天明奇聞 ~たとえば意知が死ななかったら~

ご隠居

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一橋治済は稲葉正明を介して、御目見得医師に過ぎない池原良誠を本丸奥医師へと進ませ、更に日光社参に扈従させることを将軍・家治に進言させる。

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 オランダ商館しょうかんちょう所謂いわゆる、カピタンは将軍しょうぐん貿易ぼうえきへの「御礼おれい」―、ほぼ独占的どくせんてき日本にほんとの貿易ぼうえきゆるしてくれていることへの「御礼おれい」をべるべく、毎年まいとし江戸えど参府さんぷ―、長崎ながさきから江戸えどへと、

「はるばる…」

 上京じょうきょうしては御城えどじょうにて将軍しょうぐん拝謁はいえつたまわり、そこで「御礼おれい」を申上もうしあげる。

 そのカピタンだが、江戸えど参府さんぷおりには日本橋にほんばし本石町ほんごくちょう三丁目さんちょうめにある長崎屋ながさきや源右衛門げんえもんかた投宿とうしゅくし、滞在たいざいちゅう様々さまざま訪問客ほうもんきゃくあふかえる。

 島津しまづ重豪しげひでによると、そのカピタンに江戸えど参府さんぷ来年らいねん、安永5(1776)年の江戸えど参府さんぷにオランダ商館しょうかんとして着任ちゃくにんしたばかりのカール・ペター・ツュンベリーが江戸えど参府さんぷ随行ずいこうするというのである。

 そうであれば成程なるほど重豪しげひでが言うとおり―、書状しょじょうしたためたとおり、そのカール・ペター・ツュンベリーなるオランダ商館しょうかん畢竟ひっきょう長崎屋ながさきやにて投宿とうしゅくすることになるので、長崎屋ながさきやおとずれ、そこでカール・ペター・ツュンベリーから遅効性ちこうせいどくについて、なに有益ゆうえきなる情報じょうほうられるかもれなかった。

 問題もんだいだれ長崎屋ながさきやへと、それもカール・ペター・ツュンベリーのもとへと差向さしむけるかであった。

 ことことだけに、医学知識いがくちしきのあるものでなければならない。つまりは医師いしである。

 しかし、だからと言って一橋家ひとつばしけ侍医じい論外ろんがいである。

 この時期じき―、将軍しょうぐん家治いえはる一橋家ひとつばしけ当主とうしゅたる治済はるさだによる家基いえもと暗殺あんさつ、それも毒殺どくさつたくらんでいることに気付きづいているこの段階だんかいで、治済はるさだ侍医じい長崎屋ながさきや投宿とうしゅくするカール・ペター・ツュンベリーのもとへと差向さしむけ、あまつさえ彼等かれら侍医じい遅効性ちこうせいどくについてカール・ペター・ツュンベリーにわせたりしたらどうなるか。

 基本きほん長崎屋ながさきやへの、カピタン目当めあての訪問客ほうもんきゃくにこれといった制限せいげんはなく、のぞめばだれもがカピタンにうことが出来できた。

 ただし、カピタンはけっして「観光旅行かんこうりょこう」のため江戸えど参府さんぷおよんでいるわけではない。

 将軍しょうぐん貿易ぼうえきたいする「御礼おれい」を申上もうしあげるべく、江戸えど参府さんぷおよんでおり、そうであればカピタンは将軍しょうぐん客人きゃくじんと言えた。

 そのカピタンに将軍しょうぐん以外いがいものうからには、だれい、つ、カピタンと一体いったい如何いかなる会話かいわわしたのか、それらがすべ将軍しょうぐんへと報告ほうこくされることになっていた。

 そうであればカピタンに随行ずいこうする予定よていのカール・ペター・ツュンベリーもその原則げんそく適用てきようされることになる。カピタンに随行ずいこうして江戸えど参府さんぷたす予定よていのカール・ペター・ツュンベリーもまた、将軍しょうぐん客人きゃくじん看做みなされるからだ。

 それゆえかり治済はるさだ侍医じいをそのカール・ペター・ツュンベリーのもとへと差向さしむけ、遅効性ちこうせいどくについてカール・ペター・ツュンベリーにわせようものなら、

「あっというに…」

 将軍しょうぐんたる家治いえはるにも「筒抜つつぬけ」となり、そうなっては家基いえもと遅効性ちこうせいどくでももっ暗殺あんさつし、あまつさえそのつみ清水家しみずけ田安家たやすけ、そして田沼たぬま意次おきつぐかずくという、治済はるさだのその計画けいかく重大じゅうだい支障ししょうきたすことになる。いや頓挫とんざする。

