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序章 天明4(1784)年3月24日
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天明4(1784)年3月24日、この日は本丸若年寄、田沼山城守意知にとっては主君・徳川家基の月命日に当たる。
否、正確には意知の主君は十代将軍・徳川家治ただ一人である。
だが意知の心の中では未だ、夭逝した次期将軍・徳川家基こそが主君であり続けた。
今日はその徳川家基の月命日に当たり、出来れば意知が家基が眠る東叡山は孝恭院殿霊廟へと代参―、将軍に代わって詣でたかったが、今日は相役、同僚の若年寄である米倉丹後守昌晴が代参の当番であった。
それ故、来月の月命日には何としてでも意知が代参したいところであった。
その米倉昌晴も昼―、昼九つ(正午頃)を四半刻(約30分)も過ぎた今時分には既に代参を終えており、ここ、若年寄の執務室である次御用部屋にその姿があった。
そして昼の九つ半(午後1時頃)、即ち、午の下刻を過ぎると意知たち若年寄は皆、立上がり、次御用部屋を出た。ロッカールームとも言うべき若年寄専用の下部屋にて昼飯を食べる為であった。
それなら昼休みの始まる昼九つ(正午頃)と同時に若年寄専用の下部屋へと向かえば良さそうなもの、しかしそれは出来ない相談というものであった。
それと言うのも昼九つには老中が表向の各部屋を見廻る「廻り」なる行事が行われるからだ。
老中と言えば若年寄の直属の上司の様な存在で、その老中による「廻り」が行われている最中に、部下の立場である若年寄が昼飯へと下部屋に足を運ぶのは憚られる。何しろ老中はこの「廻り」を終えてから昼飯になるからだ。上司がまだ昼飯にありつけない前から部下が昼飯をとるわけにはゆかない。
斯かる次第で若年寄は老中が「廻り」を終えてその執務室である上御用部屋へと戻って来るのを待って昼飯の為に席を立つ。
若年寄の執務室である次御用部屋と老中のそれである上御用部屋は廊下を挟んだ真向かいにあり、それ故、「廻り」を終えた老中が上御用部屋へと戻って来る様は若年寄の執務室である次御用部屋から良く見届けられ、それが昼の九つ半(午後1時頃)過ぎ、即ち午の下刻であった。つまり老中は「廻り」に半刻(約1時間)かける。
その老中は「廻り」を終えたならば上御用部屋にて昼飯となり、一方、若年寄は態々、下部屋へと足を運ばねばならないのは偏に、老中の執務室である上御用部屋に較べて若年寄のそれである次御用部屋はその広さが半分程しかなく、若年寄には執務をするのに必要なスペースしか与えられておらず、とてもゆったりと昼飯をとれるものではなく、そこで若年寄は昼飯の為に下部屋へと足を運ぶことになる。
老中や、或いはその外の主だった諸役人にしてもそうだが、若年寄もまた、各自、下部屋が与えられており、そこでならゆったりと昼飯をとることが出来る。
さてその若年寄だが今は意知や米倉昌晴の外に酒井石見守忠休、太田備後守資愛、そして加納遠江守久堅がおり、合わせて5人の若年寄がいた。
しかしその内、加納久堅は今日は何故か、昼前から中奥へと招かれ、今もって戻ってはいなかった。
加納久堅を中奥へと招いたのは御側御用取次の稲葉越中守正明であり、一体、何用かと加納久堅は首を傾げたものであるが、それでも将軍の最側近たる御側御用取次からの「お召し」とあらば、足を運ばぬ訳にもゆかぬ。
かくして次御用部屋には久堅を除く4人の若年寄の姿があった。
さて意知たち4人の若年寄が席を立つと、昼飯の為に下部屋へと先陣を切ったのは酒井忠休であった。これは忠休が若年寄の中でも筆頭であり、財政担当の勝手掛をも兼ねていたからだ。
その忠休に続くのが次席の太田資愛であり、その資愛の後に米倉昌晴が続き、意知が殿を務める格好となる。
天明4(1784)年の今、意知は若年寄の中でも一番の若手、さしずめ「ルーキー」であった。何しろ去年の天明3(1783)年11月に若年寄に任じられたばかりで、それ故、移動の際には「ルーキー」の意知が殿を務めるのは当然であった。
だが今日に限って酒井忠休は意知に「先陣」を譲ったのだ。
「たまさかには山城殿が先陣を切られるが良かろう…」
忠休は柔和な笑みを浮かべて意知にそう勧めたのであった。
忠休はいつもは何かと意知への当たりが強く、それが今はそれが嘘であるかの様な穏やかさで、それが意知には何とも不気味であった。
「えっ、宜しいので?」
意知は一応、確かめた。
「無論ぞ…、いや、たまさかには山城殿が先立ちにより下部屋へと向かうのも良かろうて…」
先立ちとは、つまりは意知のことを坊主扱いしていたのだ。侮辱もここに極まれりだが、そんなことで一々、腹を立てる様な意知ではない。
意知が忠休の侮辱を受流し、「先陣」を切って下部屋へと「先立ち」を務めることにした。
次御用部屋から下部屋までの道中だが、まず時斗之間から時斗之間次とも称される新番所前廊下へと進む。
この新番所前廊下は老中による「廻り」のコース上にあり、その際には同朋頭と数寄屋頭の姿があったが、若年寄一行が新番所前廊下を通る今、同朋頭と数寄屋頭の姿はもうなかった。それは同朋頭と数寄屋頭は老中の昼飯の給仕を担わねばならず、若年寄一行を出迎える訳にはゆかないからだ。
こうして意知たち若年寄一行は今は無人の新番所前廊下を進んだ。
尤も、新番所前廊下に接する新番所には5人の新番士が詰めており、若年寄一行が直ぐ目の前の廊下、新番所前廊下を通る段には平伏こそしなかったものの、それでも深々と叩頭してこれを出迎えた。
新番士は武官であり、殿中警備を担うその役目柄、太刀を帯びることが許されており、今はその太刀を右に置いて若年寄一行を出迎えた。その中には佐野善左衛門政言の姿があった。佐野善左衛門もまた、右に太刀を置いていたが、心の中では左に置いていた。つまりは殺意を帯びていた。
事実、佐野善左衛門の殺意は間もなく発露されることになる。
それは若年寄一行が新番所前廊下から中之間、更に桔梗之間へと差掛時であった。
いつもならばここから焼火之間へと進むところだが、しかし今日、それも今この瞬間、若年寄一行は桔梗之間から焼火之間へと進むことは出来なかった。
若年寄一行の「先立ち」を務める意知が中之間から桔梗之間へと足を踏み入れたその時であった。
佐野善左衛門は素早く太刀を取ると立上り、それと同時に鞘を払うと意知に斬りかかったのだ。
佐野善左衛門の突発的行動に4人の相役―、佐野善左衛門と共に新番所にて控えていた同僚である4人の新番士はただ呆気に取られるばかりで取押さえようともしなかった。
それは意知の「仲間」とも言うべき酒井忠休たちにしても同様であり、あまつさえ忠休たちは直ぐ目の前にて意知が佐野善左衛門に襲われるのを目の当たりにしながら、これを見殺しにする格好でその場から逃出したのだ。
酒井忠休と太田資愛、そして米倉昌晴の3人の若年寄は桔梗之間にて佐野善左衛門に襲われる意知を置去りにして中之間より奥右筆部屋へと逃込んだのだ。それは正しく、
「脱兎の如く」
そのものであり、武士にあるまじき柔弱さであった。
否、桔梗之間にはまだ目附がおり、それも4人もいた。
その中の1人、安藤郷右衛門惟要だけは意知を助けようとしたのだが、しかしそれを何と2人の目附、即ち井上圖書頭正在と末吉善左衛門利隆が意知を助けようとする安藤郷右衛門を羽交締めにしてこれを妨げたのだ。ちなみに今一人、目附の柳生主膳正久通は井上正在や末吉善左衛門の様に、安藤郷右衛門を妨げることはしなかったものの、さりとて積極的に意知を助けようともせず、つまりは外の4人の新番士と同じくただ呆気に取られるばかりであった。
この間、意知は左肩を斬られつつも、鞘で応戦した。意知もまた佐野善左衛門と同じく鞘を払って応戦すればその瞬間、
「喧嘩」
そう認定されるからだ。殿中での喧嘩は両成敗が大原則、これを避けるには鞘にて応戦するより外になく、意知は左肩から出血させつつ、何とか鞘にて応戦、佐野善左衛門の攻撃をかわしつつ、桔梗之間より中之間へと後退した。
その時、中之間には大目付の松平對馬守忠郷と久松筑前守定愷、牧野大隅守成賢を筆頭に南町奉行の山村信濃守良旺や公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員や同じく公事方勘定奉行の久世丹後守廣民、以下、作事奉行や普請奉行らがいたにもかかわらず、やはり誰も意知を助け様とはしなかった。
それどころか大目付の松平忠郷と目附の松平田宮恒隆は外の者に意知を助けさせまいと、まるで事件現場における規制線の如く両手を広げて外の、大目付や町奉行、勘定奉行の前に立塞がったのだ。
意知は鞘にて応戦しつつ、その様を目の当たりにして、
「ああ、俺はやはり…、虎の尾を踏んだのだ…」
そう確信した。
