天明繚乱 ~次期将軍の座~

清水徳川家附切、利兵衛と伊織 2

　さて、その抱入かかえいれも同然どうぜんの、つまりは重好しげよしの信頼厚い近習番きんじゅうばんの利兵衛りへえと伊織いおりがわざわざこうして、この小川おがわ丁にある鷲巣わしのす邸まで足を運んだということは、

「主君しゅくん・重好しげよしの意向いこうによるもの…」

　その可能性が極めて強く、家老の上野うえの左大夫さだゆうは不意ふいに訪れた二人を出迎でむかえるや、そうと察して緊張した面持おももちとなった。

「これはこれは…、利兵衛りへえ様に伊織いおり様…」

　上野うえの左大夫さだゆうは二人を出迎でむかえるや、丁重ていちょうに腰を折ってみせた。

　本来ならば、利兵衛りへえも伊織いおりも既に、鷲巣わしのす家からは独立しており、清水邸内の長屋ながやにて暮らしていたので、そこまで丁重ていちょうにもてなす必要はなかったものの、それでも、

「主君しゅくん・重好しげよしの意向いこうを携たずさえてわざわざこうして足を運んだのやも知れぬ…」

　その可能性が拭ぬぐえぬ以上、ぞんざいに扱うことは許されなかった。

　すると利兵衛りへえも伊織いおりも、左大夫さだゆうの丁重ていちょうなる挨拶あいさつに対して、やはり同時に腰を折ったものである。

「丁重ていちょうなるお出迎でむかえ、痛み入ります。不意ふいに参りまして、申し訳なく…」

　利兵衛りへえは左大夫さだゆうに頭こうべを垂たれながら、そう謝罪の言葉を口にした。隣では伊織いおりも頭を下げたままであり、これには左大夫さだゆうの方が恐縮きょうしゅくさせられたものである。

「何を仰おおせられますか…、ここは利兵衛りへえ様、伊織いおり様のご実家ではござりませぬか…」

　左大夫さだゆうはそう告げて、二人に頭を上げるよう促うながした、いや、懇願こんがんしたものである。

　成程なるほど、利兵衛りへえにしろ伊織いおりにしろ、左大夫さだゆうの主君しゅくんではないものの、それでも彼ら兄弟は、かつては己が主君しゅくんと仰あおぎ見た、益五郎ますごろうの実父に当たる式部しきぶ清貞きよさだのすぐ下の弟たちであり、左大夫さだゆうにとって新たな主君しゅくんとなる益五郎ますごろうの叔父おじになるわけで、そうであれば如何いかに利兵衛りへえと伊織いおりが左大夫さだゆうにとっての直接の主君しゅくんでないとは言え、その二人から頭を下げられ、あまつさえ、謝罪の言葉まで引き出してしまっては申し訳が立たないというものである。

　ともあれ左大夫さだゆうから頭を上げるよう懇願こんがんされた利兵衛りへえと伊織いおりは同時に頭を上げると、左大夫さだゆうに本日の用向ようむきを伝えたのであった。

「されば益五郎ますごろうに…、あっ、失礼つかまつった、益五郎ますごろう様に目通めどおりを…」

　利兵衛りへえは甥おい・益五郎ますごろうへの面会を求めたのであった。

　甥おいであるのだから呼び捨てにしても一向いっこうに構わないように思えるが、しかし今、目の前にいる左大夫さだゆうにとってはこの益五郎ますごろうが新たな主君しゅくんとなるわけで、それゆえ利兵衛りへえは左大夫さだゆうの手前てまえ、益五郎ますごろうに対して、

「様」

　という最高敬称を付けて呼んだのであった。

　それに対して左大夫さだゆうは無論、拒否するつもりは毛頭もうとうなく、これから主君しゅくんとなる益五郎ますごろうの意向いこうも確かめずに利兵衛りへえと伊織いおりの二人を奥座敷おくざしきへと通したのであった。

　左大夫さだゆうが利兵衛りへえと伊織いおりの二人を奥座敷おくざしきへと通すと、二人は肩を並べて下座げざに着座した。これには左大夫さだゆうもやはり恐縮きょうしゅくし、