 そうであれば一橋家ひとつばしけとは所縁ゆかりのないものをカール・ペター・ツュンベリーのもとへと差向さしむければこと解決かいけつする。

 一橋家ひとつばしけと、治済はるさだとはえん所縁ゆかりもない医師いしがカール・ペター・ツュンベリーのもとたずねて、遅効性ちこうせいどくについてたずねたところで、家治いえはるはそれを治済はるさだとは、それも家基毒殺いえもとどくさつ一環いっかんとはむすけないであろう。

 だが問題もんだいかる、

治済はるさだとはえん所縁ゆかりもない…」

 医師いし治済はるさだためうごいてくれるか、というてんである。

 かねむ、という方法ほうほうがある。いや治済はるさだとはえん所縁ゆかりもない医師いしうごかすにはそれしか方法ほうほうはあるまい。

 だがその場合ばあい、「口封くちふうじ」とセットである。

 一度いちどかねんだが最後さいごかならずや「二度目にどめ」があるからだ。

 無論むろん、「一度いちど」だけのかね満足まんぞくする「殊勝しゅしょう」なるものもいるであろう。その場合ばあい治済はるさだとしても「口封くちふうじ」にはおよばない。

 だから正確せいかくには、二度にど三度さんどかね強請せびろうとする、

不埒ふらちなる…」

 医師いしの「口封くちふうじ」であった。

 ともあれ、治済はるさだとしてはやはり、かねではなしに、おのれの「天下てん」をのぞ医師いし協力きょうりょくしてもらいたかった。

 それも治済はるさだとはえん所縁ゆかりもない医師いしとなれば、これは中々なかなか難問なんもんである。

 そんな治済はるさだ本丸ほんまる御側御用取次おそばごようとりつぎ稲葉いなば正明まさあきらがその「難問なんもん」を解決かいけつへとみちびく「ヒント」をあたえてくれた。無論むろん正明まさあきら当人とうにんはそうとは自覚じかくしていなかったであろう。

 ともあれ正明まさあきら治済はるさだ家老かろう引連ひきつれて登城とじょうしたおり、やはり来年らいねん、安永5(1776)年に予定よていされている日光社参にっこうしゃさん付随つきしたが面々めんめん人選じんせん大詰おおづめむかえていると、雑談ざつだんじりに治済はるさだ打明うちあけた。

 日光社参にっこうしゃさんとは将軍しょうぐん東照とうしょう神君家康公しんくんいえやすこうまつられている日光にっこう東照宮とうしょうぐうへと参詣さんけいよう墓参ぼさんようなものであり、ただ江戸えどからとおはなれた日光にっこうなので、事実上じじつじょう旅行りょこうであった。

 その日光社参にっこうしゃさんだが、

幕府ばくふ権力けんりょく誇示こじ…」

 その目的もくてきもあった。

 それゆえたりまえだが、将軍しょうぐん一人ひとり日光にっこうへと参詣さんけいたびるのではなく、おおくのもの扈従こしょうする。

 そこには医師いし勿論もちろんふくまれていた。道中どうちゅう不意ふいやまい怪我けがなどにおそわれないともかぎらないからだ。

 ともあれ、将軍しょうぐん日光社参にっこうしゃさんおり扈従こしょうする面々めんめん人選じんせんについては中奥なかおく最高さいこう長官ちょうかんたる御側御用取次おそばごようとりつぎならびに表向おもてむき最高さいこう長官ちょうかんたる老中ろうじゅう副長官ふくちょうかん若年寄わかどしより、それに彼等かれら老中ろうじゅう若年寄わかどしよりの「補佐官ほさかん」とも言うべき奥右筆おくゆうひつがそのけんにぎっていた。

 治済はるさだ不意ふいにあるかんがえがかぶと、正明まさあきら何事なにごとかをささやいた。

 それがあきらかとなったのはその翌日よくじつのことであり、すなわち、正明まさあきら将軍しょうぐん家治いえはる御目見得医師おめみえいし池原雲伯良誠いけはらうんぱくよしのぶ本丸奥ほんまるおく医師いし将軍しょうぐん近侍きんじする医師いしへと取立とりたてたうえで、

日光にっこうへの社参しゃさんにも上様うえさましたがたてまつらせましては如何いかがでござりましょう…」

 池原良誠いけはらよしのぶ日光社参にっこうしゃさん随行ずいこうメンバーにくわえてはと、そう進言しんげんしたのであった。

 御目見得医師おめみえいしとは幕府ばくふ医官いかんなかでも最下級さいかきゅう位置付いちづけられ、わばインターンのよう存在そんざいであった。

 その池原良誠いけはらよしのぶ番医師ばんいし飛越とびこえて、いきなり幕府ばくふ医官いかんなかでも最高位さいこういおく医師いし取立とりたてられれば、ほか番医師ばんいしや、あるいは寄合よりあい医師いししくは同輩どうはい御目見得医師おめみえいしからおおいに嫉妬しっとされ、うらまれるであろう。

 そしてこれこそが治済はるさだの「ねらい」であった。

 どういうことかと言うと、池原良誠いけはらよしのぶはまだ町医者まちいしゃであった時分じぶんより田沼たぬま意次おきつぐをかけられていたものであり、池原良誠いけはらよしのぶ御目見得医師おめみえいし取立とりたてられたのもひとえに、

田沼様たぬまさまのヒキによるものであろうぞ…」

 それがもっぱらの評判ひょうばんであった。

 たしかに池原良誠いけはらよしのぶ御目見得医師おめみえいし取立とりた照られたのは意次おきつぐの「ヒキ」による。

 ただし、それもあくまで、池原良誠いけはらよしのぶのその医師いしとしての「うで」がたしかであったからであり、そうでなければかりをかけていたとしても、御目見得医師おめみえいしには取立とりたてなかったであろう。いや、そもそも無能むのうもの意次おきつぐをかけたりはしまい。

 ともあれ、これで池原良誠いけはらよしのぶさらおく医師いしへと取立とりたてられようものなら、

「やはり田沼様たぬまさまのヒキによるものであろう…」

 事情じじょうらぬやからはそううわさするにちがいなく、それこそが治済はるさだの「ねらい」であった。

 治済はるさだ同時どうじ番医師ばんいし遊佐ゆさ卜庵信庭ぼくあんのぶにわたいして、番医師ばんいしあいだで、そのうわさの「火付ひつけやく」になってくれるようたのんだ。

 遊佐ゆさ信庭のぶにわ一橋家ひとつばしけ侍女じじょ、それも老女ろうじょ岡村おかむらそだてられたわば、

生粋きっすいの…」

 一橋派ひとつばしは治済はるさだと言え、治済はるさだの「天下てんが」をねら番医師ばんいしだと断言だんげんしてもかった。

 だがそれだけにこの遊佐ゆさ信庭のぶにわはカール・ペター・ツュンベリーのもと差向さしむけるわけにはいかない。

 そこで遊佐ゆさ信庭のぶにわには番医師ばんいしあいだで、

御目見得医師おめみえいしぎない池原良誠いけはらよしのぶ番医師ばんいし飛越とびこえて、奥医師おくいしへと取立とりたてられたのは田沼たぬま意次おきつぐのヒキによるもの…」

 そのうわさてる、わば「火付ひつけやく」をめいじた次第しだいである。

 だまっていてもこのうわさはそれこそ、

燎原りょうげんごとく…」

 燃上もえあがるものだが、治済はるさだとしてはより確実かくじつに、つ、はやくに、それも番医師ばんいしあいだ燃上もえあがらせたかった。

 そうすればかならずや、番医師ばんいしなかから、池原憎いけはらにくし、それがこうじて意次憎おきつぐにくしの感情かんじょうとらわれる番医師ばんいしてくるに相違そういないからだ。

 のみならず、奥医師おくいし取立とりたてられたばかりの池原良誠いけはらよしのぶ日光社参にっこうしゃさん扈従こしょう出来できたとなれば、番医師ばんいし池原憎いけはらにくし、意次憎おきつぐにくしの感情かんじょう最高潮さいこうちょうへとたっするであろう》。

 それと言うのも将軍しょうぐん日光社参にっこうしゃさん扈従こしょう出来できるのは、

一生いっしょう一度いちど、あるかないか…」

 それほど栄誉えいよであるからだ。

 そしてそのときこそが、治済はるさだの「出番でばん」であり、その番医師ばんいしすくげて「共犯者きょうはんしゃ」、家基暗殺計画いえもとあんさつけいかく」の「共犯者きょうはんしゃ」に仕立したげ、カール・ペター・ツュンベリーのもとへと差向さしむけるのである。
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