その意知もやがて最期の時を迎えようとしていた。中之間から羽目之間へと後退を続けた意知であったが、そこで遂に足を縺れさせたのだ。
すると佐野善左衛門もその機を逃すまいと、倒れた意知めがけて太刀を振り下ろそうとした。
否、正確には意知の主君は十代将軍・徳川家治ただ一人である。
だが意知の心の中では未だ、夭逝した次期将軍・徳川家基こそが主君であり続けた。
今日はその徳川家基の月命日に当たり、出来れば意知が家基が眠る東叡山は孝恭院殿霊廟へと代参―、将軍に代わって詣でたかったが、今日は相役、同僚の若年寄である米倉丹後守昌晴が代参の当番であった。
それ故、来月の月命日には何としてでも意知が代参したいところであった。
その米倉昌晴も昼―、昼九つ(正午頃)を四半刻(約30分)も過ぎた今時分には既に代参を終えており、ここ、若年寄の執務室である次御用部屋にその姿があった。
そして昼の九つ半(午後1時頃)、即ち、午の下刻を過ぎると意知たち若年寄は皆、立上がり、次御用部屋を出た。ロッカールームとも言うべき若年寄専用の下部屋にて昼飯を食べる為であった。
それなら昼休みの始まる昼九つ(正午頃)と同時に若年寄専用の下部屋へと向かえば良さそうなもの、しかしそれは出来ない相談というものであった。
それと言うのも昼九つには老中が表向の各部屋を見廻る「廻り」なる行事が行われるからだ。
老中と言えば若年寄の直属の上司の様な存在で、その老中による「廻り」が行われている最中に、部下の立場である若年寄が昼飯へと下部屋に足を運ぶのは憚られる。何しろ老中はこの「廻り」を終えてから昼飯になるからだ。上司がまだ昼飯にありつけない前から部下が昼飯をとるわけにはゆかない。
斯かる次第で若年寄は老中が「廻り」を終えてその執務室である上御用部屋へと戻って来るのを待って昼飯の為に席を立つ。
若年寄の執務室である次御用部屋と老中のそれである上御用部屋は廊下を挟んだ真向かいにあり、それ故、「廻り」を終えた老中が上御用部屋へと戻って来る様は若年寄の執務室である次御用部屋から良く見届けられ、それが昼の九つ半(午後1時頃)過ぎ、即ち午の下刻であった。つまり老中は「廻り」に半刻(約1時間)かける。
その老中は「廻り」を終えたならば上御用部屋にて昼飯となり、一方、若年寄は態々、下部屋へと足を運ばねばならないのは偏に、老中の執務室である上御用部屋に較べて若年寄のそれである次御用部屋はその広さが半分程しかなく、若年寄には執務をするのに必要なスペースしか与えられておらず、とてもゆったりと昼飯をとれるものではなく、そこで若年寄は昼飯の為に下部屋へと足を運ぶことになる。
老中や、或いはその外の主だった諸役人にしてもそうだが、若年寄もまた、各自、下部屋が与えられており、そこでならゆったりと昼飯をとることが出来る。
さてその若年寄だが今は意知や米倉昌晴の外に酒井石見守忠休、太田備後守資愛、そして加納遠江守久堅がおり、合わせて5人の若年寄がいた。
しかしその内、加納久堅は今日は何故か、昼前から中奥へと招かれ、今もって戻ってはいなかった。
加納久堅を中奥へと招いたのは御側御用取次の稲葉越中守正明であり、一体、何用かと加納久堅は首を傾げたものであるが、それでも将軍の最側近たる御側御用取次からの「お召し」とあらば、足を運ばぬ訳にもゆかぬ。
かくして次御用部屋には久堅を除く4人の若年寄の姿があった。
さて意知たち4人の若年寄が席を立つと、昼飯の為に下部屋へと先陣を切ったのは酒井忠休であった。これは忠休が若年寄の中でも筆頭であり、財政担当の勝手掛をも兼ねていたからだ。
その忠休に続くのが次席の太田資愛であり、その資愛の後に米倉昌晴が続き、意知が殿を務める格好となる。
天明4(1784)年の今、意知は若年寄の中でも一番の若手、さしずめ「ルーキー」であった。何しろ去年の天明3(1783)年11月に若年寄に任じられたばかりで、それ故、移動の際には「ルーキー」の意知が殿を務めるのは当然であった。
だが今日に限って酒井忠休は意知に「先陣」を譲ったのだ。
「たまさかには山城殿が先陣を切られるが良かろう…」
忠休は柔和な笑みを浮かべて意知にそう勧めたのであった。
忠休はいつもは何かと意知への当たりが強く、それが今はそれが嘘であるかの様な穏やかさで、それが意知には何とも不気味であった。
「えっ、宜しいので?」
意知は一応、確かめた。
「無論ぞ…、いや、たまさかには山城殿が先立ちにより下部屋へと向かうのも良かろうて…」
