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安永2(1773)年11月下旬、公事方勘定奉行・松平對馬守忠郷は老中会議において大目付への「出世」が内定する
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安永2(1773)年10月に豊千代が産まれる前から評定所での審理はさしずめ、口論の場と化していた。
正確には評定所の構成員の1人である公事方勘定奉行の松平對馬守忠郷が一方的に、
「田沼意次の財政政策は間違っている…」
そう捲し立てた。
それも通貨政策への批判であった。
意次は貨幣の統一、それも金本位制を志向していた。
この時代、江戸を中心とする東日本においては金が、大坂を中心とする西日本においては銀が夫々、貨幣として流通しており、さしずめ金銀複本位制であった。
これで金銀の交換比率が公定であったならば、意次も貨幣の統一など志向しなかったであろう。
だが実際には金銀の交換比率はその時々の相場により、一定していなかった。
これは商売、殊に流通の大きな妨げとなる。
そこで意次は金本位制を志向し、その第一歩としてまず、明和五匁銀を発行させた。
この明和五匁銀は2枚で以て小判1両と引替えるという、公定レートを定めた貨幣であった。
これは当時はまだ勘定吟味役であった川井越前守久敬の発案によるものだが、実際にはやはり当時はまだ、御側御用取次であった意次が大まかな発案をし、それを川井久敬が具体化したのがこの明和五匁銀であった。
それは続いて発行された南鐐二朱銀にも当て嵌まり、これは8枚を以て小判1両を引替えることを義務付ける貨幣であり、やはり意次・川井久敬のコンビで発行に漕ぎ着けたものである。
いずれも貨幣の統一の第一歩の為に発行されたものだが、これに松平忠郷が噛付いた。
「貨幣の統一など、とんでもないっ!金銀の交換はその時々の相場に従うべしっ!」
こう聞けば松平忠郷は如何にも商人の味方の様にも思われる。
確かに松平忠郷は商人の味方と言えた。
但し、その場合の商人とは両替商に限られていた。
意次が志向する貨幣の統一だが、これは両替商の「飯のタネ」を奪うものであった。
両替商は金銀相場で利益を上げていた。否、暴利を貪っていたと言えよう。
それは意次を見出した先代、先々代の八代将軍・吉宗をも苦しめた。
意次が貨幣の統一を試みたのは大恩ある吉宗を苦しめた両替商への仇討ち、復讐という側面もあった。
ともあれ貨幣の統一などを試みられては両替商は干上がってしまう。
そこへ松平忠郷が目を付けたのだ。
明和五匁銀が発行されたのは明和2(1765)年のことであり、松平忠郷が公事方勘定奉行に着任したのはそれから3年後の明和5(1768)年5月のことであった。
一方、南鐐二朱銀が発行されたのは忠郷が公事方勘定奉行に着任してから4年後の明和9(1772)年9月のことであった。
すると松平忠郷は南鐐二朱銀の発行が話合われていた頃に江戸中の両替商を廻っては、
「意次の貨幣の統一を志しており、その為の第一歩として7年前には明和五匁銀を鋳造し、今また、南鐐二朱銀なる新貨幣を鋳造しようとしている…」
そう告口したのだ。
忠郷から告口を受けた両替商は当然、震え上がった。そんなことをされては愈々、おまんまの食上げだからだ。
そしてそれこそが忠郷の狙いであった。
即ち、忠郷は両替商を震え上がらせた上で、
「公事方勘定奉行のこの俺が南鐐二朱銀の鋳造中止に追込んで見せようぞ…、その上で既に流通せし明和五匁銀も、これを鋳造停止に追込んで見せようぞ…」
両替商にそう囁くことで賂を巻上げたのだ。
否、両替商とて莫迦ではない。忠郷の「囁き」を即座に真に受けた訳ではない。
財政政策を担う勝手方勘定奉行ならばいざ知らず、幕領での裁判や民政を掌る公事方勘定奉行の忠郷にそれだけの力が果たしてあるものかと、両替商は皆、懐疑的であった。
しかし、それでもここで賂を拒否して忠郷の「御機嫌」を損ねては面倒だと、皆、賂を差出したのだ。
何しろ忠郷は公事方とは申せ、勘定奉行であることに変わりはないからだ。
無論、忠郷の力では南鐐二朱銀の鋳造中止になど追込める筈はなく、既に流通していた明和五匁銀の鋳造停止も言うに及ばず、であった。
否、忠郷は両替商から多額の賂を巻上げた手前、
「一応…」
南鐐二朱銀の鋳造中止、更には既に流通している明和五匁銀の鋳造停止に追込むべく、努力した形跡は窺える。
だがその「形跡」たるや、精々、評定の場において意次を面罵する程度のものであり、誰も相手にする者はいなかった。
忠郷とは相役の公事方勘定奉行、安藤弾正少弼惟要ですらそうであった。
それと言うのも、忠郷が両替商から賂を巻上げていることは公然の秘密と化しつつあったからだ。
忠郷から賂の要求を受けた両替商の中には心有る者もおり、その者が忠郷とは相役の安藤惟要や、更には勝手方勘定奉行にもその旨、内報していたからだ。
松平忠郷の主張に誰も耳を貸さなかったのも当然であり、それどころか忠郷を除く勘定奉行は皆、
「打ち揃って…」
忠郷の「更迭」を老中に上申した。
とりわけ勝手方勘定奉行の石谷備後守清昌など忠郷の更迭を、つまりは小普請へと墜とすことを強く主張した。
明和五匁銀にしろ、南鐐二朱銀にしろ、原料となる銀が必要不可欠であり、これを調達したのが石谷清昌であったのだ。
石谷清昌は長崎貿易の拡大、それも銅や俵物を輸出し、替わりに金や銀、殊に銀を大量に輸入することで、明和五匁銀や南鐐二朱銀の原料としたのだ。
それ故、石谷清昌こそが明和五匁銀や南鐐二朱銀の発行の真実の立役者と言え、清昌当人もその自負があった。
だからこそ、清昌は忠郷が許せなかった。
明和五匁銀や南鐐二朱銀は石谷清昌にとっては正に、
「手塩にかけた…」
我が子も同然であり、それを穢い賂で以て潰そうと欲する松平忠郷という男がどうにも許せなかったのだ。
それは今は石谷清昌の相役となった川井久敬にしても同様で、石谷清昌と川井久敬の2人は強硬に松平忠郷の「懲戒免職」を老中に意見具申に及んだ。
これに大目付も同調した。
実は松平忠郷は大名の留守居からも賂を巻上げていたのだ。
それは南鐐二朱銀が発行された年でもある明和9(1772)年に遡る。
この年は江戸は大火にも見舞われ、大名屋敷も消亡した。
本来ならば大名には拝借金を与えて、屋敷の再建に当たらせるべきところ、折からの財政難の為に幕府は拝借金を与えないことにしたのだ。
にもかかわらず、松平忠郷は大名の留守居に対して、
「公事方勘定奉行のこの俺が口を利いてやるから…」
特別に拝借金を支給させてみるからと、そう持掛けて「口利き手数料」を巻上げたのだ。
無論、拝借金が支給されることはなく、大名の留守居は忠郷に金を騙し取られた格好であった。
尤も武士が金を騙し取られたとあっては恥であり、それ故、表立って訴える者こそいなかったが、それでも大名を監察する立場にある大目付の耳には自然とその手の風聞が届くものである。
否、大目付は今や儀典官、名誉職の意味合いの強い役職と化し、大名の監察も旗本・御家人の監察を担う目附が兼ねているのが実情であった。
それでも大目付には肝煎坊主が配され、この肝煎坊主は御城での情報を大目付に届けた。
その中には平時、蘇鉄之間に詰めている各藩の江戸留守居の動静も含まれており、
「忠郷が江戸留守居から、拝借金の口利き手数料名目で金を巻上げている…」
それも肝煎坊主から大目付へと報されたのだ。
かくして大目付までも松平忠郷の「懲戒免職」に同意し、老中一同にその旨、上申に及んだ。
老中一同はそれを受け、忠郷を「懲戒免職」に処すべきかどうかを話合った。それが11月も下旬のことであった。
老中の中でも首座の松平右近将監武元など、
「武士の面汚しがっ」
忠郷のことをそう吐き棄てるや、「懲戒免職」どころか腹を切らせるべしと、そんな強硬意見を主張した。
流石にこの意見は通らなかったが、それでも忠郷を今の公事方勘定奉行の役職から降りて貰うことでは老中一同、衆議一決と相成った。
問題は「懲戒免職」に処すべきかどうか、であった。
首座の武元は忠郷には腹を切らせようと本気で考えただけに、断然、「懲戒免職」に処すべきと主張した。
外の老中も武元に同調する中、末席に列なる意次だけが忠郷の「懲戒免職」に反対した。
「忠郷を懲戒免職に処せば、上様の権威に瑕を付けることになる…」
それが反対の理由であった。
即ち、松平忠郷を公事方勘定奉行に任じたのは将軍たる家治その人に外ならず、その忠郷を「懲戒免職」に処せば、忠郷を公事方勘定奉行に任じた家治の判断は間違いだった、ということになる。
事実、その通りであり、忠郷もそれだけのことをしたのだから「懲戒免職」に処される訳だが、しかし意次としては出来れば穏便に済ませたかった。
これで例えば、忠郷が殿中で刃傷に及んだとか、最早、庇い立てが不可能なレベルであれば「懲戒免職」に処すことも可能であった。
だが実際には忠郷の場合、賂を巻上げただけであり、賂を差出した側にも問題がなかったとは言えまい。
否、だからこそ賂を差出した江戸留守居は元より、両替商すらも、
「表立って…」
忠郷を訴える者は誰一人としていなかった。
つまりは何も起きてはいないと強弁することも可能であった。
そこで意次としては忠郷を「懲戒免職」に処するのではなく、別の役職へと「異動」させることを主張したのであった。
結果、意次のこの意見が通り、忠郷を今の公事方勘定奉行から別の役職へと「異動」させることと相成った。
その場合の「異動」だが、それは「左遷」以外にはあり得ず、
「西之丸留守居が良かろう…」
そう主張したのは松平周防守康福であった。
成程、西之丸留守居は左遷先としてはうってつけと言えた。
町奉行や勘定奉行の後職と言えば大目付というのが相場であった。
或いは大番、小姓組番、書院番の三番頭、更にその上、旗本にとっては極官とも言うべき本丸留守居というのもアリであろう。
だがそれが西之丸留守居では左遷以外の何物でもない。
西之丸留守居は言葉は悪いが老衰場、正に「終の棲家」の様な役職であり、その点、忠郷はまだ、そこまで衰えてはおらず、にもかかわらず公事方勘定奉行という、
「現役バリバリ…」
激務とも言うべき役職から斯かる西之丸留守居へと異動させられたとあっては、これはもう左遷に外ならない。
正に忠郷には相応しい役職と言えよう。
だが意次はそれにも―、忠郷を左遷させることにも異を唱え、こともあろうに大目付への出世を主張したのであった。
大目付と言えば町奉行や勘定奉行を無事勤め上げた者への、
「ご褒美」
としての役職であり、賂を貪ったが為に公事方勘定奉行を追われる忠郷にはとても大目付へと出世をする資格はない筈であった。
それ故、武元たちは意次の意見に猛反対した。
だが意次は忠郷のその「血筋」を盾に、武元を押切ったのだ。
即ち、松平忠郷は十八松平の一つ、五井松平の流を汲んでいたのだ。
忠郷は五井松平の流を汲む松平主計頭忠一の三男に生まれた。
但し、庶子である為に、そこで忠郷は松平庄九郎忠全の養嗣子として迎えられた訳だが、この養子先にしてもやはり、十八松平の一つ、深溝松平の流を汲む名門であり、
「その様な由緒正しき血筋の松平忠郷を西之丸留守居へと追いやるのは余りに忍びない…」
意次は忠郷をそう弁護して、大目付への出世を主張したのであった。
尤も、それはあくまで「口実」に過ぎない。
意次としてはここで、忠郷を庇うことで、忠郷の背後に控える十八松平の支持を得たいとの魂胆があった。
否、支持までは無理だとしても、これ以上、嫌割れずには済むというものである。
何しろ意次は十八松平を始めとする、俗に言う、
「由緒正しき血筋…」
それを持つ層から嫌われていたからだ。
そこで意次としては忠郷の持つ、
「由緒正しき血筋…」
それを引合いに、弁護してみせ、あまつさえ大目付への出世を主張することで、これ以上、十八松平を始めとする所謂、「門閥層」から嫌われないようにと謀ったのだ。
意次のその様な心底は首座の武元には「お見通し」であり、苦笑したものである。
武元もまた、越智松平の流を汲む「門閥層」であり、本来ならば意次を忌嫌ってもおかしくはなかった。
だが武元は意次の能力を正当に評価し、門閥層、所謂、由緒正しき血筋を持つ者の中では例外的に意次の理解者であった。
結局、武元は意次の心中を慮って忠郷を大目付へと出世させてやることとし、外の老中の同意を得たのであった。
問題は大目付は今、定員一杯の4人が揃っているということであった。
大目付は厳格な意味での定員という概念はなく、それ故、5人いても問題はない。
だが不文律として大目付の定員は4人であり、そこで誰か1人、大目付から別の役職へと異動させる必要があった。
その点でも意次に抜かりはなかった。
即ち、大目付の中でも分限帳服忌令改を兼ねる萩原主水正雅忠が老齢の為に名誉職である筈の大目付の職を果たすのも困難であるとの情報を意次は入手していたのだ。
意次にその情報を齎したのはやはり大目付、それも宗門改を兼ねる小野日向守一吉であった。
小野一吉は意次に見出されて勝手方勘定奉行、そして大目付へと栄達を遂げた御仁であり、それ故、意次の情報源の一人であった。
萩原雅忠は小野一吉よりも2つ年下の72歳であったが、一吉よりも体力の衰えが激しく、更に閑職の旗奉行か鎗奉行への異動を願っているとのことであった。
意次は小野一吉より齎されたその情報を武元たちに披露した。
結果、萩原雅忠を大目付から旗奉行へと異動させ、その後任として公事方勘定奉行の松平忠郷を以て充てることとした。
正確には評定所の構成員の1人である公事方勘定奉行の松平對馬守忠郷が一方的に、
「田沼意次の財政政策は間違っている…」
そう捲し立てた。
それも通貨政策への批判であった。
意次は貨幣の統一、それも金本位制を志向していた。
この時代、江戸を中心とする東日本においては金が、大坂を中心とする西日本においては銀が夫々、貨幣として流通しており、さしずめ金銀複本位制であった。
これで金銀の交換比率が公定であったならば、意次も貨幣の統一など志向しなかったであろう。
だが実際には金銀の交換比率はその時々の相場により、一定していなかった。
これは商売、殊に流通の大きな妨げとなる。
そこで意次は金本位制を志向し、その第一歩としてまず、明和五匁銀を発行させた。
この明和五匁銀は2枚で以て小判1両と引替えるという、公定レートを定めた貨幣であった。
これは当時はまだ勘定吟味役であった川井越前守久敬の発案によるものだが、実際にはやはり当時はまだ、御側御用取次であった意次が大まかな発案をし、それを川井久敬が具体化したのがこの明和五匁銀であった。
それは続いて発行された南鐐二朱銀にも当て嵌まり、これは8枚を以て小判1両を引替えることを義務付ける貨幣であり、やはり意次・川井久敬のコンビで発行に漕ぎ着けたものである。
いずれも貨幣の統一の第一歩の為に発行されたものだが、これに松平忠郷が噛付いた。
「貨幣の統一など、とんでもないっ!金銀の交換はその時々の相場に従うべしっ!」
こう聞けば松平忠郷は如何にも商人の味方の様にも思われる。
確かに松平忠郷は商人の味方と言えた。
但し、その場合の商人とは両替商に限られていた。
意次が志向する貨幣の統一だが、これは両替商の「飯のタネ」を奪うものであった。
両替商は金銀相場で利益を上げていた。否、暴利を貪っていたと言えよう。
それは意次を見出した先代、先々代の八代将軍・吉宗をも苦しめた。
意次が貨幣の統一を試みたのは大恩ある吉宗を苦しめた両替商への仇討ち、復讐という側面もあった。
ともあれ貨幣の統一などを試みられては両替商は干上がってしまう。
そこへ松平忠郷が目を付けたのだ。
明和五匁銀が発行されたのは明和2(1765)年のことであり、松平忠郷が公事方勘定奉行に着任したのはそれから3年後の明和5(1768)年5月のことであった。
一方、南鐐二朱銀が発行されたのは忠郷が公事方勘定奉行に着任してから4年後の明和9(1772)年9月のことであった。
すると松平忠郷は南鐐二朱銀の発行が話合われていた頃に江戸中の両替商を廻っては、
「意次の貨幣の統一を志しており、その為の第一歩として7年前には明和五匁銀を鋳造し、今また、南鐐二朱銀なる新貨幣を鋳造しようとしている…」
そう告口したのだ。
忠郷から告口を受けた両替商は当然、震え上がった。そんなことをされては愈々、おまんまの食上げだからだ。
そしてそれこそが忠郷の狙いであった。
即ち、忠郷は両替商を震え上がらせた上で、
「公事方勘定奉行のこの俺が南鐐二朱銀の鋳造中止に追込んで見せようぞ…、その上で既に流通せし明和五匁銀も、これを鋳造停止に追込んで見せようぞ…」
両替商にそう囁くことで賂を巻上げたのだ。
否、両替商とて莫迦ではない。忠郷の「囁き」を即座に真に受けた訳ではない。
財政政策を担う勝手方勘定奉行ならばいざ知らず、幕領での裁判や民政を掌る公事方勘定奉行の忠郷にそれだけの力が果たしてあるものかと、両替商は皆、懐疑的であった。
しかし、それでもここで賂を拒否して忠郷の「御機嫌」を損ねては面倒だと、皆、賂を差出したのだ。
何しろ忠郷は公事方とは申せ、勘定奉行であることに変わりはないからだ。
無論、忠郷の力では南鐐二朱銀の鋳造中止になど追込める筈はなく、既に流通していた明和五匁銀の鋳造停止も言うに及ばず、であった。
否、忠郷は両替商から多額の賂を巻上げた手前、
「一応…」
南鐐二朱銀の鋳造中止、更には既に流通している明和五匁銀の鋳造停止に追込むべく、努力した形跡は窺える。
だがその「形跡」たるや、精々、評定の場において意次を面罵する程度のものであり、誰も相手にする者はいなかった。
忠郷とは相役の公事方勘定奉行、安藤弾正少弼惟要ですらそうであった。
それと言うのも、忠郷が両替商から賂を巻上げていることは公然の秘密と化しつつあったからだ。
忠郷から賂の要求を受けた両替商の中には心有る者もおり、その者が忠郷とは相役の安藤惟要や、更には勝手方勘定奉行にもその旨、内報していたからだ。
松平忠郷の主張に誰も耳を貸さなかったのも当然であり、それどころか忠郷を除く勘定奉行は皆、
「打ち揃って…」
忠郷の「更迭」を老中に上申した。
とりわけ勝手方勘定奉行の石谷備後守清昌など忠郷の更迭を、つまりは小普請へと墜とすことを強く主張した。
明和五匁銀にしろ、南鐐二朱銀にしろ、原料となる銀が必要不可欠であり、これを調達したのが石谷清昌であったのだ。
石谷清昌は長崎貿易の拡大、それも銅や俵物を輸出し、替わりに金や銀、殊に銀を大量に輸入することで、明和五匁銀や南鐐二朱銀の原料としたのだ。
それ故、石谷清昌こそが明和五匁銀や南鐐二朱銀の発行の真実の立役者と言え、清昌当人もその自負があった。
だからこそ、清昌は忠郷が許せなかった。
明和五匁銀や南鐐二朱銀は石谷清昌にとっては正に、
「手塩にかけた…」
我が子も同然であり、それを穢い賂で以て潰そうと欲する松平忠郷という男がどうにも許せなかったのだ。
それは今は石谷清昌の相役となった川井久敬にしても同様で、石谷清昌と川井久敬の2人は強硬に松平忠郷の「懲戒免職」を老中に意見具申に及んだ。
