8 / 119
将軍・家治は愛息・家基の警備体制、ことに毒見役を再確認すべく、いよいよ西之丸中奥に乗込む。
しおりを挟む
御城本丸の役職とも言うべき奏者番と大目付には夫々、西之丸当番があった。
交代で西之丸に詰めるものであり、その日、奏者番においては太田備後守資愛が、大目付においては萩原主水正雅忠が夫々、西之丸当番であった。
そこへ家治一行が何の前触れもなし、乗込んで来たことから、太田資愛にしろ萩原雅忠にしろ仰天した。
「あの…、上様?」
一体、何の用件かとばかり、太田資愛が家治に恐る恐る声をかけた。
「家基に逢いに参った…」
家治はそれだけ応えて太田資愛の口を閉じさせた。
つまりは中奥へと進むことを示唆していた訳だが、ここ御城の主たる将軍・家治であれば、本丸、西之丸を問わず、中奥に進もうとも、更にその奥、大奥に進もうとも、一切自由、正に、
「天下御免」
であり、これを掣肘出来る者はいない。
一々、理由を穿鑿することすらも許されない。
太田資愛もそれが分かっていたからこそ口を閉じたものであり、傍で家治と資愛とのやり取りを聞いていた萩原雅忠にしても同様であった。
こうして家治一行は中奥へと進んだ訳だが、その手前、中奥に近い表向サイドにおいてはここ西之丸においても本丸同様、老中の執務室である上御用部屋と若年寄のそれである次御用部屋が廊下を挟んで真向かいにあり、しかもそこから家治一行の姿が見られたので、そこに詰めていた老中と若年寄は一斉に家治の御前へと駆付けた。
尤も、「一斉に…」とは言っても、それは3人に過ぎない。
即ち、西之丸においては老中は1人、若年寄は2人しか置かれていないからだ。
その唯一人の老中、阿部豊後守正允が2人の若年寄、鳥居伊賀守忠意と酒井飛騨守忠香を随える格好でやはり家治の御前にて右膝を折ると、
「畏れ多くも上様におかせられましては益々、御健勝の由…」
家治にそう「型通り」の挨拶をした。
阿部正允は流石に老中職を務めるだけあって、家治が西之丸へと登城した理由をストレートに訊く様な愚かな真似はしなかった。「型通り」の挨拶に仮託して訊ねてきた。
家治もそうと察して、
「家基に逢いに参った…」
まずは今し方、太田資愛へも寄越したのと同じ答えをこの阿部正允にも寄越し、しかし資愛の時とは異なり、
「されば家基が護りについて、この家治、この目で確と見届けたい…」
家基の警備体制をこの目で確かめる為と、それを伝えたのであった。
いざ、家基の警備体制を見直すともなれば、西之丸の老中、更にはその補佐役の若年寄の力―、協力も必要になるからだ。
すると早速、西之丸若年寄の鳥居忠意が「協力」してくれた。
「畏れながら…、それなれば表右筆の、それも分限帳改方も御召になられては如何でござりましょう…」
鳥居忠意は家治にそう貴重な「助言」を贈ってくれたのだ。
成程、今の家基の警備体制―、家基の警備を担う人材の詳しい経歴を確かめ様と思えば表右筆のそれも分限帳改方の協力が欠かせない。
幕臣の詳しい経歴、それが記されている幕臣個々の分限帳は表右筆の中でも分限帳改方が管理しており、それも本丸に勤める役人においては本丸表右筆の、ここ西之丸に勤める役人においては西之丸表右筆の、夫々、分限帳改方が管理していた。
西之丸表右筆の分限帳改方が管理する西之丸役人の分限帳、その中には勿論、家基の警備を担う、それも毒見を担う御膳奉行や、或いは御膳番小納戸のそれも勿論、含まれていた。
鳥居忠意は一見、茫洋としていたが、その実、中々に強かであり、頭の回転も速く、この手の助言など思い付くのは訳もないことであった。
ともあれ家治は鳥居忠意の助言に感謝すると共に、それを受容れると、「されば…」と相役、同僚の西之丸若年寄の酒井忠香が立上がった。
ここ西之丸において分限帳改方を担当する西之丸表右筆を呼びに行く為であり、それはひいては鳥居忠意への「対抗心」からであった。
酒井忠香は相役の鳥居忠意の貴重な助言に将軍・家治が感謝する様を目の当たりにして、
「これは己もうかうかしてはいられまい…」
自分も将軍・家治に少しでも「良いところ」を見せねばと、要は「功名心」、もっと言えば「出世欲」である。
尤も、それは悪いことではない。仮令、動機が出世欲であったとしても、家治への「忠義の心」に嘘はない。
かくして忠香は分限帳改方を、即ち、吉松伊兵衛正音を連れて家治の御前へと戻って来た。
今、西之丸にて表右筆として分限帳改方を担当するのはこの吉松伊兵衛唯一人であった。
本丸においては分限帳改方は4人もいたが、ここ西之丸においては分限帳改方が吉松伊兵衛唯一人なのは偏に、西之丸役人が本丸役人よりも少ないことに由来する。
それ故、表右筆の数自体、本丸よりも少ない。
さて、この吉松伊兵衛だが、分限帳を抱えていた。酒井忠香に命じられた為であり、今の西之丸御膳奉行、それに全えの中奥役人の分限帳を持参したのだ。
仮に家治が今の西之丸御膳奉行と御膳番小納戸に不都合があると考えれば、西之丸御膳奉行については兎も角、御膳番小納戸については別の小納戸への差替え、或いは西之丸小姓を小納戸へと役替の上で御膳番を兼ねさせることが予期され、酒井忠香はそこまで読切り、そこで、西之丸御膳奉行の分限帳と共に、全ての西之丸中奥役人の分限帳を持参する様、吉松伊兵衛に命じたのであった。
家治は忠香のその読みの深さにも大いに感謝した。
かくして家治は更に西之丸老中と若年寄、それにこの吉松伊兵衛をも随えて、愈々、中奥へと乗込んだ。
交代で西之丸に詰めるものであり、その日、奏者番においては太田備後守資愛が、大目付においては萩原主水正雅忠が夫々、西之丸当番であった。
そこへ家治一行が何の前触れもなし、乗込んで来たことから、太田資愛にしろ萩原雅忠にしろ仰天した。
「あの…、上様?」
一体、何の用件かとばかり、太田資愛が家治に恐る恐る声をかけた。
「家基に逢いに参った…」
家治はそれだけ応えて太田資愛の口を閉じさせた。
つまりは中奥へと進むことを示唆していた訳だが、ここ御城の主たる将軍・家治であれば、本丸、西之丸を問わず、中奥に進もうとも、更にその奥、大奥に進もうとも、一切自由、正に、
「天下御免」
であり、これを掣肘出来る者はいない。
一々、理由を穿鑿することすらも許されない。
太田資愛もそれが分かっていたからこそ口を閉じたものであり、傍で家治と資愛とのやり取りを聞いていた萩原雅忠にしても同様であった。
こうして家治一行は中奥へと進んだ訳だが、その手前、中奥に近い表向サイドにおいてはここ西之丸においても本丸同様、老中の執務室である上御用部屋と若年寄のそれである次御用部屋が廊下を挟んで真向かいにあり、しかもそこから家治一行の姿が見られたので、そこに詰めていた老中と若年寄は一斉に家治の御前へと駆付けた。
尤も、「一斉に…」とは言っても、それは3人に過ぎない。
即ち、西之丸においては老中は1人、若年寄は2人しか置かれていないからだ。
その唯一人の老中、阿部豊後守正允が2人の若年寄、鳥居伊賀守忠意と酒井飛騨守忠香を随える格好でやはり家治の御前にて右膝を折ると、
「畏れ多くも上様におかせられましては益々、御健勝の由…」
家治にそう「型通り」の挨拶をした。
阿部正允は流石に老中職を務めるだけあって、家治が西之丸へと登城した理由をストレートに訊く様な愚かな真似はしなかった。「型通り」の挨拶に仮託して訊ねてきた。
家治もそうと察して、
「家基に逢いに参った…」
まずは今し方、太田資愛へも寄越したのと同じ答えをこの阿部正允にも寄越し、しかし資愛の時とは異なり、
「されば家基が護りについて、この家治、この目で確と見届けたい…」
