6 / 119
家基、毒殺の危機 ~将軍・家治は弟の清水重好の進言に従い、家基の警備体制を確かめるべく、西之丸へと赴くことに~
しおりを挟む
「治済めは…、自がこの家治に取って代わろうと…、将軍になるべく、この家治が血筋を根絶やしにすべく、そこで萬壽に手をかけたと申すか?」
家治は恐る恐るといった体で、重好に確かめる様に尋ねた。
「御意…、いえ、姫君様だけではのうて、その…」
重好が言い淀んでいると、家治が代わって答えた。
「御台も…、倫子も治済めが手にかけられたと申すのだな?」
「御意…、されば、その内の一人…、治済に使嗾され、実際に御台所様に一服盛りし一人は秀ではないかと…」
「成程…、秀は倫子が膳の毒見を担いし中年寄であったからのう…」
「そしてその…、それが…、御台所様毒殺が、治済に身請けされる条件ではなかったかと…」
「身請け、とな?」
「御意…」
「そは…、さしずめ持参金ということか?倫子を毒殺すれば、妾にしてやると…、治済めは秀に左様に持掛けたと申すか?」
「御意…、秀は確か…、閨の折、兄上の御不興を買われたとの話…」
家治は以前、重好にその話をした覚えがあり、「ああ…」と応じた。
「されば秀は上様が御不興を買ってしまってはこの先、ここ御本丸の大奥にては己の立場はない…、斯様に悟り、それよりは、と…」
「治済めが妾として生きることを択び、その為には倫子を毒殺せねばならなかったと申すのか?」
「御意…、今し方、兄上が仰せになられました持参金として…」
「許せぬ…」
「御意…、なれど今の時点ではその…」
「確たる証はない、と申すのであろう?」
「御意…」
「それはこの家治とて分かっておる…、されば総ては推量の域ぞ…、推量の域を出ぬ今、この段階にては治済めを糺すことは出来ぬと、左様に申すのであろう?」
「御意…」
「それはその通りであろうが…、なれどこのまま手を拱いている訳にも…」
「御意…、されば先手を打つことが肝要かと…」
「先手とな?」
「御意…、仮にこの重好が読み筋通りだとして、次に治済めが狙うは大納言様ではないかと…」
「家基を…」
「御意…、無論、治済めは最終的には兄上…、上様をも害し奉るつもりでありましょうが、その前にまず大納言様を害し…、それもやはり恐らくは一服盛り、兄上に多大なる打撃を…、精神的に追詰める腹積もりではないかと…」
重好のその「スジ読み」に家治も頷かされると、
「スクっと…」
立上がっていた。西之丸に赴く為である。
重好にもそれは察せられたので、家治に続いて立上がると、
「西之御丸へと足を運ばれる御所存で?」
家治に確かめる様に尋ね、家治を頷かせた。
「さればこの重好も御供仕りまする…」
重好はそう応え、こうして家治は重好を随えて御用之間を出ると、二人して西之丸へと押掛けることにした。今の家基の警備体制、殊に毒見の体制を確とこの目で見届ける為である。
尤も、実際には家治と重好の2人だけで西之丸へと足を運ぶ訳には参らなかった。
まず、それまで家治と重好が密談を交わしていた御用之間の出入口、外廊下にては小姓衆の一人、新見大炊頭正徧が控えていた。
この新見正徧が御用之間へと家治と重好を案内したからだ。
重好が家治に御用之間での密談を求めたのは御休息之間下段においてであった。
その時、家治は御休息之間下段において御側御用取次やその見習を相手に政務の最中であった。
家治は重好の願を聞届けるや、小姓の新見正徧を御休息之間下段へと呼寄せ、この正徧に御用之間への案内を命じたのであった。
将軍の秘密部屋とも称せられる御用之間へは将軍の外には小姓頭取か、或いは腹心の小姓しか足を踏み入れられず、それどころか近付くことすら許されず、それはここ中奥の最高長官たる御側御用取次と雖もその例外ではなかった。
御側御用取次は本来、ここ中奥の最高長官として中奥役人の頂点に位置し、中奥役人の一人である小姓頭取や小姓をも支配する立場にある。
だがその御側御用取次さえも将軍の許しがなくば、御用之間へと足を運ぶことは許されてはいなかった。
そこが小姓頭取や小姓との、それも腹心の小姓との違い、最大の違いと言えよう。