「せめて客座きゃくざに…」

　左大夫さだゆうは二人にすすめたものの、二人は頑がんとして席を移ろうとはせず、下座げざにて益五郎ますごろうを待つことにした。

　こうなっては左大夫さだゆうとしても是ぜが非ひでも、それこそ、

「首に縄をつけてでも…」

　益五郎ますごろうを二人の前に連れて来なければならず、左大夫さだゆうは二人に断りを入れた後、益五郎ますごろうが未いまだに鼾いびきをかいている部屋へとそれこそ、

「一目散いちもくさんに…」

　駆かけて行き、案の定、その部屋で高鼾たかいびきをかいていた益五郎ますごろうを決して誇張こちょうではなしに、叩たたき起こしたものである。

「いい加減にお起きになられよっ!」

　左大夫さだゆうは益五郎ますごろうに対してまずはそう一喝いっかつを浴びせて、その寝ぼけ眼まなこをしかと開けさせたものである。

「何だよ…、朝っぱらから…」

　益五郎ますごろうはブツブツ文句を言いながら蒲団ふとんから起き出した。

　益五郎ますごろうは生来せいらいの寝相ねぞうの悪さでもって、蒲団ふとんのみならず、寝間着ねまきまでも乱れさせており、あまつさえ、褌ふんどしが丸見えという極めてだらしのない格好であった。とても旗本には見えなかった。

「何というだらしのない格好ですかっ!」

「そうキャンキャンキャンキャン　戌いぬみてぇに吼ほえんじゃねぇよ…」

　益五郎ますごろうは頬をかきながら、そう言った。益五郎ますごろうの格好もだらしないが、その顔はさらにだらしのないものであった。いや、中々に迫力はくりょくのある顔と言うべきか。

　益五郎ますごろうの顔は昨日の喧嘩けんかのお蔭かげで見事に痣あざだらけであった。正に顔一面が痣あざだらけであり、男振おとこぶりが一段と増した。

　左大夫さだゆうにはそんな益五郎ますごろうの、「男振おとこぶり」が理解できなかったのであろう、ただの惨状さんじょうとしかその瞳ひとみには映らず、左大夫さだゆうはその惨状さんじょうを目まの当たりにして思わず眉まゆを顰ひそめさせつつも、叔父おじの利兵衛りへえと伊織いおりの来訪らいほうを告げたのであった。

「叔父貴おじきたちが?」

「はい。今、奥座敷おくざしきにてお待ちになっております」

「お待ちって、何を?」

「決まっておられましょうがっ!殿を、でござるっ!」

　左大夫さだゆうはいよいよ激昂げっこうし、そんな左大夫さだゆうを前にして、益五郎ますごろうはいよいよもってうんざりさせられた。原因は主に益五郎ますごろう自身にあるにもかかわらず、である。

「めんどくせぇなぁ…」

「殿っ!」

　左大夫さだゆうがこれまでにないほどの大声を上げたので、さしもの益五郎ますごろうも諦あきらめた様子で、「分かったよ…」とそう答えるのが精一杯せいいっぱいであった。

　すると左大夫さだゆうは漸ようやく表情を和やわらげると、それから近習きんじゅうの者を呼びつけて、益五郎ますごろうの着替きがえを手伝うように命じ、同時に、女中に対しては奥座敷おくざしきにて待つ利兵衛りへえと伊織いおりに対して茶の給仕きゅうじを命じたのであった。

　さて、益五郎ますごろうが何とか、それも辛かろうじて旗本として、いや、武士として見られる格好に化けて、叔父おじの利兵衛りへえと伊織いおりの待つ奥座敷おくざしきへと足を運んだのはそれから大よそ、四半刻(約30分)程度も経った頃であり、左大夫さだゆうはその間、奥座敷おくざしきの廊下にて控ひかえていたのだが、奥座敷おくざしきにて利兵衛りへえと伊織いおりの二人を待たせているかと思うと、胃が破裂しそうなほどであった。

　ともあれ左大夫さだゆうはそうして胃が張り裂けそうの思いで当主を待っていると漸ようやくに益五郎ますごろうが姿を見せたので、左大夫さだゆうは心底、ホッとしたものである。