家基の警備体制をこの目で確かめる為と、それを伝えたのであった。
いざ、家基の警備体制を見直すともなれば、西之丸の老中、更にはその補佐役の若年寄の力―、協力も必要になるからだ。
すると早速、西之丸若年寄の鳥居忠意が「協力」してくれた。
「畏れながら…、それなれば表右筆の、それも分限帳改方も御召になられては如何でござりましょう…」
鳥居忠意は家治にそう貴重な「助言」を贈ってくれたのだ。
成程、今の家基の警備体制―、家基の警備を担う人材の詳しい経歴を確かめ様と思えば表右筆のそれも分限帳改方の協力が欠かせない。
幕臣の詳しい経歴、それが記されている幕臣個々の分限帳は表右筆の中でも分限帳改方が管理しており、それも本丸に勤める役人においては本丸表右筆の、ここ西之丸に勤める役人においては西之丸表右筆の、夫々、分限帳改方が管理していた。
西之丸表右筆の分限帳改方が管理する西之丸役人の分限帳、その中には勿論、家基の警備を担う、それも毒見を担う御膳奉行や、或いは御膳番小納戸のそれも勿論、含まれていた。
鳥居忠意は一見、茫洋としていたが、その実、中々に強かであり、頭の回転も速く、この手の助言など思い付くのは訳もないことであった。
ともあれ家治は鳥居忠意の助言に感謝すると共に、それを受容れると、「されば…」と相役、同僚の西之丸若年寄の酒井忠香が立上がった。
ここ西之丸において分限帳改方を担当する西之丸表右筆を呼びに行く為であり、それはひいては鳥居忠意への「対抗心」からであった。
酒井忠香は相役の鳥居忠意の貴重な助言に将軍・家治が感謝する様を目の当たりにして、
「これは己もうかうかしてはいられまい…」
自分も将軍・家治に少しでも「良いところ」を見せねばと、要は「功名心」、もっと言えば「出世欲」である。
尤も、それは悪いことではない。仮令、動機が出世欲であったとしても、家治への「忠義の心」に嘘はない。
かくして忠香は分限帳改方を、即ち、吉松伊兵衛正音を連れて家治の御前へと戻って来た。
今、西之丸にて表右筆として分限帳改方を担当するのはこの吉松伊兵衛唯一人であった。
本丸においては分限帳改方は4人もいたが、ここ西之丸においては分限帳改方が吉松伊兵衛唯一人なのは偏に、西之丸役人が本丸役人よりも少ないことに由来する。
それ故、表右筆の数自体、本丸よりも少ない。
さて、この吉松伊兵衛だが、分限帳を抱えていた。酒井忠香に命じられた為であり、今の西之丸御膳奉行、それに全えの中奥役人の分限帳を持参したのだ。
仮に家治が今の西之丸御膳奉行と御膳番小納戸に不都合があると考えれば、西之丸御膳奉行については兎も角、御膳番小納戸については別の小納戸への差替え、或いは西之丸小姓を小納戸へと役替の上で御膳番を兼ねさせることが予期され、酒井忠香はそこまで読切り、そこで、西之丸御膳奉行の分限帳と共に、全ての西之丸中奥役人の分限帳を持参する様、吉松伊兵衛に命じたのであった。
家治は忠香のその読みの深さにも大いに感謝した。
かくして家治は更に西之丸老中と若年寄、それにこの吉松伊兵衛をも随えて、愈々、中奥へと乗込んだ。
1
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
対ソ戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。
前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。
未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!?
小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる