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家基、毒殺の危機 ~将軍・家治は弟の清水重好の進言に従い、家基の警備体制を確かめるべく、西之丸へと赴くことに~ 後篇
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家治が西之丸へと足を運ぶべく、重好たちを随えて中奥から表向へと出ると、正に「出御」に及ぶや、ここでもまた制止を喰らうことになった。
家治一行に制止を喰らわせたのは老中、それも筆頭の首座である松平右近将監武元とそれに連なる平の老中たちである。
松平武元たち老中一同、家治一向の前に立塞がったのだ。
家治一行は中奥から表向へは御成廊下を伝い、普段は閉鎖されている錠口、所謂、上ノ錠口を潜り、そして七曲廊下へと出る、という道順を辿った。
ちなみに上ノ錠口は普段は閉鎖されており、この時もそうで、上ノ錠口を開閉するのは、その鍵を保管するのは小納戸頭取であり、そこで家治は小納戸頭取に命じて上ノ錠口の鍵を開けさせると、中奥サイドの御成廊下から表向サイドの七曲廊下へと出た。
この際、小納戸頭取衆の一人、本多志摩守行貞が上ノ錠口を開けることに、もっと言えば家治が表向へと出御することに反対した。
「急の出御とは一体、何事でござりまするか?」
家治が小納戸頭取衆に何の相談もなく表向へと出御しようとするのが本多行貞には気に入らなかったらしい。
その様な本多行貞に対して、
「西之丸へと赴く為…」
そう正直に打明ければ、行貞から更に猛反対されるのは目に見えていたので、
「良から開けよ…」
つべこべ言わずにサッサと開けろと、家治は本多行貞に命じた。
家治は己に仕える者の中でも本多行貞とはどうにも波長が合わないのか、つい強い態度を取ってしまう。
家治に随う御側御用取次たちもそれは分かっていたので、敢えて何も口にしなかった。ここで下手に口を挟めば、それこそ、
「西之丸へと赴く為…」
家治に成代わり、行貞に対して馬鹿正直にそう応え様ものなら、家治の不興を買うのは火を見るよりも明らかであるからだ。
ともあれ小納戸頭取衆の筆頭である水谷但馬守勝富が家治と行貞との間に割って入り、上ノ錠口を開けた。
「何卒、お気を付けて…」
水谷勝富は家治にそう声をかけて七曲廊下へと送出したのであった。
勝富は小納戸頭取衆として、御側御用取次に次いで将軍に近い立場にあり乍、決してその立場をひけらかすことはなく、また出しゃばらずに家治の意思を良く汲取ってくれた。
それ故、家治もこの勝富とは波長が合い、小納戸頭取衆の中でも特に目をかけていた。
否、実を言えば家治が本多行貞とは波長が合わないのも、行貞が勝富とは正反対に小納戸頭取衆としての立場をひけらかし、出しゃばることも度々であったからだ。
その為、家治はつい行貞に対しては強い態度に出てしまい、言うなれば行貞の自業自得と言えた。
さて、この七曲廊下と接しているのが老中の執務室である上御用部屋であり、その時、松平武元を始めとする老中はこの上御用部屋にて執務中であった。
そこへ家治一行が不意に七曲廊下に姿を見せたことから、松平武元たち老中も慌てて七曲廊下へと飛出すと、家治一行の前に立塞がった。
否、実際には老中一同、家治の御前にて右膝を折った。
「あの…、何処へ?」
松平武元が首座として老中を代表して家治に尋ねた。
武元が顔を見上げる先には家治ではなく、家治の先立ちを務める小姓頭取の新見正徧の姿があった。
そこで家治は新見正徧を退けて武元の前に立つと、
「これより西之丸へと登る…」
武元にそう応えた。
「西之御丸へ?」
「左様…、家基が身辺、この目で確と見届けたいと思うてな…」
これで武元でなくば、外の老中や、或いは若年寄であれば、更にそれは一体、どういう意味かと、問いを重ねるに違いない。
事実、武元の隣にて右膝を折る松平右京太夫輝高などがそうであり、今にも更なる問いを重ね様とし、するとそうと察した武元がそんな輝高を目で制した。
武元は輝高を始めとする外の老中、或いは若年寄とは異なり、家治とは言葉を交わさずとも、
「肚と肚で…」
語らうことが出来た。
家治は武元と二人きりの時は「爺」、「竹千代様」と呼び合う程の間柄であった。
この場合もそうで、武元はやはり家治と、
「肚と肚で…」
語らい、家治の「意図」を理解したらしい。
それが証拠に武元は相役、それも末席に位置する田沼主殿頭意次と、それに若年寄のやはり末席に位置する水野出羽守忠友の両名にも供を申付けてはと、家治にそう提案したのであった。
成程、家基の警備体制、殊に毒見役を見直した結果、一橋治済との所縁が判明した場合、外の者と、それも今度は治済とは一切、所縁のない者へと差替える必要に迫られるが、その際、老中や若年寄もいた方が都合が良い。
それと言うのも家基の警備、それも毒見役ともなると、その人事は若年寄が担うケースが想定されたからだ。
例えば御膳奉行がそうである。毒見役の一人、御膳奉行は若年寄支配の役職であり、それ故、若年寄がその人事を担う。
無論、だからと言って若年寄だけで決められるという訳ではない。
若年寄が人事案を作成し、それを老中へと上申、老中もその若年寄作成の人事案を認めると、更に御側御用取次を介して将軍へと、今は家治へとその人事案が捧呈され、家治もこれを認めれば晴れて原案通り、若年寄作成の人事案が発令される。
その際、御側御用取次が将軍に取次いで欲しいと、表向サイドより送られてきた人事案を握り潰すこともあり、御側御用取次が未決の人事を扱うとは、つまりはそういう意味であった。
ともあれ、家治は今の家基の毒見役の差替えをも視野に入れて西之丸へと、それも全ての御側御用取次を随えて押掛けるつもりであれば、そこへ更に老中と若年寄もいた方が都合が良い。
いざ差替えようと思っても、そこに老中や若年寄がいなければ、
「本丸の老中や若年寄の意見も聞いてみないことには…」
西之丸サイドからその様な口実を与える、つまりは付入る隙を与えることになるからだ。
そこで武元は老中からは意次を、若年寄からは忠友を、夫々、推挙したものである。
武元のこの推挙もまた、家治を満足させるものであった。
それと言うのも両名共に家治の寵臣、家治が特に目をかけていたからだ。
尤もその意次もまだ、武元の域には達していない。
つまりは家治とは、
「肚と肚で…」
語らうことが出来るまでには至っていない。
が、そこは意次である。輝高の様に家治にその「真意」を直に尋ねる様な真似はしない。
あくまで己の頭で考えた。
「一橋家に懐妊があった今、大納言様が身辺…、その警備体制を見直すとは…」
意次はそこまで考えた時、思わず、「あっ」と声を上げていた。
「若しや…、上様は一橋民部卿様による大納言様の暗殺を危惧あそばされているのか…」
それに思い至ったからで、家治も意次が声を上げたことから、
「どうやら気付いた様だの…」
心の中でそう呟くと、その通りぞと、言わんばかりに意次に頷いて見せた。
すると意次は顔を蒼くさせた。当然の反応と言えよう。
家治はそんな意次に忠友を連れて来る様、命じた。
忠友も今は若年寄として、その執務室である次御用部屋にて外の若年寄と執務中であった。
その次御用部屋からも七曲廊下の様子は窺えた。
次御用部屋は上御用部屋とは廊下を挟んで真向かいにあり、それ故、次御用部屋からも上御用部屋を挟んで七曲廊下の様子は、つまりは不意に家治一行が姿を見せたのは窺えた。
が、次御用部屋から七曲廊下へと赴くには畢竟、上御用部屋を踏越えねば、それはつまりは若年寄が老中の部屋を踏越えねばならず、しかし老中《ろうじゅう》の補佐役とも言うべき若年寄の立場では流石にそれは憚られ、そこで已む無く若年寄は次御用部屋より七曲廊下に向かって平伏して家治一行に、その中でも家治に敬意を示していた。
そこへ意次が上御用部屋を踏越えて姿を見せると、その中の一人、水野忠友に声をかけた。
「上様が御召でござる…」
意次は忠友にそう耳打ちした。
すると相役の酒井石見守忠休がそれを聞いて、
「あの…、この忠休は…」
自分は呼ばれていないのかと、意次にそう尋ねた。
「上様におかせられましては…、水野殿御一人を御召にござれば…」
お前さんには用はないと、意次は忠休にそう応えた。
だがそれで忠休は諦めなかった。
「水野出羽一人に行かせる訳には参りませぬ。この忠休めも、出羽が相役として…」
一緒について行くと、忠休はそう粘って意次を困惑させた。
忠友だけでなく、忠休まで連れて来ようものなら、家治の不興を買うのは目に見えていたからだ。
すると若年寄の筆頭、水野壱岐守忠見が意次を救った。
忠見は忠休を「いい加減にせいっ」と叱った上で、
「主殿頭様、さっ、早うに…」
忠友を連れて上様の御前へと戻られるが宜しかろうと、そう示唆したのであった。
意次は忠見に感謝しつつ、忠友を家治の御前へと急ぎ案内した。
その際、忠友は上御用部屋を踏越えた訳だが、上御用部屋の「住人」の一人、意次が案内により、それ故、踏越えるに何ら差支えなかった。
且つ―、上御用部屋に差掛かったところで忠友は意次より、
「上様は大納言様が一橋民部卿様に暗殺されるのではないかと、それを恐れておいでだ…」
そう耳打ちされたのであった。
これには忠友もやはり、「えっ」と思わず驚きの声を上げたものである。
かくして忠友もまた、家治の御前にて右膝を折り、家治を見上げると、
「意次より話は聞きましてござりまする…」
家治に「肚」でそう語りかけた。
忠友は嘗ては家治の伽を務めていたこともあり、武元同様、家治とは、
「肚と肚で…」
語らうことが出来、武元もそれが分かっていたからこそ、意次と共にこの忠友の名を挙げたのであった。
その忠友は更に、
「この際、老中首座の松平武元も随わせては…」
家治に「肚」でそう提案したのであった。
成程、武元までが加われば、正に「鬼に金棒」であった。
そこで家治は武元にも供を命じた。
するとここでもまた、先程の忠休と同様の態度を示す者がいた。
外ならぬ松平輝高であり、
「あの…、この輝高は…」
輝高は自分も供をしたいと、家治にそれとなく主張したのであった。
これには家治も困った。生憎と輝高にまでは用はなかったからだ。
だがここで輝高にはっきりとそう言ってしまっては輝高の心を疵付けることになる。
否、それ以上に輝高の体面、面子を疵付けることになろう。ここには外にも武元たちが控えているのだ。
輝高に如何に対処すべきか困惑している家治を救ったのは武元である。
尤も、武元は先程の忠見の様に叱責を浴びせて輝高を諦めさせた訳ではない。
「されば輝高にはこの武元が不在の間、首座として外の老中を取り纏めて貰いたい…、首座の代わりを頼めるのは輝高を措いて外にはいないのだ…、引受けてくれるな?」
武元からそう頼まれれば、輝高としても「ははっ」と応じるより外にない。武元の老獪さが光った瞬間である。
かくして家治一行に老中首座の松平武元と末席の田沼意次、そして若年寄の水野忠友が加わった。
家治一行に制止を喰らわせたのは老中、それも筆頭の首座である松平右近将監武元とそれに連なる平の老中たちである。
松平武元たち老中一同、家治一向の前に立塞がったのだ。
家治一行は中奥から表向へは御成廊下を伝い、普段は閉鎖されている錠口、所謂、上ノ錠口を潜り、そして七曲廊下へと出る、という道順を辿った。
ちなみに上ノ錠口は普段は閉鎖されており、この時もそうで、上ノ錠口を開閉するのは、その鍵を保管するのは小納戸頭取であり、そこで家治は小納戸頭取に命じて上ノ錠口の鍵を開けさせると、中奥サイドの御成廊下から表向サイドの七曲廊下へと出た。
この際、小納戸頭取衆の一人、本多志摩守行貞が上ノ錠口を開けることに、もっと言えば家治が表向へと出御することに反対した。
「急の出御とは一体、何事でござりまするか?」
家治が小納戸頭取衆に何の相談もなく表向へと出御しようとするのが本多行貞には気に入らなかったらしい。
その様な本多行貞に対して、
「西之丸へと赴く為…」
そう正直に打明ければ、行貞から更に猛反対されるのは目に見えていたので、
「良から開けよ…」
つべこべ言わずにサッサと開けろと、家治は本多行貞に命じた。
家治は己に仕える者の中でも本多行貞とはどうにも波長が合わないのか、つい強い態度を取ってしまう。
家治に随う御側御用取次たちもそれは分かっていたので、敢えて何も口にしなかった。ここで下手に口を挟めば、それこそ、
「西之丸へと赴く為…」
家治に成代わり、行貞に対して馬鹿正直にそう応え様ものなら、家治の不興を買うのは火を見るよりも明らかであるからだ。
ともあれ小納戸頭取衆の筆頭である水谷但馬守勝富が家治と行貞との間に割って入り、上ノ錠口を開けた。
「何卒、お気を付けて…」
水谷勝富は家治にそう声をかけて七曲廊下へと送出したのであった。
勝富は小納戸頭取衆として、御側御用取次に次いで将軍に近い立場にあり乍、決してその立場をひけらかすことはなく、また出しゃばらずに家治の意思を良く汲取ってくれた。
それ故、家治もこの勝富とは波長が合い、小納戸頭取衆の中でも特に目をかけていた。
否、実を言えば家治が本多行貞とは波長が合わないのも、行貞が勝富とは正反対に小納戸頭取衆としての立場をひけらかし、出しゃばることも度々であったからだ。
その為、家治はつい行貞に対しては強い態度に出てしまい、言うなれば行貞の自業自得と言えた。
さて、この七曲廊下と接しているのが老中の執務室である上御用部屋であり、その時、松平武元を始めとする老中はこの上御用部屋にて執務中であった。
そこへ家治一行が不意に七曲廊下に姿を見せたことから、松平武元たち老中も慌てて七曲廊下へと飛出すと、家治一行の前に立塞がった。
否、実際には老中一同、家治の御前にて右膝を折った。
「あの…、何処へ?」
松平武元が首座として老中を代表して家治に尋ねた。
武元が顔を見上げる先には家治ではなく、家治の先立ちを務める小姓頭取の新見正徧の姿があった。
そこで家治は新見正徧を退けて武元の前に立つと、
「これより西之丸へと登る…」
武元にそう応えた。
「西之御丸へ?」
「左様…、家基が身辺、この目で確と見届けたいと思うてな…」
これで武元でなくば、外の老中や、或いは若年寄であれば、更にそれは一体、どういう意味かと、問いを重ねるに違いない。
事実、武元の隣にて右膝を折る松平右京太夫輝高などがそうであり、今にも更なる問いを重ね様とし、するとそうと察した武元がそんな輝高を目で制した。
武元は輝高を始めとする外の老中、或いは若年寄とは異なり、家治とは言葉を交わさずとも、
「肚と肚で…」
語らうことが出来た。
家治は武元と二人きりの時は「爺」、「竹千代様」と呼び合う程の間柄であった。
この場合もそうで、武元はやはり家治と、
「肚と肚で…」
語らい、家治の「意図」を理解したらしい。
それが証拠に武元は相役、それも末席に位置する田沼主殿頭意次と、それに若年寄のやはり末席に位置する水野出羽守忠友の両名にも供を申付けてはと、家治にそう提案したのであった。
成程、家基の警備体制、殊に毒見役を見直した結果、一橋治済との所縁が判明した場合、外の者と、それも今度は治済とは一切、所縁のない者へと差替える必要に迫られるが、その際、老中や若年寄もいた方が都合が良い。
それと言うのも家基の警備、それも毒見役ともなると、その人事は若年寄が担うケースが想定されたからだ。
例えば御膳奉行がそうである。毒見役の一人、御膳奉行は若年寄支配の役職であり、それ故、若年寄がその人事を担う。
無論、だからと言って若年寄だけで決められるという訳ではない。
若年寄が人事案を作成し、それを老中へと上申、老中もその若年寄作成の人事案を認めると、更に御側御用取次を介して将軍へと、今は家治へとその人事案が捧呈され、家治もこれを認めれば晴れて原案通り、若年寄作成の人事案が発令される。
その際、御側御用取次が将軍に取次いで欲しいと、表向サイドより送られてきた人事案を握り潰すこともあり、御側御用取次が未決の人事を扱うとは、つまりはそういう意味であった。
ともあれ、家治は今の家基の毒見役の差替えをも視野に入れて西之丸へと、それも全ての御側御用取次を随えて押掛けるつもりであれば、そこへ更に老中と若年寄もいた方が都合が良い。
いざ差替えようと思っても、そこに老中や若年寄がいなければ、
「本丸の老中や若年寄の意見も聞いてみないことには…」
西之丸サイドからその様な口実を与える、つまりは付入る隙を与えることになるからだ。
そこで武元は老中からは意次を、若年寄からは忠友を、夫々、推挙したものである。
武元のこの推挙もまた、家治を満足させるものであった。
それと言うのも両名共に家治の寵臣、家治が特に目をかけていたからだ。
尤もその意次もまだ、武元の域には達していない。
つまりは家治とは、
「肚と肚で…」
語らうことが出来るまでには至っていない。
が、そこは意次である。輝高の様に家治にその「真意」を直に尋ねる様な真似はしない。
あくまで己の頭で考えた。
「一橋家に懐妊があった今、大納言様が身辺…、その警備体制を見直すとは…」
意次はそこまで考えた時、思わず、「あっ」と声を上げていた。
「若しや…、上様は一橋民部卿様による大納言様の暗殺を危惧あそばされているのか…」
それに思い至ったからで、家治も意次が声を上げたことから、
「どうやら気付いた様だの…」
