天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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清水徳川家抱入、長尾幸兵衛保章 2

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 さて、利兵衛りへえにしても伊織いおりにしても、そんな幸兵衛こうべえに「ひれす」数多い清水家臣の一人であり、小川おがわ丁にある二人の実家である鷲巣わしのす邸へと出向いて、新たに鷲巣わしのす家の当主となる益五郎ますごろうに対して、横田よこた源太郎げんたろう松房としふさが娘・ふゆとの縁談えんだんすすめたのもひとえに、この幸兵衛こうべえ指図さしずによるものであった。

 幸兵衛こうべえはこの清水邸内に自分の個室を与えられており、そこへ帰って来た利兵衛りへえ伊織いおりいざなった。

「それで首尾しゅびは?」

 幸兵衛こうべえ利兵衛りへえ伊織いおりの二人と向かい合うなり、早速さっそく尋ねた。

 それに対して利兵衛りへえ伊織いおりも共に表情をくもらせたので、幸兵衛こうべえは二人から結果を聞くまでもなく不首尾ふしゅびに終わったことをさとった。

「左様でござるか…」

「いや、我らも説得につとめたのだが…、一喝いっかつされる始末にて…」

 利兵衛りへえはそう言い訳した。

「ほう…、一喝いっかつと?」

 幸兵衛こうべえは興味深げな様子で聞き返した。

「左様…、女を己が欲得よくとくのための道具どうぐにするつもりかと…」

「これはまた…、実に面白いことを申される…、あっいや、失敬しっけい…、なれどそのようなじゅんな者がまだ旗本の中にいたとは…」

 そのような純粋じゅんすいな者は魑魅ちみ魍魎もうりょう跋扈ばっこする幕臣ばくしんの世界においては絶滅ぜつめつ危惧種きぐしゅだと信じて疑わない幸兵衛こうべえにとって、その純粋じゅんすい益五郎ますごろうの存在は新鮮しんせんさを通り越し、奇跡きせきにさえ感じられたほどである。

「いや、横田よこた源太郎げんたろう松房としふさなる者も、益五郎ますごろう殿とはまた違った意味にて稀少きしょうなる御仁ごじんにて…、もっぱら、矯激きょうげき、過激な御仁ごじんとして知られておるよしにて…、さればやはりまれなる純粋じゅんすいな心の持ち主の益五郎ますごろう殿なれば、そのような横田殿とは案外、相性あいしょうが良いかも知れませぬなぁ…」

 幸兵衛こうべえ皮肉ひにくではなしに、本心からそう言った。

「だと良いのですが…」

 利兵衛りへえは相変わらず表情をくもらせたまま答えた。

「まぁ、今少し、様子を見守りましょうぞ…、縁談えんだんは…、こればかりは当人同士の意思もあるゆえに…」

 幸兵衛こうべえは取り成すようにそう言い、それで利兵衛りへえ伊織いおりもひとまず救われたような表情を浮かべた。

「それよりも、お二方ふたかたのいない間に面白い話を仕入しいれましたぞ…」

 幸兵衛こうべえが思わせぶりにそう切り出したので、利兵衛りへえ伊織いおりも、

「面白い話?」

 声をそろえてそう聞き返した。

「左様…、されば大久保殿より仕入しいれし話でござる…」

 幸兵衛こうべえの言う「大久保殿」とは用人ようにん大久保おおくぼ半之助はんのすけ忠基ただもとのことである。

「一週間ほど前…、先月の3月24日のことになるが、上様が田沼たぬま大和守やまとのかみ意知おきとも中奥なかおくへとし出されたそうな…」

 幸兵衛こうべえがそう切り出すと、利兵衛りへえっ先に反応した。

中奥なかおくに?」

 利兵衛りへえは首をかしげつつ、問い返した。

「左様…、それも御用之間ごようのまなる、大久保殿が申すには、上様だけの秘密部屋へとその大和守やまとのかみ意知おきともを招かれたとか…」

 幸兵衛こうべえさらに声をひそませた。

御用之間ごようのまと申さば…、目安箱めやすばこに投じられし書状がおさめられているとか申す、箪笥たんすもあるとか…」

 利兵衛りへえがそう応じると、幸兵衛こうべえは目を丸くした。

如何いかにもその通りでござる。いや、それにしても良くご存知で…」

「いや、なに…、以前に山本殿よりうかがいし話なれば、受け売りでござるよ…」

「山本殿…、ああ、御小姓おこしょうの…」

 本丸の中奥なかおくにて小姓こしょうとしてつかえる山本やまもと伊予守いよのかみ茂孫もちざねもとへ、益五郎ますごろうの姉が養女としてむかえられたことはこの幸兵衛こうべえ把握はあくしていた。

 すなわち、益五郎ますごろう叔父おじに当たる利兵衛りへえとそれに伊織いおりからすればめいに当たる。

「されば…、中奥なかおくにて勤仕きんしせし御小姓おこしょうの山本殿という立派なご縁者えんじゃをお持ちの鷲巣わしのす殿なれば、勿論もちろん田沼たぬま意知おきとも中奥なかおくへとまねかれし件も既に、山本殿より伝え聞いておられるはずにて、当然、お二方ふたかた共に、把握はあくしておられよう…」

