天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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安永2(1773)年11月下旬、公事方勘定奉行・松平對馬守忠郷は老中会議において大目付への「出世」が内定する

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 安永2(1773)年10月に豊千代とよちよまれるまえから評定所ひょうじょうしょでの審理しんりはさしずめ、口論こうろんしていた。

 正確せいかくには評定所ひょうじょうしょ構成員メンバーの1人である公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう松平まつだいら對馬守つしまのかみ忠郷たださと一方的いっぽうてきに、

田沼たぬま意次おきつぐ財政政策ざいせいせいさく間違まちがっている…」

 そうまくてた。

 それも通貨つうか政策せいさくへの批判ひはんであった。

 意次おきつぐ貨幣かへい統一とういつ、それも金本位制きんほんいせい志向しこうしていた。

 この時代じだい江戸えど中心ちゅうしんとする東日本ひがしにほんにおいてはきんが、大坂おおざか中心ちゅうしんとする西日本にしにほんにおいてはぎん夫々それぞれ貨幣かへいとして流通りゅうつうしており、さしずめ金銀複本位制きんぎんふくほんいせいであった。

 これで金銀きんぎん交換こうかん比率ひりつ公定こうていであったならば、意次おきつぐ貨幣かへい統一とういつなど志向しこうしなかったであろう。

 だが実際じっさいには金銀きんぎん交換こうかん比率ひりつはその時々ときどき相場そうばにより、一定いっていしていなかった。

 これは商売しょうばいこと流通りゅうつうおおきなさまたげとなる。

 そこで意次おきつぐ金本位制きんほんいせい志向しこうし、その第一歩だいいっぽとしてまず、明和五匁銀めいわごもんめぎん発行はっこうさせた。

 この明和五匁銀めいわごもんめぎんは2枚でもっ小判こばん1両と引替ひきかえるという、公定こうていレートをさだめた貨幣かへいであった。

 これは当時とうじはまだ勘定かんじょう吟味役ぎんみやくであった川井かわい越前守えちぜんのかみ久敬ひさたか発案はつあんによるものだが、実際じっさいにはやはり当時とうじはまだ、御側御用取次おそばごようとりつぎであった意次おきつぐおおまかな発案はつあんをし、それを川井かわい久敬ひさたが具体化ぐたいかしたのがこの明和五匁銀めいわごもんめぎんであった。

 それはつづいて発行はっこうされた南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎんにもまり、これは8枚をもっ小判こばん1両を引替ひきかえることを義務付ぎむづける貨幣かへいであり、やはり意次おきつぐ川井かわい久敬ひさたかのコンビで発行はっこうけたものである。

 いずれも貨幣かへい統一とういつ第一歩だいいっぽため発行はっこうされたものだが、これに松平まつだいら忠郷たださと噛付かみついた。

貨幣かへい統一とういつなど、とんでもないっ!金銀きんぎん交換こうかんはその時々ときどき相場そうばしたがうべしっ!」

 こうけば松平まつだいら忠郷たださと如何いかにも商人あきんど味方みかたようにもおもわれる。

 たしかに松平まつだいら忠郷たださと商人あきんど味方みかたと言えた。

 ただし、その場合ばあい商人あきんどとは両替商りょうがえしょうかぎられていた。

 意次おきつぐ志向しこうする貨幣かへい統一とういつだが、これは両替商りょうがえしょうの「めしのタネ」をうばうものであった。

 両替商りょうがえしょう金銀きんぎん相場そうば利益りえきげていた。いや暴利ぼうりむさぼっていたと言えよう。

 それは意次おきつぐ見出みいだした先代せんだい先々代せんせんだい八代はちだい将軍しょうぐん吉宗よしむねをもくるしめた。

 意次おきつぐ貨幣かへい統一とういつこころみたのは大恩だいおんある吉宗よしむねくるしめた両替商りょうがえしょうへの仇討あだうち、復讐リベンジという側面そくめんもあった。

 ともあれ貨幣かへい統一とういつなどをこころみられては両替商りょうがえしょう干上ひあがってしまう。

 そこへ松平まつだいら忠郷たださとけたのだ。

 明和五匁銀めいわごもんめぎん発行はっこうされたのは明和2(1765)年のことであり、松平まつだいら忠郷たださと公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう着任ちゃくにんしたのはそれから3年後ねんごの明和5(1768)年5月のことであった。

 一方いっぽう南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん発行はっこうされたのは忠郷たださと公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう着任ちゃくにんしてから4年後ねんごの明和9(1772)年9月のことであった。