小姓頭取や、或いは腹心の小姓は上司とも言うべき御側御用取次には許されていない、御用之間への出入りが格別に許されていたのだ。
家治はその中でも、小姓頭取の松平圖書頭忠寄と小姓の新見正徧を寵愛しており、今日は松平忠寄は宿直ということで今時分はまだ出仕に及んでおらず、そこで日勤であった新見正徧を呼寄せて御用之間への案内を命じた次第であった。
斯かる経緯から新見正徧は家治と重好が御用之間にて密談を交わしている最中、殿宜しくその御用之間の出入口、外廊下にて控えては立聞きせぬ者がいないかどうか、それに目を光らせていたのだ。
そして密談を終えた家治と重好が御用之間から出て来たので、新見正徧はまずは平伏してこれを出迎え、それから頭を上げるや、
「お話は終わりましたので?」
家治にそう問いかけた。
「うむ…、さればこれより直ちに重好と二人、西之丸へと登る…」
家治がそう応えたことから、新見正徧はまずは仰天させられ、次いで直ぐに、
「さればこの新見正徧めも…」
供を申出たのであった。まさかに天下の将軍とその弟にして御三卿の2人だけで警備も付けずに外を出歩かせる訳には参らなかった。
仮令、ここ本丸から西之丸までの僅かな距離と雖も、万が一、ということもあり得たからだ。
そこで新見正徧は供を、要は「SP」を申出たのであった。家治に小姓として仕える身であれば当然の申出と言えよう。家治もこれを許した。ここで家治が新見正徧の申出を拒否したところで、正徧は家治に逆らってでも供を、西之丸へとついて来るに違いなかったからだ。
かくして家治と重好は新見正徧の案内により西之丸へと足を運ぶことになったのだが、しかしそれでは済まなかった。
ここ御用之間から西之丸へと赴くにはまず、御渡廊下を通り、次いで御小座敷之間上段から下段にかけての入側を伝って、更に御休息之間上段から下段にかけての入側を通らねばならず、しかしその御休息之間下段には将軍・家治の「帰り」を待受けていた御側御用取次とその見習が控えていた。
家治と重好が新見正徧の案内によりその御休息之間下段に面した入側に差掛かるや当然、彼等御側御用取次やその見習の目に留まり、彼等は皆、家治が入側より下段へと入ってくるものとばかり思っていた。
ところが実際には家治は下段には入らずに、重好と正徧と共に更にその先、萩之御廊下へと進もうとしたことから、彼等御側御用取次とその見習は驚き、慌てて御休息之間下段から出ると、家治と重好の先立ちを務める新見正徧の前へと廻り込み、
「あの、一体、どこへ?」
御側御用取次の一人、稲葉越中守正明が一座を、御用取次を代表して尋ねた。
家治はそれ故に、「西之丸へと登る」と新見正徧に寄越したのと同じ答えを寄越した。
すると稲葉正明は新見正徧とは異なり、その理由を尋ねた。
一橋治済が愛息・家基の暗殺、毒殺を企んでいるやも知れず、そこで家基に近侍する者、とりわけ毒見を担う者が誰なのか、それを確かめ、場合によっては、それも些かでも一橋治済との所縁があれば、直ちにその者を毒見役から外し、外の、それも治済とは一切、些かも所縁のない者と交代させる―、それが家治が重好と共に西之丸へと登城、押掛ける理由であったが、しかし今、この場にて、
「一橋治済云々…」
そのくだりを口にする訳にはゆかなかった。
まだ何の確証もないからだ。
そこで家治はただ、家基の警備体制を見直す為だと、
「当たり障りのない…」
答えを寄越したのであった。
「されば態々、畏れ多くも上様が御自ら西之御丸へと、お運びになられずとも、我等側衆…、御用取次に御任せを…」
その為の御用取次であると、稲葉正明はそう反論した。
成程、平時であらば家治も御用取次に丸投げしたであろう。
だが今は非常時であった。そこで自らの目で確かめたいのだと、家治は主張した。
「畏れながら上様におかせられましては…、今の大納言様の御側近くに近侍せし者に…、その警衛に何か御不審の点でも?」
そう切込んできたのは御小姓組番頭格奥勤―、御側御用取次見習の横田筑後守準松であった。
如何にもその通りであり、そこで家治も横田準松のこの問いかけに対しては「左様…」と応えた。
