天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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殺意の日光社参 ~一橋治済はあえて一橋家と所縁のある者を日光社参への扈従の列から外すことで、彼等に家治や意次への憎悪を募らせる~

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 安永4(1775)年11月11日、御目見得医師おめみえいし池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶおなじく御目見得医師おめみえいし千賀せんが道隆どうりゅう久頼共々ひさふゆともども将軍しょうぐん家治いえはる近侍きんじする本丸奥ほんまるおく医師いし取立とりたてられ、その二月ふたつきうるう12月11日に法眼ほうげんじょされたことは、幕府医官ばくふいかんあいだ波紋はもんとうずることになった。

 いや一橋ひとつばし治済はるさだけたばん医師いし遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわとうじたのだ。

池原良誠いけはらよしのぶにしろ、千賀せんが久頼ひさふゆにしろ、田沼たぬま意次おきつぐしたしいものだから、それで我等われらばん飛越とびこえて、いきなりおく医師いし取立とりたてられたのだ…、あまつさえ池原良誠いけはらよしのぶいたっては来春らいはる予定よていされている上様うえさま日光にっこう社参しゃさん扈従こしょうまでがかない、これもまた意次おきつぐ仕業しわざである…」

 遊佐ゆさ信庭のぶにわかるうわさもとい虚言きょげんばん医師いしあいだにバラいたのだ。

 すると治済はるさだが「期待きたい」したとおりの「効果こうか」があらわれた。

 すなわち、ばん医師いしなかでは天野あまの良順りょうじゅん敬登たかなりおおいに「反応はんのう」した。それは勿論もちろん

池原憎いけはらにくし」

 それがこうじての、

意次憎おきつぐにくし」

 その「反応はんのう」であった。

 天野あまの敬登たかなりばん外科げか、つまりは外科医げかいであり、31年前ねんまえばん外科げか取立とりたてられたわば「古株ふるかぶ」であった。

 もっとも、無駄むだ年次ねんじかさねているだけで、外科医げかいとしてのうでは、

「いまひとつ…」

 もっとはっきり言えば無能むのうであった。

 にもかかわらず、ばん外科げかれっせられたのは|偏《ひとえ」に、天野あまの敬登たかなりばん家柄いえがらまれたためであり、これがたとえば池原良誠いけはらよしのぶ千賀せんが久頼ひさふゆおなじくまち医者いしゃであったならば、

絶対ぜったいに…」

 御目見得医師おめみえいしには取立とりたてられなかったであろう。

 つまり池原良誠いけはらよしのぶにしろ千賀せんが久頼ひさふゆにしろ、医者いしゃとしてのうで将軍しょうぐん家治いえはるみとめられたからこそ、御目見得医師おめみえいしいでおく医師いし取立とりたてられたのであった。

 無論むろん池原良誠いけはらよしのぶ千賀せんが久頼ひさふゆ二人ふたりたしかに意次おきつぐとはしたしく、また御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらからの「推挙すいきょ」も、家治いえはる二人ふたりおく医師いしへと取立とりたてさせたわば、「重要じゅうようなファクター」になったであろうが、しかしだからと言ってこの二人ふたり医者いしゃとしての実力じつりょくがなくば、如何いか寵臣ちょうしん意次おきつぐしたしかろうとも、稲葉いなば正明まさあきらからの推挙すいきょがあろうとも、家治いえはる二人ふたりおく医師いし取立とりたてたりはしまい。家治いえはるはそこまであまくはない。

 日光社参にっこうしゃさんにしてもそうである。

 それと言うのも稲葉いなば正明まさあきら池原良誠いけはらよしのぶともに、千賀せんが久頼ひさふゆをも日光社参にっこうしゃさん扈従こしょうさせるべく、家治いえはるにそのむね進言しんげんおよんだ。

 幕府医官ばくふいかんなか日光社参にっこうしゃさん扈従こしょう随行ずいこう出来できるのは本丸奥ほんまるおく医師いしかぎられ、そのうち本道ほんとう内科ないかよりは3人のおく医師いし扈従こしょうすることになっていた。

 そこで稲葉いなば正明まさあきらおく医師いし取立とりたてられたばかりの池原良いけはらよしのぶ千賀せんが久頼ひさふゆくわえて、森雲禎當定もりうんていまささだの3人を扈従こしょうさせることを提案ていあんしたのだ

 だが、家治いえはるはその提案ていあんみとめなかったのだ。

池原良誠いけはらよしのぶ森當定もりまささだ二人ふたり扈従こしょうさせることについては、異存いぞんはないが、なれど千賀せんが久頼ひさふゆについては、法印ほういん河野こうの仙壽院せんじゅいん通頼みちより差置さしおいて扈従こしょうさせることはまかりならぬ…」

 河野こうの通頼みちより本丸奥ほんまるおく医師いしなかでは唯一ゆいいつ法印ほういんであった。

 法印ほういん法眼ほうげんよりも格上かくうえ、と言ってもそれが千賀せんが久頼ひさふゆ扈従こしょうさせない理由りゆうではなかった。

 あくまで医者いしゃとして河野こうの通頼みちよりほう千賀せんが久頼ひさふゆよりも技量ぎりょうすぐれていたからだ。

 本丸奥ほんまるおく医師いし、それも本道ほんとうである内科ないかにおいてもっと技量ぎりょうすぐれているのが河野こうの通頼みちよりあらたにおく医師いし召加めしくわえた池原良誠いけはらよしのぶの2人であり、それに森當定もりまささだつづき、千賀せんが久頼ひさふゆ森當定もりまささだした位置付いちづけられる。

 そこで家治いえはるとしては池原良誠いけはらよしのぶとは「同列どうれつ首位しゅい」でなら河野こうの通頼みちより差置さしおいて千賀せんが通頼みちより扈従こしょうさせるわけにはいかないと、稲葉いなば正明まさあきらからの進言しんげん拒否きょひしたのであった。

 家治いえはる側近そっきん寵臣ちょうしんからの進言しんげんであれば、

なんでも…」

 ハイハイとみとめる将軍しょうぐんではけっしてない。

 一方いっぽう意次おきつぐにしても池原良誠いけはらよしのぶ千賀せんが久頼ひさふゆ二人ふたりをかけていたのもやはり、医者いしゃとしての実力じつりょくがあったからで、そうでなくば、やはりそもそもをかけたりはしまい。

 だが外科医げかいとして無能むのう天野あまの敬登たかなりはそうはかんがえず、

池原良誠いけはらよしのぶにしろ、千賀せんが久頼ひさふゆにしろ、意次おきつぐしたしいからおく医師いし取立とりたてられたのだ…、あまつさえ池原良誠いけはらよしのぶ日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうまでがゆるされおってからに…」

 そのかんがえ、いや邪推じゃすいとらわれ、治済はるさだ期待きたいしたとおり、「池原憎いけはらにくし」、「意次憎おきつぐにくし」の感情かんじょうがらせた。そのうえで、

意次おきつぐめのもうすことならば、なんでもハイハイとおうずる上様うえさま上様うえさまぞ…」

 天野あまの敬登たかなり将軍しょうぐん家治いえはるへの不満ふまんをもしょうじさせたのであった。治済はるさだにとっては真実まこともっ理想的りそうてき展開てんかいと言えた。

 いや天野あまの敬登たかなりとどまらず、番医ばんいにおいてはほかにも峯岸みねぎし春庵しゅんあん瑞興よしおき治済はるさだのぞむ「反応はんのう」をしめしてくれたのだ。

 もっともこれにはおなじくばん医師いし中川專庵義方なかがわせんあんよしかたに「活躍かつやく」してもらった。

本来ほんらいならば、二月程前ふたつきほどまえおく医師いし取立とりたてられるはずだったのこの中川專庵せんあん峯岸殿みねぎしどの、そなたであったのだ…、それお意次おきつぐめが横槍よこやりれ…、おのをかけし池原雲伯いけはらうんぱく千賀せんが久頼ひさふゆ二人ふたり差換さしかえ…、上様うえさまにその、おねだり申上もうしあげ、上様うえさま意次おきつぐもうすことならばと、これを…、我等われらではなく、池原雲伯いけはらうんぱく千賀せんが久頼ひさふゆ二人ふたりおく医師いし取立とりたてることをみとめられ、あまつさえ池原雲伯いけはらうんぱくめは来春らいはる日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうまでがみとめられたのだ…」

 中川義方なかがわよしかた峯岸瑞興みねぎしよしおきへとそう吹込ふきこんだのであった。

 勿論もちろん、そんな事実じじつはない。にもかかわらず、中川義方なかがわよしかたかる虚言きょげん峯岸瑞興みねぎしよしおきへと吹込ふきこんだのはひとえに、じつあにに「洗脳せんのう」されてのことである。

 中川義方なかがわよしかたじつ本丸書院番ほんまるしょいんばんつとめた久野くの伊兵衛いへえ豊法とよのり三男さんなんまれ、小普請こぶしん医師いしであった中川專庵瑞芳のぶよし養嗣子ようししむかえられ、そのいえいでばん医師いしれっせられたわけだが、久野くの伊兵衛いへえ次男じなんすなわち、中川義方なかがわよしかたうえあになんと、一橋ひとつばし家臣かしん、それも治済はるさだ近習きんじゅうばん久野くの三郎兵衛さぶろべえ芳矩よしのりであったのだ。

 治済はるさだ側近そっきん久野くの三郎兵衛さぶろべえ芳矩よしのり使嗾しそうけしかけてその「虚言きょげん」を実弟じってい中川義方なかがわよしかたへと吹込ふきこませたのであった。

 だが、如何いか中川義方なかがわよしかたとて、まともな判断力はんだんりょくがあれば、如何いかじつあにもうすこととは言え、容易よういにはしんじなかったであろう。

 だが実際じっさいには中川義方なかがわよしかたはその虚言きょげん容易よういしんじたわけで、そこには素地そじが、つまりは中川義方なかがわよしかたの「判断力はんだんりょく」を喪失そうしつさせる素地そじ用意よういされていた。

 それを用意よういしたのはやはりと言うべきか、治済はるさだそのひとであり、久野くの三郎兵衛さぶろべえ中川義方なかがわよしかた兄弟きょうだいじつおいにして、いま久野家くのけ当主とうしゅである伊兵衛いへえ宗房むねふさ日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうれつからはずされたのだ。

 久野くの伊兵衛いへえ宗房むねふさ従六位じゅろくい布衣ほいやく本丸ほんまる小十人組番こじゅうにんぐみばん番頭ばんがしら御役ポストにあり、小十人組番こじゅうにんぐみばんと言えば、小姓組番こしょうぐみばん書院番しょいんばん新番しんばんなら将軍しょうぐんの「SP」をつとめる番方ばんかた武官ぶかんであり、それゆえ日光社参にっこうしゃさんよう将軍しょうぐん外出がいしゅつには勿論もちろん将軍しょうぐんまもるべく扈従こしょうする。

 事実じじつ久野くの伊兵衛いへえのぞいた6人の小十人頭こじゅうにんがしら配下はいか組頭くみがしら番士ばんしひきいて日光社参にっこうしゃさん扈従こしょうすることになっていた。

 それが唯一ゆいいつ久野くの伊兵衛いへえだけは配下はいか組頭くみがしら番士ばんし共々ともども、「お留守番るすばん」をめいじられたのであった。

 それもこれもひとえに、治済はるさだの「さく」による。

 えて一橋家ひとつばしけとはすこしでも所縁ゆかりのあるもの日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうれつからはずすことで、

意次おきつぐめは一橋家ひとつばしけきらい、そこで一橋家ひとつばしけたいするいやがらせから、一橋家ひとつばしけとはすこしでも所縁ゆかりのあるもの日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうれつからはずそうとし、上様うえさま意次おきつぐ寵愛ちょうあい、それも盲目的もうもくてき寵愛ちょうあいしており、意次おきつぐもうすことならばと、唯々諾々いいだくだく一橋家ひとつばしけへのそのいやがらせ、仕打しうちをみとめられたのだ…」

 彼等かれら一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのある、日光社参にっこうしゃさん扈従こしょうする資格しかくのあるものにそうおもわせるのが一橋家ひとつばしけ当主とうしゅたる治済はるさだねらいであった。

 治済はるさだはそのためにやはり稲葉いなば正明まさあきらめいじて、日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうれつ随行員ずいこういんのリストをつくらせ、家治いえはるにそれをみとめさせたのであった。

 無論むろん家治いえはるとて、それに唯々諾々いいだくだくとそれにしたがったわけではないことはおく医師いしけんでもあきらかだが、しかし家治いえはる異議いぎべたのはその程度ていどであり、ほとんどは御側御用取次おそばごようとりつぎたる、それも筆頭ひっとう稲葉いなば正明まさあきらしんじて、正明まさあきら作成さくせいしたその「リスト」にしたがった。

 正明まさあきらつね一橋家ひとつばしけきびしい姿勢スタンス取続とりつづけ、それが家治いえはる全幅ぜんぷく信頼しんらいもととなった。

 無論むろん、それが治済はるさだねらいであり、日光社参にっこうしゃさんの「リスト」にしても治済はるさだ仕掛しかけた「ワナ」、じつ治済はるさだ内通ないつうしている正明まさあきらけしかけての「ワナ」だとは、さしもの家治いえはる気付きづかずに、である。