これに大目付も同調した。
実は松平忠郷は大名の留守居からも賂を巻上げていたのだ。
それは南鐐二朱銀が発行された年でもある明和9(1772)年に遡る。
この年は江戸は大火にも見舞われ、大名屋敷も消亡した。
本来ならば大名には拝借金を与えて、屋敷の再建に当たらせるべきところ、折からの財政難の為に幕府は拝借金を与えないことにしたのだ。
にもかかわらず、松平忠郷は大名の留守居に対して、
「公事方勘定奉行のこの俺が口を利いてやるから…」
特別に拝借金を支給させてみるからと、そう持掛けて「口利き手数料」を巻上げたのだ。
無論、拝借金が支給されることはなく、大名の留守居は忠郷に金を騙し取られた格好であった。
尤も武士が金を騙し取られたとあっては恥であり、それ故、表立って訴える者こそいなかったが、それでも大名を監察する立場にある大目付の耳には自然とその手の風聞が届くものである。
否、大目付は今や儀典官、名誉職の意味合いの強い役職と化し、大名の監察も旗本・御家人の監察を担う目附が兼ねているのが実情であった。
それでも大目付には肝煎坊主が配され、この肝煎坊主は御城での情報を大目付に届けた。
その中には平時、蘇鉄之間に詰めている各藩の江戸留守居の動静も含まれており、
「忠郷が江戸留守居から、拝借金の口利き手数料名目で金を巻上げている…」
それも肝煎坊主から大目付へと報されたのだ。
かくして大目付までも松平忠郷の「懲戒免職」に同意し、老中一同にその旨、上申に及んだ。
老中一同はそれを受け、忠郷を「懲戒免職」に処すべきかどうかを話合った。それが11月も下旬のことであった。
老中の中でも首座の松平右近将監武元など、
「武士の面汚しがっ」
忠郷のことをそう吐き棄てるや、「懲戒免職」どころか腹を切らせるべしと、そんな強硬意見を主張した。
流石にこの意見は通らなかったが、それでも忠郷を今の公事方勘定奉行の役職から降りて貰うことでは老中一同、衆議一決と相成った。
問題は「懲戒免職」に処すべきかどうか、であった。
首座の武元は忠郷には腹を切らせようと本気で考えただけに、断然、「懲戒免職」に処すべきと主張した。
外の老中も武元に同調する中、末席に列なる意次だけが忠郷の「懲戒免職」に反対した。
「忠郷を懲戒免職に処せば、上様の権威に瑕を付けることになる…」
それが反対の理由であった。
即ち、松平忠郷を公事方勘定奉行に任じたのは将軍たる家治その人に外ならず、その忠郷を「懲戒免職」に処せば、忠郷を公事方勘定奉行に任じた家治の判断は間違いだった、ということになる。
事実、その通りであり、忠郷もそれだけのことをしたのだから「懲戒免職」に処される訳だが、しかし意次としては出来れば穏便に済ませたかった。
これで例えば、忠郷が殿中で刃傷に及んだとか、最早、庇い立てが不可能なレベルであれば「懲戒免職」に処すことも可能であった。
だが実際には忠郷の場合、賂を巻上げただけであり、賂を差出した側にも問題がなかったとは言えまい。
否、だからこそ賂を差出した江戸留守居は元より、両替商すらも、
「表立って…」
忠郷を訴える者は誰一人としていなかった。
つまりは何も起きてはいないと強弁することも可能であった。
そこで意次としては忠郷を「懲戒免職」に処するのではなく、別の役職へと「異動」させることを主張したのであった。
結果、意次のこの意見が通り、忠郷を今の公事方勘定奉行から別の役職へと「異動」させることと相成った。
その場合の「異動」だが、それは「左遷」以外にはあり得ず、
「西之丸留守居が良かろう…」
そう主張したのは松平周防守康福であった。
成程、西之丸留守居は左遷先としてはうってつけと言えた。
町奉行や勘定奉行の後職と言えば大目付というのが相場であった。
或いは大番、小姓組番、書院番の三番頭、更にその上、旗本にとっては極官とも言うべき本丸留守居というのもアリであろう。
だがそれが西之丸留守居では左遷以外の何物でもない。
西之丸留守居は言葉は悪いが老衰場、正に「終の棲家」の様な役職であり、その点、忠郷はまだ、そこまで衰えてはおらず、にもかかわらず公事方勘定奉行という、
「現役バリバリ…」
激務とも言うべき役職から斯かる西之丸留守居へと異動させられたとあっては、これはもう左遷に外ならない。
正に忠郷には相応しい役職と言えよう。
だが意次はそれにも―、忠郷を左遷させることにも異を唱え、こともあろうに大目付への出世を主張したのであった。
大目付と言えば町奉行や勘定奉行を無事勤め上げた者への、
「ご褒美」
としての役職であり、賂を貪ったが為に公事方勘定奉行を追われる忠郷にはとても大目付へと出世をする資格はない筈であった。
それ故、武元たちは意次の意見に猛反対した。
だが意次は忠郷のその「血筋」を盾に、武元を押切ったのだ。
即ち、松平忠郷は十八松平の一つ、五井松平の流を汲んでいたのだ。
忠郷は五井松平の流を汲む松平主計頭忠一の三男に生まれた。
但し、庶子である為に、そこで忠郷は松平庄九郎忠全の養嗣子として迎えられた訳だが、この養子先にしてもやはり、十八松平の一つ、深溝松平の流を汲む名門であり、
「その様な由緒正しき血筋の松平忠郷を西之丸留守居へと追いやるのは余りに忍びない…」
意次は忠郷をそう弁護して、大目付への出世を主張したのであった。
尤も、それはあくまで「口実」に過ぎない。
意次としてはここで、忠郷を庇うことで、忠郷の背後に控える十八松平の支持を得たいとの魂胆があった。
否、支持までは無理だとしても、これ以上、嫌割れずには済むというものである。
何しろ意次は十八松平を始めとする、俗に言う、
「由緒正しき血筋…」
それを持つ層から嫌われていたからだ。
そこで意次としては忠郷の持つ、
「由緒正しき血筋…」
それを引合いに、弁護してみせ、あまつさえ大目付への出世を主張することで、これ以上、十八松平を始めとする所謂、「門閥層」から嫌われないようにと謀ったのだ。
意次のその様な心底は首座の武元には「お見通し」であり、苦笑したものである。
武元もまた、越智松平の流を汲む「門閥層」であり、本来ならば意次を忌嫌ってもおかしくはなかった。
だが武元は意次の能力を正当に評価し、門閥層、所謂、由緒正しき血筋を持つ者の中では例外的に意次の理解者であった。
結局、武元は意次の心中を慮って忠郷を大目付へと出世させてやることとし、外の老中の同意を得たのであった。
問題は大目付は今、定員一杯の4人が揃っているということであった。
大目付は厳格な意味での定員という概念はなく、それ故、5人いても問題はない。
だが不文律として大目付の定員は4人であり、そこで誰か1人、大目付から別の役職へと異動させる必要があった。
その点でも意次に抜かりはなかった。
即ち、大目付の中でも分限帳服忌令改を兼ねる萩原主水正雅忠が老齢の為に名誉職である筈の大目付の職を果たすのも困難であるとの情報を意次は入手していたのだ。
意次にその情報を齎したのはやはり大目付、それも宗門改を兼ねる小野日向守一吉であった。
小野一吉は意次に見出されて勝手方勘定奉行、そして大目付へと栄達を遂げた御仁であり、それ故、意次の情報源の一人であった。
萩原雅忠は小野一吉よりも2つ年下の72歳であったが、一吉よりも体力の衰えが激しく、更に閑職の旗奉行か鎗奉行への異動を願っているとのことであった。
意次は小野一吉より齎されたその情報を武元たちに披露した。
結果、萩原雅忠を大目付から旗奉行へと異動させ、その後任として公事方勘定奉行の松平忠郷を以て充てることとした。
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