先立ちとは、つまりは意知のことを坊主扱いしていたのだ。侮辱もここに極まれりだが、そんなことで一々、腹を立てる様な意知ではない。
意知が忠休の侮辱を受流し、「先陣」を切って下部屋へと「先立ち」を務めることにした。
次御用部屋から下部屋までの道中だが、まず時斗之間から時斗之間次とも称される新番所前廊下へと進む。
この新番所前廊下は老中による「廻り」のコース上にあり、その際には同朋頭と数寄屋頭の姿があったが、若年寄一行が新番所前廊下を通る今、同朋頭と数寄屋頭の姿はもうなかった。それは同朋頭と数寄屋頭は老中の昼飯の給仕を担わねばならず、若年寄一行を出迎える訳にはゆかないからだ。
こうして意知たち若年寄一行は今は無人の新番所前廊下を進んだ。
尤も、新番所前廊下に接する新番所には5人の新番士が詰めており、若年寄一行が直ぐ目の前の廊下、新番所前廊下を通る段には平伏こそしなかったものの、それでも深々と叩頭してこれを出迎えた。
新番士は武官であり、殿中警備を担うその役目柄、太刀を帯びることが許されており、今はその太刀を右に置いて若年寄一行を出迎えた。その中には佐野善左衛門政言の姿があった。佐野善左衛門もまた、右に太刀を置いていたが、心の中では左に置いていた。つまりは殺意を帯びていた。
事実、佐野善左衛門の殺意は間もなく発露されることになる。
それは若年寄一行が新番所前廊下から中之間、更に桔梗之間へと差掛時であった。
いつもならばここから焼火之間へと進むところだが、しかし今日、それも今この瞬間、若年寄一行は桔梗之間から焼火之間へと進むことは出来なかった。
若年寄一行の「先立ち」を務める意知が中之間から桔梗之間へと足を踏み入れたその時であった。
佐野善左衛門は素早く太刀を取ると立上り、それと同時に鞘を払うと意知に斬りかかったのだ。
佐野善左衛門の突発的行動に4人の相役―、佐野善左衛門と共に新番所にて控えていた同僚である4人の新番士はただ呆気に取られるばかりで取押さえようともしなかった。
それは意知の「仲間」とも言うべき酒井忠休たちにしても同様であり、あまつさえ忠休たちは直ぐ目の前にて意知が佐野善左衛門に襲われるのを目の当たりにしながら、これを見殺しにする格好でその場から逃出したのだ。
酒井忠休と太田資愛、そして米倉昌晴の3人の若年寄は桔梗之間にて佐野善左衛門に襲われる意知を置去りにして中之間より奥右筆部屋へと逃込んだのだ。それは正しく、
「脱兎の如く」
そのものであり、武士にあるまじき柔弱さであった。
否、桔梗之間にはまだ目附がおり、それも4人もいた。
その中の1人、安藤郷右衛門惟要だけは意知を助けようとしたのだが、しかしそれを何と2人の目附、即ち井上圖書頭正在と末吉善左衛門利隆が意知を助けようとする安藤郷右衛門を羽交締めにしてこれを妨げたのだ。ちなみに今一人、目附の柳生主膳正久通は井上正在や末吉善左衛門の様に、安藤郷右衛門を妨げることはしなかったものの、さりとて積極的に意知を助けようともせず、つまりは外の4人の新番士と同じくただ呆気に取られるばかりであった。
この間、意知は左肩を斬られつつも、鞘で応戦した。意知もまた佐野善左衛門と同じく鞘を払って応戦すればその瞬間、
「喧嘩」
そう認定されるからだ。殿中での喧嘩は両成敗が大原則、これを避けるには鞘にて応戦するより外になく、意知は左肩から出血させつつ、何とか鞘にて応戦、佐野善左衛門の攻撃をかわしつつ、桔梗之間より中之間へと後退した。
その時、中之間には大目付の松平對馬守忠郷と久松筑前守定愷、牧野大隅守成賢を筆頭に南町奉行の山村信濃守良旺や公事方勘定奉行の桑原伊豫守盛員や同じく公事方勘定奉行の久世丹後守廣民、以下、作事奉行や普請奉行らがいたにもかかわらず、やはり誰も意知を助け様とはしなかった。
それどころか大目付の松平忠郷と目附の松平田宮恒隆は外の者に意知を助けさせまいと、まるで事件現場における規制線の如く両手を広げて外の、大目付や町奉行、勘定奉行の前に立塞がったのだ。
意知は鞘にて応戦しつつ、その様を目の当たりにして、
「ああ、俺はやはり…、虎の尾を踏んだのだ…」
そう確信した。
その意知もやがて最期の時を迎えようとしていた。中之間から羽目之間へと後退を続けた意知であったが、そこで遂に足を縺れさせたのだ。
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