 結果けっか治済はるさだのそのねらいは見事みごと的中てきちゅうし、その「筆頭ひっとう」はなんと言っても、久野くの伊兵衛いへえであろう。

 久野くの伊兵衛いへえ小十人組番こじゅうにんぐみばんは7番組ばんぐみかしらであるのだが、着任ちゃくにんしたのはいまから6年前ねんまえの明和6(1769)年2月のことであり、3番組ばんぐみかしらである山中平吉鐘俊やまなかへいきちかねとしいでの古株ふるかぶであった。

 つまりはあとの5人のかしらみな久野くの伊兵衛いへえの「後輩こうはい」ということだ。

 ことに6番組ばんぐみかしらである神尾内記かんおないき元雅もとよし今年ことし、安永4(1775)年の7月に番頭ばんがしら着任ちゃくにんしたばかりである。

 そうであればこの一番いちばん新人ルーキーたる神尾内記かんおないきこそが「お留守番るすばん」をつかさどるべきところであろう。

 それがふたけてみれば、最古参さいこさん山中平吉やまなかへいきち古参こさんおのれが「お留守番るすばん」とは―、久野くの伊兵衛いへえ治済はるさだ予想よそうしたとおり、おおいに落胆らくたんしたものである。

 そこへ治済はるさだじつ叔父おじにして、おのれ近習きんじゅうとしてつかえる久野くの三郎兵衛さぶろべえ久野くの伊兵衛いへえもとへと差向さしむけ、

本来ほんらい小十人組番こじゅうにんぐみばん番頭ばんがしらにおいては一番いちばん若手わかて神尾内記かんおないき留守るすあずかるべきところ、神尾内記かんおないきかねちからで…、意次おきつぐめにまいないおくってそれを回避かいひし、見事みごと日光社参にっこうしゃさんへの扈従こしょうた…、いや、そなたから簒奪致さんだついたしたのだ…」

 久野くの三郎兵衛さぶろべえより久野くの伊兵衛いへえへとかる虚言きょげん吹込ふきこませたのであった。

 それにたいして久野くの伊兵衛いへえはと言うと、叔父おじ久野くの三郎兵衛さぶろべえもうすことに、そのじつ虚言きょげん半分はんぶん理解りかい出来できたものの、しかしのこ半分はんぶん理解りかい出来できなかった。

 そののこ半分はんぶんとはほかでもない、

何故なにゆえおのれなのか…」

 というてんであった。

 すなわち、神尾内記かんおないきわって「お留守番るすばん」を申付もうしつけるべき小十人頭こじゅうにんがしらなど、まだほかにもいる、ということであった。

 たとえば4番組ばんぐみかしらである土岐とき左兵衛さへえ朝秋ともあきがそうだ。

 土岐とき左兵衛さへえもまた、神尾内記かんおないきおなじく、安永4(1775)年に小十人組番こじゅうにんぐみばん番頭ばんがしらに、それも4番組ばんぐみかしらとして着任ちゃくにんした。

 ただし、土岐とき左兵衛さへえ神尾内記かんおないきよりもはやい、正月しょうがつ着任ちゃくにんしたので、神尾内記かんおないきの「先輩せんぱい」と言えた。

 それでも久野くの伊兵衛いへえにしてみればその土岐とき左兵衛さへえ神尾内記かんおないき同様どうよう、「後輩こうはい」にたるので、そうであれば神尾内記かんおないきえて「お留守番るすばん」を申付もうしつけるべき相手あいて土岐とき左兵衛さへえでもかったはずだ。

 いや、この時代じだいにおける「絶対ぜったい正義せいぎ」とも言える「年功序列ねんこうじょれつ」の観点かんてんからして、当然とうぜん、そうあるべきだった。

 にもかかわらず、その「絶対ぜったい正義せいぎ」にあらがってまで、最古参さいこさん年次ねんじほこおのれ何故なにゆえに、後輩こうはい差置さしおかれる格好かっこうで「お留守番るすばん」をめいじられなければならないのかと、久野くの伊兵衛いへえはそれが理解りかい出来できずにおおいにくちびる噛締かみしめた。

 そこで叔父おじ久野くの三郎兵衛さぶろべえ治済はるさだめいじられていたとおり、

「それがどうやら…、意次おきつぐめは何故なにゆえかはからぬが、だい一橋ひとつばしぎらいの様子ようすにて…、おそらくはおの出自しゅつじいやしく、それがために、それとは正反対せいはんたい由緒正ゆいしょただしき筋目すじめ一橋家ひとつばしけらないのであろう、そこで小十人組番こじゅうにんぐみばんにおいては、唯一ゆいいつ一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりのある…、一橋ひとつばし家臣かしんたるこの叔父おじつそなたを…、そなただけを日光山にっこうさんへの社参しゃさん扈従こしょうさせずに、御城えどじょうにて留守るすをさせようと、上様うえさまにその進言致しんげんいたしたそうな…、無論むろん上様うえさまにおかせられては…、上様うえさままでが意次同様おきつぐどうよう一橋ひとつばしぎらいともおもえず、なれど意次おきつぐもうすことならばと、唯々諾々いいだくだく、それにしたがわれたらしい…」