ここで「左様…」と認めないことには将軍たる家治が自ら、西之丸へと足を運ぶことに御用取次を納得させられないからだ。
すると横田準松も家治のその答え、或いは「覚悟」を目の当たりにすると、「ははぁっ」と引いて見せ、その上で、
「されば…、場合によっては大納言様の御側近くに近侍せし者に変更を御加えあそばされることもあり得る、と?」
家治にそう確かめる様に尋ねた。
横田準松のこの問いは、
「毒見役を交替させることもあり得るのか…」
家治には、そして重好にもだが、そう読替えることが出来、正しくその通りであったので、「左様」と家治は即答した。
「されば御用取次も随わせましては…、いざ、実際に大納言様の御側近くに近侍せし者に変更を…、別の者へと交替させますとならば、畏れながら上様御一人では…」
家治一人の力では家基の側近を一人を替えることすら難しいと、横田準松はそう示唆していた。
これもまた如何にもその通りの話であり、そこには無論、毒見役も含まれており、これを交替させるとなると、実務的な官僚、それも未決の人事をも担う御側御用取次の力が欠かせなかった。
それ以前に、今の家基の警備、それも毒見役を担う者が果たして一橋治済と所縁のあるのか否か、それを知るにも御用取次の力が欠かせない。
家治だけで、否、そこに重好と新見正徧をも随わせて西之丸へと押掛けても、今の家基の毒見役の詳しい経歴、特に「家族関係」について知ることすらままならないかも知れない。西之丸御側衆から良い様にあしらわれる可能性があり得たからだ。
その点、本丸御側御用取次や更にはその見習までも随わせて西之丸へと押掛ければ、西之丸御側衆も家治の「本気度」を知り、恐れ戦き、そうなれば素直に従わせられるというものである。
家治はそこまで考えて、横田準松の進言を採り、御側御用取次とその見習をも西之丸へと随わせることにした。
その見習、横田準松の相役である松平因幡守康明が「畏れながら…」と声を上げると、
「平御側の津田日向も…、日向守信之も随い奉らせましては如何でござりましょう…」
津田信之にも供を命ずることを提案したのであった。
「信之ものう…」
「御意…、されば津田日向守は大納言様が実の叔父に当たりますれば…」
家治も実はそれも考えないではなかった。
津田信之は家基が母堂、生母の於千穂の方の実弟であり、それ故に本丸御側衆に取立てられたのだ。
「津田日向守は大納言様が実の叔父なれば、大納言様が御身辺のことともなれば…」
人一倍気になるところであろうと、松平康明はそう示唆した。
家治も康明のこの示唆にはやはり頷かされた。
それに家治は西之丸へと登城したならば大奥へも足を運ぶつもりでいた。
それと言うのも将軍にしろ、次期将軍にしろ大奥にて食事を摂ることがあったからだ。
普段は、それも朝餉こそ中奥で摂るものの、昼餉や夕餉は大奥にて摂ることがあった。
その際、大奥にて将軍や次期将軍の食事の毒見を掌るのは将軍附、或いは次期将軍附の御客会釈であった。
家治としてはそれ故、今の家基附の御客会釈が誰であるのか、それを知ることも必要であり、そこで西之丸大奥へと足を運ぶつもりであった。
その際、津田信之がいれば家治としても心強い。何と言っても津田信之は今、西之丸大奥に君臨する於千穂の方の実弟だからだ。
家治が重好や、この津田信之をも随えて西之丸大奥へと乗込めば、西之丸大奥もやはり、
「家治の本気度…」
覚悟といったものを知り、家治に素直に従わせられるに違いないからだ。
「されば幸い、津田日向守は今日は宿直ではなく、日勤なれば…」
松平康明はそう補足して、今、この中奥に津田信之がいることを家治に告げた。
御側衆の中でも筆頭たる御用取次ともなると宿直が免除されているのに対して平御側はと言うと、宿直があり、日中の今時分、まだ登城に及んでいない平御側もいた。
だが津田信之は今日は日勤ということで、この中奥に詰めていた。
そこで家治はこの津田信之をも随わせて西之丸へと足を運ぶことにした。
家治は恐る恐るといった体で、重好に確かめる様に尋ねた。
「御意…、いえ、姫君様だけではのうて、その…」
重好が言い淀んでいると、家治が代わって答えた。
