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清水徳川家抱入、長尾幸兵衛保章 3
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それでも今回のその、意知が将軍・家治の命により中奥に、それも最奥部にある将軍の秘密部屋とも称される御用之間へと招かれたという情報が伝わるのに1週間以上が経過した。
正確には1週間と1日であるが、ともあれ、いつもなら早くて翌日、遅くとも3日後には中奥での出来事が幸兵衛へと伝わるべきところ、今回に限り、8日もかかった。
それだけ機密性の高さが窺われ、幸兵衛は利兵衛と伊織に対してそのことをそれとなくだが示唆した。
「これは…、この時期に、意知が上様の命にて中奥の、それも上様の秘密部屋とも称されし御用之間へと招かれしことには何か重要な意味があるやに…」
幸兵衛が思わせぶりにそう告げると、利兵衛は首をかしげさせながら、
「重要な意味…」
そう反芻した。
利兵衛はその上で、「この時期とは…」と幸兵衛に尋ねた。
「申すまでもなきこと…、されば豊千代君が西之丸へと入られし、その時期を前にして、という意味でござるよ…」
一橋治済の実子の豊千代が間もなく西之丸入りを果たすこと、即ち、次期将軍になることはここ清水邸では、
「常識」
となっていた。それだけ同じ御三卿である一橋家を意識していた何よりの証左と言えよう。
「それはつまり…、豊千代君が西之丸へと入られしそのことが変更になる可能性も孕んでいると?」
利兵衛は声を震わせながら、それでいてどこか期待をも滲ませつつそう尋ねた。
利兵衛も幸兵衛ほどではないにしても、それなりに良い勘をしていた。
「左様…、その可能性も決して無きにしも非ずと申すものにて、されば…」
幸兵衛のそこから先の言葉はやはり利兵衛が声を震わせつつ、それでいて、期待を滲ませつつ、継いだ。
「我が主君にもまだ、次期将軍の芽がある、と?」
利兵衛のその言葉に幸兵衛は頷くと、
「されば今の中奥の事実上の支配者とも言うべき御側御用取次の横田筑後殿とその相役の稲葉越中殿、さらには平御側の面々とも誼を通じておくことこそ肝要にて…」
御側御用取次の上には水野出羽守忠友が中奥の最高長官たる御側御用人として、中奥に君臨していたものの、しかし、五代将軍・綱吉時代の御側|御用人《ごようにん」の柳澤吉保とは違い、水野忠友は言わば、
「お飾りの側用人…」
それに過ぎず、実際にはその下の御側御用取次の横田筑後こと筑後守準松と稲葉越中こと越中守正明の二人が中奥の事実上の最高長官であった。
その御側御用取次である横田準松と稲葉正明の二人と仲良くしておくことは、「次期将軍レース」において極めて重要となる。それこそ、
「死命を制する…」
そう言っても過言ではないだろう。何しろ御側御用取次の一言で将軍の意見が左右されることがあり得るからだ。
それゆえ御側御用取次に取り入ろうと欲する者が後を絶たず、幸兵衛にしてもその一人であった。御側御用取次に取り入ることで、「次期将軍レース」において優位に立とうとしていたのだ。
だが如何に、清水徳川家の御側御用人である本目権右衛門に気に入られようとも、所詮は一介の抱入の家臣に過ぎず、そのような者が将軍の御側近くに仕える、それこそ、天下の御側御用取次にそうそう簡単にコンタクトを取れるものではなかった。
本来ならば、御三卿家老がその役目を果たすべきところであったのだ。
即ち、清水徳川家の家老を拝命していた吉川摂津守従弼とその相役…、同僚である本多讃岐守昌忠の二人がその役目を、つまりは己が仕える清水徳川家の当主たる重好を亡き家基に代わる次期将軍に据えるべく、積極的に、
「運動」
すべきであったのだ。
何しろ御三卿家老と言えば従五位下の諸大夫役であり、っそれも幕府内の序列で言えば大目付や江戸町奉行、勘定奉行よりも上席であった。
そうであれば御側御用取次へのコンタクトも比較的、容易であろう。少なくとも、一介の抱入に過ぎぬ、そもそも幕臣ですらない幸兵衛よりも遥かに容易であるのは間違いない。
だが、吉川従弼にしろ、本多昌忠にしろ、まったくと言って良いほどにその役目を果たそうとはしなかった。
尤も、この二人は幸兵衛のような、
「抱入」
の家臣ではなく、あくまで御三卿のお目付役としての意味合いが強い、
「附人」
であるために、元より御三卿に対しては主君という感覚を持ち合わせてはいなかったのだろう。
それどころか二人は本来のお目付役としての職務さえ、全うしているかどうかさえ疑わしいものであった。
ただ、御三卿家老という極めて居心地の良いポストに安住しているようにしか、少なくとも幸兵衛にはそうとしか思えなかった。
その点、同じ御三卿でも一橋家の家老は違った。
即ち、一橋家老の水谷但馬守勝富と田沼能登守意致の二人は家基没後に迅速に動き出したのであった。
治済は我が子、豊千代を亡き家基に代わる次期将軍に据えるべく水谷勝富には大奥の工作を、田沼意致には中奥と表向の工作をそれぞれ命じたに違いなかった。
幸兵衛はやはりそのことを…、一橋家老の田沼意致と水谷勝富の二人が一橋治済の実子である豊千代を家基に代わる新たな次期将軍に据えるべく、
「手分けして…」
即ち、中奥と表向、そして大奥にまで工作しているらしいと、幸兵衛の、「情報源」である小納戸の大久保半五郎より、やはり弟の半之助を介してもたらされたのであった。
幸兵衛はその「情報」に接するや、舌を巻いたものである。
通常、「附人」の中でもとりわけ、御三卿のお目付役としての色彩が強い家老は御三卿の命令とは言え、従うことは滅多にない。まして唯々諾々と従うことなど皆無と言えよう。
意外に思われるかも知れないが、御三卿家老の立場は実に強いものがあった。それと言うのも御三卿家老は歴とした幕府の役職であり、そうである以上、御三卿家老はその幕臣としての立場に守られているので、如何に御三卿と言えども、その幕臣である家老に対して、早々、無茶を命じることはできなかったのである。
幕府の役職である御三卿家老に対して無理難題を押し付けようものなら最悪、幕府に対する叛逆とみなされる恐れすらあり得たからだ。
だが、こと次期将軍職が懸かっているとなると話は別であろう。恐らく、一橋治済は水谷勝富、田沼意致の両家老に対して、出世の手形でも切ったに違いない。
即ち、我が子、豊千代が晴れて次期将軍の座に就いた暁には、
「お前たちの出世も思うがまま…」
治済はそのような出世の手形を水谷勝富と田沼意致の両家老に対して切ったのやも知れぬ。
それに対して水谷勝富と田沼意致はと言うと、お目付役としての職分を忘れたわけではないだろうが、しかし、それでも彼らとて人間である以上、人並みの、いや、人並み以上の出世欲があるだろう。そのような手形を切られれば心動かさぬ筈がなかった。
しかもその手形は「不渡り」になるケースがあり得ないと断言できた。何しろ豊千代が晴れて次期将軍として西之丸入りを果たし、そしてさらに征夷大将軍として本丸入りを果たせば、水谷勝富と田沼意致の二人は豊千代を征夷大将軍にした、
「立役者…」
それとして、出世は間違いなかったからだ。それこそ御側御用取次も夢ではないだろう。
正確には1週間と1日であるが、ともあれ、いつもなら早くて翌日、遅くとも3日後には中奥での出来事が幸兵衛へと伝わるべきところ、今回に限り、8日もかかった。
それだけ機密性の高さが窺われ、幸兵衛は利兵衛と伊織に対してそのことをそれとなくだが示唆した。
「これは…、この時期に、意知が上様の命にて中奥の、それも上様の秘密部屋とも称されし御用之間へと招かれしことには何か重要な意味があるやに…」
幸兵衛が思わせぶりにそう告げると、利兵衛は首をかしげさせながら、
「重要な意味…」
そう反芻した。
利兵衛はその上で、「この時期とは…」と幸兵衛に尋ねた。
「申すまでもなきこと…、されば豊千代君が西之丸へと入られし、その時期を前にして、という意味でござるよ…」
一橋治済の実子の豊千代が間もなく西之丸入りを果たすこと、即ち、次期将軍になることはここ清水邸では、
「常識」
となっていた。それだけ同じ御三卿である一橋家を意識していた何よりの証左と言えよう。
「それはつまり…、豊千代君が西之丸へと入られしそのことが変更になる可能性も孕んでいると?」
利兵衛は声を震わせながら、それでいてどこか期待をも滲ませつつそう尋ねた。
利兵衛も幸兵衛ほどではないにしても、それなりに良い勘をしていた。
「左様…、その可能性も決して無きにしも非ずと申すものにて、されば…」
幸兵衛のそこから先の言葉はやはり利兵衛が声を震わせつつ、それでいて、期待を滲ませつつ、継いだ。
「我が主君にもまだ、次期将軍の芽がある、と?」
利兵衛のその言葉に幸兵衛は頷くと、
「されば今の中奥の事実上の支配者とも言うべき御側御用取次の横田筑後殿とその相役の稲葉越中殿、さらには平御側の面々とも誼を通じておくことこそ肝要にて…」
御側御用取次の上には水野出羽守忠友が中奥の最高長官たる御側御用人として、中奥に君臨していたものの、しかし、五代将軍・綱吉時代の御側|御用人《ごようにん」の柳澤吉保とは違い、水野忠友は言わば、
「お飾りの側用人…」
それに過ぎず、実際にはその下の御側御用取次の横田筑後こと筑後守準松と稲葉越中こと越中守正明の二人が中奥の事実上の最高長官であった。
その御側御用取次である横田準松と稲葉正明の二人と仲良くしておくことは、「次期将軍レース」において極めて重要となる。それこそ、
「死命を制する…」
そう言っても過言ではないだろう。何しろ御側御用取次の一言で将軍の意見が左右されることがあり得るからだ。
それゆえ御側御用取次に取り入ろうと欲する者が後を絶たず、幸兵衛にしてもその一人であった。御側御用取次に取り入ることで、「次期将軍レース」において優位に立とうとしていたのだ。
だが如何に、清水徳川家の御側御用人である本目権右衛門に気に入られようとも、所詮は一介の抱入の家臣に過ぎず、そのような者が将軍の御側近くに仕える、それこそ、天下の御側御用取次にそうそう簡単にコンタクトを取れるものではなかった。
本来ならば、御三卿家老がその役目を果たすべきところであったのだ。
即ち、清水徳川家の家老を拝命していた吉川摂津守従弼とその相役…、同僚である本多讃岐守昌忠の二人がその役目を、つまりは己が仕える清水徳川家の当主たる重好を亡き家基に代わる次期将軍に据えるべく、積極的に、
「運動」
すべきであったのだ。
何しろ御三卿家老と言えば従五位下の諸大夫役であり、っそれも幕府内の序列で言えば大目付や江戸町奉行、勘定奉行よりも上席であった。
そうであれば御側御用取次へのコンタクトも比較的、容易であろう。少なくとも、一介の抱入に過ぎぬ、そもそも幕臣ですらない幸兵衛よりも遥かに容易であるのは間違いない。
だが、吉川従弼にしろ、本多昌忠にしろ、まったくと言って良いほどにその役目を果たそうとはしなかった。
尤も、この二人は幸兵衛のような、
「抱入」
の家臣ではなく、あくまで御三卿のお目付役としての意味合いが強い、
「附人」
であるために、元より御三卿に対しては主君という感覚を持ち合わせてはいなかったのだろう。
それどころか二人は本来のお目付役としての職務さえ、全うしているかどうかさえ疑わしいものであった。
ただ、御三卿家老という極めて居心地の良いポストに安住しているようにしか、少なくとも幸兵衛にはそうとしか思えなかった。
その点、同じ御三卿でも一橋家の家老は違った。
即ち、一橋家老の水谷但馬守勝富と田沼能登守意致の二人は家基没後に迅速に動き出したのであった。
治済は我が子、豊千代を亡き家基に代わる次期将軍に据えるべく水谷勝富には大奥の工作を、田沼意致には中奥と表向の工作をそれぞれ命じたに違いなかった。
幸兵衛はやはりそのことを…、一橋家老の田沼意致と水谷勝富の二人が一橋治済の実子である豊千代を家基に代わる新たな次期将軍に据えるべく、
「手分けして…」
即ち、中奥と表向、そして大奥にまで工作しているらしいと、幸兵衛の、「情報源」である小納戸の大久保半五郎より、やはり弟の半之助を介してもたらされたのであった。
幸兵衛はその「情報」に接するや、舌を巻いたものである。
通常、「附人」の中でもとりわけ、御三卿のお目付役としての色彩が強い家老は御三卿の命令とは言え、従うことは滅多にない。まして唯々諾々と従うことなど皆無と言えよう。
意外に思われるかも知れないが、御三卿家老の立場は実に強いものがあった。それと言うのも御三卿家老は歴とした幕府の役職であり、そうである以上、御三卿家老はその幕臣としての立場に守られているので、如何に御三卿と言えども、その幕臣である家老に対して、早々、無茶を命じることはできなかったのである。
幕府の役職である御三卿家老に対して無理難題を押し付けようものなら最悪、幕府に対する叛逆とみなされる恐れすらあり得たからだ。
だが、こと次期将軍職が懸かっているとなると話は別であろう。恐らく、一橋治済は水谷勝富、田沼意致の両家老に対して、出世の手形でも切ったに違いない。
即ち、我が子、豊千代が晴れて次期将軍の座に就いた暁には、
「お前たちの出世も思うがまま…」
治済はそのような出世の手形を水谷勝富と田沼意致の両家老に対して切ったのやも知れぬ。
それに対して水谷勝富と田沼意致はと言うと、お目付役としての職分を忘れたわけではないだろうが、しかし、それでも彼らとて人間である以上、人並みの、いや、人並み以上の出世欲があるだろう。そのような手形を切られれば心動かさぬ筈がなかった。
しかもその手形は「不渡り」になるケースがあり得ないと断言できた。何しろ豊千代が晴れて次期将軍として西之丸入りを果たし、そしてさらに征夷大将軍として本丸入りを果たせば、水谷勝富と田沼意致の二人は豊千代を征夷大将軍にした、
「立役者…」
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