 幸兵衛こうべえ嫌味いやみったらしくそう告げた。

 無論、利兵衛りへえにしろ伊織いおりにしろ、山本殿もとい小姓こしょう茂孫もちざねからそのような、機密きみつ事項にぞくする中奥なかおくにての出来事などを親類のよしみというだけで教えてもらってはいないことなど、幸兵衛こうべえ先刻せんこく承知であった。

 案の定、利兵衛りへえは、そして伊織いおりも、

「いや…」

 二人は実に気まずそうな顔をした。それに対して幸兵衛こうべえも、やはりそうかと、そう思った。

 それから幸兵衛こうべえは追い討ちをかけるかのように、

「おやおや…、これはしたり…」

 そう切り出したのであった。

「山本殿というご立派なご縁者えんじゃがおられれば当然、山本殿より中奥なかおくにての出来事を伝え聞いているものとばかり思っておりましたが…」

 幸兵衛こうべえのその「追い討ち」に対して利兵衛りへえ伊織いおりも内心ではムッとするものがあったが、しかし、この清水邸の事実上の権力者とも言うべき御側おそば御用人ごようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきがその幸兵衛こうべえのバックにひかえているとなると、利兵衛りへえにしろ伊織いおりにしろ、この幸兵衛こうべえ怒鳴どなりつけるわけにはゆかなかった。

 いや、怒鳴どなりつけるぐらいの、

「ガッツ」

 があれば、そもそも幸兵衛こうべえに命じられたからと言って、わざわざ実家である鷲巣わしのす家へと足を向けたりはしないだろう。無論、益五郎ますごろうに対しても縁談えんだんすすめるような真似まねもしなかったであろう。

 ともあれ利兵衛りへえ伊織いおりも「白旗しろはた」をかかげるより他になかった。

「いやいや、おずかしい限りでござる…、それにしても長尾殿は良くご存知で…」

 利兵衛りへえり寄るようにそう言った。すると幸兵衛こうべえも馬鹿ではないので、それ以上、利兵衛りへえを、それに伊織いおりをもいじめるような馬鹿な真似まねはしなかった。

「いや、大したことではござらぬよ…、ただ、大久保殿が兄上の半五郎はんごろう忠得ただのり様を頼りしまで…」

 幸兵衛こうべえ謙遜けんそん気味にそう言ったが、実際にはそう生易なまやさしいものではない。

 幸兵衛こうべえ本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきに取り入ると同時に、他にもこれはと思う者へも取り入ることを、つまりは、

「付け届け…」

 それをおこたらず、その一人が用人ようにんの大久保殿こと半之助はんのすけ忠基ただもとであった。

用人ようにん大久保おおくぼ半之助はんのすけ忠基ただもとには江戸城本丸中奥なかおくにて小納戸こなんどとして勤仕きんしせし、半五郎はんごろう忠得ただのりという兄がいる…」

 その情報を独特の「アンテナ」でもってキャッチした幸兵衛こうべえはまず、弟の半之助はんのすけに徹底的に取り入ったものである。

 具体的には八百善やおぜんなどの高級料理茶屋で半之助はんのすけを接待漬けにし、小納戸こなんどを勤める兄・半五郎はんごろうを紹介してくれるよう、幸兵衛こうべえは頼み込んだのであった。

 その甲斐かいあってか、半之助はんのすけ幸兵衛こうべえに対して兄・半五郎はんごろうを紹介してやったのだ。

 無論、やはりまずは八百善やおぜんにて引き合わせてもらったもので、それからというもの、

河岸かし

 を変えては、半五郎はんごろう半之助はんのすけ兄弟を接待漬けにし、時には女も抱かせてやった。

 その効果たるや絶大であり、爾来じらい半五郎はんごろう半之助はんのすけかいして、機密事項である中奥なかおくでの出来事を幸兵衛こうべえらしてくれるようになったのである。

 すると幸兵衛こうべえはそうして手に入れた機密きみつ事項である中奥なかおくでの出来事をまずは自分の後ろだてである御側おそば御用人ごようにん本目ほんめ権右衛門ごんえもん親収ちかまきに伝えるのであった。

 最初に幸兵衛こうべえより本来、機密きみつ事項であるはずのその中奥なかおくでの出来事について伝えられた時の権右衛門ごんざえもん親収ちかまきの驚きぶりたるや…、当たり前だが権右衛門ごんえもん親収ちかまき大層たいそう驚いたものである。

「一体、如何いかにしてかる機微きびれし情報を手に入れたのだ…」

 目を丸くして権右衛門ごんえもん親収ちかまきよりそう問われた幸兵衛こうべえはそこで、

「種明かし」

 をしたものである。それに対して権右衛門ごんえもん親収ちかまき幸兵衛こうべえのその、

「抜け目のなさ」

 それに心底しんそこ感嘆かんたんしたものである。

「良くぞそこに気付いたっ!」

 権右衛門ごんえもん親収ちかまき幸兵衛こうべえをそう称揚しょうようすると、驚いたことに幸兵衛こうべえの両手を取ったものである。それだけ江戸城本丸の中奥なかおくでの出来事というものには希少きしょう価値があるのだろう。

 爾来じらい幸兵衛こうべえはいよいよもって、権右衛門ごんざえもん親収ちかまきからの寵愛ちょうあいが深まり、幸兵衛こうべえのこの清水邸における、

羽振はぶりの良さ」

 それも権右衛門ごんえもん親収ちかまきからの寵愛ちょうあいの深さに正比例せいひれいした。
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