別に調合、
「数種類の毒を配合したのではあるまいか…」
その可能性を指摘したのだ。
式部はそれが何であるのか、良明に重ねて問うたが、流石に良明にもこの段階では見当もつかなかった。
それも無理からぬことであり、式部は良明に対して、毒の究明を依頼したのであった。
良明は式部の依頼を快諾したものの、
「己一人では…、事が事だけに手に余ります故、助力を求馬手も構いませぬか?」
式部にそう申出たのであった。
式部は良明のその申出に対して難色を示した。出来れば良明一人で解明かして貰いたかったからだ。
だが、そうは言っても良明一人の力では手に余るのも事実であり、そこで式部は助力を求める相手として、
「一橋家と所縁のない者…」
それを条件として挙げた。
良明も式部の話を聞いて、それは十二分に心得ており、戸田要人祐之なる者の名を挙げた。
「戸田要人…、その者も医師にて?」
式部が尋ねると、しかし良明は意外にも頭を振った。
「今でこそ無役の小普請の身なれど、嘗ては御書院番士にて…」
驚いたことに、戸田要人なる者は番方、武官であった。
良明の説明によると、戸田要人なる者は32年前の延享4(1747)年9月まで本丸にて書院番士を勤めており、しかし、本草学に魅せられて番を辞し、つまりは書院番を退職して、爾来、独学にて本草学を究めた変わり種であった。
いや、明和2(1765)年に良明も通う躋壽館が開校されるや、戸田要人は躋壽館にも通う様になった。
躋壽館は医学校ではあるが、広く門戸を開放しており、戸田要人も特に入塾が許された。
本草学を究めたい、との戸田要人の熱意が躋壽館の開設者である多紀安元元孝に認められたのであった。
戸田要人は多紀元孝に入塾を希望した際に、これまで己が究めた本草学の、さしずめ研究報告書を多紀元孝に提出し、元孝はその精緻さに舌を巻いたそうな。
かくして戸田要人は躋壽館に入塾し、しかし、医師の卵ではないので臨床実習に参加することはなく、主に座学の講義を受けるのみであった。
躋壽館においては臨床実習のみならず、座学もカリキュラムとして組まれており、戸田要人も躋壽館におけるその座学に惹かれて入塾を志したのであった。
そして、今では良明は座学においてはこの戸田要人と机を並べる仲であった。
躋壽館には良明の外にも例えば、小森西菴頼長や千田玄慶恭副、本賀貞珉保有や岡井玄用道博といった面々が通っており、彼等は皆、良明と同じく、
「御医師子息」
という立場であり、このうち、小森頼長と千田恭副、それに本賀保有は寄合医師の子息であった。
即ち、頼長は小森西倫頼堯の、恭副は千田玄知温恭の、そして保有は本賀徳順貞玉の夫々、子息であった。
一方、道博の父、岡井運南道晟は表番医師であった。
戸田要人はその中でも、良明を学友と選んだのは外でもない、良明が一番、才能があったからだ。
一方、良明も戸田要人のその本草学における才能、それも博識ぶりには深い敬意を払っていた。
その様な次第であり、成程、戸田要人は所謂、「相棒」としては最適任と言えた。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
7
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる