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一橋治済は家基亡き後の次期将軍レースにおいてライバルとなり得る田安賢丸定信を潰すべく、その兄・松平定國を使うことを思いつく。
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「家治め…、初崎らは…、家基の乳持を勤めし初崎や、その姪の砂野、そして家基が母堂の千穂が姪…、家基にとっては従姉の笹岡は、それ故によもやこの治済に通じておらぬと、勘違いしておる様だが、そこが家治の甘さよ…」
治済は岩本正利を相手にそう告げた。
すると正利も、「御意…」とこれに応ずるや、
「上臈年寄の岩橋殿につきましても、よもや上様には通じてはいまいと、家治公はやはり、すっかり信じきっておられる御様子にて…」
そう付加え、治済を頷かせた。ちなみにこの場合の「上様」とは勿論、治済のことを指していた。
「治済よ…、こうなればさっさと家基を始末してしまえよ…、今の西之丸大奥なら、それも可能だろうぜ?」
治済にそう無頼な口調で勧めたのは治済が実兄にして越前福井藩主の松平越前守重富である。
松平重富は一橋家の始祖、宗尹が三男であり、腹違いの兄にして、福井藩主として迎えられていた松平越前守重昌が養嗣子として迎えられ、今に至る。
治済はこの重富の弟、それも同腹の弟であり、兄・重昌や重富を差置いて一橋家を相続したとも言える。
その重富は先日の4月15日に参勤交代によりこの江戸へと出府、将軍・家治に参観の挨拶を済ませていた。
今、治済を呼捨てに出来るのはこの松平重富を措いて外にはいないであろう。
重富は弟、治済に一橋家を相続されてしまったことに特に何らの蟠りもなかった。
それどころか、「天下獲り」を企む治済の「アドバイザー」に徹していた。
それ故、さっさと西之丸大奥にて家基を毒殺してしまえ、というのは「アドバイザー」としては的確な助言と言えた。
が、治済は苦笑して頭を振った。
「今、家基めを討取っても、漁夫の利を攫われるだけに終わるやも知れませぬ…」
治済は頭を振った理由を兄・重富にそう告げた。
それで重富も、「ああ…」と何かに思い至った様な声を上げた。
事実、重富は何かに思い至り、
「清水や、田安だの?」
治済にそうぶつけた。
即ち、今、家基を暗殺、毒殺しても、家治の腹違いの弟にして御三卿の清水重好か、若しくは同じく御三卿にして従弟の田安治察に次期将軍職が掻っ攫われるのではあるまいかと、重富はそのことに思い至り、弟・治済にその点をぶつけたのだ。
これには治済も頷いた上で、
「殊に重好めは強敵…」
そう補足した。
「それなら、いっそ重好や治察も殺してしまえよ」
重富は実に恐ろしいことをサラリと言ってのける。御蔭で直ぐ傍にて陪席していた岩本正利などは顔面蒼白である。
治済はそれ故、思わず苦笑を禁じ得なかった。
「兄上は相変わらず性急だのう…、否、如何にこの治済とて流石に重好や治察の暗殺までは手が回らぬと申すもの…」
「だが…、だからと言ってこのまま、重好や治察に生きていられたままでは、折角、家基の暗殺、毒殺の体制を調えたと申すに、いつまでも実行出来まいて…」
確かに重富の言う通りであった。
「否…、治察につきましては元来、病弱にて、されば昨今、体調が思わしくないとの専らの評判にて…」
「まさか…、お前、重好や治察の暗殺まで手が回らないと言いながら、その実、まずは治察に一服盛ったんじゃねぇだろうな?」
重富が真顔でそう尋ねるものだから、治済は愈々、苦笑させられた。
「いくら何でも…、それは余りの仰せぞ…、真実、病気でござるよ、治察は…」
「そうか…、まぁ、俺としてはどっちでも良いが…、それなら残る敵は重好だけだな?」
「いえ、それが治察には賢丸定信なる弟、それも同腹の弟がおりますれば…」
「ああ…、賢丸な。それなら俺も知ってるが、そいつが田安家を継ぐってか?仮に治察が死んだとして…、或いは愈々、駄目《ダメ》って時には末期養子として…」
「左様…、されば治察が歿しても新たに賢丸が…」
「対抗馬として浮上する、ってか?」
「左様…」
「それなら賢丸も何とかしなけりゃな…」
「それにつきまして、この治済に腹案が…」
「賢丸を殺す何か良い手立てでもある、ってか?」
「いえいえ…、殺す訳ではなく…、否、政治的に殺す手立てがござりまする…」
「政治的に殺す、だと?」
「左様…」
「そいつは一体、どういう意味だ?」
「要は賢丸に田安家を継がさせなければそれで済む話にて…」
治済は謎かけでもするかの様に兄・重富にそう示唆するや、重富も直ぐにその示唆するところに気がついた。
「何処ぞの大名家にでも養嗣子として田安家から追出しちまえば良い訳だ。俺の様にな…」
重富は自嘲気味にそう言った。
それに対して治済も、「まぁ…」と苦笑を浮かべたまま曖昧に応えた。
「だが具体的にはどうする?何か、手立てでもあんのか?」
兄・重富からの問いかけに対して治済は頷くと、
「されば…、大輔めを…、松平中務大輔定國めを動かしまする…」
重富にその名を挙げた。
「定國っちゃぁ、賢丸の兄貴、それも同腹の兄貴じゃねぇか…」
「左様…、されば定國めが養父、松平隠岐守定靜が家格の向上を狙うて、そこで将軍家より、田安家より定國めを養嗣子として迎えましたる次第にて…」
良くある話であった。
事実、松平定靜が当主を務める伊豫松山藩松平家の殿中席は帝鑑間であった。
それが明和5(1768)年10月に定靜が将軍家である御三卿の田安家より定國を養嗣子として貰請けることに成功するや、伊豫松山松平家の家格は帝鑑間より溜間へと向上した。
帝鑑間が「古来御譜代の席」と称されているならば、溜間は、
「幕府の政治顧問…」
その地位が与えられ、帝鑑間よりも格上とされていた。
それを裏付ける様に帝鑑間詰の諸侯には許されていない平日登城も溜間詰の諸侯には「幕府の政治顧問」としてそれが許されていたのだ。
それ故、家格の向上に成功した定靜は大いに面目を施したが、逆に定國は大いに不満であった。
それと言うのも、定國は己が田安家を継げるものと、そう信じていたからだ。
否、定國が伊豫松山松平家へ、定靜の養嗣子として迎えられた明和5(1768)年10月時点において、田安家には当主の宗武と共に、嫡子の治察も存していた為に一見、定國の「出番」はない様に思われた。
だが、嫡子、つまり定國の兄である治察は元来、
「蒲柳の質…」
身体が弱く、仮に田安家を継いだところで嫡子に恵まれぬまま亡くなるに違いないと、定國はそう読んでいた。
その場合、定國に「出番」が回って来る。
己が兄・治察の養嗣子となり、田安家を継げるに違いあるまいと、定國は田安家にて部屋住であった頃より、そんな「皮算用」を弾いていたのだ。
だが、それが急遽、伊豫松山松平家へと養嗣子に出されることになり、定國の「皮算用」は脆くも崩れ去った。いったん他家へと、大名家へと養嗣子に出されては二度と、御家を継ぐ機会には恵まれまい。
殊に御三卿はそうだ。御三卿は所謂、
「潰れない家」
であった。
通常、大名家にしろ、旗本や御家人にしろ、当主不在ともなれば、「御家取潰しの」の危機に恵まれる。
それ故、いったん他家へと養嗣子に出した者を再び、返して貰い、そして御家を継がせることで「御家取潰し」の危機を回避するというのも、まま身受けられることであった。
だが御三卿は当主不在でも、「明屋形」として存続が可能であるので、いったん他家へと養嗣子に出した者を、この場合には定國を養家の伊豫松山松平家と離縁させ、再び、田安家に帰って来て貰い、そして田安家を継いで貰うということには金輪際ならない。
ましてや、田安家にはまだ、賢丸定信なる実弟がいるのだ。
それ故、このまま治察が嫡子なくして歿したとしても、その前に賢丸定信が兄・治察の養子、それも末期養子となり、田安家を継ぐことが予想された。
だが定國にはそれが大いに不満であった。
「なぁる…、定國なら、舎弟の賢丸が田安家を継ぐことが面白くねぇ、それでその定國に賢丸を何処ぞの大名家にでも養子に出す話を持掛ければ、定國のことだ、喜んでその話に飛付く、ってぇ寸法だな?」
「左様…、何しろ定國めは粗忽で評判の男なれば…」
定國は短気で粗忽、とても英邁で知られる田安宗武の血を引いているとは思われない、というのが御城周辺の専らの評判であった。
「その上、都合の良いことに定國めが養父の定靜はまだ、この江戸におりますれば…」
定靜が当主を務める伊豫松山松平家は安永2(1773)年の今年、帰国の年に当たり、それ故、定靜は国許である伊豫松山へと帰国しなければならない。
だが幸いにもそれはまだ先、と言っても来月だが、5月に帰国の予定であるので、まだこの江戸にいた。
そこで溜間の閣議において、定國を介して定靜より、賢丸を他家へと養子に出す件を諮って貰うという方法があった。
「或いは直接、定國に提案させる、って方法もあるな。何しろ父子同席だからよ…」
重富の言う通り、溜間詰の成人嫡子もまた、父に従い、溜間に詰めることが許されていた。
「左様…、否、あの粗忽なる定國のこと故、賢丸憎しから、自ら提案するやも知れませぬな…」
治済は兄・重富の言葉にそう応ずると、早速、定國と会う段取りをつけることにした。
治済は岩本正利を相手にそう告げた。
すると正利も、「御意…」とこれに応ずるや、
「上臈年寄の岩橋殿につきましても、よもや上様には通じてはいまいと、家治公はやはり、すっかり信じきっておられる御様子にて…」
そう付加え、治済を頷かせた。ちなみにこの場合の「上様」とは勿論、治済のことを指していた。
「治済よ…、こうなればさっさと家基を始末してしまえよ…、今の西之丸大奥なら、それも可能だろうぜ?」
治済にそう無頼な口調で勧めたのは治済が実兄にして越前福井藩主の松平越前守重富である。
松平重富は一橋家の始祖、宗尹が三男であり、腹違いの兄にして、福井藩主として迎えられていた松平越前守重昌が養嗣子として迎えられ、今に至る。
治済はこの重富の弟、それも同腹の弟であり、兄・重昌や重富を差置いて一橋家を相続したとも言える。
その重富は先日の4月15日に参勤交代によりこの江戸へと出府、将軍・家治に参観の挨拶を済ませていた。
今、治済を呼捨てに出来るのはこの松平重富を措いて外にはいないであろう。
重富は弟、治済に一橋家を相続されてしまったことに特に何らの蟠りもなかった。
それどころか、「天下獲り」を企む治済の「アドバイザー」に徹していた。
それ故、さっさと西之丸大奥にて家基を毒殺してしまえ、というのは「アドバイザー」としては的確な助言と言えた。
が、治済は苦笑して頭を振った。
「今、家基めを討取っても、漁夫の利を攫われるだけに終わるやも知れませぬ…」
治済は頭を振った理由を兄・重富にそう告げた。
それで重富も、「ああ…」と何かに思い至った様な声を上げた。
事実、重富は何かに思い至り、
「清水や、田安だの?」
治済にそうぶつけた。
即ち、今、家基を暗殺、毒殺しても、家治の腹違いの弟にして御三卿の清水重好か、若しくは同じく御三卿にして従弟の田安治察に次期将軍職が掻っ攫われるのではあるまいかと、重富はそのことに思い至り、弟・治済にその点をぶつけたのだ。
これには治済も頷いた上で、
「殊に重好めは強敵…」
そう補足した。
「それなら、いっそ重好や治察も殺してしまえよ」
重富は実に恐ろしいことをサラリと言ってのける。御蔭で直ぐ傍にて陪席していた岩本正利などは顔面蒼白である。
治済はそれ故、思わず苦笑を禁じ得なかった。
「兄上は相変わらず性急だのう…、否、如何にこの治済とて流石に重好や治察の暗殺までは手が回らぬと申すもの…」
「だが…、だからと言ってこのまま、重好や治察に生きていられたままでは、折角、家基の暗殺、毒殺の体制を調えたと申すに、いつまでも実行出来まいて…」
確かに重富の言う通りであった。
「否…、治察につきましては元来、病弱にて、されば昨今、体調が思わしくないとの専らの評判にて…」
「まさか…、お前、重好や治察の暗殺まで手が回らないと言いながら、その実、まずは治察に一服盛ったんじゃねぇだろうな?」
重富が真顔でそう尋ねるものだから、治済は愈々、苦笑させられた。
「いくら何でも…、それは余りの仰せぞ…、真実、病気でござるよ、治察は…」
「そうか…、まぁ、俺としてはどっちでも良いが…、それなら残る敵は重好だけだな?」
「いえ、それが治察には賢丸定信なる弟、それも同腹の弟がおりますれば…」
「ああ…、賢丸な。それなら俺も知ってるが、そいつが田安家を継ぐってか?仮に治察が死んだとして…、或いは愈々、駄目《ダメ》って時には末期養子として…」
「左様…、されば治察が歿しても新たに賢丸が…」
「対抗馬として浮上する、ってか?」
「左様…」
「それなら賢丸も何とかしなけりゃな…」
「それにつきまして、この治済に腹案が…」
「賢丸を殺す何か良い手立てでもある、ってか?」
「いえいえ…、殺す訳ではなく…、否、政治的に殺す手立てがござりまする…」
「政治的に殺す、だと?」
「左様…」
「そいつは一体、どういう意味だ?」
「要は賢丸に田安家を継がさせなければそれで済む話にて…」
治済は謎かけでもするかの様に兄・重富にそう示唆するや、重富も直ぐにその示唆するところに気がついた。
「何処ぞの大名家にでも養嗣子として田安家から追出しちまえば良い訳だ。俺の様にな…」
重富は自嘲気味にそう言った。
それに対して治済も、「まぁ…」と苦笑を浮かべたまま曖昧に応えた。
「だが具体的にはどうする?何か、手立てでもあんのか?」
兄・重富からの問いかけに対して治済は頷くと、
「されば…、大輔めを…、松平中務大輔定國めを動かしまする…」
重富にその名を挙げた。
「定國っちゃぁ、賢丸の兄貴、それも同腹の兄貴じゃねぇか…」
「左様…、されば定國めが養父、松平隠岐守定靜が家格の向上を狙うて、そこで将軍家より、田安家より定國めを養嗣子として迎えましたる次第にて…」
良くある話であった。
事実、松平定靜が当主を務める伊豫松山藩松平家の殿中席は帝鑑間であった。
それが明和5(1768)年10月に定靜が将軍家である御三卿の田安家より定國を養嗣子として貰請けることに成功するや、伊豫松山松平家の家格は帝鑑間より溜間へと向上した。
帝鑑間が「古来御譜代の席」と称されているならば、溜間は、
「幕府の政治顧問…」
その地位が与えられ、帝鑑間よりも格上とされていた。
それを裏付ける様に帝鑑間詰の諸侯には許されていない平日登城も溜間詰の諸侯には「幕府の政治顧問」としてそれが許されていたのだ。
それ故、家格の向上に成功した定靜は大いに面目を施したが、逆に定國は大いに不満であった。
それと言うのも、定國は己が田安家を継げるものと、そう信じていたからだ。
否、定國が伊豫松山松平家へ、定靜の養嗣子として迎えられた明和5(1768)年10月時点において、田安家には当主の宗武と共に、嫡子の治察も存していた為に一見、定國の「出番」はない様に思われた。
だが、嫡子、つまり定國の兄である治察は元来、
「蒲柳の質…」
身体が弱く、仮に田安家を継いだところで嫡子に恵まれぬまま亡くなるに違いないと、定國はそう読んでいた。
その場合、定國に「出番」が回って来る。
己が兄・治察の養嗣子となり、田安家を継げるに違いあるまいと、定國は田安家にて部屋住であった頃より、そんな「皮算用」を弾いていたのだ。
だが、それが急遽、伊豫松山松平家へと養嗣子に出されることになり、定國の「皮算用」は脆くも崩れ去った。いったん他家へと、大名家へと養嗣子に出されては二度と、御家を継ぐ機会には恵まれまい。
殊に御三卿はそうだ。御三卿は所謂、
「潰れない家」
であった。
通常、大名家にしろ、旗本や御家人にしろ、当主不在ともなれば、「御家取潰しの」の危機に恵まれる。
それ故、いったん他家へと養嗣子に出した者を再び、返して貰い、そして御家を継がせることで「御家取潰し」の危機を回避するというのも、まま身受けられることであった。
だが御三卿は当主不在でも、「明屋形」として存続が可能であるので、いったん他家へと養嗣子に出した者を、この場合には定國を養家の伊豫松山松平家と離縁させ、再び、田安家に帰って来て貰い、そして田安家を継いで貰うということには金輪際ならない。
ましてや、田安家にはまだ、賢丸定信なる実弟がいるのだ。
それ故、このまま治察が嫡子なくして歿したとしても、その前に賢丸定信が兄・治察の養子、それも末期養子となり、田安家を継ぐことが予想された。
だが定國にはそれが大いに不満であった。
「なぁる…、定國なら、舎弟の賢丸が田安家を継ぐことが面白くねぇ、それでその定國に賢丸を何処ぞの大名家にでも養子に出す話を持掛ければ、定國のことだ、喜んでその話に飛付く、ってぇ寸法だな?」
「左様…、何しろ定國めは粗忽で評判の男なれば…」
定國は短気で粗忽、とても英邁で知られる田安宗武の血を引いているとは思われない、というのが御城周辺の専らの評判であった。
「その上、都合の良いことに定國めが養父の定靜はまだ、この江戸におりますれば…」
定靜が当主を務める伊豫松山松平家は安永2(1773)年の今年、帰国の年に当たり、それ故、定靜は国許である伊豫松山へと帰国しなければならない。
だが幸いにもそれはまだ先、と言っても来月だが、5月に帰国の予定であるので、まだこの江戸にいた。
そこで溜間の閣議において、定國を介して定靜より、賢丸を他家へと養子に出す件を諮って貰うという方法があった。
「或いは直接、定國に提案させる、って方法もあるな。何しろ父子同席だからよ…」
重富の言う通り、溜間詰の成人嫡子もまた、父に従い、溜間に詰めることが許されていた。
「左様…、否、あの粗忽なる定國のこと故、賢丸憎しから、自ら提案するやも知れませぬな…」
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