 久野くの伊兵衛いへえにそう「とどめ」をしたのであった。

 これで久野くの伊兵衛いへえ治済はるさだ期待きたいしたとおり、

「おのれ…、意次おきつぐめ…」

 意次おきつぐたいする憎悪ぞうおつのらせたのであった。

 治済はるさださらに、久野くの三郎兵衛さぶろべえ使嗾しそう実弟じっていにしてばん医師いし中川義方なかがわよしかたまでも、おい久野くの伊兵衛いへえたいするのと、

おな手口てぐち

 でもって、「意次憎おきつぐにくし」へと洗脳せんのうしたのであった。

 いや中川義方なかがわよしかたたいしてはさらに、

本丸奥ほんまるおく医師いしけんにしてもそうだ…、本来ほんらいならば義方よしかたよ、そなたとそれに峯岸みねぎし春庵しゅんあん殿どのが11月に本丸奥ほんまるおく医師いし取立とりたてられるはずであったのだ…、にもかかわらず意次おきつぐめが、やはりだい一橋ひとつばしぎらいから、それに横槍よこやりれ、おのをかけし池原雲伯いけはらうんぱくめと千賀せんが道隆どうりゅうめの両名りょうめいへと差替さしかえたのだ…」

 久野くの三郎兵衛さぶろべえはそうも付加つけくわえたのだ。無論むろん治済はるさだ指図さしずによる。

 すると中川義方なかがわよしかたあに久野くの三郎兵衛さぶろべえのこの「虚言きょげん」をけ、「意次憎おきつぐにくし」の感情かんじょう決定的けっていてきなものにさせた。

 と同時どうじ峯岸瑞興みねぎしよしおきにもこのけんつたえた。

 それと言うのも中川義方なかがわよしかた峯岸瑞興みねぎしよしおき舎弟しゃてい勝四郎かつしろう瑞照のぶてる養嗣子ようししむかえていたからだ。

 つ、おいである久野くの伊兵衛いへえ長女ちょうじょを、中川義方なかがわよしかたにとっては姪孫てっそんをこの養嗣子ようししである勝四郎かつしろう瑞照のぶてるめとっていたのだ。

 そのため峯岸瑞興みねぎしよしおきもまた、中川義方なかがわよしかたかいして、「一橋家ひとつばしけ所縁ゆかりもの」に色分いろわけされる。

 かくして中川義方なかがわよしかたあに久野くの三郎兵衛さぶろべえよりつたいたその「虚言きょげん」を、「虚言きょげん」とも気付きづかずに、

「そのまま…」

 峯岸瑞興みねぎしよしおきへとさらつたえたのであった。

 このころにはすで治済はるさだけた遊佐ゆさ信庭のぶにわもまた、ばんあいだくだんの「虚言きょげん」を拡散ひろめており、峯岸瑞興みねぎしよしおきもまた、天野あまの敬登同様たかなりどうよう遊佐ゆさ信庭のぶにわのその「虚言きょげん」はみみにしていた。

 ただし、峯岸瑞興みねぎしよしおき場合ばあい天野あまの敬登程たかなりほどには自意識じいしき過剰かじょうではなく、それゆえ天野あまの敬登たかなりとはことなり、

容易よういには…」

 遊佐ゆさ信庭のぶにわの「虚言きょげん」をしんじなかった。

 だがそこへ中川義方なかがわよしかたまでが峯岸瑞興みねぎしよしおきに「虚言きょげん」を、それも、おのれ峯岸瑞興みねぎしよしおき本丸奥ほんまるおく医師いし取立とりたてられるはずであったと、そうも付加つけくわえたことから、これで峯岸瑞興みねぎしよしおきも、

完全かんぜんに…」

 まともな判断力はんだんりょくうしなった。

本来ほんらいならばおのれ中川義方なかがわよしかたとも本丸奥ほんまるおく医師いし取立とりたてられるはずであったとは…」

 峯岸瑞興みねぎしよしおきはそうおもむと、天野あまの敬登同様たかなりどうよう意次おきつぐへの憎悪ぞうおつのらせ、それがさら将軍しょうぐん家治いえはるへの憎悪ぞうおへと転化てんかしたのであった。
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