「御台も…、倫子も治済めが手にかけられたと申すのだな?」
「御意…、されば、その内の一人…、治済に使嗾され、実際に御台所様に一服盛りし一人は秀ではないかと…」
「成程…、秀は倫子が膳の毒見を担いし中年寄であったからのう…」
「そしてその…、それが…、御台所様毒殺が、治済に身請けされる条件ではなかったかと…」
「身請け、とな?」
「御意…」
「そは…、さしずめ持参金ということか?倫子を毒殺すれば、妾にしてやると…、治済めは秀に左様に持掛けたと申すか?」
「御意…、秀は確か…、閨の折、兄上の御不興を買われたとの話…」
家治は以前、重好にその話をした覚えがあり、「ああ…」と応じた。
「されば秀は上様が御不興を買ってしまってはこの先、ここ御本丸の大奥にては己の立場はない…、斯様に悟り、それよりは、と…」
「治済めが妾として生きることを択び、その為には倫子を毒殺せねばならなかったと申すのか?」
「御意…、今し方、兄上が仰せになられました持参金として…」
「許せぬ…」
「御意…、なれど今の時点ではその…」
「確たる証はない、と申すのであろう?」
「御意…」
「それはこの家治とて分かっておる…、されば総ては推量の域ぞ…、推量の域を出ぬ今、この段階にては治済めを糺すことは出来ぬと、左様に申すのであろう?」
「御意…」
「それはその通りであろうが…、なれどこのまま手を拱いている訳にも…」
「御意…、されば先手を打つことが肝要かと…」
「先手とな?」
「御意…、仮にこの重好が読み筋通りだとして、次に治済めが狙うは大納言様ではないかと…」
「家基を…」
「御意…、無論、治済めは最終的には兄上…、上様をも害し奉るつもりでありましょうが、その前にまず大納言様を害し…、それもやはり恐らくは一服盛り、兄上に多大なる打撃を…、精神的に追詰める腹積もりではないかと…」
重好のその「スジ読み」に家治も頷かされると、
「スクっと…」
立上がっていた。西之丸に赴く為である。
重好にもそれは察せられたので、家治に続いて立上がると、
「西之御丸へと足を運ばれる御所存で?」
家治に確かめる様に尋ね、家治を頷かせた。
「さればこの重好も御供仕りまする…」
重好はそう応え、こうして家治は重好を随えて御用之間を出ると、二人して西之丸へと押掛けることにした。今の家基の警備体制、殊に毒見の体制を確とこの目で見届ける為である。
尤も、実際には家治と重好の2人だけで西之丸へと足を運ぶ訳には参らなかった。
まず、それまで家治と重好が密談を交わしていた御用之間の出入口、外廊下にては小姓衆の一人、新見大炊頭正徧が控えていた。
この新見正徧が御用之間へと家治と重好を案内したからだ。
重好が家治に御用之間での密談を求めたのは御休息之間下段においてであった。
その時、家治は御休息之間下段において御側御用取次やその見習を相手に政務の最中であった。
家治は重好の願を聞届けるや、小姓の新見正徧を御休息之間下段へと呼寄せ、この正徧に御用之間への案内を命じたのであった。
将軍の秘密部屋とも称せられる御用之間へは将軍の外には小姓頭取か、或いは腹心の小姓しか足を踏み入れられず、それどころか近付くことすら許されず、それはここ中奥の最高長官たる御側御用取次と雖もその例外ではなかった。
御側御用取次は本来、ここ中奥の最高長官として中奥役人の頂点に位置し、中奥役人の一人である小姓頭取や小姓をも支配する立場にある。
だがその御側御用取次さえも将軍の許しがなくば、御用之間へと足を運ぶことは許されてはいなかった。
そこが小姓頭取や小姓との、それも腹心の小姓との違い、最大の違いと言えよう。
小姓頭取や、或いは腹心の小姓は上司とも言うべき御側御用取次には許されていない、御用之間への出入りが格別に許されていたのだ。
家治はその中でも、小姓頭取の松平圖書頭忠寄と小姓の新見正徧を寵愛しており、今日は松平忠寄は宿直ということで今時分はまだ出仕に及んでおらず、そこで日勤であった新見正徧を呼寄せて御用之間への案内を命じた次第であった。
