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松平定國は一橋治済の甘言に乗せられ、実弟の田安賢丸定信による田安家相続を阻止することを決意す。
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それから数日後、治済は一橋家上屋敷へと伊豫松山松平家の養嗣子である松平中務大輔定國を招いた。
治済にとって幸いであったのはこの時期―、安永2(1773)年4月は下旬の今、上屋敷に誰を招こうとも、御三卿の「お目付役」とも言うべき家老に気付かれずに済んだ。
それと言うのも、一橋家老の一人、田沼能登守意誠は治済が愛妾の秀の懐妊が明らかとなった4月初旬より体調を崩し、下旬の今は上屋敷内にある組屋敷、家老専用の宿舎にて臥せることが多く、今日もまた、定國が上屋敷を訪れたというに、田沼意誠は組屋敷にて臥せったままであり、それに気付かなかった。
そしてもう一人の家老、設樂兵庫頭貞好は今は御城に登城しており、それ故、ここ一橋家上屋敷を留守にしていた。
御三卿家老は二人いるので、それ故、本来は毎日、交代で御城に登城するものだが、しかし殊、一橋家に限って言えば、田沼意誠が病の為に登城も出来ぬ有様であり、それ故、相役、同僚の一橋家老である設樂貞好が毎日、御城へと登城せねばならなかった。
かくして一橋治済は日中に限るが、家老の目を気にせずに、人を招くことが出来た。
さて、治済は大奥に面した庭において松平定國をもてなした。
治済は庭に緋毛氈を敷き、更にその周囲には将軍家にのみ使用が許されている源氏の標章である二紺三白をあしらった幔幕を張巡らし、その中で定國をもてなしたのであった。
治済は定國の為に自ら茶を点て、茶菓子なども勧めた。
「秀への懐妊祝いと、それに弟・鎌三郎への病気見舞に対する御礼がしたい…」
治済はその「名目」により、定國を一橋家上屋敷へと招いたのであった。
治済には鎌三郎なる同腹の弟があり、しかし元来、病気がちであり、今も小日向の下屋敷にて療養中であり、しかももう、臨終を迎えつつあった。
そこで定國は養父・松平定靜の名代として、治済の許へと馳せ参じ、懐妊祝いと共に、病気見舞いをも差出したのであった。
この時、養父の定靜はまだ、この江戸におり、それなら態々、養嗣子の定國を名代に立てずとも、自ら治済の許へと足を運べた筈だが、実際にはそうはせず、養嗣子の定國を名代に立てたのは外でもない、定國が治済と同じく八代将軍・吉宗の血を引いていたからだ。
それも同じく、吉宗の孫同士という訳で、治済と定國とは、更に付加えるなら定國・田安賢丸定信兄弟とは従兄弟の間柄にあった。
そこで治済の「カウンターパート」は伊豫松山松平家の当主たる自分ではなく、養嗣子の定國であろうと、養父の定靜はそう考えて、そこで定國を己の名代として治済の許へと差遣わし、懐妊祝いと病気見舞いを定國から治済へと贈らせたのであった。
その様な経緯から治済も、
「秀への懐妊祝いと、それに弟・鎌三郎への病気見舞に対する御礼がしたい…」」
その名目にて、今日、定國を、定國一人を招くことに成功したのだ。
否、治済はそれでも一応、定靜・定國養親子を招いたのだが、定靜は治済からの折角の招きではあるが、これを拝辞して定國一人を治済の許へと送出したのであった。
「八代様の血を引いてはおらぬこの定靜までがのこのこと出向いては…」
定國にしろ治済にしろ、異分子とも言うべき定靜までがそこにいては、
「裃を脱いで…」
打解けられまいと、定靜はそう考えて、治済の招きを拝辞したのだ。
流石に、定靜は家格の向上を実現させただけあって、この辺の「呼吸」は見事なものであり、単なる粗忽者と断じることの出来る養嗣子の定國とは大違いであった。
さて、定國は治済自らのもてなしに大いに感謝した。
「いやいや…、定國殿、あっ、これはしたり…、気軽に諱を口にしてしまい…」
この時代、家臣でもない他人の諱を軽々しく口にするのは厳に慎まねばならなかった。
治済もその程度の「常識」ならば勿論、心得ていた。
にもかかわらず、敢えてその「常識」を破ってみせたのは外でもない、
「定國の心を己にグッと引寄せる為…」
であった。
事実、定國は天下の御三卿たる一橋治済から諱で呼ばれたことで、治済へと心が傾いた。
治済も定國の様子からそうと悟るや、更に定國の心を己へと傾かせるべく、
「その代わりに、と申しては何だが、この民部がことも、治済と、諱にて呼んではくれて構わぬ故…」
定國にそう持掛けたのであった。
これに対して定國は流石に驚くと同時に逡巡した。天下の御三卿をその諱にて呼ぶなどとは、それこそ絶対に許されないことであった。
如何に粗忽で知られる定國もその程度の「常識」ならば心得ていた。
だが治済はそんな定國に対して、
「なに、この治済、確かに三卿なれど、その身は定國殿と同じう、八代様が血筋、それも孫同士、従兄弟同士の間柄なれば、今の様に内々の間だけでも、この治済を諱にて呼んで欲しいのだ…」
そう止めを刺したのであった。
すると定國はこれで完全に治済に籠絡された。
「ははっ…、されば御言葉に甘えて治済様と…」
「うむ…、否、治済と呼捨てにしてくれても構わぬぞ?」
治済は勿論、そんな気は更々なかったものの、それでも一応、そうも勧めもした。
これに対して定國はと言うと、流石に治済を呼捨てにすることは、
「余りに畏れ多いと申すものにて…」
そう拒んだ。
治済は内心では、
「当たり前だ、この馬鹿野郎が…」
定國をそう罵倒しつつ、外面はそれとは見事なまでに裏腹に、如何にも寂しげな表情を覗かせつつ、「左様か…」と漏らして見せた。
「ときに…、鎌三郎様が御容態は如何に?」
定國は治済にそう切出した。
秀が順調であることは定国にも分かっていた。それと言うのも、この大奥に面した庭に出る前、治済より腹が膨らみ始めた秀にも引合わせて貰っていたからだ。
そこで定國は鎌三郎の容態について尋ねたのであった。
「うむ…、まぁ一進一退、といったところであろうかの…」
もう「秒読み」の段階であることを治済は定國に示唆した。
治済は内心では、
「全く…、良い時に重態になってくれたものよ…」
弟、鎌三郎が臨終を迎えつつあることを大いに喜んでいた。
それと言うのも、田安治察へと話を持っていけるからだ。
治済はやはり内心とは裏腹に、如何にも難しい顔付きをしたまま、
「定國殿が兄君の田安治察殿が御身体も心配ぞ…、治察殿も余り御身体が御強い方ではあるまいからの…」
治察の身をさも心配しているかの様にそう告げ、定國に「左様…」とこちらもまた心配そうに頷かせた。
「されば…、今から斯様なことを申すは慎まねばならぬが…」
治済はそう前置きしてから、愈々、本題へと進んだ。
「仮に、田安治察殿が身罷られたとして、その場合、治察殿には御嫡子がおられず、なれど御舎弟の賢丸君が跡目を…、田安家を継がれることに相成ろうぞ…」
治済は定國の「アキレス腱」を突いた。
すると案の定、定國は厭な顔をした。
どうやら定國は今でも、田安家の跡目を逃したことを悔やんでいるらしい。
治済は定國のその様子を直に確かめられると内心、快哉したものである。
無論、治済はその内心を面には出さずに、それとはやはり裏腹に難しい顔付きのまま、
「なれど…、このまま賢丸君に田安家の跡目を継がせても良いものか…、否、この治済、田安家の跡目には賢丸君ではのうて、定國殿、御貴殿こそが相応しいと、今でもそう思うておるのだ…」
定國が泣いて喜ぶ様な台詞を口にした。
無論、治済はそんなことは「1ミリ」も思ってはいなかったが、今、この場面においては必要不可欠な「嘘」であった。
粗忽な定國は案の定と言うべきか、治済のその「嘘」、それも「大法螺」を信じて表情を緩ませたものである。
治済はそんな定國を内心では嘲笑いつつ、
「否…、定國殿が伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられる前からこの治済、定國殿こそが田安家を継がれるに相応しいと思うておってな…、だのにそれが突然、伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられたものだから、この治済、ただただ驚くばかりであったわ…」
段々と核心へと「駒」を進めた。
一方、定國はそうとも知らずに相変わらず治済の「大法螺」を真に受続け、何度も頷いていた。
「否、それでこの治済も少し気になってな…、英邁なる定國殿が何故に伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられることと相成ったのか、それが気になって、そこで中奥にて少々、探りを入れたところ、どうにも田沼主殿めが裏で糸を引いておった様なのだ…」
定國が定靜の養嗣子へと追いやられたのは田沼主殿こと主殿頭意次の仕業である―、治済は定國にそう匂わせたのであった。
「何と主殿めが?」
定國は流石に信じられないといった面持ちで聞返した。
意次には己を伊豫松山松平家へと追いやる理由、動機が見当たらなかったからである。
成程、如何に粗忽な定國でもその程度の理性は残っていたらしい。
だが治済がそれに続けて吐いた「大法螺」が定國のその僅かばかりの理性をも吹飛ばした。
「左様…、それがどうにも賢丸君に頼まれての…」
「何と…」
「されば賢丸君は、兄の治察殿がこのまま嫡子に恵まれずに卒したならば、田安家の跡目の座は御舎弟の許へと回ってくるであろうが、なれどそれは己ではなく兄…、治察殿が直ぐ下の定國殿に外ならず、田安家の跡目の座を狙う賢丸君はそれが気に入らず…」
「それで…、賢丸めは田沼主殿めと手を結び、この定國を伊豫松山松平家へと追いやったと申されるかっ!?」
定國は治済が期待した通りの、否、それ以上の反応を示してくれた。
松平定國が伊豫松山松平家の定靜の養嗣子として迎えられたのは明和5(1768)年10月のことである。
その時点では意次はまだ、側用人、老中格ですらなく、賢丸定信に至っては齢11の幼児に過ぎない。まだ前髪さえ落ちてはいなかった。
その様な側用人と幼児が組むことなど到底、あり得なかった。
少し考えれば、否、考えるまでもない、計算さえ出来れば、それが真赤な偽りであることに直ぐに気付くであろう。何しろ定國は賢丸定信の実兄として、嘗ては田安家にて賢丸定信と共に暮らしていた訳だから。
それ故、治済自身、実を言えば今、己が定國に対して弄した「甘言、否、「大法螺」を果たして定國が信じてくれるかどうか、自信がなかったのだ。
「如何に粗忽なる定國でも、流石に真赤な偽りと気付くのではあるまいか…」
治済は内心、半信半疑のまま、それでも、「もしかしたら…」と、定國は信じるやも知れぬと、そうも考えて、「大法螺《おおぼら》」を吹いたのであった。
一種の賭けであり、結果、治済はその賭けに勝った。
「定國がまさかに、ここまで愚かであったとは…」
治済は内心、定國を嘲笑い、今にも躍り出したい程であった。
治済はそれでも定國にその内心を悟られまいと、如何にも難しい顔付きのまま頷いた上で、
「されば…、斯かる賢丸君が田安家の当主には…、否、僭越であるのは承知の上だが、なれど到底、相応しいとは思えぬのだ…」
定國にそう止めを刺した。
これに対して定國も全く同感であると、そう言わんばかりに深く頷いた。
「どうかの…、定國殿、賢丸君もまた、御貴殿と同じく、何処ぞの大名家にでも養嗣子として貰われれば、田安家の相続を阻止出来ると思うのだが…」
治済は遂に本日の「主題」を口にした。
すると定國も「成程っ」と膝を打った。どうやら治済の真実の思惑に気付かず、賢丸定信憎しの感情から、すっかりそ気になった様だ。
治済は愈々、その内心で定國のその愚かさを嘲笑いつつ、
「御貴殿も養父上の定靜殿と共に溜間詰なれば、賢丸君の件で一つ、肌を脱がれてみては…」
溜間における閣議において賢丸定信を何処ぞの大名家へと養嗣子として迎えさせることを提案してみてはと、そう示唆、勧めたのであった。
これに対して定國はまたしても、否、更に深く頷いたものだった。
治済にとって幸いであったのはこの時期―、安永2(1773)年4月は下旬の今、上屋敷に誰を招こうとも、御三卿の「お目付役」とも言うべき家老に気付かれずに済んだ。
それと言うのも、一橋家老の一人、田沼能登守意誠は治済が愛妾の秀の懐妊が明らかとなった4月初旬より体調を崩し、下旬の今は上屋敷内にある組屋敷、家老専用の宿舎にて臥せることが多く、今日もまた、定國が上屋敷を訪れたというに、田沼意誠は組屋敷にて臥せったままであり、それに気付かなかった。
そしてもう一人の家老、設樂兵庫頭貞好は今は御城に登城しており、それ故、ここ一橋家上屋敷を留守にしていた。
御三卿家老は二人いるので、それ故、本来は毎日、交代で御城に登城するものだが、しかし殊、一橋家に限って言えば、田沼意誠が病の為に登城も出来ぬ有様であり、それ故、相役、同僚の一橋家老である設樂貞好が毎日、御城へと登城せねばならなかった。
かくして一橋治済は日中に限るが、家老の目を気にせずに、人を招くことが出来た。
さて、治済は大奥に面した庭において松平定國をもてなした。
治済は庭に緋毛氈を敷き、更にその周囲には将軍家にのみ使用が許されている源氏の標章である二紺三白をあしらった幔幕を張巡らし、その中で定國をもてなしたのであった。
治済は定國の為に自ら茶を点て、茶菓子なども勧めた。
「秀への懐妊祝いと、それに弟・鎌三郎への病気見舞に対する御礼がしたい…」
治済はその「名目」により、定國を一橋家上屋敷へと招いたのであった。
治済には鎌三郎なる同腹の弟があり、しかし元来、病気がちであり、今も小日向の下屋敷にて療養中であり、しかももう、臨終を迎えつつあった。
そこで定國は養父・松平定靜の名代として、治済の許へと馳せ参じ、懐妊祝いと共に、病気見舞いをも差出したのであった。
この時、養父の定靜はまだ、この江戸におり、それなら態々、養嗣子の定國を名代に立てずとも、自ら治済の許へと足を運べた筈だが、実際にはそうはせず、養嗣子の定國を名代に立てたのは外でもない、定國が治済と同じく八代将軍・吉宗の血を引いていたからだ。
それも同じく、吉宗の孫同士という訳で、治済と定國とは、更に付加えるなら定國・田安賢丸定信兄弟とは従兄弟の間柄にあった。
そこで治済の「カウンターパート」は伊豫松山松平家の当主たる自分ではなく、養嗣子の定國であろうと、養父の定靜はそう考えて、そこで定國を己の名代として治済の許へと差遣わし、懐妊祝いと病気見舞いを定國から治済へと贈らせたのであった。
その様な経緯から治済も、
「秀への懐妊祝いと、それに弟・鎌三郎への病気見舞に対する御礼がしたい…」」
その名目にて、今日、定國を、定國一人を招くことに成功したのだ。
否、治済はそれでも一応、定靜・定國養親子を招いたのだが、定靜は治済からの折角の招きではあるが、これを拝辞して定國一人を治済の許へと送出したのであった。
「八代様の血を引いてはおらぬこの定靜までがのこのこと出向いては…」
定國にしろ治済にしろ、異分子とも言うべき定靜までがそこにいては、
「裃を脱いで…」
打解けられまいと、定靜はそう考えて、治済の招きを拝辞したのだ。
流石に、定靜は家格の向上を実現させただけあって、この辺の「呼吸」は見事なものであり、単なる粗忽者と断じることの出来る養嗣子の定國とは大違いであった。
さて、定國は治済自らのもてなしに大いに感謝した。
「いやいや…、定國殿、あっ、これはしたり…、気軽に諱を口にしてしまい…」
この時代、家臣でもない他人の諱を軽々しく口にするのは厳に慎まねばならなかった。
治済もその程度の「常識」ならば勿論、心得ていた。
にもかかわらず、敢えてその「常識」を破ってみせたのは外でもない、
「定國の心を己にグッと引寄せる為…」
であった。
事実、定國は天下の御三卿たる一橋治済から諱で呼ばれたことで、治済へと心が傾いた。
治済も定國の様子からそうと悟るや、更に定國の心を己へと傾かせるべく、
「その代わりに、と申しては何だが、この民部がことも、治済と、諱にて呼んではくれて構わぬ故…」
定國にそう持掛けたのであった。
これに対して定國は流石に驚くと同時に逡巡した。天下の御三卿をその諱にて呼ぶなどとは、それこそ絶対に許されないことであった。
如何に粗忽で知られる定國もその程度の「常識」ならば心得ていた。
だが治済はそんな定國に対して、
「なに、この治済、確かに三卿なれど、その身は定國殿と同じう、八代様が血筋、それも孫同士、従兄弟同士の間柄なれば、今の様に内々の間だけでも、この治済を諱にて呼んで欲しいのだ…」
そう止めを刺したのであった。
すると定國はこれで完全に治済に籠絡された。
「ははっ…、されば御言葉に甘えて治済様と…」
「うむ…、否、治済と呼捨てにしてくれても構わぬぞ?」
治済は勿論、そんな気は更々なかったものの、それでも一応、そうも勧めもした。
これに対して定國はと言うと、流石に治済を呼捨てにすることは、
「余りに畏れ多いと申すものにて…」
そう拒んだ。
治済は内心では、
「当たり前だ、この馬鹿野郎が…」
定國をそう罵倒しつつ、外面はそれとは見事なまでに裏腹に、如何にも寂しげな表情を覗かせつつ、「左様か…」と漏らして見せた。
「ときに…、鎌三郎様が御容態は如何に?」
定國は治済にそう切出した。
秀が順調であることは定国にも分かっていた。それと言うのも、この大奥に面した庭に出る前、治済より腹が膨らみ始めた秀にも引合わせて貰っていたからだ。
そこで定國は鎌三郎の容態について尋ねたのであった。
「うむ…、まぁ一進一退、といったところであろうかの…」
もう「秒読み」の段階であることを治済は定國に示唆した。
治済は内心では、
「全く…、良い時に重態になってくれたものよ…」
弟、鎌三郎が臨終を迎えつつあることを大いに喜んでいた。
それと言うのも、田安治察へと話を持っていけるからだ。
治済はやはり内心とは裏腹に、如何にも難しい顔付きをしたまま、
「定國殿が兄君の田安治察殿が御身体も心配ぞ…、治察殿も余り御身体が御強い方ではあるまいからの…」
治察の身をさも心配しているかの様にそう告げ、定國に「左様…」とこちらもまた心配そうに頷かせた。
「されば…、今から斯様なことを申すは慎まねばならぬが…」
治済はそう前置きしてから、愈々、本題へと進んだ。
「仮に、田安治察殿が身罷られたとして、その場合、治察殿には御嫡子がおられず、なれど御舎弟の賢丸君が跡目を…、田安家を継がれることに相成ろうぞ…」
治済は定國の「アキレス腱」を突いた。
すると案の定、定國は厭な顔をした。
どうやら定國は今でも、田安家の跡目を逃したことを悔やんでいるらしい。
治済は定國のその様子を直に確かめられると内心、快哉したものである。
無論、治済はその内心を面には出さずに、それとはやはり裏腹に難しい顔付きのまま、
「なれど…、このまま賢丸君に田安家の跡目を継がせても良いものか…、否、この治済、田安家の跡目には賢丸君ではのうて、定國殿、御貴殿こそが相応しいと、今でもそう思うておるのだ…」
定國が泣いて喜ぶ様な台詞を口にした。
無論、治済はそんなことは「1ミリ」も思ってはいなかったが、今、この場面においては必要不可欠な「嘘」であった。
粗忽な定國は案の定と言うべきか、治済のその「嘘」、それも「大法螺」を信じて表情を緩ませたものである。
治済はそんな定國を内心では嘲笑いつつ、
「否…、定國殿が伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられる前からこの治済、定國殿こそが田安家を継がれるに相応しいと思うておってな…、だのにそれが突然、伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられたものだから、この治済、ただただ驚くばかりであったわ…」
段々と核心へと「駒」を進めた。
一方、定國はそうとも知らずに相変わらず治済の「大法螺」を真に受続け、何度も頷いていた。
「否、それでこの治済も少し気になってな…、英邁なる定國殿が何故に伊豫松山松平家へと養嗣子に迎えられることと相成ったのか、それが気になって、そこで中奥にて少々、探りを入れたところ、どうにも田沼主殿めが裏で糸を引いておった様なのだ…」
定國が定靜の養嗣子へと追いやられたのは田沼主殿こと主殿頭意次の仕業である―、治済は定國にそう匂わせたのであった。
「何と主殿めが?」
定國は流石に信じられないといった面持ちで聞返した。
意次には己を伊豫松山松平家へと追いやる理由、動機が見当たらなかったからである。
成程、如何に粗忽な定國でもその程度の理性は残っていたらしい。
だが治済がそれに続けて吐いた「大法螺」が定國のその僅かばかりの理性をも吹飛ばした。
「左様…、それがどうにも賢丸君に頼まれての…」
「何と…」
「されば賢丸君は、兄の治察殿がこのまま嫡子に恵まれずに卒したならば、田安家の跡目の座は御舎弟の許へと回ってくるであろうが、なれどそれは己ではなく兄…、治察殿が直ぐ下の定國殿に外ならず、田安家の跡目の座を狙う賢丸君はそれが気に入らず…」
「それで…、賢丸めは田沼主殿めと手を結び、この定國を伊豫松山松平家へと追いやったと申されるかっ!?」
定國は治済が期待した通りの、否、それ以上の反応を示してくれた。
松平定國が伊豫松山松平家の定靜の養嗣子として迎えられたのは明和5(1768)年10月のことである。
その時点では意次はまだ、側用人、老中格ですらなく、賢丸定信に至っては齢11の幼児に過ぎない。まだ前髪さえ落ちてはいなかった。
その様な側用人と幼児が組むことなど到底、あり得なかった。
少し考えれば、否、考えるまでもない、計算さえ出来れば、それが真赤な偽りであることに直ぐに気付くであろう。何しろ定國は賢丸定信の実兄として、嘗ては田安家にて賢丸定信と共に暮らしていた訳だから。
それ故、治済自身、実を言えば今、己が定國に対して弄した「甘言、否、「大法螺」を果たして定國が信じてくれるかどうか、自信がなかったのだ。
「如何に粗忽なる定國でも、流石に真赤な偽りと気付くのではあるまいか…」
治済は内心、半信半疑のまま、それでも、「もしかしたら…」と、定國は信じるやも知れぬと、そうも考えて、「大法螺《おおぼら》」を吹いたのであった。
一種の賭けであり、結果、治済はその賭けに勝った。
「定國がまさかに、ここまで愚かであったとは…」
治済は内心、定國を嘲笑い、今にも躍り出したい程であった。
治済はそれでも定國にその内心を悟られまいと、如何にも難しい顔付きのまま頷いた上で、
「されば…、斯かる賢丸君が田安家の当主には…、否、僭越であるのは承知の上だが、なれど到底、相応しいとは思えぬのだ…」
定國にそう止めを刺した。
これに対して定國も全く同感であると、そう言わんばかりに深く頷いた。
「どうかの…、定國殿、賢丸君もまた、御貴殿と同じく、何処ぞの大名家にでも養嗣子として貰われれば、田安家の相続を阻止出来ると思うのだが…」
治済は遂に本日の「主題」を口にした。
すると定國も「成程っ」と膝を打った。どうやら治済の真実の思惑に気付かず、賢丸定信憎しの感情から、すっかりそ気になった様だ。
治済は愈々、その内心で定國のその愚かさを嘲笑いつつ、
「御貴殿も養父上の定靜殿と共に溜間詰なれば、賢丸君の件で一つ、肌を脱がれてみては…」
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