 すると松平まつだいら忠郷たださと南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん発行はっこう話合はなしあわれていたころ江戸えどじゅう両替商りょうがえしょうめぐっては、

意次おきつぐ貨幣かへい統一とういつこころざしており、そのため第一歩だいいっぽとして7年前ねんまえには明和五匁銀めいわごもんめぎん鋳造ちゅうぞうし、いままた、南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎんなる新貨幣しんかへい鋳造ちゅうぞうしようとしている…」

 そう告口リークしたのだ。

 忠郷たださとから告口リークけた両替商りょうがえしょう当然とうぜんふるがった。そんなことをされては愈々いよいよ、おまんまの食上くいあげだからだ。

 そしてそれこそが忠郷たださとねらいであった。

 すなわち、忠郷たださと両替商りょうがえしょうふるがらせたうえで、

公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうのこのおれ南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん鋳造ちゅうぞう中止ちゅうし追込おいこんでせようぞ…、そのうえすで流通りゅうつうせし明和五匁銀めいわごもんめぎんも、これを鋳造ちゅうぞう停止ていし追込おいこんでせようぞ…」

 両替商りょうがえしょうにそうささやくことでまいない巻上まきあげたのだ。

 いや両替商りょうがえしょうとて莫迦バカではない。忠郷たださとの「ささやき」を即座そくざけたわけではない。

 財政政策ざいせいせいさくにな勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうならばいざらず、幕領ばくりょうでの裁判さいばん民政みんせいつかさど公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう忠郷たださとにそれだけのちからたしてあるものかと、両替商りょうがえしょうみな懐疑的かいぎてきであった。

 しかし、それでもここでまいない拒否きょひして忠郷たださとの「御機嫌ごきげん」をそこねては面倒めんどうだと、みなまいない差出さしだしたのだ。

 なにしろ忠郷たださと公事くじがたとはもうせ、勘定かんじょう奉行ぶぎょうであることにわりはないからだ。

 無論むろん忠郷たださとちからでは南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん鋳造ちゅうぞう中止ちゅうしになど追込おいこめるはずはなく、すで流通りゅうつうしていた明和五匁銀めいわごもんめぎん鋳造ちゅうぞう停止ていしも言うにおよばず、であった。

 いや忠郷たださと両替商りょうがえしょうから多額たがくまいない巻上まきあげた手前てまえ

一応いちおう…」

 南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん鋳造ちゅうぞう中止ちゅうしさらにはすで流通りゅうつうしている明和五匁銀めいわごもんめぎん鋳造ちゅうぞう停止ていし追込おいこむべく、努力どりょくした形跡けいせきうかがえる。

 だがその「形跡けいせき」たるや、精々せいぜい評定ひょうじょうにおいて意次おきつぐ面罵めんばする程度ていどのものであり、だれ相手あいてにするものはいなかった。

 忠郷たださととは相役あいやく公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう安藤あんどう弾正少弼だんじょうしょうひつ惟要これとしですらそうであった。

 それと言うのも、忠郷たださと両替商りょうがえしょうからまいない巻上まきあげていることは公然こうぜん秘密ひみつしつつあったからだ。

 忠郷たださとからまいない要求ようきゅうけた両替商りょうがえしょうなかには心有こころあものもおり、そのもの忠郷たださととは相役あいやく安藤惟要あんどうこれとしや、さらには勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうにもそのむね内報ないほうしていたからだ。

 松平まつだいら忠郷たださと主張しゅちょうだれみみさなかったのも当然とうぜんであり、それどころか忠郷たださとのぞ勘定かんじょう奉行ぶぎょうみな

そろって…」

 忠郷たださとの「更迭こうてつ」を老中ろうじゅう上申じょうしんした。

 とりわけ勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう石谷いしがや備後守びんごのかみ清昌きよまさなど忠郷たださと更迭こうてつを、つまりは小普請こぶしんへととすことをつよ主張しゅちょうした。

 明和五匁銀めいわごもんめぎんにしろ、南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎんにしろ、原料げんりょうとなるぎん必要ひつよう不可欠ふかけつであり、これを調達ちょうたつしたのが石谷清昌いしがやきよまさであったのだ。

 石谷清昌いしがやきよまさ長崎貿易ながさきぼうえき拡大かくだい、それもどう俵物たわらもの輸出ゆしゅつし、わりにきんぎんことぎん大量たいりょう輸入ゆにゅうすることで、明和五匁銀めいわごもんめぎん南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん原料げんりょうとしたのだ。

 それゆえ石谷清昌いしがやきよまさこそが明和五匁銀めいわごもんめぎん南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん発行はっこう真実まこと立役者たてやくしゃと言え、清昌当人きよまさとうにんもその自負じふがあった。

 だからこそ、清昌きよまさ忠郷たださとゆるせなかった。

 明和五匁銀めいわごもんめぎん南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん石谷清昌いしがやきよまさにとってはまさに、

手塩てしおにかけた…」

 同然どうぜんであり、それをきたなまいないもっつぶそうとほっする松平まつだいら忠郷たださとというおとこがどうにもゆるせなかったのだ。

 それはいま石谷清昌いしがやきよまさ相役あいやくとなった川井かわい久敬ひさたかにしても同様どうようで、石谷清昌いしがやきよまさ川井かわい久敬ひさたかの2人は強硬きょうこう松平まつだいら忠郷たださとの「懲戒ちょうかい免職めんしょく」を老中ろうじゅう意見具申いけんぐしんおよんだ。

 これに大目付おおめつけ同調どうちょうした。

 じつ松平まつだいら忠郷たださと大名だいみょう留守居るすいからもまいない巻上まきあげていたのだ。

 それは南鐐二朱銀なんりょうにしゅぎん発行はっこうされたとしでもある明和9(1772)年にさかのぼる。

 このとし江戸えど大火たいかにも見舞みまわれ、大名だいみょう屋敷やしき消亡しょうぼうした。

 本来ほんらいならば大名だいみょうには拝借金はいしゃくきんあたえて、屋敷やしき再建さいけんたらせるべきところ、おりからの財政難ざいせいなんため幕府ばくふ拝借金はいしゃくきんあたえないことにしたのだ。

 にもかかわらず、松平まつだいら忠郷たださと大名だいみょう留守居るすいたいして、

公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうのこのおれくちいてやるから…」

 特別とくべつ拝借金はいしゃくきん支給しきゅうさせてみるからと、そう持掛もちかけて「口利くちき手数料てすうりょう」を巻上まきあげたのだ。

 無論むろん拝借金はいしゃくきん支給しきゅうされることはなく、大名だいみょう留守居るすい忠郷たださとかねだまられた格好かっこうであった。

 もっと武士ぶしかねだまられたとあってははじであり、それゆえ表立おもてだってうったえるものこそいなかったが、それでも大名だいみょう監察かんさつする立場たちばにある大目付おおめつけみみには自然しぜんとその風聞ふうぶんとどくものである。

 いや大目付おおめつけいま儀典官ぎてんかん名誉職めいよしょく意味合いみあいのつよ役職ポストし、大名だいみょう監察かんさつ旗本はたもと御家人ごけにん監察かんさつにな目附めつけねているのが実情じつじょうであった。

 それでも大目付おおめつけには肝煎きもいり坊主ぼうずはいされ、この肝煎きもいり坊主ぼうず御城えどじょうでの情報じょうほう大目付おおめつけとどけた。

 そのなかには平時へいじ蘇鉄之間そてつのまめている各藩かくはん江戸留守居えどるすい動静どうせいふくまれており、

忠郷たださと江戸留守居えどるすいから、拝借金はいしゃくきん口利くちき手数料てすうりょう名目めいもくかね巻上まきあげている…」

 それも肝煎きもいり坊主ぼうずから大目付おおめつけへとしらされたのだ。

 かくして大目付おおめつけまでも松平まつだいら忠郷たださとの「懲戒免職ちょうかいめんしょく」に同意どういし、老中ろうじゅう一同いちどうにそのむね上申じょうしんおよんだ。

 老中ろうじゅう一同いちどうはそれをけ、忠郷たださとを「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょすべきかどうかを話合はなしあった。それが11月も下旬げじゅんのことであった。

 老中ろうじゅうなかでも首座しゅざ松平まつだいら右近将監うこんのしょうげん武元たけちかなど、

武士ぶし面汚つらよごしがっ」

 忠郷たださとのことをそうてるや、「懲戒免職ちょうかいめんしょく」どころかはららせるべしと、そんな強硬きょうこう意見いけん主張しゅちょうした。

 流石さすがにこの意見いけんとおらなかったが、それでも忠郷たださといま公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう役職ポストからりてもらうことでは老中ろうじゅう一同いちどう衆議一決しゅうぎいっけつ相成あいなった。

 問題もんだいは「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょすべきかどうか、であった。

 首座しゅざ武元たけちか忠郷たださとにははららせようと本気ほんきかんがえただけに、断然だんぜん、「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょすべきと主張しゅちょうした。

 ほか老中ろうじゅう武元たけちか同調どうちょうするなか末席まっせきつらなる意次おきつぐだけが忠郷たださとの「懲戒免職ちょうかいめんしょく」に反対はんたいした。

忠郷たださと懲戒免職ちょうかいめんしょくしょせば、上様うえさま権威けんいきずけることになる…」

 それが反対はんたい理由りゆうであった。

 すなわち、松平まつだいら忠郷たださと公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうにんじたのは将軍しょうぐんたる家治いえはるそのひとほかならず、その忠郷たださとを「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょせば、忠郷たださと公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうにんじた家治いえはる判断はんだん間違まちがいだった、ということになる。

 事実じじつ、そのとおりであり、忠郷たださともそれだけのことをしたのだから「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょされるわけだが、しかし意次おきつぐとしては出来できれば穏便おんびんませたかった。

 これでたとえば、忠郷たださと殿中でんちゅう刃傷にんじょうおよんだとか、最早もはやかばてが不可能ふかのうなレベルであれば「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょすことも可能かのうであった。

 だが実際じっさいには忠郷たださと場合ばあいまいない巻上まきあげただけであり、まいない差出さしだしたがわにも問題もんだいがなかったとは言えまい。

 いや、だからこそまいない差出さしだした江戸留守居えどるすいもとより、両替商りょうがえしょうすらも、

表立おもてだって…」

 忠郷たださとうったえるものだれ一人ひとりとしていなかった。

 つまりはなにきてはいないと強弁きょうべんすることも可能かのうであった。

 そこで意次おきつぐとしては忠郷たださとを「懲戒免職ちょうかいめんしょく」にしょするのではなく、べつ役職ポストへと「異動いどう」させることを主張しゅちょうしたのであった。

 結果けっか意次おきつぐのこの意見いけんとおり、忠郷たださといま公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうからべつ役職ポストへと「異動いどう」させることと相成あいなった。

 その場合ばあいの「異動いどう」だが、それは「左遷させん以外いがいにはありず、

西之丸にしのまる留守居るすいかろう…」

 そう主張しゅちょうしたのは松平まつだいら周防守すおうのかみ康福やすよしであった。

 成程なるほど西之丸にしのまる留守居るすい左遷させんさきとしてはうってつけと言えた。

 町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう後職こうしょくと言えば大目付おおめつけというのが相場そうばであった。

 あるいは大番おおばん小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばん三番頭さんばんがしらさらにそのうえ旗本はたもとにとっては極官ごっかんとも言うべき本丸ほんまる留守居るすいというのもアリであろう。

 だがそれが西之丸にしのまる留守居るすいでは左遷以外させんいがい何物なにものでもない。

 西之丸にしのまる留守居るすい言葉ことばわるいが老衰場ろうすいばまさに「つい棲家すみか」のよう役職ポストであり、そのてん忠郷たださとはまだ、そこまでおとろえてはおらず、にもかかわらず公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうという、

現役げんえきバリバリ…」

 激務げきむとも言うべき役職ポストからかる西之丸にしのまる留守居るすいへと異動いどうさせられたとあっては、これはもう左遷させんほかならない。

 まさ忠郷たださとには相応ふさわしい役職ポストと言えよう。

 だが意次おきつぐはそれにも―、忠郷たださと左遷させんさせることにもとなえ、こともあろうに大目付おおめつけへの出世しゅっせ主張しゅちょうしたのであった。

 大目付おおめつけと言えば町奉行まちぶぎょう勘定かんじょう奉行ぶぎょう無事ぶじつとげたものへの、

「ご褒美ほうび

 としての役職ポストであり、まいないむさぼったがため公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょうわれる忠郷たださとにはとても大目付おおめつけへと出世しゅっせをする資格しかくはないはずであった。

 それゆえ武元たけちかたちは意次おきつぐ意見いけん猛反対もうはんたいした。

 だが意次おきつぐ忠郷たださとのその「血筋ちすじ」をたてに、武元たけちか押切おしきったのだ。

 すなわち、松平まつだいら忠郷たださと十八松平じゅうはちまつだいらひとつ、五井ごい松平まつだいらながれんでいたのだ。

 忠郷たださと五井ごい松平まつだいらながれ松平まつだいら主計頭かずえのかみ忠一ただかず三男さんなんまれた。

 ただし、庶子しょしであるために、そこで忠郷たださと松平まつだいら庄九郎しょうくろう忠全ただたけ養嗣子ようししとしてむかえられたわけだが、この養子先ようしさきにしてもやはり、十八松平じゅうはちまつだいらひとつ、深溝ふこうぞ松平まつだいらながれ名門めいもんであり、

「そのよう由緒正ゆいしょただしき血筋ちすじ松平まつだいら忠郷たださと西之丸にしのまる留守居るすいへといやるのはあまりにしのびない…」

 意次おきつぐ忠郷たださとをそう弁護べんごして、大目付おおめつけへの出世しゅっせ主張しゅちょうしたのであった。

 もっとも、それはあくまで「口実こうじつ」にぎない。

 意次おきつぐとしてはここで、忠郷たださとかばうことで、忠郷たださと背後はいごひかえる十八松平じゅうはちまつだいら支持しじたいとの魂胆こんたんがあった。

 いや支持しじまでは無理むりだとしても、これ以上いじょうきら割れずにはむというものである。

 なにしろ意次おきつぐ十八松平じゅうはちまつだいらはじめとする、ぞくに言う、

由緒正ゆいしょただしき血筋ちすじ…」

 それをそうからきらわれていたからだ。

 そこで意次おきつぐとしては忠郷たださとつ、

由緒正ゆいしょただしき血筋ちすじ…」

 それを引合ひきあいに、弁護べんごしてみせ、あまつさえ大目付おおめつけへの出世しゅっせ主張しゅちょうすることで、これ以上いじょう十八松平じゅうはちまつだいらはじめとする所謂いわゆる、「門閥層もんばつそう」からきらわれないようにとはかったのだ。

 意次おきつぐのそのよう心底しんてい首座しゅざ武元たけちかには「お見通みとおし」であり、苦笑くしょうしたものである。

 武元たけちかもまた、越智おち松平まつだいらながれむ「門閥層もんばつそう」であり、本来ほんらいならば意次おきつぐ忌嫌いみきらってもおかしくはなかった。

 だが武元たけちか意次おきつぐ能力のうりょく正当せいとう評価ひょうかし、門閥層もんばつそう所謂いわゆる由緒正ゆいしょただしき血筋ちすじものなかでは例外的れいがいてき意次おきつぐ理解者りかいしゃであった。

 結局けっきょく武元たけちか意次おきつぐ心中しんちゅうおもんぱかって忠郷たださと大目付おおめつけへと出世しゅっせさせてやることとし、ほか老中ろうじゅう同意どういたのであった。

 問題もんだい大目付おおめつけいま定員一杯ていいんいっぱいの4人がそろっているということであった。

 大目付おおめつけ厳格げんかく意味いみでの定員ていいんという概念がいねんはなく、それゆえ、5人いても問題もんだいはない。

 だが不文律ふぶんりつとして大目付おおめつけ定員ていいんは4人であり、そこでだれか1人、大目付おおめつけからべつ役職ポストへと異動いどうさせる必要ひつようがあった。

 そのてんでも意次おきつぐかりはなかった。

 すなわち、大目付おおめつけなかでも分限帳ぶげんちょう服忌令ぶっきりょうあらためねる萩原はぎわら主水正もんどのかみ雅忠まさただ老齢ろうれいため名誉職めいよしょくであるはず大目付おおめつけしょくたすのも困難こんなんであるとの情報じょうほう意次おきつぐ入手キャッチしていたのだ。

 意次おきつぐにその情報じょうほうもたらしたのはやはり大目付おおめつけ、それも宗門改しゅうもんあらためねる小野おの日向守ひゅうがのかみ一吉くによしであった。

 小野おの一吉くによし意次おきつぐ見出みいだされて勝手かってがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう、そして大目付おおめつけへと栄達えいたつげた御仁ごじんであり、それゆえ意次おきつぐ情報源じょうほうげん一人ひとりであった。

 萩原雅忠はぎわらまさただ小野おの一吉くによしよりも2つ年下とししたの72歳であったが、一吉くによしよりも体力たいりょくおとろえがはげしく、さら閑職かんしょく旗奉行はたぶぎょう鎗奉行やりぶぎょうへの異動いどうねがっているとのことであった。

 意次おきつぐ小野おの一吉くによしよりもたらされたその情報じょうほう武元たけちかたちに披露ひろうした。

 結果けっか萩原雅忠はぎわらまさただ大目付おおめつけから旗奉行はたぶぎょうへと異動いどうさせ、その後任こうにんとして公事くじがた勘定かんじょう奉行ぶぎょう松平まつだいら忠郷たださともってることとした。
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