斯かる経緯から新見正徧は家治と重好が御用之間にて密談を交わしている最中、殿宜しくその御用之間の出入口、外廊下にて控えては立聞きせぬ者がいないかどうか、それに目を光らせていたのだ。
そして密談を終えた家治と重好が御用之間から出て来たので、新見正徧はまずは平伏してこれを出迎え、それから頭を上げるや、
「お話は終わりましたので?」
家治にそう問いかけた。
「うむ…、さればこれより直ちに重好と二人、西之丸へと登る…」
家治がそう応えたことから、新見正徧はまずは仰天させられ、次いで直ぐに、
「さればこの新見正徧めも…」
供を申出たのであった。まさかに天下の将軍とその弟にして御三卿の2人だけで警備も付けずに外を出歩かせる訳には参らなかった。
仮令、ここ本丸から西之丸までの僅かな距離と雖も、万が一、ということもあり得たからだ。
そこで新見正徧は供を、要は「SP」を申出たのであった。家治に小姓として仕える身であれば当然の申出と言えよう。家治もこれを許した。ここで家治が新見正徧の申出を拒否したところで、正徧は家治に逆らってでも供を、西之丸へとついて来るに違いなかったからだ。
かくして家治と重好は新見正徧の案内により西之丸へと足を運ぶことになったのだが、しかしそれでは済まなかった。
ここ御用之間から西之丸へと赴くにはまず、御渡廊下を通り、次いで御小座敷之間上段から下段にかけての入側を伝って、更に御休息之間上段から下段にかけての入側を通らねばならず、しかしその御休息之間下段には将軍・家治の「帰り」を待受けていた御側御用取次とその見習が控えていた。
家治と重好が新見正徧の案内によりその御休息之間下段に面した入側に差掛かるや当然、彼等御側御用取次やその見習の目に留まり、彼等は皆、家治が入側より下段へと入ってくるものとばかり思っていた。
ところが実際には家治は下段には入らずに、重好と正徧と共に更にその先、萩之御廊下へと進もうとしたことから、彼等御側御用取次とその見習は驚き、慌てて御休息之間下段から出ると、家治と重好の先立ちを務める新見正徧の前へと廻り込み、
「あの、一体、どこへ?」
御側御用取次の一人、稲葉越中守正明が一座を、御用取次を代表して尋ねた。
家治はそれ故に、「西之丸へと登る」と新見正徧に寄越したのと同じ答えを寄越した。
すると稲葉正明は新見正徧とは異なり、その理由を尋ねた。
一橋治済が愛息・家基の暗殺、毒殺を企んでいるやも知れず、そこで家基に近侍する者、とりわけ毒見を担う者が誰なのか、それを確かめ、場合によっては、それも些かでも一橋治済との所縁があれば、直ちにその者を毒見役から外し、外の、それも治済とは一切、些かも所縁のない者と交代させる―、それが家治が重好と共に西之丸へと登城、押掛ける理由であったが、しかし今、この場にて、
「一橋治済云々…」
そのくだりを口にする訳にはゆかなかった。
まだ何の確証もないからだ。
そこで家治はただ、家基の警備体制を見直す為だと、
「当たり障りのない…」
答えを寄越したのであった。
「されば態々、畏れ多くも上様が御自ら西之御丸へと、お運びになられずとも、我等側衆…、御用取次に御任せを…」
その為の御用取次であると、稲葉正明はそう反論した。
成程、平時であらば家治も御用取次に丸投げしたであろう。
だが今は非常時であった。そこで自らの目で確かめたいのだと、家治は主張した。
「畏れながら上様におかせられましては…、今の大納言様の御側近くに近侍せし者に…、その警衛に何か御不審の点でも?」
そう切込んできたのは御小姓組番頭格奥勤―、御側御用取次見習の横田筑後守準松であった。
如何にもその通りであり、そこで家治も横田準松のこの問いかけに対しては「左様…」と応えた。
ここで「左様…」と認めないことには将軍たる家治が自ら、西之丸へと足を運ぶことに御用取次を納得させられないからだ。
すると横田準松も家治のその答え、或いは「覚悟」を目の当たりにすると、「ははぁっ」と引いて見せ、その上で、
「されば…、場合によっては大納言様の御側近くに近侍せし者に変更を御加えあそばされることもあり得る、と?」
家治にそう確かめる様に尋ねた。
横田準松のこの問いは、
「毒見役を交替させることもあり得るのか…」
