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殺意の日光社参 ~一橋治済の「魔の手」は本丸目附にも忍び寄る~
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さて、治済の「魔の手」は更に目附にも及んだ。
目附は旗本にとっては出世の「登竜門」的な役職であり、この目附を経て、遠国奉行や下三奉行とも称される作事・普請・小普請の三奉行、或いは江戸町奉行や勘定奉行に取立てられる例が多かった。
何より、家基が斃れた場合、その死の「判定」をするのはこの目附であった。
家基の死が単なる病死か、はたまた一服盛られたか、そして一服盛られた疑いありと、そう判定した場合、それでは誰が一服盛ったのか、それも判定するのが目附であった。
家基の暗殺を企む、のみならず、その「罪」を次期将軍レースにおいて邪魔な存在となり得るであろう清水重好や、或いは治済が「天下」を、正確には我が子・豊千代を介して大御所として「天下」を獲った際にやはり邪魔な存在となり得る田沼意次、この2人に被くことまでも企む治済にとって、今から目附を取込んでおくのは極めて重要な戦略と言えた。
そこでこの日光社参を利用して、要は扈従出来ずに留守を命じられた目附を今の内から取込んでおくのも悪くはないと、治済はそう考え、己が取込めそうな目附に留守が命じられるよう正明や、更には目附を差配する若年寄、その一人である酒井忠休を嗾けたのだ。
結果、所謂、「十人目附」とも称される本丸目附の中で、
「河野吉十郎安嗣」
「井上數馬正在」
「丸毛一學政良」
「大久保喜右衛門忠昌」
「田沼市左衛門意致」
この5人が日光社参に扈従することになった。
この内、河野吉十郎は明和3(1766)年9月に目附に取立てられた一番の古株であり、日光社参に扈従するのは順当であるかの様に思われた。
だが、外の4人はと言えば、井上數馬は3年前の安永2(1773)年7月に目附に取立てられた謂わば「中堅クラス」であり、一番の古株である河野吉十郎との間には、
「村上三十郎正清」
「松浦與次郎信桯」
「本目隼人親英」
以上の3人が井上數馬の「先輩」として控えていた。
この3人は皆、一番の古株である河野吉十郎と同じく、明和時代に目附に取立てられた者で、村上三十郎は明和5(1768)年3月に、松浦與次郎は明和6(1769)年11月に、そして本目隼人は明和7(1770)年12月に、各々、目附に取立てられたにもかかわらず、その誰もが井上數馬以下の後輩に謂わば、出抜かれる格好で日光社参には扈従出来ずに留守を仰せ付けられた。
無論、この3人を取込む為の治済の計略による。
ちなみに井上數馬は既にこの段階で治済の「共犯者」であった。
井上數馬は野々山弾右衛門兼起・小市兼義父子を介して取込み、且つ、「共犯者」に仕立ておいた。
一橋家臣の野々山市郎右衛門兼驍の兄である野々山弾右衛門は井上數馬が実の叔母を娶っており、その間に生まれた小市には更に井上數馬が次女を娶らせていた。
斯様に野々山弾右衛門・小市父子は井上數馬と所縁が深く、そこで治済はこの野々山弾右衛門・小市父子を介して密かに井上數馬と接触を持ち、まずはこれを取込み、次いで「共犯者」に仕立てることに成功したのだ。
それ故、治済としては今更、井上數馬に日光社参に扈従させずに留守を預らせることで、その間にこれを取込むという、回りくどいことをする必要はどこにもなかった。
逆に、井上數馬には日光社参へと扈従出来る様、取計らうことで、恩を売っておいた方が得策であった。この辺り、先の正木康恒の場合と同様である。
井上數馬にしても正木康恒と同じく、日光社参への扈従を切望していたからだ。
尤もその御蔭で、「先輩」に当たる村上三十郎と松浦與次郎、本目隼人の3人が割を喰う格好となった。
そこで治済はこの3人を日光社参の間、つまりは3人が御城にて留守を預かる間に取込むつもりであった。
「本来、そこもとらは日光社参に扈従出来る筈であったが、それが清水重好や田沼意次の策謀により、留守へと回らされたのだ…」
治済がその様に、彼等3人に囁けば、彼等は間違いなく喰付くに違いなかった。
治済はその上で、
「本来、そこもとら3人は河野吉十郎や井上數馬と共に扈従出来る筈であった…、にもかかわらずそこへ清水重好と田沼意次が横槍を入れたのだ…、まず清水重好だが、清水家とは何かと所縁の深い大久保一党…、附切の身分にて重好の側近くに仕える者が多い大久保一党の喜右衛門忠昌を日光社参へと扈従させてやりたいと、腹違いの兄でもある将軍・家治におねだりをし、すると家治も弟可愛さからこれを受容れ、同じ頃、意次もまた、己の子飼である丸毛一學と、それに甥の田沼市左衛門をやはり日光社参へと扈従させてやりたいと、将軍・家治におねだりをし、すると家治は重好を寵愛すると同時に、意次には誑かされている始末で、意次の申すことなればと、唯々諾々、これを受容れ、結果、日光社参への扈従に内定していたそこもとら3人が弾き飛ばされてしまったのだ…、それが証拠にこの3人は皆、去年の安永4(1775)年に目附に取立てられた者たちばかりにて…、大久保喜右衛門と丸毛一學は共に2月8日に、田沼市左衛門に至りては11月に夫々、目附に取立てられ、目附としては極めて日が浅く、河野吉十郎を始め、そこもとら立派なる先輩が3人も控えているというに、にもかかわらず日光社参の扈従の列に選ばれしは、これはもう清水重好と田沼意次の両名が横槍を入れた、結果、そこもとらが日光社参の間、留守へと追いやられし何よりの証にて…」
そうも囁けば、さしもの3人も治済のこの虚言を真に受けるに違いなかった。
それに彼等3人には治済のその虚言を信じる「素地」があった。
素地、それは殊、意次に対する悪感情であった。
無論、今、この段階においては彼等3人は意次に対しては全くの「白紙」、好印象を抱いている訳でもなかったが、さりとて悪感情を抱いている訳でもなかった。
しかし、その「所縁」を辿れば、意次への悪感情を植付けることは充分に可能であった。
即ち、村上三十郎の場合、その実弟の長十郎兼昵が野々山彦右衛門兼幸の養嗣子として迎えられていた。
野々山と言えばその一族には例の野々山市郎右衛門や、更には野々山彌市郎が一橋家臣として治済に仕えており、そこで彼等を介してまずは野々山長十郎に連絡を取り、次いで野々山長十郎を足掛かりに、村上三十郎へと手を伸ばすことが可能であった。
結果、村上三十郎をまずは治済サイドへと取込み、次いで家基暗殺計画の「共犯者」に仕立てることが可能であった。
同じことが松浦與次郎や本目隼人にも当て嵌まる。
松浦與次郎の場合、既に治済が取込み済の大目付の松平忠郷に役立って貰う。
松浦與次郎の妻は松平忠郷が養嗣子の庄九郎忠勸の妻とは実の姉妹の関係にあるのだ。
そこで松平忠郷が養嗣子の庄九郎を介して松浦與次郎に接触を図り、これを取込み、やがて「共犯者」に仕立てることが可能であった。
そして本目隼人だが、この3人の中では一番、意次への悪感情を植付けることが容易である様に思われた。
それと言うのも本目隼人が妻女は何と、例の意次が御側御用取次として関与した郡上騒動、その裁きにより改易の憂目に遭った元勘定奉行の大橋近江守親義が実妹であるのだ。
若しかしたら本目隼人は今、この段階において妻女より、意次に対する怨言を聞かされているやも知れぬ。
その場合、本目隼人は或いは妻女の影響を受けて、意次憎しの感情を抱いているやも知れなかった。
無論、それはあくまで可能性に過ぎず、そうでない可能性もあった。
だが、だとしても本目隼人が妻女は大橋親義の実妹であることは、そして意次の所為で改易の憂目を見たことは紛れもない事実だ。
否、実際には大橋親義が改易となったのは自業自得であり、断じて意次の所為などではないが、しかし大橋親義当人やその実妹からすれば意次の所為だと、そう逆怨みしているに違いなく、そのことは本目隼人も肌で感じている筈であった。
そこへ今度は己までも意次の所為で日光社参の列から漏れ、「お留守番」に回されたとあらば、意次に対する悪感情を抱くことが予想された。
そうなればしめたもので、「共犯者」に仕立てることも容易となろう。
尤も、本目隼人は同時に、実弟の本目権右衛門親收が清水家にて側用人として重好に仕えていたのだ。
そこで本目隼人にまともな判断力があれば、治済の「虚言」を直ぐには信じない可能性もあり得た。
即ち、家治が意次に誑かされている云々のくだりは兎も角、腹違いの弟の重好を寵愛しているならば、
「その重好の御側近くにて側用人として仕えている本目権右衛門を弟に持つこの己こそ、いの一番に、重好の推挙が…、日光社参に扈従させてやって欲しいと、そう将軍・家治へと推挙が為されて然るべきではあるまいか…、何しろ側用人と申さば、御三卿家臣の中では家老に次ぐ重職にて、番頭よりも格上なれば…」
本目隼人がそう疑問に思う可能性もあり得た。
だがそこは治済である。その危険性をも見越して「対応策」は準備済みであった。
「重好は今、本目権右衛門よりも大久保一党、その中でも近習番として仕えし大久保半之助忠得を寵愛しているらしい…」
治済がそう囁けば、本目隼人も己の疑問を雲散霧消させるに、つまりはまともな判断力を喪失させるに違いなかった。
それと言うのも、清水家においては本目権右衛門と大久保半之助とは対抗関係にあるからだ。
本目権右衛門は宝暦5(1755)年12月15日、重好の近習番から用人へと取立てられたのだが、その翌日、本目隼人と入替わる様に大久保半之助が重好の近習番に取立てられ、爾来、重好の寵愛は本目権右衛門から大久保半之助へと移ったというのが清水家における専らの評判であった。
それは治済、と言うよりは一橋家の始祖たる宗尹が「養成」した間者より齎された情報による。
その情報を本目隼人にぶつければ、さしもの本目隼人もまともな判断力を喪失させ、治済に取込まれるのは間違いなかった。
目附は旗本にとっては出世の「登竜門」的な役職であり、この目附を経て、遠国奉行や下三奉行とも称される作事・普請・小普請の三奉行、或いは江戸町奉行や勘定奉行に取立てられる例が多かった。
何より、家基が斃れた場合、その死の「判定」をするのはこの目附であった。
家基の死が単なる病死か、はたまた一服盛られたか、そして一服盛られた疑いありと、そう判定した場合、それでは誰が一服盛ったのか、それも判定するのが目附であった。
家基の暗殺を企む、のみならず、その「罪」を次期将軍レースにおいて邪魔な存在となり得るであろう清水重好や、或いは治済が「天下」を、正確には我が子・豊千代を介して大御所として「天下」を獲った際にやはり邪魔な存在となり得る田沼意次、この2人に被くことまでも企む治済にとって、今から目附を取込んでおくのは極めて重要な戦略と言えた。
そこでこの日光社参を利用して、要は扈従出来ずに留守を命じられた目附を今の内から取込んでおくのも悪くはないと、治済はそう考え、己が取込めそうな目附に留守が命じられるよう正明や、更には目附を差配する若年寄、その一人である酒井忠休を嗾けたのだ。
結果、所謂、「十人目附」とも称される本丸目附の中で、
「河野吉十郎安嗣」
「井上數馬正在」
「丸毛一學政良」
「大久保喜右衛門忠昌」
「田沼市左衛門意致」
この5人が日光社参に扈従することになった。
この内、河野吉十郎は明和3(1766)年9月に目附に取立てられた一番の古株であり、日光社参に扈従するのは順当であるかの様に思われた。
だが、外の4人はと言えば、井上數馬は3年前の安永2(1773)年7月に目附に取立てられた謂わば「中堅クラス」であり、一番の古株である河野吉十郎との間には、
「村上三十郎正清」
「松浦與次郎信桯」
「本目隼人親英」
以上の3人が井上數馬の「先輩」として控えていた。
この3人は皆、一番の古株である河野吉十郎と同じく、明和時代に目附に取立てられた者で、村上三十郎は明和5(1768)年3月に、松浦與次郎は明和6(1769)年11月に、そして本目隼人は明和7(1770)年12月に、各々、目附に取立てられたにもかかわらず、その誰もが井上數馬以下の後輩に謂わば、出抜かれる格好で日光社参には扈従出来ずに留守を仰せ付けられた。
無論、この3人を取込む為の治済の計略による。
ちなみに井上數馬は既にこの段階で治済の「共犯者」であった。
井上數馬は野々山弾右衛門兼起・小市兼義父子を介して取込み、且つ、「共犯者」に仕立ておいた。
一橋家臣の野々山市郎右衛門兼驍の兄である野々山弾右衛門は井上數馬が実の叔母を娶っており、その間に生まれた小市には更に井上數馬が次女を娶らせていた。
斯様に野々山弾右衛門・小市父子は井上數馬と所縁が深く、そこで治済はこの野々山弾右衛門・小市父子を介して密かに井上數馬と接触を持ち、まずはこれを取込み、次いで「共犯者」に仕立てることに成功したのだ。
それ故、治済としては今更、井上數馬に日光社参に扈従させずに留守を預らせることで、その間にこれを取込むという、回りくどいことをする必要はどこにもなかった。
逆に、井上數馬には日光社参へと扈従出来る様、取計らうことで、恩を売っておいた方が得策であった。この辺り、先の正木康恒の場合と同様である。
井上數馬にしても正木康恒と同じく、日光社参への扈従を切望していたからだ。
尤もその御蔭で、「先輩」に当たる村上三十郎と松浦與次郎、本目隼人の3人が割を喰う格好となった。
そこで治済はこの3人を日光社参の間、つまりは3人が御城にて留守を預かる間に取込むつもりであった。
「本来、そこもとらは日光社参に扈従出来る筈であったが、それが清水重好や田沼意次の策謀により、留守へと回らされたのだ…」
治済がその様に、彼等3人に囁けば、彼等は間違いなく喰付くに違いなかった。
治済はその上で、
「本来、そこもとら3人は河野吉十郎や井上數馬と共に扈従出来る筈であった…、にもかかわらずそこへ清水重好と田沼意次が横槍を入れたのだ…、まず清水重好だが、清水家とは何かと所縁の深い大久保一党…、附切の身分にて重好の側近くに仕える者が多い大久保一党の喜右衛門忠昌を日光社参へと扈従させてやりたいと、腹違いの兄でもある将軍・家治におねだりをし、すると家治も弟可愛さからこれを受容れ、同じ頃、意次もまた、己の子飼である丸毛一學と、それに甥の田沼市左衛門をやはり日光社参へと扈従させてやりたいと、将軍・家治におねだりをし、すると家治は重好を寵愛すると同時に、意次には誑かされている始末で、意次の申すことなればと、唯々諾々、これを受容れ、結果、日光社参への扈従に内定していたそこもとら3人が弾き飛ばされてしまったのだ…、それが証拠にこの3人は皆、去年の安永4(1775)年に目附に取立てられた者たちばかりにて…、大久保喜右衛門と丸毛一學は共に2月8日に、田沼市左衛門に至りては11月に夫々、目附に取立てられ、目附としては極めて日が浅く、河野吉十郎を始め、そこもとら立派なる先輩が3人も控えているというに、にもかかわらず日光社参の扈従の列に選ばれしは、これはもう清水重好と田沼意次の両名が横槍を入れた、結果、そこもとらが日光社参の間、留守へと追いやられし何よりの証にて…」
そうも囁けば、さしもの3人も治済のこの虚言を真に受けるに違いなかった。
それに彼等3人には治済のその虚言を信じる「素地」があった。
素地、それは殊、意次に対する悪感情であった。
無論、今、この段階においては彼等3人は意次に対しては全くの「白紙」、好印象を抱いている訳でもなかったが、さりとて悪感情を抱いている訳でもなかった。
しかし、その「所縁」を辿れば、意次への悪感情を植付けることは充分に可能であった。
即ち、村上三十郎の場合、その実弟の長十郎兼昵が野々山彦右衛門兼幸の養嗣子として迎えられていた。
野々山と言えばその一族には例の野々山市郎右衛門や、更には野々山彌市郎が一橋家臣として治済に仕えており、そこで彼等を介してまずは野々山長十郎に連絡を取り、次いで野々山長十郎を足掛かりに、村上三十郎へと手を伸ばすことが可能であった。
結果、村上三十郎をまずは治済サイドへと取込み、次いで家基暗殺計画の「共犯者」に仕立てることが可能であった。
同じことが松浦與次郎や本目隼人にも当て嵌まる。
松浦與次郎の場合、既に治済が取込み済の大目付の松平忠郷に役立って貰う。
松浦與次郎の妻は松平忠郷が養嗣子の庄九郎忠勸の妻とは実の姉妹の関係にあるのだ。
そこで松平忠郷が養嗣子の庄九郎を介して松浦與次郎に接触を図り、これを取込み、やがて「共犯者」に仕立てることが可能であった。
そして本目隼人だが、この3人の中では一番、意次への悪感情を植付けることが容易である様に思われた。
それと言うのも本目隼人が妻女は何と、例の意次が御側御用取次として関与した郡上騒動、その裁きにより改易の憂目に遭った元勘定奉行の大橋近江守親義が実妹であるのだ。
若しかしたら本目隼人は今、この段階において妻女より、意次に対する怨言を聞かされているやも知れぬ。
その場合、本目隼人は或いは妻女の影響を受けて、意次憎しの感情を抱いているやも知れなかった。
無論、それはあくまで可能性に過ぎず、そうでない可能性もあった。
だが、だとしても本目隼人が妻女は大橋親義の実妹であることは、そして意次の所為で改易の憂目を見たことは紛れもない事実だ。
否、実際には大橋親義が改易となったのは自業自得であり、断じて意次の所為などではないが、しかし大橋親義当人やその実妹からすれば意次の所為だと、そう逆怨みしているに違いなく、そのことは本目隼人も肌で感じている筈であった。
そこへ今度は己までも意次の所為で日光社参の列から漏れ、「お留守番」に回されたとあらば、意次に対する悪感情を抱くことが予想された。
そうなればしめたもので、「共犯者」に仕立てることも容易となろう。
尤も、本目隼人は同時に、実弟の本目権右衛門親收が清水家にて側用人として重好に仕えていたのだ。
そこで本目隼人にまともな判断力があれば、治済の「虚言」を直ぐには信じない可能性もあり得た。
即ち、家治が意次に誑かされている云々のくだりは兎も角、腹違いの弟の重好を寵愛しているならば、
「その重好の御側近くにて側用人として仕えている本目権右衛門を弟に持つこの己こそ、いの一番に、重好の推挙が…、日光社参に扈従させてやって欲しいと、そう将軍・家治へと推挙が為されて然るべきではあるまいか…、何しろ側用人と申さば、御三卿家臣の中では家老に次ぐ重職にて、番頭よりも格上なれば…」
本目隼人がそう疑問に思う可能性もあり得た。
だがそこは治済である。その危険性をも見越して「対応策」は準備済みであった。
「重好は今、本目権右衛門よりも大久保一党、その中でも近習番として仕えし大久保半之助忠得を寵愛しているらしい…」
治済がそう囁けば、本目隼人も己の疑問を雲散霧消させるに、つまりはまともな判断力を喪失させるに違いなかった。
それと言うのも、清水家においては本目権右衛門と大久保半之助とは対抗関係にあるからだ。
本目権右衛門は宝暦5(1755)年12月15日、重好の近習番から用人へと取立てられたのだが、その翌日、本目隼人と入替わる様に大久保半之助が重好の近習番に取立てられ、爾来、重好の寵愛は本目権右衛門から大久保半之助へと移ったというのが清水家における専らの評判であった。
それは治済、と言うよりは一橋家の始祖たる宗尹が「養成」した間者より齎された情報による。
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