心の中でそう呟くと、その通りぞと、言わんばかりに意次に頷いて見せた。
すると意次は顔を蒼くさせた。当然の反応と言えよう。
家治はそんな意次に忠友を連れて来る様、命じた。
忠友も今は若年寄として、その執務室である次御用部屋にて外の若年寄と執務中であった。
その次御用部屋からも七曲廊下の様子は窺えた。
次御用部屋は上御用部屋とは廊下を挟んで真向かいにあり、それ故、次御用部屋からも上御用部屋を挟んで七曲廊下の様子は、つまりは不意に家治一行が姿を見せたのは窺えた。
が、次御用部屋から七曲廊下へと赴くには畢竟、上御用部屋を踏越えねば、それはつまりは若年寄が老中の部屋を踏越えねばならず、しかし老中《ろうじゅう》の補佐役とも言うべき若年寄の立場では流石にそれは憚られ、そこで已む無く若年寄は次御用部屋より七曲廊下に向かって平伏して家治一行に、その中でも家治に敬意を示していた。
そこへ意次が上御用部屋を踏越えて姿を見せると、その中の一人、水野忠友に声をかけた。
「上様が御召でござる…」
意次は忠友にそう耳打ちした。
すると相役の酒井石見守忠休がそれを聞いて、
「あの…、この忠休は…」
自分は呼ばれていないのかと、意次にそう尋ねた。
「上様におかせられましては…、水野殿御一人を御召にござれば…」
お前さんには用はないと、意次は忠休にそう応えた。
だがそれで忠休は諦めなかった。
「水野出羽一人に行かせる訳には参りませぬ。この忠休めも、出羽が相役として…」
一緒について行くと、忠休はそう粘って意次を困惑させた。
忠友だけでなく、忠休まで連れて来ようものなら、家治の不興を買うのは目に見えていたからだ。
すると若年寄の筆頭、水野壱岐守忠見が意次を救った。
忠見は忠休を「いい加減にせいっ」と叱った上で、
「主殿頭様、さっ、早うに…」
忠友を連れて上様の御前へと戻られるが宜しかろうと、そう示唆したのであった。
意次は忠見に感謝しつつ、忠友を家治の御前へと急ぎ案内した。
その際、忠友は上御用部屋を踏越えた訳だが、上御用部屋の「住人」の一人、意次が案内により、それ故、踏越えるに何ら差支えなかった。
且つ―、上御用部屋に差掛かったところで忠友は意次より、
「上様は大納言様が一橋民部卿様に暗殺されるのではないかと、それを恐れておいでだ…」
そう耳打ちされたのであった。
これには忠友もやはり、「えっ」と思わず驚きの声を上げたものである。
かくして忠友もまた、家治の御前にて右膝を折り、家治を見上げると、
「意次より話は聞きましてござりまする…」
家治に「肚」でそう語りかけた。
忠友は嘗ては家治の伽を務めていたこともあり、武元同様、家治とは、
「肚と肚で…」
語らうことが出来、武元もそれが分かっていたからこそ、意次と共にこの忠友の名を挙げたのであった。
その忠友は更に、
「この際、老中首座の松平武元も随わせては…」
家治に「肚」でそう提案したのであった。
成程、武元までが加われば、正に「鬼に金棒」であった。
そこで家治は武元にも供を命じた。
するとここでもまた、先程の忠休と同様の態度を示す者がいた。
外ならぬ松平輝高であり、
「あの…、この輝高は…」
輝高は自分も供をしたいと、家治にそれとなく主張したのであった。
これには家治も困った。生憎と輝高にまでは用はなかったからだ。
だがここで輝高にはっきりとそう言ってしまっては輝高の心を疵付けることになる。
否、それ以上に輝高の体面、面子を疵付けることになろう。ここには外にも武元たちが控えているのだ。
輝高に如何に対処すべきか困惑している家治を救ったのは武元である。
尤も、武元は先程の忠見の様に叱責を浴びせて輝高を諦めさせた訳ではない。
「されば輝高にはこの武元が不在の間、首座として外の老中を取り纏めて貰いたい…、首座の代わりを頼めるのは輝高を措いて外にはいないのだ…、引受けてくれるな?」
武元からそう頼まれれば、輝高としても「ははっ」と応じるより外にない。武元の老獪さが光った瞬間である。
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その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
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