家治には、そして重好にもだが、そう読替えることが出来、正しくその通りであったので、「左様」と家治は即答した。
「されば御用取次も随わせましては…、いざ、実際に大納言様の御側近くに近侍せし者に変更を…、別の者へと交替させますとならば、畏れながら上様御一人では…」
家治一人の力では家基の側近を一人を替えることすら難しいと、横田準松はそう示唆していた。
これもまた如何にもその通りの話であり、そこには無論、毒見役も含まれており、これを交替させるとなると、実務的な官僚、それも未決の人事をも担う御側御用取次の力が欠かせなかった。
それ以前に、今の家基の警備、それも毒見役を担う者が果たして一橋治済と所縁のあるのか否か、それを知るにも御用取次の力が欠かせない。
家治だけで、否、そこに重好と新見正徧をも随わせて西之丸へと押掛けても、今の家基の毒見役の詳しい経歴、特に「家族関係」について知ることすらままならないかも知れない。西之丸御側衆から良い様にあしらわれる可能性があり得たからだ。
その点、本丸御側御用取次や更にはその見習までも随わせて西之丸へと押掛ければ、西之丸御側衆も家治の「本気度」を知り、恐れ戦き、そうなれば素直に従わせられるというものである。
家治はそこまで考えて、横田準松の進言を採り、御側御用取次とその見習をも西之丸へと随わせることにした。
その見習、横田準松の相役である松平因幡守康明が「畏れながら…」と声を上げると、
「平御側の津田日向も…、日向守信之も随い奉らせましては如何でござりましょう…」
津田信之にも供を命ずることを提案したのであった。
「信之ものう…」
「御意…、されば津田日向守は大納言様が実の叔父に当たりますれば…」
家治も実はそれも考えないではなかった。
津田信之は家基が母堂、生母の於千穂の方の実弟であり、それ故に本丸御側衆に取立てられたのだ。
「津田日向守は大納言様が実の叔父なれば、大納言様が御身辺のことともなれば…」
人一倍気になるところであろうと、松平康明はそう示唆した。
家治も康明のこの示唆にはやはり頷かされた。
それに家治は西之丸へと登城したならば大奥へも足を運ぶつもりでいた。
それと言うのも将軍にしろ、次期将軍にしろ大奥にて食事を摂ることがあったからだ。
普段は、それも朝餉こそ中奥で摂るものの、昼餉や夕餉は大奥にて摂ることがあった。
その際、大奥にて将軍や次期将軍の食事の毒見を掌るのは将軍附、或いは次期将軍附の御客会釈であった。
家治としてはそれ故、今の家基附の御客会釈が誰であるのか、それを知ることも必要であり、そこで西之丸大奥へと足を運ぶつもりであった。
その際、津田信之がいれば家治としても心強い。何と言っても津田信之は今、西之丸大奥に君臨する於千穂の方の実弟だからだ。
家治が重好や、この津田信之をも随えて西之丸大奥へと乗込めば、西之丸大奥もやはり、
「家治の本気度…」
覚悟といったものを知り、家治に素直に従わせられるに違いないからだ。
「されば幸い、津田日向守は今日は宿直ではなく、日勤なれば…」
松平康明はそう補足して、今、この中奥に津田信之がいることを家治に告げた。
御側衆の中でも筆頭たる御用取次ともなると宿直が免除されているのに対して平御側はと言うと、宿直があり、日中の今時分、まだ登城に及んでいない平御側もいた。
だが津田信之は今日は日勤ということで、この中奥に詰めていた。
そこで家治はこの津田信之をも随わせて西之丸へと足を運ぶことにした。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
小日本帝国
ypaaaaaaa
歴史・時代
日露戦争で判定勝ちを得た日本は韓国などを併合することなく独立させ経済的な植民地とした。これは直接的な併合を主張した大日本主義の対局であるから小日本主義と呼称された。
大日本帝国ならぬ小日本帝国はこうして経済を盤石としてさらなる高みを目指していく…
戦線拡大が甚だしいですが、何卒!
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる